かけじや袖の 濡れもこそすれ

 葭簀から漏れる陽が、縁側を疎らに彩っていた。
 朝方、あれだけ騒がしかった蝉の声が、今の時間はまるで聞こえない。風もあまり吹いておらず、空気は生温く、湿気を含んで粘ついていた。
 汗が首筋を伝い、なかなか乾かない。喉の渇きを覚え、小夜左文字は犬を真似て舌を伸ばした。
「いつまで、続くのか」
 初めて体験する夏は、思っていた以上に手強かった。
 昼間の暑さは、想像を超えていた。これならば蝉を代表する虫たちも、鳴くのを止めて木陰で休むに決まっていた。
 昼寝でもしたいところだけれど、あまりにも蒸し暑くて、とても眠れそうにない。横になっても不快感が増すだけで、結果は火を見るよりも明らかだった。
 かといって、起きているのも苦痛。
 足元に散る光の欠片を蹴り飛ばして、少年は鬱陶しそうに晴天を仰いだ。
 日除けの葭簀を濡らせば、少しは空気が冷えてくれるだろうか。ふと考えるが、湿気が増すだけの気もした。
 実行に移すには、少し勇気が足りない。
 面倒臭いと早々に諦めて、小夜左文字は逃げていかない熱を舌に包んだ。
 口を閉ざして唾を飲むが、当然ながら、美味しくなかった。
「水でも……」
 殆ど平らな喉仏をなぞり、行き過ぎた指で首に掛けた数珠を撫でる。ぽつりと零した声は年の割に低めだが、無理をしている風にも聞こえる音程だった。
 絞り出した独白で、余計に喉が渇いてしまった。
 音にした所為でより強く実感して、小夜左文字は額に浮いた汗を拭った。
 湿った指先で空を掻き、緩く握って、すぐに解く。己の体温でさえ不快だと眉間に皺を寄せて、夏初体験の短刀は踵を浮かせた。
 爪先立ちで進む縁側は、燦々と降り注ぐ陽光を遮る日除けに覆われていた。
 軒先に立て掛けているだけなので、大風が吹けば倒れてしまう。それでも無いよりは良い、との苦肉の策だった。
 簾を吊るした部屋もあるが、数はそれほど多くなかった。どこかで風鈴が鳴っていて、軽やかな音色が天高く昇って行った。
 一旦足を止めて耳を澄ませて、小夜左文字はほんの少しながら、涼しくなった気分を味わった。
「溶けそうだ」
 もっとも、効果は微々たるもの。すぐに戻ってきた蒸し暑さに愚痴を零し、彼は手を団扇にして風を招いた。
 衿を広げ、喉元を晒す。
 それでも得られる涼しさは限られていて、むわっと押し寄せて来た熱風を前に、為す術もなかった。
 空気を読まない蝉が一匹、鳴き始めた。簾の隙間から迷い込む温風に力なく肩を落とし、少年は諦めて首を振った。
「水」
 まずは喉の渇きを癒そう。
 そう決めて、小夜左文字は屋内へ通じる道を急いだ。
 台所は屋敷の東端にあるので、昼の盛りに突入した今の時間帯は、日蔭が多い。南に面した縁側よりは、確実に気温が低いはずだった。
 冬場は寒くて苦労させられたが、今の時期は、ありがたい。少し先の未来を予想して、彼は安堵の息を吐いた。
 とらぬ狸の皮算用だが、想像に間違いがあるわけがなかった。丁度八つ時の手前でもあるので、今行けば、一足先に甘味が楽しめるかもしれなかった。
 毎日欠かさず、甘くて美味な菓子が用意されている。
 手の込んだ品を、丹精込めて作ってくれる打刀を思い浮かべ、足取りは自然と速くなった。
 心が逸り、気が急いた。
 いつの間にか小走りになって、小夜左文字は台所に通じる最後の角を曲がった。
 戸は開けっ放しだった。
 頬を紅潮させて、興奮のままに中に駆け込もうとした。
「うわあ、すごい。すごいです、歌仙殿」
「もっ、もう一度。お願いします」
「ははは、構わないよ。さあ、よぉく、注意して見ておくんだよ」
 ところが、だ。
