われても末に あはむとぞ思ふ

 いつもは騒々しい庭が、今日はいやに静かだった。
 珍しい事もあるものだ。小鳥が飛び交い、囀りが響き渡る空を眺め、小夜左文字は猫のように細い目を眇めた。
 暇さえあれば遊び耽り、駆け回っている短刀たちの姿が見えない。今日は出陣がなく、遠征部隊も太刀や大太刀が主体なので、彼らの大半は屋敷のどこかにいる筈なのに。
「昼寝でも、しているのか」
 声が全く聞こえないことに、ふと不安になる。言い訳がましく呟いて、小夜左文字はゆるゆる首を振った。
 ひとりだけ除け者にされたなどと、そんな風には思わない。
 間違っても寂しさや、切なさを抱いてなどいない。胸に去来した隙間風の原因を一刀両断して、静かならそれはそれで有難い、と気持ちを改めた。
 ふん、と鼻から荒い息をひとつ吐いて、彼は無駄に広い屋敷の縁側を、外を眺めながら突き進んだ。
 度々増改築が繰り返されている所為で、敷地内は非常に複雑化していた。廊下の突き当りに何もなくて、目的の部屋に到達出来ない事もしばしばだった。
 主が無軌道に手を入れようとするから、暮らしている方は大変だ。見取図などまるで役に立たず、自分の足で歩いて確認するより他になかった。
 耳を澄ませば、槌の音が聞こえた。また部屋を増やすつもりなのかと、小夜左文字はうんざりした顔で肩を竦めた。
 新しい刀剣が増えるかもしれないからと、改修工事の計画を口にする審神者はどこか楽しそうだった。一緒に聞いていた脇侍も、表面上は笑顔だったが、微妙に頬が引き攣っていた。
 あの気まぐれの相手をするのは、かなり大変だ。
 元は短気なくせに、良く我慢している。やり取りを思い返し、小夜左文字はふっ、と鼻白んだ。
「……ん?」
 ともあれ、耳障りな声がしないのは助かる。
 心穏やかでいられるのは悪くない。ただ退屈であるのには違いなく、この後どうしようか考え、比較的広めの部屋の前を通り過ぎようとした時だ。
「はーい、僕の勝ちー」
「くうぅ。また乱にやられたのです」
「前田は坊主ばっかり引くからなあ」
「あそこで姫が出ていれば、俺の勝ちだったんだがなあ」
 外を駆け回っている時とはまた違う、賑やかで、それでいて若干殺伐とした会話が聞こえて来た。
 障子戸は閉じられ、中は見えない。けれど白い紙越しに人影は確認出来て、小夜左文字は耳に飛び込んできた話の内容に眉を顰めた。
 どうやら、今日は室内で遊んでいるらしい。
 藤四郎たちの賑やかなやり取りに、彼の足は自然と止まった。
 太陽は高い位置に陣取り、影は南から北へ伸びていた。
「誰ですか?」
 当然、小夜左文字の影は障子に映った。組子に当たって凹凸が出来ている人影に、中にいた短刀が反応するのは自然だった。
 五虎退の、怯え混じりの問いかけが投げられた。このまま前を通り過ぎるきっかけを失って、彼は嘆息して障子戸の中央へ移動した。
「僕」
「ああ、小夜君ですか」
 完全に立ち止まってから素っ気なく言えば、部屋の中から安堵の息が漏れた。
「どうぞ。入っていいぞ」
 続けて薬研藤四郎の、どことなく偉そうな声が聞こえた。もっとも彼は普段からこういう口調で、誰に対しても態度は変わらなかった。
 なにせ審神者を「大将」と呼ぶくらいだ。体格に似合わぬ豪胆さは、前の主の影響を過分に受けているようだった。
 承諾を得て、小夜左文字は引き手に手を伸ばした。
「失礼する」
 告げて、黒い金属製の金具に指を掛ける。一寸少々の隙間を作り、続けて竪框に手を移動させ、出来上がったばかりの隙間に指を潜らせる。
 そのまま横へ、一気に開く。本当は屈んでやるべき所作なのだが、同年代の短刀らを相手に、そこまで敬意を表する理屈はなかった。
