本日は、快晴。
雲ひとつない空の下で行うのは、何故か農作業。
命じられた当初は困惑した。しかし短刀にも扱えるよう小さめに作られた鍬を手に、汗を流すのは、思いの外心地良かった。
焦げ茶色の地面を掘り返せば、時折蚯蚓が顔を出した。慌てた様子で逃げていくのを見逃してやり、土を均し、畝を整え、等間隔で掘った穴に種を植えていく。
単調だが、根気が必要な作業の連続だった。朝早くから開始して、穴すべてに土の布団を被せてやる頃には、陽は西に傾いていた。
「今日はこれまでだね」
広大な敷地を隅々まで耕すのは、骨が折れる。
到底時間が足りなくて、どこかで見切りをつけるしかなかった。
あと少しすれば、太陽は地平線に接しよう。鮮やかな朱色に染まる西の空を仰いで、小夜左文字は呟いた。
「やっとか」
瞬間、地面にざっくりと鍬の歯が突き立てられた。
そのままずぶずぶ沈んでいく農具を横目に見て、彼は聞こえた声に苦笑した。
農耕具を杖代わりにして、男がひとり、疲れた顔で佇んでいた。
表情は物憂げで、陰鬱。肌色は優れず、猫背で、まるで腰が曲がった翁のようだった。
強気で勝気な眼差しは見る影もなく、落ち窪んだ眼が疲労の度合いを教えてくれた。白かった胴衣や袴は土で汚れ、特に足袋の汚れ具合が顕著だった。
素足に草鞋が一番楽なのに、嫌らしい。
そこだけは譲れないと己の矜持を主張するのは構わないが、それによって引き起こされる苦労に対し、文句を言うのは止めて欲しかった。
ほぼ一日中、ぶつぶつ愚痴を聞かされる身にもなれ、と言うものだ。
だがどうせ言ったところで、聞き入れられないのは分かっている。だから小夜左文字は、敢えて口を挟まなかった。
相槌は返してやらず、再び西の空に目を向ける。
夕焼けは少しずつ色を強め、遠くに見える山並みは、まるで赤々と燃えているようだった。
「真っ赤だ」
この調子だと、明日も快晴に恵まれよう。
少しくらい雨が降ってくれないと困るのだが、種を植えたばかりのこの時期、大雨は土が流れてしまうので、遠慮したかった。
矛盾している。
ちくりと胸を刺す感情に首を振り、小夜左文字はまだ鍬に寄り掛かっている男に意識を戻した。
「歌仙、帰ろう」
「承知した」
農具、種を植えた袋、その他諸々。
畑仕事に使った道具を左右の手に抱え、囁く。
それで歌仙兼定もようやく動き出し、荷物の整理に取り掛かった。
相変わらず不機嫌そうではあるが、これで解放されると喜んでいる節もある。一日土いじりを続けたので、今晩は、夢も見ないくらいに深く眠れそうだった。
「小夜は、疲れていないのか」
「これくらい、どうという事はない」
屋敷の裏手に広がる農地は、人を雇っても追い付かないほどの広さだった。
とてもではないが、たったふたりでどうにか出来る規模ではない。しかもこれを耕すのは、門外漢も甚だしい刀剣だった。
歴史の改変を目論む輩がいる。これを防ぎ、不届き者を罰する為に遣わされたのが、彼ら刀剣男子だった。
審神者なる者に喚び出された付喪神は、その時点で人の姿と心を与えられた。出陣しない時は本丸に居残り、己や仲間の身の回りの世話をやるよう、言い含められていた。
そのうちのひとつが、この農作業。
自分の食い扶持は自分でなんとかしろ、という事らしいが、それにしても話は突飛だった。
敵を斬り、殺すために産み出された刀剣が、よもや鍬を手に土を掘り返す事になろうとは。
これほど馬鹿げた話はないと、歌仙兼定の愚痴は当分終わりそうになかった。
「僕に言わないで」
「仕方がないだろう。直接文句を言いに行った結果が、これだ」
