蔦のもみぢを 軒に這はせて

 本丸の屋敷は広い。
 その上敵に攻め込まれた時に対処し易いようになっているのか、間取りは異様に複雑だった。
 と言えれば良かったのだが、この奇怪極まりない構造は、実のところ無秩序な増設工事を繰り返した結果だ。遅れて本丸に至った刀剣男士の一部は前者を信じていたが、早い段階で審神者に喚び出された者たちにとって、これは周知の事実だった。
 とはいえ、無駄に言い触らして、無用な騒乱を招くことはない。
 無邪気に審神者を信じ、主と呼び慕うものはそうさせておけばいい。腹に一物も、二物も抱え込んでいるだろう存在を脳裏から追い出して、小夜左文字は朝の屋敷を急いだ。
 とたとたと足音を響かせ、秋の風が涼しい屋敷の廊下を駆ける。右手には小さめの池を抱えた庭があり、ちょろちょろと水が流れる音がした。
 四方を建物に囲まれているその池は、渡り廊の下を潜る形で走る小川と繋がっていた。勿論それも人工的なものであり、屋敷を彩る装飾のひとつだった。
 元は空き地だった場所を使って、最近完成したばかりだ。奥の建物もそうで、歩けば真新しい木の匂いがした。
 渡り廊の屋根を支える柱は檜で、傍を通れば爽やかな香りが鼻腔を擽る。その時だけは少し幸せな気分になれて、小夜左文字は気に入っていた。
 もっとも、その廊を抜けた先は少し苦手だった。
 境界線にもなっている小川を越えた先には、新たに参陣した刀剣のうち、数口に与えられた部屋がある。
 そこの住人は、体格が大きい故に元々あった屋敷では狭すぎた者と、他者との交わりを嫌い、離れて静かに暮らしたがった者たちだ。
 前からあった屋敷の北側に建設されたので、日当たりはあまり宜しくない。こうして大きめの中庭を設ける事で、陽射しを確保しているものの、回廊を抜けてしまうと、昼でも夜並みに薄暗かった。
 その所為か、母屋に比べると少し肌寒い。
 歩調を緩めながら腕を撫でさすって、小夜左文字は風もないのに揺れる芒に目を向けた。
「遅くなってしまった」
 暦は夏が終わり、秋が深まって、もうじき冬に至ろうとしていた。
 昼は日に日に短くなって、気温も徐々に低くなっていた。初雪はまだだけれども、そう遠くないうちに、天から舞う白いものが拝めるだろう。農作業に従事する刀剣たちは、雪がどれくらい積もるかで、気が気でない様子だった。
 食料の備蓄も、既に始まっていた。
 長期間保存が利くよう、生野菜を乾燥させたり、味噌や酢に漬け込んだり。肉は煙で燻し、馬に食わせる飼葉を掻き集めるのも忘れない。
 なにせ、すべてが初めてのことだ。
 知識として持ち合わせていても、実践するとなると難しい。審神者に現世へ喚び出されたばかりの頃、巧く身体を扱えなかったのを思い出して、小夜左文字は右手を握り、すぐに開いた。
 同じ仕草を三度繰り返し、今やすっかり馴染んだ感覚に肩の力を抜く。その間も足は交互に動き続けていて、目的の場所まで残り僅かとなっていた。
「あ」
 しかし傷だらけの脚は、直後に止まった。
 踝に巻き付けた包帯を風に晒して、小夜左文字は藍色の袈裟を握りしめた。
「薬研、藤四郎」
 前方から歩いてくる者があった。
 色白の肌に、黒い髪。黒を基調とした、地味ながら機能的な衣装を身に纏った少年は、同じく前方に佇む存在を見つけて顔を上げた。
「ああ、お前か」
 黒の手袋を嵌めた彼の胸元には、黒漆塗りの膳が掲げられていた。
 そう大きくない、四角い空間に、上物と分かる食器が規則正しく並べられている。椀の蓋は外されており、中身が消え失せた後なのは、見ただけで想像がついた。
 箸置きに添えられた箸にも、使われた後と分かる痕跡があった。四角い皿には魚の骨が居座り、小皿には新香が丸ごとのこされていた。
 誰かに供された食事を引き上げているところだと、言われなくても分かる。
 問題なのは、それが誰の朝食だったか、だ。
 増設されたばかりの区画に住まう刀剣は、そう多く無い。そのひとりである蜻蛉切は、窮屈ながらも皆と同じ部屋で食事を取っていた。背中を丸め、出来る限り身体を小さくして、特注品の箸を器用に扱っていた。
 次郎太刀だって、そうだ。大勢で食べる方が楽しいからと、日中もずっと本丸の方に居座っている。
 つまり、奥座敷に引き籠ってひとりで食事をする存在は、ひとりしか居ない。
 籠の鳥を自認する男を脳裏に思い浮かべ、小夜左文字は大きく目を見開いた。
「それ」
「いやあ、……はは」
 口を開けば、声が震えた。薬研藤四郎は何かを気取って半歩下がり、誤魔化すように笑った。
 だが頬は引き攣り、笑顔は中途半端だった。目は泳いで宙を彷徨い、一周した末に小夜左文字へと戻された。
 最後は溜息だった。
 力なく肩を落として項垂れて、覚悟を決めたのか、背筋を伸ばした。
「そうだ。宗三のだ」
「どうして」
「たまたまだ。近くを通りがかったら、廊に出ていたからな」
 潔く認め、胸を張る。
 しかし本当に偶然かどうかは、なんとも疑わしかった。
 彼の言い分だと、屋敷を歩き回っている時に、偶然宗三左文字の部屋の前を通りがかった事になる。けれど新造されたばかりのこの一画は、使う者も少なく、目立った施設にも繋がっていなかった。
 迷子になったならともかく、ふらふら出歩いて辿り着く場所ではない。それに宗三左文字は他者との接触を嫌う分、他の刀たちからも敬遠されていた。
 扱いあぐねて、放置されているとも言える。審神者がなんとかしようと躍起になっているが、功を奏しているとは言い難かった。
 彼の弟である小夜左文字ですら、滅多な事ではここに来ない。せいぜい食事の膳を運び、一定時間が過ぎた後に下げに行くくらいだ。
 本当は色々話したいのに、話しかけ辛い。何を語り合えばいいのかも分からず、どう切り出せば良いのかも不明だった。
 なにせふたりは兄弟刀ではあるけれど、共に時を過ごした記憶はないに等しい。それなら小夜左文字は歌仙兼定の方がずっと馴染み深いし、宗三左文字も別の刀と縁があった。
 そのうちのひと振りが、此処に居る薬研藤四郎。
 魔王こと、織田の懐刀だった男だ。
