杜若

 電話が鳴ったのは、夕食を終え、部屋に戻ってのんびりしていた時だった。
 食べ過ぎた腹はパンパンで、身体は重い。死に物狂いの練習と、自転車での帰宅で体力は底を尽いており、横になりでもしたら五秒で夢の世界へ旅立てそうだった。
 但し、ここで休むわけにはいかない。なにより風呂がまだで、試しに腕を顔に近付ければ、悪くなってしまった牛乳のような酸っぱい臭いがした。
 夏が近づくにつれて、この臭いは徐々に酷くなっていた。練習を終えた後の部室などは特に惨憺たるもので、悪臭に殺されるのでは、と危惧するレベルだった。
 どれだけ制汗スプレーを駆使しようと、消臭剤を振りまこうとも。
 結局は付け焼刃にしかならなくて、十分としないうちにフローラルな香りは消え失せてしまった。
 そんなだから、昼休みも部室に人が集まらない。誰かの汗だくのシャツが放置されていようものなら、翌朝には部屋中に香ばしい臭いが充満した。
 少し前まで、朝一番に登校するのが、密かな楽しみだった。
 誰よりも早く到着して、誰よりも早く練習を開始する。他の部員よりもスタート地点が遅かった自覚があるので、ひたすら励むしかないと心に誓っていた。
 けれど最近は、それがかなり苦行だった。
 饐えた臭いに満ち溢れた部屋のドアを開けるのが、どれほど恐ろしいか。完全に罰ゲームだと涙目になった回数は、既に四回を超えていた。
 誰も忘れ物をしなければいいのだけれど、世の中そんなに甘くない。それに日向自身も過去に持ち帰り損ねたことがあるので、おおっぴらに文句が言えなかった。
 早朝からの練習で手を抜きたくないし、けれどあの湿気が籠ってむわっとした空気を浴びるのは嫌だし。
 左右に揺れる天秤を頭上に掲げて、日向翔陽は顰め面で奥歯を噛み締めた。
 そんな時だった。
 床に投げ出した鞄の中から、けたたましい爆音が轟いたのは。
「うおっ」
 ベッドの上で唸っていた身としては、不意打ちも良いところだった。突然のことに驚かされて、小柄なミドルブロッカーは布団の上で飛び跳ねた。
 尻で弧を描き、着地と同時に左右を見回す。挙動不審に狼狽えてから音の発生源に思い至って、着信から五秒以上経った後、彼は鞄から携帯電話を引き抜いた。
 ブブブ、と激しく揺れる小型の端末では、青色のライトが騒々しく明滅していた。喧しい場所でも気付けるよう、音量を最大にしていた着信音も、家の中では邪魔なだけだった。
 帰宅前に、解除しておくのだった。
 軽い後悔に苛まれつつ、日向は歯を食い縛って揺れ動く機械を握りしめた。
「だ、誰、だろ」
 鼻から息を吸い、悩む間もなく折り畳まれている端末を開く。
 親指を隙間に押し込んで上へ滑らせれば、内部に仕込まれているバネでも起動したのか、黒色の機械は一瞬で縦長になった。
 上半分には液晶画面が、下半分には数字や文字が記されたボタンが。
 いまどき珍しい、とまで言われてしまう通話主体のフューチャーフォンを握りしめて、彼は画面にでかでかと現れた文字に目を剥いた。
「もっ、もしもし!」
 脳が認識すると同時に、通話ボタンを押す。
 勢いよく右耳に上部のスピーカーを叩きつけた彼の声は、綺麗にひっくり返っていた。
 とても高校一年生の男子には聞こえない声だった。
 頭の天辺から飛び出して来たのでは、と言いたくなる甲高さにひとり照れて、日向は苦虫を噛み潰したような顔をした。
『大丈夫?』
 気恥ずかしさに次の言葉を躊躇していたら、ハイトーン過ぎる返事を心配された。
 それで余計にいたたまれなくなって、彼は額を押さえて丸くなった。
 着替えなどが散乱している部屋に膝を着き、勉強道具一式が詰め込まれたままの鞄を脇へと追い払う。
 本当は真面目に机に向かい、宿題に勤しまなければならない。だがそういう気分ではなくて、なるべく見ないようにしていた。
 開け放った鞄の上部からはみ出ている物から目を逸らして、日向は膝を揃えると、正座して窓へと向き直った。
