果てはいかにかならむとすらむ

 目覚めた時、屋敷の中は蛻の空だった。
「誰も、いない」
 手入れ部屋から続く廊下は静まり返り、動くものの気配は皆無だった。耳を澄ましても賑やかな声は聞こえず、演練場で鍛錬に励む掛け声すら響いてこなかった。
 昼間に大勢集まっている縁側の部屋を訪ねても、人の姿は見つからない。更に足を運び、炊事場を覗いても、結果は同じだった。
 人っ子一人、居やしない。
 もっともこの屋敷で暮らす者の数は、未だ二桁に届いていなかった。
 いずれもっと増えるからと、部屋だけは無駄に多い。余り過ぎて掃除が大変だとの弁は、毎日のように耳にしていた。
 嫌ならやらなければいいものを、気になるからと言って聞かない。台所仕事も率先してこなしている男ですら、今は屋敷を離れていた。
 いったい、どこへ行ってしまったのか。
 人に訊ねてみようにも、聞ける相手が居ないのでは手の施しようがない。八方塞がりだと肩を竦め、小夜左文字は土間の水瓶に近付いた。
 茶色い素焼きの甕には、木の蓋が宛がわれていた。その上には中身を掬う為の柄杓が、逆さにして添えられていた。
 いちいち井戸まで汲みに行くのは面倒だからと、煮炊きに使う水は此処に備蓄されていた。
 柄杓ごと蓋を持ち上げれば、中ほどより高い位置に水面があった。覗き込んでも底が見えないのは、甕が小夜左文字の胸程の高さまであるのと、土間自体が薄暗い所為だった。
 即席の鏡となった甕から一旦顔を上げ、彼は視線を彷徨わせた。
 調理場の隅には棚があり、住人である刀剣たちが使う食器類が片付けられていた。並び順については、台所の主たる男の趣向が大きく反映されているのか、器の種類や大きさ別に分類されていた。
「届く、か?」
 そのうち、水を飲むための茶器は棚の中ほどに置かれていた。
 小夜左文字は、自慢ではないが背が低い。他の短刀と比べても、体格はかなり華奢な部類だった。
 大きな笠を背負っているのは、なにもその身長を誤魔化す為ではない。ただ違うのかと問い詰められたら、巧く躱せる自信はなかった。
 炊事場を切り盛りする男は打刀で、相応に筋肉質な体型をしていた。優美な衣装で隠してはいるが、その膂力は太刀に迫るものがあった。
 業物師が鍛え上げた刀剣であるが故に、持ち得た力だろう。
 ついつい自身の小さな手と比較して、小夜左文字は慌てて首を振った。
「足場になりそうな、ものは」
 劣等感を抱き、落ち込んでいる場合ではなかった。
 水を飲むのも一苦労だと肩を落として、彼は見つけた台座を足掛かりに、手に馴染む湯呑みをひとつ、取り出した。
 落として割らないように両手で抱き、台座はその場に残して水瓶へと戻る。覗き込んだ水面に映る姿は幼く、丸みを帯びた頬はふくよかで、柔らかそうだった。
 本当は柄杓で掬ってそのまま飲めれば一番いいのだが、それをすると、料理当番の男が怒るのだ。だから仕方なく、誰も見ていないというのに行儀よく湯飲みに水を移し替えて、小夜左文字は濡れた柄杓を手放した。
 蓋は閉めず、真っ先に喉を潤す。
 冷えた水は一気に体内へと流れ込み、節々に残る痛みや火照りを取り除いてくれた。
「ふは」
 縁ぎりぎりまで注いだものをひと息に飲み干して、小夜左文字は満足だと頷いた。
 ただの井戸水なのに、美味しかった。朝一番に汲んで来てくれた存在に、心の中で感謝を述べて、彼は開けっ放しの勝手口から差し込む光に目を眇めた。
 太陽は高い位置にあり、日差しは暖かだった。
「すぐ、帰ってくるのだろうか」
 この広い屋敷にひとりきりなのは、平気だと強がりたい気持ちはあるけれど、矢張り心細くて不安だった。
 彼らは審神者によって現世に喚び出された、名刀の魂を宿す付喪神。時代を遡る力を悪用し、歴史改変を目論む輩に対抗すべく集められた、戦う為だけの刃だった。
 だが果たして、ただの武器に人の姿を与え、心と言うべきものまで付与する事に、意味はあったのだろうか。
 一介の刃物であれば感じなかっただろう思いを抱かされて、小夜左文字は落ち着きなく身を捩った。
 使い終えた湯呑みを見詰めていたら、不意に叩き割ってやりたい衝動に駆られた。しかし流石に思い止まって、彼はくるりと踵を返し、竈の傍に置かれた調理台に器を置いた。
 背伸びをして台の上を見回すが、食べられそうなものは無かった。食器棚近くの茣蓙には土がこびりついた野菜が並んでいたが、生のまま齧る気にはなれなかった。
 かといって、自分で調理しようとも思わない。
 そもそも小夜左文字は不器用で、細かな作業は苦手だった。
「なにも、ないのか」
 朝餉の残りがないか調べてみるけれど、食欲旺盛な者が多い所為か、ひと粒も見当たらなかった。糒すら用意されておらず、即座に腹を満たせそうな代物は、表には出ていなかった。
 どこかに隠されてしまったか。
「前なら、ここにあったのに」
 ごく最近の記憶を掘り返して、小夜左文字は何も吊るされていない壁を仰いだ。
 以前はこの壁に、天井から干し芋がぶら下がっていた。
 保存食ではあるけれど、柔らかくてもちもちした感触が面白く、しかも仄かに甘くて美味しい。一度食べたら病み付きになってしまって、以来人の目を盗んでは、こっそり頂戴して食べていた。
 そうしたら、保管場所を変えられてしまった。以降、小夜左文字は干し芋にありつけていない。
 もっと少量ずつ、気付かれないようにやれば良かった。
