庵ならべむ 冬の山里

 今まで、気にしたことはなかった。
「さよくんの、おくびのかざり。きれいですね」
 なにせ今剣にそう言われた時も、何のことだかすぐに分からなかったくらいだ。一瞬怪訝な顔をしてしまって、お陰であちらにも不思議そうな顔をされた。
「首の、飾り?」
「はい」
 古びた毬を投げようとして、その直前で動作を止めて首を傾げる。
 すると今剣は深く頷いて、此処、と自身の喉元を指差した。
 教えられ、小夜左文字は瞳だけを下向けた。しかし見える範囲には限界があって、彼は腕を下ろすと、右手と腹の間に毬を挟み持った。
 空いた左手で言われた場所を手繰り、黒い直綴の衿に指を入れる。更にその下の白衣と一緒に引っ張れば、胸元が広がり、隙間から冷風が吹き込んだ。
「ひゃっ」
 そのあまりの冷たさに驚き、彼は咄嗟には首を竦めた。亀を真似て丸く、小さくなって、枯葉を巻き込んで駆けていく突風をどうにかやり過ごした。
 空気の流れが穏やかになるのを待ち、恐る恐る背筋を伸ばす。前方では今剣が、巻き上げられた砂埃が目に入ったらしく、赤い瞳を頻りに擦っていた。
「う~~」
 痛いらしく、涙まで流して唸っていた。けれどどうしてやることも出来なくて、小夜左文字は汚れてもいない袈裟を撫でると、改めて己の喉に指を差し向けた。
 骨に皮が張り付いただけの頸部をなぞり、ゆっくりと下へ滑らせる。隆起を乗り越えて鎖骨を過ぎた辺りで、爪先がなにかにぶつかった。
 白衣ではない。なめらかな感触は肌に驚くほど馴染み、乾いた指でさえつるり、と滑ってしまえるほどだった。
 撫でて形を確かめる最中で行き過ぎてしまった手を戻し、小夜左文字は嗚呼、と合点がいった顔で首肯した。
「なんだ」
 これのことを言われたのだとようやく理解して、彼は首にぶらさげた黒色の数珠を捏ねた。
 綺麗に丸く削られた石は、彼の体温を吸ってすっかり温くなっていた。最早身体の一部と言っても過言ではない状態で、首に掛かる負担も、まるで苦にならなかった。
 真ん丸い球体に穴を開け、そこに紐が通されて、輪を作っていた。長さは小夜左文字の頭がぎりぎり潜る程度で、漆黒の珠以外の飾りは一切設けられていなかった。
 手に持つ数珠とは違い、房はない。紐の結び目は珠の中に隠されており、表からではどこが切れ目か分からなかった。
「ずっと着けているから、忘れていた」
 白衣の中から引き抜き、掌に転がして陽に晒す。久方ぶりに表に出た数珠は心なしか嬉しそうで、艶を帯びた表面をきらきらと輝かせた。
「ううぅ~」
 一方で今剣はまだ目が気になるのか、ただでさえ赤い瞳を、兎のように真っ赤に染め上げていた。
「洗った方がいいのではないか?」
 それほど強い突風ではなかったが、彼は真正面から浴びていた。避ける暇もなく砂埃を被ったのであれば、目に入った粒も相応の量だろう。
 手で擦るのは、却って眼球を傷つける。
 一番妥当な案を提示してやれば、今剣は落ち着き払っている小夜左文字に頬を膨らませた。
「おみず、つめたいの、いやです」
「……分かった」
「さよくん?」
「湯を沸かしてもらえば、それでいいんだな」
 実に子供らしい理由を口にされた。絶句した小夜左文字は初冬の澄んだ空を仰ぎ見て、ひと呼吸置いてから後方に控える巨大な屋敷を振り返った。
 彼らが暮らす邸宅は重厚な瓦屋根を持ち、庭は広く、門は騎乗したまま潜れるほどに大きかった。部屋の数は軽く二十を越えており、どこの大名屋敷だと言わんばかりだった。
 坪庭が各所に配置され、不用意に歩き回れば簡単に迷子になれた。増改築が絶えず繰り返されており、早い時期からここに住まう小夜左文字ですら、時折道を見失って途方に暮れる有様だった。
 敷地の中には他に演練場と、厩舎が用意されていた。今も誰かが鍛錬に明け暮れているのか、風に乗って雄々しい掛け声が聞こえて来た。
 庭先の木々はすっかり葉が落ちて、寒そうな姿で震えていた。
 銀杏も大半が裸になって、目に眩しい黄色は来年までお預けだ。一時期悪臭を放っていたぎんなんも、短刀たちがこぞって拾い集めたお陰で、地面に落ちていなかった。
 雪が降り始めるのはもう暫く先になると、少し前に誰かが呟いていた。けれど日増しに気温は下がっていくし、陽が出ている時間も徐々に短くなっていた。
 朝方、寝床から出るのも一苦労だ。鶴丸国永などは一日中布団を被り、火鉢の前に陣取って動こうとしなかった。
 今からこの調子では、本格的な冬が来た時にどうなるのか。
 秋の頃と変わらぬ格好でいる子供たちは、今日も元気に遊び耽っていた。
「おゆ、ですか」
「どうせ、誰かが火鉢を使っているだろうし。五徳を置けば、すぐに沸くだろう」
 朝餉はとうの昔に終わり、夕餉までは相当な時間があった。片付けも終わっている頃合いで、炊事場にはきっと、誰も居ないだろう。
 それを懸念した今剣の言葉に、小夜左文字は屋敷の縁側を指差した。
 煮炊きする竈の火は、いちいち着火するのが面倒なので、灰の中に種火が残されている場合が多い。しかし薪に炎を移し替えるのは手間だし、一歩扱い方を間違えれば、大参事になりかねなかった。
 下手をすれば、屋敷自体が炎上してしまう。だから慣れない子は竈に近付かないよう、複数人に増えた調理当番から厳しく言われていた。
 その言いつけを破ってまで、湯を沸かそうとは思わない。その代わりとして最近納戸から引っ張り出された火鉢を挙げれば、成る程、と今剣は目を丸くして鷹揚に頷いた。
「さよくん、あたまいいです」
「……もう平気なんじゃないのか?」
「あいたたた。いたいですー」
 考えてもみなかった案に、鞍馬の烏天狗は頬を紅潮させた。興奮気味に人を褒めて、冷めた突っ込みはわざとらしい態度で誤魔化した。
 左右の手で両目を覆う格好は滑稽で、面白かった。小夜左文字は思わず噴き出しそうになって、腹に力を込めて我慢した。
「くっ」
 それでも少しばかり息が漏れて、今剣にしっかり聞かれてしまった。
「さよくんー?」
「よし。鶴丸国永を探そう」
 笑われたと知った今剣が睨みを利かせて来て、小夜左文字は慌てて顔を背けた。白々しい台詞を棒読みで口ずさんで、屋敷の中に戻るべく、先んじて歩き出した。
 後ろで地団太を踏んでいた今剣も、小夜左文字が振り返らないと知って慌てて駆け出した。縁側の足元に置かれた四角い沓脱ぎ石に毬と履物を並べて、少々埃っぽい板敷の通路によじ登った。
 目の前の部屋は障子戸が閉められて、中の様子は窺えなかった。
 金属製の引き手に指を掛け、僅かばかり作った隙間を手で押し広げる。しかし誰何の声はなく、呼びかけなしの行動を咎められもしなかった。
「だれもいませんね」
 覗き込んだ室内は八畳ほどの広さがあって、その中央には白色の火鉢がひとつ、ぽつんと取り残されていた。