「そう。たまたま、近くを」
「……いけないか?」
「別に」
 その数奇な巡り合わせを、どう処理すればいいだろう。
 納得しかねて口を尖らせた小夜左文字に、薬研藤四郎は不遜だった。
 涼しい顔をして嘘を言って、それを押し通そうとする。世慣れた狡さに小鼻を膨らませて、小夜左文字は握ったままの袈裟を手放した。
 無数に刻まれた皺を放置して、腕を伸ばす。
 掌を上にして手を差し出されて、薬研藤四郎は虚を衝かれたか、目を見開いた。
「預かろう」
 孤独に日々を過ごす宗三左文字へ食事を運ぶのは、小夜左文字が請け負った仕事だった。
 傍に行きたいが、傍に居続けるのは難しい。
 ならばせめて、接触の機会を設けよう。
 台所仕事を引き受けている男の気遣いに頬を紅潮させて、早く膳を渡すよう、彼は薬研藤四郎に促した。
 一方、荷物を寄越すよう言われた短刀は困惑をありありと顔に浮かべ、己が手に持つものと、小夜左文字とを見比べた。
「薬研藤四郎」
「……参ったな、こりゃ」
 なかなか動かない彼を急かせば、薬研藤四郎は苦笑した。長めの前髪から覗く目を眇め、降参だと白旗を振った。
 短い時間の中で、己の中で何かに折り合いをつけたらしい。
 疑問が解消したと言わんばかりの表情を浮かべられて、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
 そんな彼に持っていた膳を押し付けて、薬研藤四郎はぱっと手を離した。
「うっ」
「どうやら、心配いらなかったみたいだな」
「なんの話だ」
 支えを失って落ちていく膳を、小夜左文字が慌てて胸に抱え込む。
 傾いた台座から箸が零れ落ちそうになって、少年は呵々と笑う小刀に小鼻を膨らませた。
 未だ本丸に馴染めず、弟と称する短刀とも関係を築けない。
 望んで籠の鳥を演じている打刀の昔馴染みは不敵に笑い、自由になった両手をぶらぶら揺らした。
「いやあ、なに。俺っちとしては、宗三の奴に黴でも生えてんじゃねーか、ってな」
 ずっと薄暗い、湿っぽい部屋に居たら錆びてしまう。
 本丸に居ながら滅多に顔を見ない相手を嘲笑った少年に、兄を愚弄された弟はムッと頬を膨らませた。
「あにさまは、綺麗だ」
 勝手なことを言われて、腹が立つ。
 語気を強めて咎めた彼に、薬研藤四郎はしたり顔で頷いた。
「ああ。知ってるさ」
「……――――」
 そうして妙にしんみりしながら、はっきりと言い切った。右手は緩く握って腰に当てて、視線は遠く、屋根越しに空へと注がれた。
 鳥の姿は見えないけれど、囀りが聞こえた。
 屋根の上で戯れる獣に意識を飛ばした彼に、小夜左文字は複雑そうな顔をした。
 膳を抱え直し、器に残された食事の量に半眼する。焼き魚は骨だけになっていたけれど、麦や稗を混ぜた雑穀米は、器に半分以上、残されていた。
 すっかり冷えて固くなっている飯は、小鳥の餌にでもするしかない。
 餓えたことがないだろう男の傲慢さに臍を噛み、芽生えかけた賤しい心を抑えこむ。
 形ばかりとはいえ、兄は兄だ。
 憎しみにも似た感情を抱くのは、嫌だった。
 枯れ草さえ残らない荒れ地の光景にかぶりを振って、意を決して自分に頷く。
「あにさま、の。……おきらいなもの、とか。知っているか」
「宗三の、か?」
「ああ」
 葛藤を奥に隠し、小夜左文字は遠慮がちに口を開いた。
 恐る恐る問えば、薬研藤四郎に確認された。相違ないと首肯すれば、彼は思案して顎に手を添えた。
 記憶を手繰っているのか、俯き、視線は交わらない。沈黙が暫く続いて、待つのが退屈だった小夜左文字は汁物の椀に息を吹きかけた。
 底に僅かに残る水分を揺らし、溶け残った味噌の塊に肩を竦める。飯と違ってこちらは綺麗に平らげており、具材に使われた麩も、三つ葉も、なくなっていた。
 恐らくは食材の好き嫌いではなく、単に固さの問題と思われた。新香に一切箸をつけていないのは、匂いに関係がありそうだった。
「そうだな。あいつは……なんか食ってる印象が、まるでないな」
「役立たず」
「そう言うな。俺たちがこうなったのは、つい最近の事だろ」
 ひとり思案していたら、薬研藤四郎が絞り出した答えを口ずさんだ。もっとも内容は無いに等しく、小夜左文字は本音を我慢出来なかった。
 正直に吐露した彼を笑い、薬研藤四郎は意に介さない。自分でも為になる情報を持ち合わせていないと分かっているようで、口調は自虐的だった。
 あっけらかんとしている少年は、色々な意味で肝が据わっている。
 無邪気な他の藤四郎たちと比べると、彼はほんの少しだけ、大人だった。
 付喪神は本来、食事を必要としない。
 彼らが食べるのは、審神者に現世へと喚び出された際に、人と同じ身体を与えられてしまった所為だ。
 そうしないと刀を握れないわけだから、この処置はやむを得ない事だ。しかし何から何まで同じように揃えなくても良いのにと、思わされる機会は多かった。
 一日三食も強要されるのは不便だし、夜になると眠くなるのも厄介だ。
 本来は冷たくあるべき刀が暖かく、切られれば血が流れるのも、不可解極まりなかった。
「ま、面白くはあるけどな」
 だというのに、薬研藤四郎は気にする素振りが見られない。
 日々楽しんでいる様子の彼と古い知り合いとが重なって、小夜左文字は肩を竦めた。
「歌仙と同じことを言う」
「小夜は、違うのか?」
「……よく、分からない」
 細川で世話になっていた頃に一緒だった刀は、人の形を得たのを喜んでいた。身の回りで起きる様々なことを観察して、親しんで、戦場以外では大体笑っているような男だった。
 小夜左文字は、あんな風に振る舞えない。
 復讐の二文字に取りつかれた幼子は、既に居ない仇を探し、それだけに固執していた。
 己が殺した人々の怨嗟に苦しめられて、耳を塞ぎながら過ごしている。穏やかな時間は罪と決めつけて、連日のように戦闘に明け暮れ、他の短刀たちとは一線を画していた。
 酷な質問をしたものと、薬研藤四郎は言ってから気が付いた。俯いてしまった少年に肩を竦め、彼は別の話題を探そうと目を泳がせた。
