なづさひけりな梅の立枝を

 言い出したのは、審神者だった。
 それはうんざりするほど降り積もっていた雪が溶け、地面が露わになり始めた頃だった。
 刺されば痛そうな氷柱が軒から垂れなくなり、五百羅漢宜しく並べられていた雪だるまが拉げ、異形を成し始めた時期だった。
 緑褐色の羽根を持つ鳥が飛来して、優美な声を響かせていた。野に出れば蕗の薹が顔を出し、山辺から流れる川は雪解け水で嵩を増していた。
 雪はまだ降るが、前ほど積もらない。軒下の日向は暖かく、外を出歩くのも苦でなくなり始めていた。
 年寄りたちは相変わらず火鉢を囲んで動かないが、子供たちは元気だ。残り少なくなった雪を玩具にして遊び、駆け回る短刀たちの声は、いつの日も五月蠅かった。
 冬の間は出陣の回数も減っていた。日が沈むのが早く、不利な戦いを強いられるのを嫌った、というのもある。
 身体が鈍らないよう鍛錬は欠かさなかったが、物足りなさを覚えて鬱憤が溜まっている刀剣も多い。特に大型で、好戦的な薙刀や、血気盛んな太刀にその傾向が強かった。
 だから気晴らしをしよう、という提案が審神者から出されたものの、皆、何をするのかは分からなかった。
 料理当番の男たちが命じられるまま弁当を拵え、大量の食事と水、酒を運んでの行群は、傍目には奇異なものとして映っただろう。
 隊を組んで行動することはあっても、審神者によって降ろされた付喪神全員が一度に動くなど、稀な話だった。そもそも本陣を空にする事自体が、本来あってはならない事だった。
 いったいどこへ連れて行かれるのか。
 遠出を喜ぶのは短刀ばかりで、大半は戦でもない外出を渋った。しかし主には逆らえず、仕方なく大量の荷物を運び、黙々と歩いていた。
 雲行きが変わったのは、里を離れて山辺に近付いてからだった。
「アタシ、分かっちゃったかも」
 自前の酒瓶を手にぶら下げた次郎太刀が、真っ先に嬉しそうに手を叩いた。続けて石切丸も嗚呼、と嘯き、流石は主だ、と穏やかで優しい笑みを浮かべた。
 残る者は分からないのか、互いに顔を見合わせていた。しかし子供たちを先導していた一期一振も訳知り顔で頷いて、知りたがる弟たちに向かい、後の楽しみだと囁いた。
「……ああ、そういう事ですか」
「あにさま?」
「近くまで行けば、小夜にも分かりますよ」
 遅れて宗三左文字も得心がいった様子で首肯して、並んで歩いていた小夜左文字に目を細めた。
 日頃は騒々しいのを嫌い、屋敷に籠ってばかりの彼だけれど、今日ばかりはそれも許されなかった。強制参加だと審神者に命じられて、嫌々ではあったが、集団に加わっていた。
 けれど屋敷を出た時とは違い、今の表情はどこか楽しげだった。
 この先に、何か良い事が待ち受けているのだろうか。
 秘密だと囁かれた小夜左文字は緩慢に頷き、あまり遠くまで見渡せない、己の背の低さに頬を膨らませた。
 太刀や打刀たちの目には、何が映っているのだろう。道の傍らを流れる小川のせせらぎを聞きながら、彼は少し離れた場所に居る男の背中を睨みつけた。
 あちらも、行き先がもう分かっているのだろうか。
 先頭を行く審神者に追随し、なにやら言葉を交わしている。真後ろで加州清光が睨みを利かせているとも知らず、歌仙兼定は至って暢気だった。
 過去に遡って歴史の改変を目論む者たちが居て、これを防ぐために、審神者が派遣された。
 審神者は刀剣の魂を付喪神として降ろし、人の形を与えて、異形の介入者の討伐を命じた。
 だというのに、最近は変異が少ない。敵側も寒いのが苦手だという笑い話は、深く考えると、存外笑えない話だった。
 本格的な春が来れば、忙しくなるのだろうか。
 戦嫌いの長兄の顔を窺って、小夜左文字は首を竦めた。
「どこへ、行くのでしょう」
「戦でなければ、私はどこへでも構いません」
「……っ」
 自問自答を装って囁けば、思いもよらず合いの手が返された。宗三左文字の反対側にいた江雪左文字は、淡々とした口調で抑揚なく呟いた。
 冷淡な返答ではあったが、小夜左文字には十分だった。口数が少なく、刀剣でありながら争乱そのものを厭う男は、血濡れた手を持つ末弟を疎い、忌避している趣があった。
 それが勘違いであればいいと、何度願った事だろう。
 つれない応対とその中身にではなく、反応があった事それ自体を単純に喜んで、少年は少しだけ歩幅を広くした。
 各々がどのような思いを裡に秘めているかなど関係無く、新緑が芽吹き始めた野の道を、行列が進んでいく。
 終着点は唐突に訪れ、皆を驚かせた。
「おぉ、これは見事な」
「すっげー。良い香り~」
 遠くから眺めるのと、間近で目にするのとでは、矢張り違うようだ。
 岩融に並んで大柄な蜻蛉切が感嘆の声をあげ、金の髪が眩しい獅子王も、興奮気味に跳び上がった。
 そこは山裾に造り上げられた、立派な梅林だった。
 人の手が入っているのだろう、下草は綺麗に刈られていた。広々とした空間に枝を広げる梅の木は、花の色も紅や白と、種類が異なるものが多種、見栄え良く植えられていた。
