弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど
一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず
歌声が空に溶けていく。
それはのびやかで、華があり、美しく、それでいて儚げだった。凛としていながら艶やかで、郷愁を誘い、聞く者がこぞって涙するような彩があった。
朗々と響き渡り、風に乗って遠く、どこまでも流れていく。
身体に振りかかる振動をものともせず、喉に息を詰まらせる事もなく。
滔々と流れる水の如く、軽やかな音色はいつまでも続くかに思われた。
「その歌、止めないか」
「……退屈なら歌でも歌っていろ、と言ったのは、貴方でしょう」
だが、それは不意に途絶えた。胸元から発せられた呻き声に眉根を寄せて、宗三左文字は不愉快だと顔に出した。
唄うのを止め、口を尖らせる。
嘆息混じりの苦情は相手にしっかり伝わって、歯を食い縛っていた男は抗議するかのように身を揺らした。
「危ないじゃないですか」
激しく振り回されて、宗三左文字は慌てて広い背中にしがみついた。逞しい肩に両手を乗せて、振り落とされないように強く握りしめた。
履物を脱いだ足が左右で踊り、絡まっていた数珠が擦れ合って音を立てた。
それもまた、非難めいた音に聞こえたのだろう。
華奢な打刀を背に負ぶって、男は朽葉色の髪ごと頭を振った。
目に入ろうとしていた汗を散らし、崩れかけた体勢を整え直す。短い間隔で息を吐いて、最後に深呼吸して、気持ちも、身体の熱も鎮めようとする。
地面に届かない己の爪先を眺めて、宗三左文字は小さく肩を竦めた。
「自分で歩けます」
彼らの足元に広がるのは、耕作を放棄された、荒れ放題の原野だった。
雑草が生い茂り、どこが道だったのかも分からない。戦火の名残はそこかしこに見受けられて、乾ききった牛の骨が無残だった。
屍肉を啄む鴉の鳴き声は喧しく、それ以外に響く音はない。日暮れが迫って空は紫紺に染まり、斜めに伸びる影は太く、長かった。
見晴らしは良く、遠くにそびえる山の稜線まではっきり見えた。
それはもれなく、敵側からも発見しやすいという事に他ならない。身の安全を思うのであれば、一刻も早くこの地を離れるべきだった。
だというのに、この二人は随分ともたもたしていた。周囲を警戒すべきところだというのに歌など口遊んで、まるでその辺を散歩しているような雰囲気だった。
しかも宗三左文字は、男に負ぶわれていた。
背丈は、彼の方が若干高い。だが体格は、背負っている方が圧倒的に優れていた。
肩幅は広く、胸板は厚い。引き締まった腕は背負う荷物を落とさぬよう、白くて細い腿に絡められていた。
力加減を誤ると、脚の方が折れてしまいそうだ。それくらいに脆弱で、骨に皮が張り付いているだけの部位を一瞥し、へしきり長谷部は鼻息を荒くした。
「冗談を言うな。その足で、どうする気だ」
腹に力を籠め、低い声で唸る。
緩みかけていた歩みが再開されて、宗三左文字は呆れた顔で空を仰いだ。
意地っ張りで、強情で。
こうと決めたら頑なに譲らない――喩えそれが間違った道だとしても。世界に対して目を瞑っている、愚か極まりない決断だとしても。
己の全ては、主君の為。
主の命であるならば、なにがなんでも成し遂げてみせる。
愚昧なまでの盲信ぶりには、吐き気しか催さない。だがその裏に隠された劣等感を思えば、この男は充分過ぎるほどに、同情するに値した。
「われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ」
「だから、止めろと言っている」
意地でも降ろすつもりはないらしい。
その独善ぶりに一頻り呆れて、宗三左文字は構わずに続きを諳んじた。
「霜雪霰降る水田の鳥となれ」
拍子を取り、伸びやかに口遊む。
自分を押し通そうとするのは、彼もまた同じだ。言っても聞かない男の歌声に、へしきり長谷部は忌々しげに舌打ちした。
もっとも先に言われた通り、唄えと命じたのは彼だった。
歴史改変主義者との戦に出て、進軍は順調だった。
この調子なら敵を全て撃破して、夕刻には本陣に帰還できる。誰もがそう、信じて疑わなかった。
けれど、そうはならなかった。広大な平原で異形を成す者たちと刃を交えていたその時、突如として空間が捩れ、第三者が戦場へと降り立った。
検非違使だ。
いつもなら敵陣と遭遇した直後に現れる奴らが、この日に限って合戦中に出現した。前代未聞の事態に戦列は乱れ、状況は一変した。
敵味方が入り乱れる混戦となり、陣形の維持は不可能だった。側面からの攻撃に指令系統が分断されて、気が付いた時にはもう、連携は途絶えていた。
本陣からはぐれ、敵に囲まれた。多勢に無勢の事態に勝機などありはせず、命からがら逃げだすのがやっとだった。
あの時、たまたまへしきり長谷部が宗三左文字の傍に居て。
宗三左文字は偶然か否か、へしきり長谷部が居る側に活路を見出した。
第一部隊に配属されていた、他の刀剣男士がどうなったかは、はっきりしない。今はただ、無事であるのを祈るばかりだ。
「どこへ行くつもりです?」
「…………」
不安を拭いきれない胸中を気取って、唄うのを止めた宗三左文字が静かに訊ねた。
へしきり長谷部は沈黙でこれに答え、重くてならない一歩を大地に刻み付けた。
辛うじて戦場を脱出したふたりだったが、決して無事だったわけではない。手傷を負わされ、あちこちから血が出ていた。宗三左文字に至っては道中派手に転び、右足首を捻っていた。
数珠が絡む右足は赤黒く濁り、倍近くに膨らんでいた。
無事な左足と比べれば、その違いは明らかだった。とてもではないが、立って歩くなど出来そうになかった。
喋っている時間と体力があるなら、少しでも安全な場所へ避難する事に使いたい。
そういう意志が、荒い呼吸を繰り返す男から感じられた。
是が非でも下ろすものかという想いも汲み取れて、宗三左文字は諦めて四肢の力を抜いた。
「どうした」
「いいえ、別に」
寄り掛かられて、へしきり長谷部が突如口を開いた。
