花かと見てや たづね入らまし

 行きたい場所があると、審神者に申し出たらしい。
 供として付き添うように、と告げられた時、小夜左文字は驚きのあまり暫く息が出来なかった。
 返事を急かされ、慌てて頷いてから再び目を丸くする。鼓動は速まり、骨を突き破って飛び出して来そうだった。
 堪らず左胸を押さえて、彼は乱れた呼吸を整えた。
 袈裟の上から撫でた身体に、目に見える変化はなかった。しかし心の臓は二重の意味で高鳴って、足の先まで落ち着かなかった。
 畳に正座したまま身を捩り、恐る恐る隣を窺う。
 目が合ったような気がした。けれど咄嗟に顔を背けてしまったので、錯覚だったかどうかの確認は出来なかった。
「お許しいただけました事、謹んで感謝申し上げます」
 その間に、長い髪を持つ男が恭しく頭を下げた。両手を揃えて畳に置いて、額が擦れそうなくらいに深く身を屈めてから、ゆっくりと身体を起こした。
 艶やかな銀髪がその動きにつき従い、肩の上をサラサラ流れていった。
 さながら淡雪が如く、儚く溶けてしまいそうな横顔は深い愁いを帯び、切れ長の瞳は正面を見据えて微動だにしなかった。
 背筋は真っ直ぐ伸びて、手本とすべき姿勢だった。両手は膝の上で緩く握られて、一瞬だけ、何かを急かすように小夜左文字を盗み見た。
 それではっとして、藍の髪の少年は急いで審神者に頭を垂れた。
「御役目、承知、仕りました」
 下を向いたまま早口で捲し立て、勢いをつけて顔を上げる。
 両手は畳に添えたまま、首ばかりを前に伸ばした体勢は滑稽だった。しかし場に居合わせた誰ひとりとして、笑ったりしなかった。
 静かすぎる空間に緊張で頬を強張らせ、小夜左文字は時間をかけて姿勢を改めた。乱れた袈裟の形を簡単に整えて、席を辞す挨拶に入った長兄を再び横に眺める。
 彼が立ち上がったのに合わせて膝を起こし、部屋を出る直前、再び審神者に会釈する。
 襖を閉め、板張りの廊下を素足で踏みしめた時にはもう、江雪左文字はとっくに歩き出しており、背中は遠くなっていた。
「あに、うえ」
「出立は、用意が整い次第です」
「畏まりました」
 慌てて追いかければ、視線を投げる事なく告げられた。小夜左文字は追い付いたところで駆け足を止めて、彼の一歩半後ろで歩調を揃えた。
 足を踏み出す毎に、足元の床板がキシキシ音を立てた。しかし前を行く江雪左文字は殆ど足音を立てず、まるで中空を滑っているかのようだった。
 幽霊の方が、もっと堂々と足音を響かせるに違いない。琵琶法師の元を毎夜の如く訪ねた落ち武者だって、彼よりもずっと存在感があっただろう。
 抜けるような白い肌に、冷えた眼差し。
 遠くばかりを見据える藍の瞳は、小夜左文字のそれと似た色をして、少しだけ趣が異なっていた。
 彼が見るものと、小夜左文字に見えているものは、同じ景色でもきっと違う。刀剣でありながら戦を厭い、争いが途絶えないのを嘆く江雪左文字は、この本丸の中では異端だった。
 そして小夜左文字は、己の長兄に当たるこの存在が、ほんの少し苦手だった。
 口数は少なく、表情は乏しい。他者と同調するのを善しとせず、交流は最小限。次兄である宗三左文字も独特の立場を取っており、兄弟揃って周囲から浮いていた。
 最初のうちは打ち解けようとあれこれしていた刀剣たちも、江雪左文字の態度が変わらないと知ると、波が引くように離れて行った。ただ大太刀である石切丸だけは、彼に一定の理解を示していた。
 神社暮らしが長いからだろう。戦場に久しく出ていないが故に、思う事も多々あるようだ。
 但し血腥い世界で育った小夜左文字には、到底理解の及ばない話だった。
 強い力を秘めておきながら、他者を傷つけるのを嫌い、忌避する。彼はあまりに綺麗で、遠い存在だった。
 だからこそ近寄り難く、話しかけ辛い。
 望んでいたわけではないとしても、無辜の民の命を多数刈り取って来た身だ。復讐に固執し、既に亡い男を殺す事にしか存在理由を見出せない短刀には、彼に手を伸ばす資格はないと思えた。
 江雪左文字の刃はあまりにも美しく、研ぎ澄まされていて、汚らしいこの身体では、触れたところで粉微塵に切り刻まれるのが関の山だ。
 それに江雪左文字自身も、血の臭いがこびりついた短刀など、傍に置いておきたくないだろう。
 兄とはいえ、共に過ごした時間は無いに等しい。
 共通点は乏しく、話をしようにも、何を語れば良いのかがまるで分からなかった。
 あの冷たい眼に映る己が、いかに醜いかは承知していた。
 だから拒まれるのが怖かった。
 疎まれているとはっきりさせるのが、堪らなく恐ろしかった。
 無意識に避けていた。初めて顔を合わせた時、その冷たい眼差しに戦き、咄嗟に歌仙兼定の後ろに隠れてしまったのも、気まずさを増幅させていた。
 あの瞳はまるで氷のようで、全てを見透かされるような気がして直視できなかった。
 本丸での接触は最小限で、小夜左文字側からなんらかの行動を起こすことはなかった。幸か不幸か、江雪左文字も一日の大半を屋敷の奥の部屋で過ごしているので、顔を合わせる機会は最低限で済んでいた。
 部屋の近くに行けば、読経の声が静かに響いて来る。その為彼を気味悪がる者も、一定数、存在した。
 いったい誰を弔い、誰の御霊を慰めているというのか。
 刀剣風情が、可笑しなことをする。
 そう言って笑った男がいた。その意見に半分は同調できたが、半分は否定したい気持ちでいっぱいだった。
 あの時、なんと答えたのだろう。
 思い出せなくて、小夜左文字は上り框で立ち止まった。
 引き戸は開け放たれ、江雪左文字が外で待っていた。慌てて草履に爪先を押し込んで、小夜左文字は沓脱ぎ石の上から飛び降りた。
「申し訳御座いません」
 早口で謝り、敷居を跨ぐ。表に出ると地面には薄ら雪が残り、庵を囲む竹林からはざわめきが聞こえた。
 枯れ落ちることなく残った笹の葉から、雪の塊が落ちたのだろう。撓っていた竹が反動で揺れて、周囲の竹を巻き込んだのだ。
 風が吹いたわけではない。けれど空気は充分に冷えており、吐く息は白く濁った。
 頭上に目をやれば、鈍色の雲が天頂を覆っていた。
 陽の光は見えない。足元に影は落ちず、まだ早い時間だというのに暮れ方のようだった。
「参りましょう」
「はい。あにうえ」
 竹林の間に伸びる細い道は、本丸の裏手に続いている。いつの頃からか審神者はこの場所に庵を設け、そこで暮らすようになっていた。
 広い屋敷は、最初の頃こそ人気が少なく、静かだった。
 しかし時が経つにつれて同居人が増えて行き、今ではあれだけあった空き室も、全て埋まっていた。
 屋敷が手狭になったから、此処に移ったのだろう。
 あまり出向く機会のない場所を振り返って、小夜左文字は足早に進む兄を追いかけた。
 もっとも本丸に戻った後、行く先は別々だった。