 甘い香りがそこかしこから漂い、目だけでなく、鼻でも人を楽しませてくれる。風が吹けば特に顕著で、長時間歩かされた不満や疲れも、一瞬のうちに消し飛んでしまった。
「こいつはすげえや」
「お外でお弁当、素敵です」
 美しく咲き誇る花に見とれるのは、子供も大人も関係なかった。
 匂い立つ梅の木に圧倒され、大人びた風格漂う薬研藤四郎が感心したように目を細める。普段はおどおどしている五虎退も珍しくはしゃいで、彼が連れている虎たちも無邪気にじゃれ合っていた。
「よーっし、宴会だ!」
「花見か。悪くないね」
 一方で呑兵衛の次郎太刀は嬉しそうに両手を掲げ、朝早くから弁当作りに駆り出されていた燭台切光忠も、これならば、と満足げだった。
 そこかしこから歓声が上がり、庭より広い場所を舞台にして、短刀たちの間では早速追いかけっこが始まった。大人たちは宴の準備を開始して、運んできた茣蓙を花の下に広げていった。
 特に薫り高い木の傍に即席の陣を張り、食べきれるのか心配になる量の食事を並べていく。大きな酒樽も岩融なら苦なく運び込めて、酒飲みたちの嬉しそうな悲鳴が響き渡った。
「嘆かわしい事です」
「花を愛でる心が通じ合えば、争いなど起こらないでしょうに」
 それを少し離れた場所から眺め、宗三左文字と江雪左文字がほぼ同時に呟いた。
 長兄の表情は感情に相変わらず乏しいが、次兄の顔には露骨なまでの嫌悪感が表れていた。
 ああいう騒がしいだけの宴会は、あまり好きではない。
 折角こんなにも美しい花が咲き誇っているのだから、これを眺め、静かに楽しむべきではないだろうか。
 そう嘆く宗三左文字に同意すべきかで迷い、小夜左文字は視線を泳がせた。
 彼自身も、あまり騒がしいのは得意ではなかった。しかし兄ふたりに比べると、審神者に降ろされるのが早かった分、あそこで乱痴気騒ぎを起こしている者たちにも、相応の事情があるのは知っていた。
 あんな風に愚昧を気取っていなければ、心のやりようがない者だっているのだ。
 そんな輪の中に身を置くことで、自分だけが辛いのではないという安心感を抱かされる。少しずつ慣らされ、復讐に駆り立てる恨みや、憎しみを忘れそうになる。
 これではいけないと己を律しようとしても、長兄である江雪左文字は、憎悪を捨て去るよう諭して憚らない。
 争いを好まず、戦わずして終わらせる道を模索したがる男の考えが、小夜左文字には理解不能だった。
 だが兄の言葉には反発し難く、これからどうすれば良いかが分からない。仇を憎む気持ちを捨てれば楽になれるのかといえば、自身の存在価値が失われるようで恐ろしかった。
 一方的に押し付けられて、けれど完全に跳ね除けて嫌う事も出来ない。
 優しくされると嬉しくなるし、顔を見て、目を合わせてもらえるのは幸せだった。
 喩えその眼に映る姿が、哀れな弟を憂うものであったとしても。
 長い時を孤独に過ごして来た小夜左文字にとって、宗三左文字も、江雪左文字も、唯一無二の存在に違い無かった。他のなにものにも代え難い、大切な兄たちだった。
 根本的に理解しあえ無くても、傍にいたい。
 巧く言葉に出来ない感情を胸に溜め込んで、小夜左文字は長い躊躇を経て、小さく頷いた。
「僕も、花は……静かな方が良い、です」
 本当は花など、どうでも良かった。
 甘い匂いも、豪華な食事にも興味がない。子供だからと酒は飲ませてもらえないし、遠出の列に混じったのも、兄ふたりが揃って出かけるからついて来たようなものだ。
 一緒に居る時間が少しでも長くなれば、いつかもっと、ちゃんと分かり合えると期待した。
 今すぐとはいかなくても、彼らと本当の兄弟になりたかった。
 視線を上げ、遠くを見る。最も騒がしい集団の隣では、粟田口の兄弟たちが賑やかに、和やかに過ごしていた。
 一期一振を中心にして、藤四郎たちは皆楽しそうだ。会話も多く、この位置からでも楽しんでいるのが窺えた。
 好物を取り合い、負けた乱藤四郎を長兄が宥め、自分の分を代わりに差し出す。地団太を踏んでいた彼はそれで上機嫌になって、他の弟たちは不公平だと一斉に声を上げた。
 兄は皆に好かれ、兄も弟たちを愛おしんでいる。
 あんな風に、とは流石に言わない。けれど自分だって兄に慈しまれているという証拠が、目に見える形で、ひとつくらいは欲しかった。
 持たされた弁当を広げ、もそもそと箸を動かし、事務的に料理を口に運ぶ。俯いて黙々と食べる小夜左文字に目を眇め、宗三左文字は静かに右手を浮かせた。
「あ……」
 途端に小夜左文字の手が止まり、藍の瞳が大きく見開かれた。
「良く噛んで、食べなさい」
「っは、い」
 頭を撫でられ、箸に抓んだ煮しめが落ちた。慌てて拾って口に入れて、手掴みだった事に後から気付くが、もう遅い。
 左手を唇に押し当てたまま固まって、小夜左文字は視線を彷徨わせた。
 温い汗が背中を伝い、緊張感は半端なかった。行儀が悪いと怒られるのを覚悟して、心臓がきゅっと窄まった。