振り向きもしない事務的な問いかけに半眼して、生臭坊主の青年は素っ気なく吐き捨てた。
袈裟など身に着けてはいるけれど、彼は祈る仏など持たない。経文を唱える事もなければ、そこいらに転がっている骸を悼んで祈りもしない。
草葉の陰に見付けた野武士の死骸を蔑んで、宗三左文字は黙々と歩く男のうなじを眺めた。
死角でもある背中を預け、急所たる頸部を平然と晒している。
ここで宗三左文字が刀を抜き、一閃をくれると考えもしない。
なんと間抜けで、愚かな刀だろう。
心の中でひたすら嘲り笑い飛ばして、彼は気取られぬよう嘆息した。
「いいんですよ。置いていってくれて」
敵の攻撃を振り切るのに必死で、どこをどう逃げたのか、彼らは一切記憶していなかった。
審神者の力によって時代を遡る彼らは、逆を言えば、審神者がいないと元の場所へ戻れないということだ。仲間たちと暮らす本丸は此処とは異なる時代に存在し、闇雲に歩いたところで辿り着けるわけがなかった。
いったいどういう理屈で、このような不可解な事象が起こり得るのか。
一介の付喪神でしかない刀剣男士に知る術はなく、探りを入れる事さえ許されていなかった。
命じられるままに敵を屠り、その刀身を赤く血に染める。
刀でしかなかった頃と何も変らない状況にため息を積み重ね、宗三左文字はへしきり長谷部の首筋をツ、となぞった。
中央部を尖らせた爪で、皮膚に薄い筋を刻みつける。
確かな意思を持って触れられた男は、その瞬間ピタリと足を止めた。
「僕がいては、邪魔でしょう?」
反応があった。そのことにまず歓喜して、彼は言葉を重ねて口角を持ち上げた。
不遜に笑い、へしきり長谷部の心を擽る。
実際、宗三左文字は彼のお荷物でしかなかった。
転んだのは、完全な不注意だった。先を行く男から引き離されないように必死で、足元に気を配る余裕などなかった。
そもそも宗三左文字は、あまり足が速くない。攻撃力も低く、非力さは群を抜いていた。
そんなひ弱な打刀を戦場に連れ出した、現主である審神者の気が知れない。
まさか戦列に検非違使が乱入しようとは、審神者も考えていなかっただろう。それでも可能性がなかったわけではなく、いずれこうなると予測して然るべきだった。
この場に居ない者を咎めても、一文の得にもならない。
ならばへしきり長谷部の言うように、一刻も早く安全な場所を見つけ出し、身体を休め、傷を癒して機が熟すのを待つべきだ。
分かっている。だのに、言わずにはいられなかった。
真っ直ぐ前を見据えたままの男の襟足を撫でて、宗三左文字は甘い蜜たっぷりの言葉を舌に転がした。
「さっさとその腰のもので、僕をへし切ってしまいなさいな」
ふたりで逃げるより、その方が圧倒的に速く、確実だった。
宗三左文字は足を負傷して、思うように動けない。はぐれてしまった審神者と合流を果たし、無事帰還したいと願うなら、体力の浪費は避けた方が賢明だ。
非常事態なのだから、主もきっと許すだろう。
偽善者を気取るくらいなら、さっさと本性を露わにすればいい。元持ち主の気性の荒さを発揮して、一思いに首を落とせば良い。
蠱惑的な声色で、闇に惑う心を誘う。
自分自身の命がかかっているというのに、宗三左文字はまるで他人事だった。
興味ないとでも言いたげに、軽く扱って、天秤を傾けようとする。
もとより、己の好きなようになった例がない刀だ。彼は戦利品として召し上げられ、短く磨り上げられた挙句に刻印を刻みつけられ、以後刀身にではなくその文言にのみ価値を見出された刀だった。
人を斬る、という根本的な刀剣の目的から逸脱し、希有なものとして重宝された。戦になど出してもらえるわけなどなく、使われることもなく、ただ飾られて、見世物にされて。
耐え難い屈辱だった。
しかし魔王の銘以外の価値が自分にない事も、宗三左文字は理解していた。
大事にされるのは、何物にも代え難い刻印をその身に宿しているから。
だから二度の大火に襲われても再刃されて、権力者の手元に残された。
傾国だと囁く声もあるけれど、実際はそんな大層なものではない。
宗三左文字に出来る事といえば、せいぜい所有者に媚を売り、程よく悪態をつくくらいだ。
「どうしたのです、へしきり」
さっきからずっと足が止まっている。
挑発を繰り返しながら嘲笑って、彼は無言を貫く男の後頭部を打った。
小気味よい音はしなかった。へしきり長谷部は頭を垂れて顎を軋ませると、何かに堪えて肩を震わせた。
そして。
「長谷部だ!」
やや唐突に、宗三左文字が想像していなかった怒号で応じた。
怒るべきは、そこなのか。魔王の愛刀は呆気に取られ、ぽかんとしながら目を瞬いた。
絶句していたら、吼えて気が済んだらしい。へしきり長谷部は咳払いを二度繰り返すと、邪魔なお荷物でしかない男を背負ったまま動き出した。
両腕は剥き出しの白い膝を抱き、放そうとしない。やや前傾姿勢で落とさないよう配慮を忘れず、生い茂る草を踏み分けて道なき道を突き進む。
魔王から惜しげもなく、直臣以外の男に下げ渡された事を未だ恨み、事あるごとに口にして。
過ぎたことに未練たらたらで、女々しいくせに、変に意固地で、強がって。
主に忠誠を尽くしていれば、主は愛し返してくれると信じている。どこの馬の骨とも分からない審神者に執心して、他の刀剣より優れているところを見せようと必死だ。
ならば彼のこの行動も、審神者に取り入る為にひとつの手段なのか。
宗三左文字は魔王の刻印を持ち、時の権力者の間を渡り歩いてきた。多くの者に愛でられ、珍重されて来た刀だけに、審神者にとっても失い難いひと振であるのは疑う余地がない。
直接問うたことはないけれど、あの者も、その他大勢の権力者と同じだ。
こうやって天下の一刀を戦場に放り出しこそすれ、手元に戻って来なければ、惜しく思うことだろう。
籠の鳥であるのは、今も昔も、変わっていない。
左胸の髑髏に爪を立てて、宗三左文字はどこを目指しているのかも分からない男に瞑目した。
頭を垂れて、その逞しい肩に額を預ける。
「宗三?」
毒のあるこれまでの態度とは異なり、いやに淑やかで、大人しい。