 楽に通れるだけの空間を確保して、小夜左文字は素早く室内を見回した。
 十畳ほどある部屋に、短刀たちが大勢集っていた。ただし全員ではなく、今剣や、愛染国俊の姿は見えなかった。
「小夜もやるか?」
 縁側に立ったまま左右を眺めていたら、輪の中にいた厚藤四郎が右手を振った。
 促され、小夜左文字は訳が分からぬまま中に入った。二段階の所作で障子を閉め、改めて中に居る面々を見比べた。
 彼らは部屋の中央で輪になって座り、或いは寝転がり、裏が濃緑色の札を手元に散らしていた。
 やや縦長の四角形で、近くには札が収められていたのだろう箱があった。蓋は隣に転がっており、中身は半分だけ取り出されていた。
 色鮮やかな化粧箱と、先ほど聞こえた幾つかの単語。
 坊主、姫、と来たなら、導き出される答えはひとつだ。
「坊主めくり」
 嗚呼、と緩慢に頷けば、小声を拾った薬研藤四郎がクツリと笑った。
「お。やっぱ知ってたな」
「そりゃ、――……別に」
 当然だと言い返そうとして、小夜左文字は途中で思いとどまり、言い直した。
 視線を逸らして口を噤み、一瞬得意になりそうになった自分自身を戒める。
 小倉百人一首など、歌を嗜む者にとって、基本中の基本のようなものだった。
 藤原定家が選出した百人の歌人の、代表作とも言うべき歌を揃えたものだ。選出された作品は飛鳥の地に都があった時代から、源氏が武家社会を成立させた時代までと数百年分の幅があり、内容も季節を詠んだものから恋の歌まで、範囲は限りなく広かった。
 これを記した色紙は珍重され、戦乱の時代には一族を滅ぼす一因となったとまで言われている。
 彼らが畳に撒き散らしているものは、それよりも後の時代に作られた、絵入りの歌かるただった。
 詠み手の絵が歌と共に描かれて、別の札には下の句のみが記されている。本来はその下の句側を床に並べて、読まれた札を取り合う遊びだった。
 しかしこれを楽しむ為には、ある程度の知識が必要だった。
 いかに札を速く、正確に取るかが重要なので、当然ながら百首すべての歌を知り、覚えていなければいけない。だが元々武器である彼らに、そのような学は備わっていなかった。
 だからだろう。
 藤四郎たちは下の句の札を放置して、絵札だけを取り合っていた。
「急に、どうしたの」
 色鮮やかに刷られたかるたは、見た目の派手さもあり、かなり高価な品だった。そんなものがこの屋敷にあったこと自体驚きで、興味は尽きなかった。
 いったいどこで手に入れたのか。
 気になって尋ねれば、前田藤四郎が隣の乱藤四郎と顔を見合わせた。
「なんと申しますか、簡単に説明致しますと、つまりいち兄が」
「我らは武器とはいえ、無学では主に示しがつかない。少しでもお役に立てるよう、知識を蓄え、心豊かであるべきだ――なんて言い出すから」
 まどろっこしい説明を遮り、一気にまくしたてた乱藤四郎の台詞は、彼らの長兄に当たる一期一振の真似だろう。微妙に説教くさい言い回しに噴き出しそうになって、小夜左文字は肩を揺らした。
 農民から関白にまで成り上がった男の刀だから、武力だけでなく、知力も重要だと考えたのだろう。
 そこで百人一首を出してくる辺りは、皮肉としか言いようがないけれど。
 状況は、大雑把ながら把握出来た。今剣や愛染国俊が居ない理由も、おおよそ見当がついた。
 あの二人は、こういうのが苦手だろう。坊主めくりとはいえ、一応兄の言いつけを守っている藤四郎たちは、まだいくらか真面目だった。
「で、やってくか?」
「僕は、別に」
 手前にいた薬研藤四郎に訊かれ、小夜左文字は返事を渋って目を泳がせた。
 大勢で何かをするのは、今になっても苦手だった。
 どんな状況下でもひとりになりたがる彼に、なにかと構う相手はかなり増えた。藤四郎たちもその中に入るのだが、肝心の小夜左文字自身が、賑やかな環境に未だ馴染めずにいた。
