初めのうちは、体感だった。
確証はなにもなかった。けれど頭の中で、ひょっとして、という思いはあった。
微妙な差だったから、最初は勘違いを疑った。けれどそれが二日、三日と続いて、自分の中で間違いない、と断言できるくらいになっていた。
但し、ちゃんと調べたわけではない。気の所為ではないのかと笑い飛ばされるのは嫌だったから、なかなか人には言えなかった。
勿論個人的な楽しみとして、喜びとする道もあった。けれど矢張り、自慢したいではないか。
頑張った分報われたのだと、努力を評価して欲しいではないか。
そういうわけで、前日の部活が終わった後、マネージャーに頼んであるものを借りた。部の備品なのだから紛失しないように、何度となく釘を刺されて、絶対に翌日には返却すると約束し、ようやく貸してもらえた。
「んふ、んふふ、んふふふふ」
そのストップウォッチを手に、日向翔陽は肩を震わせた。駐輪場に到着したと同時にボタンを押してタイマーを止めて、表示された数字にこみあげる笑いを噛み潰した。
しかし、どうやっても漏れてしまう。
押し殺しきれない歓喜に四肢を戦慄かせ、自転車に跨ったままだというのに締まりのない顔をする。どどど、と脈打つ心臓は平常値を軽く上回り、全身汗だくのまま、息苦しさも忘れ、彼はだらしなく鼻の下を伸ばした。
自宅をスタート地点として、学校をゴールと決めていた。
ストップウォッチを止めるのは、本当なら正門を潜った後が良かったのかもしれない。けれど、知りたかったのは自転車で走った時間だから、この判断はあながち間違いではなかった。
爪先をアスファルトに擦り付け、前輪だけ境界線を跨いだ体勢で肩をぷるぷる震わせる。若干前のめりになってバランスを維持する姿は、後ろから見るとかなり異様だった。
別の部に所属する生徒が、日向を見つけて眉を顰めた。一緒に登校してきた仲間とひそひそ耳打ち合って、何をしているのか推測するが、彼らの口から正解は出て来なかった。
「すげー。やった。スゲーぞ。マジでおれってば、超スゲーんじゃねえの?」
故障していない限り、デジタル機器は嘘をつかない。
この数日、そんな気がする、という曖昧な感覚でもやもやしていたのが綺麗に吹き飛んだ。顔も名前も知らない相手からの不躾な視線など一切意に介さず、彼は雄叫びを上げて握り拳を作った。
ガッツポーズして、まだサドルに座ったままだったのを思い出して、慌ててハンドルを掴む。
「うわ、っととと」
あと少しで自転車ごと倒れるところだった。冷や汗を流し、日向は急に熱を感じて息を吐いた。
走っている時は風があるので、あまり暑いと思わなかった。
日差しを遮るものもなく、朝七時前だというのに太陽は既に高い。
燦々と眩しい直射日光に半眼して、彼は着ているシャツの襟を引っ張った。
「おいてこよ」
ストップウォッチの数字は消さず、左手に握り直す。右腕一本でハンドルを支えてペダルを踏めば、歯車が噛み合った分だけ車体は前に進んだ。
始業開始直前には満杯になる駐輪場も、今はまだ空いていた。
置き場所は、基本的に自由だ。出入り口付近に停めて鍵を外して、日向は今一度、烏野高校排球部と書かれた時計に目を向けた。
「十九分、三十二秒」
そこに表示された数字を読み上げると、鎮まっていた興奮がにわかに蘇った。
それは彼が自宅を出て、学校に到着するまでに要した時間だった。
日向が暮らす雪ヶ丘町は、烏野高校から山ひとつ越えた先にある。電車の便はかなり悪く、しかも相当な遠回りを強いられる。バスも本数が少なくて、一本乗り遅れるとかなり待たされた。