 小柄な短刀の足は、敷居を跨いだところで停止した。
 身体を前に運ぼうとする、その瞬間の体勢で凍り付いて、蒼色の瞳は真ん丸に見開かれた。
 勝手口がある土間の手前には、板張りの間があった。防腐剤が塗られている為か、廊下に比べるとやや床の色が濃いそこには沢山の棚が並べられ、調理台が置かれていた。
 土間の隅には井戸水を汲んだ瓶が並び、洗い物をする為の流し場も用意されていた。まな板は分厚く、包丁は多種多様取り揃えられて、鈍い光を発していた。
 竈は合計で五つあるが、いずれも火は消され、休んでいた。洗った釜は勝手口から外に出され、逆さにして干されていた。
 そんな中で唯一、七輪だけが炭をくべられ、熱を発していた。
 男ばかりの大所帯を支えているだけあって、台所に用意された七輪はどれも大きい。そのうちのひとつを前にして、男は膝を折って屈み、熱心に手元を見詰めていた。
 藤色の髪の一部を紐で結って、邪魔にならないよう、胴衣の袖も紅白の襷で縛っていた。香染の袴を履いて、動き易い格好をしていた。
 そんな男を取り囲んで、数人の子供が群がっていた。
「そら。これを、こうして。勢いよく混ぜて」
「うわあ。うわあ、すごぉぉい」
「いったい、どうなっているのでしょう。これは、とても不思議です」
「歌仙殿、私にもやらせてはいただけないでしょうか」
 目に鮮やかな桃色の頭と、榛色の頭がふたつ、仲良く肩を並べていた。全員膝を軽く折って前傾姿勢を取っており、視線は中心に座す男へと注がれていた。
 戸口に佇む小夜左文字には、誰ひとりとして気付かない。皆してなにかに夢中で、とても楽しそうだった。
 なにをしているのか。
 興味惹かれたが、その位置からでは全く見えなかった。
「歌仙?」
 先客があったことにまず驚き、不思議な組み合わせにも首を傾げる。
 七輪を前にしているのは本丸で最も古株の打刀であり、彼の背後に張り付いているのは、粟田口の短刀たちだった。
 本丸には、藤四郎だけで合計九口も存在した。そのうち秋田藤四郎と、平野藤四郎、そして前田藤四郎の三名が、この場に揃っていた。
 いつも騒々しい厚藤四郎や、乱藤四郎の姿はない。念のため左右を確認して、小夜左文字は賑やかな集団に眉を顰めた。
「薬研は、遠征だったか」
 今朝方見送った隊の中に、見慣れた顔があったのを思い出す。
 けれど他の面々には覚えがなくて、左文字の短刀は胡乱げな表情で騒ぎの中心を見やった。
 八つ時が待ちきれず、小夜左文字に先んじて台所に顔を出した。
 粟田口の短刀たちがここにいるのは、恐らくはそういう理由だろう。では、なにをそこまで、熱心に見つめているのか。
 団子を丸めるのであれば、背高の調理台の方がやり易い。汁粉を作っているのなら、藤四郎たちがあそこまではしゃぐ道理はない。
 こんな暑い時期に、わざわざ火を使って、作るもの。
 思いつく限りを頭に並べ立てて、小夜左文字はげんなりして肩を落とした。
 氷菓が良かった。
 贅沢に削り氷に甘葛、とまでは言わないが、どうせなら冷たいものが良かった。
 立っているだけで汗が滲んだ。涼しいと期待して訪ねた場所で、絶賛炭が焚かれていたのも、暑さに苦しむ短刀を傷つけた。
「なにを、しているんだ」
 歌仙兼定の手元は依然見えず、三人の藤四郎がなにを面白がっているのかは不明なまま。
 じりじりと襟足を焦がす熱に苛立って、小夜左文字は強く奥歯を噛み締めた。
「試してみるかい? 構わないよ。熱いから、気を付けて」
「本当ですか。とても嬉しいです」
「いいな。いいなー。次、僕がやっても良いですか?」
「もちろんだとも。火傷をしないよう、注意するんだよ」
「分かってます。ありがとうございます、歌仙さん」
