Blue Hawaii

 真夏の練習は、とにかくハードだ。
 なにせ、暑い。じっとしているだけでも汗が出る。地表を焦がす陽射しは屋根が遮ってくれるけれど、代わりに風がなく、熱気が籠った。
 高湿度の空気が肌にまとわりつき、重くて仕方がない。汗を拭こうにも、タオルを首に巻いたままコートに入るわけにはいかなかった。
 必然的に、着ているシャツの袖や裾で拭く事になる。しかしどこもかしこも汗まみれで、鼻を近づければ腐臭が粘膜に突き刺さった。
 涙が出そうな饐えた臭いに、慣れそうで、慣れない。
 そもそも慣れたくないと歯を食い縛って、日向翔陽は眼前に迫るボールに食らいついた。
「ナイッサー!」
 必死に飛びつき、腕を伸ばす。直後にドガッ、と衝撃が走って、じんじん来る痛みと熱が手首と肘の間に広がった。
 後方や左手からは勇ましい声援が飛び、跳ね返ったボールが床を打つ音が続いた。汗の玉が弾け、額からこめかみを伝っていくのが感じられた。
「もう一本!」
 ネットを挟んだ向かい側には、コーチである烏養が台座に乗って構えていた。その隣には菅原が立って、ボールを渡す役を引き受けていた。
 本来ならそれは、マネージャーである清水が主に担当する仕事だった。新米マネージャーの谷地もチャレンジしてはいるものの、タイミングが覚えられないらしく、不慣れさが目立って出番は少なかった。
 その癒しの女子部員ふたりであるが、今は席を外していた。夏休み中にかかわらず毎日顔を出している顧問の武田も、彼女らと一緒にどこかへ出かけていた。
 烏野高校男子排球部は、今日も朝早くから第二体育館に集い、練習に励んでいた。
 春高の二次予選まで、あまり時間がない。のんびりしている暇はなく、盆の時期も休みなしだった。
 度重なる東京遠征で、部員らの技術も着実に上がっていた。試合に対する意識や、モチベーションの保ち方も、半年前に比べると、随分違ったものになっていた。
 その一点、一点が勝利へ繋がる一歩なのだと、ずっと強く認識するようになった。
 どうすればボールを落とさず、次に繋げられるか。
 視線が宙を舞い、身体が動きながらでも、思考を止めず、最良を探し続けられるようになった。
 だが、そうはいっても、暑いものは暑い。
「日向、あと一本な」
「ハギッ!」
「返事で噛まないでよ……」
 五本連続レシーブに成功しないと、次に進めない。ようやく終わりが見えてきた日向への声援に、順番待ちが長引いた月島はぼそりと零した。
 もっとも、日向本人には聞こえていなかった。ぼさぼさ頭の少年は勇ましく吠えて、烏養が打ち下ろした痛烈なボールへと、頭から突っ込んで行った。
 結果。
「ぶぎゃっ」
 見事顔面でボールを受ける羽目に陥り、小柄な体躯はごろん、と仰向けに倒れた。
 痛そうな悲鳴と轟音が重なって、見ていた者たちまで揃って首を竦めた。
 ボールは高く跳ね上がり、ナイスコンロトールでセッターの位置へ返された。腕でレシーブするより遥かに正確で、賑やかだった館内は、その一瞬だけシーンと静まり返った。
 これは、良いのだろうか。裁定を下すのは難しく、菅原はコーチを縋るように見た。
「え、えー……と。セーフ、です?」
 訊かれ、烏養は赤くなっている利き手を揺らした。即座に起き上がった日向にも目を向けて、汗を滴らせ、鷹揚に頷いた。
「頑張りは、認める」
「日向、五本成功。次、月島な」
「うぃーっす」
 大甘な採点だが、後が詰まっている。ひとりを相手に時間を裂くわけにはいかなかった。
 やる気があるとは言えない返事をして、月島が入れ替わりに前に出た。日向は潰れた鼻を気にしつつ、場所を譲って白線の外に出た。
 待っていたのは、ガッツを賞賛する眼差しと、不機嫌そうな眼差しだった。
「翔陽、ナイスガッツ」
「ボゲ。日向、ボゲ」
 西谷と影山からほぼ同時に言われ、聞き取ろうにも声が混ざった。忙しく左右に首を振り向けて、少年は褒めてくれた方だけを都合よく拾い上げた。