帰り道、細い畔を通り抜けながら、後ろに向かって苦情を送りつける。しかし逆効果で、余計に彼の機嫌を損ねてしまった。
審神者とのやり取りを思い出したのか、非常に憤慨しているのが、振り返らずとも分かった。
きっと今の彼は、西の空のように真っ赤だろう。
ぷんすかと煙を噴いている様を想像して嘆息し、小夜左文字は足取りを速めた。
触らぬ神に祟りなし。
要らぬ争いはしたくない。歌仙兼定の気が治まるまで、暫く放っておくのが一番得策だった。
けれどあちらは、話を聞いて欲しくて仕方がないらしい。
それのみならず、同意をして欲しがっているものだから、始末が悪かった。
「まったく、何を考えているんだか」
「別に良いじゃない」
農具を収納する小屋に辿り着き、立てつけの悪い引き戸を横に滑らせる。
憤懣やるかたなしの声にうっかり合いの手を入れてしまって、気付いた時にはもう遅かった。油断したと自分に首を竦めて、小夜左文字は深々と肩を落とした。
覚悟を決めて振り返れば、両手に重い農具を抱え持ち、男が憤怒の形相で立っていた。
戦場で手傷を負わされた時も、彼はこんな顔をする。
苛烈な性格だった前の主の影響が、過剰なくらいに表に現れていた。
睨まれて、小夜左文字は嘆息した。運んできた荷物を足元に置いて、困った顔で目を眇めた。
「歌仙」
「だって、そうだろう。僕は刀だぞ」
「僕も、だけど」
「だというのに、あの者は、僕を。この僕を、草刈の鎌か何かと思っているのか」
「鯰尾もそう言っていた」
「だろう!」
いい加減鞘に納めろと言いたかったが、冷静になるよう諭しても無駄だった。
喋っているうちに、段々興奮が高まったのか。都合の悪い部分は綺麗に無視して、彼は鼻息を荒くした。
前のめりになって詰め寄られて、荒い呼気が肌を掠めた。
藍色の前髪を吹き飛ばされて、小夜左文字は迷惑そうに顔を顰めた。
鎌扱いされている、と言ったのは、鯰尾藤四郎だ。しかしそこも、聞こえなかった事にされてしまった。
実に使い勝手が良い耳をお持ちのようだ。内心呆れ、少年は言葉を探して目を泳がせた。
この調子では、彼の怒りは当分鎮まりそうにない。
下手なことを言って逆鱗に触れるのだけは、是が非でも回避しなければならなかった。
「面倒だな」
厄介な相手と組まされてしまった。
彼らがただの刀剣だった頃。一時期ではあるが縁を結んだことがあると、審神者に言わなければ良かった。
今となってはもう遅い。
これなら今剣と一緒にやった方が、格段に楽だった。あちらも農作業などに縁がない日々を送っており、それほど役に立つわけではなかったが、物を知らない分、教えれば面白がってやってくれた。
無駄に知識だけ豊富な頭でっかちほど、扱いにくいものはない。
未だ審神者に苛立っている男を見上げ、小夜左文字は両手を腰に当てた。
「片付け、やっておくから。歌仙はもういいよ」
「小夜」
「先に戻って」
「…………」
胸を張り、告げる。
高い位置にある顔をじっと見つめながら言えば、その返しが予想外だったのか、男は途端に黙りこんだ。
思案気味に眉を寄せ、唇は真一文字に引き結ばれた。少し前まであれだけ喧しかったのが嘘のようで、小夜左文字は小首を傾げた。
農作業が刀の仕事でないのは、皆が思っていることだ。不満を覚えているのは、なにも歌仙兼定ひとりではない。
けれど大半の刀剣男子が、文句を言わずに働いている。馬の世話だって、そうだ。
誰かがやらなければ、誰もやらないのだ。
それでもやりたくないと言うのなら、屋敷に戻ればいい。後は荷物の片付けだけで、それくらいなら小夜左文字だけでも事足りた。
喋るばかりで動かない者は、いるだけ邪魔。
