穏やかに晴れた、天気の良い日だった。
日増しに厳しくなりつつある陽射しも、適度に雲が散っているお陰で幾分弱められていた。風はなく、庭の木立が揺れるのは、主に枝に停まっていた小鳥が飛び立ったのが原因だった。
本格的な夏はまだ先ながら、地表付近はじりじりと焦げ付くように熱い。
出来るだけ日なたを避けるように進んで、小夜左文字はうなじを擽る後ろ髪を跳ね除けた。
高く結った藍色の髪は、冬場に比べると少し短くなっていた。だが不用意に鋏を入れたお陰で長さが足りず、一部が頭頂部付近の結び目に届いていなかった。
そういった短い髪が重力に引かれ、度々襟足に絡みついた。じっとしていれば特に気にならないものだけれど、汗ばんだ肌に張り付かれると、途端に不快さが増した。
もっとちゃんと櫛を通し、鏡を覗き込むべきだった。
もしくは人に頼み、やって貰えば良かった。
「……失敗した」
数日前の行動を振り返り、小夜左文字はぼそぼそと呟いた。
愚痴を零したところで、髪が伸びることはない。暫く我慢するより他なくて、彼はまたも項に触れた毛先を払い除けた。
トタトタという足音は軽やかで、土壁が剥き出しの廊下は比較的涼しかった。
但しもうじき、表に出る。南に面した縁側は日当たりも良く、この時間はぽかぽか陽気で逆に暑いくらいだった。
あと少ししたら簾を吊るそう、という話が出ているのは聞いていた。葭簀の手配は済んでいるから、近いうちに届くというのも耳にしている。
風鈴を買いに行こう、とも誘われていた。軽やかな音色に涼を見出すのは堪らなく風流だと、嬉しそうに笑っていた。
蕩けるような笑顔を思い浮かべ、小夜左文字は足取りを緩めた。辿り着いた本丸南側の庭園は濃い緑に覆われて、冬場とは全く違った様相を呈していた。
ぴちゃりと水の跳ねる音がしたのは、池に放った鯉だろう。毎日飽きるほど餌をもらって肥え太っており、ふてぶてしい顔をしているのが短刀たちに人気だった。
野良猫に襲われないようにと、見回りも欠かさない。
但しその輪に小夜左文字が加わったのは一度きりで、以後は誘われなくなっていた。
折角太らせたのに、美味しく育ったところを掠め取られたら困るからね、と言ったのだが、何か変なところがあっただろうか。頬を引き攣らせていた秋田藤四郎や乱藤四郎を思い返し、彼は右に首を傾けた。
ともあれ、無理矢理仲良しごっこの会に組み込まれることはなくなった。
それは有難いことだと自分を納得させて、小夜左文字は辿り着いた障子戸の前で息を整えた。
胸に手を添えて、深呼吸を三回。
舐めた唇は乾いており、トクトク言う鼓動は調子を速めていた。
「歌仙」
開放的な縁側に面した戸は、すべて閉じられていた。
他の部屋はそうでないのに、此処だけだ。前を素通りしてきた部屋はいずれも無人で、内部は寝起きしている刀剣たちの個性に溢れていた。
綺麗に布団を片付けている者、万年床になりかけている者。
脱いだものをきちんと畳んで、整理している者。
広げたら出しっ放しで、足の踏み場も残っていない者。
各々が寝起きする場所は、自身で掃除する決まりになっていた。だから当然、面倒臭がって一切手を付けない者もいた。
そういう性格が複数人揃えば、あっという間に部屋は腐海と化す。特に湿気が高く、雨の多いこの時期は悲惨だった。
梅雨の晴れ間は貴重なのに、布団を干すどころか、床から上げようとすらしないのは問題だ。
仕方なく手伝ってやろうとした男が、黴が生えて粘菌類の巣と化している空間に悲鳴を上げたのは、見ていてかなり滑稽だった。
よくぞあんな部屋で、不満なく暮らせるものだ。
驚き、呆れさせられた。小夜左文字は昨日のひと悶着を軽く振り返り、ゆるゆる首を振った。
