まだあひそめぬ 恋する物を

 空を舞う鳥の影が、足元を駆け抜けていった。
 地面を、続けて上空に視線を走らせて、彼方へと意識を飛ばす。しかし翼を持つものの勢いは止まらず、姿は瞬く間に見えなくなった。
「鷹、かな」
 ほんの僅かに見えた翼の形状や、色で判断するが、自信はない。断定出来ない悔しさに軽く唇を噛んで、歌仙兼定は肩を竦めた。
 彼の左側には大きな門が、どん、と聳え立っていた。
 閂が架けられ、簡単には開かない。腕よりも遥かに太い木は横に長く、ひとりでは外せない重さだった。
 あれを単独で抱えられるのは、槍の蜻蛉切か、大太刀の太郎太刀くらいではなかろうか。
 本丸でも際立って背が高い男ふたりを順に思い浮かべて、打刀はゆるゆる首を振った。
 強さは憧れだが、あそこまで大きくなりたいとは思わない。
 自分はこれくらいが丁度良いと、男は優雅に波打つ衣を揺らした。
 戦支度は整えているものの、これから出向く先は戦場ではない。万が一の為に刀は装備しておくが、鞘から抜くことは、恐らくはないだろう。
 この後の予定をざっと復唱し、同伴者を待つ。
 いつもならすぐにやってくる筈の少年は、今日に限ってなかなか現れなかった。
「遅いな」
 身軽な出で立ちの短刀は、着替えにあまり手間取らない。髪を結ぶ紐が頻繁に曲がったり、形が崩れていたりするけれど、本人はあまり気にしていなかった。
 もっと年相応の、可愛い格好をすればいいのに。
 いつまで経っても襤褸布の、粗末な袈裟姿を止めない少年に眉目を顰め、彼は髭のない顎を撫でた。
 今朝剃ったばかりなので、まだ生えて来ていない。
 人間の姿は時に便利だが、時にとても不便を覚える。その中のひとつにため息を零して、歌仙兼定は靴底で地面を削った。
 大地は乾き、空は澄んでいた。
 優雅に腕を組んで、背筋を伸ばす。本丸は松の木に埋もれ、全容は見えなかった。
 門から屋敷の玄関まで、結構な距離があった。しかも直線ではなく、石畳で作られた道は途中で大きく曲がっていた。
 その形に合わせ、庭木が植えられている。背の低いもの、高いものと組み合わせて、巧みに建物を隠していた。
 ここを覗き込む者が居るとは思えないのに、奇妙なものだ。
 本丸の主である審神者の考えに首を捻って、人の形を得た付喪神は緩慢に笑った。
「誰かに掴まっているのかな」
 彼はこれから、審神者に命じられ、買い出しに出向くことになっていた。
 近場の町の、商店を巡るのだ。都ほど栄えてはいないけれど、日用品程度なら問題なく揃えられた。
 普段は審神者にくっついていく形でしか訪ねられないが、その審神者が多忙な時は別だ。単独行動は許されないものの、連れがあるなら外出可能だった。
 さてはどこかで、個人的な買い物を、誰かに頼まれているのか。
 歌仙兼定が買い物に出向く、という話は朝餉の時点で広まっていた。しかし独自の美意識を持つ彼に買い物を頼むと、余裕で予算を越えてしまう為、申し出難いという問題があった。
 だから皆は、彼が連れていくだろう短刀の方に、品定めを依頼する。必要なものを紙に書いて、よろしく頼むと頭を下げる。
「確かに、小夜の審美眼はなかなかのものだけれど」
 目利きを得意と自負する歌仙兼定よりも、言ってしまえば貧乏性な短刀の方が優れていると言われるのは、正直腹立たしい。だが小夜左文字は確かに、値段がそれなりのものの中から、良い品を選ぶ技術に秀でていた。
 昔馴染みの優秀さは認めるし、否定できない。
 ただ矢張り面白くなくて、彼は苛々しながら爪を噛んだ。
 結局、同伴者である小夜左文字が姿を見せたのは、出立予定からかなり時間が過ぎてからだった。
「すまない、歌仙」
「別に、構わないよ」
 藍色の袈裟を着け、背には大きな笠を。露出する肌のあちこちに白い包帯を巻きつけて、足元は粗末な草履。
 端が擦り切れている衣を纏って、やっと来た少年は折れそうなほどに小柄だった。
 毎日ちゃんと食べているのに、一向に太らない。腕も足も驚くほど細く、背も格段に低かった。
 但し眼光は鋭く、血に飢えた性格は凶暴。