だったら居なくなってくれた方が、何倍も良かった。
そんな気持ちが、少ない言葉から滲み出ていた。気取った男は渋い顔をして、悔しそうに地団太を踏んだ。
「小夜にばかり、やらせるわけにいかないだろう」
「別に、いいのに」
憤然と言い放ち、一度は下ろした荷物を持ち上げる。
投げやり気味な台詞と行動に目を丸くして、小夜左文字は肩を竦めた。
そういえば、彼は負けず嫌いだった。
やられたら、その三倍はやり返す。だから怒らせたくなかったのだが、意外にも良い方向に転がった。
「覚えておこう」
次、似たようなことがあったら、この手を使おう。
ひっそり呟いて記憶に焼き付けて、小夜左文字も甘藍の種の入った袋を抱え持った。
薄暗い倉庫に道具を片付け、扉を閉めて外へ出る。
西日は眩しく、夕焼けは天頂近くまで広がっていた。
細く伸びた雲が鮮やかに色付き、不可思議な彩を作り上げていた。家路を急ぐ鳥が群れを成し、遠く、気の早い梟の声がこだました。
鎮守の森がある方角に目を向けて、短刀の少年は寒さに身震いした。
「冷えて来たな」
暦は夏が終わり、秋に至っていた。作付けは今植えているものが最後で、収穫が終わる頃には雪が降り始める計算だった。
冬場の食糧調達は、どうするのだろう。
今から保存の利くものを準備して、備蓄を開始しなくていいのだろうか。
その辺りが、どうにも分からない。審神者に訊くのが一番早いのは分かっているのだが、小夜左文字はどうもあの者が苦手だった。
あまり信用ならないというか、言っていることが全て胡散臭い。にわかには信じ難い事ばかり口にして、揶揄われている気がして嫌だった。
どこに本心があるのか、さっぱり読み解けない。
一介の刀剣に血肉を与えた存在であり、人間的な表現をすれば『親』に相当する相手ではあるが、過剰に信頼を寄せるのは危険だと思えた。
土で汚れた身体を撫でさすり、小夜左文字は寒気を覚えた身体を慰めた。鳥肌立った腕を宥め、摩擦で熱を呼び起こした。
それで温かくなりはしないが、じっとしているよりは良い。吐息をふたつ、みっつと並べて、彼は小屋の傍で待っていた男に駆け寄った。
律儀なもので、待ってくれていた。
気遣いなど不要だというのに、奇妙なことに、少しほっとした。
湧き起る感情は、良く分からない。だが不快ではなくて、小夜左文字は胸の中に芽生えた微熱をそっと抱きしめた。
「顔を洗いたいな」
「僕も」
呟かれ、間髪入れずに同意する。土いじりを一日中やっていたのだから、顔だけでなく、手も、足も、泥だらけだった。
全身汗だくで、早く着替えたかった。慣れない事をさせられたから、疲労感も相応だった。
これでようやく、解放される。
安堵に胸を撫でおろした途端に膝ががくがく震えて、小夜左文字は苦笑した。
あと少しだからと己を鼓舞し、連れ立って屋敷へと戻る。道中見えた演練場はひっそり静まり返っていて、誰もいないようだった。
「井戸にするか」
「……うん」
手を洗うだけなら、縁先手水鉢で事足りた。しかしあそこで身体を洗うのは、少々気が引けた。
そもそも、役目が違う。手水鉢だって、そんな目的で使われたくないだろう。
「手拭いは」
「あるよ」
同意して、小夜左文字は進路を変えた男に訊ねた。歌仙兼定は瞬時に応対して、襷を解いた懐から折り畳んだ布を取り出した。
編み目の粗い手拭いを示されて、小さく頷く。
そういえば仕事中、彼は頻繁にそれで顔を拭いていた。
あまりにも手が止まる回数が多いので、途中から彼の方を見なくなったのだった。こちらはあくせく働いているのに、何度も休んでいるところを見せられるのは、あまり気分の良いものではないからだ。