この一件は、実はまだ解決していない。しかし今はどうでもいい事で、頭から追い出し、彼はシンと静まり返った戸の奥に意識を差し向けた。
動くものの気配はない。
誰も居ないのかと一瞬不安になって、彼は引き手に伸ばそうとした手を引っ込めた。
「歌仙?」
二度目の呼びかけにも、返事は得られなかった。
応対がないと、障子を開け難い。この部屋は小夜左文字が寝起きしている場所であるけれど、元々は歌仙兼定が審神者に与えられた場所だった。
小夜左文字は、いわば居候の身だ。自身に宛がわれた短刀たちの共同部屋には居着こうとせず、遅れて本丸へ招かれた兄たちとも生活空間は別々だ。
赤の他人にも等しい歌仙兼定を選んだ理由は、単純に、彼と接する時間が一番長かったからだ。
審神者によって現世に喚び出される前から、彼の存在は承知していた。当時の彼にはまだ固有の名前がなかったけれど、その鋭い切れ味については、既に広く知られていた。
昔のような気性の荒さは影を潜めたものの、今でも時折、無邪気なまでの残酷さがちらちら顔を覗かせた。
彼からは、血の臭いがする。
だから安心するのかもしれない。
腐臭を漂わせ、血腥さが決して消えないこの身体と、彼が香で誤魔化す臭いが似ているから。
「歌仙兼定。居ないのか」
三度目、小夜左文字は先ほどより声を高くして問いかけた。
けれど相変わらず部屋は静かで、物音ひとつ響いてこなかった。
本当に留守にしているのだろうか。しかし直前に立ち寄った炊事場は蛻の空で、朝餉の片づけは終了した後だった。
一番隊は出陣し、二番隊以降も半刻ほど前に遠征へと旅立った。広い屋敷は途端に人気が消えて、普段の賑やかさが嘘のようだった。
こんなに静かなのは、久しぶりではなかろうか。
まだ本丸に刀剣が揃わず、出陣さえままならなかった頃を思い出して、小夜左文字は何気なく後ろを振り返った。
彼がここに来たのは、昨年の夏の終わりだった。
季節は秋に至る、ほんの少し前のこと。屋敷には審神者と、歌仙兼定しかいなかった。
そうしているうちに今剣が喚び出され、五虎退がやってきて、乱藤四郎と出会った。
鯰尾藤四郎が乱入して、山姥切国広と加州清光が時を同じくして現れた。
秋の中ごろには宗三左文字が仲間に加わり、冬を迎えて暫くしてから、江雪左文字がふらりと本丸を訪ねて来た。
時が過ぎるのは早い。
あっという間に季節が一周してしまいそうだった。記憶を辿れば様々な出来事が芋づる式に蘇り、小夜左文字は感嘆の息を吐いた。
歌仙兼定がいなければ、こんなにも本丸に馴染むことはなかった。
審神者に対しては相変わらず不信感が残るものの、ここでの生活は、口で言うほど悪くなかった。
「どこへ」
四度目の声は唾と一緒に呑みこんで、小夜左文字は内番服の衿を撫でた。
襷はまだ結んでおらず、袖口は肘の辺りを彷徨っていた。帯代わりの腰紐の結び目は雑で、尻端折りもしていない。長着の裾は膝の下で揺れ動き、着丈が合っていないのもあって、若干不格好だった。
素足に巻き付けた包帯は、今にも解けて落ちそうだ。それを気にして片足立ちで飛び跳ねて、小夜左文字は引っ張った布を包帯の内側に押し込んだ。
これで暫くは大丈夫だろう。
懐に潜ませた白い襷を上からなぞり、彼は困り顔で左右を見回した。
歌仙兼定には、今日、馬当番を手伝ってもらう約束を取り付けていた。
審神者に命じられた仕事なので、面倒だが断れない。ただ小夜左文字は、その経歴故か、動物に嫌われていた。
中には顔を擦り寄らせてくる馬もいるけれど、一頭だけだ。厩で世話をしている馬は他にも数頭いるので、触らせてくれる馬だけ手入れする訳にはいかなかった。
そんな真似をしたら、一緒に当番になった今剣に何を言われるか、分かったものではない。