 進路を違える際も、江雪左文字は無言だった。弟に一瞥をくれる事もなく、黙々と雪を避けて歩いていった。
 まるで関わるな、と言いたげな背中だった。
 同行者として自分が選ばれた理由は、いったい何なのか。審神者が勝手な裁量で決めたのか、それとも江雪左文字側から要望があったのかは、小夜左文字には分からなかった。
 朝餉を終えた直後に呼び出されて、離れの庵を訪ねたら、江雪左文字がそこにいた。審神者から事情を簡単に説明されて、行き先も教えられぬまま、共に出向くように命じられた。
 護衛、ではないだろう。江雪左文字は太刀であり、その気になれば敵兵を一撃で屠れる切れ味を有していた。
 道案内か、はたまた目付け役か。
 ただそれなら、別の者でも事足りたはずだ。
 矢張り審神者が要らぬ気を回したのだと結論付けて、小夜左文字は霜焼け気味の赤い指先を捏ねた。
「かゆい」
 末端が冷えて、血流が滞っている所為だ。摩擦で温めれば急激な変化に身体が驚いて、痛いような、むず痒いような感覚が広がった。
 ひとりきりになってぼそりと零し、彼はゆるゆる首を振った。
「急がないと」
 出立は、今すぐにでも。
 早くしなければ、その分戻りが遅くなってしまう。行き先が何処かは知らないけれど、急ぐに越したことはなかった。
 早足で本丸に駆け込み、旅支度をすべく部屋へ向かう。但し彼が目指したのは短刀たちに宛がわれた大部屋ではなく、本丸最古参の打刀が寝起きする部屋だった。
 その六畳ばかりの部屋の片隅に、小さな行李がひとつだけ。
 それが小夜左文字の、持ち物の全てだった。
 しかしいざ部屋に入ろうとしたら、襖を開ける前に引き止められた。
「小夜、ここにいたのか」
「歌仙」
 名前を呼ばれ、ひらりと手を振られた。他ならぬ、今入ろうとしていた部屋の主に手招かれて、彼は向きを変えて華美な男に近付いた。
 胸に牡丹の花を飾り、傍に寄れば炊き付けられた香の良い匂いがした。風流を愛すると常日頃から口にしている男は淡く微笑み、戸惑ってばかりの子供の頭を撫でた。
「話は聞いているよ。弁当を拵えたから、道中で食べなさい」
「……いつの間に」
 そうしてなんでもない事のように言われて、小夜左文字は驚きに目を丸くした。
 彼ですら、先ほど教えられたばかりだというのに。
 知らされたのは自分が最後かと唖然としていたら、歌仙兼定は呵々と笑って首を振った。
「僕だって、ついさっき言われたんだ。ただの握り飯だよ。それしか残っていなくてね」
「いい。感謝する」
 朝餉を終えて、片付けをしている時に言われたのだろう。
 大慌てで準備する様を想像して、小夜左文字は微笑んだ。
 麦飯を握っただけだとしても、何もないよりはずっと良い。素直な気持ちで礼を告げれば、歌仙兼定は一寸意外そうに目を眇めた。
「歌仙?」
「ああ、いいや。もっと、なんと言うか。困っているかと思っていたけれど」
 その表情が引っかかって袖を引けば、彼は躊躇を経て肩を竦めた。
 誰と誰が出かけるのかも、彼は知っているのだろう。ならばそんな顔をするのも、仕方のない事と言えた。
 小夜左文字と江雪左文字は、兄弟とはいっても、接点は殆ど無かった。互いに相手とどう向き合えば分からなくて、会話はぎこちなく、態度は常に余所余所しかった。
 一期一振と粟田口の兄弟たちのようには、どうやっても振る舞えない。親しくなりたいと願っても、小夜左文字はその方法を知らなかった。
 対面すると緊張を強いられ、普段以上に口数が少なくなる。頬は強張り、声は裏返って、落ち着かなくて居心地が悪かった。
「主の命令だから」
「これを機に、打ち解けられると良いね」
「……分からない」
 江雪左文字と本丸の外に出るのは、審神者が下した命令だ。逆らえない。だから仕方なく応じるのだと態度で告げれば、歌仙兼定は固くて太い小夜左文字の髪を手櫛で梳いた。
 優しく撫でられて、くすぐったかった。
 こんな風に、兄たちに頭を撫でられた事はない。特に江雪左文字には、髪の毛一本でも触れられた覚えがなかった。
 穢らわしいと、思っているのかもしれない。
 憶測が真実でなければいいと願いながらも、確かめる勇気は無かった。
「草鞋を表に出しておくから、脚絆を着けておいで。弁当を入れる……袈裟文庫は持っているね」
「ある」
 本来は文字通り袈裟などを入れる為の小箱を話に出され、小夜左文字は即答した。長旅であれば持ち歩かなければならない装備品は増えるが、この雰囲気では、泊りがけの外出ではなさそうだった。
 夕刻、陽が暮れる頃に帰って来られる距離だろう。
 その範囲で江雪左文字が行きたがる場所を考えるが、地理に疎い身では何も浮かんでこなかった。
 先回りをしてあれこれ準備していた歌仙兼定に重ねて礼を言い、小夜左文字は仕度を整えるべく彼の部屋に入った。愛用の行李を開けて少ない荷物を取り出して、日頃は履くことのない脚絆を細い足に通した。
 ずり落ちて行かないようしっかり紐を結び、続けて袈裟文庫を出して首から提げる。
 準備はこれで終わりだった。後は玄関で草鞋を結び、笠を被り、歌仙兼定が作ってくれた握り飯を荷箱に入れるだけだ。
 膝小僧や脛が脚絆に隠れているのがどうにも不思議で、感覚に慣れるのには時間がかかりそうだった。
「小夜、出来たかい」
「今、行く」
 襖の外からの呼び声に顔を上げて、彼は瞬時に踵を返した。
 廊下に出て、すっかり覚えてしまった道順通りに足を運ぶ。途中の部屋からは賑やかな笑い声が聞こえて来て、火鉢を囲んで談笑する皆の姿が楽に想像出来た。
 冬が来て、出陣の回数は減っていた。庭は雪化粧が施され、短刀たちが作った雪だるまが軒先を飾っていた。
 一方で寒がりの刀剣は布団から出たがらず、朝餉の時間は秋口に比べると随分遅くなった。鵺の毛皮を背負う獅子王は大人気で、短刀のみならず、太刀にまで群がられていた。
 暖を求めて昼間から酒浸りの刀剣もいれば、演練場で汗を流す努力家もいる。一時期に比べれば屋敷は格段に賑やかになって、毎日が騒々しかった。
 しかしその輪の中に、宗三左文字や江雪左文字の姿はない。
 無理強いして引っ張り出せば軋轢が生じ、今よりもっと雰囲気が悪くなりかねない。宗三左文字に関しては織田の頃の顔馴染みが手を尽くしてくれていたが、功を奏しているとは、正直言い難かった。
 もし、ひとつ望みが叶うのだとしたら。
 贅沢は言わない。ただ縁側に三人並んで、団子でも食べてみたかった。
 けれどその光景が、どうやっても思い描けない。
 小夜左文字を挟んで座る兄たちも含め、三人の顔はいずれも墨で塗り潰されていた。
 彼らの笑顔が想像出来ない。あのふたりを前にすれば、能面の方が余程感情豊かに思われた。
 きっと、望むような穏やかな日は、永遠にやって来ない。
 少なくとも今の時点では、そうとしか思えなかった。
 下唇を浅く噛んで、小夜左文字は歌仙兼定が差し出した荷物を受け取った。
「入るかな」