「前田も、秋田も、ずるいです。歌仙殿、是非とも僕にも、試させてはいただけませんか」
「ああ。順番にね」
「分かりました」
 手にしていたものを七輪から外し、歌仙兼定が鷹揚に頷く。その言葉に短刀たちは活気づいて、我先にと手を挙げて、跳び上がった。
 普段は大人しくて控えめな平野藤四郎まで、鼻息を荒くしていた。兄弟で競い合って、負けるものかと息巻いていた。
 彼をあそこまでさせるものが、そこにある。
 興味が強まるものの、小夜左文字はどうしてもそこから動けなかった。
 今から近くに行って、変に思われないだろうか。
 目新しいことに好奇心を擽られたと、甘く見られるのも嫌だった。
 それに、なにより。
「えっと、確か。これを、こう……」
「ああ、それでは遠すぎて、熱が高くならないね。温度が肝心なんだ。もっと炭に近付けて」
「なるほど。ふむ」
 膝立ちになった歌仙兼定は七輪の前を譲り、入れ替わりに前田藤四郎がそこへ入った。その手が握っていたのは、銅製の小鍋だった。
 持ち手は長く、一尺近くある。それを左手に構えて、右手に掴むのは細い菜箸だ。
 小夜左文字に見えたのは、それだけだった。首を伸ばし、爪先立ちになっても、複数いる短刀の背中が邪魔で、七輪の上で何が起きているかまでは分からなかった。
「おや?」
「っ!」
 直後、平野藤四郎が振り返った。
 反射的に戸口から廊下に引っ込んで、小夜左文字は壁を背にして背筋を粟立てた。
「どうかしたんですか?」
「いいえ。気の所為だったようです」
 首を捻った平野藤四郎に、秋田藤四郎が目を眇める。そんなやり取りを壁越しに聞いて、思わず隠れてしまった短刀は冷や汗を拭った。
 逃げることはなかったのに、無意識に身体が動いていた。
「なにをやっているんだ、僕は」
 一瞬で跳ね上がった鼓動を落ち着かせ、鼻から吸った息を口から吐く。
 深呼吸を三度繰り返し終えた頃、台所内でもなにかが起きたらしく、藤四郎たちが一斉に声を張り上げた。
「おお、凄いです。本当に膨らんだ」
「はやく、はやく!」
「待って、くださ……あ、わ、ああっ」
「あああ~~……」
 興奮して騒ぎ始めたかと思いきや、直後に一変した。突然悲鳴があがって、平野藤四郎と秋田藤四郎のため息がそこに重なった。
 何事かと様子を覗けば、歌仙兼定が肩を竦めて笑っていた。
「火から離すのが早かったみたいだね」
「うぅぅ。ぺしゃんこなのです」
 口元に手をやって、目を細め、顔を綻ばせていた。その横顔はとても楽しげで、大輪の花が咲き誇っているかのようだった。
 落胆する前田藤四郎の肩を叩いて慰めて、もう一度お手本を見せようと腕まくりする。頼もしい打刀に子供たちは目を輝かせ、力強く頷いた。
「歌仙」
 彼があんな風にも笑うことを、小夜左文字は知らなかった。
 いつも穏やかに微笑んでいる彼だけれど、普段と趣が異なる笑顔だった。頼られて嬉しそうで、幸せを噛み締めている表情だった。
 意識しないまま、握り拳を作っていた。爪の先が皮膚に食い込むのも構わず、小夜左文字はモヤモヤするものを奥歯で噛み潰した。
 なぜだか、面白くなかった。
「ほら。これを、こう……これくらいになった時に、素早く」
「おお、お見事なのです」
「簡単そうに見えて、なんとも、奥深いです」
 彼が言い表し難い感情に襲われている間も、歌仙兼定は相変わらずだった。
 手際よく手本を示し、子供たちから拍手を貰ってはにかむ。打刀は照れ臭そうに首を竦めると、出来上がったばかりの菓子を前田藤四郎へと差し出した。
 それは球体を半分に切ったような、薄く茶色がかった固形物だった。