拗ねたら面倒臭い短刀を思い出して嘆息し、彼は胸の前で指を蠢かせた。
左右の掌を重ね、人差し指を小突き合わせる。
もっともこんなことをしていたところで、事態が好転するわけがなかった。
馬を怖がらせないよう、助けて欲しかったのに。
断られるのを覚悟で頼んだ時、二つ返事で承諾してもらえた。それなのに、どこへ行ってしまったのか。
二面性があり過ぎる男に口を尖らせて、小夜左文字は深く肩を落とした。
「仕方がない」
此処に居ないのであれば、他を当たるだけだ。
けれど今剣をこれ以上待たせるわけにもいかなくて、彼は数秒逡巡し、右足を床板から引き剥がした。
台所と部屋にいないのであれば、残る行き先に心当たりはない。そして非常に悪い事に、屋敷は無駄に広く、複雑に入り組んだ構造になっていた。
場当たり的に増改築を繰り返した結果が、これだ。最近は落ち着いているけれど、春先までは毎日のように槌や鉋の音が聞こえていた。
さらには建物内部だけでなく、敷地そのものも広かった。坪庭は数知れず、畑は広大で、演練場まで整えられていた。
それらを逐一見て回り、探し回るのは骨が折れる。時間が差し迫っている中で、そんな手間取る真似が許されるわけなかった。
人に頼ろうとしたのが、そもそも間違いだった。
馬に蹴られる覚悟を決めて、小夜左文字は踵を返そうと、障子戸から一歩離れた。
「……んふしゅっ」
「――っ」
直後だった。
妙に詰まり気味のくしゃみが聞こえて、彼は慌てて振り返った。
どくりと跳ねた心臓が、口から飛び出て来そうだった。それを急ぎ飲み込んで、小夜左文字は今し方立ち去ろうとした部屋を凝視した。
障子戸は隙間なくぴっちり閉ざされて、中の様子は窺えない。呼びかけに応じる声はなく、薄暗い空間は静寂に包まれていた。
だからてっきり、中に誰も居ないと思った。
もしや違うのかと勘繰って、小夜左文字は恐る恐る、一度は引っ込めた手を伸ばした。
「歌仙?」
息を潜め、囁くように問いかける。
しかし今度も返答はなく、代わりに衣擦れの音が聞こえた。
耳朶を擽る微かな音色に、少年は堪らず喉を鳴らした。緊張に頬を強張らせて、短い指で金属製の引き手を引っ掻いた。
浅い溝を削り、木製の戸を右へと滑らせる。一寸ほどの隙間を作って肘を引き、出来上がった細い筋から室内を覗き込む。
生唾を飲んで喉を鳴らして、小夜左文字は薄明かりが照らす屋内に目を凝らした。
歌仙兼定の部屋は入口近くに衣紋掛けが用意され、季節外の衣装を入れる長持がその横に陣取っていた。調度品の類は少なく、がさつで粗野な刀剣たちとは一線を画していた。
布団は毎朝きちんと折り畳まれて、長持の上に置かれていた。整理整頓が行き届き、畳には髪の毛一本落ちていない。
「いた」
そんな綺麗に片付けられた室内に、巨大な塊が転がっていた。
思わず声に出して、小夜左文字は目を丸くした。覗き穴代わりだった隙間に掌を差し込んで、楽に通り抜けられる幅まで障子戸を開けた。
外の光が差し込んで、暗かった部屋が一気に明るくなった。しかし中で寝転がっていた存在は反応せず、小夜左文字に背中を向け続けた。
藺草の匂いが心地よい畳の上で、彼の探し人は小さく寝息を立てていた。
布団は敷かれていなかった。己の腕を枕にして、大柄の男はすやすやと、心地良さげに眠っていた。
華美な衣装は脱ぎ捨てて、袴に白の胴衣姿だった。藤色の髪は垂れたままで、紅白の襷は脇に放置されていた。
背中をやや丸めて、足はぴんと伸ばして。
僅かに俯き加減で、空いた左腕は腹の上に転がっていた。
敷居の手前に佇んで、小夜左文字は呆然と呟いた。
「寝ている、のか」