 復讐相手を探し求めながら、裏では己が犯した罪の重さに苦しんでいる。相反する心を抱えて、常に揺れ動く心は酷く脆く、不安定だった。
 もっともこの頃は、周囲の支えなどもあり、当初に比べれば落ち着き始めていた。悪夢に魘される夜はまだ多いが、以前ほど仇討ちに固執し、無謀な行動に出ることはなくなった。
 最初の頃は、それこそその言動の危うさで、周囲から敬遠されがちだった。
 それが今や、懐に大量の紙を潜ませている。
 随分変わったものだと苦笑して、歌仙兼定は腰を叩いた。
「では、行こうか」
「ああ」
 長く待たされた不満を呑み込んで、朗らかに告げた。小夜左文字は小さく首肯して、背負っていた笠を頭に被せた。
 陽射しを遮り、小柄な体躯さえもすっぽり覆い隠す。
 上からでは風にはためく袈裟くらいしか見えなくて、それがなんだか面白くなかった。
 しかし、彼は何も言わなかった。胸を去来するもやもやしたものは見なかった事にして、大門の傍らに設けられた潜り戸をすり抜けた。
 気持ちを切り替え、外界へと踏み出す。直後に風が強く吹き付けて、砂埃が高く舞い上がった。
「わっ」
 咄嗟に腕を覆い、目も瞑って顔を背けた。声は後方から放たれて、一緒になって軽いものが飛んできた。
 頭を後ろから叩かれて、思わず首を竦めた。咄嗟に猫背になって身を屈めたその上を、くるりと反転してなにかが落ちて来た。
「歌仙」
 ぎょっとして、目を見張った。急に眼前が暗くなって、歌仙兼定は中腰のままそれを受け止めた。
 少々焦った声で名を呼ばれて、飛んできたものを手に振り返る。
 藍色の髪の少年は気まずげに、膝をもじもじさせながら手を伸ばした。
 その頭に、例の笠はなかった。
「しっかり結んでおかないとね」
「……面目ない」
 解けた紐を小突いて、打刀は呵々と笑った。天地逆になっていた笠を戻し、被せてやって、満足げに頷いた。
 顎紐を結ぶ前に、風に攫われてしまったのだ。もし飛んだ先に歌仙兼定が居なかったら、拾いに行くのも大変だったに違いない。
 反省して、短刀は恥ずかしそうに頬を染めた。俯いたまま紐を抓んで、もぞもぞ身じろぎ、蝶々の形に結び目を作った。
 町までの道のりは、さほど遠くない。馬を使えば楽なのだが、徒歩でも充分通える距離だった。
「今日は、なにを頼まれたんだい」
 但し帰りの荷物次第では、どうなるか分からない。
 あまり大きいものが混じっていないのを祈りつつ、彼は傍らに訊ねた。
 審神者からの依頼の品は、毎回ほぼ同じだ。食料品は別として、半紙に懐紙、椿油と、伽羅の香。
 釣りは好きに使って構わないと、銭は多めに預かっている。御言葉には甘えることにして、歌仙兼定は返事を待った。
 屋敷の外は、思ったより風が強かった。間違って飛ばされないよう注意深く懐を探って、小夜左文字は慎重に頼まれ物の紙を広げた。
 折り紙に使う千代紙の裏に、細かい文字が書かれていた。他にも懐紙であったり、柄入りの短冊まであった。
 合計すると、六枚か七枚あった。それを指でしっかり押さえつけ、小夜左文字は一番上にあった紙面に目を走らせた。
「ええと、……墨、小筆三本、半紙三束。御伽草子、種類はなんでもいい。綺麗な帯締め。新品の褌。あとは……」
「分かった。もういい」
 順番に読み上げて、半分を過ぎた辺りで歌仙兼定が止めに入った。左手を振って合図を送って、眉間に寄った皺を解きほぐした。
 最初のうちは分からないでもなかったが、後半はどうだ。それくらい自分で買いに行け、と怒鳴り散らしてやりたかった。
 そんな下らないものまで引き受けてくるとは、どこまで御人好しなのか。
 再会直後に比べて随分丸くなった短刀を見下ろして、打刀は盛大に嘆息した。
 ただ当の本人は、あまり気にしていなかった。
 折り畳んだ紙を、なくさないよう大事に懐に戻し、その上からぽんぽん、と叩く。風に煽られる袈裟も押さえこんで、小夜左文字は憤慨している男に苦笑した。
「嫌だったら言って良いんだよ」
 首を竦めて目を細められ、見上げられた打刀は渋い顔で言った。
 町へは、審神者の遣いで行くのだ。そのついでに、余裕があれば買ってきてやる約束でしかないので、断る権利はこちらにあった。