「えへ、へへへ」
 照れ臭そうに笑って、頭を掻く。その肩を西谷がバンバン叩いて、今の調子だと嘯いた。
 部内で最もレシーブが上手いリベロに称えられて、日向もまんざらではなさそうだった。今度は鼻の頭を掻いて、頬を緩め、心底嬉しそうだった。
 それが、無視された方には気に入らない。
 目を向けてももらえなかった影山は、不満をありありと顔に出し、黒い影を纏って周囲を威圧した。
 ただそれも、天然コンビにはあまり通用しなかった。
「西谷さん、あんま、こいつ褒めないでください。ヘタクソが、いつまで経っても直らなくなります」
「いーじゃねえか。なによりそのガッツが、大事だ。ボールを最後まで諦めねえ。そこはきちんと言ってやんねーと」
 身長は影山の方が圧倒的に高いが、学年は西谷の方がひとつ上。
 先輩相手にも物怖じしない一年生セッターに、言われた方もさらっと言い返した。
 意見されても、機嫌を損ねたりしない。上下関係は一応あるものの、そこまで厳しくないのが、この部の傾向だった。
 なにせ西谷が、三年生でエースである東峰を説教することもあるくらいだ。そういう光景を頻繁に見ていれば、一年生でも声を上げ易かった。
「ツッキー、ナイッサー!」
 一方で山口は、月島を応援して声を張り上げていた。コート内にいる背高のミドルブロッカーが迷惑そうにしているのも構わず、ぎゅっと目を瞑り、暑さにも負けずに叫んでいた。
 どこもかしこも賑やかで、必死なのに、穏やか。
 よく分からない雰囲気だと苦笑を漏らし、主将を継続中の澤村は飛んできたボールを右手で受け止めた。
 軽々片手で持ち、転がっていた分も集め、菅原の元へ運んでいく。途中開けっ放しのドアの前を通り過ぎれば、微かに風が吹き、茹でられた空気が全身を包み込んだ。
 涼しいような、そうでないような。
 こちらも訳が分からないと肩を竦めていたら、照り返しで白く見える地面の上を、足早に駆ける人の姿が見えた。
 影は短く、小さい。
 それがふたつ、並んでいた。やや遅れる形で、少し大きめなものがもうひとつ。
「清水?」
 足を止め、首を伸ばす。
 外を注視する部長に、ボール拾いをしていた面々も何事かと首を傾げた。
 急にざわざわし始めた体育館に、烏養も一旦手を止めた。シャツの袖で鼻筋を擦って、ポニーテール姿のマネージャーに嗚呼、と頷いた。
「来たか」
「え?」
 眼鏡の女生徒に続き、小柄な少女もぜいぜい言いながら階段を上ってきた。両手は広めの盆で塞がっており、靴を脱ぐのが大変そうだった。
「清水、それ」
「ごめん、ちょっと持って。仁花ちゃん、預かる」
「すすす、すみまぜっ、え」
 踵が抜けなくてもたついている谷地を見て、清水の行動は素早かった。戸惑う澤村に持っていたものを押し付けて、今にも転びそうな後輩へ手を差し出した。
 辺り一帯にほんのり甘い匂いと、冷たい空気が立ち込めた。白い湯気が見えるようで、冷静沈着が売りの主将も、たまらずごくりと唾を飲んだ。
 遠巻きにしていた一団も、戻ってきたマネージャーたちを見て、途端に息巻いた。
「よし、お前ら、ちょっと休憩な」
「やったー!」
 そわそわして、落ち着かない。興奮に頬を紅潮させる高校生を見下ろして、烏養は知っていたのか、豪快に笑った。
 最早練習どころではなくなっている。月島ひとりが肩透かしを食らった顔をしていたが、遅れて到着した武田に目を向けて、嗚呼、と力なく頷いた。
「すげー。かき氷!」
「うっまそー」
「順番。並んで」
「ハーイ!」
 わらわらと入口に集まっていく部員は、まるで小学生のようなはしゃぎようだった。清水や谷地が運んできたものに目を輝かせ、涎まで垂らしていた。
 使い込まれて古びた盆に並ぶのは、キラキラ輝くガラスの器。そしてそこに山盛りになっている、目の粗い削り氷だった。
 シロップはまだかかっていない。どれもこれも真っ白で、雪山を眺めている気分だった。