何度か瞬きを繰り返して、ハッとして慌てて部屋の中に入る。行儀が悪いけれど後ろ手に障子戸を閉めて、彼は瞬時に暗くなった屋内に安堵の息を吐いた。
白い紙に漉された組子の影が、緑の畳に薄く広がった。小夜左文字の影も細く伸びて、部屋のほぼ真ん中で眠る歌仙兼定の上に落ちた。
物音が立て続けに響いたというのに、彼は微動だにせず、寝息は一定だった。
「歌仙」
試しに名前を呼んでみても、反応はまるで得られなかった。
布団も敷かずに、深い眠りに就いていた。外は太陽が燦々と照りつけて、素晴らしい洗濯日和だというのに、だ。
じめじめとして鬱陶しい、梅雨の湿気も無縁だった。溶けそうになるほど暑くなく、あれこれやるには丁度良い日だった。
寝て過ごすには、勿体ない。
けれど歌仙兼定は実際に昼寝を楽しみ、目覚める様子がなかった。
「起きない、のか」
彼を最後に確認したのは、朝餉が終わった直後だった。
審神者から馬当番を任されて、手助けを頼んだ時だ。その後小夜左文字は兄たちの膳を下げに行って、薬研藤四郎と会って、食器を運ぶ役を奪われた。
手持無沙汰になって、いつもは出向かない遠征組の見送りに行った。和泉守兼定には驚かれて、加州清光には髪型が可愛くないと言われた。
襟足を擽る後ろ髪に身震いして、彼は忍び足で畳を進んだ。
縁を踏まないよう進み、歌仙兼定の一尺手前で膝を折る。
しゃがんで息を殺せば、穏やかな寝息がはっきりと聞き取れた。
「ん」
「歌仙」
「すぅ……」
その時鼻を鳴らされて、目覚めたかと一瞬期待した。しかし僅かな間を置いて、歌仙兼定は窄めた口から息を吐いた。
瞼はしっかり閉ざされて、開く要素が見つからない。
暗くて見え辛いが、顔色は悪くない。間違っても、どこか具合が悪いわけではないようだった。
今朝の彼は元気だった。いつものように朗らかに笑い、朝餉の支度を楽しんでいた。
全部で四十人近い刀剣男子がいるので、食事の用意も大変だ。しかも江雪左文字は菜食主義で、神刀である大太刀たちも同様だった。
彼らの為だけの食事も用意して、大飯食らいの胃袋も満足させる。
到底ひとりでは手が足りず、小夜左文字も出来るだけ協力するようにしていた。
それでも稀に、追い付かない。料理が出来る者は彼以外にも居るのに、趣味だから、のひと言で一手に担おうとするお人よしぶりが、小夜左文字には理解不能だった。
毎日あれこれ忙しく、更には出陣をしたり、遠征に出向いたり。
良いようにこき使われているというのに、彼は文句のひとつも口にしようとしなかった。
昨日だって、頼まれたわけでもないのに他人の部屋を掃除して、散々だった。
畳の上にぺたんと腰を落として、小夜左文字は行き場のない両手を太腿で挟んだ。
長着の裾が割れて、白の下履きが顔を覗かせていた。肉付きの悪い膝で交互に畳を叩いて、少年は眠ったまま動かない男をじっと見下ろした。
「かせん」
たどたどしい声で呼んではみるものの、結果はこれまでと何も変わらなかった。
夢でも見ているのか、時々顰め面を作る以外、全く動かない。険しい表情はあまり楽しそうではなくて、文系を気取って本丸を取り仕切る姿との落差は大きかった。
「疲れているのか」
毎日忙しくして、必要のない事まで手に掛けて。
平気な顔をしていたけれど、実は疲労が溜まっていたのだろうか。
「之定の」
懐かしい呼び方をして、小夜左文字は深く息を吐き出した。
肩の力を抜き、背中を丸める。猫背になって歌仙兼定との距離を詰めて、彼は太腿から抜いた手を畳に添えた。
身を乗り出し、寝入る男を覗き込む。吐息が当たらない距離を保ったまま見つめ続けるが、相も変わらず、寝顔は穏やかだった。
「……ふっ」
一瞬笑ったように見えたのは、気のせいか。