「問題ない」
「中に焼き魚を解したものと、海苔の佃煮が入っているよ」
 それは竹笹で包まれた、大きな握り飯だった。
 全部で四つあるそれは、抱えるとずっしり重かった。道中で傷まないよう良く冷まされて、触れても温かみは感じなかった。
 けれど指ではなく、心がほんのり温かくなった。急いで作ったという割には丁寧に包まれており、食べるのが早くも楽しみだった。
 嬉しさに顔を綻ばせ、小夜左文字は袈裟文庫にそれを押し込んだ。隙間が出来ないくらいにぎりぎりだったがなんとか収まって、再び首に掛けたところで歌仙兼定が竹筒を差し出した。
「そうそう、これは喉が渇いた時に。もし道中腹が痛くなったら、これを噛んで飲むと良い。山道は歩き辛いだろうから、怪我をした時はこの軟膏を使いなさい。それから、山の辺は寒いだろうから、これを上に羽織っていくといい。それと――」
「歌仙」
 矢継ぎ早に告げられて、彼は竹筒の上に次々積み上げられる荷物に騒然となった。
 あれも、これもと脇に置いてあった品を押し付けられた。大きすぎる外套を与えられたところで我に返って、小夜左文字は慌てて彼の手を払い除けた。
 水筒代わりの竹筒はともかくとして、残りのものは余計だった。
 気遣いは有難いけれど、荷物が増えるのは願い下げだ。そう何泊もかかる旅程ではないのだから、食器や予備の衣服は必要なかった。
 軽くねめつけてそう告げれば、遅れてハッとした歌仙兼定はばつが悪そうに頭を掻いた。
「ああ、そうだったね。すまない、小夜。なんだか、……ははは」
「歌仙」
「おかしいね。僕の方が、浮足立っていたようだ」
 返答に窮し、誤魔化そうとした男の袖を引く。それで正面に向き直って、彼は肩を竦めて苦笑した。
 目尻を下げて、優しい顔で呟かれた。
 言葉と表情が噛み合っていない。笑顔なのに哀しげなのが苦しくて、小夜左文字はひと呼吸置いて首を振った。
「帰ってくる」
「小夜」
「夕刻には、……ちゃんと」
 あの時のことを、思い出しているのだろう。
 小夜左文字はかつて彼と共に在り、売られて離れ離れになった。
 別れの挨拶などなかった。互いにそうとは知らずに当日の朝を迎えて、当たり前のように明日も一緒だと信じていた。
 けれどふたり揃っての夜明けはやって来なくて、いつか帰れるとの願いは、時と共に摩耗していった。
 残ったのは、諦めだった。
 最早二度と会うのは叶わないと、刃と共にすり減った心を抱きかかえて、ずっと眠っていた。
 目覚めさせられたその日のうちに、まさか顔を合わせようとは、夢にも思っていなかった。
「――……そうだね。美味しいものを沢山用意して、待っているよ」
「分かった」
 手を握られ、真っ直ぐ目を見ながら囁かれた。
 小夜左文字も間髪入れずに首肯して、神妙な顔の男に頬を緩めた。
 照れ臭さに首を竦めて、いつもの笠を被って表へと出る。庭先には既に兄の姿があり、支度を整えた弟を待っていた。
 江雪左文字もまた旅装束で、戦装束を解き、小夜左文字と同じ黒の直綴姿だった。
 白の脚絆に草鞋を履いて、手には錫杖が握られていた。長い髪を背に垂らし、右袖からは手首に絡めた数珠が覗いている。笠は被らず、錫杖とは反対の手で胸に添えていた。
 荷物は全体的に少なく、ほぼ身ひとつと言って良い。袈裟文庫も持たず、傍目には徳の高い修行僧に見えた。
「準備は、よろしいですか」
「は、……はい」
 静かに問われ、小夜左文字は緊張気味に頷いた。
 いよいよ彼とふたりで行くのだと、先ほどまでなかった実感が湧いてきた。心臓はきゅうう、と窄まって、落ち着かない膝がもぞもぞ揺れてぶつかり合った。
 身じろいでいたら、数歩後ろで眺めていた歌仙兼定が忘れていた、と声を高くした。
「小夜。もし検非違使の気配を感じたら、戦わずに逃げなさい。良いね」
 口調は柔らかかったけれど、有無を言わせぬ雰囲気があった。振り返った小夜左文字は深く頷いて、隠し持った短刀を直綴の上からなぞった。
 いざという時はこれで応戦するけれど、勝ち目がない相手に挑む気は最初から持ち合わせていない。無事に帰ると約束したのだから、逃げるのに躊躇はなかった。
 ただ、無事に逃がしてくれるかどうかは、相手次第。
 歴史介入を試みる者を容赦なく屠ろうとする難敵とは、出来るものなら遭遇したくなかった。
 歌仙兼定の忠告を聞いて、江雪左文字も嗚呼、と首を縦に振った。
 虚ろな眼差しは、どこを見ているか分かり辛い。それ故に彼が心の裡で何を思っているのかも、表情から読み取るのは難しかった。
 万が一、話し合いでどうこうしようと考えているのなら、愚かとしか言いようがなかった。
 歴史改変者も、検非違使も、話が通じるような相手ではない。どちらも問答無用で襲いかかって来て、会話が成立するような要素はひとつもなかった。
 それは彼も重々承知しているだろうし、実際遭遇した過去もある。
 だというのに相変わらず和睦の道を模索して、軽率な発言を繰り返した。
 仲間が傷つけられ、実際に何人も重傷を負って倒れているのに、一向に態度を改めない。そういう姿勢が反発を生み、彼の立場を一層悪くするというのに、だ。
 反省の色がまるで見えない横顔に嘆息して、歌仙兼定は小夜左文字の笠の紐を結び直した。
 膝を折って屈み、形が歪だった結び目を綺麗に整えてやる。顎を擽られた少年は背筋を反らし、畏まった表情で唇を引き結んだ。
「いって、……きます」
「ああ。行っておいで。旅先の景色、後で僕にも教えておくれ」
「行きますよ、小夜」
「はい。あにうえ」
 複雑な感情を伝える言葉に、歌仙兼定は務めて笑顔で送り出した。少年は不器用な口調で兄に答え、早々に歩き出した男を追いかけた。
 錫杖の遊環がぶつかり合い、澄んだ音を響かせた。しかしそれも、暫くすると聞こえなくなった。
「何事もなければ、いいんだけどね」
 近頃はなにかと物騒であり、戦場は不穏な空気に満ちていた。
 遠征に出た面々が検非違使に遭遇した、という話は聞かないが、今はまだないだけかもしれない。これから先起こり得る可能性は、絶対にないとは言い切れなかった。
 旅の安全を、石切丸にでも祈願して貰おうか。
 たかが半日足らずの旅程を大袈裟に心配する自分に苦笑して、歌仙兼定はざらざらして苦い唾を飲みこんだ。
 

 馬を使えば楽に通える道でありながら、江雪左文字は自らの足で歩くことを選択した。
 審神者には使っても構わないと言われていたのに、だ。わざわざ旅装束まで揃えて、物好きとしか評しようがなかった。
 結局目的地は教えてもらえないままで、方角から計算するが依然思いつかない。そもそも小夜左文字はあまり本丸から外に出ず、出かける機会があっても大抵誰かと一緒だった。
 その誰かは、今日は留守番だ。
 握り飯が収められた袈裟文庫を撫でて、彼は黙々と前を行く兄の背中を見上げた。