 自分から部屋に入ったのだから、一戦くらい混じるのが礼儀だろうとは思う。しかし坊主めくりのやり方は、知識として持ち合わせてはいるものの、一度も試したことがなかった。
 第一、百人一首は遊びではない。
 そこに確かに存在した人々の、想いや願いが込められた歌集だ。
 それを姫だ、坊主だ、男だ、などと、絵だけで分類されたくなかった。
 許諾も拒絶もせず、遠くを見たまま動かない彼に、待ちきれなくなった厚藤四郎が散らばっていた札を集め始めた。五虎退も手伝って、百枚の絵札は見る間に巨大な塔へと作り変えられた。
「って言うかさー。こんなの覚えたって、全然面白くないんだけど」
「だよなあ。さっぱり意味分かんねーし」
 早速天辺の一枚を引いて、乱藤四郎が退屈だと嘯いた。厚藤四郎も同調して、隣で平野藤四郎が肩を竦めた。
 早々に坊主の句を引き当てたようで、表に返したそれを塔の横に投げ捨てる。次に引いた薬研藤四郎は、一瞬目を眇めた後、勝ち誇った顔で捨てられたばかりの札を引き寄せた。
 彼の手元には、黒髪を背に垂らした女性の絵があった。
 坊主が出れば手札を全て捨て、姫が出れば捨てられた札をもらえる。最終的に最も手札が多い者が勝ち、というのが坊主めくりの基本的な流れだった。
 出てくる札に一喜一憂して、部屋の中は急に五月蠅くなった。平野藤四郎は全体的に引きが悪くて、勝負は乱藤四郎と薬研藤四郎の一騎打ちになりつつあった。
「ぐあー、ま~った坊主だ」
「あはは。ご愁傷様」
「お、また姫だ。悪いな、厚」
「くっそ~。俺の札だぞ、返せ」
「お生憎様。こいつはもう、俺のモンだ」
 単純な遊びなのに、心から楽しんでいるのが窺えた。仲が良いのが痛いくらいに伝わってきて、小夜左文字はこのまま部屋を辞そうかと考えた。
 相手にされていないのだから、居ても居なくても同じだ。黙ってこっそり出て行っても、文句を言われることはないだろう。
 居心地の悪さに身を捩り、左足を僅かに浮かせる。このまま障子戸まで後退しようと思い始めた矢先、札の束を掴み損ねた薬研藤四郎が、四角いかるたをばら撒いた。
 厚藤四郎が捨てた札を引き取ろうとして、片手で持ちきれなかったようだ。ばらばらと散ったうちの一枚が小夜左文字の足元に滑り込んで、彼は仕方なく、身を屈めてそれを拾った。
「三番」
「うん?」
「柿本人麻呂」
 そうして絵柄と歌を一度に視界に収め、脳裏に浮かび上がった言葉を、そのまま音として諳んじた。
 受け取ろうとした薬研藤四郎が眉を顰め、宙に浮かせた右手を揺らした。それまでずっと黙っていた小夜左文字が突然語り出したので、驚いているのが窺えた。
 残る藤四郎たちも、時が止まったかのような雰囲気に小首を傾げ、眉を顰めた。
「なになに?」
「かきのもと……どなたでしょうか」
「知ってますか?」
「俺に分かるわけないだろ」
 口々に勝手なことを呟き、隣の兄弟と顔を見合わせる。
 分かっていた事とはいえ、彼らの反応には落胆させられた。深く嘆息して、小夜左文字は薬研藤四郎に手渡した札を指差した。
「ああ、確かにそんな名前だな」
 それを覗き込み、色白の少年が小さく頷く。乱藤四郎も身を乗り出して、残る兄弟は不思議そうに小夜左文字を見上げた。
 一斉に見つめられて、口が滑った少年は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「だから、……柿本人麻呂は、歌聖と呼ばれた人のひとりで。僕たちが生まれるより、ずっと前の人。時代としては、確か、天武帝の頃。都は京でなく、飛鳥にあった。その身分ははっきりしないけれど、歌自体はとても素晴らしくて、万葉集にも何首か取り上げられているね。歌風は当時としては独自性に溢れていて、詞の選び方も際立っていて――」
