その紫の 雲を思はめ

 クツクツと湯を沸かす音が耳朶を打つ。太い湯気が大量に立ち上って、風に煽られてゆらゆら踊っていた。
 大振りの七輪で炭が燃え、断面の菊文様が赤々と照らされていた。四本足の五徳の上には鉄製の鍋が置かれ、その内側はさながら釜茹で地獄だった。
 鍋の中身は油でなく、水であるが、ぼこぼこと泡が弾けて熱そうだった。あそこに今、手を突っ込んだらと考えるだけで寒気がして、和泉守兼定はぶるりと震えあがった。
「まだなのかい?」
 このままだと、あの沸き立つ鍋の湯を浴びせられかねない。
 火の傍らで仁王立ちしている男からのひと言にも過剰に反応して、彼は瞬間的に指に力を込めた。
「あっ」
 途端に抓み持っていたものが潰れて、中身がぷしゅっ、と飛び出した。
 緑色の莢からはぐれ、これもまた緑が鮮やかな球体が宙を駆けた。放物線を描いたそれは三尺近く離れた場所に落ち、行く宛てもなくコロコロ転がっていった。
 しまった、と顔を顰めるが、もう遅い。
 これで何度目かと自分に落ち込んで、和泉守兼定はがっくり肩を落とした。
 もれなく後方の男もため息を吐き、露わにしている額を叩いた。
「本当に不器用だね、君は」
「うっ、うるせえ。俺は敵さんをぶった斬れりゃ、それでいいんだよ」
「莢剥きも満足に出来ないくせに、なにを偉そうな」
「ほっとけ」
 呆れ混じりに呟かれ、反発するが口では敵わない。
 負け惜しみ的な台詞を吐き捨てて頬を膨らませて、和泉守兼定は手元の莢に残っていたひと粒を足元の笊に落とした。
 本当は、そこに入れるつもりだった。だが勢い余って飛ばし過ぎて、そんなえんどう豆が土間のあちこちに転がっていた。
 これらを全て拾って合計すると、結構な量になる。
 なんと勿体ない真似をするのか。重ねて苦言を呈されて、彼は言い返せずに顔を赤くした。
 これでも一応、気を付けているのだ。今のは、急に話しかけて来たのが悪い。
「集中してんだ。邪魔すんな」
「そういうことにしておくよ」
 責任転嫁して、声を荒らげる。
 不貞腐れた顔で怒鳴り付ければ、この返答は想定済みだったのか、歌仙兼定は肩を竦めて首を振った。
 嫌味たらしい態度を見せられて、余計に腹立たしい。
 だが実際、自分から言い出して始めた仕事は、まだ当分終わりそうになかった。
「早くしてくれないと、夕餉の時間に響くな」
「だったら、少しは手伝えよ」
「僕は僕で忙しいんだよ」
 湯を沸かす炭の火力を調整して、歴戦の台所当番はさらりと言い返した。取り付く島を与えずに、ひらひら手を振って調理台の方に向き直った。
 土間に茣蓙を敷いて座り込んでいた和泉守兼定に背を向けて、菜切り包丁を右手に構える。
 あれが刀でなかっただけ良かったと思うことにして、長髪の太刀は脱力して猫背になった。
 足首を交差させた脚の間には笊が据えられ、左右にも少し大き目の笊がひとつずつ置かれていた。うち、右側に詰められているのは中身を含んで丸々太った莢で、左側の笊にあるのは中身を失った抜け殻だった。
 分量としては、左側が若干多い。ただ見る角度を変えると、右側の方が多いようにも感じられた。
 どちらにせよ、まだ半分近く残っている。これを全て剥き終えないと、彼の仕事は完了とならなかった。
「くっそー。簡単だと思ったのによ」
「お生憎様。千里の道も、一歩から、だよ」
「だから、うるせーよ。いちいち、いちいち」
 愚痴を零せば、聞き付けた歌仙兼定が嫌味を言う。
 逐一難癖をつけてくる打刀に癇癪を爆発させて、和泉守兼定は少し前の自分を呪った。
 堀川国広を探して屋敷をうろうろして、台所まで足を運んだ。案の定求め人はそこにいて、夕餉の支度に勤しんでいた。
 なにやら単調な仕事をしていたから、これくらいなら自分にも出来そうだと思った。野菜や肉を捌いたり、出汁を取ったりは出来ないけれど、豆を莢から抜くぐらいは問題ないと、試す前に決断してしまった。
 その結果が、これだ。
 中身を笊に落とすだけなのに思いの外難しくて、やり始めから悪戦苦闘しっ放しだった。
 指には青臭さが乗り移り、鼻に近付けて嗅げば噎せそうになる。
 うえ、と舌を出して呻いて、和泉守兼定は垂れ落ちて来た黒髪を払い除けた。
 前屈みを維持しているので、すぐに垂れてくるから困る。
 堀川国広が戻ってきたら編んでもらうことにして、彼は空になった莢をくず入れ代わりの笊に放り投げた。
「やっと半分かよ」
 先はまだ長い。