 口惜しさを堪えて唇を引き結び、小夜左文字は薄汚れた土壁を蹴り飛ばした。
 衝撃で剥落した破片を踏みつけ、此処にいても仕方がないと身体を反転させる。甕の蓋を戻さないまま前を通り抜けて、彼は勝手口から外へ出た。
「これから、どうするか」
 屋敷の部屋数は軽く二十を越えており、その全てを確認したわけではない。
 それに現世での主である審神者なら、絶対に何か知っている筈だった。
 但し小夜左文字は審神者がどうにも苦手で、あまり信用していなかった。 その口から語られる内容は不可思議なものが多く、にわかには信じ難いものばかりだからだ。
 戦乱の世は終わり、太平の時代が長く続いた。
 武家社会はとっくに崩壊して、戦道具であった刀剣は美術品として扱われるようになった。
 鋭い刃の輝きは、人を斬るためでなく、人を魅せるものへと変わった。本来の役割は放棄され、存在意義は失われた。
 だというのに、小夜左文字に染みついた呪詛の詞は消えない。痛み、苦しみ、許しを乞う声は消えてくれなかった。
 短時間でも手入れ部屋に居た所為か、古い記憶が生々しく蘇った。
 くらりと来た頭を抱えて、彼は審神者がいる筈の離れに向かうべく、草履の裏で地面を削った。
 鳥の囀りが聞こえた。
 風が吹き、木立が一斉にざわめいた。
 直後だった。
「さよくん、さよくん、さよくーーーーーんっ!」
「ぐぇっ」
 突如甲高い声が轟いたかと思えば、真上にあった楠の枝から巨大な塊が落ちて来た。避ける暇などなかった小夜左文字は敢え無く押し潰されて、両手両足を地面に投げ打って平らになった。
 熨斗鮑になった気分だった。薄く伸ばされ、細かく切られたあの縁起物を頭の隅に思い浮かべて、彼は背中に圧し掛かって暴れている烏天狗に拳を作った。
「お、も……い!」
「うわあんっ」
 腹に力を込め、思い切って上半身を持ち上げる。腕立て伏せの要領で身を起こされて、もれなく背中に乗っていた今剣はごろん、と後ろに転がった。
 緩い坂を高速で滑り落ち、彼は一回転して地面で丸くなった。肩幅に広げた足の間から頭を覗かせて、後頭部を痛打でもしたのか、きゅぅ、と鳴いて暫く動かなかった。
 落ちた衝撃で、頭襟は大きく右にずれていた。鈴懸もひっくり返って裏を向いて、一本足の下駄が空を掻いていた。
 一方で小夜左文字は自由を取り戻し、全身に張り付いた土汚れを叩いて払い落とした。
 笠の紐は緩くなり、今にも解けてしまいそうだった。笠自体も今剣の尻に押し潰されて、膨らみ方が逆になっていた。
「酷い目に遭った」
 それらを順に直していき、最後にぼそりと零す。どこかで聞いた台詞だと嘆息して、紐を結び直して蝶々の形を整える。
 全てが整った頃には今剣も復活し、天地を正しく地面に座り込んでいた。
「ひどいです。さよくん、ひどいですよー」
「僕は酷くない」
「すっごく、いたかったです」
「僕の方が痛かった」
「……うぅぅ」
 そうして一方的に詰り始められて、小夜左文字は肩を落とした。
 最初に飛びかかって来たのは、どこの誰か。緑葉生い茂る樹上に身を潜めているなど、地上にいた小夜左文字に分かるわけがないのに。
 受け身を取る事も出来なかった。潰された際に打った鼻はまだひりひりしており、袈裟の汚れだって完全には払い落とせていなかった。
 元から低かったものが、もっと低くなった気がした。口を尖らせ不満を露わにして、小夜左文字は左手で鼻の頭を撫でた。
 額も激しくぶつけており、熱を持ってじんじん疼いた。
 膝小僧は泥で汚れ、足首に巻き付けた包帯は端が解けそうになっていた。もっともこれは前からなので、今剣が悪いわけではなかったが。
 ぶらりと垂れ下がっている布きれを一瞥して、小夜左文字は涙目で愚図っている短刀に眉を顰めた。
 抗議に逐一反論していたら、黙ってしまった。後はえぐえぐと喘ぐばかりで、まるで会話にならなかった。
「今剣」
「だって、だって。だれもいなかったんですよ~~」
 仕方なく名前を呼んで切り出せば、彼は堪え切れなくなったのか、大粒の涙を流して絶叫した。
 両手で顔を覆い、寂しかったのだと全身で訴える。落ちそうになっている頭襟も直さず、地面の上で足をばたつかせながら吠えられて、小夜左文字は鼻を押さえたまま項垂れた。
「……だからって」
 そういえば隣の手入れ部屋には、彼が居たのだった。
 掠り傷程度の損傷だったのに、主命令で放り込まれて、終わって出てみれば誰もいない。
 だからてっきり、彼は先に終わったものと思い込んでいた。
 違った。
 どうやら今剣の方が、出て来るのが遅かったようだ。
 ひっそり静まり返った空間のもの悲しさと切なさは、小夜左文字にも覚えがある。今剣も不安で、怖かったのだとしたら、あの強烈な体当たりは、喜びの裏返しだったのだろう。
 とはいえ、加減はちゃんとして欲しい。
 溜息を吐き、小夜左文字は泣きじゃくる短刀仲間に愁眉を開いた。
「皆、出払っているらしい」
「あるじさまも、いませんでした」
 あちこち探したが、猫の子一匹居やしない。
 そう嘯けば、今剣も涙を拭って呟いた。
「ふぅん……」
 驚きは、あまり外に出なかった。意外だったがそんな予感はしていたので、思っていたほど驚けなかった。
 緩慢に頷き、小夜左文字は視線を浮かせた。揺れが収まった楠を仰ぎ見て、袖で顔を拭いている今剣に手を差し伸べた。
「立てるか」
「ありがとうございます」