思い出して首肯して、小夜左文字はまたも手拭いを首に押し当てた男に苦笑した。
「ん?」
「いいや」
それが目に留まったらしく、歌仙兼定に変な顔をされた。慌てて首を振って誤魔化して、短刀の少年は足早に彼を追い越した。
屋敷の庭には何個所か井戸が設けられ、好きな時に水が汲めるようになっていた。
台所の傍にもひとつ、煮炊き用の水を汲む為に用意されていた。
但し彼らが向かったのは、そちらではない。
演練場に程近い釣瓶井戸には、割った竹を並べて作った覆いがされて、その上に綱に結ばれた桶が置かれていた。綱は斜め上へと伸び、井戸脇の柱に吊るされた滑車へと続いていた。
小夜左文字がその桶を手に取れば、歌仙兼定がすかさず竹簾を横へ押し退けた。
風雨に晒されて来たからか、竹簾は茶色に変色していた。互いにぶつかり合ってガラガラ音を立てるが、それも覇気がなく、あまり喧しくなかった。
適当に畳んで井戸に立てかけて、歌仙兼定が空いた手を差し出した。それだけで理解して、小夜左文字は遠慮なく、乾いた桶を彼に手渡した。
「まったく。釣瓶落としの如くだね」
そうして底の見えない井戸に桶を放り込み、滑車が騒々しく回転する最中に呟く。
視線は西へ向かい、暮れゆく空を眺めていた。
この場所からでは庭木が邪魔をして、太陽自体は見え辛い。ただ棚引く雲の朱色と、影を帯びた樹木は見事に調和がとれており、美しかった。
歌仙兼定が桶を手放してから随分間を置いて、水の跳ねる音がした。冷えた空気と共に駆け上ってきた音色に耳を澄ませ、彼は男が綱を引き上げるのを大人しく待った。
「手伝うか」
「問題ない」
念のため助力を申し出るが、敢え無く却下された。この男はいつもこうで、見栄を張っているのか、小夜左文字を子供扱いした。
刀工の手で鍛え上げられた時代は、小夜左文字の方が幾ばくか早い。外見年齢で騙されそうになるが、産み落とされてからの年数は、歌仙兼定の方が短かった。
だというのに、彼は自分の方が年上だと言わんばかりの態度だ。年長者として振る舞って、己を中心に物事を進めたがった。
「別に、いいけど」
それで多少なりとも楽をさせてもらっているのだから、特に不満はない。
ただあまり度が過ぎるのは、遠慮したかった。
過保護に守られるほど、弱い存在ではない。見た目が幼かろうとも、小夜左文字は刀だ。
なにを考えているのかよく分からない代表は審神者だが、歌仙兼定もそうだ。
冷たく突き放したかと思えば世話を焼いたり、乱暴に扱ったかと思えば、優しく抱き留めたり。
両極端過ぎて、本心が掴めない。黙々と綱を引く男を眺め、小夜左文字は嘆息した。
歌仙兼定は中ほどまで水で埋まった桶を囲いの角に置き、早速水面に手を出した。波打っている表面を削って掌で水を掬い、それを右手に振りかけた。
続けて反対の手を同じように洗って、最後に両手で掬って顔にぶつける。首を振って雫を散らす表情は晴れ晴れとしていて、とても気持ちが良さそうだった。
「ああ、生き返るよ」
畑に居た頃とは、別人のようだ。
活力漲る声に失笑して、小夜左文字も桶へと手を差し入れた。
指先を湿らせ、顔を洗い、袖で拭く。だがそちらも汚れており、土の匂いが一層強まっただけだった。
「ほら、小夜。こっちを向いて」
「いい。問題ない」
「駄目だ。そんな汚い顔で、屋敷には上げられない」
「顔は関係ない」
「いいから」
もしかしたら、茶色い筋が頬に走ったのかもしれない。見かねた歌仙兼定が手拭いを湿らせて、顎を抓まれそうになった少年はぶすっと口を尖らせた。