 がっくり肩を落として項垂れて、口の中で愚痴を言う。
 山を成していた豆を撫でれば、艶々した球体が一斉に雪崩を起こした。もっとも笊の外にまでは行かず、内向きに傾斜した壁に当たって、止まった。
 これがどう調理されるのかは、さっぱり見当がつかなかった。
 卵とじにするのか、他の野菜と一緒に煮るのか。ただそれにしたって量が多く、一日で食べきれるのか不安になった。
 どうやって消費する気だろう。
 本丸の台所を長く預かる歌仙兼定を一瞥して、和泉守兼定は細長い莢を右手で抓みあげた。
 ぱっと見た感じ、三日月のような形をしていた。豆が入っている場所だけが丸く盛り上がっており、外からでも何個入っているのが把握出来た。
 一個しか入っていない莢だとがっかりして、四つも入っているのを引き当てると嬉しくなる。
 そういうところに小さな楽しみを見出して、彼は黙々と空の莢を増やしていった。
「しっかし、まあ……」
 口数を減らして勤しんでいたからか、歌仙兼定が茶々を入れてくることもなかった。あちらも忙しいのは本当らしく、包丁で何かを切り刻んでいたかと思えば、湯を沸かした鍋を掻き混ぜ、あちこち移動を繰り返した。
 首を伸ばして覗いてみたが、なにをしているのかさっぱり分からない。
 流石は二代目之定の作だと変なところで感心して、彼は青臭さが移った掌を何気なく眺めた。
 この手に掴めたもの、掴めなかったもの。
 守れたもの、失われてしまったもの。
 壊したもの。
 壊れたもの。
 壊されてしまったもの。
 指の間からするりと零れ落ちていったのは、いったい何だったのか。
 掴んでいた感触さえ思い出せなくて、試しに莢を握り潰してみようとする。
「お待たせー」
「うおっ」
 けれど指を折り畳み切る前に勝手口が開かれて、不意を突かれた太刀はピン、と背筋を伸ばした。
 茣蓙の上で大袈裟に身を竦ませて、ぐしゃっ、とやってしまったえんどう豆は、空の莢を入れた笊にこっそり潜ませる。
 植物に含まれていた水分が指に張り付き、少し気持ちが悪かった。けれどなるべく顔に出さないよう心掛けて、彼は意気揚々と戻ってきた同朋を振り返った。
「ああ、おかえり。堀川国広」
「……おい、なんだそりゃ」
 歌仙兼定は作業の手を休め、調理台の前で顔を綻ばせた。一方和泉守兼定は頬を引き攣らせ、作業着姿の脇差を指差した。
 正確には、その胸に抱かれているものを、だ。
 声も身体も震わせて、満面の笑みの堀川国広に顔を青くする。
 幕末の頃から共に戦場を駆け巡っていた脇差は、今まさに和泉守兼定が孤軍奮闘中のえんどう豆を、大量に抱きしめていた。
 ひと房ずつ摘んだりせず、枝ごと断ち切って持って来たのだろう。
 植物が放つ青臭さに土の匂いが混ざって、土間周辺は少々鼻が辛い状態だった。
 慣れないと、苦しい。
 但し唸ったのは、和泉守兼定だけだった。残るふたりはすっかり慣れっこで、逆に良い匂いだと目尻を下げた。
「豊作だね」
「これで足りますか、歌仙さん」
「充分だよ、堀川国広。そういえば、小夜は?」
「小夜君なら、水やりをしてくるそうです」
 採れたての野菜に顔を綻ばせ、台所当番歴が長い刀剣男士ふたりがにこやかに会話を繰り広げる。
 頭上を行き交うやり取りにひとり混じれなくて、和泉守兼定はむっつり頬を膨らませた。
 面白くないと口を尖らせ、悔しさを紛らせるべく、手は丸々太ったえんどう豆へと伸ばされた。みっつほどまとめて握って中身を抜いて、空になった莢も一気に左の笊に放り込んだ。
 今回は、きちんと真下に落とせた。ひとつも豆を取りこぼさなかったと自画自賛していたら、荷物を抱えたまま、堀川国広がゆっくり近づいて来た。
「わあ、兼さん、すごいじゃない」
 そうして斜め後ろから足元に置いた笊を覗き込んで、蒼色の瞳をきらきら輝かせた。
 えんどう豆の蔓を何束も持っているので、彼が動く度にガサガサ音がした。もれなく青臭さも強くなったが、何故かあまり気にならなかった。
 手放しに賞賛されて、驚いて目を丸くする。
 歌仙兼定の言葉とは正反対の台詞に呆気に取られ、彼は惚けた顔で相棒たる脇差を振り返った。
「……そうなのか?」
 先ほどまで散々罵られていたので、にわかには信じられない。
 疑わしげに小声で尋ねれば、意外だったのか、堀川国広はきょとんとしながら頷いた。
「え、うん。だって、もう半分も終わってるじゃないか」
「堀川国広、あまりその馬鹿を褒めるな」
