Aroma

 スパイスの香しい匂いが、どこからともなく漂っていた。
 魅力的すぎる芳香に嗅覚が刺激され、自然と咥内に唾が湧いた。音を立てて飲み込めば、今度は胃袋がくぅぅ、と憐みを誘う音を響かせた。
 時計を見れば、午前十一時五十分といったところ。あと少しで正午になって、もれなく楽しいランチタイムの始まりだった。
 きっとこの匂いは、本日の昼食だ。
 となれば、メニューはあれしか考えられない。堪え切れず喉を鳴らして、スマイルはスキップしながら廊下を駆けた。
「カレー、カレー。カレーだネ」
 大好物を声に出し、リズムを取りながら階段を下りる。途中からは面倒になって、緩いカーブを描く手摺りを滑り台代わりにし、一階正面玄関ホールへと見事な着地を果たす。
 誰もいないというのに両手を掲げてポーズを決めて、包帯で全身グルグル巻きにした透明人間は白い歯を見せた。
 ひとり悦に入って高らかと笑い、そのままくるりと回って仰々しく御辞儀をする。まるでダンスを誘うかのような動きだったが、当然ながらペアを組む相手はいなかった。
 誰に申し込んだかといえば、台所で料理されている食材に、だろうか。
 鍋の中でぐつぐつ煮られている野菜や香辛料を思い浮かべ、彼は早く食べたいと身をくねらせた。
 青い髪を躍らせ、隻眼を細める。季節に合わせたラフな服装から覗く手足は、その特性の所為もあり、真っ白い包帯に覆われていた。
「先に洗った方がいいかナ~?」
 そんな布まみれの両手をふと見やって、スマイルは自分に向かって首を傾げた。
 食事前は手を洗え、と散々言われているけれど、彼の場合、水を使おうと思えば包帯を外さなければならない。そうして洗った後に巻き直すのは、本末転倒甚だしかった。
 かと言って巻かず、透明化した手で食器を握れば、空中浮遊しているようで気持ちが悪いと文句を言われた。
 同居人は我儘だ。暴君極まりない吸血鬼を思い浮かべ、彼はせっせと働く料理人にも相好を崩した。
 香りがきつい物は苦手な癖に、頑張ってカレーを作ってくれている。
 少し労ってやることにして、彼は玉ねぎ、そしてニンニク抜きカレーが作られているだろう台所へと歩き出した。
 手を洗う云々は脇に置き、無駄に広すぎるリビングの戸を開ける。窓が解放された空間ではカーテンが揺れており、心地よい風が吹き込んでいた。
 少し行けば不気味な谷が広がっている場所だが、この城の周辺だけは、意外に快適だ。それもこれも城主様のお陰だと肩を竦めて、スマイルは不必要に縦長のテーブル脇をすり抜けた。
 キッチンはこの奥だ。リビングとの区切りがないダイニングを横断し、心持ち早足で一直線に突き進む。
「ヤッホー」
 そうして閉まっていた扉を勢いよく開ければ、スマイルを魅了して止まない、蠱惑的な香りが一気に爆発した。
 まるで香辛料の海に落とされた気分だった。
 堪らない香りに心を震わせ、己自身を抱きしめる。感動で涙まで出そうになって、スマイルは背伸びをしながら四肢を震わせた。
「ああ、スマイルっスか」
 一方で台所の主たる男は、実に淡々としていた。
 一度振り返っただけですぐに視線を戻し、コンロに置いた鍋に意識を集中させる。木べらを持つ手はひっきりなしに動いて、香りの元凶を掻き混ぜていた。
 忙しく動き回る腕は細いながらも筋肉質で、揺れ方はドラムでリズムを取る動きに似ていた。彼もまた音楽人なのだと変なところで感心して、スマイルはふらふらと、右に、左に進路を変えながら短い距離を詰めていった。
 千鳥足でもないのに蛇行しながら、そわそわ落ち着きなく、アッシュの背後に着く。耳も鼻も良い狼男は苦笑して、指を咥えて待っている男に視線を投げた。
「もう少しかかるっスから、テレビでも見て、待っててくださいっス」
「エー」
 コンロとは反対側に置かれた炊飯器も、白い湯気を噴いていた。間もなく炊き上がる合図で、昼食が始まるまでそれほどかからないと教えてくれた。