 だというのに、小夜左文字は首を横に振った。
「色々見るのは、楽しい」
 都合よく使われているだけと危惧するが、短刀の返事は違っていた。彼は明朗に言い切って、嬉しそうに頬を緩めた。
 こんな風に色々な刀から依頼を受けなければ、審神者の用事を済ませて、それで終わりだった。町には色々な店が軒を並べているのに、一切目を向けず、関心を抱きもしなかった。
 それが、こういうものが欲しい、と言われただけで、一変した。
 雑多に並べられている品から、目当てのものを探すのは面白かった。掘り出し物を見つけると嬉しくなるし、それまで興味がなかったものにまで、気を留めるようになった。
 見聞が広がり、世界が膨らんでいく。
 知らなかったものを知れるのは、他に類を見ない喜びだった。
「そう、か」
「ああ」
 つたない説明に込められた思いを汲んで、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。短く相槌を打ち、顔を紅潮させた短刀に目尻を下げた。
 復讐に囚われ、そうすることでしか己を保てなかった刀が、自力で立ち上がろうとしていた。
 大地に水が染み込むように、彼は今、様々なものを吸収している最中だった。
 変に介入して、堰き止めてしまわなくて良かった。
 己の愚かさに気付き、胸を撫で下ろす。相好を崩し、歌仙兼定はふわりと笑った。
「帰りの荷物は、僕も持つよ」
「……いいのか」
 頼まれものを全部購入した場合、かなりの量になる。短刀ひとりではとても担ぎきれなくて、申し出れば驚かれた。
 空色の目を真ん丸にして、意外そうな顔をする。
 若干失礼だと思いつつ、歌仙兼定は胸を張った。
「勿論。構わないよ」
 小夜左文字の中で、自分はいったいどういう扱いなのか。そんなに冷たい男だと思われていたのなら、心外だし、哀しかった。
 少なからず、傷ついた。
 文句を言いたくなったがぐっと我慢して、打刀は右から吹く風を躱し、道端の雑草を飛び越えた。
 荒れ野原の真ん中に伸びる道はやがて街道に合流し、幅は一気に広くなった。農具を担いだ農民や、荷車を引く牛や馬の姿も散見するようになっていった。
 板葺の粗末な家々が立ち並び、川を境界線にして景色が変わった。橋を渡ればその先は栄えた町が広がって、着飾った若い娘が供を連れて通り過ぎていった。
 瓦屋根がそこここに見えて、立派な鬼瓦が道行く人に睨みを利かせていた。中心部を走る大通りは人通りも多く、気を抜くとはぐれてしまいそうだった。
「さて、まずは米の手配からかな」
 屋敷には畑があり、野菜なら何種類か育てていた。鶏は毎朝新鮮な卵を産んで、山に入れば猪や鹿肉が楽に手に入った。
 しかし米だけは、買うしか術がない。
 俵物を扱う問屋を目指すことにして、歌仙兼定は気合いを入れた。
 その袖をちょい、と引いて、小夜左文字は別れ道で左を指差した。
「僕は先に、硯屋に」
 颯爽と歩き出そうとした男に言って、短刀は笠を僅かに持ち上げた。目を合わせながら言われて、打刀は嗚呼、と頷いた。
 極力二人以上で行動するよう言われているが、少しくらいは構わないだろう。流石にこんな街中で賊が襲ってくるとは思えないし、検非違使も姿を現さない筈だ。
「分かった。ならついでに、炭と砥石も、頼むよ」
 過去の経験から判断し、歌仙兼定は目を眇めた。
 小夜左文字の方が、町での用事が多い。早めに行って、あれこれ済ませてから合流すれば、余計な時間を使わずに済んだ。
 いつもの場所で待ち合わせと決めて、一旦別行動とする。短刀が左に曲がって人ごみに紛れるまで見送って、細川の打刀は大通りを直進した。
 俵物を専門とする問屋は、いつもと同じ場所に店を構えていた。顔を出して、番頭に挨拶をして、慣れた調子で手配の段取りを済ませた。
 大口の取引だが、こちらの身分は明かせない。ただその分、銭は多めに支払っていた。
 屋敷の近くまでの配達も頼んで、暖簾をくぐって外に出る。
 陽射しは明るく、風は街中だからか、幾分弱まっていた。