 硬いのか、握っても潰れない。七輪を使ったばかりなのにあまり熱くもないようで、与えられた塊に、短刀は躊躇なく噛みついた。
「中、空っぽです」
「ははは。そりゃあ、膨らませただけだしね」
 そうして驚いた顔で告げて、歌仙兼定を笑わせた。
 見た目によらず、歯応えは軽かったらしい。他の短刀たちも興味津々で、歯形が残る断面を覗き込んでは、感嘆の息を零した。
「不思議ですね」
「さて、次は誰かな?」
「はい。僕です」
 小夜左文字も関心があったが、言い出せなかった。戸口の影に身を潜めたまま右往左往して、最終的に下唇を噛んで、袈裟を握りしめた。
 こんなにも近くに居るのに、彼らとの距離がとてつもなく遠い。
 輪に混じれない己の意気地なさに腹を立て、いつまで待っても存在に気付かない男に対して小鼻を膨らませる。
 時間が過ぎれば過ぎるほどに胸のもやもや感は膨らんで、少しも萎んでくれなかった。
「いいですか。いきますよー」
 台所では道具を受け取って、秋田藤四郎が気合いを入れて吠えていた。
 愛くるしい短刀を見守る歌仙兼定の、稀に見る優しい顔が瞼に浮かんだ。無性に哀しくなって、小夜左文字は膝を抱え、座り込んでしまいたくなった。
「僕が、いない方が。歌仙だって、きっと」
 それをどうにか耐えて、掠れる小声を絞り出す。
 言葉にした途端、実感がどっと押し寄せて来た。華奢な少年は肩を震わせて、握った拳を腿に押し当てた。
 痛みが生じても、気にならなかった。
 口下手で、愛想がない自覚はあった。人付き合いが苦手で、子供らしくない、とよく言われていた。
 小夜左文字は、粟田口の短刀たちのようには笑えない。今剣のように無邪気に振る舞うのも、愛染国俊の猪突猛進ぶりも真似出来ない。
 この身体は血で穢れている。
 誰かを守る為でなく、誰かから、なにかを奪う為に振るわれた。小夜左文字はそういう、罪の一文字を刻まれた刀だった。
 卑屈な心が渦巻いた。
 と同時に、言いようのない怒りが湧き起こって、じっとしていられなかった。
 空を蹴り、彼はにこやかに微笑む男に小鼻を膨らませた。
 どうして気付かないのか。
 どうして、分からないのか。
 他の短刀に囲まれて、でれでれと、鼻の下を伸ばして。
 そんなみっともなく、だらしない顔など、見たくもなかった。
「歌仙など、知るものか」
 哀しみを怒りに置き換え、少年はむすっと頬を膨らませた。口を尖らせ、一気に息を吐き出して、周囲に良い顔をしたがる男の幻を踏み潰した。
 彼らが台所でなにをしていようが、どうでもよかった。
 興味は一瞬にして消え去って、跡形もなく霧散した。
 自分から混ざりに行けなかったのを棚に上げ、小夜左文字は荒々しく床を踏み鳴らした。己を鼓舞して覚悟を決めて、背筋を伸ばすと、思い切って身体を反転させた。
 右足を大きく踏み出して、力任せに敷居を跨ぐ。
「おおお、出来た。出来ました」
「すごいです、平野。さすがなのです」
「うわあ、いいなあ。かっこいいなあ」
 右前方では七輪を囲み、粟田口の短刀たちが賑やかに騒いでいた。
 銅製の小鍋を手に、平野藤四郎が頬を紅潮させていた。前田藤四郎は握り拳を振り回して、秋田藤四郎も感嘆の声をあげていた。
 それを横目に見て、すぐに正面へと戻す。一直線に土間を目指す少年の姿は、当然ながら、様子を見守っていた打刀の視界に入った。
 腕組みをしていた歌仙兼定は、早足で通り過ぎようとする短刀に二度瞬きし、三度目を終えてから頬を緩めた。
「小夜。君もやっていくかい?」
 亀の甲羅に似た丸い菓子に夢中だった短刀たちも、歌仙兼定の声で顔を上げた。底浅の小鍋から取り外した茶褐色の菓子を手に抱いて、平野藤四郎などは特に嬉しそうだった。