 今剣も隣でひょっこり顔を出して、昼間なのに無人の空間に眉を顰めた。
 この部屋は、屋敷の中でも特に日当たりが良い場所だった。庭の眺めも良くて、暇を持て余した刀剣たちは大抵ここに集まり、好き勝手雑談に興じていた。
 今日は皆、出払っているのだろうか。
 遠征当番が誰だったかを思い返しつつ、小夜左文字は敷居を跨いで中に入った。
「まだ温かい」
 室内のほぼ中心に置かれている火鉢に手を翳せば、立ち上る空気は仄かに暖かかった。
 真っ白い陶器製のそれは膝ほどの高さで、胴回りは彼の腰よりも太かった。子供がひとりで抱えられる大きさではなく、中に灰が詰め込まれているのもあって、重さも相当だった。
 自由に持ち運べるものではないので、放置されたのだろう。真上から覗きこめば横倒しになった炭が、灰を被った状態で残されていた。
 隅に突き立てられた火箸は、今にも倒れてしまいそうだった。仕方なく小夜左文字はそれを引き抜くと、中途半端な埋め方だった炭を抓んで持ち上げた。
「みなさん、おでかけでしょうか」
「どうだろう。演練場の方かもしれない」
 屋内に入った所為で、たまに響いていた雄叫びは聞こえなくなっていた。
 体力だけは有り余っている刀剣たちは、隙あらば相手を見つけ、鍛錬に励んでいる。手合せは盛んで、食事時でも一番の話題だった。
 訓練で用いられるのは、勿論己が最も得意とする獲物であり、己自身が宿っていた刀剣だ。刀身の長さは各々違っていて、間合いもそれぞれ異なっていた。
 当然、重くて長い武器の方が強い。しかし体格的に不利な短刀が、大太刀の懐に入り込んで一閃する様は、傍から見ていても爽快だった。
 小夜左文字も偶に打刀である歌仙兼定と組手をするが、毎回のように見物人が出て、やんややんやの大騒ぎだった。
 本丸には腕自慢が多いから、己の技術を磨く一端で、人の対戦を見学しているのかもしれない。
 物珍しげな顔をしている今剣に憶測で答え、小夜左文字は内部が赤くなっている炭を縦に起こし、火鉢の中心に埋め直した。
 菊の形を成している断面は、空気を含んで赤く火照り始めていた。
 三本を密集させて並べただけで、じわり、じわりと熱が広がっていく。倒れないよう灰で周囲を固めた後に、彼は火箸を端に刺し、首を伸ばして左右を見回した。
「さよくん?」
「五徳、持ってこないと」
 部屋の中にあるのは火鉢くらいで、それ以外では目立つものは何も置かれていなかった。
 ここは皆が使う場所だから、私物で一画を占領するのは許されていない。箪笥もなく、火鉢の上に置く金輪も見当たらなかった。
 湯を沸かすための鉄瓶も、用意しなければいけない。
 先にそちらを準備するべきだったと反省して、小夜左文字は赤々と照っている炭に肩を竦めた。
「燃え尽きてしまうだろうか」
 こうやって炭を縦にすると、横にするより熱量は多く得られる。湯沸しに使うのであればこちらの方が良いと思ったのだが、先走り過ぎだった。
 また寝かせるのも面倒で、灰を被せて保温すべきかで迷う。どうしようかと上から覗き込んでいたら、紅色も濃い頬を擦った今剣が、緋色の目をぱちぱちさせた。
「さよくん。おくびの、あぶないですよ」
「え? ああ、忘れていた」
 またもや喉元を指差しながら言われて、眼下に垂れる球体を見つけた小夜左文字は慌てて場を退いた。
 首に掛けた数珠が、もう少しで火鉢に触れるところだった。
 普段は白衣の中に入れているので、垂れ下がったりしないのだ。先ほど取り出し、そのままにしていたのを、すっかり失念していた。
 言ってくれなければ、灰に埋めていただろう。黒光りする珠を捏ねるように撫でて、小夜左文字は急ぎ白衣の中に押し込んだ。
 いつもと同じ場所に収め、直綴の上から撫でて隆起を確かめる。たったそれだけで普段の自分が取り戻せた気がして、彼は肩を竦めて頬を緩めた。
「しまっちゃうんですか。きれいなのに」
「邪魔なだけだ」
「そうですかー?」
 戦場で駆け回る際、視界の端に紛れこまれては困る。集中力が阻害されて、意識がそちらに絡め取られては大変だ。
 腕を振り抜く時に弾みで当たるだけでも、指先の力が僅かに緩む原因になる。そういう無駄なことは極力排除していかないと、一瞬の隙が命取りになりかねなかった。
 彼らは戦う為の武器。
 時代改変を目論む者たちを誅殺する、刀剣に宿った付喪神だった。
 審神者によって人の形を与えられ、自ら刃をふるうことを許された。そして異形の者を打ち払い、己らのかつての主を殺した相手でさえ、時に守ることを強いられる。
 奇妙な話だった。
 屋敷の奥で暮らす審神者が本当のことを言っているのかどうか、それさえも判然としない。
 けれど未来から来たというあの者の弁を信じる事でしか、この形を保つ術がない。それは疑いようのない、紛れもない事実だった。
 一介の刀剣だった時には、温かいだとか、冷たいだとか、感じる事などなかった。
 いや、あったのかもしれない――ただ理解出来なかっただけで。
 人の肉は生暖かく、流れ出る血は徐々に冷えていった。
 人が息絶えていく様を、何度見送った事だろう。吐き捨てられた呪詛の数など最早覚えておらず、脳裏に浮かぶ怨嗟の眼が誰のものだったかも思い出せない。
「さよくん?」
「……炊事場に行ってみよう」
 ぼんやりしていたら、怪しまれた。
 至近距離で名前を呼ばれた。小夜左文字は咄嗟に一歩後退し、目を逸らしながら呟いた。
 火鉢のお陰でかなり暖かくなってきたが、肝心の湯を沸かす用意は何も出来ていなかった。鉄瓶は調理場にあるはずで、探すのはそう大変ではない筈だった。
 五徳だって、きっと簡単に見つけられる。今剣が所望する品は、きちんと手順を踏めば、すぐ手に入るだろう。
 目を洗うなら、手拭を湿らせて上から押さえつければ良い。余った分は湯呑みに入れて、白湯で喉を潤すのも悪くなかった。
 だというのに言いだしっぺの今剣がぐずぐずして、なかなか動きだそうとしなかった。
「要らないのか?」
「さよくん。さっきの、もういっかい、みせてください」
 目を洗うのに、井戸で汲んだばかりの水は冷たいから嫌だと言ったのは、彼だ。だというのに火鉢に張り付いて動かないのは、湯などどうでも良くなっている証拠だった。
 そんな彼に不意に言われて、奥の襖へ向かおうとしていた小夜左文字は眉を顰めた。
 今剣はすっかり寛ぐ体勢で、膝を折って畳にしゃがみ込んでいた。
 両手は火鉢の上に掲げ、立ち上る熱気を集めていた。頬は緩み、横顔は幸せそうだった。
 目に入った砂粒は、涙ですっかり洗い流された後らしい。ならば炊事場に行く必要もなくて、小夜左文字は襖の引き手から腕を引っ込めた。
 そうしてゆっくり振り返り、奇妙な要望に小鼻を膨らませた。
「数珠のことか」
「そうです。それです」