 鳥が二羽、澄んだ空を飛び去って行った。
 番か、それとも兄弟か。
 想像するより他にない状況に嗚呼、と頷き、彼は膳の脚を掻いている小夜左文字に苦笑した。
「それより、ずっと気になってたんだが」
「なに」
 気落ちする会話は、中途半端ではあるがここで終わりにする。
 話題を変えようと、長い間疑問だったと咳払いの末に嘯かれて、小夜左文字は胡乱げに薬研藤四郎を仰ぎ見た。
 彼は颯爽と足を前に繰り出して、小夜左文字が通ってきたばかりの通路を逆向きに歩き始めた。
 宗三左文字の部屋に出向く用事は、薬研藤四郎が横取りしたお蔭でなくなった。
 いつまでもここに居る道理はなくて、左文字の短刀も渋々踵を返した。
 台所では歌仙兼定が、片付けしながら待っている筈だ。
 この膳が届かないと、彼の仕事も終わらない。働き者の打刀を瞼の裏に呼び出して、小夜左文字は一度だけ兄の部屋を振り返った。
 障子戸は閉められ、誰かが出てくる気配はない。
 前を行く薬研藤四郎は、彼と会話したのだろうか。
 気になったが、問うたところで教えてもらえそうになかった。
「薬研」
 聞きたいことがあると言い出したのは彼なのに、なかなか切り出そうとしない。
 痺れを切らして自分から話しかければ、首から上だけを振り返らせた男が口角を持ち上げた。
「なあ。小夜は、なんで宗三が『あにさま』なんだ?」
 先ほどもそうだが、小夜左文字は宗三左文字をそう呼んでいた。
 けれどそれは、あまり聞かない言葉だ。全くないわけではないけれど、ぱっと頭に思い浮かぶ呼び方ではない。
 歌仙兼定や他の短刀には砕けた言葉遣いをする彼だけれど、他の太刀や打刀には、比較的口調は丁寧だ。それは兄である宗三左文字に対しても同様で、本人が目の前にいなくても、敬語を欠かさなかった。
 遠慮が先走っているのか、それとも本気で謙っているのか。
 恐らくは前者だろうと判断して、薬研藤四郎は彼に向き直った。
 他人行儀が抜けきらない兄弟は、傍から見ていてもぎこちない。最初こそどうなるか、と面白がって傍観していたが、日が経つにつれてやきもきしてならなかった。
 お節介が過ぎるとは思ったが、気になって仕方がない。それでいざ行動を起こしてみれば、この有様だ。
 折角だから訊いてみる気になった粟田口の短刀を見詰め、小夜左文字はきょとんとしながら首を傾げた。
「言っている意味が、よく分からない」
「……おい」
 そのまま不思議そうに呟かれて、薬研藤四郎は思わず空気を叩いた。
 まさか言葉が通じていないのかと勘繰るが、そんな訳がない。冷や汗を流した少年は即座に頭を切り替えて、人差し指でこめかみを叩いた。
「分からないって、そいつは、つまり……なにが、だ?」
 薬研藤四郎が気になったのは、宗三左文字を呼ぶ際の敬称だ。
 通常、兄を呼ぶ時は「兄上」もしくは「兄さん」であり、「兄貴」も当然含まれる。未だ本陣に至ってはいないものの、粟田口には一期一振という太刀が居て、他の藤四郎たちは親しみを込めて彼を「いち兄」と呼んでいた。
 薬研藤四郎には、可笑しなことを聞いたつもりはなかった。だから小夜左文字が何に疑問を感じているのかが、巧く把握出来なかった。
 お互い首を傾げあったまま、数秒間停止する。
 黙り込まれた薬研藤四郎は困った顔で頬を掻き、残る手で中空に円を描いた。
 当惑している彼に小鼻を膨らませて、小夜左文字は宗三左文字が使った箸を並べ直した。
「あにさまは、あにさまだ」
「いや、だから……ああ」
 憤然とした面持ちで吐き捨てられて、弱り果てた薬研藤四郎が一瞬置いて肩を竦めた。すとん、と落ちて来た答えに納得して頷いて、彼は汗で湿った前髪を掻き上げた。
 言葉が足りなかった。
 反省して、織田の短刀は相好を崩した。
「小夜はどうして、宗三の奴を『あにさま』って呼んでんだ?」
 先ほどの質問に、いくつかの言葉を継ぎ足して、再度告げる。
 これで分かってもらえなかったらお手上げだったが、小夜左文字は目を見開き、四肢の力を抜いた。
 そういう意味か、とあちらも納得して貰えたようだ。
 恐らく彼は、宗三左文字はどうして小夜左文字の兄なのか、という風に解釈したのだろう。確かにそう取られても可笑しくない言い回しで、迂闊だった。
 粟田口の弟たちと会話していると、ついつい言葉を省いてしまう。
 しかもそれで通じるものだから、いつの間にか癖になっていた。
 気心の知れた間柄の相手と、そうではない相手と。世の中には二種類あるというのを思い出し、薬研藤四郎は目尻を下げた。
 ただ、それでも返答は得られなかった。
 改めて尋ねられた少年は口を噤むと、眉間に皺を寄せた。唇を真一文字に引き結び、狼狽えながら瞳を彷徨わせた。
「小夜?」
「変、だろうか」
「え?」
 それほど難しい質問ではなかった筈だ。
 だというのに袈裟を掻き毟りながら切羽詰まった貌をされて、薬研藤四郎は意外なひと言に目を点にした。
 いつもより高めの声で、早口に捲し立てられた。爪先立ちになって背伸びまでして、小夜左文字は必死だった。
 なにをそんなに、慌てる必要があるのか。
 事情がさっぱり読み解けなくて、薬研藤四郎は呆気にとられて口をぽかんと開けた。
 その表情を、違う風に解釈したらしい。
 小夜左文字は背中を丸め、漆塗りの膳に爪を立てた。
「あ、いや。別に、変だとか。そういう意味じゃあ、ねえぞ?」
「薬研」
「いや、おかしくない。おかしくねえ。あにさま、結構じゃねえか――俺は絶対、呼ばねえけどな」
 未だ邂逅が叶わない長兄を思い浮かべ、薬研藤四郎が嘯く。
 焦り気味に慰められた少年は疑いの眼差しで彼を見詰め、右の足指をもぞもぞ動かした。
 真新しい床板を捏ねて、踵で叩いて音頭を取る。トントン、トトン、と即席の太鼓で楽を奏でて、小夜左文字は水のせせらぎが聞こえる庭に顔を向けた。
「前に、歌仙が。あにさまが、来たばかりの時に。早く兄上様にも会えるといいね、と、言った」
「あ? ……ああ。それで?」
 横顔は、不安げだった。