変化を感じ取ったへしきり長谷部が軽く振り返って名を呼んだが、今度は宗三左文字が沈黙で応じる番だった。
辿り着いたのは、古びた一軒家だった。
戦火が迫っていると知ってか、家人はとうに失せた後だった。土間に六畳ばかりの板張りの部屋がひとつあるだけの狭い家は、小屋と言っても然るべき粗末さだった。
戸は屋外と繋がる一ヶ所だけで、空間を仕切る襖や壁といったものは一切ない。太い柱が中央付近にどん、と構えて屋根を支えて、土を固めただけの竈には蜘蛛が巣を張り巡らせていた。
家財道具はひとつも残っていなかった。打ち捨てられてから相当時が経っているらしく、傾いた戸を開けた際は埃が凄まじかった。
「今宵は、此処で休むとするか」
とはいえ、屋根と壁があれば夜露をしのげる。
充分有難いと肩の力を抜き、歩き通しだったへしきり長谷部は息を吐いた。
腕は鉛のように重く、脚は棒と化して久しい。あと少しでも小屋を見つけるのが遅ければ、屋外で力尽きていたかもしれなかった。
安堵感で胸を満たし、彼は大股で土間を横切った。一段高くなっている板敷きの間に運んできた荷を下ろせば、乱暴に扱われた宗三左文字は不満も露わに口を尖らせた。
「失敬な」
「喧しい」
文句を言うが、取り合ってもらえなかった。それで益々頬を膨らませ、桜色の髪の男は鼻と口を袖で覆った。
あまりの空気の悪さに顔を顰めるが、ここで嫌と言える立場でないのも承知していた。贅沢を言っている場合ではなく、それを望める状況でもなかった。
一喝されて黙り込み、首を竦めたまま薄暗い室内を見回す。屋根は蜘蛛の巣だらけで、床は塵に埋もれていた。
食べるものなど、当然残されていない。朽ちかけた竈の横に水瓶が置かれていたが、表面には罅が入り、中身は当然空だった。
転がっていた木桶は、持ち上げると箍が外れてしまった。バラバラになって落ちていく木片に力なく肩を落とし、へしきり長谷部は緩く首を振った。
柄杓のひとつも、縁が欠けた茶碗さえも見付からない。当然布団といった物があるわけもなく、今夜は固い床で眠るしかなさそうだった。
焚き木に使えそうな薪すら残されず、藁束は湿っていた。陽が沈めば気温が下がるが、暖を取ろうにも燃やすものがなかった。
調度品を飾る棚もなく、生きていくのに必要最低限の空間しか用意されていない。かつて住んでいた人の名残は窺えず、その生活ぶりも想像し難かった。
「無事であれば、良いのだがな」
「なにがです?」
「ここに住んでいた者たちだ」
「ああ……」
結局、めぼしい物はなにもなかった。狭い小屋の中を隅から隅まで調べ終えたへしきり長谷部が呟いて、宗三左文字はその偽善ぶりに顔を背けた。
方々を逃げまどっている間、沢山の死骸を見た。
焼けた村を見つけた。無残に蹂躙された形跡が、そこかしこに残されていた。
けれど宗三左文字たちは、彼らを哀れまない。襲われている者たちを見つけても、一切介入しない。
出来ない。
奇跡的に生き延び、泣いている赤子を見つけたところで、その小さな手を握り返してやることさえ許されなかった。
歴史を変えてはいけない。それが審神者の出した唯一の条件であり、刀剣男士が絶対に守らなければいけない理念だった。
無事であろうと、なかろうと、人の世に介入出来ないのだから関係ない。
興味なさげに相槌を打った偽坊主を見詰め、へしきり長谷部は時間をかけて溜息を吐いた。
「痛むか」
会話が弾むことはなく、沈黙ばかりが続く。
仕方なく話題を切り替えて、彼は床の縁に腰かける男の足元で膝を折った。
根太を支持する床づかは、土間から一尺ほどの高さを維持していた。それが足を垂らすには丁度良くて、宗三左文字は部屋の奥へ行こうとせず、降ろされた時のまま動いていなかった。
本丸の縁側に腰掛けて、雨上がりの庭を眺めている姿が思い起こされた。遠くから眺めるだけに済ませた日をふと蘇らせて、へしきり長谷部は痛ましい色に染まった細い右足を取った。
「……っ」
瞬間、息を呑む音が聞こえた。悲鳴をあげぬよう堪えているのが窺えて、彼は赤黒く腫れた患部を手放した。
途端にほっとした気配が感じ取れて、その分かり易さに苦笑が漏れた。
「折れては、いないようだな」
もっとも、これだけで判断するのは早計だ。ちゃんと調べないと、手当ての仕様がなかった。
骨に異常があるか、ないかで、治療方法は大きく異なる。腫れが酷いようなら血を抜いた方が良い場合もあって、へしきり長谷部は思案気味に眉を寄せた。
「放っておけば、そのうち治りますよ」
改めて触れようとしたら、骨と皮ばかりの爪先がピクリと跳ねた。
新たな痛みを警戒し、怯えているのが見て取れた。強がりも良いところの台詞をぶつけられて、苦笑を禁じ得なかった。
「馬鹿を云う」
そんな意見、聞き入れられるわけがない。
状況を正しく理解出来ていないと鼻で笑い飛ばして、へしきり長谷部は左手で踵を包み込み、右手で爪先部分をぐっ、と奥へと押し込んだ。
「ぃあっ!」
宗三左文字の口からは、今度こそ絹を裂いたような悲鳴が上がった。背中を「く」の字に曲げて丸くなって、きつく閉ざされた眼の両側には深い皺が刻まれた。
薄い唇を噛み締めて、突如襲って来た激痛に耐えている。
そういう態度はいじらしく、健気ではあるが、普段の生意気さを思えば、憐みは起きなかった。
構うことなく右手首を捻れば、握ったままの足もそちらへ傾いた。
「う、っぁ……く、ぅ」
捩じられ、宗三左文字の顔が苦悶に歪む。色を失った肌には脂汗が浮かんで、眉は八の字に寄っていた。
それを暗がりの中で確かめて、へしきり長谷部は胸に生じた嗜虐心を踏み潰した。
これ以上はただの虐めだと反省し、五本並んだ小さな指を順に抓んで、動きに異常がないかを調べて終わりにする。
手を離してやれば露骨に安堵されて、そこで初めて、憐憫が生じた。
「骨に異常はなさそうだ。筋を痛めただけだろう。冷やした方が良いな」
医術の心得があるわけではなく、専門的な知識は持ち合わせていない。
聞きかじった程度の情報を総合して呟いて、彼はゆっくり立ち上がった。