 今は一部しか見えない黒い数珠を指差せば、今剣は鷹揚に頷いた。興味津々らしく瞳はきらきら輝いており、聞いてやらないと力技で奪い取られそうだった。
 話がころころ入れ替わる烏天狗に肩を竦め、小夜左文字は畳の縁を踏まないように足を進めた。
「こんなの、見たって」
「いいんですー」
 仕方なく引っ込めたばかりのものを取り出し、ついでに頭からも引き抜く。人肌に温まった石は隙間なく紐に通され、美しい輪を形成していた。
 石の大きさは、多少の違いはあれど、ほぼ同程度に揃えられていた。
 丁寧に磨かれて、表面は艶を帯びて滑らかだ。もし紐がなかったら、地面をどこまでも転がって行く事だろう。
 合計で幾つあるかも分からない珠を右手にぶら下げて、小夜左文字はほら、と無造作に差し出した。
「ありがとうございます」
 それを今剣は恭しく受け取って、高くしたり、低くしたり、色々な角度から眺めた。
「すごいです。すごいなあ。きれいだなあ。いいなあ。きれいだなあ」
 満面の笑みを浮かべ、同じ単語を何度も繰り返す。珠の一つ一つをじっくり眺めながら、心底羨ましそうに目を眇める。
 その、あまり言われ慣れない単語がどうにもむず痒くて、居心地の悪さを覚えた小夜左文字は身を捩った。
「そんなこと、ない」
「きれいですよ、さよくん。いいなあ。いいなあ」
 自分自身が褒められているのではないけれど、普段から身に着けているものを絶賛されているのだから、同じようなものだ。
 刀としての数奇な境遇や、名前を『美しい』と褒められるのは納得がいかない。けれど今剣の繰り出す言葉からは嫌味の類が感じられず、純粋な想いだけが驚くくらいに伝わって来た。
 だからこそ、照れ臭い。
 段々恥ずかしくなってきて、小夜左文字は数珠を返してもらおうと手を伸ばした。
「うふふ」
 それをやんわりと拒み、今剣は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「これ、そうざさんとおそろい、ですよね?」
「――え?」
 目を糸のように細め、甘い声で囁かれた。
 底抜けに楽しそうに問いかけられて、小夜左文字は咄嗟に答えられなくて凍り付いた。
 中空に伸ばした手を蠢かせ、零れ落ちんばかりに目を見開く。
 唇はか細く震え、何の音も刻み得なかった。
「さよくん?」
 そんな風に考えたことなど、一度もなかった。
 宗三左文字は、小夜左文字以上に数奇な運命を辿った打刀だ。もとは太刀だったが短く磨り上げられ、さらには幾度も炎に焼かれ、その都度直されて、時の権力者の手元に置かれ続けた。
 その身には魔王、織田信長の名が刻まれて、それ故に価値は高まった。戦場に出る事なくただ愛でられるばかりで、数多の恩寵をうけながらも、刀の本質を奪い取られた彼が満たされることはなかった。
 本丸に彼が招かれてそれなりに経つが、籠の鳥を気取っているのか、あまり表に出てこようとしない。他の刀剣との接触も必要最低限で、弟である小夜左文字にさえ、態度は余所余所しく、冷たかった。
 兄弟刀とはいえ、共に過ごした時間はないに等しい。
 小夜左文字自身、彼とどう接し合えばいいのか、未だ分からないままだった。
 会いに行けば、言葉を交わせた。
 しかし会話は、長くは続かなかった。
 挨拶をして、当たり障りのない話題を振って、途切れて。
 気まずくなって、席を辞す。
 いつだって、その繰り返しだった。
 手本になるような兄弟刀は傍にいる。ただ藤四郎たちのように振る舞うのは、どう頑張っても無理そうだった。
 彼らは皆天真爛漫で、明るく、社交的だった。血の臭いを漂わせ、復讐に心を絡め取られている小夜左文字には、あんな風に振る舞えるはずがなかった。
 宗三左文字にしたって、そうだ。彼の瞳は常に憂いを帯び、その身に刻まれた呪縛に苦しんでいた。
 未だ何処ともしれない長兄に会えれば、なにか変わるだろうか。
 僅かばかりの希望を胸に秘めて、小夜左文字は今剣の掌中を食い入るように見つめた。
 突き刺さるほどの眼差しを受け、臆したのか、彼はしゃがんだまま後退した。畳の上を膝で後ずさり、掲げ持った物の存在を思い出して、肘を伸ばした。
「これ、かえしますね」
 努めて明るく言うが、一変した空気に緊張しているのはバレバレだった。
 こんなにも過敏に反応されると思っていなかったようで、彼の頬は引き攣り、目は泳いでいた。
「おそろい、……ちがいましたか?」
 それでも好奇心には勝てないのか、恐る恐る問うてきた。
 小夜左文字は瞳だけを動かして、取り返した数珠を両手で握りしめた。
「わからない」
 そうとしか、答えようがなかった。
 本当に分からなかった。
 これは審神者に喚び出された時から身に着けていたもので、最初から彼の手元にあったものだ。どこで手に入れたのか、誰に持たされたのかなど、知る由もなかった。
 由来があるのかどうかさえ、皆目見当がつかない。けれど無意識に大事にしていたのは確かで、内番で農作業などをする際は、首から外すのが習慣と化していた。
 なにかに引っ掛けて、紐が切れてしまったら目も当てられない。珠のひとつでも紛失しようものなら、きっと立ち直れないだろう。
 それくらい大切なものだった。
 言われて初めて自覚して、小夜左文字は上唇を噛み締めた。
 どうしてだろうか、心が震えていた。切なさが胸を占めて、苦しくて仕方がなかった。
「さよくん」
「分からない。……わからない」
 今剣の言うように、これは宗三左文字と揃いなのだろうか。
 外見はどこも似ていないと、他の刀剣には頻繁に揶揄されていた。本当に兄弟なのかと疑われて、小夜左文字はいつだって巧く答えられなかった。
 輪の中に手を入れて、反対の手で黒い珠を取る。ひとつずつ爪で押し出すように手繰って、彼は今も部屋にひとりだろう兄を想った。
 宗三左文字の首にも黒い数珠が、二重にして掛けられていた。それが何故か鎖のように見えて、小夜左文字は嫌いだった。
「ぼく、……えんれんじょう、いってきます」
「ああ」
「おそろいだと、いいですね」
「うん」
 返事をしたのは、無意識だった。
 囁きに反射的に同意して、三秒経ってから小夜左文字は弾かれたように顔を上げた。
「ち、ちがう。僕は別に、そんなつもりじゃ」
「あははははー。さよくん、おかおがまっかですよー」
 だけれど、どんな言い訳だって通用しない。今剣が信じてくれるわけがなく、弁解するよりも、彼が逃げる方が早かった。
 俊敏さが自慢の烏天狗は、けたたましい笑い声を残して部屋を飛び出していった。襖を開けっ放しにして廊下に出て、足音を響かせながら屋敷の奥へと駆けて行った。
 演練場に行くと言っていたのに、方向が逆だ。元々そんなつもりはなかったのだと知れて、小夜左文字は肩を落として嘆息した。