その点、自転車通学は便利だ。いつでも好きな時に出発できるし、満員ですし詰め状態の車内で苦しい思いをしなくていい。
反面、体力を消耗する。もっともこれは、自己鍛錬の一部だと考えれば、全く辛くなかった。
山を越え、急峻な坂を一気に駆け上るのは快感だ。即席のジェットコースターは、一歩間違えればコースアウトしてあの世行きだが、耳元で風が唸るのは楽しく、心地よかった。
「新記録、だ」
練習が始まる前だというのにシャツを汗で湿らせ、日向は噛み締めるように呟いた。
どれだけ自制しても勝手に緩む頬を叩いて、軽い足取りで正門へと向かう。
今日は良い事があるかもしれない。喜びを抑えきれず、満面の笑みを浮かべ、スキップしながら道路に戻った彼の目に映ったのは。
肩を上下させてリズミカルに走って来る、見覚えのある黒髪の男子だった。
「ゲッ」
目が合った。
バチッと火花が散って、それがスタートの合図だった。
「待てやゴルァァァ!」
「ぎゃああああああーっ」
地鳴りのような低い声で吼え、影山がジョギング程度だった速度を一気に上げた。
十メートル近かった距離を瞬時に詰められた日向は途端に悲鳴を上げ、脱兎のごとく逃げ出した。
ただでさえ自転車で数キロ走ってへとへとなのに、この期に及んで全力疾走させられた。いつの間にか恒例と化した徒競走が開始されて、彼は転げるように正門を潜り抜けた。
そのまま部室棟を目指し、持てる力の限りを振り絞る。
しかし追いかける方が体力充分であり、気合いも上回っていた。
雪ヶ丘町から烏野高校へは、通常、自転車で三十分以上の距離があった。それを日向は、十分近く短縮させていた。
全力でペダルを漕いで、走った。時に乗用車と競争しながら、少しでも早く学校に着こうと頑張って来た。
そして今日、目出度く二十分の壁を突破した。
いつも以上にペダルを回して、車の来ない赤信号をいくつか無視したお蔭だが、それでも記録は記録だった。
結果、そこで力を使い果たした。
脹脛の筋肉はプルプル痙攣しており、膝の関節はがくがく言って使い物にならなかった。
辛うじて走れてはいるものの、ペースはかなり遅い。
影山が追い付き、追い越すなど雑作もなかった。
「オオッシ!」
「ぐあー、負けたあああっ」
結局、逆転を許してしまった。十メートル以上の距離をつけてゴールされて、勇ましい雄叫びを聞いた日向はその場に崩れ落ちた。
こちらの体力が尽きかけていたなど、そこで顔を合わせたばかりの影山は知らない。負けるべくして負けたとはいえ悔しくて、彼は顎を伝った汗を拭い、肩で息を整えた。
万全の状態だったら、絶対に追い付かせたりしなかった。
負け惜しみを心の中で呟いて、日向は足元に伸びた影に眉を顰めた。
顔を上げれば、影山がそこにいた。先ほどまでの勝ち誇った表情は薄れて、何故だか不機嫌そうだった。
眉間に皺が寄って、癖になってしまっている。
前にも注意したのに直っていないと腹を立てて、日向は汚れを払って立ち上がった。
「ンだよ」
「今の勝負、ナシだ」
「はあ? お前が勝ったんだから、いいじゃねーか」
「そんなボロッカスのテメーに勝ったって、こっちは嬉しくなんかねーんだよ」
それでも影山は退かず、逆に距離を詰めて来た。
前方を塞がれた日向は声を荒らげ、言い返されて目を点にした。
こちらが弱っていたと、勝負を終えてから気付いたらしい。正々堂々、卑怯な真似はしたくないという傲慢さが透けて見えて、茫然とさせられた。
呆気にとられ、返事が出来なかった。
「はあ……」
緩慢な相槌をひとつ打てば、影山の顔が歪んだ。露骨に拗ねたチームメイトは年齢以上に子供っぽくて、見た目と違って可愛らしかった。
