詭謀

 眠れなくて、寝返りを打つ。
 もぞりと布団が膨らんで、丸い塊からスポン、と茶色い頭が飛び出した。すっぽり包まっていたところから身体の一部を引き抜いて、沢田綱吉は落ち着きなく身じろいだ。
 天井にぶら下がるハンモックからは、すぴー、すぴーというふざけた寝息が聞こえて来た。照明が全部消されているので見えないけれど、ほぼ確実に、鼻提灯が膨らんでいることだろう。
 赤ん坊の呑気な寝顔を思い浮かべて、彼はふるふる首を振った。
「今、何時」
 掠れる小声で呟いて、枕元へ利き手を伸ばす。
 掴み取った目覚まし時計を眼前へ引き寄せるが、頼りになる灯りがない状態では、目を凝らしてもなにも見えなかった。
 一定のリズムを刻む針の音を間近で聞いても、ちっとも楽しくない。諦めて元の場所に戻して、今度はその付近を数回、埃でも払うかのように手を動かした。
 ぽん、ぽん、とパイプベッドの上を探り、敷布団とは異なる感触を見つけて慌てて戻る。
 一旦行き過ぎかけた手を戻して掴み取ったのは、四角くて硬い物体だった。
 指はごく自然と動き、二つ折りの端末を開いていた。パカ、と上下に広げて縦に伸ばせば、反応した画面がパッと明るくなった。
 バックライトの青白い光が、暗闇を裂いて辺りを眩しく照らした。
 暗がりに慣れていた目には、小さくとも鮮烈な輝きだった。慌てて引き離して、瞬きも繰り返して、彼はドキドキしながら画面を覗き込んだ。
 縦長の液晶モニターの、右上にデジタル時計が表示されていた。
「二十三時、五十六分」
 一日を二十四分割して、更に細かく切り刻んだ数字は、間もなくリセットされてゼロに戻る。
 声に出して呟いて、彼はじわじわ沸き起こる実感に胸を高鳴らせた。
 いつもより早めに寝床に入ってみたものの、どうしても寝付けなかった。頭まで布団を被り、羊も三百まで数えてみたものの、睡魔は全くやってこなかった。
 普段なら目を閉じて、三秒で眠れるというのに。
 一年に数回あるか、ないかという状況の原因は、分かっている。
 厚みのある液晶画面を指でなぞって、綱吉は時計の隣にある日付に焦点を移した。
 十月十三日。
 それが間もなく、十四日になろうとしていた。
 去年は散々な一日だったが、今年はきっと、違う。
 期待と不安が入り混じって、頬は紅潮し、目は爛々と輝いた。
「あと、二分」
 ハンモックで眠っているリボーンを起こさないよう、綱吉は頭の天辺まで布団を被り直した。携帯電話の位置も移して、光が外へ漏れないように布で囲った。
 右肩を下にして横向きになり、刻一刻と近づく運命の瞬間を待つ。
 緊張し過ぎか、耳鳴りがした。心落ち着かせるべく、綱吉はふー、と息を吐いた。
 目を閉じて、深呼吸。
 早く来て欲しいような、そうでないようなドキドキ感が極まって、ピクリと震えた足が攣りそうになった。
「いっつ」
 唐突にこむら返りを起こした左足に悲鳴を上げ、携帯電話を持つ指はあらぬボタンを押した。
 暗くなりかけていた画面が、パッと切り替わった。そんなつもりはなかったのに、電話発信の為の表示が現れた。
 先頭に、七の数字が出ていた。
 誤って押してしまったボタンに、ぎゃっとなった。焦り過ぎて足の痛みも忘れて、綱吉は慌ててホーム画面を呼び戻した。
 前に皆で撮った集合写真がパッと現れて、そこに色々なアイコンが覆い被さった。それらを端から順に眺めていて、はたと気づいた彼は急ぎ音量調整のボタンを押そうとした。
 しかし。
「ぎゃっ」
 思い出すのが少し、遅かった。
 目覚まし時計の針がカチリと鳴って、画面上の数字にゼロが並んだ。
 刹那。
 狙い定めていたかのように爆音が耳を劈いて、握っていた携帯電話もぶるぶる震え始めた。
 最大音量、最大振動。
 なにかあってもすぐ気が付けるよう、そういう設定をしてあった。
 但しこんな真夜中では、ただの迷惑な騒音でしかなかった。
「ちょ、え、あっ、待って。待って」
「うるせーぞ!」
「あだっ」
 突然のことに驚き過ぎて、無意識にベッドの上で飛び跳ねていた。被っていた布団を跳ね飛ばして身を起こせば、待っていましたとばかりに、案の定の一撃に見舞われた。