 手元には黒い数珠だけが残された。火鉢の中では炭が煌々と照り、小さな太陽となって彼を見詰めていた。
 今剣は明るく、無邪気で、時々人の心を抉る言葉を口にした。
 幼い見た目に反し、異様に鋭いところがある。三条の出だというのは伊達ではなく、無為に歳月を重ねているわけではないようだった。
 見透かされて、悔しい。
 小夜左文字は苦虫を噛み潰したような顔をして、掌中の数珠を握りしめた。
 もうこの部屋に居る理由はなくなった。
 誰か来る気配も感じられなくて、彼は数珠を大事に首に掛けると、火箸を取って炭を灰に押し込んだ。
 こうしておけば燃焼が抑えられ、燃え尽きるまで保温出来る。もしこの後誰か来ても、火を熾さずに暖が取れるはずだ。
「新しい炭、用意しておいた方が良いか」
 明日以降も、火鉢は忙しく働かなければならない。必要になるものを先に準備しておけば、何かあった時も騒がずに済むはずだ。
 思案し、小夜左文字は必要ないのに声に出して呟いた。
 今剣の指摘が未だ頭に渦巻いて、ぼうっとしていたら、そればかり考えてしまいそうだった。
 直綴の外に出ている数珠をさりげなく抓み、親指と人差し指で弄りながらその場に立ち尽くす。空いた左手は握ったり、開いたりを繰り返し、掴む物を求めた指は腰に提げた短刀を引き寄せた。
 鞘から抜けば、血腥さが漂う刀だ。どれだけ拭っても血糊の幻は消えず、耳を澄ませば怨嗟の声が蠢いた。
 まるで呪われているようだ。
 こんなことなら、産み出さないで欲しかった。父たる刀工の名を口の中で呟いて、彼はそれを噛み砕いた。
 顎を軋ませ、荒々しく床を蹴る。畳がその部分だけ浅く凹んで、室内の埃が一斉に舞い上がった。
「すごい音だね」
 そこに飄々とした声が紛れ込んで、全く気付いていなかった小夜左文字ははっと息を呑んだ。
 視線を上げれば、襖の向こうから見慣れた顔が現れた。内番中なのか藤色の髪は結い上げられて、邪魔な袖は紅白の襷で縛られていた。
 白い胴衣に袴姿で、足元は足袋だった。手に持っているのは底浅の桶で、中には大量の衣服が、湿った状態で積み重ねられていた。
 言わずもがな、此処に暮らす刀剣たちの衣服だ。
「すごい、量」
「本当だよ。各自でやるように言われているのに、放っておいたらどんどん溜まっていく。その癖あれがない、これがないと騒ぎ立てて。まったく、なにを考えているのやら」
 絶句していたら、仲間を得たとでも思ったのか、歌仙兼定は堰を切ったように語り出した。息継ぎも碌に挟まず捲し立てて、最後は勢いよく鼻から息を吐いた。
 人のものまで洗濯するなど、御人好しにも程がある。嫌なら放っておけばいいものを、彼は汚れ物が蓄積されていく様を、黙って見ていられない性分らしかった。
 屋敷の掃除も、台所での食事の支度だってそうだ。
 仕切るのが好きなのか、それともただの変人か。
 働き過ぎてそのうち倒れやしないかと、相手が人ではないというのに、小夜左文字はふと心配になった。
「干すのか?」
「ああ、いや。それくらいは流石にやらせようと思ったのだけれど。おかしいね。誰もいない」
「…………」
 この量を表に吊るすだけでも、かなりの時間と労力が必要だ。そんなところまで面倒を見てやる道理はないだろうと、言おうとしたが、言えなかった。
 歌仙兼定とて、そこまで甘い男ではない。濡れたままの洗濯物を持ち主に押し付け、あとはどうぞご自由に、とやるつもりでいたらしかった。
 ところが、昼間に大勢集まる縁側に面した大部屋は、夜更けのように静まり返っていた。
 小夜左文字一人しかいない状況は、彼も予想していなかった。
 どこかで目論見が露見して、捕まる前に皆で逃げたのだろうか。火鉢の炭の消し方が中途半端だったのも、急いでいたのなら充分説明がついた。
「いっそ、ここに広げておけば」
 そんな仄温かい部屋を見回して、小夜左文字はぼそりと呟いた。
 深く考えたわけではなかった。なんとなくそう思ったから口に出しただけなのだが、思いの外歌仙兼定は気に入ったらしく、妙案だと目を輝かせた。
「それはいいね」
 一も二もなく同意して、彼は抱えていた桶を下ろした。そして肩幅に足を広げて身を屈めると、伸ばした手で桶の底を掴んだ。
 何をするのかと、問うよりも早く。
「それっ」
 生来の短気さを覗かせて、男は勢いよく桶をひっくり返した。
 もれなく上にあった洗濯物が散らばって、小夜左文字の足元まで飛んできた。踏みそうになった彼は慌てて後ろに避けたが、歌仙兼定はといえば満足げに背筋を伸ばし、大きな塊目掛けて爪先を叩きこんだ。
「そぅら。それ、それそれそれそれっ」
 続けて散乱した着衣を、次々に踏み潰していった。
 まるで踏み洗いでもするかのように、山盛りだった衣服を火鉢の周囲に広げていく。表情は至極楽しげで、子供っぽい笑顔だった。
 日頃から溜め込んでいたものを、ここぞとばかりに発散させている。
 まだ無機物に八つ当たりしているだけ良心的と考えて、小夜左文字は敢えてなにも言わなかった。
 歌仙兼定は足袋を履いているので、足形が付かないだけ良い方だ。一応洗ってあるので、放っておけば火鉢の余熱で乾くだろう。
 皺だらけにはなるが、文句は言えまい。無残に踏み広げられた洗濯物の持ち主は大体見当がついて、すごすご部屋へ持ち帰るところまで想像出来た。
 鶴丸国永に陸奥守吉行と和泉守兼定、それに同田貫正国と、あと数名。
 日頃からこの部屋に集っている面々を思い浮かべ、小夜左文字は健やかな汗を流している歌仙兼定に肩を竦めた。
「うん。良い運動になった」
「雅じゃないよね、これ」
「流石の僕にも、限度はあるよ」
 ちくりと嫌味を言えば、これでも善処した方だと、気に入らない家臣を手打ちにしてきた刀はさらりと言い返した。
 額の汗を拭い取りながらの、満面の笑顔だった。
 粗暴さがすっかり薄れてしまった彼だけれど、時折こうして顔を出す。文系だ、なんだの言っているが、矢張り彼は之定なのだと思い知って、小夜左文字は目を眇めた。
 ふと懐かしい気持ちが湧き起って、言い表し難い安堵感が胸を占めた。
「おや」
「うん?」
 ひと仕事終えた歌仙兼定は用済みとなった桶を取り、脇に抱えて姿勢を正した。その矢先に見下ろされて、油断していた小夜左文字は右に首を傾がせた。
 不思議そうな顔をされたが、そんな目で見られる謂われはない。
 怪訝に見つめ返していたら、男はふっと表情を緩め、顎の下を指差した。
「珍しいね。表に出しているなんて」
 男らしい立派な喉仏から鎖骨手前へ指を滑らせ、小夜左文字を見下ろしたまま囁く。それでおおよそ理解出来て、少年は嗚呼、と頷いた。
 今剣に乞われて外して、取り返して、首に掛けて。
 そこに歌仙兼定が来たものだから、白衣の中に戻すのを忘れていた。
 黒光りする数珠を撫で、彼は烏天狗に言われた言葉を振り返った。