 いつまでも、地面に座り込んでいるわけにはいかない。
 手助けを買って出れば、今剣は素直に応じて右手を持ち上げた。
 強く握り、引っ張り上げてやる。弾みで落ちた頭襟も拾ってやれば、義経公の守り刀は照れ臭そうに笑った。
 何度も擦ったので、頬全体が赤くなっていた。瞳も赤みを強めており、まるで兎だった。
「みんな、どこいっちゃったんでしょう」
「さあ」
「そうだ。あるじさまのおへやに、こんなの、おちてました」
「手紙?」
 審神者も、残りの刀剣たちも不在。
 普通に考えると遠征に出ているか、買い物に出ているか。恐らくはその両方だと予想を立てていたら、今剣が今思い出した顔をして、懐からなにかを取り出した。
 四つに折られた紙切れは、今剣が持ち歩く際に潰れ、皺だらけになっていた。
 破れていないだけでも幸いだ。受け取って、小夜左文字は丁寧に広げた紙を陽の光に晒した。
「なんて、かいてありますか?」
「……汚い」
 主の部屋を訪ねはしたが、今剣は文の中まで見ていなかったようだ。横から興味津々に覗きこまれて、小夜左文字は率直な感想を、隠しもせずに囁いた。
 読めなかった。
 あまりに悪筆が過ぎて、なんと書かれているか、判読は不可能だった。
「なんだか、まるっとしてて、かわいいですね」
「読めなければ、意味がない」
 仮名文字程度しか読めない今剣は、単純に文字の形だけでそう呟いた。そこに小夜左文字が言葉を重ねて、眉間の皺の数を増やした。
 ある程度の知識は持ち合わせていると自負していたのに、打ち砕かれてしまった。
 一行目から解読出来ない難文を提示されて、彼は脂汗をこめかみに流した。
「よめないんですか?」
「こんなの、残されたって……」
 悔しいが事実なので、認めるしかない。目を丸くしている今剣に愚痴を言っても仕方がないが、口にせずにはいられなかった。
 これでは皆がどこへ行ったのか、いつ頃帰ってくるのかも分からない。
 果たして夕餉には間に合うのかと、太陽の位置を気にして顔を上げて、小夜左文字は唇を噛んだ。
 不安を抱いていたら、本当に腹が空いて来た。
 袈裟の上から撫でるが慰めにもならなくて、実際、きゅるるるるる、と可愛らしい音が響いた。
「うへへ」
 そこに今剣の、恥ずかしそうな笑い声が続いた。
「おなか、すいちゃいました」
「……うん」
 偶然か否か、彼もまた、空腹を抱えていた。
 それもその筈で、ふたりは朝餉を終えてから何も食べていなかった。
 食事を済ませた直後に出陣となり、帰還すると同時に手入れ部屋へ放り込まれた。十時の甘味を口にする猶予は与えられず、終わってみれば家人は審神者を含め、総じて不在。
 頼みの綱だった干し芋は数日前に隠されて、未だ発見には至っていなかった。
「なにか、たべるものって、ありましたか?」
 食事は基本的に一日二度、朝と夜だけ。ただ午前と午後には間食の時間が設けられており、戦場に出向く時はこの限りではない。
 気が付けば、もう午後のおやつ時だった。
 小夜左文字が台所から出て来たから、期待したのだろう。縋るような眼差しに、彼は肩の力を抜いて首を横に振った。
「ええええ~~」
 途端に今剣は悲壮感を漂わせ、両手をぶんぶん振り回した。
「なんでですか。どーしてですかー」
「僕に言われても」
「おなかがすきました。おなかすいた。おなかすいたあー!」
「……うるさい」
 抗議の声をあげられても、小夜左文字は食事当番ではない。自分の所為ではないのに責められるのは面白くなくて、彼は喧しい短刀の前で堂々と耳を塞いだ。
 こっちだって、腹が減って苛々しているのだ。八つ当たりしたい気持ちは同じだった。
 なんとか打開策を講じるべく、小夜左文字は手元の紙切れを掲げ持った。顔の高さで広げて、今一度書かれている文章の解読に取り掛かった。
「い……に、……て、ま……」
 しかし仮名文字ならともかく、それ以外はさっぱりだった。
 そもそもどの向きに読んでいいか、そこからして謎だった。
 縦書きで書かれているかと思いきや、文章の下に添えられた罫線は横一列に並んでいる。文字自体も今剣が言ったように丸みを帯びており、崩し方も小夜左文字が慣れ親しんだものとかなり違っていた。
 もしやこれは、暗号か、なにかか。
「これは、市。数字の四で、次は帰……?」
 ひとまず分かるところから拾っていく事にして、彼は目を糸のように眇めた。
 当たりをつけて、字をなぞりながら読み上げていく。左手を顎に当て、真剣に悩んで没頭し始めた矢先だった。
「むー」
 正面で膨れ面を作られて、彼ははっと我に返って赤くなった。
「さよくん、ぼくのこと、わすれてません?」
「そんな、ことは」
「ほんとですかー?」 
「……すまない」
 不満そうに睨まれて、問い詰められて逃げられない。
 解読作業は意外に面白く、楽しかった。素直に認めて謝罪して、小夜左文字は審神者が残した文を折り畳んだ。
 懐に手を入れて、直綴の腰紐に引っ掛ける。軽く揺らして落ちないのを確かめて、彼は不貞腐れている今剣に肩を竦めた。
「歌仙が。なにも用意していないとは、思えない」
 審神者の近侍を務める打刀は、本来の気性の荒さを雅さで巧く隠した男だった。
 昔は冷徹で容赦ない、餓えた獣のような性格をしていたのに。時の流れの中で揉まれるうちに、上手な誤魔化し方を覚えたようだ。