 安眠を邪魔された極悪家庭教師が、愛用している拳銃からゴム弾を発射したのだ。それは暗がりの中でも見事綱吉にヒットして、跳ね返った弾丸は天井、壁、床に当たって跳ね返った。
 最後にもう一回、呻く綱吉の側頭部を直撃して、ようやく止まる。
 トドメを刺された少年はベッド上に突っ伏して、その間も勿論、携帯電話は鳴りっぱなしだった。
 階下にまで届きそうな大音響は、持ち主に気絶することさえ許してくれない。早くしないと二撃目に襲われて、携帯電話そのものを破壊されかねなかった。
 たかがゴム弾と、侮るわけにはいかない。
 なにせ見た目赤ん坊のあの家庭教師は、世界最強を自認する殺し屋なのだから。
 最初のうちは冗談と受け流していた自己紹介も、今となっては信じざるを得ない。彼が家に来てからは騒動が頻発して、息つく暇もなかった。
 ただ平穏を失った代わりに、得たものは沢山あった。
「ツナ」
「いって~~。分かってるよ、もう」
 低い声で凄まれて、綱吉は半泣きで鼻を愚図らせた。鳴り続ける携帯端末を手繰り寄せて、画面に出ている名前を確認してから応答ボタンを押した。
 着信メロディは三周目に突入していたが、かけてきた相手には諦める、という選択肢がないらしい。どこまで忠犬なのかと苦笑して、彼は細長の端末を耳に添えた。
 直後だった。
『お誕生日おめでとうございます、十代目!』
 これまた鼓膜を突き破らんばかりの、傍迷惑な大声が飛んできた。
 音が脳に突き刺さり、キーンと来た。咄嗟に電話を引き離してみるが時既に遅く、ハンモックに揺られる赤ん坊の凄味が増しただけだった。
 スピーカーを通して、離れた場所に居る彼にまで聞こえていた。それくらいのボリュームで祝われるのは、申し訳ないけれど、あまり嬉しくなかった。
 ただ電話の主はそのことに気付いておらず、察する気配もない。
『本当に、おめでとうございます。十代目のお誕生日をお祝いすることが出来て、俺は、すっげー、感激です』
 もしかしなくても彼は、時計の針が天辺で重なり合うタイミングを、電話の前で待ち続けていたのだろうか。
 時報が日付変更を告げると同時に発信ボタンを押して、祝砲を狙ったに違いなかった。
 その根性は、尊敬に値する。
 だが時と場所を、もう少し考慮して欲しかった。
「あ、ありがとう。獄寺君」
 意気込みは充分伝わったし、気持ちは有り難い。
 だから非難するより先に礼を述べたのだが、それが却ってよくなかった。
『はい、十代目。十代目のこの一年が幸多くありますことを、お祈り申し上げます。いえ、この右腕こと、男獄寺が必ず、十代目を幸せにしてみせます。十代目に降りかかる火の子を全て払い、この身に替えても、絶対に、是が非でも、地獄の果てまでお守り致します』
 調子に乗った獄寺が、勢い勇んで捲し立てた。喋っているうちに興奮して来たのか、声も段々ボリュームを増して、握り拳を作っている姿は楽に想像出来た。
 熱く語り出して、終わる様子がない。
 放っておいたらバッテリーが尽きるまで喋り続けそうな雰囲気に、冷や汗が止まらなかった。
 天井付近からは野獣の気配が漂い、こちらも落ち着かない。
「あ、あの。獄寺君、あのね」
『はい、なんでしょう。十代目』
「えっと、ごめん。ありがとう。おやすみ」
 急がなければ、リボーンから手痛い鉄槌が飛んでくる。
 折角の誕生日なのにプレゼントがタンコブなのは嬉しくなくて、強引に話に割って入り、綱吉は短く言って通話を切った。
 遠慮も、躊躇もない。
 申し訳ないとは思ったが、己の命の方がよっぽど大事だった。
「はー……」
 これでやっと、一安心。
 と思ったのは、甘かった。
「びゃっ」
 ホッと息を吐いたのも束の間、またしても掌中で爆音が轟き始めた。
 握りしめていたものを放り投げるくらい驚いて、彼は目を白黒させながら、跳ね放題の頭を抱え込んだ。
 今度は、誰か。
「はい、もしもし!」
 やけっぱちになりながら、発信元を確認せずに応答ボタンを押す。
 獄寺の勢いを引き継ぐ形で怒鳴り付ければ。
『おう、沢田か。今日が誕生日なんだってな。おめでとう!』
 負けず劣らず大きな声が、スピーカーから殴りかかってきた。