 突如会話に出て来た男の名前にまず驚いて、薬研藤四郎は素早く頭を巡らせた。
 小夜左文字には兄がふたりいる。太刀の江雪左文字と、打刀の宗三左文字だ。
 うち、本丸に居るのは次兄と三男だけ。だから歌仙兼定は、早く長兄が本丸へと至り、三兄弟が揃えば良いと言ったのだ。
 けれどそれと、これと、どういう繋がりがあるのか。
 訳が分からないと混乱していたら、視線を戻した小夜左文字が、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「だから、江雪兄上が、兄上様、なら」
「う、ん?」
「宗三兄上は、兄様、と……」
「はい?」
 今度は薬研藤四郎が、彼の言っている意味を理解出来ない番だった。
 思わず身を乗り出して、素っ頓狂な声を上げる。すると益々小夜左文字はただでさえ小さな身体を小さくして、恥じ入って首を竦めた。
 亀になってしまった彼を上から下まで眺めて、踵を戻した薬研藤四郎は思い切り額を叩いた。
 べちん、と小気味の良い音を響かせて、彼は解釈を試みて瞑目した。
 江雪左文字は、左文字の長兄。
 宗三左文字は、左文字の次兄。
 末っ子は次兄を兄様と呼び、長兄のことは兄上様と言った。
 欠けたのは、「上」のひと文字。
「ん……?」
 そこまで思い至って、薬研藤四郎は瞬きを繰り返した。
 小夜左文字を見れば、膳を楯代わりにしていた。それで隠れているつもりなのか、じりじり後退して距離を広げようともしていた。
 随分と可愛らしい照れ方だ。
 生意気盛りの弟たちにも見習わせたくなって、粟田口の少年は、分かってしまえば至極単純だった解に苦笑した。
「なるほどな。宗三の奴は、一番上じゃあ、ねーもんな」
「う……」
 長兄に「上」を使ったので、ならば次兄に「上」は使うべきでない。
 兄弟というものを良く知らなかった小夜左文字は、そんな風に考えたらしい。
 見た目動揺、随分と可愛らしい理屈に破顔一笑して、薬研藤四郎は糸のように目を細めた。
 気難しく、取っ付きにくい相手だと思っていたが、意外に面白い。
 誰にも訊けなくて、ひとりで必死に頭を悩ませていたのだろう。その涙ぐましい努力を褒め称えて、彼は華奢な肩を力いっぱい叩いた。
「いった」
 堪らず小夜左文字は呻き、身体を斜めに傾けた。もれなく膳の上の食器も片側に偏って、椀の蓋が縁を飛び越えた。
 カン、と床に落ちて跳ねた漆器に、ふたりして青くなった。
「やべ」
 なにより薬研藤四郎が焦り、声を上擦らせて膝を折った。
 裏返っていた蓋を拾い、縁が欠けていないのを確認して安堵する。小夜左文字もほっと息を吐いて、危うかったと汗を拭った。
 傾いていた膳を水平に戻し、疲れて来た腕を労う。薬研藤四郎も蓋を手に立ち上がり、空の椀の隣に置いた。
「ふ……ははっ」
 直後、彼が先に噴き出した。
 腹を抱えて笑い転げる薬研藤四郎に、小夜左文字もつられて相好を崩した。
 なにが面白かったのか、具体的には言えない。
 けれど引きずられる形で頬を緩めて、少年は胸の中にあったもやもやしたものを吐き出した。
 実のところ、最初のうちは薬研藤四郎が嫌いだった。
 彼は小夜左文字が知らない、宗三左文字を知っている。それで得意になって、ひけらかしているように見えた。
 兄弟刀でありながら、弟らしくない自分に引け目があった。思うように関係を築けず、距離がある間に薬研藤四郎が忍び込み、小夜左文字が在るべき場所を奪って行ってしまうように感じた。
 宗三左文字を掠め取られると危惧した。
 自分が出来ない事を軽々とやってのけてしまう彼が、本心では妬ましかった。
「薬研は、あにさまと……親しいのだな」
 ちょっと前までは言えなかった言葉が、今ならすんなり言えた。
 舌の上を滑り落ちた声色が殊の外穏やかで、薬研藤四郎は一瞬間を置いてから微笑んだ。
「どうだろうな。俺っちなんかより、長谷部の方が、よっぽど仲がいいとおもうぜ」
 表情には幾ばくかの自嘲が込められていたが、小夜左文字は気付かなかった。突然湧いて出た打刀の名前に唖然として、何度も瞬きを繰り返した。
「……そうなのか?」
 その情報は、初耳だった。
 確かに宗三左文字は織田にいた頃、彼らと交友を持っている。しかし本丸での接触は皆無に等しく、談笑している姿を見たことはなかった。
 へしきり長谷部は不遜にしているか、仏頂面が多く、宗三左文字も屋敷内を出歩く機会が少ない。ふたりが同席する機会があった事自体、小夜左文字は知らなかった。
 にわかには信じられなくて驚いていたら、薬研藤四郎がにやりと笑った。
「そうだぜ。なにせあの宗三が、声を荒らげる唯一の相手だしな」
「あにさまが?」
 得意げに言い放たれて、小夜左文字の声が裏返った。慌てて口を閉じて後ろを窺って、少年は挙動不審に身を捩った。
 大声に反応する人影はなかった。聞こえなかったのか、宗三左文字が部屋から出てくる気配もない。
 数秒置いてから深く安堵して、彼は声を殺して笑っている短刀に渋い顔をした。
「信じられない」
「だろうな。けど、本当だぜ」
 彼自身、その光景に驚かされたのだろう。ふと遠くを見て口元を綻ばせ、薬研藤四郎は静かに目を閉じた。
 表情が一瞬で変わった。
 穏やかな笑みは一種の諦めを匂わせて、小夜左文字には不思議でならなかった。
「そのうち見られると思うぜ。なにせ、時間だけならたっぷりある」
「……だと、いいけど」
 右手を肩の位置でひらひら揺らした彼の言葉は、微妙な皮肉を含んでいた。
 いつ終わるとも知れない戦いは、裏を返せばこの先延々続く可能性を秘めている。本当に終結を迎える日が来るのかどうか、知っているのは審神者だけだ。
 実際のところ、彼らが敵として認識している者たちがなんなのか、刀剣男士は誰ひとり知らないのだ。歴史修正主義者という話ながら、そう言ったのは審神者であり、それ以外の情報は悉く遮断されていた。
 自分たちが進む道が本当に正しいのか、それとも間違っているのか。
 主に具申し、問い質す権利を、彼らは持ち合わせていない。