しかし効果はなく、呆気なく囚われた。濡れた布を鼻先に押し当てられて、小夜左文字は咄嗟に目を瞑り、息を止めて固くなった。
爪先まで緊張でガチガチになって、竦み上がった姿はさぞや滑稽だっただろう。
実際笑われてしまって、少年は不機嫌に頬を膨らませた。
「うん。綺麗になった」
「歌仙は、汚い」
「おやおや、酷いことを言う。まあ、実際その通りではあるんだけどね」
この身体を動かすのには、随分と慣れた。けれど他人に――それがたとえ同類であったとしても――触れられるのには、まだそれほど馴染めずにいた。
自分から触れに行く分は、覚悟が出来た上だから問題なかった。
困るのは、その逆。
特に前触れのない接触は恐怖で、不必要なくらいに警戒した。
夜眠る時も、周囲の音が気になってゆっくり休めない。常に気を張って、木の葉が風で落ちるだけでも敏感に反応させられた。
そんな中で唯一落ち着けるのが、そこにいる男の寝床だった。
彼もまた刀剣の端くれであり、戦上手と謳われた男の愛刀だ。勿論歌仙兼定に寝首を掻かれたらそれまでだが、他の者に襲われる危険を考慮すれば、彼の寝所に潜り込む方がまだいくらかましだった。
「まったく、雅じゃないねえ」
湿った前髪を抓み、捻りながら男が言う。
半ば口癖になっているその言葉が可笑しくて、小夜左文字は不覚にも噴き出しそうになった。
「おや」
「……なんだ」
「いいや。小夜も、そういう顔をするようになったのか、とね」
寸前で堪えたが、見破られた。物珍しげに見下ろされて、告げられた言葉は穏やかだった。
字面が良くない台詞だったのに、口調のお陰で半減だった。馬鹿にするわけではなく、感心している素振りに気まずさが募り、小夜左文字は彼に撫でられた鼻を押さえた。
いったい、どんな顔だったのだろう。
自分では見えなくて、彼は背伸びをして桶を覗き込んだ。
「頭からかぶるかい?」
「冗談を」
それを、どう思ったのか。
鏡代わりにしたかったのに違うことを言われ、小夜左文字は瞬時に踵を下ろした。
叱られた男は呵々と笑い、手拭いを広げて桶へと放り込んだ。たっぷり水を含ませて、その間に袖から腕を抜いて衿を広げた。
袴を履いたまま、上半身を曝け出す。下に着ていた襦袢ごと脱ぎ捨てて、汗と泥で汚れた上着は天地を逆に垂れ下がった。
勇ましく諸肌を脱いだ男は、肩幅が広く、胸板は厚く、上腕も引き締まって、無駄のない体躯だった。
程よく鍛えられ、余分なものがない。普段身に着けている華美な衣装は誤魔化しでなく、彼は十分、実戦に足る肉体を備えていた。
「……む」
対する己はどうかと比較しそうになって、小夜左文字は抓んでも皮しかない腕に小鼻を膨らませた。
「小夜は、どうする。背中を拭いてあげようか」
「自分で出来る」
「そう。なら、良かった」
そうしている間に、歌仙兼定は濡らした手拭いを絞った。雫が垂れなくなるまできつく捻って、再度広げたそれを真っ先に左腋へと押し当てた。
肩を少し持ち上げ、腕と脇腹の間に隙間を作る。火照った身体を冷ましつつ、少しずつ布を動かしていく彼を眺め、小夜左文字はもぞもぞと膝をぶつけ合わせた。
その身体が羨ましかった。
彼くらいの太い腕があれば、もっと楽に敵を討ち滅ぼせるのに。
仇を殺すのだって、雑作もないのに。
暗い影が視界を過ぎった。足元に長く伸びる闇が、深く、深く、小夜左文字を手招いた。
沼があった。
血の色をした沼だ。
一度嵌ったら抜け出せず、二度と浮き上がれない。呪詛の言葉は昼夜を問わず響き渡り、こだまする声は心を蝕んだ。
足に絡みつくのは、死者の腸で作られた鎖。
腕を縛り付けるのは、死者の骨で作られた枷。