「そんなことないですよ、歌仙さん。すごいね、兼さん。さすがだね」
「お、……おう。この俺に、任せろってんだ」
 屈託なく笑って告げて、嫌味を言った歌仙兼定にも面と向かって言い返す。その上で再度褒め称えられて、悪い気はしなかった。
 失われていた自信が蘇って、俄然やる気が沸いてきた。今なら何でもできそうな気がして鼻息を荒くして、和泉守兼定は握り拳で胸を叩いた。
 得意になって言い放ち、堀川国広に笑いかける。不遜に口角を持ち上げた男を遠くから眺めて、歌仙兼定はやれやれと首を振った。
「単純なんだから」
 あの程度の世辞で簡単に調子に乗せられて、まるで子供だ。
 おべっかを真に受けて照れている姿にため息を漏らし、彼は鍋に投げ入れた野菜を掻き回した。
 水やりを優先させた短刀は、まだ台所に戻って来ない。
 作業範囲を考えると、当分先になりそうだ。大きな笠を被って一所懸命働く姿を想像して、歌仙兼定は肩の力を抜いた。
「はい、じゃあ兼さん。これも追加で、よろしくね」
「って、ちょっと待て。これで終わりじゃねえのかよ」
 小さいのに頑張っている短刀に比べると、そこの太刀は図体がでかいだけのでくの坊だ。案の定堀川国広に言われて素っ頓狂な声を上げて、転がる勢いで仰け反った。
 莢の笊に左手から突っ込んで、盛大にひっくり返した。それも出汁を取るのに使うというのに、粗末に扱って、歌仙兼定は諦めて渋面を作った。
「え? そうだよ。言ったでしょ?」
「聞いてねえよ」
「おかしいなあ。だって僕、小夜君と畑に行く前に、足りない分採ってくるって。言いましたよね?」
「言っていたね」
「嘘だろ!」
 そんな話は知らないと主張する和泉守兼定だが、二対一で分が悪かった。堀川国広の弁に歌仙兼定は鷹揚に頷いて、菜箸の尻でこめかみを小突いた。
「どうせ、聞いていなかったんだろう」
「うぐ……」
 ずばり言い当てられて、ぐうの音も出ない。
 えんどう豆を剥くのに必死で、聞き流していた。そういえばそんな事を言っていた気が、しないでもないけれど、記憶はぼやけて、判然としなかった。
「冗談じゃねえぞ」
 安請け合いなど、するのではなかった。
 半刻近く使ってやっと半分終わらせたのに、残量が倍以上に増えられては、いつ終わるか分かったものではなかった。
「がんばって、兼さん。僕も手伝うから」
「甘やかすんじゃない、堀川国広」
「うっせえな。手前ぇは、俺のお袋かよ」
 土間の茣蓙に靴を脱いで上がり、脇差が人好きのする笑顔を浮かべた。畑で収穫したばかりのえんどう豆の束は地面に降ろして、枝を一本取って付随する房を毟り始めた。
 ぷち、ぷち、と手際よく進めて、片手で持ちきれなくなったところで莢を笊に積んでいく。
 早くしないと溢れかねなくて、和泉守兼定は慌てて畑臭い豆を引き寄せた。
「ったく。なんだよ、二代目の奴。文句ばっかり言いやがって」
「それだけ兼さんのこと、買ってくれてるんだよ。怒らない、怒らない」
 恨みを晴らさんと莢から豆を取り出し、ぶつくさ言いながら綺麗な球体を笊へ落とす。堀川国広は苦笑しながら窘めて、丸裸にされた細い枝を脇へ退けた。
 次の枝を取り上げて、顔の前で揺らす。
 房の実り方が、まるで石切丸の持つ御幣だ。ガサガサ鳴ったのを面白がり、少年は大太刀を真似て畏まった。
 穏やかで温厚そうに見えて、あの男も割と気が短い。
 一度戦場でぷつん、と切れた瞬間を見てしまって以来、彼の印象は百八十度入れ替わっていた。
「おっかねえのが多いよなあ、ここは」
 自分を棚に上げて呟いて、和泉守兼定は降ってきた埃を手で払った。堀川国広が持つえんどう豆からも枯れた葉の欠片などが落ちて来て、茣蓙の上に散っていった。
 間違って吸い込んでしまわないよう息を止め、細かな塵が落ち切ってから再開させる。そうして唇を舐めた彼をクスクス笑って、小柄な脇差は枝から莢を毟り取った。
 その手さばきに迷いはなく、動きは淀みなかった。
 次、どの房を掴むか、先に決めているのだろう。目つきは真剣で、集中していた。
 単調な作業に飽きて来ていた和泉守兼定は頬杖をつき、一心不乱にえんどう豆を毟る少年をぼんやり眺めた。
「あでっ」
 直後、後頭部に何か硬い物が当たった。油断していただけに驚かされて、彼は悲鳴を上げて首を竦めた。
 実際はそれほど痛くなかったものの、他に言葉が出て来なかった。突然の叫びに堀川国広も目を丸くして、手を休めて首を傾げた。