 続けて香屋に立ち寄って、自分のものと、審神者の分を選んで手に入れる。その他諸々の用事も順調に済ませて、彼は清々しい気分で息を吐いた。
「さて、と」
 後は小夜左文字を回収して、帰るだけ。
 軽くなった懐を撫でて、打刀は人の流れに乗って歩き始めた。
「団子も、悪くないな」
 その途中、甘味の看板が出ているのを見かけた。餅を焼く良い匂いが立ち込めており、胃袋を刺激された。
 小夜左文字を誘って、帰り道に立ち寄ってみようか。
 土産として買って行くにしても、本丸で暮らす刀剣男士の数は多い。全員分はとても持ち運べないし、かといって数を絞れば取り合いになる。短刀ばかりを優先するのは不公平と言われるし、串一本では足りないとの文句も多かった。
 善意で買ったのに、苦情が返ってくるのは切ない。
 ならばふたりだけで、こっそり食べて帰るのが一番平和な手段だった。
 遥々歩いてここまで来た、その路銀代わりだ。まだ充分残っている銭を服の上から撫でて、歌仙兼定は見えた鳥居に頬を緩めた。
 右隣に茶店が出て賑やかだが、境内は人気が少なく、静かだった。緑濃い空間が広がって、石畳の先に続く本殿は古めかしくも、荘厳だった。
 面長の狐が、狛犬の代わりに睨みを利かせていた。風が吹けば木々がざわめき、凛と冷えた空気は邪を寄せ付けなかった。
 本丸に似た雰囲気が、この場から漂っている。埃っぽさからも解放されて、歌仙兼定は深呼吸を繰り返した。
「小夜は、どこかな」
 買い出しに出た時、彼らはいつもここを待ち合わせ場所にしていた。
 市中だと人が多いし、子供だけで茶店というのは存外に目立つ。しかしここなら、小夜左文字がひとりでいても違和感なかった。
 昼間から薄暗い空間に立ち入って、打刀は左右を見回した。背筋を伸ばして目を凝らして、まだ来ていないのかと首を捻った。
「……で、これが……で」
 そこに、どこからか人の話し声がした。詳細は聞こえないものの、熱心な語り口調だった。
 ふたり以上が、境内のどこかにいる。
 どこぞの男女が逢引きでもしているのかと、歌仙兼定は眉を顰めた。
 念のため、確認しようとそちらに足を向けた。風呂敷包みを揺らし、耳を澄ませながら木々の間をすり抜けた。
 稲荷社の裏で、男が濡れ縁に腰掛けていた。葛籠が数個並べられ、服装は行商人のそれだった。
 草鞋に脚絆、尻端折りで、粗末な藍染の衣を着ている。どうやら商いの最中だったようで、なんとか買ってもらおうと、口上は滑らかだった。
「それでは、こちらなんか、どうでしょう。春の風を思わせる爽やかな香りに御座います」
「……歌仙?」
 籠から出したものを手に、お勧めだと訴える。その向かいに座るのは小柄な子供で、打刀が踏んだ小枝の音で、ハッと顔を上げた。
 大きな笠は傍らに立てかけ、足元には風呂敷包みが置かれていた。あちこち角張っており、かなり大きかった。
 よく知った顔に名を呼ばれ、歌仙兼定は目を瞬いた。行商人も振り返って、派手な身なりの男に嗚呼、と頷いた。
「お兄さんも、おひとつ、いかかでしょう」
「いや、僕は……小夜。用はもう済んだのかい?」
 連れがいると、先に聞いていたのだろう。年の頃三十半ばの男は鷹揚に頷き、手にした貝殻を差し出した。
 それは蛤を使った、小さな入れ物だった。
 表面には小筆で、絵が描かれていた。但し技巧としては、あまり褒められたものではない。努力は認めるが、稚拙さの方が目立っていた。
 葛籠を風呂敷に包んで、売り歩いていたのだろう。しかしさほど人気が出なかったのか、こんなところで、こんな少年相手に売りつけようとしていた。
「お安くしときやすよ」
「すまない。これと、これを」
「へえ、おおきに!」
 揉み手まで使って、気に入らない。
 だが渋面を作った歌仙兼定に反し、小夜左文字は並べられていた貝殻をふたつ、手に取った。
 西から流れてきた男なのか、買い手が現れて声を弾ませた。心底嬉しそうな顔をして、銅貨数枚を素早く懐に入れた。
「お兄さんは」
「僕は遠慮しておくよ。小夜、もう全部片付いたのかい」
 そうして惚けている歌仙兼定にも水を向け、つれなくされて項垂れた。