 そちらが南だから、つまりは通話相手のいる方角だ。
 正確には南西なのだけれど、細かいことは考えない。ほんの少し鼻息を荒くして、彼は気持ちを切り替えて首を振った。
「だい、ジョーブ。研磨こそ、どうしたの?」
 日本人でありながら若干不安な発音で応じて、背筋はピンと伸ばす。
 畏まったところで相手には見えないけれど、心構えが大事だと自分に言い聞かせ、日向は窓から見えた月明かりに目を細めた。
 孤爪研磨は、不思議な縁で知り合った相手だった。
 ただの練習試合の相手だったはずが、気が付けば深く心に住み着いて、永遠に忘れられない存在になっていた。
 先輩であり、友人であり、ライバル。
 住んでいる場所が離れているのであまり頻繁には会えないけれど、科学文明が発達した昨今、こうやって電話で気軽に話せるし、メールで近況を報告し合うのも簡単だった。
 もっとも電話の方は、通話料が安くないので、それほど頻度は高くない。
 こんな風に前もっての連絡なしに掛かってくるのは、稀だった。
 行き違いがないように、大抵の場合、電話をしても良いか問うメールが先に届いた。もしかしたら見落としていただろうかと気になって、日向は耳にべったり張り付けていた端末を引き離した。
『……うん。なんとなく』
 けれど確かめる前に、あっさり告白された。
 特に理由もなければ、用があったのでもない。そう教えられて、彼は不思議な心持ちで頷いた。
「なんとなく?」
 それは実に曖昧で、漠然とした答えだった。
 気が向いたから、実行に移した。それだけだと言われても、すぐには納得出来なかった。
 本当に、そうだろうか。
 信じていないわけではないけれど、疑問が湧き起って、日向は膝に置いた左手を軽く握りしめた。
 ショートパンツの裾を捏ね、指に絡める。剥き出しの太腿に爪が当たり、白い筋が浮かんで、消えた。
『そう。なんとなく、翔陽の声、聴きたくなった』
 直後、日向の身体がべったり床に張り付いた。足を左右に広げて尻を落とし、上半身も前方に投げ出して腹這いになった。
 まるで五体投地だ。
 遠い昔、なにかのドキュメンタリー番組でやっていた祈りの姿勢を真似て、日向は不意打ちを喰らってくらくらする頭を抱え込んだ。
「けんま~~~」
『なに?』
 起き上がるのも面倒で、そのまま床に横になる。
 仰向けで大の字になって、日向は恨めし気に口を尖らせた。
 元々赤かった顔が更に色味を増して、身体の芯が燃え盛るように熱かった。帰宅直後の体温を取り戻して脂汗を流し、彼は鼻を愚図らせて罪深い男に頬を膨らませた。
 もっとも、そんな顔をしたところで、孤爪には見えない。
 不満を訴えても伝わらなくて、日向は下唇を噛み締めた。
 きっと電話の向こうで、孤爪はきょとんと首を傾げているに違いない。
 今の台詞は、十トン爆弾よりも強烈だった。それなのに言った本人にその自覚がないのだから、どれだけ文句を並べても通用しなかった。
 自分ひとりが恥ずかしがって、嬉しがって、喜んでいる。
 練習の疲れが吹き飛ぶ台詞を耳に閉じ込め、日向はごろん、と寝返りを打った。
 畳敷きであるが、ベッドに比べれば寝心地は悪い。しかも整理整頓が行き届かず、色々なものが落ちているので、予期せぬ痛みを覚える場合もあった。
「いって」
『翔陽?』
「なんでもない」
 先ほど遠ざけた、教科書入りの鞄を蹴ってしまい、小指が痺れた。
 打ち所が悪くて声が出てしまって、日向は慌てて言い訳すると、無事な方の足に痛む指を擦り付けた。
 そんなことをしても傷は癒えないが、何もせずにじっと耐えるなど出来ない。落ち着きなくもぞもぞ身じろいで、彼はなかなか弾まない会話に小鼻を膨らませた。
 そもそも孤爪は、あまり口数が多くない。
 だから電話でも、メールでも、大抵の場合は日向の方が多弁だった。