「とても、面白いものを見せていただきました。小夜殿も、試されるとよろしいかと」
 興奮冷めやらぬ様子で告げて、満面の笑みを浮かべる。
 いかにも子供らしい表情を向けられて、小夜左文字は興味なさげに目を眇めた。
「そう」
 低い声で短く呟き、それを返事の代わりにする。
 相槌なのかどうかも判然としない素っ気なさに、勢い勇んでいた短刀たちは顔を見合わせた。
 ざわめきが起こり、小夜左文字の心情を探って視線だけのやり取りが繰り返された。彼の反応をどう受け止めれば良いのか悩んで、幼い短刀たちは、最終的に打刀に縋った。
 戸惑いの眼差しを集めて、歌仙兼定も当惑しながら頬を掻いた。
「小夜、どうしたんだい?」
「別に。どうもしない」
 明らかに態度がおかしいと、声を高くする。けれど小夜左文字は振り向きもせず言い捨て、土間へ降りるべく、沓脱ぎ石に爪先を置いた。
 履き慣れた草鞋を足指に引っ掻けて、取り付く島を与えない。
 露骨なまでの頑なさに眉を顰め、歌仙兼定は思案気味に眉を顰めた。
 機嫌が悪い原因を考え、逆鱗に触れずに確かめる術を探す。だが良い案が浮かぶより早く、平野藤四郎が前に踏み出した。
「小夜殿、ほら、見てください。今日の八つ時の菓子は、このように、丸く膨らんで、すごく甘いのですよ」
「そうですよ。僕もさっき作ってみたんですけど、本当に不思議だったんです。急にぶわわっ、て大きくなって、固くなって。ほら、こんな風に」
「小夜殿も、絶対に気に入ると思うのです」
 彼の言葉に同調し、秋田藤四郎が目を輝かせた。興奮を取り戻して身振りを交えて訴えて、ようやく振り返った小夜左文字に力強く頷いた。
 こんなに楽しい経験を、知らずに過ごすのは勿体ない。
 一緒に体験して、共有したい。そういう意識が、彼らの言葉から汲みとれた。
 但しお節介な性格は、一定の域を越えればただ押し付けがましいだけの、傲慢な強者の弁にしかならない。
 不快感が膨らんだ。なにもかも気に入らなくて、腹立たしくてならなかった。
 どうして放っておいてくれないのか。
 鈍感が過ぎると苛立って、小夜左文字は顎を軋ませた。
「興味ないって、言ってる!」
「――っ」
「小夜!」
 獣を真似て低く唸り、吼える。
 無垢な子供を怯えさせるに十分な怒号を上げれば、案の定粟田口の三人は竦み上がり、歌仙兼定が反発して空を切り裂いた。
 鋭い声で叱責して、土間に降り立った少年を睨みつける。
 険しく尖った双眸を冷静に受け止めて、小夜左文字は不意に湧き起こった感情を噛み砕いた。
 急に泣きたくなった。
 それを堪えて、彼は上品で行儀が良い短刀たちを一瞥した。
 目線を向けられて、秋田藤四郎の顔色がさっと翳った。前田藤四郎は頬を引き攣らせ、平野藤四郎も歯を食い縛っていた。
 好意を真正面から跳ね返されたのだ。当然の反応だった。
 そんな彼らを庇うようにして、歌仙兼定が摺り足で前に出た。心配いらないと短刀たちに目配せして、小夜左文字には厳しい視線を投げた。
 彼だけは、なにがあっても味方してくれると信じていた。
「歌仙」
「小夜。機嫌が悪いからといって、人に当たるのは、やめなさい」
 けれど、それも結局は、夢幻でしかなかった。
 冷徹な口調でぴしゃりと言いきられ、叱られた少年は黙って唇を引き結んだ。
 もとはといえば、この男が悪いのだ。
 ずっと待っていたのに、一向に気付いてくれなかった。他の短刀にばかり優しくして、振り返りもしなかった。
 口に出さなければ伝わらないと分かっていても、彼の方から声をかけて欲しかった。そうすれば小夜左文字は迷わず傍に行けたし、こんなことにもならなかった。