 顔を背け、知っている限りの内容を口ずさむ。
 その声色は最初こそしどろもどろだったものの、次第に熱を帯びて早口になった。聞いている者たちを遥か後方へ置き去りにして、彼らしからぬ多弁ぶりだった。
 審神者によって現世に降ろされて、これだけ一度に喋ったのは初めてかもしれない。
 稀に見る光景に遭遇して、藤四郎たちは呆気にとられて目を点にした。
「ちょ、ちょっと待った。小夜」
 放っておいたら、どこまで続くのか。
 簡単には終わりそうにない講釈に慌てて割り込んで、薬研藤四郎は肩を上下させた。
 ただ聞いていただけなのに、彼の息は切れ切れだった。他の短刀たちも虚ろな瞳をして、消化しきれない情報量に頭は破裂寸前だった。
「そんなに一気に言われても、覚えらんないよ」
「難し過ぎて、さっぱりなのです」
 少し前の賑わいは、綺麗さっぱり消え失せていた。厚藤四郎などは口から魂が抜け出ており、畳に倒れて突っ伏していた。
「お前が詳しいのは、良ぉく、分かった」
 無事なのは、薬研藤四郎くらいだ。その彼に両肩を叩かれて、我に返った小夜左文字は赤くなって首を竦めた。
「す、すまない。つい」
 歌については、それなりに造詣が深いつもりだった。ただ普段は話題に上る事もないので、口に出した事はなかった。
 堰が切れて、止まらなかった。歯止めが利かなかったと恥じ入って、彼は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「幽斉殿は、博学であらせられたからな」
 それを馬鹿にするでもなく、薬研藤四郎は逆に褒め称えた。小夜左文字の丸い頭を撫でて、優しい顔で微笑んだ。
 馴染んだ手とも、兄たちの遠慮がちな、不器用な触り方とも微妙に違う。
 それがどうにもくすぐったくて、彼は恥ずかしそうに顔を伏した。
 薬研藤四郎自身も、弟たちと異なる初心な反応が面白かったようだ。くすりと声を漏らして笑うと、引っ込めた手で顎を撫でた。
「多分兄上は、小夜みたいになれ、って言いたかったんだろうな」
「ええええ~~~~」
 瞳を上向かせ、札が入った箱を渡された当時を振り返る。途端に後方から非難めいた声があがって、乱藤四郎までもが畳の上で大の字になった。
 じたばたと両足を振り回して暴れて、蹴られそうになった平野藤四郎が慌てて逃げていく。その騒々しさに苦笑して、薬研藤四郎は手の中の札を小夜左文字に示した。
「全部、覚えてんのか?」
「一応」
「意味も?」
「歌は、短いけれど。だからこそ色々なことが、沢山、込められている。読み解けば、面白い」
「成る程ねえ」
 歌を詠んだ人の境遇、思考、時代背景。
 そういったものを理解した上で、歌の裏側に秘められた想いを探り、解き明かしていく。それが出来なければ和歌はただの言葉の羅列であり、耳をすり抜けていく音でしかなかった。
 ただそれを、どうやって説明すれば、上手に伝わるかが分からない。
 辿々しく告げた小夜左文字に、薬研藤四郎は納得だと首肯して、先ほど話題になった札を掲げた。
「それじゃ、こいつは?」
「山鳥の尾のような、長い夜、を。ひとりきりで過ごさなければならないのは、とても寂しい、と」
 愛する者がいて、けれど理由があって離れなければならなくなった。共に過ごす時間が失われて、独り寝の夜が長く、辛く感じられてならない。
 出来るだけ平易な言葉で、理解してもらえるように伝えるのは難しい。
 苦労しながら言葉を選び取った小夜左文字に、藤四郎たちは姿勢を改め、身を起こした。
「ねえ、小夜。それじゃ、こっちの御姫様は?」