 打刀は社殿に足を向け、距離を詰めた。片付け始めた行商人を睨んで追い払って、空いた場所に腰を下ろした。
 返事がもらえなかった質問を繰り返し、目を吊り上げる。
 綺麗な顔を顰めた男に、少年は首を竦めて苦笑した。
「これが、最後だ」
「そう」
 小声で言って、今しがた手に入れたばかりの蛤を見せる。
 二枚貝の小物入れは、化粧道具である紅を詰めたものが多かった。
 次郎太刀にでも頼まれたものなのだろうか。怪訝にしつつも、興味が沸いて、気を取り直した打刀は短刀の手元を覗き込んだ。
「それは?」
「蜜蝋に、匂いを付けたものだそうだ」
「へえ?」
 貝を開けば、白っぽい塊が現れた。それを人差し指で少量掬い取って、小夜左文字は左手の指先に塗り付けた。
 本当は甲が良いのだろうが、防具が邪魔で、難しい。仕方なく僅かに露出している場所に薄く伸ばし、馴染ませた。
 乾いていた皮膚に艶を持たせて、鼻に寄せて匂いを嗅ぐ。
「うん」
「小夜?」
 こうなるのか、とひとりで納得している少年に、歌仙兼定は身を乗り出した。好奇心を擽られ、自分にも見せてくれるよう、眼差しで訴えた。
 行商人には嫌な顔をしたくせに、おかしなものだ。喉の奥で笑って、短刀は仕方なく腕を伸ばした。
 彼はその手を下から掬い取り、厳かに引き寄せた。
 鼻先に爪が擦れるまで近づけて、クン、と息を吸い込む。
「……ああ、これは」
 直後、鼻腔に甘い香りが喉にまで迷い込んだ。微かながら、汗とも、蜜蝋とも異なる匂いが鼻腔を漂った。
 悪くない香りだった。香を焚きしめるより余程簡単で、驚きだった。
「面白いだろう?」
 神社にきた時点で、行商人はここにいた。休憩中だったらしく、暇潰しのつもりで店を広げられた。
 最初はさほど関心がなかった小夜左文字も、実物を見せられて、気持ちが変わった。次兄への良い土産になると、迷わなかった。
「見た目に騙されるところだったよ」
「蓋を開けてみなければ、分からない」
「まったくだ」
 正論を吐かれ、歌仙兼定は恐縮して頭を垂れた。小夜左文字の手を持ったまま目尻を下げて、照れ臭そうにはにかんだ。
 ひとりで出かけていたら、見もせずに通り過ぎるところだった。
 新鮮な驚きをもたらされて、心は晴れやかだった。
「良い匂いだ」
「歌仙、そろそろ」
 もう一度鼻を寄せ、匂いを吸い込む。
 目を閉じてうっとりしている男から手を取り返そうと、少年は身動ぎ、肩を揺らした。
 けれど、果たせない。意外に強い力で拘束されて、放してもらえなかった。
「歌仙」
 再度催促するけれど、無視された。男は顔を綻ばせ、満面の笑みを浮かべて頭を垂れた。
 鼻の位置を上にずらし、蜜蝋を塗り付けた指先へ、今度は唇を招き入れて。
「――っ」
 ちゅ、と軽く吸い付かれて、少年は全身の毛を逆立てた。
 甘い香りを放つ場所に、恭しくくちづけられた。電流が走り抜けて、背筋がぞわわ、と粟立った。
 ひと呼吸おいて、どっと汗が溢れ出した。瞠目して硬直して、小夜左文字は仰天したまま男を見た。
 歌仙兼定は意地悪く笑って、今しがた触れた場所に、もう一度鼻先を戻した。
「おや。少し匂いが変わったかな?」
「そん、な。わけが!」
 しっとり汗ばんだ爪先に破顔一笑して、不遜に囁く。
 少年は真っ赤になって煙を噴き、力技で腕を奪い返した。
 肘で牽制して、牙を剥いて威嚇する。それを呵々と笑い飛ばして、男は立ち上がり、風呂敷包みに手を伸ばした。
「あっ」
「では、行こうか」
「待て。荷物は」
「団子でも食べていこうかな。小夜は、なにがいい?」
「話を聞け、歌仙」
 屋敷の者たちからの頼まれもので、荷物はかなり大きかった。それを軽々持ち上げて、肩に担ぎ、一方的に言って歩き出す。
 慌てて濡れ縁から飛び降りて、追いかけたが間に合わなかった。
 噛みあわない会話に、小夜左文字は拳を作った。しかし殴る先が見つからず、指は空中で解けた。
 甘い香りが仄かに流れ、心の襞まで擽った。
「……歌仙の、阿呆」
 ぼそりと呟き、顔を覆う。
 蜜蝋に込められた香りは汗と混じり、確かに色を変えていた。

2015/8/12 脱稿