 虚しさと悔しさが入り乱れて、鼻の奥がツンとなった。目頭がじんわり熱を持って、彼は誤魔化すようにかぶりを振った。
「小夜」
 歌仙兼定は諭すように名を紡ぎ、肩を竦めて嘆息した。強情な短刀にどう言い聞かせようかと言葉を探し、目を泳がせ、顎を撫でた。
 直後だった。
「音に聞く」
 そっぽを向いていた少年が、ぼそりと呟いた。
「うん?」
「高師の浦のあだ波は」
「かけじや袖の……ちょっと待つんだ。小夜、どうしてそうなる」
「うるさい」
 詠うように告げられて、続きを諳んじた歌仙兼定の顔が見る間に青くなった。
 慌てた様子で声を荒らげるが、少年は素っ気なく言い捨てて取り合わない。しかし歌仙兼定は諦めず、二歩前に出て、大袈裟な身振りで腕を広げた。
「いつ、僕が浮気したっていうんだ」
 大声で叫び、己の左胸を叩く。
 表情は切迫し、青褪めて、悲壮感に溢れていた。
 激しく動揺して、瞳は左右に揺れ動いた。突然三行半を突き付けられて、冷静ではいられなかった。
 そんな男を仰ぎ見て、小夜左文字は口を尖らせた。
「僕をからかって、楽しかったか、歌仙。最初から、おかしいと思っていた。こんな僕に、歌仙が関わるなど」
「だから、どうしてそうなるんだ。僕は君をからかった覚えはないし、いつだって真剣に――」
 足を踏み鳴らして近付き、大声で捲し立てる。
 それでも藍の髪の短刀は明後日の方角を向いて、取り合おうとしなかった。
「小夜、頼むから話を聞いてくれ。そりゃあ、僕の方が年下だし、君に釣り合わないところもあるとは思うけれど。艶書合じゃないんだ。ちゃんと本気だし、君以外の誰かとなにかあっただとか、そんなこと、絶対に、誓って、ありえないから」
 不貞腐れた表情の少年と、心変わりを疑われて焦る男と。
 両手を振り回して必死の説得を試みる歌仙兼定は、傍目から見て、かなり異様だった。
 急変した状況を目の当たりにして、取り残された形の粟田口は不思議そうに首を傾げあった。
 どうして歌仙兼定があんなにも狼狽し、小夜左文字に縋るのか。
 発端となった最初の短いやり取りに、どういう意味が込められていたのか。
 事情はさっぱり分からないものの、こんな光景、滅多に見られるものではない。平野藤四郎と前田藤四郎は良く似た顔を向き合わせ、秋田藤四郎も瞳を浮かせて天井を仰いだ。
「止めた方が良いのでしょうか」
「喧嘩、とは違いますよね」
「前に、乱がこういう状況のことを、なんとかだ、と言っていませんでしたか」
「しゅら、ば?」
「ああ、そうです。これはまさに、修羅場、というやつではないでしょうか」
「修羅場。なんと恐ろしい響きでしょう」
「でも修羅場って、どういう意味でしたっけ」
「修羅同士が戦いあう激しい戦場、ということではないでしょうか」
「小夜殿も、歌仙殿も、修羅ではありませんが」
「乱は、ちじょうのもつれ、で起きる、って」
「ちじょう? それはどういったものでしょう」
「……いや、あの。すまない。君たち、ちょっと黙っていてくれるかな」
 懸命に弁解する後ろで、口々に議論されるのは居た堪れない。
 耐えられなくなって割って入った歌仙兼定を見て、小夜左文字の頬は前にも増して、ぷっくり丸く膨らんだ。
 露骨に拗ねてみせ、打刀が子供たちに言い聞かせて振り向く直前、凹ませる。
 一瞬のうちに豹変した少年を遠くから見つめて、やがて秋田藤四郎は、成る程、と両手を叩きあわせた。
「小夜君、大丈夫です。僕たち、歌仙さんをとったりしませんから」
「――え?」
「っ!」
 彼の頭の中に、ストンとなにかが落ちて来た。得心顔で頷いて、満面の笑みを浮かべ、桃の髪の少年は無邪気に言い放った。