土間に着けていた膝を起こし、背筋を伸ばして左を見る。そちらには彼らが入って来た戸が、傾いた状態で放置されていた。
宗三左文字も痛みを堪えつつ同じ方向を見て、瞬時に冴えた横顔を仰ぎ見た。
「長谷部」
「水を探してくる。人が住んでいたのだ、井戸か、川が近くにある筈だ」
ただでさえ青白かった顔色がもっと悪くなったが、へしきり長谷部は気付かなかった。隙間から外を窺いつつ告げて、振り返りもせず出て行こうとした。
直前、宗三左文字が名を呼んだ声さえ、ひとつのことに意識を向けた男には届かなかった。
真っ直ぐ前だけを見て、脇目も振らずに邁進して。
主に認めて貰うことだけに必死になって、周りからどう評価されても耳を貸さない。
見ようともしない。
伸ばされた柳のように細い腕が、虚しく空を掻いた。筋張った長い指は何も掴むことなく戻されて、力なく冷えた床板へと落とされた。
語る言葉をなくした唇を噛んで、宗三左文字はズキズキと痛む足をじっと見つめた。
「そうですか。どうぞご随意に」
散々弄り回された患部は熱を持ち、疼いていた。指先の痺れが神経を伝って広がって、捻った以外の場所まで腫れて来ていた。
肥大して重い心臓を外側から押さえこみ、薄紅色の衣で刻印を隠す。
衣擦れの音は聞こえた筈だが、へしきり長谷部は見向きもしなかった。
素っ気ない言葉で渦巻く感情を隠し、誤魔化す。どうせ分かってもらえないのだから訴えても無意味と、愚鈍極まりない男に唾を吐く。
けれど戸が開かれ、閉じられた時だけは、顔を上げずにいられなかった。
綺麗に閉まり切らない戸が立てた音に睫毛を震わせて、宗三左文字は自嘲気味に微笑んだ。
「かなり、痛みますね」
この熱は、どうすれば引いてくれるだろう。
水に浸す程度では癒えそうにない傷口に触れて、彼は膝に額を打ち付けた。
何故あの瞬間、へしきり長谷部の元へ駆け寄ろうとしたのか。
戦列が乱れ、陣形が崩れて収拾がつかなくなった時、守りを厚くすべきはその中心部だった。隊を率いる長を戦線から離脱させて、その後どう対処すべきかの判断を乞うのが最も妥当な判断だった。
しかし宗三左文字は、そうしなかった。
検非違使は、左翼を任されていたへしきり長谷部の部隊に、真っ先に攻撃を仕掛けた。横から予期しない敵に襲われた隊は瞬く間に崩壊して、全滅の憂き目に晒された。
あそこで宗三左文字が、部隊の一部を連れて駆けつけていなければ、最悪、彼は折れていた。再刃が利かぬくらいに粉々に砕けて、戦場に散っていた。
馬も失って、追撃を逃れて混戦が続く戦場とは逆方向に逃げた。へしきり長谷部は主を気にして戻ろうとしたが、宗三左文字が足を負傷したのが契機となり、安全な場所へ退避するのを優先させた。
怒っているか、それとも呆れているか。
刀が守るべきは主であるのに、それに背を向けさせた。彼の矜持を傷つけた自覚はあって、宗三左文字は力なく首を振った。
たいした力も持たない、見た目だけ重宝された刀に守られたのも、魔王織田信長由来の刀は不満だろう。
自分の身は自分で守れたと豪語されて、実際その通りだったから、返す言葉もなかった。
いっそこのまま、ここで果ててしまいたい。
「僕はね、長谷部」
咄嗟の判断を悔やむつもりはないが、巻き込んでしまった点だけは後悔があった。
途中で見捨てたりせず、辛抱強く付き合ってくれたのには感謝しかない。
けれどもう自由にしてやっても良いと思いながら、同時にひとりにしないで欲しいと願ってしまった。
戻ってこなかったらどうしよう、と。
置いていかれたらどうしよう、と。
何も掴めなかった手で肉の薄い脚をなぞり、不安を打ち消そうと目を瞑る。そのまま疲弊した身体に任せて意識を手放し、眠ってしまおうとした矢先だった。
「――っ!」
ガタガタッ、と大きな音が突然響いて、宗三左文字は弾かれたように身を起こした。
部屋の端に座ったまま背筋を伸ばし、音の発生源に顔を向ける。
陽の光を遮って立つのは大柄の、屈強な男だった。
逆光になった所為で、その顔は見え辛い。まさか追手かと身構え、腰の刀に手を伸ばそうとした矢先、肘で閉まりの悪い戸を押した男が大股で近付いて来た。
「寒いのなら、これでも着ていろ」
そうして藪から棒に言うと、着ていた上着を脱いで宗三左文字の肩に羽織らせた。
長い裾が風を受け、ふわりと膨らんでから沈んで行った。陣羽織を模した衣装の下は南蛮好みで、幾重にも折り重ねられた襞が一列に並んでいた。
白い手袋が喉の下に触れて、勢いを失った上着を押さえこんだ。肌蹴ていた胸元を隠された傾国の刀は目を丸くして、随分帰りが早かった男に絶句した。
「寒そうに、見えましたか」
「違うのか? 背を丸めていただろう」
あまりにも的外れなひと言に、驚きが隠せない。
惚けていたら己の勘違いを悟ったか、へしきり長谷部は気まずそうに目を泳がせた。
彼の視線の先には、格子窓があった。本来あるべき障子は剥がれ落ちており、外から中は丸見えだった。
それが丁度、へしきり長谷部の視線の高さに近かったのだろう。
身体を丸める宗三左文字の姿が見えたから、慌てて戻って来た。そういうところだ。
「貴様は、なかなか言おうとせんからな」
足を捻った時も、先ほどへしきり長谷部に苛められた時も。
宗三左文字は呻き声を数回あげただけで、「痛い」とは一度も口にしなかった。
弱音を吐くのは見苦しいと、我慢している。だがそれでは、本当に痛む場所が分からない。
見立て以上に傷の具合が悪かったと懸念して、急いで帰って来た。彼の心配は杞憂に終わったわけだが、色々と意外過ぎて笑い飛ばす気力も沸かなかった。
茫然としていたら、苦虫を噛み潰したような顔で小さく舌打ちされた。
「いいか。俺が戻るまで、絶対にここを動くな。勝手は許さんぞ」
ばつが悪いからか、早口に、命令口調で言って瞬時に踵を返す。頭ごなしの上から目線だったが、宗三左文字にはムッとする余裕がなかった。
言いたいことだけを言い残して、開けっ放しだったと戸から足早に出て行ってしまった。しかも戸を閉めるのさえ、忘れて。
それくらい羞恥心に襲われて、気が動転していたという事だろうか。