「兼さん?」
「ぼんやりしない、そこ」
「いってーな。なにすんだよ、二代目」
「君こそ、そこで何をしていたんだい。二桁」
 怪訝にする堀川国広の膝元に、人参の蔕が転がっていた。それは少し前までここになかったものであり、どこから、誰が飛ばしたのかは明白だった。
 近くに行って注意するのを面倒臭がり、歌仙兼定が投げたのだ。思いがけない攻撃を受けた太刀は小鼻を膨らませ、言い返せなくて奥歯を噛んだ。
 目の前で展開される軽妙なやり取りに、堀川国広は噴き出しそうになったのを必死で堪えた。
 砂で汚れてしまった食材の断片を手に取って、凹凸のない美しい断面に頬を緩める。相変わらず見事だと感心するが、和泉守兼定の前で口にするのは憚られた。
 兼定の銘を持つ刀同士ではあるが、そこのふたりは打たれた時期も、刀工も、別人だった。
 名工と誉れ高い二代目兼定、通称之定の作である歌仙兼定に対して、和泉守兼定はどうにも気後れしているとでも言うか、苦手意識があるようだった。
 なにかと評価の高い古刀に対し、新々刀である自身に劣等感のようなものを抱いている。それを誤魔化そうとしてか、彼は頻繁に、自分は格好いい、強くて優れていると主張した。
 わざわざ口にしなくても、彼は充分格好いいし、実力だって他に比べて遜色ない。太刀としては少々子供っぽさが残るものの、そういう未熟な部分も併せて可愛いと、堀川国広は常々思っていた。
 兼定たちのやり取りはまだ続いており、口論は次第に熱を帯びていた。しかしどうやっても勝てなくて、和泉守兼定は悔しそうに唇を噛んだ。
 半泣きで拗ねる顔が、短刀たちとまるで同じだ。
 ついに我慢出来なくて、首を竦めてケラケラ笑っていたら、黒髪の太刀はばつの悪い顔をして頭を掻いた。
 長い髪をぐしゃぐしゃにして、舌打ちしたかと思えば笊に手を伸ばした。勝ち目のない喧嘩を止めて作業に戻って、相変わらず不満そうではあるけれど、莢からえんどう豆を取り出しにかかった。
 堀川国広に笑われて、毒気が抜けた。台所で暴力沙汰は危険だし、そもそも歌仙兼定に口で敵うわけがなかった。
 ぼんやりしていたのは、否定できない。
 諦めて莢の背を開いて、彼は出てきた三つ子を掌に転がした。
「ていうかよ、これ、なにに使うんだ?」
 薄皮を被っている豆を小突き、笊に移して訊ねる。
 正面にいた堀川国広は意外そうな顔をして、瞬きを三度連発させた。
「言わなかった?」
「またそれかよ」
 てっきり教えたつもりでいた脇差に、太刀は渋面を作った。少し前の騒動が蘇って、表情はとても嫌そうだった。
 前回は完全に聞きそびれていたが、今回は違う。
 本気で知らされていないと強気になって訴えれば、本丸最古参の打刀がククッ、と押し殺した声を漏らした。
 肩から上だけで振り返れば、藤色の髪が小刻みに震えていた。
「ああ?」
 今日は、笑われてばかりだ。
 反発して牙を剥けば、堀川国広までつられて腹を抱え込んだ。
「はは。ごめん、ごめん。兼さん。そういえば言ってなかったね」
 記憶をじっくり精査して、和泉守兼定が正しかったと詫びを入れる。しかし目元は綻び、頬も緩んで、本気で申し訳なく思っているかどうかは怪しかった。
 高めの声で謝罪されても、少しも嬉しくない。
 不貞腐れてぶすっとしていたら、堀川国広は余計に笑って背中を丸めた。
「国広」
「ごめん、ちょっと、待って。苦しい」
 そんなに笑える事だっただろうか。
 和泉守兼定としては、ちっとも楽しくない。臍を曲げて口を尖らせて、右膝を立て、彼はそこに頬杖をついた。
 憤然としながら言われた通り待ち、退屈しのぎにえんどう豆を剥く。
 随分前に散らしてしまった莢も集めて笊に載せて、彼はひぃひぃ言っている相棒にため息を吐いた。
「悪かったな、二桁で」
「拗ねないでよ、兼さん。……ごめん、まだ無理」
 腹が引き攣って苦しいと、宥めようと試みた堀川国広が白旗を振る。その態度がなにより人を馬鹿にしていると、本人は気付いていないようだった。
 まったくもって、面白くない。
 発端となった歌仙兼定にやり返したい気持ちは満載で、和泉守兼定はない知恵を絞って唸った。
 彼をひと泡吹かせるとしたら、どうすればいいだろう。
 闇討ちはあまりにも卑怯だし、そもそも本丸内での抜刀は禁じられている。あまり子供っぽい仕返しはみっともなくて、程度の低い悪戯の類は避けたかった。
 そうなると、面と向かって勝負を挑むしかない。
