一斤染

 その桜は、学校や川縁に植えられている桜とは種類が違っていた。
 春になると一斉に花を咲かせるソメイヨシノは、もうとっくに散ってしまった。四月の頭、入学式が終わって暫くは頑張っていたけれど、冷たい雨に数日晒されたのと、風が強く吹いた所為で、その大半は葉桜へと移行していた。
 少し前まで路上には花びらが溢れ、車が走り抜ける度に巻き上げられていた。
 それはとても美しい光景だった。しかしタイヤや、靴底に踏み潰された花弁は次第に茶色く変色して、やがて側溝を詰まらせる原因と化した。
 そうなると、最早ただの邪魔なゴミでしかない。
 花の盛りは一瞬で、人心の移ろいは早い。
 登校前のランニングで通っていた道の桜も、花は殆ど残っていなかった。薄紅色の嵐の中を駆け抜けたのは三日ほどで、夜が明け切らない時間の儚い美しさも、記憶の中から徐々に薄れようとしていた。
 そんな時だ。
 見慣れない形に咲く花を見つけたのは。
 大きくて、まるで毬のようだった。花弁は何重にも重なって、膨らんで、ボリュームがあり、逆に言えば重そうだった。
 だからか、茶色い枝から垂れる花はどれも下を向いていた。お陰で観賞しやすいけれど、雰囲気が違い過ぎて、最初はそれが桜だと分からなかった。
「おっと」
 気が付いたのは、風に散らされた花びらを拾ってから。
 黒髪に絡みついた薄い花弁を手に取れば、色といい、形といい、良く知る桜そのものだった。
 根元が僅かに薄く、先端に向かって仄かに色が濃くなっていく。
 自然が生み出した可憐なグラデーションに目を見張って、影山飛雄は天を仰いだ。
「相変わらず、すげえな」
 その木は河川敷から離れた、あまり目立たないところに植えられていた。
 地元の神社の、本殿の裏。秋になれば紅葉が素晴らしく、近所の人が一斉に押しかけるその場所は、この季節はひっそり静まり返っていた。
 たった一本だけだったけれど、それは堂々とした佇まいを見せていた。外見で樹齢が分かるほど詳しいわけではないけれど、恐らくは百年以上、ここに根を下ろしているに違いなかった。
 見つけたのは偶然だ。
 中学時代より走る距離を伸ばし、コースを変えたことで出会えた奇跡だった。
 西の空が白み始め、太陽が地平線から顔を出す。地表を照らす光は未だ弱く、藍色を背負った桜はどこか現実味に欠けていた。
 絵画から飛び出して来たかのようだ。
 感嘆の息を漏らし、影山は太い根を避けて幹に近付いた。
 美術の点数は散々だが、この光景は歴史に残されるべきだと思う。感慨深く息を吐いて、彼はゴツゴツした樹皮に手を伸ばした。
 まだ明け方も早い時間帯だからか、表面は冷たかった。サッとひと撫でしただけで体温を一部持って行かれ、馴染みの薄い感覚が指先に残された。
 別段汚れたわけではない。掌を返して不思議そうに見つめて、影山は風で揺れる枝と、降り注がれる花びらに目を細めた。
「なんでコイツだけ、違うんだろ」
 それが八重桜と呼ばれるものだとは知らぬまま、影山は紅色が天を埋める様に見入った。
 もっと目立つ場所に植えられていれば、道を行く人だって多く気付くだろうに。
 鳥居を潜って境内を抜けて、拝殿で手を合わせて帰るだけだと、この桜は視界に入らない。
 影山も知らなかった。ジョギングコースに加えられるかと境内を調べていた時に、偶々目に飛び込んで来なければ、今も素通りしていたに違いない。
 日増しに蕾が膨らんでいく様は圧巻で、満開となった時期は暫くその場から動けなかった。
 それで時間を食ってしまって、危うく部活動に遅刻するところだった。
 朝七時からの早朝練習は、一位争いが苛烈だった。
 日の出前に置き出して、軽く胃に食べ物を入れて、家の近所をジョギングして。家に戻った後は着替えて、朝食をしっかり食べて、学校へ行く。
 練習が始まるのは朝七時から。