「とにかく、いいな。今日のはノーカンだ」
「おれは、別に良いけど」
今のところ、勝負はほぼ五分五分。ただ昨日、一昨日は日向の方が若干早く学校に着いていたのもあり、僅差で勝利を得ていた。
その結果、たったひとつだけだが、勝ち星は日向の方が上回っていた。
そこで無駄に正義感を振り翳したりしなければ、勝率は並んでいたというのに。
悪知恵が働かない馬鹿に苦笑して、日向はもう一度尻を叩いた。
太腿にも砂埃は付着していたが、汗で湿っている肌を撫でるのは、余計不快になるだけだった。
今は我慢することにして、彼はいまいち納得がいっていない天才セッターに肩を竦めた。
「じゃじゃーん」
「あ?」
どうして部活前から疲れていたのか、理由が聞きたいのだろう。
ただそれをどう尋ねれば良いか分からずにいる彼に、小柄なミドルブロッカーは先回りして左手を掲げた。
握りっ放しだったストップウォッチを突き出し、影山へと示す。
良く見えるように高く持ち上げてにんまり笑って、驚嘆の言葉を期待して、自慢する準備に入る。
だがどれだけ待っても、予想したような反応は得られなかった。
「……それが、どうかしたのか?」
「あ?」
代わりに怪訝に訊かれて、日向はぶすっと頬を膨らませた。
察しが悪い影山に口を尖らせ、もっとちゃんと見るように訴える。けれど彼の表情は曇る一方で、困り果てた目は泳いでいた。
続々やってくる部活仲間に助けを求めるが、ふたりの傍らを通り過ぎた上級生は割り込んで来なかった。
朝から元気だな、だとか、今日も仲良しだな、とからかう声しか聞こえて来ない。
興味を抱きつつも介入して来ない先輩たちにため息を零して、影山はほんのり湿っている前髪を掻き上げた。
「今度はシャトルランでもすんのか?」
「はあ? なに言ってんだよ。良く見ろ、よく」
「見てるっての」
「十九分だぞ。新記録なんだぞ。他に言う事あんだろ」
お互い会話が噛みあわず、相手が何を言っているのか分からない。
ふたりとも日本語を喋っているのに伝わらなくて、そろそろ何かが可笑しいと思い始めた矢先だ。
影山が肩を落とし、日向が握る物を小突いた。
「ゼロゼロゼロ、だけど?」
「……へ?」
数字が表示されている液晶部分を叩き、日向の方へと押し返す。同時に告げられた内容にきょとんとなって、背番号十の少年は慌てて肘を引っ込めた。
ストップウォッチを自分の方に向け、そこにあるべきものを探して両目を見開く。
だがどこを見てもあの数字は発見できず、映し出されるのは全てがリセットされた画面だけだった。
長時間操作されなかったので、自動的に消えたのか。
それとも影山と競い合っている時に、間違ってボタンを押してしまったのか。
どちらなのかは不明だが、分かったところで意味などない。
新記録の証拠は失われ、二度と戻ってくることはないのだから。
「う、そ」
絶句する日向に眉を顰め、影山は後頭部を掻いた。
自分が悪いわけではないと思うが、何故か罪悪感を覚えてもやもやして、あまり良い気分ではなかった。
慰めてやった方が良いか考え、爪先で穴を掘る。しかし言葉は何も思い浮かばず、そもそも彼が何に落胆しているかも不明だった。
「十九分、か」
それが何の事か、すぐにピンと来なかった。
「折角、二十分切ったのにぃ」
そこまで言われても、意味が分からなかった。
「ンなショック受ける事か?」
「当たり前だろ。大記録だったんだぞ!」
だからつい、声に出してしまった。
率直な疑問をぶつけられて、日向は声を張り上げた。
まだ遠くにいた月島にも、届いたらしい。突如響いた罵声に、眼鏡のミドルブロッカーがビクッと身構えたのが見えた。