 けれど歌仙兼定と和泉守兼定の間には、致命的なまでの練度の差が存在した。
 審神者が歴史修正主義者の討伐を開始した当初から、あの男は本丸に居る。秋の終わりに屋敷に連れて来られた和泉守兼定とは、熟達度にかなりの開きがあった。
 太刀と打刀とはいえ、勝てる保証はない。
 否、九割九分の確率で、あちらが勝利を得るだろう。
 惨めに床に倒れ伏す己の姿を想像して、和泉守兼定はがっくり肩を落とした。
 他に勝ち目があるとしたら、身長くらいだろうか。
「見た目は、俺のが絶対上だと思うんだけどなあ」
「兼さん、どうしたの。なんだか怖いよ?」
「なあ、国広」
「なに?」
 あれこれ悩みつつ、合間にぶつぶつ呟いては目を泳がせる。
 真向いに座る堀川国広に挙動不審ぶりを指摘されて、手を休めた太刀はぽん、と膝を打って身を乗り出した。
 土間を上がった先では、歌仙兼定が上機嫌に料理を続けていた。
 湯通しした野菜を、温かいうちに擦り潰し、粉に水を足して練った生地に混ぜていく。どうやら好き嫌いが多い短刀たち向けの甘味らしく、黄色に赤や緑と、見た目は華やかだった。
 子供たちだけ狡いと思いつつ、口には出さない。
 あれを丸める作業の方が、豆を弄るよりも楽しそうだった。
 実際、歌仙兼定は楽しんでいた。上機嫌だと分かる表情を気付かれないよう盗み見て、長髪の太刀は細い眉を真ん中に寄せた。
「二代目ってよ、確か三十六人斬ってんだよな」
「また随分、話が飛んだね。確か、そういう理由だっていうのは、聞いてるよ」
 細川の打刀命名の逸話は、なかなかに血腥いものだ。短気を働かせた前の主人が家臣をその数だけ斬ったので、三十六人という数字にちなみ、名付けられたのだとか。
 その由来の通り、あの男は戦場でも目覚ましい活躍を見せていた。躊躇せず敵を斬り伏せ、戦いそのものを愉しんでいる雰囲気さえ感じられた。
 三十六人どころか、もっと殺している気がする。
 嬉々として歴史修正主義者に襲い掛かる男の狂気は、共に戦う者たちにさえ、並々ならぬ恐怖を抱かせた。
 本丸の台所で料理に勤しんでいる姿からは、とても想像がつかない。
 本当に同一人物かと疑って、和泉守兼定は笊の中の豆を掻き混ぜた。
「んじゃあよ。もし、もしもだぜ。あいつが、じゃあ、三十七人殺してたら、なんて名前だったんだ?」
「……兼さん……」
 余所を見ながら、ぼそりを呟く。
 降って沸いた疑問に堀川国広は頬を引き攣らせ、何故か憐みを含んだ眼差しを投げて来た。
「もしかして、疲れてる?」
「なんでだよ」
 おそるおそる訊ねられて、和泉守兼定は自分の膝を叩いた。ぱしん、と音を響かせて、妙な心配をしている相棒に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 歌仙兼定は、三十六歌仙にちなんで名づけられた。
 もし細川忠興が斬った家臣が三十七人だったなら、その名前にはならなかったはずだ。
 歴史に介入して、試してみようか。
 悪い考えが浮かんで、すぐに吹き消して、彼は苦笑している堀川国広から目を逸らした。
 背筋を伸ばし、仰け反って、団子作りに励んでいる男に直接問い質す。
「なあ、二代目」
「なんだい、喧しいね」
「あんたさ、もし三十七人斬ってたら、どうなってた?」
 せっかちな性格を動員して、和泉守兼定は声を高くした。率直に訊ねて返答を求め、山盛りの莢の笊にまたも手を突っ込んだ。
 今度は吹き飛ばさず、真ん中で押し潰し、待つ。
 どんな面白い回答が飛び出すかわくわくして、子供みたいに目を輝かせる。
 期待の眼差しを一身に浴びて、歌仙兼定は丸め終えた団子を皿に並べた。
「なにを言っているんだ、君は」
「ああ? だから、あんたが」
「そこまで馬鹿だとは思わなかったよ」
「だから、もしもの話だっつってんだろ!」
 どうして堀川国広といい、歌仙兼定といい、話を膨らませようとしないのだろう。
 既に起きた出来事をあれこれ掘り返しても、事実は覆らない。
 仮定の話をしても意味などないと割り切っている刀たちに、和泉守兼定は声を荒らげた。
 ありもしなかった展開を夢見ても、後で虚しいだけ。
 函館の地で堀川国広を止めたのは他ならぬ彼であり、考えないよう釘を刺したのも彼だ。
 けれど今は、歴史介入は関係ない。
 こんなにも非難される謂れはないと拗ねて、見た目に反して幼い太刀はぶすっと頬を膨らませた。
 まるで可愛くない表情に、少しだけ哀れみを覚えた。