ああいう反応もあるのだと緩慢に頷いて、宗三左文字は隙間から吹き込む風に身を震わせた。
動きたくても、この足では走れない。
それくらい分かっているだろうに、釘を刺していった。消え去ることを望む感情を察知されたのかと勘繰って、彼はゆるゆる首を振った。
「あの男に限って、まさか」
へしきり長谷部に、相手を思いやる心があるとは思えない。単に思いつきで言っただけだと一笑に付して、宗三左文字は肩から背を覆う上着に指を絡めた。
これを羽織らされた時、自分はどんな顔をしていただろう。
思い出そうとするが、少し前の出来事なのに、いやに難しかった。
「まったく、汗臭いんですよ。これ」
仕方なしに思考を切り替え、鼻腔を擽る微かな匂いに悪態をつく。実際その衣は久しく洗濯されておらず、特有の体臭が染み付いていた。
どこぞの雅を尊ぶ男ではないが、香でも焚き付けておいてくれれば、少しは気持ちよく羽織れたものを。
文句は尽きることなく出て来たが、脱ごうという気は起こらなかった。それどころか逆に襟を握って、胸の前で腕を交差させた。
汗と脂と、血の臭いが混ざり合い、複雑な彩を形成していた。それは水を探しに出ていった男そのものであり、離れていても存在を強く意識させられた。
他に注意が向いた為か、足首の痛みが少しだけ和らいだ。
おかしなものだと自分を笑って、宗三左文字は身体を傾がせ、右肩を下にして床に伏した。
下半身は土間に垂らしたまま、腰を捻って横になる。貸し与えられた上着は彼の膝まで覆い隠して、十二分に暖かかった。
そんな訳がないのに抱きしめられていると錯覚させられて、変な感じだった。
「あまり、僕を甘やかさないでください」
へしきり長谷部は魔王が自らを手放したことを恨み、願わくは戻りたいと常々口にしていた。
宗三左文字は魔王によって見出され、その身に所有の証を刻み付けられた。本能寺でも傍に置かれ、状況が違っていれば、魔王と命運を共にしていた。
そんなだから、彼は宗三左文字が嫌いだった。
嫌って当然だ。
そうであって欲しい。
そうでなければ困る。
審神者に喚び出された後も、腫れものに触れる扱いながら、一応は大事にされていた。本丸で初めて顔を合わせた弟も、態度は依然ぎこちないけれど、慈しもうと努力している様子が感じられた。
薬研藤四郎も、なにかと気にかけてくれていた。
審神者の本心がどこにあるかは分からないが、丁重に扱ってくれているのは、我儘が比較的簡単に通るところからして、間違いなかった。
本丸と棟を別にする部屋はまだ新しく、とても静かだった。日当たりが若干悪くて日中も薄暗いけれど、籠の鳥には充分な環境だった。
愛されていると思う。
これからも、無条件に愛され続けていくのだと思う。
そこに刃を突き立てて、切り裂いて欲しかった。
誰もが求めて止まないこの刻印を、きっと、あの男だけは躊躇無く削ぎ落としてくれる。
目を閉じれば、闇が落ちて来た。
そっと息を吐いて、宗三左文字は心地よい疲れに身を委ねた。
軽い振動を感じて、意識が擽られた。
木々の間を抜ける風の音は、獣の唸り声にどこか似ている。樹木のざわめきもまた、賑わう市の雑踏を連想させた。
万屋に行く夢を見た。
審神者に命じられたのは自分ではなかったが、気分転換にどうだと誘われて、ついていった日のことだ。
初めて自分の足で出向いた市中は混み合っていて、気を抜けばすぐにはぐれてしまえそうだった。見失わないよう必死に追いかけたけれど、慣れない身体では巧く進めなかった。
待ってください、とも言えなくて、そうしている間に距離が開いた。
置いて行かれる恐怖が勝って足が竦んで、速度が落ちた。悪循環に陥って、袋小路を抜けられなかった。
完全に立ち止まってしまって、動けなくなった。どこへ行けばいいのかも教わっておらず、完全な迷子だった。
瞼を開き、二度、瞬きを繰り返す。
未だ眠っているのかと思いたくなる闇が眼前を埋め尽くして、宗三左文字は眉を顰めた。
「眠って……いたっ」
此処は何処かを真っ先に考えて、身を乗り出そうとした矢先にズキン、と刺さるような痛みが走った。思わず声に出して叫んでしまって、彼は飛び跳ねて患部へ手を伸ばした。
まるで、万力で締められているみたいだった。ギリギリと左右から挟まれて、千切れるまで引き絞られている錯覚に陥った。
勿論そんな拷問道具は存在しないけれど、それくらいに強い痛みが生じていた。
不用意に動かし、床を支えている材木にぶつけたのが原因だった。
それがなければここまで酷くはならないはずで、己の注意不足に涙が出そうだった。
「く、う……っあ、んぅ」
鼻を愚図らせ、口で息を吸い、奥歯を噛み締めて背を反らす。
なんとかやり過ごせはしないかと懸命に足掻くものの、時間が過ぎても痛みは引かず、逆に熱を強めて宗三左文字を苦しめた。
いっそ膝から下に刃を押し当て、斬り落としてしまいたい。
短絡的な発想を大真面目に検討して、彼はその膝を抱え込んだ。
一番痛む場所には触らぬようにして、汗に濡れる額を半月板へと擦り付けた。
「宗三」
直ぐ傍から声が聞こえたが、反応出来なかった。それが誰なのかも認識出来ないくらいに苦悶に顔を歪め、宗三左文字は肩に触れた手を反射的に跳ね返した。
乾いた音がひとつ響いて、それでハッと我に返る。
月明かりが薄く照らしだす空間で、へしきり長谷部が青白い顔をしていた。
「痛むのか」
そういえば、彼が一緒なのだった。
欠落していた記憶を取り戻し、彼は荒い息を吐いた。肩を上下させて唾を飲んで、返事はしないで顔を伏した。
言葉を発するなど、出来そうにない。惨めに助けを求めて縋る真似だけはしたくなくて、宗三左文字は我を張って首を横に振った。
すぐ分かる嘘を吐いて誤魔化すが、こればかりは通じなかった。へしきり長谷部は諦めずに腕を伸ばし、傷口を覆う手を払い除けた。
ガタゴトと響いた音は、彼が立ち上がった音だろう。視界を確保出来るだけの光が届かない屋内で、移動手段は手探りだった。
柱にどこかぶつけたらしく、呻き声がした。息遣いは乱れて、獣のようだった。
「くそ!」