小さく噴き出した直後に身じろがれて、小夜左文字は慌てて背筋を伸ばして退いた。両手も引っ込めて空に泳がせ、暫くしばたばさせた後、膝の上に押し付けた。
歌仙兼定は緩く首を振ると、頭に敷いていた腕を少しだけ引っ込めた。横向きから仰向けになって、右膝だけを軽く折り、左は下方へ放り出した。
足の位置が離れ、袴の裾が畳に広がった。膝が浮いた分だけ布が圧迫されて、普段は隠れている脛が片方、膝の下まで露わになった。
爪先は足袋に覆われているが、内側に隠れた指は時々動いていた。調子を取るように空を掻いており、徒歩での旅を夢に見ているのかもしれなかった。
これまで、数えきれないくらい彼と遠征に出た。
一緒に出陣して、広い背中に負ぶわれて帰還を果たした事もあった。
逆に彼が手傷を負って、不安のままに帰りを急いだ日もあった。
数え上げたらきりがない。両手では到底足りなくて、小夜左文字は思い出を五つ並べたところで諦めた。
憎しみを抱き、復讐を遂げる事ばかりを考えていた。
罪滅ぼしになるわけがないと分かっていても、仇を探さずにはいられなかった。
もう存在しない相手を求め、望まずして背負わされた罪に潰されそうになっていた。
傷を負い、血を流し、骨が折れて手足が歪に曲がっても、すべては罪過の報いを受けただけと、平然を装うとした。
けれど死地に挑んでおきながら、思ってしまった。
ここで別れるのは嫌だと。
まだもう暫くは、共に在りたいと。
負ぶわれる背の暖かさ、揺られる心地よさを知ってしまった。
背負う側の憔悴と、後悔に気付いてしまった。
彼が嘆かねばならないことはしたくなかった。彼が悲しみに顔を顰め、苦悶を押し殺して唇を噛む様は見たくなかった。
「かせん」
口遊むその名前は、舌が蕩けるように甘かった。
声に出すだけで胸が満たされた。奥の方が暖かくなって、凍てついて棘だらけだった心を柔らかく包み込んでくれた。
歌仙兼定は毎日忙しい。
炊事に洗濯、掃除と、具足の整備。暇を見つけては庭の手入れに汗を流し、風を感じては歌を詠む。
大変だろうに、楽しそうだった。
本丸にいる誰よりもここでの生活を面白がり、充実した日々を過ごしているように見えた。
けれど、違った。単に人前で弱音を吐かないだけで、本当は疲労が溜まっていたのではなかろうか。
でなければ、こんな明るい時間から横になりはしない筈だ。
彼はまだ目覚めない。覗き込んだ表情は落ち着いており、心地よさげだった。
「歌仙、起きないのか」
恐々問いかけるが、当然ながら返答はなかった。
馬当番をひとりでやるのは気が引けた。今剣も一応居るけれど、短刀ふたりで大きな馬を一度に複数世話するのは、正直かなり骨が折れた。
手助けが欲しかった。
小夜左文字の気配に馬が怯え、暴れて逃げられる憂き目だけは、是が非でも避けたかった。
鶏を捕まえるのでも大変なのに、相手がその数倍の大きさなら、苦労は計り知れない。特に後ろ脚の蹴りは強烈で、直撃を喰らったら簡単に吹き飛ばされてしまう。
そうなると、最悪の場合、手入れ部屋へ直行だ。
裾から覗く足首を軽く撫でて、小夜左文字は肩を落とした。
手伝いは欲しい。
けれど健やかに寝入っている男を起こすのは忍びない。
両極端な想いを同時に胸に抱いて、少年は振り幅の大きい天秤に息を潜めた。
「歌仙、起きて」
そうして天秤棒が停止するのを待たず、ほんの少し語気を強め、同時に尻を浮かせて膝立ちになった。
力なく転がしていた利き腕を持ち上げて、拳を解いて指を伸ばす。
慎重に。
もどかしいくらいにゆっくりと。
彼は覚悟を決めたのか、眠る男の肩を揺り動かすべく空を掻いた。
「……かせん」
己の罪深さに歯を食い縛り、申し訳なさを上回る感情に心を奮わせる。
一瞬だけ見開いた眼を細く眇め、彼は自身の欲を優先させて、丸い頬を紅潮させた。