 箸を使うのは、苦手だった。
 短刀を手に戦場を駆ける分には問題ないのに、別の物を握ると途端に駄目になる。
 箸も、筆だってそうだ。どれだけ練習しようとも、未だ満足に扱えた例がなかった。
 綺麗に食べられないのは雅ではないと言われるが、手掴みで食べる方が早いのだから仕方がない。洗い物も減って効率的だと思うのだが、絶対に駄目だ、と徹底的に躾け直された。
 食事の席で、果たして何度、口論になった事か。
 まだ屋敷に人が少なかった頃を思い出して、彼はごくりと喉を鳴らした。
 里芋の煮しめを碌に噛まずに呑みこんで、左右から浴びせられる眼差しに首を竦める。
 彼らは普段、小夜左文字とは別々に食事をしているので、弟の手癖の悪さは知らない筈だった。
 失望させて、落胆させる事にだってなりかねない。
 油断したと悔やんでいたら、左手から小さなため息が聞こえた。
「小夜、手を」
「あに、うえ」
「次は、落とさぬように」
「半分に切ってからの方が良かったですね。あなたの手では、大きかったのでしょう」
 顔を向ければ、江雪左文字が懐紙を一枚、袱紗挟みから取り出したところだった。
 それで小夜左文字の掌を拭いてやり、短く忠告する。そこへ宗三左文字が、弟を庇う形で合いの手を挟んだ。
 軽く叱られはしたが、厳しく見咎められたりはしなかった。
 指先に残る滑りを綺麗に取り除かれて、小夜左文字は驚嘆に目を丸くした。
「あ、……りがとう、ございます」
 嬉しくて、照れくさくて。
 気恥ずかしくも、誇らしかった。
 最初は気が乗らなかったけれど、来て良かった。心の中で審神者に感謝して、小夜左文字は小さな手を握りしめた。
 宝物をもらった気がして、失いたくなくて大事に抱きしめる。
 頬を紅潮させている弟に、兄ふたりは肩を竦めて苦笑した。
「さーよくーん!」
「おや」
 そこへ不意に呼び声が響いて、宗三左文字が遠くで手を振っている今剣に目尻を下げた。
 義経公の守り刀は、年の頃が近いのもあってか、小夜左文字と殊に仲が良かった。
 単にあちらが一方的に、遊び相手として認定している面は否めない。だが付き合いが他より少し長めの為か、彼に誘われれば、小夜左文字も余程でなければ断らなかった。
 今回も即座に反応して、慌てて左右を見比べた。
「行ってらっしゃい」
「あまり、遠くへは行かないように」
 目で問われ、兄ふたりは止めなかった。逆に背中を押すことを言われて、彼は興奮気味に深く頷いた。
「行って参ります」
 畏まった口調で頭を下げ、立ち上がって素足に草履を引っ掻ける。今剣に真っ直ぐ駆け寄れば、西の方に一本だけ離れて聳える木を指差された。
「あそこまで、きょうそうですよ」
「負けない」
 彼の保護者である岩融は、次郎太刀と飲み比べの真っ最中だった。既にかなり酔いが回っているようで、豪快な笑い声が、耳に痛い音量でこだましていた。
 あそこに近付くと、引きずり込まれかねない。見境がなくなった大人は怖いと、前にもみくちゃにされた経験がある小夜左文字はうんざりした顔を作った。
「それじゃあ、……よーい、どんっ」
「待て。卑怯だぞ、今剣」
「えへへ。ぼくが、いっちばーん」
 その隙に、今剣が勝手に号令を出して駆け出した。意識が脇に逸れていた小夜左文字は完全に出遅れて、大声で詰るが意味はなかった。
 慌てて追いかけるが、一本下駄の癖になかなか早い。もともと身軽さでは群を抜いている彼だから、最初につけられた差を埋めるのは、簡単ではなかった。
 一生懸命走るものの、あと少しというところで梅の木に先に到着されてしまった。ぜいぜいと息を吐いて汗を拭って、小夜左文字は得意げな今剣に口を尖らせた。
「ぼくのかちー」
「ずるをしたのだから、今剣の負けだ」
「そんなことないですよー。ぼくのほうが、ばびゅーんって、はやかったでーす」
「この……っ」
「あっ、やりましたねー?」
 減らず口を叩く今剣に腹を立て、小夜左文字が発作的に彼の肩を突いた。後ろにふらついた少年は瞬時に体勢を立て直して、仕返しだと両手を前に突き出した。
 胸を叩かれ、今度は小夜左文字が姿勢を崩した。右足を半歩分後ろにずらして、倒れそうになった身体を支えて唇を噛み締めた。
「やったな」
「へっへーん。どうだ、まいったかー」
 自分は軽く、だったのに、今剣は思い切り力を込めて来た。
 反発を抱いて眼力を強めるが、得意になっている少年は意に介さない。小夜左文字は益々腹を立てて、生意気な短刀に利き腕を伸ばした。
 掴みかかり、ふんぞり返っていた烏天狗の鈴懸の衿を取る。しかし今剣は斜めに引き倒そうとする力を逆に利用して、受け身を取って自分から地面に転がった。
「よ、っと」
「――くっ」
 そうして前傾姿勢になった小夜左文字を、回転の勢いを用いて投げ飛ばした。
 軽々とした動きで捌かれて、小柄な身体が団子になって地面に転がった。