素人判断で怪我の状態を甘く見たのを、今更後悔している。吐き捨てられた罵声は、恐らくは彼自身に向けてのものだ。
苦悩する顔が脳裏に浮かんで、宗三左文字は苦笑しようとして失敗した。二度、三度と噎せて咳き込んで、足元に蹲る気配に眉を顰めた。
「はせ、べ」
「添え木をしておくべきだったか。冷やそうにも、布が足りん」
べちゃ、と湿った音もした。直後に右足首に濡れた手拭いが被せられたが、それは人肌よりも生温く、不快感が増しただけだった。
気持ち悪さに耐えきれず、宗三左文字は膝を揺らした。痛みが誘発されたが、湿って重い手拭いよりはましだった。
「っう……」
「なにをしている、宗三。馬鹿な真似はよせ」
「これくら、い。なんでも、ありません」
一旦は引きかけていた痛みの波が、今度は二重になって押し寄せて来た。
左腕で顔を覆って呻く彼をへしきり長谷部が叱ったが、それは強がる彼を一層意固地にしただけだった。
痩せ我慢に歯軋りして、へしきり長谷部は泥で汚れた布を拳で殴った。
小川を見つけはしたものの、手で掬って運んでいくわけにはいかない。仕方なく懐にあった手拭いを湿らせて、宗三左文字の足に掛けておいた。
もっとも、その程度では焼け石に水だ。桶は最後まで見つけられなくて、川と小屋との間は、日が暮れるまでの間では三往復が限界だった。
食料もなく、眠っている最中に少量の水を飲ませるのがやっとだった。空腹では自然治癒能力も減退するらしく、へしきり長谷部自身、戦場で負った傷は癒えていなかった。
せめて気を紛らせてやれれば、少しは楽になれるだろうに。
医者に頼れず、本丸にある手入れ部屋も使えない今、彼が思いつく案といえばそれくらいだった。
薬などない。
冷やすための氷も用意してやれない。
痛いだろうに、辛いだろうに、声を押し殺して平気だと言い張る愚か者を助けたい。
手段がない。
術がない。
言いたいことの半分も口にせず、最初から何もかも諦めている馬鹿を救いたい。
絶対に連れて帰る。
籠の中に戻るなど嫌だと言われても、一度掴んでしまった手を振り払えるわけがなかった。
「宗三」
紫陽花が咲いていた。
己の髪と同じ色の花を前にして、蝸牛でも見つけたのか、それにちなむ今様を口ずさむ姿は、いみじくも美しかった。
憐憫の眼差しを向けられているのは知っている。哀れに思われ、蔑まれているのも承知していた。
既に嫌われているのだから、今以上に感情が悪化する事はあるまい。
見下されているのは正直腹立たしいが、興味すら持たれないよりは良かった。そんな風に考えて自分を慰めて、へしきり長谷部は苦悶を顔に出す男へと身を乗り出した。
床に倒れ伏す宗三左文字が、濃くなった闇に眉を顰めた。柳眉を寄せて怪訝な顔をして、覆い被さるように距離を摘めて来た男を警戒して顎を引いた。
痛みが熱を呼ぶのか、青白かった肌は幾分赤みを強めていた。激痛に耐える眼は涙に濡れ、艶を帯びて潤んでいた。
「はせ、べ?」
突然どうしたのかと、左右で色違いの瞳が宙を泳いだ。困惑を表に出して、押し返そうとする手がへしきり長谷部の上腕に触れた。
これから何をされるのか、まるで想像がつかない様子だった。恐怖を抱いているのがありありと感じられて、自分が優位に立っている状況に心が沸き立った。
「な、……っう!」
「どうした。痛くないのではなかったのか」
高揚感に背中を押され、左手を下方へと差し向ける。右腕は上半身を支えるのに使って、肘の骨がひっきりなしに床を叩いた。
帯の締め方が甘いのか、宗三左文字は大抵、脚が肌蹴ていた。袈裟を着た坊主にあるまじき身なりをして、無知な雄を誘う姿は蝶を模した毒虫に等しかった。
だが今はそれを逆手に取って、手袋を嵌めたままの手で肉の薄い太腿をまさぐる。
緩く揉むように膝の方へと下ろして行けば、痛みの源泉に近付くにつれて、宗三左文字の顔が歪んでいった。左上腕を掴んでいる指先にも力が込められて、爪を立てて掻き毟られた。
痛くも痒くもない攻撃を鼻で笑い、へしきり長谷部は下唇を噛み締める男を覗き込んだ。
「強がりも大概にしろ」
捻った場所の手前で指を止め、強情を張る宗三左文字を咎める。
暗闇の中で淡く輝く眼を覗き見ながら告げて、降参して認めるように促す。
その割に手はしつこく動き回り、膝の関節を一周した後、脹脛の筋を捏ねた。やわやわと揉んで、宗三左文字の眉間に皺が寄れば退いて、来た道を戻って内腿へと伸ばされた。
覆い被さる布を手の甲で押し退けながら、一番上には行かずに手前で引き返す。この期に及んで臆病風に吹かれていると笑いたくなって、宗三左文字は真顔で人を窺っている男に口角を歪めた。
足首に集中していた意識は拡散して、別のところに集い直そうとしていた。言わずもがな、肉の薄い右脚を撫で回す手に神経が集中して、痛みはあるのに、若干それどころではなくなりつつあった。
「なに、を……言うかと、思えば。これしきの痛みで、僕がどうにかなるとでも?」
彼の意図するところが、朧げながら見えてきた。
何百年経っても不器用なままだと笑みを噛み殺し、宗三左文字は屈してなるものか、と強気に言い返した。
勿論、腫れている場所は痛い。
熱は高くなる一方で、最早それが自分の身体の一部なのかどうかさえ、判然としなくなっていた。
痺れて感覚がなかった場所をなぞられ、強い電流が何度も走った。尻が浮き、背が撓りそうになるのを必死の思いで堪えて、彼は腹立たしげにしている男を嘲笑った。
「馬鹿にしないで、くれます、か。……僕を。誰だと」
言葉は切れ切れだったが、喋る度に力が戻ってくる気がした。
萎えていた気力が蘇って、負けたくないと心が奮い立った。
あの時もそうだった。
万屋に初めて連れて行ってもらった時、道にはぐれた。人混みに圧倒されて、押し流されて、動けなくなった。
茫然と立ち尽くし、自分の居場所を見失った。
こんなにも沢山人の目があるのに、誰一人として宗三左文字を見ようとしない。道のただ中で棒立ちの彼を迷惑そうに一瞥するだけで、美しいだとか、素晴らしいだとか、お仕着せの褒め言葉を口にする者もいなかった。
恐かった。