 但し影山にはライバルがいて、彼と毎朝、どちらが先に第二体育館に入るかで競い合っていた。
 自転車通学している日向には、負けたくない。
 彼が朝、三十分かけて山越えしてくるというのなら、影山はそれ以上の距離を走ってみせる。
 誰かに比較されたからやっているのではない。
 単純に、男の意地の問題だった。
 理由は良く分からないが、彼より劣るところを持ちたくなかった。正門から体育館までの徒競走はいつだって全力で、練習が始まる前から疲れてどうする、と周囲には呆れられていた。
 それでも止める気はないし、終わりそうな雰囲気もなかった。
 日向はいつだって、歯向かってくる。
 誰もが勝ち目はないと思っている状態でも、絶対に諦めたり、折れたりしない。最後まで心を強く保ち、真っ直ぐ、脇目も振らずに突っ走っていた。
 その無謀なまでの一途さが、時々、羨ましかった。
「すげえ、綺麗だ」
 満開を迎えて、花は徐々に散り始めていた。
 昨日よりも、空を舞う花弁の量が多い。足元も落ちた花びらで埋まっており、風が吹く度に巻き上げられていた。
 掌を上にして掲げれば、そこに花びらがするりと滑り込んだ。しかし掴み取る前に通り過ぎられて、握ったのは空気だけだった。
 舞い踊る花弁を捕まえるのは、思った以上に難しい。
 簡単だと高を括っていた影山は目を丸くして、空っぽの両手を何度も握り、開いた。
「よっ、と」
 散る花の美しさを一旦脇に置き、右手を宙に突き出す。しかし今度も失敗で、勢い勇んで広げた掌には、何も乗っていなかった。
 また掴み損ねた。
 ひらひらと踊りながら散る花は、軽い所為か、風の影響を受けやすかった。
 手を伸ばせば、その圧力さえも花弁の軌道を変える材料となり、目標を見失わせる要因となっていた。
 かと言ってじっとして、降ってくるのを待つのは面倒だ。
 短気な性格に歯軋りして、影山はなかなか巧く行かないと小鼻を膨らませた。
 こうなれば、成功するまで試してやりたい。
 時間がそれほどあるわけでもないのに息巻いて、彼は樹下で地団太を踏んだ。
 花びらを掴みとれたところで、何かが変わるわけでもないというのに。
「くっそ。そりゃ!」
 誰も居ない神社の裏で、朝早くからひとり息巻く。勇ましい掛け声を響かせて、その都度落胆の息を吐いて頭を掻きむしる。
 他人が見たら、不審者がいると通報しそうなレベルだ。けれど当人は気付かず、躍起になって散る桜に拳を叩き付けた。
 そのうち、バレーボール選手でありながら、何故かボクシングのようになった。素早くパンチを繰りして、落下のコースを先読みして跳ね飛ばす技術に磨きをかけた。
 誰にも自慢出来ない特技を習得し、得意になって胸を張る。
「ふっ」
 勝ち誇った笑みを浮かべて口角を持ち上げた矢先、桜に無体を働いたのを責めるかのように、強い風が吹き荒れた。
「うおっ」
 足元から突風が吹き抜け、四方に広がる枝が一斉に戦慄いた。
 咄嗟に首を竦めて頭を抱え込んで、影山はびゅうびゅう鳴る旋風から己を守った。
 乾いた地面から埃が舞い上がり、飛ばされた小石がジョギングシューズの側面を叩いた。ジャージから覗く足首にも当たって小さな痛みが走り、彼は深く息を吐いて姿勢を正した。
 煽られた黒髪が一部、あらぬ方角を向いていた。目で見えなくても感覚で察知して、彼は乱れた頭を手櫛で整えた。
 艶を帯びた髪は癖もなく、数回梳くだけで真っ直ぐに戻った。瞳に入りそうになった毛先は脇へ払い除けて、影山は深呼吸を二度、三度と繰り返した。
「……すげ」
 そうして何気なく見た上空に驚嘆し、息を呑んだ。
 今の突風で攫われた花びらが、雨となって地上に降り注がれていた。
 先ほどの比ではなかった。これなら楽勝で捕まえられそうだったが、そのことも忘れ、彼は初めて見る光景に総毛立った。
 桜の花ひとつで大騒ぎして、狭い場所に大挙して押し寄せるのが、影山には理解不能だった。