 自分から話題を提供しないと先に進めないのに、先ほどの余韻もあって、巧く言葉が出て来なかった。
 そっちはどれくらい暑いのか。
 チームの仕上がり具合はどうか。
 リエーフや、犬岡たちは元気にしているか。
 近いうちにまたそちらに行くが、土産は何がいいか。
 聞きたいことは色々あるのに、どれも敢えて声に出すほどのものでもない。後日メールで尋ねても良い内容ばかりで、折角の電話なのに勿体ない、と思ってしまった。
 そうなると益々、何を喋ればいいか分からない。
 眉間に皺を寄せて渋面を作って、日向は天井の染みを睨みつけた。
『翔陽?』
「っは。ごめん。えっと、ぅあ……の」
 悩んでいたら、黙り込んでいた。
 掠れる小声で名前を呼ばれて、彼は弾かれたように身を起こした。
『忙しかった?』
 勢い余って前に倒れそうになったのを耐え、聞こえた質問にはぶんぶん首を振る。
 もっともそれが孤爪に見えるわけもなく、声に出さないと当然伝わらなかった。
「ぜっ、じぇんじぇん!」
『……ぷっ』
 だからと焦っていたら、発音がおかしくなった。
 舌が回り切らない返答に孤爪は噴き出して、しばらくの間、携帯電話からは彼の笑い声だけが聞こえて来た。
 腹でも抱えているのだろうか。
 様子を想像して拗ねた顔をして、日向は胡坐を作って足の裏をぶつけ合わせた。
「研磨、笑い過ぎ」
『ごめん、翔陽。だって』
 文句を言っても、なかなか笑い止んでくれない。
 そこまでツボに入るものだったかと眉目を顰め、彼は首を振って肩の力を抜いた。
 孤爪はゲームが好きで、いつも携帯用のゲーム機で遊んでいた。その腕前は、日向はやらないので良く分からないが、人並み外れたものであるらしい。
 熱中するものがあるのは良い事かもしれないが、小さな画面に夢中になっている彼を見るのは、少し複雑だった。
 自分はここに居るのに、別のところばかり見て、意識を傾けて。
 楽しくお喋りをしたいのに、こちらを見てくれないと、巧く話せない。
 悲しくなって泣きそうになってしまった日もあって、思えばあれ以来、孤爪は日向の前であまりゲームをしなくなった。
 背中を丸めて手元ばかりに集中していた彼が、電話を片手に笑いを堪えている。
 あの頃に比べれば、驚くべき進歩に違いなかった。
「ちぇ」
 仕方がないので、許してやろう。
 舌打ちして愁眉を開いた日向の独白に合わせたかのように、孤爪も幾分落ち着きを取り戻した。
『……一年分くらい、笑った気がする』
「そんなバカな」
『本当』
「だめだって、研磨。もっと笑わないと。健康に良くないって、誰かが言ってた」
 それもまた、大昔にテレビで見た情報だった。
 どういう風に良いのかは難し過ぎて覚えていないものの、笑うのが長寿の秘訣だと、皺くちゃの老人が言っていた。それだけは鮮明に記憶に残っていて、今の発言に繋がった。
 だけれど孤爪からの返答はすぐには得られなくて、妙な沈黙がふたりの間に生まれた。
「研磨?」
『べつに……いいし』
「だめだってー」
「にいちゃん。おふろー」
 催促して、語尾を上げ気味に呼びかける。
 ようやく会話が生まれた。後は水を与えて育んで行くだけ、という時に、後方から甲高い、可愛らしい声が高らかと響いた。
 開けっ放しだった襖を更に横に押し開いて、日向家の長女が敷居の上で仁王立ちしていた。両手は腰に当てて、着ているのは不思議なオコジョ柄のパジャマだった。
 オレンジ色の髪の毛はほんのり湿り、短い毛先がぴょん、と天を向いて跳ねていた。性格は兄に負けず劣らず勝気で、上から目線の表情は生意気だった。
「うげっ」
『翔陽?』
 膝丈のズボンで生足を晒し、日向夏が鼻から息を吐く。
 踏ん反り返った姿は母の生き写しでもあって、ひと回り年上の兄は露骨に顔を顰めた。
 嫌なタイミングで現れた。
 寝支度を終えた妹を振り返って青くなって、日向は電話口から聞こえた声にも奥歯を噛み鳴らした。