 いかにも涼しげで、冷たそうだ。
 元気よく返事をした男子部員が、言われた通りに列を作る。先頭は勿論西谷で、二番目は田中だった。
 思わぬ形で盆を渡された澤村は、いつの間にか氷を部員に渡す係にされてしまった。
「なんだって、急に」
「コーチが、押し入れの奥で見つけたからって、持ってきてくれて」
「ああ……」
 鼻息荒くしている西谷にかき氷を渡し、清水が部長の疑問に答える。シロップは武田が両手に抱えており、封を切る鋏は谷地の掌中にあった。
 もしかしたら、昨日から準備していたのかもしれない。段取りの良さに感心して、澤村は緩慢に頷いた。
「はい」
「あざーっす」
「転んで零すなよ」
「んなことねーし。なあ、シロップどれにする? おれ、イチゴ!」
 隣では清水が、テキパキと部員に冷たい器を配り続けた。受け取った日向は影山の嫌味にも負けず、元気いっぱいに声を響かせた。
 暑い中、ずっと動き回っていた。
 頻繁に水分補給はしていたものの、飲んだ分はすぐ汗になって流れてしまう。ドリンクも腹が驚かないよう、少し温めに作られていて、喉の渇きは癒せても、涼を得るには不十分だった。
 思わぬ差し入れに、顔がほころぶ。
 鉄面皮の月島でさえ、表情は心持ち嬉しそうだった。
 外は陽射しがカンカンに照り付け、コンクリートは焼けた石に等しい。時折聞こえてくる余所の部の掛け声も、春先に比べるとかなり控えめだった。
「く~~、うめえ!」
 真っ先に氷に齧り付いた西谷が、幸せそうに身を竦ませた。その横では田中も、キーンと来る冷たさに震えていた。
 縁下、東峰といった面々も、冷たい差し入れに満面の笑みを浮かべた。菅原だけ辛いシロップがないと不満げだったが、そもそも唐辛子は、かき氷にかけるものではなかった。
「辛さで溶けちゃいません?」
「今度デスソースかけてみようか」
「部室では絶対にやらないでくださいね」
 以前、激辛麻婆豆腐で酷い目に遭わされた。それを思い出しながら言った日向に、三年生は碌でもないことをさらりと言い、次期主将と目される二年生に後ろから釘を刺された。
 そんなものを使われた日には、一週間は余裕で部室に入れない。プレハブの建物全体が、下手をすれば全滅しかねなかった。
 男子排球部はそうでなくとも、なにかと問題を起こしがちだ。ここ最近は大会での成績が伸びており、一旦は沈んだ評価が上昇しつつあるだけに、変なところで躓くわけにはいかなかった。
 手厳しいひと言と冷たい眼差しに、副主将はしょんぼりしながら項垂れた。仕方なくレモンシロップを大量にかけて、表面が溶けかけている氷の山にスプーンを刺した。
 一方でなかなかシロップを選べないでいるのが、一年生セッターの影山だった。
 日向はといえば、赤色のシロップを氷全体に、万遍なく注いでいた。
 家では怒られるのでやらないが、この場では遠慮は必要ないと思っているのか。些かかけ過ぎているくらいで、お陰で小ぶりの山は背丈を低くしていた。
 嶋田マートで仕入れてきた細長いシロップの容器は、全部で五本。内訳はイチゴに、メロン、レモンと来て、あとはみぞれに、ブルーハワイだった。
 自宅でかき氷をしようにも、シロップは使いきれずに残ってしまう場合が多い。だからこんなに一度に沢山、種類が揃っているのは、屋台以外では初めてだった。
「武ちゃん、これ、混ぜてもいい?」
「こら、食べ物で遊ぶんじゃない」
「あでっ」
 童心に帰り、西谷が言い出す。それを澤村が叱って、げんこつを叩き付けた。
 もっとも拳は緩く、音もしなかった。西谷は悲鳴をあげたものの、本気で痛がる素振りはなかった。
 部内で暴力沙汰となれば、大問題だ。それを主将である澤村が、分からない筈がなかった。
 首を竦め、西谷が小さく舌を出す。大柄な三年生は溜息で応じて、まだ決めかねている影山にも肩を竦めた。
「なんでもいいだろ」
 そう言う彼が持つ器には、たっぷり緑色のシロップがかけられていた。