 だから花見も、したことがなかった。
 小学生の頃に、親に連れられていった記憶はある。しかし観光地だったので人が多すぎて、花を見るどころではなかった。行き帰りの道も混んでいて、渋滞が酷く、無駄に疲れただけだった。
 中学に上がった後はバレーボール一辺倒で、家族で遊びに行く機会は減った。チームメイトから祭に誘われる事もなくて、クラスメイトが花見をした云々と喋っているのを、教室の隅で聞いて満足していた。
 桜に触れる機会があるとすれば、ジョギングの時だけ。
 もっともそれだって、満開の花のトンネルを潜る目的ではなく、いつものコースが偶然桜並木だっただけだ。
 綺麗だけれど、そこまで夢中にさせられるものではない。
 ずっと、そういうスタンスだった。
 それでいいと思っていたし、これからもそのつもりでいた。
「マジで、すげえな」
 だというのに、訂正しなければいけなくなった。
 他に語彙がないのかと笑われそうな感想を述べて、影山は風に巻き上げられた花びらに見入った。
 蝶が躍っているようだった。
 これまでにも河川敷を走っている時、花の嵐に見舞われた事はあった。けれど今日は足を止め、しかも樹齢を重ねた巨木の根本に佇んでいるからか、その迫力は並のものではなかった。
 感嘆の息を吐き、どうせ来ないだろうと思って何気なく手を伸ばす。
 すると緩く曲げた指の隙間から、ひらりと花弁が滑り込んできた。
 そのまま行き過ぎていくかと思いきや、手首に至る手前で失速した。人間には感じ取れない程度で弱風が吹いたのか、押し戻されて掌の皺の上に落ちた。
 ふわふわと揺れながら、やがて勢いを失って完全に停止する。
 反射的に握りしめて、影山は興奮に胸を高鳴らせた。
 訳もなく鼓動が早まり、頬が紅潮した。宝物を見つけたような気分になって、年甲斐もなくワクワクが止まらなかった。
「アイツに、自慢してやろうか」
 ふとそんな事を思って、彼は生意気なチームメイトに口角を持ち上げた。
 不敵に笑い、脳裏に幼い顔を呼び起こす。身長百六十センチ少々のミドルブロッカーはいつも元気で、明るく、ハチャメチャで、驚くほど前向きだった。
 どんな絶望的な状況でも俯かず、勝利を信じて疑わなかった。一心に、ひたむきにボールを追い続け、譲らなかった。
 その純粋さが眩しかった。
 自分と同じくらい、いや、それ以上にバレーボールが好きな奴に出会えたのは、幸運だった。
 もし彼が北川第一中学にいたら、何かが違っていただろうか。
 ありもしない事を想像して、珍しく感傷的になって、影山は利き手を開いた。
「……うげ」
 そこにあったのは、可憐な桜の花びらではなかった。
 熱を吸い、汗に濡れ、丸まって潰れてしまった残骸だった。
 非常に薄く、小さいものだから、もっと丁寧に扱わないといけなかった。こんなにも繊細で、脆いものだったとは知らなくて、彼は愕然としながら筒状に形を変えた花を小突いた。
 柔らかい。が、押した分だけ一段と形が崩れ、頑張って広げてみたが、見事に皺くちゃで、ボロボロだった。
 爪の痕が茶色く変色し、見る影もなかった。これでは持っていても仕方がないと肩を落とし、彼は仕方なくその花びらを地上に還した。
 折角自ら飛び込んできてくれたのに、申し訳ないことをした。
 犬猫にも嫌われて、近付こうとしたら威嚇される。ちょっとくらい撫でさせてくれてもいいのに、願いが叶った例は一度もなかった。
 まさか桜にまで嫌われようとは、夢にも思わなかった。
「そろそろ、行かねーと」
 落胆にかぶりを振り、気を取り直して呟く。
 名残惜しいが、ゆっくり出来る時間は終わった。早く家に戻らないと、朝食を摂る時間がどんどん減って行く。
 それはつまり、部の早朝練習に出遅れる、という事だ。
 昨日は日向に一杯喰わされたので、今日は負けられない。二連敗などという不名誉は、是が非でも避けたかった。