ちょっと面白かったが、笑っている場合ではない。影山も呆気にとられてぽかんとして、何の記録かと真剣に悩み始めた。
二十分と、十九分。
差にして僅か一分だが、それを記録だと言い張る日向をまじまじと見つめて、彼は沈黙するストップウォッチにも視線を投げた。
「……たかが一分だろ」
「けど、その分布団で寝てられんだぞ」
「は? だったらその分早く学校来て、サーブ練でもしとけよ」
「だから、そういう事も出来るってことだろ!」
まるで通じなかった会話が、変なところで噛み合った。ふたりして相手に負けないよう猛々しく吠えて、それでやっと分かった影山は嗚呼、と緩慢に頷いた。
そういえば日向は、随分前、学校まで自転車で二十分くらい、と言っていた。
欠けていたパズルのピースがぴたりと嵌って、彼が部のストップウォッチを持っていた理由も判明した。そういう事か、とすべてが詳らかに明らかとなって、影山はスッキリした顔で首肯した。
もっとも日向は、その表情が面白くなかった。
ひとりで勝手に納得して、満足している。彼が何を考えているかは判然としないが、本能が馬鹿にされていると訴えて来て、不機嫌の度合いが高まった。
「見てろよ。明日は、今日より二分早く着いてやっからな」
「だったら俺は、今日より五分早く着く」
「じゃ、じゃあおれは、十分だ」
「なら俺は、三十分な」
「一時間!」
「一時間半だ」
「真似すんな!」
「テメーこそ!」
倍々ゲームで、言い合う時間が徐々に伸びていく。そもそも何を競い合っていたか、根本的なところは忘れて、ただ単に数字だけを増やしていく。
最早何を言い争っているのか、当人らも分からなくなっていた。ようやくふたりのところまで来た月島は奇妙な喧嘩に顔を顰め、怪訝そうに首を傾げた。
彼らが意味不明な喧嘩をするのは、今に始まった事ではない。だが今日は一層訳が分からなくて困惑していたら、部室棟の階段を下りて来た菅原が呵々と声を響かせた。
泣き黒子の三年生の登場に、いがみ合っていた一年生両名もハッと我に返った。
「っと、とにかく。明日はぜってー、おれが勝つ」
「寝ぼけてんじゃねーぞ。俺が勝つに決まってんだろ」
こんなことをしている場合ではなかった。
早く部室に荷物を置いてこないと、朝練に参加出来ない。
仕切り直しと行こうとして、だが目論見は失敗した。捨て台詞に影山が噛みついて、堂々巡りに陥ろうとしたふたりを制したのは、手を叩きあわせた菅原だった。
「はいはい、そこ。喧嘩すんなー。折角日向が一分時短したのに、その縮めた時間を喧嘩に使ってたら、勿体ないだろ」
「……はい?」
もっとも、彼の言葉はふたりに通用しなかった。
問題児コンビに揃って首を傾げられ、菅原も虚を衝かれて目を丸くした。予想を違えて呆気にとられ、叩くつもりでいた手を空中で停止させた。
ストップウォッチを手に、自転車での通学時間を計っていたのは日向だ。
たった一分でも時間を縮められたのを喜んで、影山が分かってくれないと腹を立てていたのも彼だ。
聞き齧った情報で、状況を正しく理解していたつもりだった。
それなのに不思議そうに見つめられて、大学進学も諦めていない三年生は脂汗を流した。
「俺、なんか間違えたかな」
「あの二人が馬鹿なだけですよ」
すれ違いざまに月島に訊ね、小声で得られた返答に安堵の息を吐く。
その一方で日向はストップウォッチを振り回し、影山は瞬時に避けて鼻を高くした。
今日も相変わらず賑やかで、騒々しい。
馬鹿な子ほどかわいい、という格言を噛み締めて、菅原はいい加減急ぐよう、一年生の背中を押した。
2015/5/27 脱稿