 勇ましいジャブを脳天に浴びて、ノックアウト寸前だった。脳髄がぐらっと揺れて眩暈が起きて、本気で泣きたくなってしまった。
 この声には、覚えがある。当たり前だ、良く知っている相手だった。
 山本ではない。彼は天然なところがあるけれど、時間帯に関しては、人としての常識を持ち合わせた男だった。
「お、おにい、さん……」
 自称綱吉の右腕たる獄寺に続き、夜中の零時を過ぎた時点で電話をかけてくる、傍迷惑な人。
 笹川了平の日に焼けた笑顔を思い浮かべて、綱吉は力なく項垂れた。
 思い込んだら一直線、燃える男は他人の都合をまるで考えない。どこで話を聞き付けたのか、これは祝わねば、と思ったに違いなかった。
 情報源は、笹川京子辺りだろう。
 眩い笑顔の兄妹を脳裏に並べて、彼は深々とため息を吐いた。
「はい。どうも、ありがとう……ございます」
 本当なら嬉しい祝辞も、タイミングの所為で素直に受け取れなかった。ゴム弾で撃たれた箇所はまだズキズキしており、脂汗が止まらなかった。
 心待ちにしていた今日がやってきたのに、テンションは下がる一方だ。力なく返事して、一方的に電話を切って、綱吉はがっくり肩を落とした。
「あ、メール」
 液晶モニターを待ち受け画面に戻して、右上に小さなアイコンが増えていると気付く。着信を伝えるランプも点滅を繰り返しており、ふたりと通話している間にも、誰かが電話をかけて来たらしかった。
 何件か、留守番メッセージが入っていた。着信履歴画面を表示させて、リストに並ぶ名前を順に眺めているうちに、初めて笑みがこぼれた。
「えへへ」
 同じ轍は踏むまいと、急いで着信音を切る。その上でメール画面を開けば、こちらもまたずらりと、未開封が並んでいた。
 知らないアドレスもあった。
 さすがに迷惑メールではないと踏んで開封してみれば、送り主は意外や意外、六道骸の名前になっていた。
 内容といえば、いつものあの変な笑い声の後、この一年せいぜい怯えながら過ごせば良いと、要約すればそういう事だった。
 ストレートに祝う気はないらしく、その辺は相変わらずだ。いかにも彼らしいと苦笑して、綱吉は照れ臭そうに目を細めた。
 ずっと、誕生日が嫌いだった。
 父親は長く不在で、家には母親がひとりだけ。兄弟はおらず、生来の不器用さが仇となり、友人らしい存在もいない。
 学校に行けば苛められて、教室の隅の忘れ去られた存在だった。勉強も苦手で、なにひとつ取り柄がなかった。
 そんなだから、誕生日パーティーを開いたところで、来てくれる人はゼロ。母の料理はおいしいけれど、賑やかなのが好きな彼女の性格が、こういう時ほど恨めしかった。
 それが、どうだろう。
「うん」
 まだまだ届くメールの数に頬を緩め、綱吉はほんのり湿った目尻を拭った。
 獄寺や了平に、悪気があったわけではない。一番に祝おうとして、眠い目を擦って待っていてくれたのだ。
「明日、ちゃんとお礼を言おう」
 感謝する気持ちがようやく湧いてきて、彼は力強く頷いた。携帯電話を宝物のように抱きしめて、それからもう一度、ずらっと並んだ名前に相好を崩した。
 電話は、さすがにもう鳴らなかった。こちらが眠っている可能性が考慮されて、遠慮してくれた人が殆どだった。
 海外からではディーノを筆頭に、有り難い事に九代目からも届いていた。ザンザスの名前もあったけれど、これは誰かが代理で書いたものだろう。ハルや京子からも来ていて、山本の分もあった。
 意外どころは、コロネロからも祝辞が届いていた。
 どこぞのヒットマンと違って、礼儀正しく、義理堅い。もう騒がないと察したか、再び寝息を立て始めた赤ん坊を窺って、綱吉は首を竦めた。
 この一年で、彼の生活は大きく変わった。
 マフィアのボスになれと言われて、友人が出来た。交友範囲が広がって、世界がひっくり返ったようだった。
 かつては敵だった相手と手を結んだり、未来へと飛ばされたり。
 目まぐるしい日々の連続だった。痛くて辛い思いも沢山したけれど、総じて悪くない一年だった。
 新たな一年は、どんな出来事が待っているのだろう。
 胸の昂ぶりを抑えて息を吐いて、綱吉は新着メールリストを下までスクロールさせた。
「……だよね」
 波立っていた心にも、やがて凪の時は来る。