無数に積み重ねられたしゃれこうべの、空っぽの眼窩が小夜左文字を見ていた。蛇が牙を剥き、細い舌をくねらせた。
囚われ、抜け出せない。
逃げられない。
喰い滅ばされる――
「っ!」
ばしゃり、と水の音がした。
突然だった。頭から浴びせかけられた井戸水は冷たく、大量の雫を纏った少年は目をぱちくりさせて立ち尽くした。
惚けた顔で瞬きを繰り返す。前方では諸肌脱いだ男が、桶を手に憤然とした面持ちで佇んでいた。
「目は覚めたかい?」
「……お陰様だ」
淡々と問われ、それだけ返すのが精一杯だった。小夜左文字は濡れた前髪ごと額を覆い、こみあげる笑いを噛み殺した。
白昼夢に捕まって、抜け出せなくなるところだった。
まさかの方法で救い出されて、少年は力なく首を振った。
「どうしてくれる、歌仙。着るものがない」
復讐に狂った短刀は、あまり物を持たない。
審神者から幾らか駄賃をもらっているものの、使うことはせず、壺に入れて貯め込む毎日だ。
その所為で替えの服も多くなく、襤褸になってもずっと着続けている。しかも枚数は多くなく、洗濯に出してしまうと暫く裸で過ごさなければいけなかった。
これからの季節、夜は冷え込む。日中ならまだ耐えられなくはないが、陽が暮れた後は命取りだった。
頭から水を浴びせられて、一張羅がずぶ濡れだ。髪を梳き上げながら文句を言えば、身体を拭き終えた男は身なりを直して肩を竦めた。
「なら、僕のを貸してあげよう」
「大きいだろう」
「なんとでもなるよ」
着丈だけなら、腰のところで折り返してやれば良い。そんな軽い口ぶりに、華奢な短刀はぶすっと頬を膨らませた。
それは、女性の着方だ。
小柄な体格とはいえ、小夜左文字は立派な男子。
侮辱されたと拗ねた少年に、歌仙兼定は呵々と笑った。
「では、粟田口の誰かに借りるかい?」
「あれは、ちょっと……」
声を高くして聞かれ、途端に小夜左文字は口籠った。例に出された者の衣服を脳裏に想像して、そのあまりの似合わなさに、彼は頭を抱え込んだ。
それなら今剣から借りる方が良い。
あそこまで身体の線に沿ってぴったりした衣装は、窮屈で仕方がなかった。
露骨に嫌がった彼に目を眇め、歌仙兼定はもう一度湿らせ、絞った手拭いを広げた。四つに折り畳んで右手に持って、小夜左文字の顎から滴る雫を吸い取らせた。
そのまま肩に手を置き、顔を丁寧に拭いていく。仕草は優しく、ゆっくりで、心地よかった。
「ここで脱いでいくかい?」
「歌仙が、運んでくれるなら」
「おやおや」
問われ、小夜左文字は目を逸らした。濡れた服は肌に張り付いて気持ちが悪いが、我慢出来ないほどではなかった。
それでも生意気を言えば、男は朗らかに目尻を下げた。淡く微笑み、珍しく我儘を言った少年の耳朶を擽った。
「いいよ。脚も洗わないとね」
桶の中は空っぽで、水を汲むところから始めなければいけない。
背筋を伸ばした彼は手拭いを小夜左文字に預け、暮れなずむ空の下、釣瓶をけたたましく鳴り響かせた。
どうしてあんなことを言ったのか、本人も良く分からなかった。
下履きだけになって、跪いた歌仙兼定に脚を洗われて。
連れて行かれた部屋で着せられた麻の単衣は、案の定、床に擦るくらいに長くて。
文句を言えば、宥められた。
頭を撫でられ、拗ねて膨らませた頬を捏ねられた。
楽しそうに笑われた。姫のようで似合っていると言われたので、思い切り蹴ってやった。
衣には防虫効果もある香が炊き付けられて、嗅ぎ慣れない匂いがした。
自分ではないものになった気がした。後ろから誰かに抱きしめられているようで、その日はずっと、落ち着かなかった。
2015/04/18 脱稿