「おきて」
たどたどしく呼びかけて、直前で躊躇した指を痙攣させる。
脈は次第に速まって、身体全部が心臓になったかのようだった。
緊張に四肢を戦慄かせて、小夜左文字は苦悩と恍惚の狭間から手を伸ばした。
その、背中を。
「さよくん、さよくーーんっ!」
「うっ」
突如飛んできた甲高い声が、乱暴に突き飛ばした。
堪らずつんのめり、小夜左文字は出していた腕を畳に叩き付けた。肘を突っ張らせて前傾姿勢を支え、吃驚し過ぎて大変な事になっている心臓を左手で押さえこんだ。
どどど、と爆音を奏でる鼓動に脂汗を流し、瞳孔を細くして衝撃に耐える。右手はあと少しで歌仙兼定に触れるところで、もし目測を誤っていたら、彼の脇腹に鉄槌を下すところだった。
そうならなかったのは幸いだったが、安心している場合ではない。外から聞こえた声に返事も出来なくて、彼は目を白黒させて左右を見回した。
まず何からすればいいのか、咄嗟に判断出来なかった。
「さよくん、どこですか。おうまさん、まってますよ。はやく、はやくー」
「い、今剣……待っ、声が。歌仙が」
もうひとりの馬当番が、なかなか来ない相棒役に痺れを切らし、屋敷を探し回っているようだった。両手を口に添えて大声を張り上げて、必死になって呼びかける姿は簡単に想像出来た。
庭に面する障子戸は閉まっており、襖も全て閉ざされている。小夜左文字がどこにいるのかは、彼が返事をしない限りは秘匿された。
けれど放っておくわけにはいかない。待ちきれなくなった今剣が、あらゆる部屋を家探しし始めるかもしれないし、そうならなくても、当分の間小夜左文字を呼ぶ声は続くだろう。
それで歌仙兼定が起きない保証はない。
今し方自分がしようとしていたことは棚に上げて、彼は右往左往しながら奥歯を噛み鳴らした。
「さよくん、いないんですかー。ぼくひとりじゃ、おうまさん、おせわできません! はやく、でてきてくださーっい」
今剣の声は止まない。明るい障子戸に向き直って、小夜左文字は鼻を愚図つかせた。
「歌仙が、起きてしまう」
腰を捻って姿勢を戻せば、目を離す前と後で歌仙兼定の体勢が少し変わっていた。再び腕を枕に背を向けて、右手は力なく畳に投げ出されていた。
いつの間に寝返りを打ったのか。
一瞬の動作を見逃していた。時間の経過を痛感して、小夜左文字はすとん、と腰を落とした。
体温が移って仄かに暖かい畳にへたり込み、小鼻を膨らませて口を尖らせる。肩で息を整えて、落ち着き始めた鼓動に唇を舐める。
今剣は明るく、元気で、活発な性格をしているけれど、反面拗ねると面倒臭かった。
他にも何人かいる短刀の中で、小夜左文字と殴り合いの喧嘩をしたのは彼だけだ。粟田口の子らには、壁とまではいかないが、一線を引かれている雰囲気があった。
小夜左文字が構えずに済む相手は、存外に少ない。
未だ兄たちとの距離感を計りかねている彼にとって、今剣は、歌仙兼定と並ぶ大切な相手だった。
行くべきか、留まるべきか。
返事をすべきか、黙ってやり過ごすべきか。
二者択一を迫られて、彼はこの大声にも目を覚まさない男に嘆息した。
背中は、死角だ。目は前にしかないから、必然的に後ろは見えない。背後からばっさり斬られる危険がある限り、そこは最も警戒すべき場所だった。
それなのにこうも堂々と曝け出されて、呆れるより他になかった。
それに眠っている時間は、人が最も無防備になる時だ。
だから小夜左文字を含め、実際の戦地を知る刀剣たちの眠りは浅い。熟睡はせず、少しの物音でも飛び起きられるようにするのが鉄則だった。
ところが、この歌仙兼定はどうだ。
小夜左文字がここにいるのに、今剣があれだけ騒いでいるのに、瞼が開かれる気配は皆無だった。