 唐突に飛び出して来たひと言に、歌仙兼定はきょとんと目を丸くした。予期していなかった小夜左文字は真っ赤になり、産毛を逆立ててて竦み上がった。
 まさか話しかけられるとは、思ってもいなかった。
 不意打ちに等しい言葉を贈られて、動揺を隠しきれなかった。
 高く結った髪をぶわっと膨らませて、袈裟を着た短刀が零れ落ちんばかりに目を開く。見詰める先では秋田藤四郎がにこにこしており、前田藤四郎と平野藤四郎も、少ししてから嗚呼、と深く頷いた。
「なるほど。これが痴情のもつれ、というやつですね」
「ご安心ください、小夜殿。歌仙殿は、今すぐ小夜殿にお返しします。行きましょう、秋田、平野」
「待て。ちっ、ちが。ちがう!」
「小夜?」
「歌仙さん、お邪魔しました」
「軽目焼き、いただきます」
「では」
 短刀たちは短刀たちで納得して、にこやかに手を振った。軽い食感の焼き菓子を胸に抱き、開けっ放しの戸口から廊下へと出て行った。
 小夜左文字が手を伸ばして引き留めを計るが、誰ひとりとして足を止めない。歌仙兼定だけが怪訝に首を傾げ、直近の子供たちの会話を思い出し、かなり遅れてカーッと赤くなった。
 行儀よく頭を下げた前田藤四郎をしんがりに、粟田口の短刀が台所から立ち去った。途端に広い室内が静かになって、気まずさを覚え、歌仙兼定は余所を見たまま頬を掻いた。
 随分と勝手なことを、あれこれ言われてしまった。
 傍観者からはあんな風に見られ、思われていると知らされて、無性に恥ずかしかった。
 横目で小夜左文字を窺えば、彼も袈裟を握りしめ、なんとも言えない表情を浮かべていた。
「ええと。……小夜?」
「うる、さい」
 試しに話しかければ、依然として素っ気なかった。けれど先ほどよりは、語気に力がなかった。
 ちらりと盗み見られて、即座に逸らされた。自分からは言い出しにくいのだとようやく気取って、歌仙兼定はもじもじしている短刀に目尻を下げた。
 本当に、素直ではない。
 けれどそこが可愛いと、本人に言えば蹴られそうな感想を心で述べる。小さく首肯した男は肩を竦め、すっかり人気がなくなった七輪を一瞥した。
 彼はそこで、軽目焼きを作っていた。
 砂糖を加熱して融かし、卵白を加えて膨らませた菓子だ。出来上がったものは見た目の割に軽くて、さくさくしており、甘い。
 作り方は難しく思えて、温度管理さえしっかりしておけば、失敗することはなかった。粟田口の短刀たちも、独特な作り方を面白がっていた。
 皆を喜ばせようと思って用意したけれど、先に台所に現れた子たちに構っていたから、拗ねられてしまった。
 藤四郎たちにも、妙な気を遣わせた。
「小夜。ああ、だから……その」
 これで仲違いをしたままだったら、夕餉の際に何を言われるか、分かったものではない。
 痴情のもつれで修羅場になったとの噂が広まったら、左文字の上ふたりに、どんな酷い目に遭わされるか、分かったものではなかった。
 和泉守兼定は間違いなく笑い転げるだろうし、燭台切光忠は不要な心配をして、お節介を焼いてくるに決まっている。大倶利伽羅は小夜左文字の味方だから、無言で威圧して来そうだった。
 どうやって、機嫌を直してもらおうか。
 あれこれ考えてはみるけれど、これ、という妙案はひとつも浮かんでこなかった。
 仕方なく、赤々と炭が燃える七輪を指差し、ぎこちない笑みを作る。
「軽目焼き、作るかい?」
 苦し紛れに訊ねれば、俯いていた少年はパッと顔を上げ、真ん丸い目を見開いた。
 直後に我に返ったらしく、頬を染めたまま、またしても俯かれてしまったけれど。
「……つくる」
 ぼそりと呟かれた言葉は、ほんの少し、嬉しそうだった。

2015/6/26 脱稿