それまで漠然と抱いていた恐怖の正体が、その瞬間、はっきり分かってしまった。
宗三左文字にはなんの価値もない。二度も焼かれて、再刃されて、本来の切れ味はとうに失われた。鈍ら刀は戦場に不向きであり、生来の刃紋さえ失われた今、彼にあるのは魔王が遺した刻印だけだ。
誰も宗三左文字を見ない。
そこに宗三左文字がいると、気付かない。
確かに此処に在るのに、消えてしまった気分になった。透明になって、その他大勢の中に埋没して、見向きもされない自分を想像した。
居るのに、居ない。
居ないのと同じ。
皆が欲しがるのは魔王の刻印であり、宗三左文字そのものではない。
足が竦んだ。倒れそうだった。悲鳴をあげたくなった。我も忘れて泣き叫びそうになった。
震えが止まらなかった。涙が溢れた。喉を掻き毟った。
血が出るまで爪を立てた手を、力任せに引っ張られた。
何をしている、と怒鳴られた。勝手に居なくなるなと叱責されて、一方的になじられた。
呆然とするより他になかった。こめかみに血管を浮き上がらせて、へしきり長谷部はいつも通りだった。
嫌いな相手の面倒も、審神者に命じられれば素直に従う。
そういうところに、安心した。
「宗三」
「大体、そういう貴方こそ、どうなんです。変な顔に、なっていますよ」
張りつめていた糸が切れて、力が抜けた。深く息を吐いて目尻を下げて、宗三左文字は真上に陣取る男の頬を小突いた。
柔らかくはなかった。弾力にも乏しく、弟である短刀の小夜左文字の半分も指が沈まなかった。
「貴様の目が曇っているだけだ」
「そうですか。そういう事にしておきますか」
「俺を愚弄するか」
「まさか。僕は本当のことしか言いませんよ」
軽口を叩きあい、至近距離から睨み合う。勝敗は最初から決まっており、へしきり長谷部は忌々しげに顔を背けた。
右腕の位置を宗三左文字の脇から頭上に移動させて、腿から引き剥がした左手を口元に持って行った。
薄く唇を開き、ひとつ息を吐いたと思えば指先を噛む。
否。彼が前歯で挟んだのは、返り血や泥を浴びて汚れた手袋だった。
首を右から左へ振って、一気に引き抜く。露わになった指はゴツゴツして、岩かなにかのようだった。
「ん……っ」
そんな無骨な手が、宗三左文字の額に触れた。汗を吸って重くなった前髪を払い除けて、素肌に直接指の腹を押し当てた。
掌は眼を避け、こめかみから頬を覆った。その状態で暫く動かさず、渋面だった宗三左文字の表情が緩むのを大人しく待ち続けた。
「ああ、あなたの手。冷たくて、ふふ。気持ちが良いです」
「そうか」
鼻筋を伝おうとした汗を、親指が拭い取った。それに合わせて首筋へと下がっていった手を引きとめて、宗三左文字は珍しくへしきり長谷部を褒めた。
元々彼らは刀なのだから、本来は冷たくて然るべきだ。
今のお前が熱すぎる、とは言わずにおいて、へしきり長谷部は目を閉じた男の頸部を擽った。
太い血管の上を辿り、脈動を確かめてからハッとする。
宗三左文字も瞼を開き、不用意に急所を明け渡した己に愕然となった。
影が揺れ、その瞬間だけ相手の顔がはっきり見えた。お互い呆然としたまま見詰め合って、引き金を引いたのはへしきり長谷部だった。
太い親指がつい、と泳いだ。動脈の上からはぐれて喉仏を探り、男としては目立たない突起を通り過ぎて行った。
残る指もそのまま滑り降りて、やがて長着の衿に行き当たった。
「長谷部」
襦袢の隆起を押し潰し、退けようとしているのが肌で感じられた。内側に潜り込む指先が皮膚を削って、急な変化に宗三左文字は声を上ずらせた。
喉元を広げようとする手が、異様に冷たかった。仰ぎ見る男の表情は能面のようであり、それでいながら切迫したものを匂わせていた。
迷いを抱きながらも、熱を欲しがる眼が宗三左文字を射抜く。ぞわり、と内臓を沸き立たせる眼差しに、彼は反射的に膝を閉じた。
足首の痛みなど、最早露とも思い出せなかった。目の前で繰り返される獣の吐息に意識は掻き乱され、喰われてしまう恐怖に歓喜が圧し掛かった。
「はせべ」
熱に浮かされ、お互いおかしくなってしまったらしい。鼓動は荒れ狂い、正常な判断力を根こそぎ薙ぎ払った。
舌足らずに名を呼べば、男は瞑目し、先立つ後悔を振り払うべく頭を振った。
「宗三」
低い声で応じて、前歯の裏を舐める。身を乗り出して距離を詰めて、熱を帯びた双眸を、意志を確かめるべく覗き込む。
宝玉の眼がへしきり長谷部を映し出した。
鏡のように澄んだ彩の奥に潜む想いを暴こうと、牙を剥き、男は手元に落ちる影を払い除けた。
ぱちっ、と。
薪の爆ぜる音がした。
「…………?」
と同時に、松脂の焦げる臭いがした。先ほどまでとは確実に異なる明るさに瞠目して、彼らは揃って瞬きを繰り返した。
相手の顔がはっきり見えた。嘘ではなく、夢でもなく、ましてや夜明けが来たわけでもなかった。
この廃屋に光源はなく、囲炉裏は沈黙したままだ。仰け反って部屋の奥を確かめて、宗三左文字は絶句している男に目で問いかけた。
かといって、へしきり長谷部にも分かるわけがない。だが嫌な予感を覚えて背中に汗を流し、彼は左手を床に衝き立てた。
宗三左文字を跨いでいた脚も土間へ降ろした。そうして前屈みの状態で、首から上だけを後ろへ向けた。
「あれ、止めちゃうの?」
そこに、火の玉を見た。
身を屈め、頬杖をついて悠然とする男が見えた。
長い髪を肩から胸元へ垂らして、左手には松明が握られていた。炎で自分を焦がさぬよう高く掲げ、無邪気に微笑んでいた。
その顔には見覚えがあった。
にっかり笑う男に騒然となって、へしきり長谷部は立ち位置も忘れて竦み上がった。
「いった!」
弾みで宗三左文字の足を蹴ってしまい、耐える間もない悲鳴が屋内に轟いた。
長らく忘れていた痛みが蘇った。反射的に叫んで身体を丸めた宗三左文字に、へしきり長谷部は慌てて振り返った。そこの出刃亀を誅殺するのも忘れて青くなって、悪気がなかったとはいえ、傷を悪化させてしまった事態に右往左往した。
「宗三、すまん。すまん!」
「なんなんですか、あなたは。いつもいつも、そんなに僕が嫌いですか」
「違う。わざとではない。わざとでは――にっかり青江、貴様何故此処に居る!」