 ただの戦道具、人殺しの刀でしかなかった頃と、今と。その部分でのみ考えれば、彼らの立場はなにひとつ変わっていなかった。
 折れれば終わりだが、折れなければ永遠。
 人と違って年老いることがない身体を動かして、小夜左文字は真新しい渡り廊を潜り抜けた。
 真っ直ぐ前だけを見詰める少年は、凛々しくもあり、反面脆さを押し隠そうとしている風にも映る。繋がりの薄い兄弟刀に、それでも必死に縋ろうという痛ましさを盗み見て、薬研藤四郎は遠くなった建物を振り返った。
 次の角を曲がれば、もう見えなくなる。表に面した障子戸は相変わらず固く閉ざされ、人が出入りする様子はなかった。
「不器用者めが」
 彼が部屋を訪ねた時、宗三左文字は一瞬だけ嬉しそうな顔をした。そうして戸を開けたのが想像と違う相手だったと知って、露骨に落胆の表情を浮かべた。
 がっかりしたのと、嫌なところを見られてしまったのと。
 哀しみを押し殺し、虚しさを前面に押し出して。皮肉を口元に浮かべて浅く笑う姿は、滑稽でもあり、蹴り飛ばしたくなる腹立たしさだった。
 逢いたいのであれば、素直に言えばいいのだ。声だけかけて、部屋の前を往復するだけの弟を哀れに思うのなら、招き入れて、抱きしめてやればいいのだ。
 天下人に求められたのは、刀としての価値ではなく、そこに刻まれた魔王の印によるもの。物珍しさだけで持て囃されて、愛でられて、彼はいつしか己自身さえも信じられなくなっていた。
 小夜左文字が純粋に、弟として兄を慕おうとしているのも、心のどこかで疑っている。魔王所縁の刀が兄である事に得意になって、それで箔を付けようとしているのではないかと、勝手に勘ぐり、疑心暗鬼に陥っている。
「どうしようもねえな。あの馬鹿」
「なんだ?」
「――え? あ、ああ。お前の事じゃねえよ」
 自ら立ち上がり、歩き出そうとしない打刀に苛立ち、爪を噛みながら呻く。
 声に出ていたとは気付かなくて、薬研藤四郎は小夜左文字に問われて我に返った。
 慌てて言い繕うが、誤魔化せたとは言い切れない。焦って両手と首を振り回して、彼は怪訝にしている短刀仲間に苦笑した。
 自嘲を浮かべ、目を細める。腕を伸ばせば、戸惑っていた小夜左文字が首を竦めた。
 藍の髪をぽんぽん、と叩いて、薬研藤四郎は手間のかかる兄弟に目尻を下げた。
「小夜。お前、宗三の奴となんかやりたいこととか、あるか」
 噛み過ぎて爪が凸凹になった親指を隠し、訊ねる。
 少年は一瞬虚を衝かれて目を丸くして、思惑を計りあぐねて胡乱げな表情を作った。
 怪訝に見上げられたが、意に介さない。
 妙案を思いついたと目を輝かせた薬研藤四郎に、小夜左文字は戸惑いがちに目を泳がせた。
「やりたい、こと……?」
「ああ。俺っちが、宗三の奴を言い含めてやるよ。なあに、心配いらねえ。口八丁、手八丁てな。何かあるだろ。引っ張り出して来てやるよ」
 困った様子で首を傾げた彼に、薬研藤四郎は畳みかけた。任せろ、と胸を張って右上腕部を叩き、無い力瘤を作って白い歯を見せる。
 少々無理のある笑顔で問い質された。小夜左文字は彼の意図が分からずに躊躇して、食べ残しが目立つ膳に視線を落とした。
「いきなり、言われても」
 宗三左文字は弟である小夜左文字よりも、薬研藤四郎の方が、会話がし易いらしい。
 それに彼は、弁が立つ。口下手な小夜左文字が直接頼み込むよりも、この男を仲介役にした方が、ことは巧く運ぶに決まっていた。
 癪だが、認めるしかない。
 複雑怪奇な胸の裡を黙らせて、小夜左文字は緩みかけた口元を真一文字に引き結んだ。
 兄と一緒に、やりたいこと。
 想像して、思いを巡らせて、小柄な短刀は肩を小刻みに震わせた。
 食事の席を共にしたかった。抱きしめて欲しかった。話を聞かせて欲しかった。
 頭を撫でて欲しかった。髪を梳いて、紐で綺麗に結って欲しかった。
 声を聴かせて欲しい。
 話を聞いて欲しい。
 笑って欲しい。
 怒って欲しい。
 顔を、ちゃんと見て欲しい。
「小夜?」
 どれもこれも、他愛無いものだった。些末で、敢えて願うほどのものではないと、薬研藤四郎に言われそうなものばかりだった。
 粟田口の兄弟にとって当たり前の日常が、左文字にはとてつもなく遠い。
 こうして会えただけでも奇跡なのに、これ以上何を望めば良いと言うのだろう。
「どうした。別にひとつじゃなくてもいいんだぜ」
 長く返事がないのを怪しみ、薬研藤四郎が言い足す。
 小夜左文字は緩く首を振り、時間をかけて息を吐き出した。
 水の匂いがする空気を胸いっぱい吸い込んで、一旦胸に留めて。
「では、薬研。ひとつだけ」
 彼ばかりが愛されて狡いと、少なからず思ってしまった。
 だからこれは、意趣返しだった。
 沸き起こった意地悪を裏に隠して、小夜左文字は静かに告げた。

 その日の、午後。
「まさか、本当に」
「ああ? なんだ、小夜。俺っちに出来ねえことがあるとでも言いたいのか?」
 呆然と立ち尽くす小夜左文字を前にして、苦労の跡が垣間見える薬研藤四郎は声を荒らげた。
 親指で自分自身を指差し、ひっかき傷だらけの貌を示す。それは猫ではなく人の仕業で、犯人もまた呆然と立ち竦んでいた。
「薬研、これはどういうことです。屋敷の中を案内してくれるのではなかったのですか」
「うるせえ。ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
 紅色の衣を身に纏い、桜色の髪を結った宗三左文字が狼狽激しく捲し立てる。それを小柄な短刀が一喝して、罵声を浴びた背高の打刀は露骨に動揺し、その場でしゃがみ込んだ。
 武将たちに愛されてきた刀だけに、怒られるのに慣れていないのだ。怯えて小さくなっている次兄を目の当たりにして、小夜左文字は驚きに目を丸くした。
 彼が薬研藤四郎に申し出た願いは、兄と手合わせしてみたい、というものだった。
 膳を並べて共に食事を摂るなど、生易しい。
 次兄との仲をひけらかす男を、困らせてやりたかった。だから到底達成不可能そうな事を言って、出来ませんでした、と言わせて溜飲を下げるつもりでいた。
「口八丁、手八丁……か」