 季節の移り変わりを体感して、今一度桜の大木を仰ぎ見る。
 天辺は見えず、桜の笠を被っているようだった。
「見せてやりてえな」
 ここは、影山の秘密の場所だ。
 来年も、忘れずに通いたい。誰にも教えず、伝えず、ひとり静かに過ごす場所にしたかった。
 けれど、もし、ひとりだけ連れてくるとしたら。
 こういう時、好きな女子を思い浮かべるものなのだろう。しかしずっと排球に熱を上げていた影山には、そんな相手はいなかった。
 代わりに思い浮かんだのは、中学三年時の大会初戦で対戦し、この四月に期せずして再会を果たした相手だった。
 毎日、取っ組み合いまではいかないけれど、喧嘩が絶えなかった。
 文句を言えば言い返して来るし、睨めば睨み返してくる。怯えた顔で視線を外す、嘗てのチームメイトとは大違いだった。
 日向はいつだって、真正面からぶつかって来た。逃げたりしない。臆しもしない。
 簡単には諦めない。
 困難を楽しみ、逆境をチャンスに作り替える力があった。
 彼のバイタリティーに憧れた。羨ましかった。
 もっと早く出会いたかった。
 ない物ねだりと分かっていても、願わずにはいられなかった。
 この木を見たら、日向は何というだろう。驚くだろうか。歓声を上げるだろうか。
 満開の桜の下で、花びらのシャワーを浴びて。
 日向が笑う。
 嬉しそうに笑っている。
 それが見たいと、何故か思った。
「連れて、きてえな」
 散る花は、今日がピークだろうか。天気予報では、明日から雨が降り始めると言っていた。
 日向の家は影山の暮らす町とは逆方向で、しかも峠をひとつ越えなければいけない。朝早くから呼び出して、連れてくるのは難しかった。
 夜は灯りがないので危険だし、暗いと花も良く見えない。
 昼間に学校を抜け出す選択肢はないし、放課後の練習をサボる、というのはもっと有り得なかった。
 どう考えても、打つ手なし。
 一年待つか、諦めるしかない。がっくり肩を落とし、影山は視界に紛れ込んだ桜色を追い払った。
 前髪に花びらが引っかかっていた。
 もしかしたら後頭部や、服にまで張り付いているかもしれなかった。
「……ああ、そうか」
 妙案が浮かんだ。
 ぽつりと呟き、影山はジャージのファスナーを下げた。上着を脱ぎ、薄手のTシャツ一枚になって、白色のウェアを手に広げた。
 その日。
 朝、六時三十分。
 いつも通り早めに学校に到着した日向翔陽は、正門近くに知った顔がないのを確かめて、嬉しいような、少し残念な気持ちになった。
「ちぇ。なーんだ。またおれの勝ちか」
 自転車を駐輪場に置き、荷物で満杯の鞄を肩からぶら下げて道を急ぐ。
 緩やかな坂を登った先にある烏野高校は、小学生の頃から憧れの場所だった。そこに今年の春から通えるようになって、彼の毎日はそれこそバラ色に染まっていた。
 もっとも、場所によっては害虫が出るし、色の悪い花びらだってある。
 その筆頭株を思い浮かべて、日向は荒々しく地面を蹴り飛ばした。
「ったく、さー。あんな古典的な罠に引っかかる方が、馬鹿だってのにさ」
 昨日は、ギリギリの勝利だった。
 朝練前の登校時、彼はいつも影山と競争になった。始まりは些細なやり取りで、距離だってもっと短かった。しかしいつの間にか毎朝の恒例行事となり、正門から体育館前までと、コースも大幅に変わっていた。
 勝率は、ほぼ五分と五分。
 ただ若干、影山の方が勝ちが先行していた。
 一度差が開くと、そのままずるずる行きかねない。そうはなりたくなくて、昨日はちょっと、狡い手を使った。
 走っている途中であらぬ方向を指差して、「あっ!」と大声で叫んだ。
 勿論何もなかったのだが、驚いた影山は余所に気を取られ、足が緩んだ。その隙に日向は彼を追い抜いて、勝利をもぎ取った。
 卑怯な手を使ったと散々責められたが、幼稚な策にまんまと嵌った影山だって、悪い。
