Cinnabar

 まるで酔っ払いだった。
「ひっく」
 突然真横から、いやに裏返った奇妙な声が聞こえて来た。耳慣れた声色とはかなり違っていて、彼はこんな高い音も出せるのかと、日向は驚き、目を見開いた。
 もっともそれは、音を発した当人も同じだった。
 勢いよく振り返られ、影山は細い目を真ん丸に広げた。何が起きたのかと、自分の喉に手を当てて、絶句して暫く黙りこんだ。
 しかし。
「ひっ、く」
 先ほどよりは幾ばくか落ち着いた、けれど矢張り奇怪なトーンの音が漏れて、肩まで一緒に跳ね上がった。
 喉仏を覆っていた手まで高く弾み、そのまま宙を滑って落ちて行った。胸元を掻いて腕を垂らして、影山はきょとんとしたまま目を白黒させた。
 唐突だった。
 予兆は何一つなくて、ずっと一緒だった日向も驚愕に言葉がなかった。
 今の声はなにか、と訊かれたら、しゃっくり、と答えるしかない。それ以外に考えられず、他に正解と思しきものはなかった。
「だ、だいじょぶ?」
「なんで、急に……っく」
 前触れもなしに襲って来たしゃっくりに、ふたりとも戸惑いが隠せない。日向は堪らず箸を持つ手を膝に下ろし、影山は自分に首を傾げて奥歯を噛み締めた。
 出そうになったしゃっくりを強引に噛み潰し、留めようとした。しかし完全には果たせず、行き場を失ったエネルギーが彼の身体を上下に弾ませた。
 床が揺れた気がした。前のめりになった姿勢を戻して、日向は箸の先に残っていたソースを舐めた。
「いきなりだな」
「ああ。なんでまた」
 同情をこめて呟けば、影山は間髪入れずに同意した。首肯して喉を撫で、止まっただろうかと深呼吸を繰り返す。
 しかし願いは虚しく、彼の肩は再び跳ね上がった。
「っ、く」
 吐息は苦しげで、喘いでいるようにも聞こえた。眉間の皺は深くなり、表情は一段と険しさを増した。
 子供が見たら、泣き出しそうな顔になっている。日向には見慣れた顰め面だが、今日は殊更恐ろしげだった。
 それもこれも、食事中に突如襲って来たしゃっくりの所為。
 部室でのんびり昼飯を食べていたふたりは肩を竦め、困ったものだと天を仰いだ。
 歴年の勇士が遺した染みが散見し、室内は外見以上に汚かった。元から男の巣であり、汗臭い運動部なのだから、それも致し方ないのだけれど。
 目立つ汚れを見せられても、掃除しようという気にならない。そうやって見逃すメンバーが多いから、年に一度の大掃除の際に、カビが生えた古雑誌が見つかったりするのだ。
 食べかすも散乱して、衛生面でもよろしくない。蟻が這い回るなど日常茶飯事だし、夏場などは黒くて素早い奴も、時々顔を出した。
 その度に誰かが悲鳴を上げ、主に菅原が駆除に走り回っていた。
 大人しそうな顔をして、あれで意外に度胸が据わっている。日向も虫は平気な方だが、月島などは飛び上がって逃げる側だった。
 それが面白くて、カマキリを捕まえて鞄に潜ませてやった事があった。結果は阿鼻叫喚で、悪戯が知れた後はこっぴどく叱られた。
 影山も、どちらかと言えば平気な側だ。気にしない、というか、自分に害がなければどうでもいい、というスタンスはある意味潔かった。
 彼については、本人が望んでも擦り寄って来ない、という一面もありそうだ。犬や猫といった小動物が好きなのに、何故か怖がられ、或いは威嚇されて、どれだけ人懐こい獣でさえ逃げる有様だった。
「止まりそう?」
「分か、……っンく、ねえ」
 弁当箱を膝に置き、影山が首を傾げて喉や胸を弄り回した。しかししゃっくりは一向に収まらず、度々中身が入っている弁当が揺れ動いた。