 それなのに、予想は裏切られた。
 あれこれ理由をつけて丸め込み、道場まで引っ張ってきたのだろう。
 その手腕に素直に感嘆して、小夜左文字は喧しく騒いでいるふたりに苦笑した。
 宗三左文字曰く、騙された、だそうだ。
 当然だろう。演練場に弟がいると知っていたら、彼はきっと来なかった。いつも誰かが居て、賑やかな場所が今日に限って人気に乏しいのも、きっと薬研藤四郎の仕組んだ事だろう。
 演練場の常連である同田貫正国や山伏国広がいないのが、その証拠だ。
 この時間なら人に会わずに済むからと、宗三左文字は部屋から連れ出された。また屋敷内が改築されたから、少しは動かないと身体に悪いと急き立てられて、渋々ながら従った。
 そうして訪ねた演練場で、小夜左文字が待ち構えていた。
「何を考えているのですか、薬研。僕と小夜を会わせて、いったい何を企んでいるのです」
 突然のこと過ぎて、気が動転している。珍しく声を荒らげた宗三左文字の言葉に胸をちくりと痛め、藍の袈裟の短刀は居心地悪げに身を捩った。
 会いたかった。
 顔を見たかった。
 兄弟らしいことをしてみたかった。
 兄に甘えて、世話のかかる弟だと言われてみたかった。
 けれど、望んだ世界は訪れない。
 至極迷惑そうにされて、嫌そうに顔を歪められた。傲慢な願いに兄を振り回しただけだと知って、無性に哀しく、消えたくなった。
 これが薬研藤四郎に嫉妬して、嫌がらせめいた事を口走った報いだ。叶えられっこないと高を括り、世間を甘く見ていた証拠だった。
「……どうせ、僕なんか」
 美しく、綺麗な宗三左文字は、こんなにも醜くて血に濡れた刀など、弟に欲しくなかったに違いなかった。
 なにをやっても巧く行かず、求めたところで手に入らない。
 諦めてしまえば楽になれるのに、それでも未練がましく縋ってしまう。
 繋いだ手を振り払われるのには慣れていたのに、現世に喚ばれて以降、与えられる心地良さで感覚が鈍っていた。
 或いは、と期待した。
 もしかしたら、と浮足立った。
「薬研」
 勝手が過ぎた望みだった。
 宗三左文字が拒んでいる以上、小夜左文字からは何も言えない。もう良いのだと口論を止めないふたりを遮ろうとして、少年は恐る恐る、右足を踏み出した。
 直後だった。
「御託は良いから、さっさと始めやがれ!」
 あれやこれやと捲し立てていた宗三左文字を怒鳴りつけ、短気を働かせた薬研藤四郎が腹の底から声を響かせた。
 右腕を横薙ぎに振り回し、驚く打刀の前で木刀を掴む。壁に立てかけられていたそれをビュッ、と唸らせて、世話焼きの短刀は目を吊り上げた。
 喉元に切っ先を突き付けられた男は息を飲み、小夜左文字も圧倒されて目を点にした。
 責任感が強く、情に厚い短刀とはいえ、彼は元々、織田信長の持ち物だ。
 人格形成に多少なりとも元主が影響しているのだとしたら、彼の気も、短くて当然だった。
 薬研藤四郎が黙った途端、演練場は一気に静まり返った。息苦しさを覚える空気の重さに脂汗を流して、小夜左文字は振り返った短刀にびくりと肩を跳ね上げた。
「ほら。小夜も」
「あ、ああ」
 何本かまとめて置かれていた木刀のうち、一本を掴んで差し出された。
 先ほどまでの激しい憤りはどこへ消えたのか、薬研藤四郎は妙に静かで、それが却って不気味だった。
 咥内の唾を飲んで受け取って、小夜左文字は体格に合わない長さに眉を顰めた。それは太刀や打刀の体格に合わせて作られており、短刀には不向きな品だった。
「替えるか」
「……いや」
 短刀たちはあまり、ここを使いたがらない。だから彼ら用の短めで軽い木刀は、別の場所に収納されていた。
 どこにあるかは知っているが、探して取ってくるのも面倒だ。
 不慣れだが頑張れば扱えない事はなくて、小夜左文字は提案に首を振った。
 その横で宗三左文字は蹲ったまま呆然として、短刀たちのやり取りに目を白黒させていた。
「薬研、僕は」
「男だろ、いい加減腹括れ。さっさと立て、ってんだ。この鈍間」
「いたっ。蹴らないでください。なんなんですか。あなた、昔から変に僕の扱いが雑じゃないですか」
「なんだ。姫扱いして欲しいんだったらそう言えよ。抱きかかえてやっからよ」
「やめてください。僕の脚を削る気ですか」
 腕を伸ばして袖を引けば、呼ばれた薬研藤四郎が瞬時に足を出した。腰を蹴られた打刀はすかさず文句を言って、会話は実に滑らかだった。
 小夜左文字が相手だと、こうはならない。
 初めて見る口達者な兄の姿は、新鮮であり、驚きであり、そして矢張り、複雑だった。
 宗三左文字の、自分と薬研藤四郎に対する態度の落差に衝撃は否めない。
「あ、あの。僕は、別に」
「なに言ってんだ、小夜。こんな奴に遠慮する必要なんかねーぞ。思いっきりぶん殴ってやれ」
「薬研!」
 これ以上は、見ていたくない。その一心で辞退を申し出ようとした彼を遮り、粟田口の短刀は自身の喉仏を横になぞった。
 首を撥ねろと、という仕草に、青くなったのは宗三左文字だ。彼は依然床に身を沈めたまま、押し付けられた木刀を抱きしめていた。
 見苦しい姿だった。
 刀ならば刀らしく、強気で、傲慢であればいいものを。
 ここでは誰も、宗三左文字を憐れまない。魔王の刻印を気にするのは一部の者だけで、そこに価値を見出す者は更に少なかった。
 固執しているのは本人だけと、いつになれば気付くのだろう。
 言って聞かせたところでどうせ信じてはもらえなくて、堪忍袋の緒は音を立てて引き千切られた。
「小夜が、お前と手合わせしてみたいんだとよ」
 だが口に出してみれば、声は意外に冷静だった。
 はらわたが煮えくり返っているのに、心は落ち着いていた。淡々と要点だけを告げて顎をしゃくって、薬研藤四郎は小夜左文字を振り返った。
 見つめられて、少年はびくっ、と大袈裟に全身を震わせた。兄同様に細長い木刀を抱きしめて、何に臆したのか、後退を図ろうとした。
 そんな心許なげな弟を仰ぎ見て、左文字の次兄は二度、三度と瞬きを繰り返した。
「小夜が、ですか」
「ああ。おら、いつまで寝転がってんだ。ここは手前の寝床じゃねえぞ」