 そうと知らなければ、簡単に騙されてしまう。だから最初は気付けなかったと、小夜左文字は苦笑した。
「でも、なかったんでしょう?」
「まだ探していない場所はある」
 訝しげな今剣に顎をしゃくり、後方の勝手口を示す。実際に棚の中などは調べていないので、手分けして探せば見つけられるはずだった。
 救いはある、絶対に。
 力強く頷けば、不信感丸出しだった今剣の表情もにわかに活気づいた。
「よーっし。じゃあ、どっちがさきにみつけるか、きょうそうですね」
「分かった」
 握り拳を作り、鼻息荒く言い放つ。
 宣戦布告された小夜左文字は瞬時に応じ、先を争って勝手口から台所に駆け込んだ――のだけれど。
「ありませんね~」
 それから四半刻が過ぎても、彼らは目当てのものを見出せずにいた。
 食器棚の上、四角い茶箱、いくつも並んだ水瓶の中。引き出しのついた箪笥も全て、くまなく調べて回ったが、どこにも甘い菓子は隠されていなかった。
 出てくるものといえば主食である麦や米、生のままの野菜、燻されて硬い獣の肉、など等。その中で燻製は薄く切れば食べられない事もなかったが、自らが持つ短刀で捌くのは躊躇させられた。
 桜の香りがほのかに漂って美味しそうだったけれど、小夜左文字の腕より太い塊だったので、そのまま噛り付くのは諦めざるを得なかった。
「もうだめです。ぼく、おなかぺこぺこで、もううごけません」
 先に力尽きたのは今剣で、彼はへなへなと萎れて床に座り込んだ。着衣が汚れるのも構わずに、猫を真似て踏み固められた土の上で小さく、丸くなった。
 小夜左文字も衿に指を入れて喉元を広げ、汗ばんだ額を袖で拭った。
「糒までなくなってるなんて、絶対におかしい」
 これだけ探し回ったのに、なにも見つからないのは明らかに異常だった。
 台所ではない、別の場所に移したとしか考えられない。やるなら徹底的に、という男を思い浮かべて、彼は苦虫を噛み潰した顔で呟いた。
「それって、おこめをほして、かわかしたやつですよね?」
「知っているのか?」
「はい。でも、こっそりたべてたら、かせんさんにみつかっちゃって。つぎのひみたら、なくなっちゃってました」
 それに今剣が反応し、頭を掻いて恥ずかしそうに囁いた。
 彼もまた、隠れてこそこそやっていたようだ。同類が居たと知った小夜左文字はなにも言い返せなくて、相槌も打たずに目を泳がせた。
 短刀というだけで子供扱いされたくないが、それも止むを得ない気がして来た。
 隠してあるものは探したくなるし、美味しそうなものが目の前にあったら食べたくなる。衝動は抑えきれず、歯止めは利かなかった。
 今剣に対して、妙な親近感が生まれた。その彼は膝を交互に拳で叩いて、そもそも一回の食事量が少ないのだと喚き散らしていた。
「あれだけじゃ、たりません」
「僕も、そう思う」
 他の打刀や脇差たちは、あの程度の量で本当に満足出来ているのだろうか。
 否。そもそも彼らの方が、体格に見合った分量ということで、握り飯の数もひとつかふたつ、短刀より多かった。
 あれは狡い。
 差別だ。
 思い出したら腹が立ってきて、小夜左文字は調理台の脚を蹴り飛ばした。
 もれなく上にあった湯呑みがガタガタ揺れて、勢い余って横倒しになった。そうなると円筒形の陶器はころころと転がって、最終的に机の角から外へと飛び出した。
「あっ」
 気付いた時には、もう遅い。
 咄嗟に手を出した小夜左文字だが、間に合う訳がなかった。
「ひゃあ」
 甲高い音を響かせて、素焼きの湯呑みは呆気なく砕け散った。遠くにいた今剣も突然のことに驚き、首を竦めて悲鳴を上げた。
 破片が辺りに散乱して、比較的大きな塊がごろん、と土の上に転がった。底の部分だけは辛うじて無事だったけれど、斜めに罅が入ってふたつ以上に割れた器は、水を入れたところで流れ落ちるだけだった。
 最早使い物にならない。
 小夜左文字は怯えた顔をして、誰もいない勝手口、そして台所から続く廊下を振り返った。
「ど、どうしようか」
 下手に破片に触れたら、尖った先端で指を切りかねない。折角手入れを終えたばかりだというのに、あそこへ逆戻りは嫌だった。
 片付けるのを躊躇し、左右を慌ただしく見回す。助けを求めて今剣を探せば、彼はいつの間にか立ち上がり、すぐ近くまで来ていた。
 そして。
「にげましょう、さよくん」
 なんの解決にもならない案を提示して、狼狽える短刀の手を取った。
 よくよく辺りを見てみれば、台所は惨憺たる有様だった。
 全ての抽斗が引っこ抜かれて転がって、夕餉の材料になるだろう野菜は埃を被っていた。水瓶は蓋が全て外されて、燻製肉の塊はあろうことか床に転がっていた。
 食器棚の配置もすっかり入れ替わり、並び順はばらばらだった。調理道具を入れた箱はひっくり返され、竈の前は穿り返された灰で真っ白だった。
 綺麗に積み上げられていた薪は原形を留めず、麦や米が入った袋は悉く口が開いたままだ。いったい何が起きたのか、知らぬ者が見たら呆気にとられて凍り付くこと請け合いだった。
 賊にでも入られた後のような状況に、小夜左文字自身も惚けた顔で目を瞬いた。
 こんな真似をして、ただで済むとは思えない。
 まず間違いなく雷が落ちて、反省の意味も込めて夕餉は無し、の罰が下されるだろう。
「……よし。逃げよう」
 日頃から文系を気取っている男は、実は怒ると凄まじく怖い。
 食事を一回抜く程度では済まないかもしれなくて、想像した小夜左文字はぶるりと震えあがった。