 メロンは、本物は値が張ってなかなか食べられない。高級感あふれる夏の果物の、代表格的位置づけだった。
 だからなのか、かき氷くらいたっぷり味わいたい。そういう魂胆が見え隠れしており、向こうの方では菅原が笑っていた。
 残る三年生の東峰はイチゴ味で、清水はみぞれを選んでいた。二年生も無難にイチゴを選ぶ者が多く、次に多いのは、澤村と同じ考えなのか、メロンだった。
「くっはー、しっかしうめーな。やっぱかき氷つったら、イチゴだろ」
「いーや、ここはメロン一択だね。イチゴなんかとは風味が全然違うぜ」
 なにをしていても、何を食べていても、西谷と田中は喧しい。ガツガツスプーンを動かして、あっという間に半分以上を平らげてしまった彼らは、シロップひとつにしてもこだわりがあるようだった。
 さほど重要ではない意見を言い合って、対立して、火花を散らす。
 その横で、早くしないと氷が溶けてしまうというのに、影山は依然決めあぐね、シロップの前で指を彷徨わせていた。
「そういえばかき氷のこの蜜って、味、全部同じなんですよね」
「……は?」
 他の皆が着々と食べ進める中、ひとりだけ決断出来ないでいる。
 それを優柔不断だと鼻で笑って、月島はシロップ談義に花を咲かせる面々にも言い放った。
 蜜を被っても白いままの氷を崩し、ひと口頬張る。
 口の中に広がる冷たさに加えて、大勢から一斉に視線を向けられた。免疫がなければぞわっと来そうな展開に口角を持ち上げて、底意地が悪い一年はにっこり頬笑んだ。
「知りませんでした?」
 臆面もなく言って、もうひと口噛み砕く。
 排球部の面々は揃って目を丸くして、唖然としながら自分が持つものを見下ろした。
 イチゴ味に、メロン味に、レモン味。
 ひんやりした氷に絡む、甘い、甘い蜜の味。
「え」
「嘘だろ」
「ちょっと一口寄越せ」
「同じ、か?」
「やっぱ違うんじゃねーの?」
 男たちは絶句し、顔を見合わせ、隣の皿に匙を伸ばした。実際に違うのか試して、区別がつかなくて首を捻った。
 同じようで、違うようで、よく分からない。
 乱立するクエスチョンマークにクク、と肩を震わせて、月島は谷地が抱えているシロップの容器を指差した。
「ふえっ。ひええ!」
「裏、見てみなよ」
「おお!」
 その状態でちょいちょい、と指先だけを動かされた。咄嗟のことに混乱した谷地だけれど、言われて成る程と納得して、真新しい容器を覗き込んだ。
 一部だけ半分以下になっているボトルを揺らし、裏面に貼られている成分表に目を走らせる。
 そして。
「ほんとだ……」
 どの味も原材料に殆ど差はなく、違いがあるのは加味されている着色料だけだった。
 つまり、月島の言う通り、シロップ自体に味の違いはない。
「じゃあ、イチゴ味ってのは?」
「見た目の色で、脳が勝手に勘違いしてるだけ、らしいですよ」
「えええええー?」
 視覚から得られる情報と、あらかじめ『イチゴ味』だと認識している所為で、頭はその味なのだと騙されてしまう。
 全ては思い込みのなせる技だった。
 にわかには信じ難い話ながら、原材料が色素以外同じ、という動かざる証拠がある。嘘や冗談だと断じることは不可能で、男子部員は軒並み口を閉ざし、頭を抱え込んだ。
「じゃあ、俺らが今まで食ってたのは、なんだったんだ」
「ただのみぞれ味ですね」
「っつーか、んじゃ全部同じってことだろ。影山、お前なにずっと悩んでんだよ!」
 合成着色料を過剰摂取するくらいなら、みぞれで良い。
 そういう理由でシロップを選んだ月島の弁に、何故か田中がキレて声を荒らげた。
 視界の端に、まだ思い悩んでいる後輩が見えた。それがいい加減鬱陶しくて、我慢出来なかったのだ。
 突如吼えられ、影山の肩がびくりと跳ねた。驚いて振り返った後輩のきょとんとした姿にも腹を立てて、田中は唯一未開封だったシロップを掴み、引き受けた鋏でその先端を断ち切った。