 もっとも小夜左文字だって、大人しくやられたままでは終わらない。背中から落ちる衝撃は気合いでやり過ごして、右の指先の力を強め、解けそうになった今剣の衿を引き絞った。
 喉を締められた少年は咄嗟にこれを外そうとして、小夜左文字を解放した。その隙に素早く身を起こして、藍の髪の少年は烏天狗に馬乗りになった。
 そして。
「ひゃっ、うひゃっ、あははは。だめです、小夜くん、やめてくださいー」
「負けたって、認めるか」
「まけです。ぼくのまけですー。だからくすぐるの、やめてくださーい!」
 合計十本の指で腋の下や脇腹を擽って、生意気な今剣に降参の白旗を振らせた。
 こんなところで刃物を取り出したら、後で何を言われるか分からない。だから平和的な方法で勝利を獲得して、小夜左文字は満足げに胸を張った。
 鼻から雄々しく息を吐き、笑い過ぎて泣いている今剣の上から退く。
 するとすかさず彼も飛び上がって、油断していた小夜左文字の背中に飛びついた。
「えーい」
「ぐっ」
 首に両腕を回して抱きつき、全体重を預けられた。他より軽いとはいえ相応に体重はあって、押し潰されそうになった彼は呵々と笑う悪戯っ子に奥歯を噛み締めた。
 辛うじて持ち堪えたが、膝はぷるぷる震え、今にも折れそうだった。力み過ぎて肩は突っ張り、肘も外側を向いて、拳は硬かった。
 重さに押し潰されるのを、歯を食い縛って必死に耐える。そんな小夜左文字に甘えるように擦り寄って、今剣は高く結われた髪に顎を置いた。
 両足は宙に浮き、一本下駄が空を掻いた。
 岩融なら楽勝で支えられる体重も、彼と同じ短剣の小夜左文字には、困難極まりない事だった。
「今剣、重い」
「えー? そんなことありませんよー」
 降りるよう言い聞かせるが、勿論聞いてもらえない。それどころか彼は楽しそうに声を響かせ、振り落とそうとする力に抵抗した。
 強くしがみつき、揺らされるのを逆に楽しむ。きゃっ、きゃっ、と笑われて、小夜左文字はいっそ後ろに倒れてやろうかと考えた。
 彼を下にして、仰向けに、後ろへ。
 足元は柔らかな黒土なので、怪我はしない筈だ。
 やられっ放しは性に合わない。擽るくらいでは足りなかったと、意趣返しを狙っていざ実行に移そうとして。
「おやあ? あそこにみえるのは、歌仙さんですね」
「っ!」
「うお、っと」
 不意に頭上の今剣が言って、小夜左文字はずるっ、と足を滑らせた。
 後ろに身体を傾けるつもりが、重心が崩れて前に倒れてしまった。咄嗟に顔を庇って両手を伸ばせば、水気を含んで柔らかな土に指先がめり込んだ。
 結局、今剣の重みに潰される形になってしまった。なにかと人を不機嫌にさせる少年を背負ったまま、彼は泥まみれになった両手に肩を震わせた。
 今剣も突如低くなった視界に目を丸くし、左右色違いの眼をぱちぱちさせた。先ほどまで見えたものが見えなくなって、それで下を向き、項垂れている小夜左文字に気付いて眉を顰める。
「小夜くん?」
「いいから、退いて!」
 あんなに必死に頑張ったのに、一瞬で水の泡になってしまった。
 八つ当たり気味に大声で吼えて、彼は不思議がる今剣ごと身体を振り回した。
 荒っぽいやり方で突き飛ばし、ぐちゃぐちゃになっている両掌に小鼻を膨らませる。折角兄が綺麗に拭いてくれたのに台無しだと、小夜左文字は惚けている短刀の鈴懸を握りしめた。
 そして。
「あー!」
「うるさい」
 今剣の白い衣装で両手を拭いて、抗議の声も叩き落した。
「ひどい。ひどいですー」
「ふん」
 彼の服は、今や胸元から腹の一帯が真っ黒だった。白梅にも負けない白さは失われ、山の烏天狗は一気にみすぼらしくなった。
 泥汚れなど、洗えば落ちる。
 だというのに嘆き悲しむ彼に溜飲を下げて、小夜左文字は満足だと両手を腰に当てた。
 これで、勝った。
 ひとり悦に入って喜んでいたら、鼻を愚図らせた今剣が、汚れた鈴懸を抓んで口を尖らせた。
「……いいつけてやる」
「ん?」
 声は低く、凄味があった。
 いつものお調子者で明るい彼とは一線を画す声色に、小夜左文字が眉を顰めた矢先だった。
「歌仙さんに、いいつけてやるー!」
「あ、待て!」
 突如天に向かって叫んで、今剣は一目散に駆け出した。
 不意をつかれて、またしても出遅れた。何故よりによってその男なのか、という思いが頭を過ぎったが、声に出して問い詰める余裕はなかった。
 思慮深く、何事に対しても控えめな兄たちとは違い、歌仙兼定は小夜左文字に対して異様に厳しいところがあった。
 箸の使い方に加えて、身なりもそうだ。
 髪を結う紐の長さが左右で違っているだけで、五月蠅く小言を言って来た。そんなところ、彼には一切関係ないのに、見てくれが悪いと落ち着かないと言って、櫛を入れて直そうとするから鬱陶しかった。
 そうやって彼に構われて、叱られて、時々褒められて。
 昔も、今も、思えば彼といる時間が、兄と共に過ごした時間よりも圧倒的に長かった。
 だから彼に叱られるのは、他の誰に説教されるよりも気分が落ち込んだ。