 片付けようにも、どこに何があったのか、それ自体を覚えていない。覆水盆に返らず、湯呑みだって元通りには戻らない。
 露見すれば、大目玉だ。歌仙兼定はきっと、許してはくれないだろう。
 幸い、屋敷には今、誰もいなかった。このことを知っているのは、当事者である小夜左文字と今剣だけだ。
 こっそり抜け出して、身を隠して。
 ほとぼりが冷めた頃に屋敷に戻り、素知らぬ顔をしていればいい。
 子供らしい、実に幼稚な発想だったが、切羽詰まっているふたりにはそれが分からなかった。
 同意して、小夜左文字は今剣の手を握り返した。ふたり並んで勝手口へと向かって、左右を確認して足並み揃えて駆け出した。
 帰って来た皆と鉢合わせする可能性があるので、進路は正面の門ではなく、背の低い竹垣が並ぶ裏手に定めた。傍には灌木が根を張っており、その枝を伝えば、敷地を囲む柵越えは容易だった。
「どこへ逃げるんだ?」
 問題は、時間を潰す場所だった。
 屋敷の中にも隠れられそうな場所は幾つかあったが、すぐ見つかってしまう可能性も高かった。屋外に出ればその危険は回避出来るが、小夜左文字は屋敷の外にあまり詳しくなかった。
 子供だけで出かけないよう、厳しく言い渡されていた。買い物に出る時だって、審神者か、打刀以上の刀剣が一緒だった。
 身を潜められる安全な場所に、心当たりなどない。
 ふと心配になって問うた彼に、先に柵を飛び越えた今剣は意味ありげに、にんまりと微笑んだ。
「いいところ、あります」
「良いところ、って」
「あそこの、じんじゃ。おっきなごしんぼくと、ちっちゃいおやしろがあって。ひなたぼっこ、きもちいいんですよ」
「こっそり抜け出していたのか」
 彼が指差した先には、こんもりと丸く膨らんだ森が見えた。小高い丘を中心に緑が広がって、その中央には樹齢も高そうな楠が聳えていた。
 村外れに鎮守の杜があるのは、知識としては知っていた。しかし行ったことはなく、近付いたこともなかった。
 まさか今剣が密かに訪れていたとは、夢にも思わなかった。
「えへへ~。みんなには、ないしょ、ですよ」
 もしかしたら、審神者でさえ把握していないのかもしれない。
 飛んだり、跳ねたり。自由気ままな烏天狗は、これまでにも度々行方をくらませて、その所在を他に伝えなかった。
 いつだって笑っている、元気で明るい今剣だけれど、ひとりになりたい時だってあるだろう。
 深く問い詰めたりはせず、小夜左文字は竹垣から飛び降りた。
 無事着地を決めて、地面に落ちそうだった笠を背負い直す。袈裟の形も直していたら、上機嫌にくるくると回り、踊っていた今剣が勢いよく手を叩きあわせた。
「そうだ。じんじゃに、あけび、はえてました」
「っ!」
 今思い出したと声を高くした彼に、小夜左文字の目は真ん丸に見開かれた。
 木通と言えば、この季節、甘い果実がたわわに実っている筈だった。
 蔓草から細長い卵型の実がぶら下がって、見た目は悪いが、皮も実も食べられる。思い浮かべて涎を呑んで、彼は言うのが遅いと小鼻を膨らませた。
「だったら、台所を家探ししなくて済んだのに」
「えへへ。ごめんなさい」
 すっかり忘れていたと、今剣も反省頻りだった。両手の指を弄り倒して、大袈裟な身振りで頭を下げた。
 しかし怒る気は起きなかった。木通の実は、腹を減らした子供たちの間食にぴったりの食べ物だった。
 そうと分かれば、行かないわけにはいかない。空腹は絶頂を迎えており、骨と皮が貼り付きそうだった。
「どっちだ」
「こっちです。はやく、はやくー」
 最早ふたりの頭の中に、台所をぐちゃぐちゃにした、という事実は残っていなかった。
 刀剣だった頃にはなかった欲を最優先させて、小夜左文字は心の赴くままに大地を駆けた。今剣の先導で野道を走って、辿り着いた鎮守の杜の壮麗さに感嘆の息を吐いた。
 天高く枝を伸ばす御神木は樹齢千年に迫ろうという勢いで、地表に降り注ぐ木漏れ日はきらきらと輝いていた。
 小鳥は思い思いに囀り、羽を休め、または戯れ、枝の間を飛び交っていた。頬袋を膨らませた栗鼠が樹上を忙しく駆け回り、闖入者の登場に驚いた野兎は慌てて巣穴へ飛び込んだ。
 入口にあった鳥居は朽ちており、今にも崩れてしまいそうだった。紙垂は千切れて跡形もなく、表面を彩る丹色も殆ど剥げ落ちていた。
 楠の幹に巻きつけられた注連縄も年季が入っていて、かなりの歳月、放置されているのが窺えた。祠そのものも木の根に抱かれ、一部が幹に食い込んでいた。
 もっとも、大樹を祀る人は今でもいるらしい。
 祠の前には簡易の祭壇が設けられ、朝汲んだと思われる水が捧げられていた。
「おおきい」
 屋敷から眺める分には感じなかったが、近くで見ると圧倒させられた。首を真上に向けても天辺は見えず、燦々と降り注ぐ木漏れ日がただ、ただ眩しかった。
 山賊時代に暮らした山にも、樹齢を重ねるだけの大きな木は何本もあった。しかしここまで立派で、自ずと敬服の念を抱きたくなる古木は滅多になかった。
 人々の厚い信仰を受け、大事に慈しまれてきたからこそ、そう感じるのだろう。ちぃちぃと五月蠅い小鳥の声を聴きながら、小夜左文字は暫くそこに立ち尽くした。
 ふと我に返った時、傍に今剣の姿はなかった。
「え?」
 いつの間に、どこへ行ってしまったのか。
 またもやひとり置き去りにされて、彼は慌てて左右を見回した。