 このままだと、ひっくり返しかねない。
 危惧した彼は先に大事な食事を床に移し、紙パックの牛乳に口を付けた。
 ストローを前歯で軽く噛み、息と一緒に中身を吸い込む。ずごっ、と音がしたのはしゃっくりではなく、残量が少なかった所為だ。
 表面が盛大に凹んで、立方体が奇妙な形に歪んだ。
「……どう?」
 残っていた牛乳を一気に飲み干した彼に、日向が慎重に訊ねた。影山は潰れかけた紙パックを利き手に構え、しばらく沈黙してから首を横に振った。
「全然、だな」
 ゲップの代わりにしゃっくりが出て、飲んだばかりのものが逆流しそうになった。
 流石にそれは避けたい。口を固く噤んで堪えた彼の弁に、日向は他人事なのに辛そうな表情を作った。
 放っておいても、大事なかろう。けれど気になるし、なにより食べ辛かった。
「そういや、しゃっくりって、ずっと治らなかったら死ぬって、誰かが」
「怖ぇえ事言うんじゃ――ひっく」
 空になった容器を置いた影山を眺めていたら、ふと、遠い記憶が蘇った。
 あれは、いつ、誰に聞いた話だっただろう。
 小学校か、中学校で、矢張りクラスの誰かがしゃっくりに見舞われて、なかなか止まらなくて。あれこれ試した後に、同年代としては博識の生徒が、いやに畏まって言っていた気がする。
 その時も、影山のような反応があった。早く止めてくれと頼まれて、あれやこれやと試行錯誤しているうちにチャイムが鳴って。
 それから、果たしてどうなったのか。
 顛末が思い出せなくて、日向は苦笑した。影山は苦虫を噛み潰したような顔をして、なかなか静まってくれない腹に手を当てた。
 一抹の不安を覚えたか、顔色は優れない。
 怖がらせてしまったと反省して、日向は彼の太腿を叩いた。
「大丈夫だって。お前って、殺しても死なさそうだし」
「……それ、褒めてねえだろ」
「あ、やっぱし?」
 影山の神経の図太さは、折り紙つきだ。しゃっくりのひとつやふたつで野垂れ死ぬなど、とても思えなかった。
 若干貶しつつも励まして、日向は残っていた弁当のから揚げに手を伸ばした。
「そのうち治るって」
「だとい……っく、けど、な」
「ぷっ」
「笑ってんじゃねーよ」
 影山も箸を握り直し、食事を再開させた。しかし喋っている最中に、よりにもよってしゃっくりが出て、言葉は不自然な場所で区切られた。
 本人は辛いし、大変なのだが、傍から見る分には面白い。
 笑いを堪え切れなかった日向に憤慨して、影山は弁当箱の底を叩いた。
 箸の先でプラスチックを削り、こびりついていた米粒を剥いで口へ運ぶ。いつもの大食いの、早食いは鳴りを潜め、行動は控えめだった。
 変な真似をして噎せないように、慎重になっていた。食べる速度はかなり遅く、平常時の半分以下だった。
 お蔭で日向の方が、先に食べ終わってしまった。
 昼飯の量は、体格が随分異なるふたりであるが、ほぼ同等だった。
 市販されている弁当箱の中で最も大きいサイズに、隙間なく、ぎゅうぎゅうに。米は押し込まれ過ぎて密度が高く、箸を突き刺せば箱が浮きそうなくらいだった。
 勿論、そんな行儀の悪い真似はしない。
 今日も腹いっぱい食べられる幸せに感謝して、彼は両手を合わせて目を閉じた。
「気にしなきゃ、そのうち止まるって」
「うっせえ。そう言うテメーは、出来んのかよ」
「無理です」
「んじゃ言うな」
 ソース汚れまで綺麗に舐めとった弁当箱を片付け、箸箱と一緒にして大判の布に包む。
 元々は父のハンカチだった包み布の端を結んだ彼の楽観的意見に、影山は眉を顰め、取りつく島を与えなかった。