 相手をしてもらえなくて臍を曲げた彼に肩を竦め、歌仙兼定は手に振っていた白い粉を叩いた。
「三十七人、ねえ」
 そんなこと、考えたことなどなかった。
 細川忠興も、織田信長ほどではないにせよ、妙な名前を刀に付ける男だった。もし本当にひとり多かったとしたら、どのような名が与えられていたか、まるで想像がつかなかった。
 そもそも三十七という数に呼応するものが、なにかあるのだろうか。
「なにも、思いつかないな」
 三十三であれば、西国巡礼。或いは京都の三十三間堂が思い浮かんだ。
 三十四なら、秩父の観音めぐり辺りだろうか。
「いいんですよ、歌仙さん。真面目に取り合わなくて」
「国広、お前、今日やたらひどくねーか」
「そんなことないよ。それより、兼さん。さっきから手が御留守だよ」
 えんどう豆は、まだまだ大量に残っている。
 早く莢から出してしまわないと、夕餉に本当に間に合わない。
「美味しい豆ごはん、いらないの?」
「なんだ。今日の晩飯はそれか」
 無駄話より、こちらが大事。念を押した堀川国広に諭されて、ようやく献立を知らされた太刀は緩慢に頷いた。
 とはいえ、表情は優れない。納得がいっていないのは、歪められた口元が証明していた。
「お前は、なんか思い当たるもんねーの?」
 しつこく食い下がられて、笑うしかない。
 仕方なく頭を捻ってみた堀川国広だったが、残念ながら彼の記憶にも、その数字に関する顕著な例は宿っていなかった。
 名前に出来るくらいに有名で、広く知れ渡っている事例が、あるのか。
「いっそ四十七人だったら、討ち入りできるのによ」
「また、極端な」
 赤穂藩士が主君の仇討を行った話を持ち出して来られて、聞いていた堀川国広は呆れて肩を竦めた。
 そもそも元禄赤穂事件は、江戸幕府五代将軍綱吉の時世の出来事だ。細川忠興が活躍した時代からは、かなり隔たっていた。
 いくらなんでも、これを命名の由来にするには無理がある。
 そう言えば和泉守兼定はしばらく黙り、ぽん、と手を打って人差し指を立てた。
「八十八で、茶筅兼定なんてのは、どーよ」
「そこ。聞こえているよ」
 ならばと他の数字を当てこめば、駄洒落は本人の耳にも届いていた。
 機嫌を損ねた声で割り込まれて、和泉守兼定は苦笑しつつ、首を竦めた。
 堀川国広もつられて小さくなって、無邪気な太刀に顔を綻ばせた。
「僕の名前で遊ばないでくれないか」
 一方で歌仙兼定は不満たらたらで、面白くなさそうだった。
 前の主からもらった名前だから、大切に思っているのだろう。それを玩具にされたのだから、不快感を示すのも道理だった。
「へーへー。どうもすみませんねえ」
「まったく」
 一度は話に乗ってみたものの、やはり不愉快だった。
 反省の色が見えない太刀をひと睨みして嘆息して、歌仙兼定は窓から見えた人影に肩の力を抜いた。
 気持ちを入れ替え、勝手口から現れた短刀に相好を崩す。大人しくえんどう豆を剥く作業に戻っていたふたり組も、振り返って顔を綻ばせた。
「水やり、ご苦労様」
「うん」
 代表して歌仙兼定が労いを口にすれば、小夜左文字は緩慢に頷いた。被っていた笠は屋内では邪魔なだけで、結んでいた紐を解き、頭から外して壁へと立てかけた。
 内番着に張り付いた土埃は土間で落とし、汗ばんでいた額を手首で拭う。それから茣蓙に鎮座する和泉守兼定、堀川国広を順に見て、最後に山盛りの莢付きの豆に肩を落とした。
「手伝おう」
 作業がまるで進んでいないと、それだけで判断したようだ。
 おおよそ子供らしくない悟った口調で告げられて、よく喋る太刀はかあっ、と顔を赤くした。
 馬鹿話ばかりしていて、まるで手が動いていなかった。
 外見と中身が比例していないとはいえ、見目幼い子供に蔑まれ、和泉守兼定は引き結んだ口をもごもごさせた。
「ちぇ」
「ありがとう、小夜君。一緒にがんばろ」
「よろしく頼む」
 但し役に立っていないのは本当なので、文句も言い辛い。
 堀川国広は頼りになる少年の登場に目尻を下げて、場所を提供しようと腰を浮かせた。
 後ろに位置をずらし、茣蓙の角ぎりぎりのところに座り直す。小夜左文字も土間の隅に積まれていた笊をふたつばかり取り、重ねて運んで来た。
 草履を脱いで茣蓙に登った少年を一瞥して、和泉守兼定はちらりと後方を窺った。間食用の菓子を作る歌仙兼定は相変わらずだったが、先ほどよりも心持ち、機嫌が良さそうだった。
「分かりやっす」