「夏、ちょっと待って。黙って」
「はやく、おふろ。にいちゃんが最後」
「分かってるから。うるさい」
「えー。なにそれ。せっかく呼びに来てあげたのにー」
 こちらは大事な電話中で、風呂どころではない。
 用件は分かったからさっさとリビングにでも戻るよう命令するが、言葉の選択を誤り、夏は反発して声を荒らげた。
 ただでさえ甲高いのに、それが一段階上に行った。
 頭に直接響く大声に顰め面を作って、日向はずんずん近付いてくる妹を手で追い払った。
 けれど、それで素直に従ってくれる相手ではない。
『ああ、じゃあ。翔陽、おれ、もう』
「いあ、あ。待って。まだ平気だし」
「にいちゃん、電話?」
 急に慌ただしくなった彼に、孤爪はピンと来るものがあったらしい。
 遠慮して通話を切ろうとした彼を急いで制するが、そちらに気を取られた隙に、妹の接近を許してしまった。
 身を乗り出した夏が、兄の手に握られたものを見て首を捻る。
 そして。
「やだー。にいちゃん、くさあい!」
 突如叫んだかと思えば、両手で鼻を押し潰した。
 顔の中心に手を重ね、その状態で後退された。心底嫌そうな悲鳴は当然、携帯電話も拾ってくれて、日向の耳にはまたしても「ぶっ」と噴き出す声が紛れ込んだ。
 確かにろくに汗を拭かないまま学校を出て、自転車で道を爆走してきた。
 家に着いて夕食を食べて、歯だって磨いていない。
 はっきり言って、不潔だった。放っておいたら閉め切られた部室のような、あんな悪臭がこの部屋にも立ち込めるだろう。
「夏!」
 想像して、ぞぞぞ、と悪寒が走った。妹にはっきり言われたのもショックで、日向は半泣きになって拳を振り上げた。
 孤爪にまで聞かれて、恥をかいた。臭いのが嫌なら近付いてこなければ良かったのだと逆ギレして、彼は逃げた妹の残像を殴り付けた。
 空を切った拳を解いて畳に押し当てて、荒い息を吐くが気が収まらない。
 夏は足音響かせ廊下に逃げて、出ていく直前、あっかんべーと舌を出した。
「にいちゃん、ばっちぃ」
「なつぅぅぅぅ!」
「こら、ふたりとも。なに騒いでるの。翔陽も、早くお風呂入っちゃいなさい」
「あああ、もおおおお!」
 面と向かって罵倒されて、頭に血が上った。
 孤爪との電話のことも一瞬忘れて吼えれば、時間も考えずに騒ぐ兄妹を叱り、母親が割り込んできた。
 階下からでもはっきり聞こえる大音響に、我慢も限界だった。
 癇癪を爆発させて膝を殴って、日向は痛みを堪えて丸くなった。
『にぎやかだね』
「もう、好きなだけ笑えばー?」
 穴があったら入りたかった。
 日向家の日常を知られて、格好がつかない。いつもこの調子なのかと訊かれて頷いて、彼は着ていたシャツの襟を引っ張った。
 そこまで酷いかと嗅ごうとして、鼻先に持って行く前にぷぅん、と香ったのに眉を顰める。
「うぐ」
『そんなに?』
 堪らず呻けば、孤爪に訊かれた。しかもその声は今までより若干音量が大きくて、いやにはっきり耳に響いた。
 まるで身を乗り出して来られた気分だった。現実には遠く離れた場所にいるのに、すぐそこで囁かれた感じだった。
 上下に貼り付いた唇が剥がれる際の微かなノイズ、鼻息、そういったものまで聞こえて来た。目を瞑ればより強く意識させられて、日向は暑さを覚えて胸を掴んだ。
 シャツに爪を立てて掻き毟り、何の役にも立たない制汗剤メーカーへの愚痴を漏らす。
「だ、だって。しょーがないじゃん。体育館、暑いんだし!」
 一回で瓶を空にしても、少しも爽やかになれない。
 上半身裸で喚く田中や西谷を思い返しつつ吼えて、彼はタコのように口を尖らせた。
『宮城、涼しそうなのに』
「動いてたら関係ないし、研磨だって。違うの?」
『うち、……冷房入ってる』
「えー。なーんでー。いーなー!」
 東北の一県とはいえ、夏は相応に暑い。勝手な思い込みで決めるなと声を荒らげ、日向は駄々を捏ねて床を踏み鳴らした。