 隅から隅まで確認しても、知った名前がひとつ、どこにも見当たらない。それは最初から分かっていたこととはいえ、ショックを隠し切れなかった。
 群れるのが嫌いな人だから、祝ってくれるとは思っていなかった。
 それでも少なからず期待した。もしかしたら、と願わずにいられなかった。
「っ!」
 外から物音が聞こえた気がして、驚いて背筋が伸びた。息を潜ませ気配を窺って、恐る恐る覗いた窓には、暗がりしか映らなかった。
 薄く、綱吉本人の顔が浮き上がっていた。向かいの家の電気は全て消えており、街灯に照らされる影は動かなかった。
 風の悪戯か、ただの空耳か。
 淡く思い描いた展開はやって来なくて、綱吉は四肢の力を抜き、ベッドへ倒れ込んだ。
 掛布団を引き寄せ、携帯電話は閉じて枕元へ。頭まで被ると世界は一層暗くなって、光ひとつ見えなかった。
「寝よう」
 呟き、深く沈んだ心を慰める。
 希望はあった。今日はまだ、始まったばかりなのだ。
 それに朝が来れば、学校にいかなければならない。遅刻は許されず、サボるなどもっての外だ。
 休むわけにはいかなかった。その為には、早く眠ってしまうに越したことはなかった。
 携帯電話は今でもメールを受信して、ぶるる、ぶるると震えていた。
 だが、開こうとは思わなかった。返事を打つのは、朝日が昇ってからだ。
 全員分ともなれば、かなりの量になる。学校に持って行って、没収されないよう気を付けなければいけない。
「おやすみ、なさい」
 だが風紀違反を見咎められるのも、明日に限っては悪くない案に思えた。
 全ては、朝日が昇ってから。
 愉しい一日になる夢を見るべく、綱吉はそっと目を閉じた。
 そうして、数時間が経った後。
 沢田綱吉は、史上稀に見る苛々の頂点にあった。
「十代目、今日のパーティー、楽しみですね」
「そうだね」
「ツナへのプレゼント、奮発したから、期待しててくれよな」
「ありがとう」
 右側に獄寺、左側に山本を従えて廊下を行くも、返事はどれも素っ気なかった。ふたりはあまり気にする様子がなかったが、傍目から見るに、綱吉の態度はかなり悪かった。
 チャイムが鳴って、廊下へ出た。ふたりは何も言わずついて来て、ごく当たり前のように綱吉を挟んで左右に分かれた。
 さっきからひっきりなしに話しかけて来て、鬱陶しい。だが無視すると余計絡んでくるので、相槌を打たないわけにいかなかった。
 歩き方は大股で、いつもに比べてかなり早足だった。それに難なくついてこられるのがまた癪で、ひとりになりたいというのに、なかなか振り払えなかった。
 そういう事情もあってもっと機嫌が悪くなって、誰彼かまわず当り散らしたくなった。折角の誕生日だというのに気分は最悪で、なにもかもが嫌になりそうだった。
 廊下をすれ違う生徒らが、異様な早足の三人連れに揃って変な顔をした。だが走ってはいないので、風紀委員は登場しなかった。
 最低限の規律は守っていると、胸を張りながら口を尖らせる。
 喚き散らしたい衝動を必死に抑えこんで、綱吉は見えた扉に唇を噛んだ。
「トイレ!」
「お供します」
「大きい方!」
 我慢ならなくなって、吼える。
 すかさず獄寺が申し出たが断って、恥も外聞もなく、綱吉は使う人が少ない男子トイレの戸を押した。
 威勢よく宣言したからか、目的地が同じだった見知らぬ生徒が慌てて引き返した。彼には心の中で謝罪して、綱吉は一番奥の、空いていた個室トイレに駆け込んだ。
 勿論、用を足したいわけではない。
 朝からずっと付き纏ってくるふたりからようやく解放されて、出たのは安堵の息だった。
「なんなんだよ……」
 獄寺は朝早く、綱吉を迎えに来た。絶対遅刻しない時間帯に一緒に登校して、以後ずっと離れてくれなかった。
 教室で合流した山本も同様で、なにかにつけて獄寺と張り合っては、綱吉を戸惑わせた。
 どうやらふたりして、どちらが綱吉をより祝えるか、競い合っているらしい。
 獄寺が日付変更と同時に祝いの電話をしたことを、得意げに吹聴したのが発端だ。気を利かせてメールにした山本は露骨に悔しがり、また、綱吉に迷惑をかけたのではないかと彼を責めた。