 台所にふたりだけだった時は、むっつり不機嫌そうだった。語る言葉にも棘があって、ちくちく刺さって痛かった。
 それが、小夜左文字の登場で一変した。本人に自覚はないかもしれないが、うきうきしているのが傍から見ていても感じられた。
 この無愛想な子供の、どこが良いのか。
 胡乱げな眼差しで右前方に視線を流せば、偶然にも目が合い、短刀に首を傾げられた。
「僕の顔に、なにかついているか」
「でっけー目ん玉が、ふたつ」
「……ああ。鼻と口もだな」
 怪訝にされて、愛想なく言う。すると小夜左文字は、意外にも話を合わせて来た。
 淡々とした口調ながら、戯言に乗って来た。珍しいこともあるものだと驚いて、和泉守兼定は抓み取ろうとしたえんどう豆を落とした。
 ぴゅっ、と莢から飛び出した豆が茣蓙を転がって、堀川国広の膝に当たった。地面に転がるよりは良いと判断したか、彼は小振りの珠を摘むと、ひょいっと投げて笊に入れた。
「人参?」
「ああ、これ?」
 その仕草を見送って、小夜左文字が眉を顰める。
 空色の瞳が見つめる先には、先ほど歌仙兼定が投げた人参の蔕が置かれていた。
 なぜそんな代物が、えんどう豆の中に紛れているのか。明らかに異質な存在へ疑問を抱いた短刀に、脇差は肩を竦めて苦笑した。
 もれなく見つめられた和泉守兼定は、気まずさを覚えて顔を背けた。
 両者のやり取りを視界の端に見て、小夜左文字は最後に調理場に顔を向けた。もれなく口元を押さえている男が見えて、それで大体の流れは把握出来た。
「ああ」
 誰も、なにも言っていないのに、納得して頷く。
 聡い少年に和泉守兼定は不貞腐れた態度を取り、脚を崩して胡坐を作り直した。
「悪かったな。どうせ、俺は手が遅いよ」
「僕はなにも言っていない」
「うっせ」
 勝手に拗ねて、勝手に怒って、不機嫌になった。
 癇癪をぶつけられた小夜左文字は釈然としない様子で呟いて、唾を飛ばされて肩を竦めた。
 今はあまり、刺激しない方が良さそうだ。堀川国広に目配せされて首肯して、短刀は山盛りのえんどう豆を引き寄せた。
 足を揃えて座り、膝の上に空の笊をひとつ置く。もうひとつは傍らに据えて、ぷち、ぷち、と豆を莢から弾き飛ばした。
 力加減と角度を調整しているので、豆粒が笊の外へはみ出ることもない。中身が失われた莢は左の笊にまとめられ、右手はその間、堀川国広が枝から千切った房へと伸ばされた。
 流れるような作業を見せられて、その熟達度に唖然とする。
 和泉守兼定は口をぽかんと開けて、間抜け面を作った。
「ほら、そこ。置物兼定になってるよ」
「だっ、あ……うるせーよ。この、茶筅兼定」
 そこに歌仙兼定が茶々を入れて、太刀の顔は茹蛸並みに赤くなった。
 名前で遊ばれた件を、まだ根に持っていたらしい。咄嗟に言い返して拳を振り上げた男に、唯一状況が分からない小夜左文字は目を丸くした。
「なんの話だ?」
 いつの間に改名したのかと真に受けて、肩を震わせている堀川国広を見て冗談だと知る。
 奇妙な悪口の応酬に緊張を解いて、少年は少し元気になった和泉守兼定を見詰めた。
 目で問われた男は不遜に笑い、憤然としている打刀を指差して白い歯を見せた。
「いや、よぉ。あいつがもし、八十八人殺してたら、って話でさ」
「ああ、そういう」
 歌仙兼定は三十六人殺しだから、歌仙兼定。
 八十八夜は茶摘みの時期なので、茶道具を引きあいにした、ということだ。
 なかなか洒落が利いている。理解して、小夜左文字は気の抜けた笑みを浮かべた。
「小夜、その男の戯言に付き合ってやることはないよ」
 もっとも槍玉にあげられた方は、面白くない。失礼だと腹を立てて、語気を強めた。
 不機嫌を隠しもしない打刀に首を竦め、短刀は止まっていた手を動かした。
 ただ、一度知ってしまった情報は、なかなか頭から抜けて行かない。
 不意を突いて思い出されて、小夜左文字は噴き出しそうになったのを堪えた。
「八十八は、多いな」
「小夜」
「やっぱそうかあ。けどよ、三十七になんか良いの、あるか?」
「そう急に言われても。……三十七道品、くらいしか」
 ぼそりと言えば、耳が良い男に拾われた。それに覆い被さる形で太刀が調子に乗って口を開き、三十六に一足した数字に短刀が答えた。
 一瞬考えて、豆を笊に落とす。
 三人揃っても文殊の知恵とならなかった面々は、あっさり言われて目を丸くした。
「なんだ、そりゃ」