 今剣はその辺を分かった上で、あんな風に言ったのだ。
「待て、今剣」
 しかも彼の方が、小夜左文字より口が達者だ。
 どうして服が泥だらけになったのか。経過を省き、結果だけを告げ口されたら、上手く弁解出来る自信がなかった。
 なんとしても彼より先に、歌仙兼定を見つけなければいけない。
 悲壮感を漂わせ、小夜左文字は左右を見回した。
 身軽さが自慢の烏天狗は、既に見える範囲から消えていた。
 花をつけた梅の木が視界を遮り、噎せるような濃い香りが思考の集中を阻害した。どれほど豊かな芳香であろうとも、苛立っている時は神経を逆立てる効力しかないと、小夜左文字は顎を軋ませた。
「たしか……」
 先ほど、今剣はどこかに歌仙兼定がいる、と言っていた。
 あの時、彼はどちらを向いていただろう。覚束ない記憶と目の前の景色とを照らし合わせて、小夜左文字は勢い任せに駆けだした。
 草履で地面を蹴り飛ばし、前後左右に注意しながら前に進む。囀っていた小鳥が驚いて翼を広げげ、どこかの空へと飛び立っていった。
 翡翠色の羽根が踊って、小夜左文字は足を止めて手を伸ばした。
 羽ばたきの直後に抜け落ちたであろう一枚を掴み取ろうとして、失敗した手が空を掻いた。ふわり、ふわりと左右に揺れながら沈んでいく羽は軽やかで、行き先を予知するのは難しかった。
 なにもかも、上手く行かない。
 泥汚れが完全に拭えていない手を見詰めて、彼は深く肩を落とした。
 気が付けば大太刀たちの宴会の声も、殆ど聞こえなくなっていた。
 随分離れてしまったようだ。江雪左文字には遠くに行き過ぎないよう言われていたのに、気付かぬうちに約束を破ってしまった。
 言いつけを守らなかったと知れたら、今度こそ愛想を尽かされてしまう。不出来な弟との烙印を押され、ただでさえ隔たっている心が、一層遠ざかってしまう。
 折角、少しは歩み寄れたと思ったのに。
「あにうえ。あにさま」
 戻った方が良いだろうか。
 不意に不安に襲われて、小夜左文字は辺りを見回した。
 そうはいっても、どちらに行けばいいのか分からない。今剣を探して当てずっぽうに進んだ所為で、完全に方向を見失っていた。
 太陽は出ているが、それを頼りにする方法が、咄嗟に頭に浮かんでこなかった。
 最初に進んだのは西だったから、東に戻れば帰り着ける。だというのにそのことも忘れて、彼はふらふらと、篝火に誘われる羽虫のように、陽の光が明るい南を目指して歩き出した。
 剥き出しの石を踏み、地上に張り出た根を飛び越える。酔いそうな梅の香に時折足を止め、満腹には程遠い腹を撫でる。
 兄たちと共に居る緊張も手伝って、あまり食が進まなかった。
 もっと食べておけばよかった。屋敷では滅多に目にする機会のない料理が並んでいたのに、惜しいことをした。
「このまま、帰れなかったら」
 色とりどりの食べ物を思い返していたら、腹の虫がぐぅ、と鳴った。
 急に虚しくなってきた。嫌な想像を打ち消そうと首を振って、彼は両の頬を思い切り叩いた。
 小気味の良い音を響かせて、ひりひりする痛みで己を鼓舞し、奮起させる。
「よし」
 この程度の事で、へこたれてなるものか。
 意気込んで、小夜左文字は濃い紅色の花をつけた梅の木を回り込んだ。
 太い木を左に避けて、見えた景色に小首を傾げる。水の音が聞こえた気がして、左を向けば小川があった。
 丸太の端は苔生して、川べりには黄色い花が咲いていた。強すぎる芳香は流れる水が薄めてくれて、ここだけ空気が冷えていた。
「つめたい」
 雪解け水か、手を浸せば体温が持っていかれた。透明度は高く、川底の小石まではっきりと見えた。
 小振りの魚が泳いでいた。彼は不幸中の幸いと喉を潤し、濡れた両手を服に押し付けた。
 この川は、梅園の入り口近くで見たものと同じだろう。
 ならばこれを辿って行けば、皆の元へも帰り着ける。
 遠回りになるが、迷うよりはいい。期待を胸に抱いて、小夜左文字は道なき道を進もうとした。
 しかし、歩みは五歩と続かなかった。
「……歌仙?」
 並び立つ木々の影に、見知った影があった。
 一瞬現れ、次の瞬間には消えていた。幻かと疑いそうになったが、錯覚とは思えない事情が彼にはあった。
 今剣の言葉が蘇って、小夜左文字は突発的に駆け出した。
 丸太の橋を飛び越え、南へと突き進む。何度か木の根に躓いて転びそうになって、実際に一度は倒れたものの、痛みに負けずすぐに起き上がった。
 自分がどこへ向かっているかなど、分かるわけがなかった。
 ただここで見失ったら、もう二度と彼に会えない気がした。
 あの時だって、そうだ。
 別れを言う間もなく、引き離された。
「歌仙!」
 ようやく見つけた後ろ姿に、意図せずして吠えていた。必死の形相で叫んで、彼の歩みを鈍らせた。
 突如後方から飛んできた怒号に、あちらもさぞ驚いただろう。
 前につんのめった歌仙兼定は、呆気にとられた顔で振り返った。
「小夜?」