 宗三左文字も、これと似たようなものを首に掛けている。しかし黒は闇の色であり、底の知れない深淵を連想させた。
 山賊に殺された人々の呪詛の声がした。光のない隘路は怖くて、恐ろしいものだった。
 兄の首の数珠が鎖なら、小夜左文字のこれも同じだ。失われた無辜の民の声が染み付いた、呪われた品に他ならなかった。
 だというのに、棄てられない。
 手放せない。
 壊そうとしても、出来なかった。
 噛み締めた奥歯が痛んだ。顎の関節が音を立て、骨が砕けてしまいそうだった。
「小夜」
 ふっと、影が掛かった。
 瞳だけを上に流せば、歌仙兼定が身を屈めてすぐ前に佇んでいた。
「見せてもらってもいいかな」
「ああ、……うん」
 控えめに手を差し伸べられて、惚けていた少年は一呼吸置いて首肯した。首から外そうと数珠を掴めば、それを遮る格好で、大きな手が重ねられた。
 上から包みこまれて、強張っていた指を一本ずつ解された。歌仙兼定は膝を折ってしゃがみ込むと、小夜左文字より目線を低くして淡く微笑んだ。
 特に言葉はなかったのに、まるで「大丈夫」と宥めているようだった。
 口ほどにものを言う眼差しに、反発するのは難しかった。小夜左文字は解かれた手を今度は彼の手に被せ、広くて厚い甲を握りしめた。
 男は何も言わなかった。子供の好きなようにさせて、目尻を下げて数珠を見詰めた。
「黒瑪瑙だね」
「くろ、めのう」
「ああ。素晴らしいものだね。とても綺麗だ」
 目利きを自慢するだけあって、彼は即座に呟いた。珠のひとつを抓み持ち、近くまで顔を寄せ、その精緻な仕事ぶりに感嘆の息を吐いた。
 藤色の髪が小夜左文字の顎に迫り、ふよふよ泳ぐ毛先が鼻先を掠めた。後ろに梳き流した前髪を紐で縛ってはいるものの、短い髪は完全に押さえきれてはいなかった。
 くすぐったいのに、払い除けられない。
 ましてや口に咥えるわけにもいかなくて、困り果てた彼は瞳を彷徨わせた。
「かせん」
「とても丁寧に作られている。まさに職人技だね。黒瑪瑙は希少価値も高いのに、これだけの数を揃えるのはさぞ大変だったろう。ああ、本当に素晴らしい。惚れ惚れするよ。なんて美しいんだろう」
「歌仙、近い」
 興奮して、もっと近くから見ようと詰め寄られた。本人は無意識かもしれないが、このままだと体当たりを経て、床に押し倒されそうだった。
 興奮して荒い呼気が喉元を掠め、他人の熱が産毛を煽った。薄い肉の内側にまで微風が紛れ込んで、擽られた心臓が膨張し、忙しなかった。
 落ち着かない。
 背筋がぞわぞわして、小夜左文字は内股になって膝をぶつけ合わせた。
 耐えられなくなって彼の手に爪を立てれば、微かな痛みを覚えたか、歌仙兼定は顔を上げた。
 目が合った。
 残り一寸もない距離で視線が交錯し、鼻の頭などは実際にぶつかった。
「……失敬」
 直後、俯かれた。咳払いの後に紡がれた言葉は短く、声量も小さかった。
 謝られるまでに相応の間があった。下を向かれて表情は知れず、ただ赤らんだ耳の裏側が見えるだけだった。
 意図しなかった近さに驚いたのだろう。あと少しで唇までもが掠めるところだっただけに、小夜左文字も一瞬どきりとさせられた。
 顎に激突されなくて良かった。
 鼻程度で済んだので痛みもなく、衝撃も弱かった。無事で良かったと深く安堵して、小夜左文字は彼の手から離れた数珠を胸で受け止めた。
「そんなに、良いものなのだろうか」
「そりゃあ、……勿論。一級品だね」
 歌仙兼定の体温を残す珠を繰り、独白する。それに反応して、男は二度の咳払いを挟み、低い声で囁いた。
 彼が言うのであれば、間違いないのだろう。しかしどうしても信じられなくて、小夜左文字は苦悶に顔を歪めた。
 美しいと言われても、少しも嬉しくなかった。
 今剣の時ほど素直に受け入れられないのは、歌仙兼定の言葉が単純な賞賛として聞こえない所為だった。
 血腥く、呪わしい境遇に美を見出される。
 そんな己の境遇に納得がいかず、拒絶反応が起きるのと同じ感覚だった。
「こんな黒くて、禍々しい色をしているのに」
 下唇に牙を立て、腹の底から声を絞り出す。
 すると聞いていた男は瞠目し、即座に首を振って頬を緩めた。
「それは誤解だ、小夜」
「なにが誤解だと言うんだ」
 彼の否定を瞬時に叩き落として、小夜左文字は声を荒らげた。
 闇は恐怖と同義だった。夜は忌々しい時間であり、朝焼けに照らされる血濡れた身体は醜かった。
 黒は嫌いだった。
 捨て去りたい過去を、否応なしに想起させる色だった。
 目頭が熱を持ち、鼻の奥がツンとした。睫毛を震わせ目を閉じて、小夜左文字は歯を食い縛って息を止めた。
 嗚咽を漏らし、華奢な肩を怒らせる。
 そんな痛ましい子の頭を撫でて、歌仙兼定はその額に額を押し当てた。
「小夜、違うんだよ。黒瑪瑙には、まじないが込められている」
「歌仙」
「そう、まじないだ。黒瑪瑙は、魔を祓い、邪を寄せ付けない力がある」
 泣きそうになっている子の顔は見ず、男は瞼を下ろして静かに告げた。
 訥々と、淀みなく。
 朗々と、厳かに。
 黒瑪瑙には呪力が宿る。それは悪しきものを打ち滅ぼし、その身を守ってくれる力だった。
「なにを、愚かなことを」
 けれど、では何故、小夜左文字は修羅の道を行かねばならなかったのか。
 あるべき場所を奪われて、望まぬ場所で身も心も磨り減らして。
 こんな自分を産み出した世界を呪いながら、孤独に彷徨い歩く運命を与えられて。
 なにが黒瑪瑙の加護か。
 どこに利益があったというのか。
「ふざけるな!」
「小夜」
「こんなもの、僕は……欲しくなかった」
 慰めの言葉など、余計に惨めになるだけだ。
 虚しさが募って、心が苦しくなる一方だった。
 こんなことなら、知らなければよかった。
 何も考えず、何も恐れず。ただ復讐だけを望んで、凶刃をふるい続ける獣でありたかった。
 両手で顔を覆い、頭を振る。涙だけは絶対に流すまいと腹に力を込め、砕けるまで顎に力を込める。
 絶望の淵に立ち、暗がりから明るい世界を見上げ続けてきた子供に目を眇め、歌仙兼定はその柔らかな頬を撫でた。
「君は、最初の主の守り刀になるべく、左文字の手で生み出されたのだろう?」
「……歌仙」
「大丈夫。君は愛されて、望まれて産まれて来た。確かに君の境遇は、決して幸多いものではなかったかもしれないけれど」
 刀工は刃を鍛え上げる時、いったい何を想い、願い、槌を振るうのだろう。
 多くの屍を築き上げ、その上で勝鬨を上げるようにか。
 それとも。
 これを持つ者を災厄から守り、健やかに育ってくれるようにか。
 紆余曲折を経た今も、左文字の想いはその刃に刻まれている。
 数奇な運命を辿りながらも、彼は折れずにここまで生き長らえて来た。それは、或いは左文字の祈りが結実した結果にならないか。