 小夜左文字以外誰も、三十七に関する事柄が思いつかなかったのに。
 あるじゃないか、と内心感心して、続けて沸いた疑問は和泉守兼定が代表して述べた。
 初耳だと言わんばかりの顔を見せられて、袈裟で戦場へ出向く少年は緩慢に頷いた。
「仏法の、修行法。悟りを、得るための」
 四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道。
 それらを合計すれば、三十七。
 とはいえ、その内容が具体的に定められているわけではない。あくまで観念的なものであり、道徳的な決まり事でしかなかった。
「へえ。小夜君、物知りだね」
「……べつに」
 巧く言えないながらもたどたどしく説明した彼に、堀川国広は感心して頷いた。和泉守兼定も似たような顔をして、成る程、と呟きながら顎を撫でていた。
 歌仙兼定はといえば、微妙に苦い表情をしていた。
「んじゃあ、あの野郎。もしかしたら道品兼定だったかもしれねえのか」
「やめろ。勝手に決めてくれるな」
「三十七人殺しといて、悟りを得るっつーのは、すげー皮肉だなあ、おい」
「だから、僕は歌仙兼定だ!」
 嘲笑い、和泉守兼定が声を高くする。
 上機嫌に言い放った太刀に激昂して、我慢ならなくなった歌仙兼定が思い切り調理台を殴った。
 ゴンッ、と凄まじい音がした。上にあったものが揺れて、数枚並んでいた皿がぶつかり合ってカチャカチャ鳴り響いた。
 ひっくり返りはしなかったものの、団子がひとつ、角から零れ落ちた。
 綺麗な球体が、白い粉散る天板を転がった。抓みあげられたそれは最終的に、歌仙兼定の口に放り込まれた。
 むすっとしながら咀嚼する姿は、相当頭に来ているようだった。腕組みもして踏ん反り返って、皆に背を向けて立つ様は子供じみていた。
 臍を曲げた打刀に対し、太刀はげらげら笑っていた。初めて口で勝ったとご満悦で、本気で嬉しそうだった。
「君の夕餉だけ、豆は抜いておくよ」
「ちょっと待て。俺が剥いた奴だぞ」
 それが尚更悔しくて、歌仙兼定がやり返す。
 台所当番なのを逆手に取った主張に、聞き捨てならなかった和泉守兼定は拳を振り上げた。
 このふたりは、なにかと口論が多い。反発し合って、まるで水と油だった。
 放っておいたら、台所の雰囲気はどんどん悪い方向に転がっていく。
 適当なところで終わらせないといけなくて、小夜左文字は間を計って両者を見比べた。しかし堀川国広が先に割って入り、管を巻く和泉守兼定をあしらった。
「もう、兼さん。あんまり人の名前で遊ぶの、よくないよ」
「お前だって散々笑ってたじゃねーか」
「そんなことないって。それより、ほら、全然進んでないんだから」
「どっちの味方なんだよ、国広さんはよぉ」
「はいはい。怒らない、怒らない」
「お前、なに――ぎゃあ!」
 慣れた調子で太刀を宥め、緑の塊を抱きかかえる。目を細めて優しい顔をして、空っぽには程遠い笊目掛け、莢入りのえんどう豆を追加で注ぎ込む。
 一瞬にして終わりが遠退いて、野太い悲鳴が上がった。がっくり肩を落として項垂れる和泉守兼定に相好を崩して、脇差は無邪気に握り拳を作った。
「がんばろうね、兼さん」
 朗らかに言って、場を仕切る。
 屈託ない笑顔を向けられて、怒るに怒れなかった太刀は渋々ながら頷いた。ぶつぶつ文句を言いつつも大人しく莢を剥き始めて、腰を浮かせていた小夜左文字は茣蓙に座り直した。
 居住まいを正し、背筋を伸ばす。
 視線を感じて顔を上げれば、目が合う直前、歌仙兼定がふいっ、と背中を向けた。
 あそこにも、面倒臭い大人が残っていた。
 忘れていたと肩を竦め、年嵩の短刀は張りのあるえんどう豆を掌に転がした。
 畑の畦に根を張って、光を浴びてすくすく育っていた。
 横向きにして鼻の下に重ねれば、ちょび髭のように見えなくもない。前に厚藤四郎がそうやって遊んでいたのを思い出して、小夜左文字はクスリと笑みを零した。
「歌仙は、今の名前が一番似合っていると、思う」
「小夜坊?」
「だろう。之定?」
 その昔、あの刀には固有の名がなかった。
 人前では滅多に披露しない呼び名を口ずさみ、怪訝にする和泉守兼定を無視して問いかける。
 臍を曲げていた男はそれで渋々振り返って、ずっと組んでいた腕を解いた。
「茶を煎れよう。休憩だ」
 子供に窘められて、意地を張っていたのが急に恥ずかしくなったのか。
 照れ臭そうに言って誤魔化し、打刀は藤色の髪を掻き回した。

2015/07/12 脱稿