 一気に機嫌が悪くなった。あまり突き過ぎると、溜め込まれた鬱憤が爆発しかねない。
 火の粉が降りかかるのは遠慮したくて、日向は淡く微笑んで口を閉じた。
 片付けを継続して、黙々と手を動かす。鞄を引き寄せて空いたスペースに包みを押し込み、邪魔な荷物は端に寄せて、凹凸が極力少なくなるよう配置を修正する。
 忙しない彼を一瞥して、影山は自分の所為で気まずくなったのを自覚し、小鼻を膨らませた。
 怒っているわけではないのだが、そう捉えられても仕方がない。
 匙加減が難しいと臍を曲げて、彼は残り少なくなった弁当を一気に貪り食った。
 速度を上げ、追い込みに掛かる。ところが突然の勢いに吃驚したのか、横隔膜が激しくひきつけを起こした。
「んぐっ、ぅえ、ごふっ」
「ぎゃあっ」
 咀嚼もそこそこに飲みこんだものだから、喉に詰まった上に、運悪くしゃっくりのタイミングが重なった。咄嗟に左手で口を塞ぐが咳は止まらず、指の隙間から散った米粒を浴びせられ、日向は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
 仰け反り、右肩から床に倒れ込む。
 大仰過ぎる驚き具合は失礼極まりないが、致し方ないとも思えて責められない。なにせ影山の掌は中央部分がぐっしょり濡れて、鼻水までこびりついていた。
 汚らしい顔に、日向が引き攣り笑いを浮かべた。
「貸してやるから、拭けよ」
「……おう」
 寝転んだまま鞄からタオルを取り出し、投げて渡す。影山は空中で難なくキャッチして、ずび、と鼻を啜った。
 真っ先に手を拭いた彼に肩を竦め、日向は崩していた脚を整えた。胡坐を掻いて床に座り直し、未だしゃっくりの勢いが衰えない影山に相好を崩す。
 そうしておもむろに、膝立ちになって。
「わっ!」
 口元を拭いていた影山目掛け、両手を広げて声を張り上げた。
「……なにやってんだ?」
 しかし反応は、限りなくゼロに等しかった。
 顔の横でうねうねさせていた指を握り、日向はがっくりと肩を落とした。至って冷静にツッコミを返されて、急に自分が恥ずかしくなった。
「いや、だって」
 しゃっくりを止める常套手段は、相手を驚かせる事だ。
 原理は良く分からないが、昔からそう言われていた。日向自身、友人にやられたことがあったし、逆に試した事もあった。
 それで本当に止まったかと言われたら、首を傾げるしかない。
 けれど何もせずに放置するよりは、実践してみるのが吉だった。
 但し、影山には通じなかった。
 胸の前で人差し指を小突き合わせ、日向はもじもじと身を捩った。羞恥心を堪えて口を尖らせ、またもや肩を跳ね上げた男にため息を零す。
「ダメかあ」
 失敗だった。
 やるのではなかった、と後悔に襲われて、彼は浮かせていた尻を戻した。
「つか、そういう、のって、っく。不意打ち、じゃ、ねーと。ひくっ、意味、ないだろ」
 頻繁にしゃっくりが会話の邪魔をするので、彼の言葉は細切れだった。
 一言一句を短く区切り、スロー再生のように喋る。必要以上に過剰な対応をしている彼に、日向はそれもそうだ、と頷いた。
「驚かせるって、結構難しいなー」
 後ろから突然飛びかかろうにも、部屋の中では無理だ。
 日向が移動すれば、影山は目で追いかける。隙を狙おうにも限界があった。
 最初から驚かせよう、という魂胆が見え見えだから、効果は期待できない。たとえば相手の息を止めるほどの事を口にするなら、話は変わってくるけれど。
「うーん」
 妙案はないかと頭を捻り、日向はぽん、と手を打った。
「日向?」
「あのさ、影山。おれって、実は、その」