「そう、想うことは。難しいかい」
 穏やかに。
 閑やかに。
 優しく。
 柔らかく。
 心にすっと染み入る声で問いかけられて、小夜左文字は青褪めた唇を開き、直後に閉ざした。
 巧く息が出来なくて、うまく言葉が出なかった。噛み締めていた顎は緩んで、力を失った四肢はゆっくり前に傾いた。
 幼くて頼りない体躯を引き受けて、歌仙兼定は小夜左文字を抱きしめた。
「すぐには、無理かもしれないけれど」
 か細く震える背を撫でて、その耳元で繰り返す。
 時間がかかるのは仕方がない。簡単に受け入れられないのも分かっている。
 それでも折れて、砕けて、焼けてしまうのではないやり方で、救われる方法があるのだと。
 この哀れで儚い魂に、覚えておいて欲しかった。
「小夜。小夜左文字。とても美しい、いい名前だ」
「……うるさい」
 夢見心地に囁けば、嫌がられた。
 いつもの調子が戻って来たと、歌仙兼定は顔を綻ばせた。
 胴衣の両脇を強く握りしめ、小夜左文字は暫く動かなかった。人にしがみついたまま離れず、その顔を誰にも明かさなかった。
 彼が退いた後、歌仙兼定は軽く乱れた着衣を素早く整えた。衿の合わせを深くして、湿っている布は内側に隠して穏やかに微笑んだ。
「さて。では僕は続きがあるから、もう行くよ」
「歌仙」
 洗濯はまだ完了していない。日が暮れる前に終わらせてしまいたい作業は沢山あって、忙しい身の上だとさりげなく主張した時だった。
 幾分目を赤くした小夜左文字が、鼠茶色の袴を抓み取った。
 真っ直ぐ走った折り目のひとつを握られて、引き留められた男は首を傾げた。床に置いていた桶を担ぎ直して、不思議そうに昔馴染みの少年を見下ろした。
 小夜左文字は瞳を泳がせると、言い難いのか、何度も口を開閉させた。
 その間も、手を離そうとはしなかった。逆に手繰り寄せられて、立ち去る時期を逸した歌仙兼定は眉間の皺を深くした。
「どうしたんだい」
「いや、……その。たいした、話では、ない」
「うん。いいよ。言ってごらん」
 三度洗濯桶を下ろし、片膝を折ってしゃがみ込む。腰はあまり深く落とさず、いつでも立ち上がれる体勢を維持しながら目線を揃えられて、小夜左文字は手を引っ込めると、今度は首に提げた数珠を弄り出した。
 捻ったり、弾いたり。または両手に挟んで捏ねたりしながら、彼はちらちらと男に視線を送り、赤みを帯びた頬を膨らませた。
「僕は、違うと……思う。でも、今剣が。これが、あにさまと、一緒だと」
「ああ。そうだね」
 同じ左文字の出であるふた振りの刀は、同じ色の数珠を首に提げていた。
 それが素材も同じかどうかは分からないが、言われてみれば確かに、長さは別として、良く似ていた。
 瞳を左右に泳がせて、落ち着かない様子の小夜左文字に同意する。すると彼はぱっと目を輝かせ、首を正面に据えて歌仙兼定に向き直った。
 真っ直ぐな眼差しが、本当かどうか問うていた。
 口以上に雄弁な双眸に目尻を下げ、男は深く頷いた。
「きっと、そうだと思うよ」
 長兄は未だ本丸に姿を現さない状況だが、左文字の次兄は既に屋敷に招かれていた。但しその境遇故かあまり他と交わろうとせず、人によっては高慢とも取れることばかりを口にした。
 同じ主を持った経験のある薬研藤四郎が何かと構ってはいるが、効果が上がっているとは言い難い。へしきり長谷部などは露骨に彼を嫌っていて、人前でも憚ろうとしなかった。
 そうなると末弟である小夜左文字に期待が集まるわけだが、彼だって兄の扱いには苦慮していた。
 一緒に居た記憶はまるでなく、兄弟刀とはいえ、名ばかりだ。外見も似通っているとは言い難く、共通点を挙げる方が難しかった。
 その為か、本当に彼は兄なのか、もしくは自分は弟なのかと、勘繰ってしまう日もあった。
「だが」
「自信がないのなら、確かめてくればいいじゃないか」
「どうやって」
「今僕に言ったことを、そのまま聞いてみればいいだけだろう?」
「…………」
 それが出来れば、苦労はしない。
 簡単に言ってのけた男を軽くねめつけて、小夜左文字は黒瑪瑙の数珠を撫でた。
 宗三左文字は屋敷の奥に引き籠り、滅多な事では表に出ない。主である審神者にも挑発的な態度を取って、戦場での経験の少なさを理由に、出陣さえも拒んでいた。
 それを生意気と取るか、哀れと取るかは、個々の判断だ。だがこのまま行けば、今でこそ同情的な刀剣も、いずれは反感しか抱かなくなるだろう。
 彼の味方になってやりたかった。
 けれど彼を兄だと信じきれないままでは、無条件に受け入れるのは難しかった。
「そう」
 下ばかり見て答えない小夜左文字に、歌仙兼定は静かに嘆息した。落ち込んでいる短刀の頭を優しく撫でて、半眼し、数秒後に声を弾ませた。
「なら、こういう手は、どうだろう」
 妙案でも思いついたのか、悪戯っ子の表情を作る。
 近くに来るよう手招かれて、十数秒後。
 囁かれた秘密の計画に、小夜左文字は興奮気味に頬を紅潮させた。

 書見台に手を伸ばし、外表に折られた薄い紙を一枚めくる。
 次の頁に目を進めて、宗三左文字は区切りの良いところで読むのを止めた。
 記憶に焼き付けようと先頭の一行を指でなぞり、力を抜いて膝の上に転がす。陶器のように白い爪先を天井に向けて、彼は瞳だけを左に流した。
 手元には長足の燭台が佇み、蝋燭の上で炎が揺れていた。日暮れにはまだ早い時間ではあるが、陽光が差し込みにくい間取りであるのと、障子戸を閉めている所為で、室内はかなり薄暗かった。
 灯りに添えられた白い紙に、炎の影が躍っていた。芯の焦げる臭いが微かに鼻について、横顔に伸びる影は色濃かった。
 薄紅色の袈裟を撫で、彼は障子戸の向こう側に居るだろう相手に思いを馳せた。
「どなたですか」
 頼んでもいないのに喚び出され、現世に招かれた。
 人としての形を与えられ、力を振るうよう請われた。
 けれど正直、どうでも良かった。
 歴史がどう変わろうとも、興味はない。どうせ籠の鳥は自由に空を羽ばたけず、一方的に愛でられて終わるのだから。
 最早飛び方も忘れてしまった。
 空を自在に駆る心地良さも、今となっては思い出せない。
 此処に来てからの毎日は、憂鬱の連続だった。
 立ち上がるのは億劫で、読み飽きた書の前から動く気も起こらない。宗三左文字は座したまま、気だるげに戸の向こう側に問うた。
 気配はずっと感じていた。しかし一向に語り掛けて来ない。いい加減鬱陶しくてならず、痺れを切らした格好だった。
 こういう気の短さは、この身に烙印を施した男から引き継いだものらしかった。
 天下に名を轟かせた魔王の愛器だから、丁重に扱われてしかるべき。しかしそれが重く取られているのか、近付いてくる者はごく限られていた。