 初耳の情報に唖然とし、蹴られた瞬間にぴょん、と飛び跳ねる。
 板張りの床の上で正座をして、宗三左文字は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 仰々しい眼差しを向けられて、末の弟は青くなった。顎を引いて背中を丸めて、木刀を抱えて唇を戦慄かせた。
「いえ、あの。僕は、その。あにさま、が……お嫌いで、あらせられるなら」
「黙れ」
「あいたっ」
 瞬間、薬研藤四郎が余っていた木刀で小夜左文字の頭を打った。重さに任せて振り下ろして、脳天へ痛烈な一撃をお見舞いした。
 叩かれた方は予想だにしておらず、不意打ちに負けて首を竦めた。手にしていたものを落として音を響かせて、頭蓋骨に出来たひび割れを左右から押さえこんだ。
「薬研、なにを」
「いいから、さっさと決めろ。やるのか。やらねーのか」
「……あなた、ひょっとして性格変わりました?」
「宗三左文字?」
「分かりました。やります。やればいいんでしょう」
 狼藉を咎めた宗三左文字に凄み、反論を捻じ伏せて、無理矢理同意を取り付ける。籠の鳥を自認する打刀は半ば投げ槍に言い放って、木刀を杖代わりにして立ち上がった。
 やけを起こしているのか、鼻息は荒かった。頬は紅潮しており、珍しく肌の血色が良かった。
 小夜左文字は彼が刀――演練用の木刀ではあるが――を手に持つところも、こうやって息巻いて構えを作るところも、見るのは初めてだった。
 キッと眦を裂き、凛々しい眼差しで他者を射抜くのも。
 真正面から小夜左文字を捉え、逸らさないのも。
「なにをしているのです、小夜。早くお立ちなさい」
 躊躇を踏み越え、弟に対して兄らしい口ぶりで振る舞うのも。
 なにもかも、初めてだった。
 惚けている小夜左文字を促し、宗三左文字は両手で木刀を握りしめた。手に馴染まない感触に苦心しながら間合いを計り、指示通り起き上がった弟と向き合った。
 心此処に在らずの短刀は二本足で立った直後に軽くふらつき、左足を引いて身体を支えた。じわじわと湧きあがる興奮に訳も分からず目を輝かせ、丸みを帯びた頬を赤らめて嬉しそうに唇を引き結んだ。
「よ、……宜しく、御指導、お願い仕ります」
「挨拶なんていりません。さっさと斬り込んできなさい。元大太刀の実力、見せて差し上げましょう」
「はい!」
 他人行儀な一礼を叱り、宗三左文字が不遜に言い放つ。
 三歩下がって壁際に移動した薬研藤四郎は、堪え切れずに噴き出した。しかし小夜左文字は無邪気に返事して、彼には長い木刀を短く構え持った。
 何度か握りを確認して、相手の隙を窺って摺り足で移動を開始する。道場内の空気は一瞬にして引き締まり、静かだが緊張感に満ちた空間へと変貌した。
 もっとも、それも四半刻と続かなかった。
「……あにさま、大丈夫に御座いますか」
 歓喜に逸っていた少年は声を低くし、若干落ち込み気味に問いかけた。
 彼の足元には見事に干物と化した打刀がいて、その髪はざんばらに乱れ、仰向けに倒れる身体はひくひくと痙攣を繰り返した。
 傾国の刀は見る影もなく、全身で息をする男はあちこち痣だらけだった。白かった肌は無残に黒ずみ、着物の裾も乱れに乱れ、衿は大きく開かれていた。
「くっ、なんの……これしき」
「おいおい。無理すんな、宗三」
「無理などしていません! この僕が、一本も取れないまま終われるわけがないでしょう!」
 それでも必死に食い下がり、起き上がろうとする彼を薬研藤四郎が諌める。そのお節介を怒鳴りつけて、宗三左文字は襤褸雑巾のような身体を木刀で支えた。
 立っているのもやっとの状態で吼えられて、ほぼ無傷の小夜左文字は戸惑いがちに目を泳がせた。
 無言で助けを求められ、粟田口の短刀は頭を抱え込んだ。こめかみに指を置いて渋面を作り、予想より遥かに開いていた実力差にため息を零した。
 小夜左文字は本丸に、早い段階から至っていた。
 一方宗三左文字は現世に喚ばれてまだ日が浅く、その上戦場どころか、遠征にさえ出たがらない引き籠りだった。
 実戦経験を積んでいる短刀と、新入り同然の打刀と。
 どちらが勝つかなど、最初から分かり切っていた。
 体格差など、問題にならない。そもそも小夜左文字は手加減が下手で、兄相手でも本気で斬りかかっていく。薬研藤四郎も前に一度手合わせしたことがあるが、その攻撃は鋭く、一撃は非常に重かった。
 短刀でも鍛えれば強くなれると教えられ、心強かった。
 しかしまさか、ここまで圧勝されるとは。
「読みが甘かったか。俺としたことが」
 口元を手で覆い隠して、小声で呟く。前方では宗三左文字が血走った目をしており、小夜左文字は心底困り果てた顔をしていた。
 これ以上やると、木刀相手に折れてしまいかねない。
 そろそろ止めに入るべきかとは思うが、それはそれで、宗三左文字の立場がなかった。
 あれだけ偉そうに啖呵を切っておきながら、短刀相手に一勝も出来ていないのは屈辱だ。いくら二度焼かれて、打ち直されているとはいえ、彼にだって刀としての矜持があった。
 負けっ放しではいられない。
 対戦相手が弟であるなら、尚更に。
 審神者によって現世に喚ばれて初めて、暗く翳っていた瞳に光が宿った。けれど哀しいかな、どう足掻いたところで彼に勝ち目はなかった。
「次にしろ、次に」
「あの、あにうえ。あまり、御無理をなされませぬように」
「何を言っているのです。早くかかって来なさい、小夜。手加減したら許しませんよ」
「う……」
 一旦ここは退いて、実力を蓄えた上で再戦を果たせば良い。だが薬研藤四郎の提案を勇ましく拒絶して、宗三左文字は着乱れた姿のまま弟に切っ先を向けた。
 但し木刀はゆらゆら揺れており、全く安定していなかった。
 万全の状態とは言い難い相手に打ち込むのは、武士の名折れだ。最初は楽しかったのに、段々弱い者いじめをしている気分になってきて、小夜左文字の瞳には迷いが生まれていた。
 宗三左文字はああ言うけれど、手を抜いて、勝ち星を拾わせた方が良いのかもしれない。けれど上手く演技出来る自信はなく、見抜かれた後の事を思うと気が引けた。