「ちょ、田中さん?」
「全部同じだったら、ほーれほれほれ、どうだ!」
 そうして戸惑う後輩の器目掛け、青色が鮮やかなシロップをドバドバと垂れ流した。
 かなり低くなった氷の山に、温くなった液体が振りかけられた。その熱で細かな氷は益々溶けて、小鉢の底には毒々しい色が溜まって行った。
「やめてください、ちょっと」
「こら、田中。いい加減にしろ」
 このままだと、シロップを全部かけてしまいかねない。
 嫌がった影山が押し退けようとして、澤村も見るに見かねて、介入すべく声を上げた。
 悪い顔をしていた二年生も、主将に睨まれては黙らざるを得ない。けれど時既に遅く、影山のかき氷はかなり無残な状態になっていた。
「うわあ、ひっでえ」
「あらら、王様。残念でした」
 これでは氷が添え物で、蜜がメインだ。ほぼ食べ終わっていた日向と月島に同時に言われて、影山は唖然としたまま手元を見詰め続けた。
 そもそもどうして、あんなにも選ぶのに時間をかけたのか。
 他の面子が即決だった中、彼の迷いぶりは相当なものだった。
 訊かれ、影山は視線を泳がせた。口籠り、一番近くにいた日向を前に唇を引き結んだ。
「影山?」
「いや、俺ん家、こういうのやったことなかったし。祭も、行かねえから……かき氷とか、食ったこと、なくて」
「お、おう」
 目で訴えられるが、分からない。首を捻れば訥々と語られて、予想の斜め上を行く返答に、巧く相槌が打てなかった。
 まさかの、初体験だった。
 そんな人間がこの世に居たとは。驚きつつ、哀れみが否めない。どれだけ小さい頃からバレーボール一辺倒だったのかと、その人生の迷いの無さに、相槌を打つのが精一杯だった。
「まあ、食え」
「おう」
「急げよ、お前ら。食ったらすぐ練習再開すっぞ」
「うぃーっす!」
 他に、なんと言えるだろう。
 かける言葉が見当たらず、横柄な態度を取れば、食べ始めた影山の向こうで、烏養が声を響かせた。
 なんだかんだで、結構な時間が過ぎていた。
 休憩も大事だが、夏休みにまで毎日体育館に出てきている理由は何か。頭を切り替えるよう吠えられて、影山は大慌てでスプーンを動かした。
 残すのは勿体ないから、急いで食べきるつもりらしい。
 焦って掻きこんでいる姿は滑稽で、見ていた日向はつい笑ってしまった。
 後ろでは、空になったガラスの器が集められていた。これもまた、烏養が自宅から持ち込んできたものらしく、洗って返却するまでがマネージャーの仕事だった。
「急がなくていいから」
「ッス」
 日向の分を回収しに来た清水が、まだ食べている影山に優しく言う。
 最初こそ勢いが良かった彼だけれど、冷たさに頭がキーンと来たらしく、途中から進みが一気に遅くなっていた。
 これでは練習再開に、ギリギリ間に合わないかもしれない。
 既にアップを始めている部員たちを見て、日向もそちらへ混じるべく、片足を浮かせた。
 しかし彼は、何故か踏み出すべき一歩を戻した。背筋を伸ばして意味深に笑い、こめかみを叩いているチームメイトにはにかんだ。
「影山」
「あ?」
「ほら。まっかっか」
 かき氷が初めてなら、これも知らない可能性がある。
 ふと思って、日向は自分を指差し、舌をべろん、と伸ばした。
 イチゴ色のシロップをたっぷりかけたから、その色素が舌の表面に沈着してた。
 夏祭りの夜、友人らとこうやってよく見せ合った。元から赤い舌だけれど、それが一層強まって、毒々しい感じになるのが面白かった。
「気持ち悪りぃ色だな」
「お前のだって、青くなってんぞ?」
「ゲッ、マジか」
「まじまじ」
 案の定影山は嫌がったが、教えられて顔まで青くなった。スプーンで掬ったばかりの氷を器に戻して、恐る恐る舌を出せば、日向の笑い声はより大きく響いた。
 腹を抱えて足を踏み鳴らして、チームメイトは何事かと振り返った。
「どった?」
「いえ……」
 ただ訊かれても、答え辛い。どれだけ青いのか、自分で見られないのも影山を苦しめた。