 なにかアイデアが浮かんだのか、影山も興味津々に背筋を伸ばした。
 期待の眼差しを向けられて、日向は人差し指を立て、指先を回しながら語り出したのだが。
 途中で彼は言葉に詰まり、顔色を悪くしてだらだら脂汗を流し始めた。
「……おい?」
「――ごめん。やっぱなんでもない」
「なんなんだよ」
 目は泳ぎ、表情は虚ろだった。心配になって呼びかければ、日向は両手で顔を覆い、気にしないでくれるよう頭を下げた。
 そんな事を言われても、気になるものは、気になる。
 やりかけて途中で止めるな、と声高に責められて、日向は鼻をスピスピ言わせて奥歯を噛んだ。
「いや、さあ。お前がビックリすることって、なんだろうって」
 詰問されて、逃げられない。実行する前に失敗に終わったアイデアは、最初こそ他にないと思えたが、いざ口を開いてみると、どうしても言えない台詞のオンパレードだった。
 影山を驚かせるなど、簡単だ。
 嘘を言って、騙せばいい。
 そう意気込んでいたのに、日向の方が先に白旗を振ってしまった。
「お前の事、嫌い、とか。ウソでも言えねえだろ」
「……言ってるじゃねーか」
「お前が言わせたんだろ!」
 正直に小声で答えれば、一瞬の間を置き、影山が揚げ足を取ろうとして失敗した。
 言わなければ酷いと、無言で脅したから告白したのに。
 これでは恥の上塗りだと赤くなって、日向は半泣きで怒鳴った。
 鼻息荒くして、再度膝立ちになって肩で息を整える。フー、フー、と獣のような呼気を呆然と見上げて、影山は頬に散った唾を拭った。
 そして。
「……っそ、それもそうか」
 今頃になって発言の真意を理解したのか、ボッと火が点いたように真っ赤になった。
 日向以上に朱色を強め、耳まで鮮やかに染めて下を向く。露わになった襟足もほんのり紅色なのを確かめて、日向はようやく溜飲を下げた。
 冗談でも、言えるわけがなかった。
「影山の、ボケ」
「悪かった。怒んな」
「ふーんだ。影山なんか、もう知らないしー」
 バレーボールが好きで、バレーボールがしたくて烏野高校に来た。
 夢にまで見たユニフォームを着て、コートの中でも、外でも、最高のパートナーを手に入れた。
 感情が爆発して、想いは留めきれなかった。溢れた分も、そうでない部分も汲み取って、掬い上げてくれたのが影山だった。
 彼が好きだ。
 しゃっくりを止める為、驚かせる為の嘘だとしても、想いと反対のことは口に出来なかった。
 理解が遅い男に腹を立て、そっぽを向いて膨れ面を作る。影山は困った顔で頭を掻いて、日向の方ににじり寄った。
 両手を床に添えて四つん這いになり、機嫌を直してくれるよう、姿勢を低くして頼み込む。
「日向」
 彼に嫌われたら、もう生きていけない。
 そんな事さえ平然と口にする真摯さで見つめられては、流石の日向も、怒りを維持するのは難しかった。
 鈍感だし、救いようのないバカだし、我儘で横暴なところもあるけれど、一本気で、愚直で、嘘を吐かない。
 体当たりでぶつけられる感情は時に許容量を超えていて、吹き飛ばされそうになるけれど、日向は彼が大好きだった。
 堪らなく、愛おしかった。
「ったく、もー……お?」
 心を貫く眼差しに照れて、首を竦めて火照る頬を押さえる。最中に忘れかけていたことを思い出し、日向は素早く瞬きした。
 思考を一瞬で切り替えた彼に、影山も怪訝にしつつ、姿勢を正した。
「ひなた?」
「影山、お前、しゃっくり止まった?」
「んん?」
 改まって名を呼べば、低い声で指摘された。言われて合点が行った影山は目を丸くして、そういえば、と胸を撫でた。