「この坊主、なんか徳が高そうな顔してっけど。こいつって何者?」
「たとえば、この方と、この方とでは、座っておられる台座の色が異なります。これにもなにか、意味があるのでしょうか」
 各々興味深そうに手元の札を覗き込み、ならばこれは、と次々手を挙げていく。
 立て続けに教えてくれと頼まれて、左右を見回した少年は狼狽えて赤くなった。
 先ほどの乱藤四郎の弁ではないが、そんなに一斉に求められても、応えられない。
「待て。お前ら、ちょっと待て。いくら小夜でも、一度には無理だ」
 四方八方から問い詰められても、聖徳太子ではないのだから聞き取れない。困惑して右往左往している小夜左文字に苦笑して、薬研藤四郎は右手を高くした。
 弟たちと彼との間に割って入り、一旦黙るよう促す。その効果は覿面で、藤四郎たちは一瞬で静かになった。
「ひとりずつ、順番だ」
「は~い」
 長兄の一期一振が居ない間は、彼が皆を仕切っていた。
 統制を失いがちな弟たちをしっかり制御して、薬研藤四郎はほっとしている小夜左文字に相好を崩した。
「しっかし、百首もあると、結構な量だよな。そういや小夜は、どれが一番好きなんだ?」
「え?」
 そして唐突に話を転換し、代表者として真っ先に質問を投げかけた。
 虚を衝かれた少年は吃驚して目を丸くして、悪戯っぽく笑っている短刀に遅れて頷いた。
「ああ……」
「ひとつくらい、あるだろ」
 小夜左文字に言わせれば、たかが百首程度。だが馴染みのない彼らにとっては、そうではない。
 膨大過ぎる知識の海に漕ぎ出すには、身を預ける舟が必要で、波を掻き分ける櫂が不可欠だった。
 先導役に、期せずして選ばれた。最初の取っ掛かりを欲する薬研藤四郎の意図を知り、小夜左文字は半眼して眉を顰めた。
 そう言われても、咄嗟になにも思い浮かばない。答えに詰まり、彼は一番から順に、歌を頭に並べていった。
 こういう話題は、どちらかといえば、文系を気取っている男の方が得意そうだった。
 口は達者だし、人との付き合い方もあちらの方が器用だ。子供たちに教えるのも、きっと巧くやるだろう。
 血の気の多さを雅さで上塗りしているが、隠しきれているとは言い難い。短気で冷徹な性格は、どう頑張っても覆せるものではなかろうに。
 無駄な努力を厭わない男を思い浮かべ、小夜左文字は右手を胸に押し当てた。
 数奇な巡り合わせで、再び会い見える事になった。
 一度別たれた道が再び交差して、ひとつの流れに戻るなど、あの頃は思いもしなかった。
 可笑しなものだ。解けた糸は二度と結び合う事もなく、そのまま朽ちて行くと信じていたのに。
「僕は。……そう、だね」
「おっ。どんなだ?」
 並び順を一気に飛ばして、ひとつの歌が脳裏をよぎった。
 これほどしっくりくるものは他にない。密やかに笑みを浮かべ、彼は興味津々な藤四郎たちを見回した。
「七十七番」
 厳かに告げるが、誰一人、成る程と頷く者はいなかった。
 当然だ。ぽかんとしている皆を心の中で笑い飛ばして、小夜左文字は不満を隠そうとしない眼差しに肩を竦めた。
「どなたの、歌でしょう」
 百人一首には、歌ひとつひとつに一から百まで番号が振られている。
 坊主めくりしかしない彼らが、その詳細を知るわけがない。わざと意地悪な言い方を口にした少年は、挙手をした平野藤四郎に意味ありげな視線を投げた。
 口角を持ち上げ、不遜に笑う。
「うっ」
 ひやりとする空気を感じ取り、子供たちは一斉に己自身を抱きしめた。
 背筋を粟立て、不敵な表情の小夜左文字を窺い見る。訝しむ眼差しからは、久しく忘れ去られていた、彼の特異性を思い出している様子が読み取れた。
 小夜左文字は、復讐に餓えた子供。
 無邪気さを捨て、恨みを晴らす一心で刀を振るい続ける、醜く歪んだ心の持ち主。