「さよくん、こっち。こっちでーす」
「今剣、勝手に動かないでくれ」
「これとか、とってもおいしそうです」
 そこへ声が降ってきて、顔をあげれば今剣が木の上で手を振っていた。
 神木はそれ一本だけが聳えているのではなく、異なる種類の木をいくつか抱き込んでいた。太い枝には蔓草が巻き付き、今剣の足元には楕円形をした紫色の球体がぶら下がっていた。
 そのうちいくつかは表面がぱっくり裂けて、白い綿のような中身が顔を出していた。
「おとしますよー」
「分かった。頼む」
 木通の実を受け取るよう言われ、小夜左文字は迷わず首肯した。急いで枝の真下へ移動して、直後に降ってきた果実に慌てて腕を伸ばした。
「っと、と」
 空中で掴もうとして、一度では出来なかった。目測を誤って叩いてしまい、もう少しで明後日の方向に吹っ飛ばすところだった。
 弾んで浮き上がったところを捕まえて、大事に胸に抱え込む。なんとか上手くいったと安堵していたら、ふたつめが断りなく落ちて来た。
「いった」
「うわあ、だいじょうぶですかー?」
 それが頭に当たったものだから、小夜左文字は星を散らして蹲った。今剣もまさかの事態に驚いて、葉の間から顔を覗かせた。
 枝にぶら下がり、見事な早業で地面へと降り立つ。先に転がっている木通の実を拾って、彼は頭の天辺を押さえ込む少年に近付いた。
「さよくん?」
「……おなか、すいた」
「はい。たべましょー」
 心配そうに話しかけられて、小夜左文字はぐっと腹に力を込めた。喉まで出かかっていた文句は呑みこんで、代わりにひと言呟いた。
 怒るのだって、疲れるのだ。ただでさえ空腹の身、余計なことはしたくなかった。
 そういう意図が働いていると分かっているのか、いないのか。
 今剣はにこやかに笑って、拾った木通の土埃を払い落とした。
 拳よりも大きな実は、見た目は奇怪だけれど、中の白い部分は甘くて美味しい。種が多いのが難点だが、口に入れて吹き飛ばした距離を競う遊びは、殊の外楽しかった。
 森の中には木通の他に、樫の木が沢山生えていた。
 足元には小さな団栗が大量に転がって、落ち葉が布団になっていた。手を加えれば食べられる果実であるが、生食には向かず、もっぱら子供たちの玩具として扱われた。
 拾い集め、石礫の代わりに放り投げる。大きなものを探して地べたを這い蹲るように進んで、前を見ていなかった所為で木の幹に頭から突っ込み、驚いてひっくり返ったりもした。
 今剣のけたたましい笑い声が響き、小夜左文字も負けじと声を張り上げた。彼が背負っていた笠は即席の籠と化して、気が付けば編み目に大量の砂利が紛れ込んでいた。
 西の地平線が赤く染まり、影が長くなるまで、本当にあっという間だった。
 自然の恵みで腹は満たされ、遊び道具にも事欠かない。屋敷に引き籠っていたら体験できなかった事だらけで、帰ろう、と言いだすのには、かなりの時間と勇気が必要だった。
 あとちょっとだけ。
 もう少しだけ。
 そうやってずるずる引き延ばしていくうちに、陽はどんどん沈んで行った。東の空からは濃い藍色が広がって、気の早い星が天頂近くで瞬いた。
 月はまだ出ておらず、辺りはみるみる暗くなっていく。烏の鳴き声が遠くから響いて、あれだけ騒がしかった獣の気配も徐々に薄れていった。
 地表を照らしていた木漏れ日が見えなくなって、小夜左文字は大きな笠で顔を隠した。
「かえりましょっか」
「……分かってる」
 日が完全に暮れてしまったら、帰り道を見失う。杜の周辺に民家はなく、屋敷との間に広がるのは手付かずの野原だけだった。
 ここから先、夜は獰猛な牙をもつ肉食獣、そして盗賊が活動する時間だった。
 野犬の遠吠えは既に聞こえ出していた。梟がホー、ホー、と、高い場所からふたりを見下ろしていた。
 闇はひたひたと音もなく歩み寄り、彼らの背後に迫っていた。
 肩を竦めた今剣に言われ、小さく頷く。笠を背中に回して紐を結んで、小夜左文字は仄明るい西の地平線に目を向けた。
 日が沈み切ってしまう前に、屋敷に帰り着かなければいけなかった。
 夜闇の濃さとその危険性は、彼らも重々承知していた。特に小夜左文字は、暗がりに乗じて人を襲う生業を強いられていただけに、恐怖心は尚更だった。
「いそぎましょう」
「ああ」
 いかに強い力を秘めているとはいえ、彼らの見た目は子供だ。盗賊風情に後れを取らないと自負していても、数で攻められたらひとたまりもなかった。
 今剣に急かされ、小夜左文字はしっかり頷いた。目と目で合図をしあって、彼らは鎮守の杜を駆けだした。
 来た時同様今剣が先に立ち、記憶を頼りに道なき道を突き進む。
 芒が生い茂る野原を横断し、落ちていた石に足を取られて転びそうになりながら。獣の声に怯えつつ、風の音に大袈裟に驚きながら。
 沈む太陽を追いかけて、ひたすら走った。
 屋敷の通用門を潜った時には息も絶え絶えで、これ以上は動けなかった。転んで擦りむいた膝小僧の痛みも忘れて、ふたりはその場に蹲った。
「着い、た」
「つかれました~~」
 もう一歩も歩けない。
 それくらい全力で駆けて、ふたりは真っ暗になった空を並んで仰いだ。
 途中で道に迷った時は、本当にどうなるかと思った。灯りを借りようにも人家は見当たらず、遠くから響く犬の声にびくびくさせられっ放しだった。
 心臓がばくばく音を立て、涼しいのに汗が止まらない。深い安堵に力が抜けて、暫く立ち上がれそうになかった。