 鏡があれば良かったのだが、体育館にあるわけもなく。
「影山君、もう良い?」
「あ、ああ。悪い」
 そこへ谷地が器を回収しにやってきて、両手を揃えて差し出した。
 まだ二口分ほど残っていたものの、これ以上食べる気になれない。彼は大人しく容器を手渡し、色の変化を気にして唇を掻いた。
「見て、谷地さん。真っ赤」
「あはは、すごいね。日向の。影山君も、青くなってる」
 後でトイレに行って、確かめてこようか。
 気になって仕方がない影山は、谷地にまで言われて渋面を作った。
 自分の身体なのに、本人に見えないのが余程腹立たしいらしい。変なところで拗ねている仲間に苦笑を漏らして、彼女は嗚呼、と小さく頷いた。
「赤と青って、混ぜたら紫になるんだけど。これも、そうなのかな」
 青い汁が入った器を揺らしつつ、谷地が呟く。
 二種類以上の絵具を混ぜると色が変わるのは、ふたりも知っていた。顔を見合わせた彼らは、片付けられつつあるかき氷シロップに目をやって、緩慢に頷いた。
「へー、面白そう」
「試すか?」
「でもちょっと、勿体ないかな」
 食べ物で遊ぶなと、澤村も先ほど言っていた。
 けれど好奇心を擽られ、単純な男子はそわっと落ち着かない。谷地が遠慮を申し出ても、ふたりの決意は覆らなかった。
 但しかき氷シロップは、武田が回収済みだ。
 今からあれを借りて、実験するにしても、氷がない状態では難しかった。
「いや、うん。日向」
「んぬ?」
「ちょっと舌、出せ」
 挑戦するのは、また今度。
 そういう方向に話が流れようとした矢先、ピンとひらめいた影山が小柄なミドルブロッカーを手招いた。
 疑うことを知らず、日向が言われた通り傍へ行く。そうして青い舌を見せながら言われて、首を捻った。
 舌は赤いのに、青色の色素が上に塗られていても、紫にならない。
 素材が違うからか、とぼんやり考えて、頭の出来が悪い少年は眉を顰めた。
「影山?」
「いーから」
 怪訝に名を呼ぶが、押し切られた。早くしろ、と後方から睨みを利かせる上級生を気にして、エースを夢見る少年は渋々、口を大きく開けた。
「ン」
 鼻から息を吐き、舌を広げ、伸ばす。
 瑞々しい赤色を視界に収め、直後。
 影山は何の躊躇もなく、青に染まった粘膜を、赤く色付く舌へ擦り付けた。
 ぐにゅ、と湿った感触がした。
 逃げる間もなく押し付けられて、日向の背中にゾワワッ、と悪寒が駆け抜けた。
 間近で目があった。
 ガゴン、と重いものが床に転がる音がした。
 間近で響いた騒音に、背筋が粟立った。心臓がぎゅっと縮こまって、凍り付いて動けなかった。
 瞬きも忘れて立ち尽くし、ブリキのおもちゃと化して首をギギギ、と回す。
 左側では手を空にした谷地が、顔面蒼白で硬直していた。
 彼女の足元に、ガラスの容器が転がっていた。幸い、割れてはいない。しかしスプーンは明後日の方向へ吹き飛び、青い汁が茶色い床に広がっていた。
 白い体育館シューズにも、青色が散っていた。それを拭いもせず、部で最も小さい少女は両手で顔を覆い、ムンクの叫び宜しく身を捩った。
「ひぃぃぃぃ。すみません、すみません。私は何も見ていません!」
 吹き飛びそうな勢いで首を振って、喚き、今度は真っ赤になって湯気を噴く。
「これで、紫に」
「なるかボゲェ!」
「ぐあっ」
 そのまま蹲ってしまった谷地に、影山は一切空気を読まない。
 赤に触れた青い舌を指差しつつ当惑する彼に、日向はたまらずチョップを喰らわせた。続けて蹴りも入れて、皆が見ている前で大声で吼えた。
 赤と青を混ぜる事を優先させて、自分が今、何をしたのか、本気で分かっていない。
 どこまで馬鹿なのかと憤慨して、日向もまた煙を噴き、痛がる影山に飛びかかった。
 どたばたと、彼らはなにかと騒がしい。
 青筋を立てている澤村が怒鳴り声をあげるまで、残り時間は、あと三秒。

2015/8/11 脱稿