 全体的に肉付きが悪く、手足は細く華奢で、肌は病的なほどに白い。袈裟の上からでも線の細さは際立っており、装具も立派な太刀との相性は、見た目だけだと良くなかった。
 本丸の門を潜り抜けたところで笠を被り、江雪左文字は迷うことなく東に進路を取った。錫杖を頼りに荒れた道を行き、地図を確かめる素振りは一度もなかった。
「どこへ、行くのだろう」
 いい加減教えてくれても良い頃なのに、彼は一向に口を開かなかった。
 気になるのなら自分から聞けば良いとも思うのだが、遠慮が上回り、なかなか言い出せなかった。そうしているうちに平らだった道には角度が付き、坂道の勾配は徐々に急になって行った。
 枯葉が物悲しげに揺れる山の道は狭く、向かいから人が来ればすれ違う時に立ち止まらなければならないほどだった。先人たちがひたすら歩いて開拓した街道は、山肌に添ってうねうねと曲がりくねり、まさに九十九折と言うべき険しさだった。
 大きな葛を風呂敷で包み、背に担いだ行商人が居た。
 笠で顔を隠し、供を連れた若い女性の姿もあった。
 野武士らしき男もいた。腰に差した刀に一瞬警戒させられたが、急ぐ身なのか、脇目も振らずに山道を登って行ってしまった。
 道は悪いながら、此処は交通の要所らしい。
 これでは、駕籠での旅も険しかろう。江雪左文字が馬を使わなかった理由を今更理解して、小夜左文字はまだまだ遠い山頂を、木々の隙間から仰いだ。
 中腹辺りから目立ち始めた杉の木はどれも背が高く、枝は頭上遥かのところだけ残されていた。
 耳を澄ませば、どこかで斧を振る音がする。獣の声は少なく、鳥の囀りも遠かった。時折吹く風は冷たくて、平地よりも気温が低い為か、稀に粉雪が宙を舞った。
 空は相変わらずどんより曇っていたが、水分を多く含んだ牡丹雪を降らせるほどではなかった。
 とはいえ、山の気候は変わり易い。
 遠い昔の、あまり思い出したくもない記憶の欠片を手繰り寄せ、小夜左文字は白い息を吐いた。
「あにうえ」
 ぼんやりしていたら、距離が開いていた。急ぎ追いかけ、少年は横に並びそうになったところで足を緩めた。
 江雪左文字は弟の接近に気付いているだろうに、見向きもしなかった。砂利や木の根を踏む音は静かで、存在感は依然薄かった。
 目に映っているこの姿は幻かと、唐突に思った。実は此処に居るのは実際の兄ではなく、想像が作り上げた架空の存在ではないかと、馬鹿なことを考えた。
「なにを、愚かしい」
 瞬時に否定して、首を横に振る。自嘲の笑みを口元に浮かべて、彼は肩を落として拳を作った。
 何度も話しかけようとした。
 けれど出来なかった。
 寡黙な背中は他を寄せ付けず、弟である小夜左文字さえ拒む雰囲気に満ち満ちていた。
 同行者を付けるのが、審神者が外出に際して出した条件なのだろう。
 勝手にどこかへ行ってしまわないよう、鎖を付ける、というのは建前だ。主にまで気を遣われてしまったわけだが、今現在、その配慮は事態をより悪化させていた。
 矢張り自分は、兄にとって不要な存在。
 醜く、穢らわしい、忌むべき存在でしかなかった。
 江雪左文字が厭う戦場が、小夜左文字の生きられる唯一の場所だった。憎む相手を探し求め、殺すことだけが、彼のたったひとつの望みだった。
 彼が歩んできた道は血に汚れ、黒く濁り、悪臭を放っていた。
 それは和睦の道を模索して、争いを拒む江雪左文字の周囲に広がる世界とは、決して相容れないものだった。
 小夜左文字が近づけば、彼の持つ清廉さを穢してしまう。
 それがなにより恐ろしかった。
 隣に並ぼうなど、烏滸がましい。血濡れた短刀などと一緒に居るよりも、不浄を祓う神刀と共に在る方が、江雪左文字だって気が休まるだろう。
「……あにうえ」
 それでも、触れてみたい気持ちは消えなかった。
 頭を撫でて、優しく抱きしめて欲しかった。
 一緒に食事をして、三人並んで布団を敷いて。川の字になり、ひとつの部屋で眠ってみたかった。
 兄弟の真似事を、彼らと試してみたかった。
 望みはなにひとつ、叶った例がない。
 頼んでみればいい、と歌仙兼定は言うけれど、それが出来ればこんなに苦しんだりしなかった。
 断られた時のことを考えると、足が竦んだ。
 面と向かって拒絶されるのが嫌で、身動きがとれなかった。
 結局歌仙兼定と居る方が楽だから、その気安さに甘えていた。居心地の良さに流されて、環境が変わることから逃げていた。
 江雪左文字の歩みは速い。野武士のそれには及ばないけれど、重い荷を担ぐ行商人よりは、遥かに足取りは軽やかだった。
 置いて行かれないように。ただそれだけを考えて、小夜左文字は曲がりくねる道を急いだ。
「こんな、山道」
 兄の目的地は未だ知れず、目印になるようなものも見当たらなかった。
 かなりの高さまで来ているようで、蹴り飛ばした小石は雪に埋もれる傾斜を一直線に駆け下りていった。
 足を踏み外せば命はなく、実際命を落とした者がいるのだろう。それを証拠に、道端には小さな地蔵が祀られていた。
 ただでさえ暗い道は、空が濁っている所為もあって余計に暗い。夜闇には届かないけれど、人々を不安にさせるには十分だった。
 夜が来る前に山を越えてしまおうと、急ぐ人は多かった。もう昼を過ぎた頃合いだったが、弁当を広げる場所は見当たらなかった。
 本丸を出てからずっと歩きっ放しで、いい加減足が怠かった。少し休憩したいし、腹も良い具合に減っていた。
 だけれど言い出すきっかけが作れなくて、小夜左文字は己の爪先と、揺れる銀髪とを何度も見比べた。
 彼は疲れていないのだろうか。
 存外に体力がある長兄に内心舌を巻いて、肩で息を整えた直後だった。
 水の音がした。山肌の一角に人だかりが出来ており、何かと思えば湧水が染み出ているらしかった。
 道幅も急に広くなって、傾斜は穏やかになった。苦労してここまで来た者への褒美のように、頭上は開け、雲が間近に見えた。
「峠だ」
 感嘆の息を漏らし、小夜左文字は細い川に掛けられた古ぼけた丸太橋を渡った。
 そこは山の上とは思えない、賑やかな場所だった。
 粗末な小屋が何軒か並び、うち一軒が茶屋として営業していた。店先には縁台が置かれ、歩き疲れた人々が思い思いに寛いでいた。
 餅でも焼いているのだろう、良い匂いが鼻腔を擽った。堪らず生唾を飲んで、小夜左文字は背骨に張り付きそうな腹を撫でた。
「こんな、ところに」
 軒先には幟が立ち、若い娘が接客に忙しそうだった。名物らしき料理名を大きく記した紙が軒先に張り出され、疲弊した旅人の胃袋を誘っていた。
 他に食事処がないからか、店内はかなり混雑していた。
 冷えた身体を温めようと、次から次へと客が来る。座るには場所を譲ってもらうか、暫く待つしかなさそうだった。
 出汁の香りが食欲をそそって、ふらふらと、足が自然と店に向かいそうになった。寸前で気付いて慌てて踏み止まって、小夜左文字は一瞬のうちに見失った兄を探して視線を彷徨わせた。