 顔見知り程度の癖に、薬研藤四郎はなにかと小うるさい。へしきり長谷部とは、顔を合わせる度に嫌味を言いあう間柄だった。
「無用であるなら、早々に去りなさい。邪魔ですよ」
 けれど裏を返すなら、彼らはまだ遠慮がなかった。
 あのふたりであれば、こんなまどろっこしい真似はしない。問答無用で戸をあけて、許可も得ずに踏み込んでくるだろう。
 だから彼らではない。確信を持って、宗三左文字は苛立ちを露わにした。
 ささくれ立った心を抱え、早口に告げる。手を振って犬猫を追い払う仕草こそ取らなかったが、雰囲気としてはまさにそれだった。
 このひと言が引き金になったらしい。
 物陰に隠れてじっと様子を窺っていた存在が、恐る恐る、障子戸の前へと移動した。
 小さい。
 組子に貼られた障子紙に写るのは、高い位置で髪を結った少年のものだった。
「あに、さま」
「……小夜?」
 気配はふたり分あるような気がしたが、姿を見せたのはひとりだけ。心細げな声は聞き覚えがあるもので、呼びかけられた瞬間、宗三左文字は驚きに身を乗り出した。
 弟がいるという話は、遠くに聞き及んでいた。しかし顔を合わせた例はなく、いざ目の前にしても、実感はまるで湧いてこなかった。
 そんな初対面時の戸惑いを気取られてしまったのか。
 小夜左文字は宗三左文字と相対する時、常に怯えた態度を取った。
 緊張して、表情はいつだって強張っていた。目は泳ぎがちで、言葉遣いもぎこちなかった。
 宗三左文字自身、あまり口数が多い方ではない。刀工の手を離れた後の境遇に共通点は少なく、これと言って盛り上がる話題もなかった。
 お蔭で会話が捗らず、沈黙ばかりが積み上げられていく。
 このままでは宜しくないと思っていても、どう対処すればいいか分からない。薬研藤四郎に訊くのは野暮というものだし、へしきり長谷部に相談しようものなら、鼻で笑われるのが関の山だ。
 なんとかしたいと思いつつ、なんともならなくて今日まで来た。自ら事を起こす勇気はなく、鬱々しながらも動く気になれなかった。
 それに小夜左文字は、実兄よりも歌仙兼定に懐いていた。あちらと過ごす方が気が楽そうなのも、一歩踏み出すのを躊躇させていた。
 細川の懐刀ごときが、と思う反面、小夜左文字を最も知るのはあの男なのも事実。
 出発地点からして格段の差がついているのだから、宗三左文字が気後れするのも、ある意味仕方がない事だった。
 その弟が、自ら兄を訪ねて来た。
 滅多にあることではなくて、驚きは否めなかった。
 兄らしいことは何も出来ておらず、兄として振る舞えている自信もない。ならば疎遠な関係が続いて行くのは当然で、その方が良いとさえ思い始めていた矢先だった。
 他人と関わるのは兎角面倒臭い。
 静かに過ごしたいだけなのに、周りに騒がれ、注目されるのはいい加減うんざりしていた。
 だからあの子が近付いて来ないのならば、こちらからわざわざ出向く事もない。
 求められていないのであれば、手を伸ばすのは無駄な労力だった。
「なに、よう……でしょう」
 心揺さぶられる呼びかけに、返す言葉が上擦った。途中で噎せそうになったのを耐えて、彼は平静を装って幼い影に問い直した。
 蝋燭の炎が宗三左文字の手元に影を作る。光と闇の境目はおぼろげで、酷く曖昧だった。
「お邪魔でしたら、下がります」
「小夜」
 先ほどつっけんどんに言い放った台詞が、尾を引いているようだった。遠慮がちに声を潜められて、宗三左文字は見えていないと知りながら首を振った。
 訪ねて来たのが誰だか知っていたら、あんな風には言わなかった。後悔に襲われて、彼は畳の目地に指を這わせた。
 前のめりになった身体を利き腕で支え、先ほどより薄くなった気がする人影に下唇を噛む。引き留めようにも巧く言えるとは思えなくて、口を開けば、出て来たのは素っ気ないひと言だった。
「構いません。お入りなさい」
 もっと他に言いようがあるだろうに、なにも思い浮かばない。
 へしきり長谷部を相手にする時と大差ない態度を取ってしまって、彼は己の狭量ぶりに落ち込んだ。
「失礼、します」
 一方で小夜左文字は安心したのか、僅かばかり声の調子を上向かせた。畏まって頭を下げて、障子の引き手に指をかけた。
 ほんの少しだけ戸を開き、続けて出来上がった隙間に掌を忍ばせる。握らないまま戸板を横に滑らせて、通り抜けられるだけの空間を作って腕を下ろす。
「失礼、仕ります」
 そうして改めて礼をして、恐る恐る敷居を跨いだ。
 中に入ってすぐ、先ほどと逆の手順で戸を閉める。間から紛れ込んでいた陽の光は途絶え、部屋が明るくなったのは一瞬だった。
 小夜左文字は袈裟を脱ぎ、藍色の胴衣に白の襷を結んでいた。
 帯にするには短かったのか、襷の結び目は大きかった。剥き出しの手足は細く、傷跡を隠す包帯が痛々しかった。
 その傷だらけの短刀の手には、武器とは異なるものが握られていた。
 半月型をした茶色い盆だった。更にその上には釉薬を掛けて焼いた四角い皿が置かれ、白い塊がふたつ、肩寄せ合うように並べられていた。表面はぼこぼこしており、遠くからではその正体が分からなかった。
「小夜?」
 彼が訪ねて来た用件は、まず間違いなくそれだろう。
 見せたかったのか、渡したいのか。判断がつきかねて、宗三左文字は訝しげに首を捻った。
 口元を袖で隠し、眇めた眼だけを表に出す――それが小夜左文字にとって、拒絶されていると感じられる仕草だとも知らずに。
 眉目を顰めた兄を窺い、少年は皿を両手で抱え直した。
「あ、の。ええと」
 前に出ようか、引っ込もうか。
 敷居の前で躊躇して、彼は意を決して顔を上げた。
 その間、宗三左文字はひと言も発しなかった。
 掛ける言葉が思いつかなかったなど、黙っていては伝わらない。気の利いた口上のひとつも用意できない己を悔やむけれど、すべて彼自身の度量の狭さが招いた事だった。
 袖の裏側で薄い唇を噛み、歩み寄ってくる弟をただ静かに見守る。小夜左文字はそんな彼の二尺ばかり手前で立ち止まり、右から先に膝を折った。
 しゃがみ込んで、持って来たものを畳に置いて押し出す。
「これは?」
 青みがかった灰色の皿に盛られていたのは、饅頭らしきものだった。
 らしい、というのは他でもない。形は楕円に歪み、所々に指の形が残る有様だったからだ。
 店で売られていたものとは思えず、外見だけだととても不味そうだ。中に何か入っているのか、皮が歪に出っ張っているのも気になった。
 子供が土を捏ね、面白がって作った泥団子と大差ない。
 そんな粗末なものを提示されて、宗三左文字は眉間の皺を深めた。
 馬鹿にされているのだろうか。
 日頃から冷たく接している事への、嫌がらせかなにかだろうか。
 訝り、目の前の弟を胡乱げに眺める。不躾な視線を浴びせられた方は唇を引き結び、上目遣いに窺って、両手を膝に戻した。