 惚けた様子で名を呼んで、何度も瞬きを繰り返す。ぽかんとした表情は間抜けだったが、笑い飛ばせる余裕などありはしなかった。
 残っていた距離を急いで詰めて、小夜左文字は気が急くまま、後先考えずにその背中にしがみついた。
「……おやおや。どうしたんだい?」
 風に踊っていた外套を捕まえ、そこに顔を埋めて動かない。頭を撫でる手はごく自然と伸ばされて、慣れた調子で髪を梳いた。
 手入れなどしたことのない藍の髪を数本掬い、戯れに指で絡め取る。軽く引っ張られた少年は渋々顔を上げ、大輪の花をあしらう外套の裏地に爪を立てた。
 横幅も十分な布を縦に集めて握りしめられて、動くに動けない歌仙兼定は苦笑を禁じ得なかった。
「それは、そういう風に使うものではないのだけれど」
「知ってる」
「ならば放してくれないかな。苦しいよ、小夜」
 肩で留めているので、後ろから引っ張られると首が辛い。
 仰け反り気味の体勢を強いられていると訴えられて、小夜左文字は仕方なく力を緩めた。
 途端に自由を取戻し、外套が一気に花開いた。風を受けて膨らんで、歌仙兼定に寄り添った。
 派手な色合いを好む男であるけれど、不自然なく着こなしているから癪でもある。歌舞伎者、という言葉が思い浮かんで、小夜左文字は彼に撫でられた頭を空いた手で覆った。
 不格好に歪んでいる赤い紐を気にして、細くなっている輪を引っ張る。しかし鏡もない環境下で、上手く行くわけがなかった。
「それで、どうしたんだい?」
「……べつに」
 突然大声で呼びかけたかと思えば、無言で飛びつかれた。その理由を問うた歌仙兼定に、小夜左文字は視線を外して呟いた。
 実際問題、どうしてあんな真似をしたのか、本人にも良く分かっていなかった。
 焦燥感に駆られ、不安に苛まれていた。
 目に見えないものに恐怖を抱き、胸は引き裂かれそうに痛んだ。
 ところが彼を前にして、大きな手で触れられた途端、元に戻った。何事もなかったかのように、心は落ち着いていた。
 不思議だった。
 訳が分からなかった。
 嵐に見舞われていたはずなのに、気が付けば風は止み、水面は穏やかに凪いでいた。
 どれだけ疲れていても寝床で横になれば安心するし、渇いた喉に水を送ればとても楽になる。食い物を口にすれば幸せな気持ちになれるし、それが甘いものなら尚更だ。
 不可思議な、けれどとても当たり前とも思える現象に見舞われて、小夜左文字は自分に眉を顰めた。うまく言い表せないもやもやを拳の中に閉じ込めて、覚悟を決めて顔を上げる。
「ん?」
「っ」
 歌仙兼定は睨まれても平然として、逆に優しく目で問うた。
 小首を傾げて見つめられて、言うべき言葉が失われた。小夜左文字はうっ、と喉を唸らせると、誤魔化しに足元の小石を蹴り飛ばした。
「今剣、が……逃げる、から」
 再度顔を背け、目を逸らし、ぼそぼそと小声で呟く。
 しどろもどろの言い訳は説明不足も甚だしくて、理解出来なかった歌仙兼定は首を反対側に倒した。
「今剣を探しているのかい?」
 彼なりに憶測を交えて解釈し、質問を改める。だが小夜左文字は首を横に振り、濃紺の袈裟を握り締めた。
 俯いて、口を噤む。これではなにも分からないと、歌仙兼定は苦笑した。
「小夜?」
「歌仙、こそ」
 今剣に意地悪をしたことを、告げ口されたくなかった。
 だから彼より先に、歌仙兼定を見付けようと思った。
 言葉にすれば、とても簡単な事だ。だというのにそれを上手く説明出来なくて、小夜左文字はもじもじと胸の辺りを弄り回した。
 なんとかこの話題から逃げようとして、そっぽを向いて吐き捨てる。
 誤魔化され、強引に話題を変えられて、歌仙兼定は表情から笑みを消した。
 ほんの少し困った顔をして、揺れる瞳を瞼の裏に隠す。
「花を愛でるのに、騒がしいのは似合わないだろう?」
「嘘だ」
「どうしてそう思うんだい?」
 雅を好む彼らしい回答はあまりにも模範的過ぎて、逆に不自然だった。
 本能的に察知して、小夜左文字が瞬時に歯向かう。間髪入れずに否定された男は語気を荒らげ、眉を顰めた。
 いつもの飄々とした態度が薄れ、余裕が失われていくのが感じられた。
 空気が凛と張りつめて、ぴりぴりと肌を刺す緊張感が息苦しい。下手に動けば切り裂かれてしまいそうで、小夜左文字は無意識に喉を庇い、奥歯を噛み締めた。
 押し潰されそうな雰囲気に抗い、圧倒されまいと腹に力を溜めこむ。
 突き刺さる眼差しは冷たく、別人のようだった。
「歌仙、は。……騒がしいのは、だって、嫌いじゃない」
 彼の前の主は、権力者に取り入るのが非常に上手い男だった。
 戦場で命を散らす武将が多々ある中で、誰に味方するかを冷静に見極め、時代の荒波を乗り越えた。その冷徹さは同時代を生きた者たちの中でも群を抜いており、若くして数々の武勲を上げ、長き繁栄の基礎を築いた。
 そんな男の愛刀が、花を愛でる為だけに主の傍を離れるとは思えない。
 言葉を選び、訥々と理由を語る。
 小夜左文字が知る歌仙兼定を思い返しながら紡がれた言葉に、男は暫し息を呑み、沈黙を保った。