「あにうえ」
 店に気を取られたばかりに、江雪左文字がどこに行ったか分からなくなった。錫杖の音も聞こえなくて、右往左往して焦っていた時だった。
 不意に、火が点いたかのような赤子の鳴き声がこだました。
「っ!」
 びくりとして、小夜左文字は咄嗟に後ろを振り返った。周囲も何事かと騒ぎ出し、声の主を探して首を左右に巡らせた。
 泣き止まそうとあやす母親の声も聞かれた。人々の視線が向かう先にいたのは、旅姿の若い娘だった。
 その細腕には、乳飲み子らしき赤子が抱かれていた。何が気に障ったのだろう、ふぎゃあ、ふぎゃあと泣きじゃくり、母が名を呼んでもむずかる一方だった。
 困り果てている娘の隣には、赤子の祖母らしき女性もいた。
 ふたりして一緒に赤ん坊に話しかけて、あれやこれやと、泣き止ます努力を惜しまない。しかし効果が上がっているとは言い難く、弱り果てていた女性らに救いの手を差し伸べたのは、様子を見かねた茶屋の主だった。
 一旦店内に引っ込んだ男が差し出したのは、黄金色の球体が張り付いた棒だった。
 細かな気泡を含んだそれは、棒を傾けると形を変えた。ゆっくり、ゆっくり地面に向かって細く伸びて、指で抓めば引っ張られた通りに捩れて止まった。
 飴だ。
 店の看板にもその字があった。
 それは茶屋が名物として売り出している、柔らかくて甘い水飴に他ならなかった。
 気が付けばそれを、食い入るように見つめていた。
 引き結ばれるべき唇は力が抜けてだらしなく開き、眼差しは飴を与えられる赤子へと引き寄せられた。
 身重の女がいた。
 帰り道を急ぐ中、山賊に襲われて金品を奪われた。
 命乞いは聞き入れられず、大きな腹は無残に切り裂かれた。
 ぱっくり割れた傷口から転げ落ちた赤子は、泣く力さえ持ち合わせていなかった。夜の山道を訪れる者は他になく、朝が来る前に命は尽きるものと思われた。
「小夜」
「――っ!」
 息が荒くなっていた。瞬きを忘れた双眸は乾き、突然の呼びかけに、心臓は破裂しそうだった。
 全身に鳥肌が立った。不意打ちに竦み上がり、小夜左文字は青くなったまま恐る恐る後方を仰ぎ見た。
「あに、うえ」
「どうしたのです。行きますよ」
 江雪左文字がそこに居た。笠を右手で持ち上げて、訝しげに眉根を寄せていた。
 とっくに先に行ったものとばかり思っていた。完全に油断していた小夜左文字は目を見張り、ど、ど、ど、と五月蠅い鼓動に唾を飲んだ。
 空腹など、どこかに消し飛んでいた。
 置いていかれなかった事、忘れ去られていなかった事に胸を高鳴らせて、彼は直前まで見ていた灰色の幻を頭から追い出した。
 命の危機に瀕した嬰児を救ったのは、道端にあった大きな石だった。
 それは無念のうちに命を奪われた、母親の執念か。
 赤子を助ける為に、石は、泣いた。
 自分は泣けるだろうか。誰かを助ける為に、涙を流せるだろうか。
 そして誰かを喪った時、哀しみの声をあげられるだろうか。
 浮かびそうになった顔を寸前で掻き消して、小夜左文字は先を急ぐ兄を追いかけた。
 峠を越えた先の道は、二方向に別れていた。
 片方は、人々が大勢行き交う賑やかな太い道。もう片方は荒れ放題で、長く通る人がないと分かる道。
 江雪左文字が選んだのは後者だった。道標もない獣道に怯み、小夜左文字は躊躇して雪が残る斜面を見下ろした。
「あに、さま。あの、少し」
「もうじきです」
 折角茶屋まであったのに、何もせずに素通りしてしまった。ようやく休憩が出来ると思った身に、この強行軍はかなり堪えた。
 歌仙兼定が持たせてくれた竹筒も、とうの昔に空だった。歩きながら飲んだのでかなり零してしまって、湧水を汲んで補充しておきたかった。
 それなのに、江雪左文字の脚は緩まない。疲れも知らずに短く告げて、彼は溶け残りの雪を蹴散らした。
 足場の悪さをものともせず、一心不乱に突き進んでいく。
 彼をそこまで執着させるものはなんなのかと、小夜左文字は肩で息をしながら唇を噛んだ。
 鼻の奥がツンと来たのは、山の上で空気が冷えているからだ。
 泣きたい気持ちを懸命に振り払い、幼い少年は皸が目立つ手で袈裟文庫を握りしめた。
「待って、ください」
 勇気を振り絞って訴えて、出来てしまった距離を懸命に詰める。下り坂は最初だけで、山肌沿いに切り開かれた道はすぐに上昇に転じた。
 大きな岩が通せんぼして、張り出した根がそこに絡みついていた。今にも転げ落ちて来そうな巨岩は恐ろしくもあり、心を惹きつける不思議な魅力があった。
 苔生した表面には感銘を受けた誰かが彫ったものなのか、稚拙ながら仏像が刻まれていた。
「小夜」
「今、参ります」
 見惚れていたら、足が止まったのを懸念した江雪左文字に呼ばれた。ハッと我に返って、小夜左文字は岩肌に伸ばそうとした手を急ぎ引っ込めた。
 この先になにがあるのか、分かったかもしれない。
 険しい山道の先に造られるものは限られていて、その大部分は寺社仏閣だった。
 案の定、苦労しながら登り詰めた先にあったのは、切り立った崖の上に建てられた古い寺院だった。
 どうやって建材を運んできたのか、まるで想像がつかない。切妻造の御堂は本瓦葺きで、放置されて荒れ果ててはいたけれど、その威厳は見る者を圧倒した。
「すごい」
 その門前に立ち尽くして、小夜左文字は大きな目を丸く見開いた。
 山の頂に建てられているので、当然だが景色は凄まじかった。遥か彼方に水平線まで見渡せて、地表を走る川の流れも隅々まで見通せた。
 まるで墨絵だった。白と灰に染まった冬景色は疲れを忘れさせ、霜焼けの痒みや痛みをも吹き飛ばした。
「全然、違う」
 本丸の屋敷は平地にあり、長閑な田園地帯のただ中にあった。
 屋根に登って高い場所から眺めても、ここまでの絶景は拝めない。素晴らし景観に呼吸さえ忘れて、小夜左文字は初めて目にする風景を瞼の裏に焼き付けた。
 山奥で暮らしていた時期もあったというのに、あの頃は辺りを見回す余裕などなかった。だから気付きもしなかったし、知ろうとも思わなかった。
「こんな、場所も。あるのか」
 胸はトクトクと軽やかに弾み、興奮に心が沸き立った。人が去って久しく、とうの昔に忘れ去られた寺院は枯れ色の冬景色と見事に調和して、なんとも哀れで、趣深かった。
 道の険しささえなければ、文句はひとつもない。
 だがあの険しい道行きがあるからこそ、乗り越えた先にあるこの絶景が、最高の馳走になるのだろう。
 これほど贅沢なものはなくて、小夜左文字は抑えきれない興奮に鼻息を荒くした。
 もしや兄は、この眺めを弟に見せたくて、審神者にあんな申し出をしたのか。
 密やかな期待に頬を紅潮させて、彼は共に来た長兄を振り返った。
「あにうえ?」
 しかし視線は絡まなかった。江雪左文字は末弟に背を向けて、両手を合わせて瞑目していた。