 絶対に負けを認めないと言い張る影山は頑固で、救いのない馬鹿だった。
 もっとも、日向だって本当は分かっている。
 いつもは勝ったら嬉しいのに、昨日は全然、喜べなかった。
「ちぇ」
 小石を踏み潰し、誰も居ない学校に口を尖らせる。
 ここの所ほぼ毎日、影山と騒動を引き起こしていた。だから静かすぎるこの時間は何故か不安で、不満でならなかった。
 一日の楽しみが削り取られたようで、面白くない。頬を膨らませて息を吐いて、彼は足を高く蹴り上げた。
 どうして影山は来ないのか。
 考えて、日向は後ろを振り返った。
 朝寝坊でもしたのだろうか。それとも、登校途中でなにかあったのか。
「……まさか」
 嫌な想像をして、瞬時に否定する。しかし一度抱いた懸念は、簡単には払拭出来なかった。
 胸の奥にざらりとした感触が広がって、視界が一瞬暗くなった。ふらついて倒れそうになったのをすんでで堪え、日向は無理に笑おうとして失敗した。
 頬が引き攣り、変な顔になった。
 人が見たら笑われそうな表情を作って、彼は二秒後、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「ないない。影山なんか、殺したって死なないって」
 交通事故で車にはねられても、ぴんぴんしていそうだ。
 実際、彼の頑丈さはお墨付きだ。日向も大概な方だが、彼も相当なものだった。
 だから、絶対に大丈夫。
 声には出さずに己を鼓舞して、改めて体育館を目指すべく、姿勢を正す。
 身体の向きを反転させて右足を浮かせたところで、ふと、地鳴りを感じた。
「うん?」
 まさか地震か、と思ったが、そうではない。
 徐々に近づいてくる振動に首筋を冷たくして、日向はヒヤッと来た空気に背筋を粟立てた。
 恐々振り返った彼の視界に。
 土煙を巻き上げて、一直線に走ってくる男の姿があった。
「うぉぉぉぉぉ待てやぁぁぁぁぁ!」
「ひぎゃっ」
 他でもない、影山だ。血走った目を爛々と輝かせて、獲物を見つけた肉食獣の笑顔を浮かべ、猛スピードで近付いて来ていた。
 その勢いは、凄まじい。
 オリンピック金メダリストも真っ青の速度で地を駆ける彼に、流石の日向も思わず総毛立った。
 潰れたカエルのような悲鳴を上げ、急ぎ逃げようと地面を蹴る。しかし慌て過ぎたのか、スニーカーの底が砂の上を滑った。
「ひぃぃぃ!」
 それでもなんとか踏み止まって、エンジンを吹かしてスピードを上げる。ただ完全に油断していたのと、スタートダッシュに失敗した事で、脚は思うように回らなかった。
 必死になればなるほど空回りして、影山との距離がどんどん狭まっていく。
 焦る日向の背中では、黒のジャージの下に着た、パーカーのフードが躍っていた。
 通学時間帯はまだ寒いから、厚着して登校するのが基本だった。
 練習着は鞄の中で、着替えには一分もかからない。きちんと畳むよう、主将から毎回注意されるけれど、そんな僅かな時間でさえ惜しかった。
 缶バッジを沢山取り付けた鞄も大きく弾んで、肩よりも高く跳ねた。
 ぽーん、と舞い上がり、天地がひっくり返る。中身が飛び出る恐怖に負けて、右手が宙に浮くそれを掴み、脇腹へと抱え込む。
 結果的に、それが命取りだった。
「待てつってんだろ、ごるぁ!」
「ぎゃあああっ」
 余計な動きをした所為で、速度が落ちた。影山の怒号が真後ろから轟いて、恐怖に心臓が縮こまった。
 全身に鳥肌が立ち、喉が詰まった。但しそれは精神的な原因から来るものではなく、本当に、物理的に首が絞まっていた。
「ぎゅぇ」
 舌を出し、白目を剥く。なんとパーカーの襟が肉に食い込んで、喉を圧迫していた。
 影山の手が、フードを掴んでいた。後ろから手を伸ばして、引っ張るには丁度いいアイテムだったらしい。己の選択ミスを悟って顔を赤くして、日向は左手で喉を掻き毟った。