 愛され、慈しまれて来た刀剣たちとは生まれが違う。
 育ちが違う。
 その手は最初から血に濡れて、抱えきれない罪を背負っていた。
「小夜くん……?」
 嫌な予感を覚え、五虎退が不安げな顔をした。乱藤四郎と手を繋ぎ、告げられる言葉に覚悟して、ごくりと唾を呑み込んだ。
 緊張が滲み出ている面々を見下ろして、小夜左文字はクツリと喉を鳴らした。
「七十七番は、崇徳院」
 それは恨みを抱き、傷心のまま命尽きた男の名前。
 死して後もその怨嗟は空を覆い続け、屈辱を与えた男たちを次々に呪い殺した怨霊に他ならなかった。
「え、えええええー!?」
「なっ、なんでそんな奴のが。ここに入ってんだよ」
 告げられた名を耳にして、少年たちは途端に青くなった。剛毅で勝気な厚藤四郎までもが身を震わせて、歯の根が合わない奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 あまりにも予想通り過ぎる反応が、面白くて仕方がない。
 小夜左文字は満足そうに目を細め、唯一難しい顔をしている薬研藤四郎に向き直った。
 彼らでもその名と略歴くらいは知っている、との推測は、ものの見事に命中した。
 上皇にまで昇り詰めておきながら、讃岐の地に流されて憤死した男。その胸に蓄積された憎しみは、果たしていかばかりだっただろう。
 そこに小夜左文字の境遇を重ねあわせれば、皆が恐れ戦くのは道理だった。
「小夜ってば、やっぱ。そういうのが、いいんだ」
 嫌悪感を露わにして、乱藤四郎が頬を引き攣らせながら呟く。それを冷めた眼で見返して、彼はふっ、と鼻白んだ。
 これで暫く、彼らは近付いて来ない。騒動に巻き込まれ、迷惑を蒙る回数も、幾ばくかは減るだろう。
 静かな生活が戻ってくる。
 それは決して、悪い事ではない。己に言い聞かせ、小夜左文字は悪名高い男の歌を心で諳んじた。
 理解してもらえなくても構わない。
 自分だけが知っていれば、それでいい。
 想いを胸にしまいこんで、彼は納得がいかない様子の薬研藤四郎から離れた。
 肝心の歌については、まだ何も語られていない。
 墓穴を掘るつもりはなくて、小夜左文字は聡い男から距離を取った。
 その背後に。
「失礼。薬研藤四郎殿は居るかな」
「――っ!」
 黒い影がぬっと伸びて、広い部屋が一気に暗くなった。
 障子戸に浮き上がった人影は大柄で、肩幅は広かった。耳慣れた声が響き渡って、油断していた小夜左文字はびくりと背筋を戦慄かせた。
 一瞬にして怯えた猫となり、全身の毛を逆立てる。それまでの悠然としていた態度が吹き飛んで、大袈裟な反応に全員が眉を顰めた。
 ひとりで焦り、慌てている彼に、藤四郎たちが顔を見合わせる。外から名前を呼ばれた短刀も、怪訝にしながら顔を上げた。
「俺なら、ここに」
「そうか。それは良かった。失礼するよ」
「う、うあ、あ」
 薬研藤四郎が在室を告げれば、縁側の男は安堵の声を響かせた。肩の力を抜いて胸を撫で下ろし、障子戸の引き手に手を伸ばした。
 影が連動して動くので、彼の一挙手一投足が手に取るように分かった。小夜左文字は激しく狼狽し、左右を見回して、突然脱兎のごとく駆け出した。
「突然済まない。薬研殿、主がお呼び――うわあっ」
「小夜?」
 歌仙兼定が要旨を告げ、障子を右に滑らせた。直後に地を蹴った少年が、その隙間に強引に割り込んだ。
 入ろうとしたら、外から弾丸が飛び出して来た。
 危うく激突するところだった歌仙兼定は寸前で躱し、後ろに数歩よろめいた。目を白黒させて出て行った背中を見送って、続けて唖然としている粟田口の兄弟に首を捻る。
 いったいここで、何が起きていたのだろう。