 勿論獄寺は反発して、そんなことはないだろう、と同意を求めて来た。それに綱吉が返事をしなかったものだから、山本が勝ち誇った顔をして、喧嘩はエスカレートしていった。
 口論は、常に綱吉を真ん中に置いて行われた。お陰でちっとも集中出来ず、お礼のメールはまともに返せていなかった。
 受け取ってばかりで返信出来ていないとポケットを探って、綱吉は冷たい壁に寄り掛かった。
「やっぱり、来てない」
 携帯電話を広げ、顔の前に持って行く。だが開いた画面で最初にしたのは、メール作成ではなかった。
 未読フォルダを開いて、中身が空なのに力なく肩を落とす。祝辞の嵐は午後に入ってひと段落ついており、昼休み以降は一通も届いていなかった。
 今日だけで、二十通近いメールが来た。
 けれどどれだけ待っても、一番欲しい人からの通知は来なかった。
「朝、いたよね」
 並盛中学校の名物とも言える、風紀委員がずらっと並んだ上での登校風景。黒の学生服にリーゼントヘアの男たちが列を成す様は壮観で、威圧感も抜群だった。
 そんな男たちを指揮するのが、風紀委員長こと雲雀恭弥。細身の狂犬はトンファーを自在に操り、並居る強敵を悉く朽ち果たして来た。
 ボンゴレ十代目の、雲の守護者でもある。孤高の浮雲の名の通り、なにものにも囚われない自由人でもあった。
 霧の守護者の六道骸でさえ、コンタクトを取って来た。雷の守護者であるランボは、朝食の席でおめでとう、と言ってくれた。
 嵐、雨、晴れの守護者は例の通り。
 だというのに最後のひとりだけが、未だ何のアクションも起こしていなかった。
 風紀の腕章を腕に着け、学生服を肩に羽織った黒髪の生徒。
 その姿は今朝、確かにこの目で確認した。
 午前中、学内で見回りをしている彼を見かけもした。獄寺や山本が一緒だったので話しかけられなかったが、一瞬だけ目が合った。
 なにも言われなかった。
 視線だって、興味なさげに逸らされてしまった。
 ショックだった。
 どうしようもなく、哀しかった。
「知ってると、思うのに」
 もしや彼だけ、今日がなんの日か知らない可能性を考える。だが三時間目の移動教室時、共に歩いていたふたりは声高に、綱吉の誕生日が今日であると語っていた。
 それがどれだけ目出度いか、力説していた。
 声は大きく、廊下ですれ違った雲雀の耳にも、しっかり届いていたはずだ。それに並盛中学校をこよなく愛する彼のことだ、在籍する生徒の誕生日だって、把握していて可笑しくなかった。
 だというのに、なにも起きない。
 沈黙する画面を孤独に睨みつけて、綱吉はボタンもなにもない場所を爪で掻いた。
 トイレを出れば、獄寺たちが待っている。授業もあとひとつ、残っていた。
 それが終われば家に帰って、賑やかなパーティーの始まりだ。
 雲雀は人と慣れ合うのを嫌がる。沢田家が喧騒に包まれている間は、絶対に近付いてこないだろう。
 学校にいる間が勝負だった。出来るものならトイレの窓から外に出て、応接室に駆け込んでやりたかった。
「無理だよなあ」
 だが生憎と、ここは三階。窓の外に頼りになるものはなく、飛び降りたらただでは済まない。
 死ぬ気になれば話は別だが、こんなところで力を使いたくなかった。学校内では日常生活を満喫するのだと誓って、顔を上げた彼は直後に落胆の息を吐いた。
 俯けば、便器が見えた。
 あまり楽しい環境ではないのを思い出して、綱吉は渋々、壁から身を剥がした。
 待っていたかのように、遠くからチャイムが響いて来た。鳴り終わる前に教室に入らなければ遅刻であり、急ぐ必要があった。
「やば」
 山本達まで巻き込むのは、さすがに申し訳なさすぎる。
 慌てて鍵を外して外に出て、彼はそのままドアへ向かおうとした。
「手くらい、洗いなよ」
「ふえ?」
 それを、余所から引き留められた。
 思ってもなかったひと言にきょとんとなって、綱吉は腕を前後に振ったポーズのまま凍り付いた。
 左手に携帯電話を握り、右手は緩く拳を作って。
 足も広げて踵が浮いた状態で、首だけが声のした方向に向けられた。
「え……」
 いったい、いつの間に。
 いや、いつから、居たのか。
 予想外も良いところの遭遇に騒然となって、彼は一瞬にして青くなり、直後に煙を噴いて真っ赤になった。