本丸は安全と、信じきっているのだろう。
間抜けな寝顔にふっ、と頬を緩め、小夜左文字は 静かに目を閉じた。
淡く微笑み、首を振る。
「いつも、ごくろうさま。歌仙」
訥々と告げて、彼は右膝から順に、身体を起こした。
「美味しいごはんも。ありがとう」
思い返してみれば、きちんと礼を言った覚えがあまりない。
面と向かっては言い辛い事を、この場を借りて囁いて。
彼は膝立ちの状態で、僅かに残っていた彼との距離を詰めた。
なるべく音を立てないよう気を配り、呼吸を整え、唇を舐める。歌仙兼定は強まった他者の気配に反応したか、眉を寄せて顰め面を作った。
「う、……ん」
小さく呻き、男は顎を反らした。後頭部を畳に押し付けて、仰け反るようにして寝返りを打った。
再び左向きから仰向けに体勢を入れ替えて、右腕は腹の上へと移動した。今度は枕代わりだった左腕が畳に放置されて、すぅすぅ眠る顔はあどけなかった。
可愛いと、思ってしまった。
凛とした佇まいからは想像し得ない表情に顔を綻ばせ、小夜左文字は眠りが深い男に首を竦めた。
「ゆっくり休んでくれ」
もう手伝って欲しいとは言わない。
彼の安らぎの時間を、誰にも――小夜左文字自身をも含め――邪魔させたくなかった。
「おやすみ。歌仙」
そうっと囁いて、息を半分だけ吐く。
残った半分を口の中に留めて、小夜左文字は膝に添えた手で長着の裾を握りしめた。
膝を肩幅に広げ、背中をぐっと丸める。上半身だけを前に出して、倒れていかないよう腹に力を込める。
頬を栗鼠のように膨らませて、色々な意味で顔を赤らめて。
ゆっくり、歌仙兼定へと顔を近づける。
吐息が鼻先を掠めた。
穏やかに寝入る彼に安堵して、小夜左文字も目を閉じた。
触れたのは一瞬だった。
ほんのり香る甘さに首を竦めて、少年は柔らかくて心地いい微熱に照れ臭さを噛み殺した。
「さよくーん!」
今剣の声は、少し遠くなりはしたが、まだ続いていた。
早くしないと、後が大変だ。彼は素早く思考を切り替えて、くちづける前と何も変わっていない男に安堵の息を吐いた。
面映ゆげに微笑んで、小夜左文字は音もなく立ち上がって踵を返した。
障子戸を開け、閉めもせずに縁側へと駆け出す。
「今剣、うるさい!」
庭を走って行っただろう短刀を追いかけ、草履を履くべく玄関へと向かう。トタトタという足音は次第に遠ざかり、捨て置かれた部屋には晩春の風が紛れ込んだ。
人の気配が完全に途絶えるのを待って、歌仙兼定はのっそり、時間をかけて身を起こした。
「…………」
頭が寝癖で大変な事になっていたが、そこに傾ける意識は欠片も残されていなかった。
男は口元にやろうとした手を留め、白い胴衣に何度か擦り付けた。ごしごしと磨いてから顔の右半分を覆い、三角に立てた膝に額から突っ伏した。
「反則だ」
狸寝入りは、幸運にも気取られなかった。
どんな反応をするか見てみたくて、鶴丸国永ではないけれど、吃驚させてやろうと企んだのが全ての始まりだった。
あんな可愛い悪戯を仕掛けられて、何も手が出せなかった。
あんなにもいじらしい事をされたのに、誰にも――本人にさえ、このことを口外出来ないのが堪らなく悔しかった。
小夜左文字は、歌仙兼定が眠っていると信じ込んでいた。でなければ、あの不器用の塊のような子が、あのような真似を出来るわけがない。
寝ている振りをしていただけだと知ったら、十日は口を利いて貰えないだろう。全部聞いていたし、知っているのが露見したら、最悪、手入れ部屋行きだ。
言いたい。
言えない。
「どうすればいいんだ……」
なんとも罪深い愛し子に煩悶として、歌仙兼定はしばらくの間、そうやって頭を抱え続けた。
2015/04/04 脱稿