 それから、短くも長い時間が過ぎて。
「……やれやれ」
 歌仙兼定は肩を竦め、弱り果てた表情で目を眇めた。
「小夜には、隠し事は出来ないね」
「馬鹿にしているのか」
「褒めているんだよ。おいで」
 降参だと白旗を振り、むっとした少年を手招く。素直に従った小夜左文字は、彼が膝を折って両手を差し伸べるのを見て、ごく自然に肩を浮かせた。
 出来上がった脇腹の隙間に腕を差し入れて、歌仙兼定は当然の如く彼を抱き上げた。
 小さな足が地面に別れを告げた。小夜左文字は左右の脚をぶらぶらさせて、近くなった梅の枝に目を瞬かせた。
 花との距離が狭まったからだろう、香りは一気に強くなった。
 但し、不快とは思わない。少し前までは吐きそうなくらいだったのに、嗅覚は麻痺したのか、可笑しな感じだった。
「前の主が、ね。好きだったんだよ」
 華奢な体躯を胸に抱いて、歌仙兼定が静かに口を開いた。
 見事に花を咲かせる梅にふたりして身を寄せて、揃って同じ花を仰ぐ。木の幹は地面に近い場所で斜めに傾ぎ、不可思議な形を作り上げていた。
 まるで龍が地に伏して、天に昇る瞬間を待っているかのようだった。
 薄紅の花は他の木に比べて大きく、形も整って美しい。香りは豊かで、許されるなら摘んで持って帰りたいくらいだった。
 草木を愛でる趣味のない小夜左文字であっても、樹齢を重ねたこの梅は別格だと分かる。
 喧しい宴会の場に選ばれたまだ若い梅とは、風格からして違っていた。
「歌仙の、前の」
「小夜は、あの方が嫌いかもしれないけれどね」
「……べつに」
 気性が荒く、残虐で、冷酷無比と恐れられた男。
 そんな男を思い返していたら、見透かした歌仙兼定が自嘲気味に笑った。
 彼のそういう笑い方が嫌いで、態度が素っ気なくなってしまう。もっとも歌仙兼定はそれさえ承知しており、愛想のない小夜左文字の背を優しく撫でた。
 ご機嫌取りだと分かっていても、彼の手つきは暖かい。
 梅の花から目を逸らして、小夜左文字は幅広の肩に寄り掛かった。
 落ちぬよう太い首に腕を回し、引き絞る。抱きしめる、というのには少し手荒な真似をされて、歌仙兼定は丸い頭をぽんぽん、と撫でた。
 そうして臥龍梅を仰ぎ見て、懐かしそうに目を閉じた。
「殿がね、自らお植えになられた梅に、少し似ていたんだ」
「僕は、知らない」
「……そうだね」
 今の主の傍を離れ、ご機嫌取りの仕事も忘れ。
 ただ一人、ひっそりと佇む。
 顔を合わさぬまま不満をぶつけられて、彼は歪む世界に首を振った。
 瞼を開けば、見えるものすべてが滲んでいた。深く息を吸い込み、時間をかけて吐き出して、彼は腕の中にある温かくも小さな身体に頬を寄せた。
 藤色の髪ごと擦りつけられて、肩口から押し出された小夜左文字は渋々顔を上げた。
 久方ぶりに目があった男は、控えめながらも嬉しそうに笑っていた。
「歌仙」
「だから、今の主に感謝しないと」
「うん?」
「小夜と、こうして梅を愛でられるのだから」
「……――ああ」
 話を振られ、小夜左文字も頷いた。力の抜けた表情を作って、今までとは少し違った視点で梅の木を仰いだ。
 奇妙な事にその美しさすら前と違って感じられて、爽やかな香りが堪らなく心地良かった。
 胸いっぱいに吸い込んで、彼は近くで咲き誇っていた一輪に手を伸ばした。
 散らしてしまわぬよう注意しつつ、焦げ茶色の枝を引き寄せる。手折ってしまわぬよう軽く押して角度を変え、花が正面を向くよう調整する。
「綺麗だ」
 これより他に形はない、と言い切れるほどに調和が取れた花弁が、五つ並んで円を作っていた。漂う芳香は甘く、小さな花の中には大きな世界が詰まっていた。
 素直に感心して、呟く。
 余分な飾りのない率直な感想を聞いて、歌仙兼定は声を潜めて笑った。
 己の中に宿る美も、そろそろ認めてやってもいいだろうに。血腥さが漂う復讐譚を脳裏に蘇らせて、彼は目を輝かせる少年に見入った。
 こうしていると、ただの子供と同じだった。
「落雁みたいだ」
「……ぶっ!」
 そして弛まぬ食欲も、他の短刀たちと大差なかった。
 正直すぎる意見に、我慢出来なかった。不意打ち過ぎて抑えが利かず、歌仙兼定は思い切り噴き出した。
 こんな笑い方は、雅ではない。
 慌てて咳払いをして取り繕うが、胸に抱く小夜左文字に聞こえなかったわけがない。恐る恐る右に視線を流せば、少年は紅の頬を真ん丸に膨らませていた。
「いや、ね」
「……………………」
「いだっ。いたい、痛い、小夜。止めなさい。引っ張るんじゃない。痛いじゃないか。こら、止めなさい。耳が千切れる!」
 目が合って、笑って誤魔化そうとしたが無理だった。
 拗ねてしまった少年は無言で手を伸ばすと、間近にあった歌仙兼定の右耳を抓んで思い切り引っ張った。
 手加減など一切無かった。渾身の力を込めて、幼子は自分の居場所も忘れて男の耳朶を外向きに捻った。