「ひあぁぁっ!」
「そんな汚い手で、僕の学校に触らないでくれる?」
 跳び上がって驚いた。声がひっくり返って、まるで女の子のようだった。
 それを淡々と受け流して、男が言った。ポケットから出したハンカチで濡れた手を覆って、丁寧に拭きながら睨みつけて来た。
 鋭い眼光は、猛禽のそれに近い。獲物と定めたものは逃さないと、漆黒の双眸が不遜に告げていた。
 綱吉は腹を下して、トイレに籠っていたわけではない。だから水も流さなかった。てっきり誰もいないと思っていたので、完全に油断していた。
 気が付かなかった。
 物音ひとつ、聞こえなかった。
 入った時、個室の扉は全部開いていた。となれば、後から入って来たとしか思えない。
 門番代わりの獄寺と山本は、どうしたのか。まさか打ち倒されて廊下に転がっているのではと、想像して寒くなった。
「い、え。あの」
「なに」
「なっ、なんでもありません!」
 言いたいことや、聞きたいことは沢山あった。
 今日はオレの誕生日ですだとか、ふたりは無事なのですか、だとか。
 だというのにいざ口を開けば言葉に詰まり、根性なしが顔を出した。
 裏返った声で悲鳴を上げて、注意されたことも忘れて駆けだした。手を洗いもせず扉を開けて、誰も居ない廊下に一瞬虚を衝かれた。
 いると思っていたふたりの姿が見えず、頭の上ではチャイムが余韻を残して消えていく。今日最後の授業は数学で、担当する教師は出席に厳しい人だった。
「ちょ、えっ。もう!」
 パニックに陥って、頭がまともに働かなかった。
 急がないと雲雀が出てくる。会いたかった筈の相手から、今は兎も角逃げたかった。
 あんなのは、不意打ちだ。動揺してしまって、冷静に対処するなど無理な相談だった。
 地団太を踏んで、綱吉は叫んだ。なにを優先させるかで悩みに悩んで、出した結論は良いからここから離れろ、だった。
 獄寺たちの行方が気になったが、己の身の安全も重要だ。悪いが部下は見捨てることにして、彼は一目散に駆けだした。
 一秒でも早く雲雀の前から逃げ出して、安心できる場所に移りたかった。この際教室でも、どこだって良い。ひとりきりにならずに済むなら、ヴァリアーの居城だって大歓迎だ。
 さっきまであれだけ一人になりたかったのに、身勝手も良いところだ。しかし覚悟がないまま雲雀と向き合うには、残念ながら勇気が足りなかった。
 ぎりぎりセーフで教室に滑り込んで、荒い息を吐きながら机へとへたり込む。獄寺や山本は先に席に着いており、後から気付いた綱吉を驚かせた。
 恐らくは、雲雀に追い払われたのだろう。
 それとも変に気を利かせたか、なんなのか。
 彼らが無事で良かったと安堵しつつも、複雑な心境は否めない。巧く行かないことだらけで、穴があったら入りたかった。
 放課後の帰り道は、例の二人に加え、了平や京子が一緒だった。途中からは学校が違うハルが加わって、近所の公園では、にフゥ太やランボたちが列に加わった。
 誰も彼も笑顔で、みんなして嬉しそうだった。
 綱吉とリボーンの合同誕生会開催を心から喜び、盛大に祝う意気込みに溢れていた。美味しいものが食べられるから、騒ぎ立てる正式な理由が出来たから、という理由以外で、本当に嬉しそうだった。
 夢にまで見た光景が、そこに広がっていた。
 一斉に糸が引かれたクラッカー、空中に漂う少量の火薬の匂い、降り注がれる紙吹雪。
 山本の実家から届けられた寿司、生クリームたっぷりの大きなケーキに、テーブルからはみ出るくらいの奈々お手製の大量の料理。
 ビアンキ特製の毒々しい料理も勿論混ざっており、主な被害者は獄寺だった。参加者は順にかくし芸を披露して、プレゼントが山を作り、海外からのメッセージカードが賑わいに花を添えてくれた。
 幸せだった。
 嬉しかった。
 こんなに楽しい日があっていいのかと、泣きそうになるくらいだった。
 だけれど矢張り、物足りなさがあった。チリチリと胸を焦がす感覚が、昼間からずっとそこに留まり続けていた。
 贅沢な悩みだが、どうせなら知り合い全員から祝われたかった。
 おめでとうの言葉ひとつで構わない。数年前なら思いもしなかった欲望が、むくむく膨らんで弾けそうだった。