「あにさま、に」
「僕に、これを食べろと」
「あの、だっ、大丈夫、です。見た目は、その。売り物のようには、巧く出来ませんでしたが。味は、その。悪くは、ありませんでしたので」
 不愉快だと、感情が声に滲み出ていたのだろう。
 小夜左文字ははっと息を呑み、珍しく声高に捲し立てた。
 早口で、けれどたどたどしく告げて、最後に頭を垂れて下を向く。結われた髪が一緒に揺れて、藍色が目に眩しかった。
 宗三左文字は彼と皿の上の饅頭もどきを交互に見て、その短い爪の間に潜り込んだ、泥ではない塊に半眼した。
「あなたが作ったのですか」
「あにさまは、八つ時も、ずっと。お籠りに、あらせられるので」
 彼が語る内容が真実かどうか、それは宗三左文字には分からなかった。
 人を殺す為の道具である刀が、生きるための食事を作るのは滑稽だ。
 人を真似た姿を得て、人と同じ生活を送って。それで人になったつもりならば、片腹痛い。
 小夜左文字だって、そういった飯事に興味があるとは思えなかった。裏で糸を引いている存在がいる筈で、それは間違いなくあの男だった。
 気を遣われたことが不快で、面白くなかった。けれど弟が不器用なりに作ってくれたものを、無碍に扱うなど不可能だった。
 ただ正直なところ、食欲はなかった。
 働き者の刀剣たちとは違い、宗三左文字はほぼ一日中、部屋に引き籠っている。外に出る回数は片手で余るほどで、審神者も諦め顔だった。
 動かないのだから、腹も減らない。
 そして過剰な食事は、身体が重くなって辛いだけだ。
 どうしたものだろう。
 嫌がらせの側面は否定し切れなかった。弟にその意図はなくても、饅頭作りに協力した男は、間違いなく影でほくそ笑んでいる。
 前方に視線をやれば、小夜左文字は期待と不安が入り混じった表情をしていた。
 緊張で頬は紅潮し、呼吸の間隔は短かった。鼻息は若干荒く、引き結ばれた唇は一文字を形成していた。
 そんな顔をされて、要らない、と言えるわけがなかった。
「いただきましょう」
 幸い、味は保証されている。中から飛び出そうになっている物体が恐怖だが、いざとなれば噛み砕かず、塊のまま飲み下せばよかった。
 意を決し、宗三左文字は細い息を吐いた。
 憂鬱さを隠し、邪魔になる袂を左手で押さえる。柳のように細い腕を伸ばし、右の饅頭を掴み取ろうと指を広げる。
「あにさま」
 それを制して、小夜左文字が声を響かせた。
 掴む直前だった宗三左文字は驚き、その場でぴたりと動きを止めた。人差し指で空を二回ほど引っ掻いて、急ぎ立ち上がった弟を不審な目で仰ぎ見た。
 彼は藺草の欠片を膝に張り付けたまま、二度言いかけては躊躇して、三度目にようやく口を開いた。
「あ、あの。あにさまの、髪は。その、長うございますから。えっと、食べるに際して、あの、邪魔に……なりましょう」
「いえ、特にそのような」
「ですので、その御髪、を。お、お、押さえておいても、よろしゅうございましょうか!」
「……はい?」
 両手で胸元を掻き毟って、惚ける宗三左文字に向かって大声で叫ぶ。
 それは大きなお世話も良いところの過剰な接待で、必要ない気遣いだった。
 だというのに、話が通じない。小夜左文字は稀に見る声量で訴えて、絶句する兄の返事も待たずにその背に回り込んだ。
 髪など、どうとでもなる。自分で押さえるのは簡単だし、前に垂れて邪魔にならないよう、姿勢を整えれば済む話だった。
 それなのに、小夜左文字はやると言って聞かなかった。
 誰かに入れ知恵をされたのだろうか。しかしわざわざ髪に触れたがる理由が思いつかなくて、宗三左文字は早々に思索を放棄した。
 これしきの事で頭を悩ませるのは、時間の無駄だ。背後に取り付いた子供から漂う気配は産毛を逆立たせて、そちらを抑える方がよっぽど重要だった。
 背中を取られるということは、後ろからばっさり斬られる可能性がある、ということ。
 だから否応なしに緊張を強いられて、宗三左文字は前を向きつつ、瞳だけで弟を窺った。
 あれだけ啖呵を切っておきながら、彼は触れようか触れまいかで逡巡して、小さな手を出したり、引っ込めたりしていた。
「宜しくお願いしますよ」
「はっ、い」
 それが妙に愛らしくて、何故かほっとさせられた。
 弟相手に神経をすり減らすなど、実に愚かしい。思い直して宗三左文字は飄々と告げ、不格好な饅頭を抓んだ
「これは、もしや柿ですか?」
「お嫌いで……あらせられましたか」
「いいえ」
 持ち上げると、ずっしり重かった。顔に近付ければ中に収められているものが見て取れて、その色と形に、彼は成る程と頷いた。
 心配そうに問うた弟を安心させてやり、人知れず頬を緩める。
 随分と可愛らしい悪戯だと相好を崩して、宗三左文字はひと口で頬張るには大きすぎる饅頭をじっくり眺めた。
 そうしているうちに、小夜左文字側も決心がついたらしい。肩甲骨の辺りに指が触れたかと思えば、左右から挟むようにして、桜色の髪を抱えあげた。
 折れそうなほどに細い頸部が晒されて、冷たい空気が紛れ込んだ。慣れない感覚に思わず頭を振れば、首に掛けた長い数珠が擦れてちゃりちゃりと音を立てた。
 黒瑪瑙の珠の数は、煩悩の数より遥かに多い。
 或いはこれは我が身を手にする為に、権力者たちが屠ってきた命の数かもしれなかった。
 そんな重くてならないものに、短い指が添えられた。
 形を確かめるようになぞられて、薄い皮膚を巻き込まれた宗三左文字はおや、と眉を顰めた。
「小夜、どうかし――うっ!」
 髪を掻き上げるだけではなかったのかと、意図していなかった動きに目を見開く。
 直後にドンッ、と体当たりされた。あまつさえ、ぎゅうぎゅうに抱きつかれた。
 喋っている途中だった彼は舌を噛み、あまりの痛みに涙した。
 弾みで落としそうになった饅頭を握り、後ろから背中にしがみつく子供に騒然となる。身動きが取れず、振り向くこともままならなくて、顔を伏して震えている弟の真意が、彼にはさっぱり分からなかった。
「小夜、どうしました。どこか痛むのですか。小夜。返事をしてください。小夜。小夜?」
「なんでも、ありません。あにさま。なんでもありません」
「なんでもないわけがないでしょう。小夜、顔を見せてください。いったい、急に、どうしたのですか」
「いいえ。いいえ。なんでもありません。あにさま。小夜は、本当に。なんでも、……なんでもないのです」
 混乱して、宗三左文字は声を高くした。慌てふためき、動揺も露わに捲し立てるが、小夜左文字は首を振るばかりだった。
 背中から誰かに抱きつかれるなど、今までないことだった。
 だからこの後、どうして良いかが分からない。
 右往左往し、狼狽えて。
 彼は長い逡巡を挟み、細かく震える小さな手に、黙ってその手を重ねたのだった。

2015/03/07 脱稿