 制服の皺を押し潰し、安定した呼吸に顔を紅潮させる。先ほどまで意識の大半を占めていたしゃっくりは、いつの間にか彼の元を離れていた。
 今度こそ驚かされて、彼は興奮気味に口角を持ち上げた。
「すげえな、日向」
「おれ、なんにもしてないけどな?」
 感嘆し、手放しに褒め称える。賞賛を受けた方は恐縮し、気恥ずかしげに耳の後ろを掻いた。
 ところが、だ。
「……っぃ、く」
「おりょ?」
 止まった、と喜んだのも束の間だった。
 突如影山が顔を伏したかと思えば、短く詰まった息を吐いた。
 屈強な肩を細かく震わせて、瞬間的に膨らんだ腹を即座に引込める。前歯の隙間から漏れた息は裏返り、彼らしからぬ可愛さだった。
 日向も、影山自身も絶句して、双方暫く無言だった。
「ダメ、か」
 収まったと思ったが、ぬか喜びだった。人を振り回した挙句、安心させたところで突き落すとは、このしゃっくりはかなりの手練れと思われた。
 落胆し、前髪を梳き上げる。時計を見れば昼休みは残り十五分を切っており、このままだと午後の授業まで長引きそうだった。
 下手をすれば、放課後の練習中もしゃっくり地獄に見舞われるかもしれない。
 大いにあり得る可能性に、彼は陰鬱な気分で嘆息した。
「なんとかなんねーのかよ、これ」
 授業中ならともかく、練習中は止まって欲しかった。これでは気が散って、周囲も集中出来ないだろう。
 迷惑甚だしく、鬱陶しい事この上ない。
 苛立ちを募らせる彼を眺め、日向は乾いた笑みを浮かべた。
「そうは言われても……」
 他に、しゃっくりに有効な手立てはあっただろうか。
「えーっと、そうだ。影山。なすびって何色?」
「はあ? なんだ急に」
「良いから」
「茄子だろ。紫じゃねーの」
「しゃっくりは?」
「は? ひぁっ、く」
「ダメかー」
「おい。なんなんだよ」
 記憶を手繰り寄せ、そういえば、と手を叩く。早速試してみるが、効果はなかった。
 茄子の色で悩んでいるうちに、しゃっくりが止まると聞いていたのだが。影山は迷うことなく即答して、日向をがっかりさせた。
 詳しい説明もないまま片付けられて、影山は怒り心頭だった。
 憤慨し、ぷんすかと煙を噴く。空を殴る拳を躱して、日向は脚を崩して姿勢を変えた。
 立てた膝に顎を置き、行き場をなくした指は乾いた畳を這った。
「あとはー、コップに箸を置いて。その隙間から水を飲む、とか……だけど」
 知識は限られており、どれが一番効果的かも分からない。そもそもこの部屋には、コップなど存在しなかった。
 坂ノ下商店に行けば紙コップなら手に入るが、必要なのは一個だけだ。十個も、二十個もまとめて買って、残りを余らせるなど勿体ない。
 八方塞がりで、お手上げだと首を振る。
 日向以上に知恵を持ち合わせていない影山は、渋い顔で項垂れた。
「もー、諦めっか……」
 打つ手なしだ。あとは自然に収まってくれるのを、ひたすら願うのみ。
「そのうち止まるだろ」
 日向も同意して、あっけらかんと言い放った。最初に放っておけば死ぬだとか、物騒なことを言い出したのは彼なのに、その件についてはもう忘れたようだった。
 呵々と笑われ、影山は肩の力を抜いた。一瞬出そうになったしゃっくりは喉のところで引き留めて、身体は震えたものの、音を漏らさないのには成功した。
 大きく身震いした彼に苦笑して、日向は彼に貸しっ放しだったタオルを手繰り寄せた。
「まあ、がんばれ」
「言われなくても」
 濡れている面を内側にして折り畳み、よく分からないエールで影山を励ます。当人も不必要に己を鼓舞し、直後にしゃっくりに襲われて息を詰まらせた。