 敵対していた連中からも、メッセージをもらった。
 だというのに、ファミリーの中から声を上げない輩が出るのは、ボスとして受け入れ難い状況だった。
 他人が勝手に決めた配役ではあるが、嫌な気はしなかった。そんな重責背負えないと反発しているけれど、心のどこかで、彼らと『家族』になるのは悪くないと思っていた。
 はち切れそうな胃袋と、緩みっぱなしで戻らない顔の筋肉。疲労感はほどほどに、目を瞑れば楽に眠れそうだった。
 昨日とは雲泥の差だ。風呂を終えて頭を拭きもせず、綱吉はベッドに四肢を投げ出した。
 雫が首を伝って冷たいが、払い落とす気力が沸かない。もう今日はなにもしたくなくて、早々と終わって欲しかった。
 一年分の幸福を、一日で食べ尽くした。
 この満腹感は、当分の間消えそうにない。丸くぽっこり膨らんでいる場所をパジャマの上から撫でて、綱吉は物憂げな表情をシーツに押し付けた。
 こんなにも満ち足りているのに、まだ欲しい。
 望みが遂げられる甘美さを知ってしまった心は、次々に新たな欲望を産み出し、止め処なかった。
「はあ……」
 あんなに笑ったのは、久しぶりだ。
 愉しかった。日付が変わった瞬間からここまで、振り返れば一瞬だった。
 ちょっと嫌な思いをしたけれど、帳消しにしてもいい。リボーンに撃たれた場所はもう痛まず、触れても腫れは見つからなかった。
 だというのに、ため息が止まらない。
 子供に戻った心が拗ねて、小鼻を膨らませていた。
「ヒバリさんの、馬鹿」
 枕を担ぎ上げ、後頭部に被せる。うつ伏せのまま呻いて丸くなって、綱吉は足首を撫でた風に身を震わせた。
 十月も半ばに入り、秋の色は日増しに濃くなっていた。田畑は収穫のシーズンを迎えており、芋やカボチャを使ったスイーツが店頭を彩っていた。
 ハロウィンが間近で、子供たちは仮装の準備に忙しい。配る菓子の用意もしなければと、考えることは沢山あった。
 これしきで落ち込んでいる暇はない。
 マフィアのボスは忙しいのだと、自分に言い聞かせて慰めようとした。
 その扁平に近い、小さめの足の裏を。
「……ン?」
 またもや涼しい風が悪戯に擽って、綱吉は肌寒さに身を震わせた。
 布団を被っていないから仕方がないとはいえ、少々空気が冷えている。部屋の窓は入浴前に確か閉めたはずで、風の通り道になるドアも、しっかり閉じたつもりだった。
 なにかが可笑しいと、頭の中で警鐘が鳴った。赤いランプがうるさく明滅して、背筋にぞわっと悪寒が走った。
 不発が続く超直感に慌てて、被っていた枕を跳ね除けて身を起こす。
「ぶっ」
 だが腰を捻ろうとした瞬間、顔面が柔らかなものに跳ね返された。
 空中に壁があった。
 クッションも十分な障壁に気付けなくて、綱吉はあっさりベッドへと舞い戻った。
 上半身を不自然に捻った状態で倒れ込み、数回弾んでから鼻の頭を撫でる。かなり低いそれは幸い潰れておらず、どこかが切れて血がにじむ、ということにもなっていなかった。
「な、に」
 実を言えば、あまり痛くなかった。
 それよりも想定していない状況への戸惑いの方が、圧倒的に強かった。
 あるはずのないものに混乱し、目の前が曇った。動揺を抑えきれなくて困惑していたら、壁の向こうから深い溜息が聞こえて来た。
「今ので、君、死んでるよ」
 いくら自室とはいえ油断し過ぎだと責めて、呆れ果てて肩を落とす。
 手にぶら下げたものを膝へ降ろして頬杖をついた青年にも、綱吉はパニックを起こして目を白黒させた。
 いるはずのない人が、いた。
 確かに閉めた筈の窓は全開状態で、白色のカーテンは風を受けてひらひら踊っていた。
 そういえば、閉めはしたが、鍵はかけなかった。
 三十分ほど前の自分を思い返して蒼白になって、彼は口をパクパクさせながら、ベッドの上で竦み上がった。
 慌てて跳び起きて、正座をして、すぐに辛くなって膝を広げた。足首を横向きに寝かせて尻を沈め、頬をぴくぴく引き攣らせた。
 本日二度目の不意打ちだった。
 想像だにしていなかった事態に頭がついて来ず、大きな眼は左右を行き交い、落ち着かなかった。
 濡れた毛先から雫が垂れて、ぽとりとひとつ、首に落ちた。