 耳鳴りが酷かった。呼吸ひとつするのも大変で、小夜左文字は溢れ出そうだった唾を、苦心の末に飲みこんだ。
 濡れた唇を舐め、眼前に見える屋敷の明かりに胸を撫で下ろす。騒ぐ声は聞こえてこなかったが、昼間にはなかった人の営みが、そこかしこから感じられた。
 皆も、どうやら帰って来ているらしかった。
 彼らがどこへ出向き、何をしていたのか。そんなもの、もう気にもならなかった。
 どうでもよかった。無事に此処へ帰ってこられた事が、今の彼にはなによりも喜びだった。
 己の運命を呪い、復讐に固執していたというのに。
 ほんの少しの時間にもかかわらず、人の形を得て生活をしただけで、こんなにも人と似た存在に変わってしまった。
 目を瞑り、耳を澄ませば怨嗟の声はまだ聞こえた。この身に染みついた人々の恨みが濁流となって押し寄せて、小夜左文字の小さな体を押し流した。
「小夜!」
 けれどそれを遮り、引き留め、引き揚げてくれる存在が居た。
 鋭く尖った声にはっとなり、慌てて瞼を開いた瞬間だった。
「いっ……!」
 目の前で星が散った。昼間に木通で打った時とは段違いの、強烈な拳が彼の脳天を貫いていた。
 脳みそが揺れて、視界が歪んだ。悲鳴ひとつ上げることも出来なくて、小夜左文字は両手で頭を庇って小さくなった。
 生理的に浮いた涙で瞳を濡らし、横を見れば、今剣も同じように頭を抱え、丸くなっていた。
 彼の方が、先に鉄拳をお見舞いされていたらしい。いつの間に現れたのか、視界の隅には二本の脚がそそり立っていた。
 黒塗りの沓の持ち主が誰か、顔を見るまでもない。仁王立ちしている男を恐る恐る仰ぎ見れば、明王にも劣らない怒り顔がそこにあった。
「かせ、ん」
「今、何時だと思っているんだ、君たちは。今剣も、小夜も。今までどこに行ってたんだ」
 たどたどしく名前を呼べば、それを上書きして怒鳴られた。頭ごなしに捲し立てられて、子供ふたりは亀を真似て首を竦めた。
 殴られた場所を両手で庇い、痛みに震えて小さくなる。
 拳を入れられた場所はじんじん疼き、他に比べて僅かながら膨らんでいるようだった。
 瘤になっていた。それくらい痛烈な一発に撃沈させられて、小夜左文字は弁解を聞こうともしない男に頬を膨らませた。
 確かに台所をあのまま放置して逃げたのは、悪かったと思っている。
 けれどなにもそうしたくて、あんな風にしたのではない。
 ちゃんと理由があった。手入れ部屋を出たら誰もいなくて、食べるものも用意されていなかった。置いてけぼりを喰らって放置されて、まるで要らない子として捨てられた気分になった。
 疎外感を覚えた。
 虚しさを覚えた。
 求めておきながら結局は売り飛ばし、望んで得ておきながら最後は手放す。
 お前に帰る場所などないのだと、怨讐の塊が耳元で囁いていた。
 一縷の望みに賭けて戻って来たけれど、此処も安住の地とはなり得なかった。
 小夜左文字に安らぎはない。とうに居ない相手への復讐に固執することでしか己を保てず、そこに縋る事でしか、己の価値を見いだせない。
 呪われている。
 いっそ粉々に消し飛んでしまいたいと、何度願ったことだろう。
「……まったく」
 一方で歌仙兼定はひと通り説教を済ませると、深くため息をついて肩を落とした。
 藤色の髪を掻き上げ、戻した手は腰に当てる。こほんと業とらしい咳払いをひとつして、落ち込む子供たちを順番に見下ろす。
「夕刻には戻るから、大人しく待っているようにと。書き残しておいただろう? 八つ時に用意しておいたのだって、ちゃんと――」
「待て、歌仙」
 あまり叱り過ぎるのは良くないからと、話を切り上げようとした矢先だった。
 訥々と語っていた彼を遮り、唐突に小夜左文字が顔を上げた。
 微妙に焦った声色で制し、瞳を大きく見開く。隣では今剣も、きょとんとしながら首を傾げていた。
「……ん?」
 この反応は、なんだろう。
 顔を見合わせている子供たちに眉目を顰め、歌仙兼定は半眼した。
 小夜左文字は深呼吸を三度繰り返し、それから今剣に向き直って頷いた。烏天狗の少年も深く首を縦に振って、まだ痛む頭を右手で撫でた。
 反省の色は薄れ、不満げな表情で睨まれた。無言の眼差しで責められて、歌仙兼定は不思議そうに眉を寄せた。
「歌仙。その、書置き、とは」
「ああ。主殿が」
「どうりで」
 立ち上がった小夜左文字に問われ、男は手短に答えた。それで全て合点がいって、藍の髪の少年はがっくり肩を落として頭を垂れた。
 今剣も下駄の歯で地面を蹴り、浅い穴を掘って砂を撒き散らした。
「んん?」
 子供たちの態度を見て、歌仙兼定の頭上に疑問符が乱立した。
 混乱している彼に盛大に嘆息して、小夜左文字は懐を弄り、直綴の中に入れておいた四つ折りの紙を引き抜いた。
「その文とは、これのことか」
 散々動き回った後なので、書き置きの紙はすっかり皺だらけだった。今剣に握り潰された後も衣の中でもみくちゃにされて、折れ目には部分的に穴が開いていた。
 そんな丸められた紙を差し出され、歌仙兼定は首を捻りつつ手を伸ばした。
 破らないよう注意深く広げ、後方の屋敷の灯と、細い月明かりに文面を晒す。影が入らないよう何度か持つ角度を変えた男の眉間の皺は、時間が経るにつれて深く、本数も多くなっていった。
 口元を真一文字に引き結んで、歌仙兼定はやがて静かに息を吐いた。