 けれどスマイルは不満そうに口を尖らせ、子供でもないのに頬を膨らませた。
 年齢不詳ながらも、既に数百年生きている男が、だ。
 随分と可愛らしい拗ね方に、苦笑を禁じ得ない。アッシュはやれやれと肩を竦め、コンロの火を弱くした。
 焦げ付かないよう火力を小さくして、けれど鍋を混ぜる手は緩めない。
 忙しない動きに目を眇めて、スマイルは逞しい背中に張り付いた。
「うひっ」
「あれ。なんだかチガウ」
 脇腹を左右から挟み持ち、それを支えに身を乗り出す。
 いきなり背後から抱きつかれた方は変な声を上げ、両手両足を引き攣らせた。
 もれなく鍋から木べらが浮いて、先端に張り付いていたひき肉が零れ落ちた。ボロボロと呆気なく崩れていく塊はどれも小さくて、スマイルが良く知るカレーとは明らかに違っていた。
 食卓に並ぶカレーは、もっと汁気が多い。肉だって四角いブロックで、ジャガイモやニンジンも大きかった。
「なにコレ」
「吃驚するじゃないっスか、スマイル」
「アッシュ君。これナニ?」
 あと少しで鍋に手を突っ込むか、突き飛ばすところだった。
 急に触られた抗議に脂汗を流したアッシュだったが、肝心のスマイルは鍋の中身に夢中で、反省の色は皆無だった。
 人の話を全く聞いていない。
 究極のマイペースぶりに絶句して、狼男は深々とため息を吐いた。
「カレーっス」
「ウソだあ」
「本当っスよ。初めて作るっスけど」
 落胆しつつ呟くが、スマイルは信じない。隻眼を真ん丸にして言われて、アッシュは鍋の持ち手を軽く小突いた。
 傍にはレシピ本が置かれていた。勝手に閉じないようクリップされたページには、確かにカレーの文字が躍っていた。
「ドライカレー……」
「っス」
 アッシュにしがみついたまま、スマイルはそちらに首を伸ばした。狭い視界で懸命に目を凝らして、細かい調理工程と、書き足されている覚えのある文字の両方に視線を走らせた。
 狼男も、吸血鬼も食べられるものにアレンジしようと、あれこれ頭を捻ったらしい。
 苦難の形跡が垣間見えて、彼は緩慢に頷いた。
「で?」
「……で。とは」
「美味しいノ?」
「さっ、さあ……?」
 その上で、訊ねる。
 鈍い男に言い直せば、アッシュは目を泳がせて遠くを見た。
 初めて作るものだから、味に自信がないらしい。玉ねぎの代わりにセロリを入れてみたり、大幅にアレンジしているのもあって、完成品の味は想像出来ていないようだった。
 目を逸らしたまま手だけを動かす狼男に、スマイルはまたもやぶすっ、と頬を膨らませた。
「不味かったら、許さないヨ」
 ドライカレーは、文字通り水分を少なくしたカレーだ。長く煮込み、味を馴染ませたものとは違う。
 似たようなものばかりだと飽きが来るので、たまには冒険しようと試みた。
 だがスマイルはお気に召さなかったようで、不満そうな表情は直らなかった。
 脅されて、アッシュは顔を引き攣らせた。
「が、がんばる……っス」
 もっともあと少し水気を飛ばせば、カレーは完成する。
 ここからどう頑張れば良いか分からないまま返事をして、彼は疲れた様子で肩を落とした。
 コンロの火を更に弱め、木べらに残っていたひき肉を落としてスプーンに持ち替える。
 中身をほんの少し掬って味を確かめようとした彼は、ふと、突き刺さる視線を感じて眉を顰めた。
 元から細い目をもっと細くして、斜め下に顔を向ける。
 いつの間にかしゃがみ込んだスマイルが、涎を垂らして一点を見詰めていた。
 眼差しの先にあるのは、アッシュが手に持つ銀色のスプーン。
 たったひと匙ではあるけれど、食欲をそそるスパイスの香りが立ち上っており、匂いだけで腹が膨れそうだった。
 なんだかんだ言いつつも、興味があるらしい。
 試しにスプーンを左に泳がせてみれば、スマイルの首も、もれなくそちらに傾いた。