「うひゃ」
 それに大袈裟に驚いていたら、ベッドサイドに腰かけた男が、これ見よがしに肩を竦めた。
「ほら」
「え、え?」
 もうひとつ嘆息して、手にしていたものを放り投げる。
 綱吉の顔拓が薄く残る紙袋を渡されて、受け取った少年は訳が分からず首を傾げた。
 中身は軽かった。触り心地が柔らかいのは、先ほど正面衝突したので知っている。
 どこかで見た覚えのあるロゴを撫で、袋から顔を上げた。夜だというのに制服姿の風紀委員長と目が合って、不敵な笑みで返された。
「ヒバリさん」
「今日でしょ、誕生日」
「えっ」
 悠然と足を組み、頬杖をついていた。いつでも、どこでも偉そうな態度を崩さず、告げる内容はいつも突飛だった。
 今日だけで何回、彼に驚かされただろう。
 絶句して騒然となっていたら、見込み通りの反応だったのか、雲雀は腕を下ろして腹を抱えた。
 声は聞こえなかったが、肩が震えていた。前のめりになって全身を揺らして、意地悪な青年は口角を持ち上げた。
「でしょ?」
「知って、た……ですか」
「そりゃ、ね」
「じゃあ、なんで」
 唖然としたまま、気が付けば問うていた。
 届かないメールに苛立ち、聞こえない祝辞に耳を澄ませた。誕生日を把握されていない可能性を考えて、なんとか心に折り合いをつけていた。
 騙された。
 遊ばれていた。
 ショックが大きくて、涙が溢れそうになった。
「まだ今日だよ」
「でも」
「君の顔、面白かったよ」
「ぬああ!」
 愕然とする綱吉に、雲雀は手を伸ばした。人差し指で額を小突いて、敢えて近付かなかったのも、話題に出さなかったのもわざとだと教えた。
 期待して、その都度落胆する綱吉を見て愉しんでいた。
 全部計算ずくだったと知って悲鳴を上げて、未来のボンゴレ十代目は掴んだ袋に顔を埋めた。
 振り回された。
 からかわれた。
 誕生日に、弄ばれた。
 こっ恥ずかしくて、生きた心地がしなかった。
「ひどいです、ヒバリさん」
「なにが。ちゃんと今日中に渡したんだから、問題ないでしょ」
「俺の純情をなんだと」
「へえ?」
 半泣きで文句を言えば、興味深げに相槌を打たれた。不遜な表情で距離を詰めて来られて、吐息が掠める近さに息を飲んだ。
 至近距離から覗きこまれ、黒い瞳に吸い込まれそうだ。綺麗過ぎて底が見えない闇にぞわりとして、綱吉は反射的に膝を閉じた。
 鳥肌を立て、萎縮して凍り付く。
 だが雲雀はそれ以上進まず、なにも言わずに下がっていった。
「君が、純情」
「い、けませんか」
「淫乱、の間違いじゃないの?」
「――――っ!」
 綱吉も座ったままじりじり後退して、顔を赤くして呻いた。
 直後放たれた言葉には、衝動的に手にしていたものを振り上げ、放り投げていた。折角のプレゼントを雲雀に叩きつけて、パジャマの裾を限界まで引っ張った。
 紙袋に打たれた男は声もなく笑い、落ちた袋を今一度投げた。綱吉の手前に落ちたそれは弾みもせず、横倒しになって沈黙した。
「決闘なら、いつでも歓迎するよ」
「は?」
「じゃあね。おやすみ」
 言いたいことだけを言って、彼は立ち上がった。呆気にとられる綱吉を放置して、開けっ放しの窓に向かった。
 靴は、窓の下にあった。それを履いてカーテンを横に払って、入ってきた時と逆のルートで出て行った。
 止める暇もない、鮮やかな動きだった。
 泥棒をやったら、さぞや稼げるだろう。妙なところで感心して、綱吉は息を吐き、火照った頬をむにむに捏ねた。
「なんなんだよ、もう」
 あと少しで、唇が触れるところだった。
 不覚にもドキドキしてしまって、胸の鼓動はなかなか鎮まらなかった。
 部屋は寒いのに、汗ばむほどに暑い。相反する状況に臍を噛んで、彼は雲雀が残していったものに手を伸ばした。
 袋を開け、中身を取り出す。
「……どうしよう」
 出て来たのは、手袋だった。
 見るからにお高そうな一品を、綱吉は先ほど、雲雀へと叩き付けた。
 それは西洋では、決闘を申し込む合図だと、なにかで聞いた覚えがある。
 当分雲雀には、色々な意味でドキドキさせられる。誕生日の最後の最後に落とされた爆弾に、少年は真っ赤になって、丸くなった。

2015/10/9 脱稿