急いで謝るが、癇癪を爆発させた宗三左文字は聞き入れない。大声で怒鳴りつけて、無事な方の脚で蹴って接近を拒んだ。
腰を打たれた男は軽くよろめき、言い訳の最中に思い出して吠えた。
いったいいつから、いつの間に。
こじ開けられた戸口からは冷たい夜風が吹き込んで、松明の炎を激しく揺さぶっていた。
壁に描き出された影が収縮を繰り返し、反響した声が外へ溢れていく。
罵声を浴びても平然として、にっかり青江は外を指差した。
「どうしてって、言われても。主の命に決まってるじゃない。君たちを探して来いってさ」
検非違使の強襲をどうにか凌いだものの、戦線は混乱し、行方不明になる刀剣男士もいた。
無事を確認出来なければ、本丸へ戻る事も出来ない。審神者はなんとか合流出来た面子にすぐさま新たな指令を下し、へしきり長谷部と宗三左文字の回収を命じた。
「主も酷いよね。僕たちだって、ぼろぼろなのにさ。それなのに寝食惜しまず、仲間を探せっていうんだから。ああ、どうぞ続き、してくれていいよ。僕はただの灯篭で、居ないものと思って気にしてくれなくていいから。いやあ、それにしても、君たちってそういう関係だったのんだね。いつも喧嘩ばっかりだったから、全然知らなかったよ」
「ち、違う。妙な誤解はやめろ。第一、誰がこんな、可愛げのない男などと」
「そりゃあ、どうも失礼しました。ですがね。言わせてもらいますけど。僕だって、あなたみたいな朴念仁、絶対にお断りです」
「貴様、俺を愚弄する気か」
「ずっと言ってるじゃないですか。僕は、本当のことしか言いません」
簡単に事情を説明したにっかり青江に、へしきり長谷部が真っ赤になって反論する。それに宗三左文字が噛みついて、口論は瞬く間にふたりだけのものと化した。
喧嘩するほどなんとやら、という言葉が思い浮かんだ。一瞬で存在を忘れ去られた大脇差は苦笑を禁じ得ず、座り続けるのも辛くなって膝を伸ばした。
松明を掲げ、それほど広くない屋内を照らし出す。
光は外にも漏れて、程なくしてけたたましい足音が夜を切り裂いた。
「宗三、無事か!」
夜戦慣れした短刀の機動力を発揮して、邪魔な扉を蹴散らして薬研藤四郎が飛び込んできた。勢いに乗ったまま正面の壁に激突しそうになって、直前で回避して通り過ぎた場所を駆け戻った。
大きな瞳を不安げに揺らめかせ、呆然としている打刀の前で息を整える。惚けていた宗三左文字は三秒してから我に返り、詰め寄って来た短刀に反射的に頷いた。
無事といえば、無事だ。
足を挫きはしたが、それ以外はおおむね問題ない。
「おやおや。薬研君は心配性だねえ」
「って、どこが無事なんだ。足、腫れてんじゃねえか。どうしちまったんだ、これは。熱は。痛みは。ちゃんと手当てしたんだろうな」
けれど薬研藤四郎は信じず、赤黒くなった足首を見て声を荒らげた。血相を変えて捲し立て、にっかり青江が茶化すのも無視して両手を戦慄かせた。
思わず触れそうになって、直前に停止して指先を痙攣させる。頬は引き攣って紅潮し、怒りはへしきり長谷部へと向けられた。
「手前ぇがついてながら、なにやってんだ。この糞長谷部」
「宗三が勝手に転んだだけだ。俺に責任を押し付けるんじゃない」
「しかもなんだ、これ。冷やしてもねえのかよ。ああ、宗三の綺麗な足が台無しじゃねえか」
「致し方なかろう。手段が、その。なかったんだ」
「その辺に熱冷ましの薬草くらい、いくらでも生えてんだろうが。それくらい覚えとけ。甘ったれてんじゃねえぞ、ったく。待ってろ、宗三。今すぐ俺が治してやっからよ」
道具がなければ、ある物で代用すればいい。周辺に生えている木々の葉も、濡らせば患部を冷やす布代わりになった。
そういう方面に頭が働かなかった男を叱り、誰よりも男らしい短刀は華奢で骨張った手を取った。
「は、はあ……」
状況が一瞬で急変して、理解が追い付かない。
ぽかんとしたまま頷いて、宗三左文字は人数が増えた屋内を見回した。
「ったく、役に立たねえ奴だな、本当に。図体ばっかり、でかくなりやがって」
「いつ、貴様の方が俺より大きかったことが……こら、やめんか。蹴るんじゃない」
「あ、あー。僕は残りのふたりを呼んでくるね」
「おう、頼む」
憤慨している薬研藤四郎に、やや押され気味のへしきり長谷部。にっかり青江は巧く話に混じれなくて頬を掻き、合流を果たせずにいる他の刀剣男士を呼びに出て行った。
すっかり置き去りにされていた宗三左文字は、辺りに暗さが戻ったところでふっ、と息を吐いた。
「ふふ、……ははは。あは、はははは」
「宗三?」
「そう。そうなんです、薬研。その男、本当に……まるで役に立たなくて。もっと言ってやってください」
「ぬあ、あ、きっ、貴様!」
「おー、おー。ったく、仲間ひとり守れねえような奴に、宗三を任せておけねえな。宗三、いいか。次なんかあった時は、こいつは見捨てて、迷わず俺を頼れ」
「ええ、そうします」
「宗三、薬研も。貴様ら、あ、あんなに、俺が」
「なんですか、見苦しい。僕を負ぶって連れて来てくれたことには感謝しますけれど、少し恩着せがましくありませんか?」
堪え切れず笑い、薬研藤四郎と調子を合わせて軽口を叩く。
責めてくる相手がひとりから二人に増えて、見るからに不利な状況に追い込まれた男は青くなった。
必死に反論を試みるが、口達者な両名を前にして、勝てるわけがない。
にっかり青江は既に外に出た後で、援護射撃は期待できなかった。
出来ることを精一杯やったつもりなのに、認めて貰えない。それどころかあれが悪い、これが宜しくないと矢継ぎ早に咎められ、彼を支えていた自信は見る間に砂となって崩れ落ちた。
ついに膝を折って項垂れたへしきり長谷部に、宗三左文字はやれやれと肩を竦めた。
「知ってますよ」
彼がどれだけ不器用で、生真面目なのか。
一生懸命対処しようとしてくれた事、助けようとしてくれたこと。
足を挫いたのは、決して悪い事ではなかった。
薬研藤四郎に怒られそうな感想は胸にしまいこんで、宗三左文字は鈴のような笑い声を響かせた。
2015/07/04 脱稿