 踵を交互に上下させて暴れていたら、それも五月蠅かったらしい。
「翔陽、お湯抜いちゃうわよ!」
 またしても母の怒号が家中に響き渡り、彼の動きはピタリと止まった。
 呼吸さえ止めて、五秒してから安堵の息を吐く。
 時計を見れば、もうかなり良い時間だった。
 早く色々済ませないと、今日中に寝床に入れない。床に放り出されたままの鞄も一瞥して、日向は深々とため息を零した。
「音駒、いいな。ずるい」
『翔陽もこっち、来ればいいじゃない』
「もうちょっとしたら行くけど?」
『…………そうだね』
「研磨?」
 首を捻りながら言い返せば、相槌までに随分と間があった。
 声のトーンも幾分下がった孤爪に眉を顰めるものの、彼は二度とこの話題に触れなかった。
 代わりに嘆息をひとつ挟んで、衣擦れの音を響かせた。
 姿勢を変えたのだろう。様子を想像して、日向は皺らだけのシャツを撫でた。
『ね、翔陽』
「うん」
『今度、嗅がせて』
「うん、いいよ。……――って、なにを!?」
 淡々と告げられて、淡々と答える。
 深く考えないまま承諾を伝えて、その直後に我に返った。目を真ん丸に見開いて、日向は信じ難い提案に素っ頓狂な声を上げた。
 携帯電話を耳から引き剥がし、真っ暗になっていた画面にも驚く。まさか通話が切れたかと疑ったが、単に時間が経過して、省電力モードに入っただけだった。
 再度耳に近付ければ、ちゃんと音がした。そこにまずホッとして、直前の言葉を思い出してまた赤くなる。
 頭の中でヤカンが沸騰していた。耳から湯気が出そうになって、彼は熱くて堪らない頬を左手で押さえこんだ。
「研磨、寝ぼけてる?」
『ううん。だって、気になるし』
 念のために訊ねるが、敢え無く否定された。言い間違いでもないと改めて念押しされて、脳みそが茹で上がりそうだった。
 風呂に入る前から、逆上せている。
 変なことを言い出した友人に唖然としていたら、受話口から、すん、と呼吸音とは異なる雑音が流れて来た。
 それがどういう類のものか、一瞬で理解出来た。
 耐えきれなくて身を捩って、日向は半泣きで汗だくのシャツを引っ掻いた。
 片手で脱ごうとしたけれど、巧くいかない。湿った布が肘に引っかかって袖が抜けず、もがいているうちに、何度か音を繰り返した孤爪がため息を吐いた。
『声だけじゃなくて、匂いも繋がればいいのに』
 スマートフォンに鼻を近づけ、臭わないか嗅いでいたのだ。
 そんな機能、実装されているわけがない。試したけれど駄目だったと残念がる彼の真意が、日向にはまるで分からなかった。
 混乱して、頭がぐちゃぐちゃだった。布の塊が鼻先に近付いた分だけ悪臭も強まり、我慢出来なかった日向は脱ぐのを諦めてシャツの裾を引っ張った。
 新鮮な空気を口から集め、ぜいぜい言って、鼻を愚図らせる。
「もう、おれ。風呂いくから。切るな!」
 ついさっきは、電話を切ろうとした孤爪を引き留めたのに。
 撤回して、叫んで、返事も待たずに通話終了のボタンを押す。
 機械が壊れそうなくらいに力を込めて捻じ伏せて、日向は前屈みの体勢のまま、数秒間停止した。
 ぷしゅん、と煙が出た。
 信じられないひと言が、いつまで経っても頭から離れなかった。
「変なこと言わないでよ~~~」
 呻き、喚いて、彼は沈黙する携帯電話を放り投げた。折り畳みもせず床に転がして、自分自身も寝転がって、ジタバタと悶えながら芋虫と化して丸くなる。
 孤爪が鼻を鳴らしているイメージが、どうやっても拭えなかった。
 まだ彼が耳元にいて、汗の匂いを嗅ごうとしている気配が感じられた。
 信じられない。
 どうかしている。
「そんなの、……臭いだけに決まってんじゃん」
 いったい何を求め、彼はあんなことを言ったのか。
 考えれば考えるほどドツボに嵌ってしまって、日向は十分後に母が呼びに来るまで、ずっと床に蹲り続けた。

2015/6/10 脱稿