 結局勝っても、負けても、兄の尊厳を傷つけてしまう。
 どうして手合わせしたい、などと言い出したのか。何度目か知れない後悔を胸に抱き、小夜左文字は今にも倒れそうな次兄から目を逸らした。
 その視界に。
「まったく、騒がしいから何をしているのかと見に来てみれば」
 開けっ放しの戸口に寄り掛かって立つ、ひとりの男の姿が映し出された。
 陣羽織を模した上着を羽織り、麦色の髪は短い。前髪は真ん中で分けられて、切れ長の眼は不遜だった。
 白い手袋で指先を隠し、一礼してから靴を脱いで演練場へと上り込む。慇懃無礼の言葉が良く似合う男とは、この場に居る全員が顔見知りだった。
「へしきり長谷部」
 声で振り返った宗三左文字が、なにより一番驚いていた。元から悪かった顔色をもっと悪くして、慌てた彼は左手で胸元を隠した。
 着物の衿を掻き集め、露わになっていた刻印を布で覆う。背中も丸めて猫背になった彼の斜め後ろで立ち止まって、現れた男は汗に濡れる木刀を攫った。
「なにを」
 武器を奪われ、宗三左文字が顔を上げた。しかしへしきり長谷部は答えず、彼に代わって木刀を構えた。
 右腕一本で振り回し、空を断ち切って小夜左文字に切っ先を向ける。
 突然の乱入者に、少年はぽかんと目を丸くした。
「おい、長谷部」
 薬研藤四郎も、この展開は想定していなかった。焦って声を荒らげるが、魔王命名の打刀は一瞥をくれただけで、特に何も言わなかった。
 ただ口角を持ち上げて、呆然とする三者に不敵に笑いかけただけだった。
 いったい、何を考えているのか。
 誰もが彼の本心を読みあぐねていた時、へしきり長谷部が肘で宗三左文字の肩を打った。
「うっ」
 体力の限界が近かった彼が、横からの衝撃に耐えられるわけがない。
 呆気なく膝を折って崩れ落ちた宗三左文字を鼻で笑い、へしきり長谷部は改めて小夜左文字に向き直った。
「こんな貧弱な刀では、修練の足しにもならんぞ。黒田でのよしみだ。俺が代わって相手をしてやろう」
 傲岸不遜に言い放ち、早く構えるよう促す。
 なんとも図々しい物言いに、片手であしらわれた宗三左文字は顎が外れそうなくらいに驚いた。
 稀に見る滑稽な表情を作って、瞳を泳がせ、弟を見る。
 戸惑っていた短刀はへしきり長谷部から兄へと視線を移し、緩みかけていた指先に力を込めた。
 落ちそうになったものを握り直しただけなのだが、宗三左文字にはそれが、弟が兄に見切りを付けた風に映った。
 そして、なにより。
「へしきり、あなた、ちょっと。小夜と、あなた」
「長谷部と呼べ。それより、なんだ。知らなかったのか? 奴とは黒田の屋敷で、一時一緒だったぞ」
「……うん」
 へしきり長谷部は織田から黒田へと移り、そこで長い時を過ごした。
 小夜左文字は細川の城を出た後、黒田の屋敷へと渡り、そこで暫くの時を過ごした。
 深い交流があったわけではない。けれどお互い、相手の存在は認識しており、本丸で再会した時は不思議な感じだった。
 得意げに言い切ったへしきり長谷部に同調して、小夜左文字も間違いないと首を縦に振る。そんなふたりを前にして、宗三左文字は愕然としながら頬を掻き毟った。
「なんですか、それは。知りません。知るわけがないでしょう。そんな話、僕は聞いていません!」
「そりゃ、お前が気にしてなかっただけだろ」
「薬研!」
 籠の鳥は狭い場所に自らを閉じ込め、外へ眼を向けなかった。
 激昂する男にやれやれと肩を竦め、薬研藤四郎は手近なところにあった木刀を放り投げた。
 空中で受け止めて、宗三左文字が般若の如き面持ちで振り下ろす。
「何をする、貴様」
「許しません。許しません! 小夜は僕の弟ですよ。それを、貴方は。あなたは!」
 本気の一撃を上段で受け流し、へしきり長谷部が声を荒らげる。だがそれを上回る怒気を放って、魔王の愛刀は立て続けに斬りかかった。
 少し前まで立っているのもやっとの状態だったのに、どこにそんな体力が残っていたのか。しかも斬撃は鋭さを増しており、ぶつかり合う木刀の音は激しく鼓膜を打った。
 凄まじい猛攻に、へしきり長谷部は防戦を強いられた。彼自身も意外だったのか目を丸くしており、形勢を立て直すには暫く時間が必要だった。
「おぉ、すげー」
 そんなふたりを他人事として眺め、薬研藤四郎が頬を引き攣らせる。小夜左文字も肩で息をして、突如始まった乱戦に頬を紅潮させた。
「なにを勘違いしている。俺と左文字には、なんの因果もないぞ」
「そうだとしても、そうだとしてもです。小夜が僕より先に、貴方と知り合っていたなど、許せるわけがないでしょう!」
 硬い木が激しくぶつかって、目に見えない火花が飛び交う。押し合いになれば負けると承知しているのか、宗三左文字はひたすら打撃を積み重ねた。
 己の知らないところで、己に関連あるふたりが交流を持っていた。ひとりだけ蚊帳の外に置かれたのが不満で、面白くなくて、悋気を爆発させていた。
 無粋な勘繰りをへしきり長谷部は否定したが、宗三左文字には関係なかった。そもそも前から気に入らなかったのだと怒鳴りつけて、渾身の一撃を旧友に叩き込んだ。
 胸元が肌蹴けるのも構わず、防御不能の打撃を繰り出す。
 不意をつかれた男は右肩に重い斬撃を食らい、体勢を崩してぐらりと傾いた。
「貴様……容赦はせんぞ!」
 格下と見ていた相手に打ちこまれ、頭に血が上ったか。
 へしきり長谷部も眉を吊り上げ、猛々しく吠えた。
 最早彼らの頭からは、小夜左文字のことなどすっかり失われていた。単純に目の前の相手を屠ろうと躍起になって、丁々発止と斬り結んだ。
 しかし剣劇の音が響きあう中、完全に忘れ去られた少年は、それでも何故か楽しげだった。
 頬を緩め、目を輝かせて、本気でぶつかり合うふたりの演練にうっとりと見入っていた。
「なんで嬉しそうなんだ、お前」
 それを怪訝に思い、歩み寄った薬研藤四郎が訊ねる。
 問われた少年は兄と打ち合った木刀を大事に抱きしめて、照れ臭そうに首を竦めた。

2015/05/16 脱稿