 くっついて、離れない。まるで見えない糸で繋がっているかのようで、面白かった。
「アッシュ君?」
「……ひとくちだけっスよ?」
 そのうち、スマイルも遊ばれているのを自覚した。
 不満たらたらに名前を呼ばれて、狼男は照れ笑いで誤魔化した。
 味見役は、譲るしかあるまい。からかった詫びも込めてスプーンを差し出せば、スマイルは背筋を伸ばして素早く立ち上がった。
 てっきり、銀の匙ごと攫って行くものと思っていた。
 けれど彼はアッシュの前で笑顔を浮かべると、片方だけの目を閉じて、入れ替わりに口を開いた。
「あー」
 歯医者に行った時、丁度こんな感じになる。
 綺麗な歯並びと暗がりから覗く赤い舌にゾワリとして、アッシュは発作的に右手を前に突き出した。
「んグ」
「っは。大丈夫っスか」
 勢いよくやり過ぎた。
 スマイルの呻く声が聞こえて我に返って、彼は慌てて手を引っ込めた。
 しかし思わぬ抵抗を受けた。スプーンを引き抜こうとしたが思うように進まず、逆にぐいぐい引っ張られた。
 口を真一文字に引き結び、スマイルが青い顔を赤くする。
 力が緩んだのはその数秒後で、勢い余ったアッシュはもう少しで倒れるところだった。
 スプーンが飛んでいきそうになった。すんでのところで掴み直して、彼は呑気にもぐもぐやっている男に引き攣り笑いを浮かべた。
「ど、う……っスか?」
 恐る恐る問いかけられて、スマイルは静かに目を閉じ、意識を集中させた。
 細かく切り刻んだ野菜とひき肉が混じり合い、そこにスパイスが絶妙な加減で豊かな香りを放っていた。噛めば噛むほど深い味わいが広がって、それぞれ異なる食感が楽しかった。
 鼻を抜ける香りが心地良く、変化が楽しい。もう少し辛い方が好みではあるけれど、甘党のアッシュが作るものは大体こうだから、文句はなかった。
「ンー……」
 瞑目し、唇をぺろりと舐める。言葉を探して沈黙して、ドキドキしながら待っている男をこっそり窺い見る。
 アッシュは折れそうなくらいにスプーンを握りしめて、神妙な顔をして息を潜めていた。
 彼が作るもので、今まで不味かったものなど、ありはしないのに。
 相変わらず自信が足りないと喉の奥で笑って、スマイルは屈託なく微笑んだ。
「えっと、ネ」
「いけそうっスか」
 首を右に傾けて、感想を述べようと口を開く。
 だがそれより早く、せっかちな男が鼻息荒く捲し立てた。
 一分もかからないのだから、待てばいいのに。
 その辺りも相変わらずだと苦笑して、スマイルは弱火で煮られている鍋と、狼男を見比べた。
「えーっと、スマイル?」
 それで思い出したのか、彼は慌てて火を消した。鍋の底に張り付くカレーを再度木べらで掻き混ぜて、なかなか語ろうとしない透明人間を訝しむ。
 不安げな大男に口角を歪め、スマイルはシシシ、と白い歯を見せた。
「よく分かんなかったカラ、もうひと口」
「うっ、ふ」
 じっくり味わって食べたくせに、ぬけぬけと言い放つ。
 アッシュは堪らずガクリと膝を折り、なんとも図々しいバンド仲間にかぶりを振った。
「スマイルに味見してもらうと、全部食べられちゃうっスね」
「そんなことナイヨー?」
 鍋の中身は、丁度三人分。
 ここで量を減らす真似は、出来るものなら避けたかった。
 本人は否定したが、絶対に起こらないとは言い切れない。つまみ食いが得意な透明人間を一瞥して、アッシュは軽く悩み、鍋の持ち手を叩いた。
 全身でリズムを刻み、最後にフットペダルを踏むかのように床を蹴って、肩を竦める。
「あとひと口だけっスからね?」
 味の感想がまだ聞けていないのを思い出し、渋々承諾する。
 念を押した大甘の彼に相好を崩し、スマイルは深く頷いた。
 そうして再度、大きく口を開く。
 アッシュが匙で掬って、運んでくれると疑うことなく信じている。
 それはさながら餌を待つ雛鳥で、これはこれで悪くないと、アッシュは目尻を下げた。

2015/05/16 脱稿