 相変わらず、空気を読むのが上手いしゃっくりだ。
 影山本人もこれくらい雰囲気に敏感であったなら、もう少し世の中を巧く渡り歩いていけただろうに。
 呵々と笑い、日向はタオルを鞄に押し込んだ。影山も弁当箱を重ね、専用の袋に片付けた。
 最後に牛乳パックに手を付けるものの、中身はとっくの昔に空だ。
「チッ」
 分かっていたのに舌打ちして、彼は揺らしても音がしない容器を床に戻した。
 その手を、上から押さえつけて。
「ン?」
 油断している影山に向けて身を乗り出し、日向は首を伸ばして目を閉じた。
 片腕で彼の動きを封じ込め、狙いを定めて口を窄ませる。
 ふにゅ、という感触が一瞬だけ広がって、熱を浴びせられた影山は呆気に取られて目を丸くした。
 即座に姿勢を戻し、日向は更に膝立ちで二歩後退して尻を落とした。
「うへへ。隙あり」
 惚けて反応出来ずにいる影山を見詰め、歯を見せてしどけなく笑う。照れが混じった頬は熱を帯び、紅色に艶めいていた。
 悪戯が成功したと喜んで、子供のようにはしゃいでいた。
 影山はぽかんとしたまま凍り付き、錆びついたブリキの人形宜しく、ぎこちない動きで今し方触れられた場所を撫でた。
 唇の、右。
 あと少しで正面衝突するところだったのに、残念ながら僅かに逸れてしまったくちづけに。
「うん?」
 凍り付いたまま何のリアクションも返さない彼に、日向は眉を顰め、首を傾げた。
「びっくり、した?」
 実はしゃっくりを止めるのを、まだ諦めていなかった。
 話題を変えて、意識が他に逸れるのを待って、程よくスパイスが利いた不意打ちをお見舞い出来た、と思った。
 それなのに影山が瞬きさえ止めてしまって、指一本も動かそうとしないから。
 急に不安になって、日向は恐る恐る、彼の方に擦り寄った。
 それを狙って。
「なにやってんだ、テメーは!」
「ぎゃああ!」
 良かれと思ったのに吼えられて、襟首を引っ掴まれた日向は悲鳴を上げた。
 外にまで響く大声で叫び、ようやく時間が動き出した影山に頬を引き攣らせる。彼の目は異様なまでに血走って、鼻の孔は興奮で膨らんでいた。
 無駄に熱い呼気を浴びせられて、日向は言い訳を探して目を泳がせた。
「だ、だって。……ほら。止まったろ?」
 しどろもどろに捲し立て、人差し指でくるくる円を描く。
 指摘を受けた影山は指先の力を僅かに緩め、日向を解放して己の喉を撫でた。
 そういえば、そうだ。
 あれだけ人を悩ませたしゃっくりが、気が付けば尻尾を巻いて逃げ出していた。
 追いかけるが、遅かった。完全に見失ってしまって、もう追い付けなかった。
 床の上に瞳を這わせ、影山は喉仏を上下させて生唾を呑んだ。
「ひっ、く」
「……おい」
 確かこんな感じだったと、記憶に縋って肩を揺らす。
 だがこれが人工的なしゃっくりだというのは、日向でも看破可能だった。
 ぎこちなく、不自然だった。折角止まったしゃっくりを、鬱陶しがるどころか再度求める彼に、日向はげんなりして肩を落とした。
「止まってねえぞ」
「ウソつけ」
「嘘じゃねえよ。だから、今の、もう一回だ」
「ンなわけあるかー!」
 前言撤回、彼でも嘘は吐く。それも救いようのないレベルで下手なものを、だ。
 日向からのキスを欲しがり、しゃっくりの真似をして自分の頬を指差す。
 その手を容赦なく叩き落して、日向は懲りない馬鹿な恋人にチョップをお見舞いした。

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