 荒れ放題の古寺に敬意を払い、割れた石畳を踏みしめる。眼差しはそう広くない敷地の最奥に固定されて、足元さえ見ようとしなかった。
「ここで、暫くお待ちなさい」
「あ、あのっ」
 幻想は敢え無く砕かれて、散り散りになって空に溶けた。
 それでも追い縋ろうと手を伸ばして、小夜左文字は胸に提げた袈裟文庫を広げた。
「これを、その。出先で食べるようにと、歌仙、が」
 兄が少なからず自分に興味を持ってくれているのだと、そんな風に期待していた。
 たとえ血濡れた穢らわしい身ではあっても、弟として認めて貰えている事を願っていた。
 全て、淡い夢だった。
 江雪左文字は興味がないのだ。同じ刀工の手で鍛え上げられた兄弟刀に対しても、一切関心を抱いていなかった。
 望むだけ無駄だった。
 願うだけ虚しかった。
 最初から分かっていた事だった。だのにひとり浮足立って、有頂天になって、落ち込んで。
 なんと惨めで、愚かしいのだろう。
 こんな思いをするくらいなら、審神者の命令ではあったが、拒めばよかった。
 歯を食い縛り、小夜左文字は深く息を吸い込んだ。苦くて不味い唾を飲みこんで、取り出した握り飯をふたつ、恐る恐る差し出した。
 呼び止められた江雪左文字はか細く震える弟を一瞥し、両手で抱えられている笹の包みに目を向けた。
 先ほどまで見事な眺望に歓喜していたのが嘘のように、怯えて小さくなっていた。泣き出す寸前まで顔を歪めて、歯を食い縛って必死に堪えているのが窺えた。
 何故そんな顔をするのか、江雪左文字には分からなかった。
 景色に見惚れていたのだから、好きなだけ眺めていればいいと気遣ったつもりだった。慣れない山道で疲れただろうから、楽な姿勢で休めばいいと慮ったつもりだった。
 茶屋は騒がしかったので、静かな方が落ち着くだろうと考えた。
 小さい身体で無理をさせた自覚があるので、暫く好きにするように労った気でいた。
「小夜」
「水を、汲んで参ります」
 それなのに、弟は華奢な肩を突っ張らせ、顔を歪めて苦悶していた。
 戸惑って受け取りを躊躇していたら、頭を下げた小夜左文字が強引に包みを押し付けて来た。反射的に受け取って、江雪左文字は半歩、後退した。
 藍の髪の少年は俯いたまま声高に叫び、瞬時に踵を返して走って行った。もしや茶屋まで戻るつもりかと呆気にとられ、その兄は咄嗟に動けなかった。
「小夜。御待ちなさい」
「大事ありません。あにさまは、どうぞ、お勤めを」
 声をかけるが、それ以上は出来なかった。ひとりで大丈夫だと言い張られて、その自主性を蔑ろにする事も出来なかった。
 手元に残された包みを見下ろして、江雪左文字はとうに姿の見えない弟に眉を顰めた。
「どうすれば、良かったのでしょう」
 何気なく近隣の地図を眺めていて、この廃寺の存在を知った。
 関心を示していたら、どこからか聞き付けた審神者に、行って来れば良いと囁かれた。
 無論ひとりでは行かせられないので、供をひとりつけようと。そう言ったのも、他ならぬ審神者だった。
 己の存在が本丸内に不協和音を齎しているのは、薄々勘付いていた。故にこれを取り仕切る立場の者が状況を憂い、あれこれ気を回し、改善を目論むのも理解出来た。
 末の弟を供に選んだのも、ぎこちない関係をどうにかするよう、暗に命じたに等しい。
 しかし具体的に何をどうしろ、とは言われなかった。
 江雪左文字自身も、まるで想像が付かなかった。
 行ってみれば、分かるかもしれない。そう思って期待してみたけれど、却って溝が深まっただけの気がしてならなかった。
 包みを紐解けば、大きな握り飯がふたつ、出て来た。
 握ったのは歌仙兼定だ。彼は出立の間際まであれこれ小夜左文字の世話を焼いて、屋敷の外まで見送っていた。
「あの子は、私などよりも、あの者と共に在る方が、余程」
 巨大な塊を撫で、江雪左文字は包みを戻した。紐は外したまま抱え直し、雲間から薄ら見える太陽を仰いで、眩しそうに目を細めた。
 

 山奥の廃寺に戻った時、江雪左文字の姿はそこになかった。
 ただ奥の建物から低い、伸びのある読経の声が聞こえてきたので、彼がそこにいるのは間違いなかった。
 放置された仏像を前に、経を唱えているのだろう。一心不乱に読誦して、本丸での口数の少なさが嘘のようだった。
 寡黙さも、仏の前では薄れるのか。
 その十分の一、いや、百分の一でも構わないから、言葉をかけては貰えないか。無い物ねだりと分かっていても、思わずにはいられなかった。
「雪……」
 水をたっぷり入れた竹筒を脇に置き、小夜左文字は空から舞い降りてきた結晶に目を瞬かせた。
 ひとりで食べる握り飯は、あまり味がしなかった。よく冷やされた麦飯はまるで石のように固くて、少しも美味しいと思えなかった。
 目の前に絶景があるのに、つまみにもならなかった。色褪せた景観は寂寥として、ただでさえ冷えた心に重く圧し掛かった。
 来なければ良かった。
 誰に対してか祈りを捧げる兄の声を聴きながら、小夜左文字は膝を抱えて丸くなった。
 本堂に続く短い階段に座し、訪れる人のない寺院をぼんやり眺める。頭上を覆っていた雲はかなり薄くなっていたが、地表に降り注がれるのは陽の光よりも淡雪の方が多かった。
 地面に触れる前に儚く消える雪に腕を伸ばし、彼は空の手を握りしめた。
「かざはな」
 言葉は、自然と唇から零れ落ちていた。
 眼を眇め、寂れた景色を瞼で隠す。宙を落ちた手は散々歩き回って疲れた足を撫で、赤く腫れた爪先を慰めた。
 あの道を、今度は下らなければいけない。上りよりは楽かもしれないが、勢いが付く分、道を踏み外して転落しないように注意が必要だった。
 無事に帰ると約束した。
 それだけは、是が非でも果たしたかった。
 けれど、帰ったところでどうなるのだろう。
 兄の背中は益々遠くなって、孤独感ばかりが胸を満たした。
「風花よ、峠の道は……険しけれ」
 審神者に喚び出され、半年近くが経った。当初は広々として静かだった本丸も、日増しに賑やかさを増して、ひとりきりで過ごす時間は減って行った。
 けれど結局、彼らは行きずりの旅人でしかない。
 ずっとあの地で暮らすわけではない。審神者が目的を達すれば、小夜左文字も江雪左文字も、再びただの刀剣に戻り、この身体と心を失うだろう。
 もしくは修復不可能なところまで砕かれて、折られたら。
 最早誰も恨まず、苦しまずに済むのだろうか。
 楽になれるのだろうか。
「背負う荷の無き、旅の身……なれど」
 ぼそぼそと小声で続けて、彼は揃えた膝に額を押し当てた。
 背中で笠が揺れていた。歌仙兼定が結んでくれた紐はとうに外れて、自ら直した結び目は酷く歪だった。
 もし彼が隣にいたら、即座に歌に反応をくれただろう。その言葉はこちらがいい、いやこっちだと、あれこれ熱のこもった論議を重ねて、紙に書き認めて悦に入るに違いなかった。