「次からは、僕が代筆しよう」
「そうしてくれると、助かる」
「だが、それとこれとは話が別だ。出かけるのであれば、行き先くらい書き残していきなさい。どれだけ心配したと思っているんだ。なにかあったのでは、と思うだろう」
「嘘だ」
「どうして嘘をつく必要がある。小夜。いいかい? 君たちが勝手に居なくなって、しかも陽が暮れても帰ってこなくて。屋敷でどれだけ騒ぎになったか、ちゃんと考えてごらん」
 全く読めない文を丁寧に折り畳み、歌仙兼定はそっぽを向いた子供の頭を撫でた。少し乱暴な手つきで、瘤になっている場所も構わずに掻き回し、最後にぽん、ぽん、と優しく叩いて手を離した。
 特に深い意味があるわけでもない、気まぐれな仕草だった。しかし却って自然であり、慣れが感じられる所作だった。
 すっかり覚えてしまった感触に、顔が上げられなかった。離れていった指先が何故か無性に名残惜しくて、小夜左文字は胸の中に渦巻く、名前のない感情に唇を噛んだ。
「あと少し戻りが遅ければ、皆で探しに行くところだったんだから」
 歌仙兼定はそれには気付かず、嘆息混じりに囁いた。そして遠くから生じたざわめきを気取って片腕を上げて、提灯を手にぞろぞろ近付いて来た集団に合図を送った。
 先頭には加州清光が立ち、後ろには鯰尾藤四郎の姿があった。白い化け物めいたものが灯明にぼんやり浮かんで驚かされたが、あれは恐らく、山姥切国広だろう。
 五虎退や愛染国俊、乱藤四郎の姿はなかった。そこに集まっているのは脇差、もしくは打刀といった、短刀たちより年嵩の者ばかりだった。
「あっれー。なんだ、帰って来てんじゃん」
「本当だ」
 そんな彼らに話しかけられて、小夜左文字と今剣は落ち着きなく身を捩った。
 蝋燭を入れた提灯が三つ並んで、辺りは昼のような、とまでは言わないけれど、前に比べると一気に明るくなった。
「家出、終わりですか?」
「ちがいます」
 鯰尾藤四郎に興味津々に訊かれ、今剣が頬を膨らませた。しかし結果的にはそういう形になるのだろうかと、小夜左文字は前方に控える屋敷の屋根を仰ぎ見た。
 悪戯をして、露見するのを恐れて逃げた。
 怒られると思ったから、叱られたくなくて断りなく外へ出た。
「ていうかさ、帰って来てんだったら、教えてくんないと。提灯どこに片付けてんのか、知ってんのあんただけなんだし。これ、探すのすっごく大変だったんですけどー」
「ははは。申し訳ない」
「さっきの歌仙さん、すごい勢いでしたからね。血相変えて飛び出して行っちゃうから、驚きました」
「頼むから、それは言わないでくれないか」
 歌仙兼定は加州清光の嫌味に笑って返し、鯰尾藤四郎の弁には顔を覆った。子供の前で暴露するなと愚痴をこぼすが、脇差の少年はきょとんとするだけで、彼が何を嫌がっているのか、分かっていない様子だった。
 思わぬところから飛び出した言葉に、小夜左文字は打刀としては大柄な男に目を丸くした。
 そんな様子は微塵もなかった。
 彼が知る歌仙兼定はいつだって余裕綽々として、腹が立つ程に落ち着き払った男だった。
 じっと見ていたら、目が合った気がした。
 盗み見られ、ぱっと逸らされた。
 気まずい沈黙が流れた。先ほどから胸に陣取る良く分からない感情がもぞもぞ蠢いて、くすぐったいような、温かいような、変な気分だった。
 率先して外へ探しに行こうとした男が黙り込み、会話は途絶えた。黒子が艶っぽい打刀は肩を竦めると提灯を揺らし、騒動を巻き起こした張本人に視線を流した。
「で、そこの餓鬼ども。俺らになにか、言う事は?」
「ごめんなさーい」
「……すまなかった」
 此処に集う面々は、今から屋敷の外に出て、ふたりを探しに行くところだった。夜は灯りなしでは足元が不安だからと、滅多に使う事のない提灯を探し出して、準備をして。
 但し歌仙兼定の手には、それがなかった。
 彼だけが帰ってこない子供たちに痺れを切らし、取るものも取らずに飛び出したのだ。
 その顔が赤いのは、蝋燭の炎が赤いからか。
 迷惑をかけたと三人に詫びてから、小夜左文字は左右の膝をぶつけ合わせ、身をくねらせた。
「まあ、ご無事でなによりです」
「……次からは、考えろ」
「はーい。きをつけます」
 今剣は元気よく手を挙げて、鯰尾藤四郎と山姥切国広の間に割り込んだ。加州兼光も黒髪を掻き回すと、口喧しく言うつもりはないのか、早々に踵を返して歩き出した。
 提灯の明かりが遠くなり、屋敷の中に入って消えた。周囲は再び暗さを取戻し、小夜左文字は寒気を覚えて身震いした。
「入ろうか」
「歌仙」
 己自身を抱きしめた彼に、歌仙兼定が静かに囁く。
 軽く肩を押され、少年は足を踏ん張らせて抵抗した。
「なんだい」
「歌仙、は」
 大きな手は離れていかなかった。そのまま握ることなく添えられて、伝わってくる柔らかな微熱に、小夜左文字は大きく息を吐いた。
 俯き、音もなく口を開閉させる。告げるかどうかを躊躇して、数秒の逡巡を経て拳を固くする。
「歌仙は、もし。僕が……いなく、な――」
「哀しいよ、小夜」
 即答だった。
 最後まで言う前に、間髪入れずに言い返された。
 思わず勢いつけて振り返って、小夜左文字は暗がりに佇む男に瞠目した。
 どれだけ目を凝らしても、今の歌仙兼定の顔が見えない。
 それが良いことなのか、悪い事なのかも分からなくて、彼は上唇を噛み、男の脚を軽く蹴った。

2015/03/02 脱稿