 訪ねて来たばかりで状況がさっぱり分からない彼に、短刀たちも意味不明だと首を振った。
 ただひとり、薬研藤四郎だけが、思案気味に眉を顰めた。
「御足労いただき、感謝する」
「いやいや、これくらいはね」
 それでも一応知らせてくれた礼を述べて、歌仙兼定も軽く応じた。続けて異様な雰囲気の室内を眺めて、輪の中心に陣取る絵札に焦点を定めた。
 小夜左文字の行動については、誰にも理由は分からない。だから今は気にしない事にして、彼は珍しいと目を眇めた。
「百人一首とは、雅だね」
「えー。そうかなあ……」
「おや?」
 戦上手が多い中、和歌に通じる者は少ない。刀剣とは戦う為の道具だから当然と言えば当然なのだが、歌仙兼定はそれが常々不満だった。
 だから子供たちが、歌に興味を持ってくれるのは素直に嬉しかった。しかし合いの手は素っ気なくて、彼は右の眉をぴくりと持ち上げた。
 何が気に入らないのだろう。
 見過ごせない状況を嗅ぎ取って、男は静かに半眼した。用は済んだのに立ち去ろうとしない彼を見上げて、薬研藤四郎も席を立たずに肩を竦めた。
「いや、なに。小夜の奴が、崇徳上皇の歌が一番好きだと言い出したんでな」
「小夜が?」
 さっきまで部屋にいた少年は、縁側を飛び下り、庭の奥へと姿を消していた。
 草履も履かず、一目散に駆けて行った。目立つ藍色の髪は緑に紛れ、行方を追うのは不可能だった。
 唐突な豹変で、原因は闇の中。
 意味不明すぎると溜息を吐いた薬研藤四郎に、歌仙兼定は眇めていた目を見開いた。
 右手は宙を泳ぎ、口元を覆い隠した。
「すまない。小夜は、本当にそう言ったのかい?」
 指の隙間から息を吐き、掌を湿らせて訊ねる。
 薬研藤四郎は間髪入れずに首肯して、残る藤四郎たちも彼に倣って頷いた。
 間違いないと、場に居合わせた全員が認めた。
「ああ。七十七番は、崇徳院なんだろう?」
「それは、相違ないんだが」
 歌仙兼定は瞳を彷徨わせると、風のない庭園を振り返った。
「そう。あの子は、そんなことを」
「嬉しそう……だな」
「そうかな。いや、そうだね。光栄だ、とても」
「うん?」
 小夜左文字は恨み辛みなら口にするが、それ以外の感情はあまり声に出さない。想いは常に胸に秘めて、誰にも明かそうとしなかった。
 それが僅かに露見した。
 これを喜ばずして、いつ喜べというのだろう。
 頬を緩めて締まりない顔をする男に、子供たちは頻りに首を捻った。
 小夜左文字の慌てぶりと、歌仙兼定のだらしない顔。
 そして怨霊として知られる崇徳院。
 それらが全く結び合わなくて、彼らは互いの顔を見合わせた。
「まったく。そういう事は、直接、僕に言ってくれないと」
「すまない。話が全く見えないんだが」
「おや。雅の欠片もない言葉だね」
 答えならそこにあると、歌仙兼定は歌かるたの山を指差した。
 知りたければ自分で探せ、ということらしい。端から教える気などない返答を残して、彼は急ぎ踵を返した。
 足をもつれさせながら、小夜左文字が逃げていった庭へと飛び降りる。白い足袋が黒く汚れるのも構わず、一目散に駆けていった。
 彼が常々口にする、雅さはどこへ行ってしまったのだろう。息を切らし走っていった男を見送って、薬研藤四郎は頭を掻いた。
 文系は意味不明だと肩を落とし、呼んでいるという主の元へ出向こうと立ち上がる。
「あ、あった。えーっと、なになに?」
 そこへ、かるたを漁っていた弟の声が響いた。
 高らかと読み上げられたのは、怨念とはまるで無縁な恋の歌。
「……成る程。こいつは、無粋極まりねえな」
 小夜左文字が慌てて出て行った理由と、歌仙兼定が大急ぎで追いかけていった原因。
 その両方を理解して、薬研藤四郎は肩を竦めて苦笑した。

2015/6/7 脱稿