 そういうやり取りは簡単に思いつくのに、兄たちが隣にいる光景はまるで描き出せない。映像として浮かんでくるのは、せいぜい黙して歩くふたりをひたすら追いかけるだけの、つまらない図だけだった。
「荷の無き……荷も、無き」
 どちらが良いか、それすらも決断が下せない。
 寂しい歌だと言われそうだ。旅先の感想を聞かせてくれと言われていたけれど、語れるような内容がひとつも得られないまま、今日という日が終わりそうだった。
 気が付けば江雪左文字の声は止んでいた。耳に痛い沈黙に風の音が紛れ込み、風花を遠くへ吹き飛ばした。
 行方を追いかけて顔を上げて、小夜左文字はそのまま後ろを振り返った。
 木戸が静かに開かれた。まさかそこに居るとは思っていなかったようで、江雪左文字は軒下に座る弟を見て僅かながら目を見開いた。
「そこに、居ましたか」
「あにうえ」
 低音の囁きに、惚けていた小夜左文字は慌てて立ち上がった。竹筒を手に段差の上から飛び降りて、そのまま跳ねて後ろに下がった。
 距離を作ったのは、あまり近くに居ては失礼と思ったからだ。階段は通り道でもあるので、いつまでも占領するわけにはいかないとの判断だった。
 けれど江雪左文字は、何故か哀しげな顔をした。複雑な感情をほんの少し表に出して、手に持った笠を被ってすぐに隠してしまった。
「参りましょうか」
「はい」
 彼の手に、笹の包みはなかった。
 食事はひとり、中で終えたのだろう。小夜左文字もとうに済ませているので、今更一緒に食べようと言われても困るだけだった。
 雲に隠れた太陽は西に傾き始め、日暮れまでの残り時間はそう多くなかった。
「急ぎましょう」
「はい」
 陽の高さを確認して、江雪左文字が急ぐ気などなさそうな穏やかな口調で呟く。
 小夜左文字は間髪入れずに首肯して、今度は自分が先に立った。
 道は覚えている。次はひとりでも、地図なしに辿り着けるだろう。
 けれどきっと、二度と来ることはない。江雪左文字が再訪を望んでも、その時は随伴を断るつもりだった。
 目を見張る絶景も、今となってはなにひとつ心に響かなかった。薄墨で描かれた景色は靄に霞み、輪郭は朧だった。
 注連縄が巻かれていた形跡が見える巨岩の下を抜け、小夜左文字は急峻な坂を駆け下りた。跳ねるように小走りに進んで、時々後ろを振り返っては、兄が後に続いているかを確かめた。
 往路同様、会話はなかった。
 しかし期待しなくなった分、哀しくもなんともなかった。
 彼を兄と思わない方が良いのかもしれないとさえ、思えるようになっていた。
 兄弟という前提があるから、赤の他人に無視されるよりもずっと切なくなるのだ。繋がりなど何も無いと思えば、相手にされなくて傷つくこともないし、会話が続かない虚しさを噛み締めなくても済んだ。
 縁を断ち切れたら、心は軽くなる。
 次第に人が増えていく往来をすり抜けて、小夜左文字は道を急いだ。
 早く帰りたかった。
 一刻でも早く屋敷に戻って、旅支度を解き、蓑虫のように布団に包まって、朝が来るまで眠ってしまいたかった。
「小夜」
 だから茶屋の前も素通りしようとした。見向きもせず、行き過ぎようとした。
 赤子を連れた女性はとうに出発した後で、影も形も残っていなかった。あの母子が居たことさえ幻のようで、誰一人、烈火のごとく泣きじゃくる赤ん坊を覚えてはいなかった。
 看板娘は相変わらず忙しそうで、餅が焦げる良い匂いが漂っていた。しかし行きのように香りに惹かれることなく、足は真っ直ぐ街道を向いていた。
 それを、引き留める声があった。
 三秒してから気が付いて、小夜左文字は右足を前に出した状態で振り返った。
「あにうえ?」
 夕餉までに戻るとの約束だけが、今の彼の唯一の拠り所だった。
 それを邪魔されて、遮られた。小夜左文字はほんの少し不機嫌になって、棘のある眼差しを長兄に投げた。
 けれど視線は交錯しなかった。彼は被っていた笠を降ろすと、それを胸に、何故か茶屋の中へと入って行った。
「……あに、うえ?」
 人と同じ姿かたちを得てはいるけれど、ふたりは刀剣の付喪神だ。
 そして今現在、彼らの格好は僧侶のそれに等しかった。
 俗世とはおおよそ無縁そうな顔をして、江雪左文字は世俗にまみれた場所に足を向けた。粗末な小屋に入り、何をしているのか、暫く出てこなかった。
 来た時は全く意に介さず、関心を示しもしなかったというのに。
 意外過ぎて言葉が出なかった。あまりにも似合わなくて、小夜左文字は堪らず自分の頬を抓った。
「いたい」
 ほんのり赤く染まった爪の痕を撫でて、彼は惚けたままぽつりと呟いた。
 狐、或いは狸に化かされた気分が抜けなかった。
 廃寺の御堂から出て来たのは偽物で、本物は霞となって消えてしまったのではないか。おおよそ有り得ない幻想を、真剣に信じてしまいそうになった。
 絶句して、道の真ん中に立ち尽くす。往来の邪魔になるなど頭になく、その場を動こうという発想すら出てこなかった。
 其処に居るよう、言われたわけではない。けれど小夜左文字がここから移動したら、江雪左文字に見付けて貰えなくなる気がした。
 もっともそれは建前で、予想すらしていなかった展開に頭が混乱して、居場所を移すどころではなかっただけだ。
 おおよそ理解の及ばない高尚な精神の持ち主が、峠の茶屋に足を踏み入れた。そのあまりの不釣り合さに思考は停止して、小夜左文字は立ち眩みを覚えた。
 ふらりとよろめき、倒れそうになった。通りがかりの人にぶつかって、押し戻されて、彼はこめかみに指を置いて頭を軽く振った。
「あにうえ……?」
 兄の思惑も、意図も、さっぱり読めなかった。
 そもそも小夜左文字は、江雪左文字について詳しく知っているわけではなかった。兄弟刀とはいえ共に在った時間は無いに等しく、せいぜい名前を聞きかじった程度だった。
 その点は、次兄である宗三左文字も同様だ。
 小夜左文字は、彼らを詳しく知らない。ふたりがどのような来歴を持ち合わせ、どのような考え方を持っているのかも、本人の口から直接聞いたことはなかった。
 過去を問い質すということは、傷に触るのと同じだ。
 小夜左文字だって、人に知られたくない経歴を多々、持ち合わせている。山賊の掌中にあった頃、どれほど惨い殺し方をしてきたか、思い出すだけで背筋が粟立った。
 今でも目を閉じれば、足元から亡者が這いあがってくる予感がした。呪詛を吐きながら縋りつかれて、地獄よりも更に昏い深淵に引きずり込まれる悪夢を見た。
 だから聞かれたくなくて、自分も訊かなかった。
 知るのが恐ろしくて、知られるのが怖かった。
「小夜……小夜?」
「――っ!」
 無意識に己を抱きしめて、胸の前で腕を交差させていた。
 我に返ったのは、繰り返された呼びかけがきっかけだった。
 脂汗を流して荒い息を吐き、小夜左文字は瞠目したまま眼前に立つ男を仰いだ。