 食い込む布を緩め、気道を確保しようと足掻く。だが影山は気付いていないのか、力を弱めようとしなかった。 
 それどころか逆に、フードを真下へと突き落とした。
「ぎゃ」
 ボス、と拳を叩きこまれた。膝がカクリと折れ曲がり、尻が踵よりも後ろに傾いた。
 重心を崩され、立っていられない。両手を首に添えたまま口をパクパクさせて、日向は青空と白い雲のコントラストに涙を流した。
 よもや人生最後に見る光景が、これになろうとは。
 笑顔で送り出してくれた母を思い浮かべて目を瞑って、二秒後。
「おらよ」
「わっ、ぷ」
 唐突に、影山が掴んだフードを日向に被せた。
 視界が暗くなった。同時に喉の圧迫も解除されて、乱暴な手も離れていった。
 酸素不足に陥った脳は、目まぐるしい状況の変化に対応出来なかった。バクバク言う心臓と止まらない汗もあり、日向は目を白黒させた。
 いったい今の、三十秒にも満たない僅かな時間に何が起きたのか。
 全く分からなくて、彼は視界を塞ぐフードと、押し潰されていた前髪を、額の高さまで持ち上げた。
「ん?」
 影山は何も言わず、すたすたと歩きだしていた。
 ペースを極端に落とし、もう走ってはいかない。両手はズボンの中で、黒字に白抜きで記されたアルファベットを自慢していた。
 昨日の仕返しのつもりか。
 力技で人の足を止めた男に首を傾げて、日向は視界を過ぎった、此処に在るはずのないものに眉を顰めた。
 ひらりと舞い落ちたそれは、小さく切り刻まれた紙屑のようだった。
「ちがう」
 けれど良く見れば、それは皆同じ形をしていた。色は淡い桃色で、非常に薄く、風に攫われるほど軽かった。
 宙に舞ったそれを追いかけ、良く確かめようと手を伸ばす。
 瞬間、強めに吹いた風がパーカーのフードを攫った。
「うわっ」
 視界が一気に開けて、空が明るさを取り戻した。耳元でぶわっ、と空気が渦を巻き、押し出された何かが旋回しながら天高く駆け上がった。
 薄紅色の花弁が巨大な花を咲かせ、直後に日向を巻き込んで後方へと奔った。満開の桜は一瞬で掻き消え、幻を追いかけて視線を向けた先にはなにも残らなかった。
「なに、今の」
 茫然と呟き、目を見張る。
 カクリと落ちた肩から鞄の紐が滑って、肘に引っかかって止まった。
 惚けた顔で立ち尽くし、日向は前髪に絡みついていた花弁を払い落とした。
 桜だった。
 平地では既に終わった桜が、何故か彼の頭上で満開になった。
 瞬き一回分の奇跡だった。信じ難い出来事に目をぱちくりさせて、右足を退いて姿勢を戻せば、五メートルほど先に見知った顔があった。
「あっ」
 目が合った、と思ったら、影山は仏頂面を背けた。心持ち顔を赤くして、口を尖らせ、先ほどより若干早足で歩き始めた。
 手品のネタを仕込んでいったのは、彼以外に考えられない。
 喉元に残る薄い痣をなぞって、日向は粋な計らいに頬を緩めた。
「影山、すげーな。むちゃくちゃ綺麗だったぞ!」
 今年は色々あって、ゆっくり桜を見に行けなかった。毎年のように友人らと出掛けていたのに、部活動が忙しく、その余裕が持てなかった。
 そうこうしているうちに全部散ってしまって、悲しかった。山の上の方はまだ蕾だけれど、これもじっくり鑑賞する暇はなさそうだった。
 だから今のが、今年最初で最後の花見だ。
 唐突の狼藉に驚かされたけれど、許してやってもいい。無愛想で馬鹿な影山でも、こんな気の利いたことが出来るのかと笑って、日向は興奮気味に両手を広げた。
 白い歯を見せて、相好を崩す。
「っ!」
 直後、チームメイトの顔がより赤くなった。まるで火が点いたかのように真っ赤になって、何故か狼狽激しく右往左往した後、踵を返して駆けだした。
「なんだ?」
 折角人が礼を言っているのに、あの態度は酷い。
 変な奴だと眉を顰め、日向は遅れて地上に戻ってきた花びらへと手を差し伸べた。

2015/4/15 脱稿