 いつ、戻ってきたのだろう。
 接近にまるで気が付かなくて、彼は無防備だった事実に四肢を戦慄かせた。
 検非違使に見つかっていたら、逃げ切れないところだった。
 幸いにも不穏な気配は感じられなくて、ほっと胸を撫で下ろす。重ねていた腕も下ろして息を整えていたら、不意に目の前に、黄金色の何かを突き出された。
 黒い直綴の袖から、白い腕が生えていた。
 数珠を絡めた手で細い棒を握る江雪左文字に、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
「……あに、うえ?」
「なにをしているのです」
 戸惑いに声を高くすれば、朗々と響く声で急かされた。早く受け取るよう促されて、少年は困惑に半歩後退した。
 ふたりの両脇を、旅人が次々に通り過ぎて行く。周囲の時間は流れているのに、まるでここだけ異空間に切り離されてしまったかのようで、小夜左文字は何度も目を瞬き、手元と頭上を見比べた。
 江雪左文字は諦めず、再度ずい、と腕を出した。もれなく握られた棒と、その先に絡め取られた飴が顔に迫って、小夜左文字はひと口で頬張るには大きい塊に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 似合わない。
 茶店に入ったのもそうだが、この男が甘味を手にする様も、大概滑稽だった。
 あまりの不相応ぶりに、つい声に出してしまいそうになった。
 本当に偽物になってしまったのかと懸念していたら、なかなか引き取ろうとしない弟に焦れたのか、江雪左文字は後方を窺い見た。
 茶店は繁盛しており、店員は忙しそうだった。
 軒先には扱っている商品の名前が紙に記され、目立つ場所に張り出されていた。
 水飴の文字も、その中に含まれていた。
 歩き疲れた身体を甘いもので癒すよう誘う、耳に心地よい文言が添えられていた。本当にあるかどうかも不明瞭な薬効を謳い、買い手を募集していた。
「食べたかったのではないのですか」
 肩で息をしていたら、訝しげに訊かれた。
 質問の内容にまず驚いて、小夜左文字は言葉を失い、立ち尽くした。
「僕は、別に……」
「ずっと、見ていたでしょう」
「あれは――」
 腹は減っていなかった。
 飴も、実を言えばそれほど得意ではなかった。
 甘い物は嫌いではない。ただ甘過ぎるものは苦手だった。珍しい菓子を見せられて目を輝かせた過去はあるけれど、この黄金色をした水飴だけは、どうしても好きになれなかった。
 赤子でも食べられるからと、子育て飴として売り出している店があるのは知っている。茶屋側に深い意図はなく、地元で知られる怪談話にかこつけたものだというのは、小夜左文字も分かっていた。
 それでも、好んで食べたいとは思わなかった。
 ずっと見ていたのだって、赤子が大声で泣きじゃくっていたからだ。母親の腕に抱かれて、懸命にあやされていたからだ。
 間違っても、飴が羨ましかったからではない。
「……見て、おいでだったのですか」
「小夜」
 それで気が付いて、小夜左文字は赤くなった。
 あの時、彼は兄の姿を見失っていた。どこへ行ってしまったのかと探している時に、他愛無い騒動が起きたのだった。
「食べないのですか?」
 まさか盗み見られていたとは思わなかった。
 江雪左文字は他人に興味などなく、弟にも関心がないと決めつけていた。
 だから驚かされた。
 勝手な思い込みが誤りだったと教えられて、少年は四肢を戦慄かせ、目を見開いた。
 驚愕を露わに立ち竦む末弟を見て、左文字の長兄は当てが外れたとでも思っているのか、困り顔で小首を傾がせた。
「附子などは、入っていませんよ」
 子供の好みなど分からない。
 甘い物を与えておけば喜びましょう、と笑っていたのは石切丸だ。
 疑われているのかと勘繰って、江雪左文字は声を潜めた。雑踏に掻き消されそうなほどの小声での囁きに、しっかり拾い上げた小夜左文字は二度、立て続けに瞬きした。
 惚けた顔をして、三秒経ってから拗ねたように頬を膨らませる。小鼻を膨らませ、愛らしい口を細く窄め、尖らせた。
「僕は、掛け軸を破いたり、茶碗を割ったりはしません」
 坊主の留守中につまみ食いをして、隠すために悪さをした稚児の話を引き合いに出された。
 死ねなかったと嘘泣きをする童子扱いされるのは、不愉快極まりなかった。
 膨れ面で抗議の態度を示していたら、これも意外だったのだろう。
 江雪左文字は僅かに目を見開き、直後にふっ、と淡く微笑んだ。
 それは一瞬で消えてしまう、儚くも美しい風花のようだった。
「無論、心得ています」
 淡々として抑揚のない口調が薄れ、穏やかで優しい口ぶりで囁かれた。感情が僅かながら滲み出ており、心にすっと染み入る心地良さだった。
 それは紛れもなく、小夜左文字を見詰めて、小夜左文字だけに向けて告げられた言葉だった。
「あにうえ」
 初めて耳にする声だった。
 初めて目にする姿だった。
 心が震え、唇が戦慄いた。咄嗟に何かを言おうと口を開いたけれど、喉は痺れ、ことばはひとつも出なかった。
 呆然と見つめ返してくる弟に、江雪左文字は改めて水飴を差し出した。
 重みで片方へ寄らぬよう、時々くるりと棒を回して。
 とても些細で、どうせすぐに無駄になってしまう気配りを怠らず。
 彼は軽く膝を折り、屈んで、弟に飴を手渡した。
「い、た……だき、ます」
「落とさぬように」
「はい」
 ぎこちなく言葉を返し、小夜左文字は両手で棒を握りしめた。短い忠告に首肯して、艶やかな黄金色の水飴に下唇を噛んだ。
 中に細かな気泡が入って、まるで琥珀のようだった。ひと口舐めれば素朴で優しい味が舌に広がって、無性に胸が苦しかった。
「美味しいですか」
「はい」
 甘い菓子を歯で削り、飲み込む。中空に利き手を彷徨わせた江雪左文字の問いかけに、彼は静かに頷いた。
 行き先を見つけられなかった腕は、男の脇に垂れ下がった。その後も逡巡するかのように空を搔いて、力を失った指は手首に巻き付けた数珠を絡め取った。
 長兄の躊躇など露知らず、小夜左文字はなかなかなくならない飴を一心に舐めた。口の周りがべたつくのも構わず、促され、歩き出した後も止めなかった。
「……ふふ」
 少し前まで苦手にしていたものが、今は不思議と、美味しく感じられた。
 山道を行く足取りも、往路に比べれば格段に軽い。どんな悪路も、今なら楽々乗り越えられそうだった。
 気を抜けば、自然と頬が緩んだ。険しい坂道を、跳ねるように下りながら、小夜左文字はふわりと舞い降りた小雪に目を眇めた。
 飴を全て舐め切った後も、残った棒はなかなか捨てられなかった。
 土産話が出来た。
 眩いばかりの飴の色は、この先、絶対に忘れないだろう。
「風花や、峠の道は……たのしけれ」
 来て良かった。
 心の底からそう思って、彼は天を仰いで口遊んだ。
 

2015/03/28 脱稿