 歌仙兼定は抗議の声を上げたが、当然聞き入れられるわけがなかった。左右の腕は小夜左文字を抱きかかえるのに使っており、狼藉を働く手を払い除けるのは、無理な相談だった。
 引き千切られる痛みに耐え、生理的に浮かんだ涙で目尻を濡らす。長い睫毛を湿らせて、彼は勝ち誇った顔の少年に頬を引き攣らせた。
 満足そうにしているから、これ以上は言わずに済まそうと思う。
 子供らしくて可愛い感想だとの言い訳は、小夜左文字には通用しない。思い出すと腹筋が震えるので考えないようにして、歌仙兼定は騒動の最中で位置が下がった彼を抱き直した。
 ずり落ちてしまった分を修正し、負担が少なく、且つ安定感のある高さで調整する。小夜左文字も一時的に激しく揺さぶられるのを我慢して、太い腕の上で尻をもぞもぞと動かした。
「……いたい、か」
「うん?」
 そうしてぼそりと呟いて、他に比べて赤くなっている場所を撫でた。
 細い指を耳の付け根を這わせ、尋ねる。歌仙兼定は二秒してから反応して、思案気味に眉を寄せた。
 自分でやっておきながら、盛大に痛がるのを見て怖じ気づいたらしい。声はか細く震えており、後悔が滲んでいた。
「そうだね。小夜は、意外と力があるから」
 存外に可愛らしいところがある。普段の刺々しさが消えた殊勝な態度を見せられて、歌仙兼定は密かに微笑んだ。
 含みのある物言いをして、瞳だけを差し向ける。これくらいの意地悪は許されて然るべきと、男は心細げにしている少年を覗き込んだ。
 短刀の力など、たかが知れている。それを分かった上で告げられた嫌味に、彼はむすっと口を尖らせた。
 だがここで怒っては、歌仙兼定の思う壺だった。
 手玉に取られ、転がされるのは許し難い。ならば彼の想像の域を超えた対応が必要で、一瞬悩んだ挙句、小夜左文字はそれほど古くない記憶を掘り返した。
 あれは少し前、出陣を終えて屋敷に戻った後のこと。
 傷とも言えない傷を負った小夜左文字に、今の主がまじないだ、と囁いた。
「い、……いたい、の。いたい、の。とんで……いけ」
 それを思い出しつつ口ずさみ、審神者がやっていた通り、赤らんでいる患部の上で指を回す。
 くるくる、と円を三つばかり描いた彼に、しかし歌仙兼定は怪訝な顔をした。
「小夜?」
「ど、……どうだ。癒えたか」
「ええと。すまない。今のは、なんだい?」
 名を呼べば、興奮気味に訊ねられた。しかし意味が分からなかった男は首を捻るばかりで、その頭上には疑問符が大量に並べられた。
 期待していたような反応は、ひとつも得られなかった。
 審神者にやって貰った時は、驚くことにこれで痛みが引いた。傷自体は消えなかったものの、患部を覆っていたずきずきする感覚が薄れ、無くなったのだ。
 だというのに、歌仙兼定は怪訝にするだけ。となれば、効果がなかったと思って間違い無いだろう。
「……むぅ」
 これは特別な能力を有する者だけが扱える、特別なまじないなのだろうか。
 やるだけ無駄だったと、小夜左文字は小鼻を膨らませた。
「主が、痛くなくなる、まじないだと」
「へえ。だったら、主だけの力なのかもしれないね」
 一時に比べれば痛みも、痒みも薄れているが、完全に消えたわけではない。
 決して軽くはない体躯を片腕のみで支え持ち、赤みを残す肌を器用に撫でた男の言葉に、少年は面白くなさそうな顔をした。
 猫のように細い目を真ん中に寄せて、落胆も露わに肩を落とす。
 妙案だと思ったのに、完全に空振りだった。
 効力が期待できないのであれば、繰り返したところで意味はない。他に彼を癒す手段がないものかと思案して、小夜左文字は半眼した。
「そう、いえば」
「さあ。そろそろ皆のところへ戻ろうか」
「歌仙、待った」
「なんだい?」
 あの時、審神者は他にもひとこと、ふたこと呟いていた。
 それを思い出して、彼はこのまま歩き出そうとした男の衿を引いた。
 歌仙兼定は即座に足を止め、胸に抱く子供に向き直った。表情はあくまで穏やかで、優しげだった。
 彼には迷惑をかけている自覚があった。
 沢山、世話になっている。心配もかけている。
 ただ感謝の念はあっても、それをはっきり言葉に表したことはなかった。
 伝われば良い。
 彼が痛みを抱いたままでいるのは、嫌だ。
 審神者の言葉を頭の中で繰り返して、小夜左文字は教えられたことを実践すべく、紅の唇を開いた。
 淡色の蕾を花開かせて、緋濡れた舌先を空に投げ放つ。首は左に角度を持たせ、手は男の袖を握りしめた。
 直後。
「小夜――!?」
 ちろりと耳殻を舐められて、歌仙兼定は全身に電流を走らせた。
 驚愕に目を見張り、四肢を大仰に竦ませる。内臓までもが一斉に逆向いて、盛大に跳ねた心の臓が口から飛び出しそうになった。
 反射的に抱きかかえる子供を脇へ押し出し、突き飛ばしそうになったところで踏み止まった。呼吸は一気に荒くなり、あらゆる場所から温い汗が噴き出した。
 目の奥がちかちか明滅し、混乱した頭が銅鑼の音を響かせた。激しい眩暈に襲われて、濡れた右耳だけが別物になった感覚だった。
 己の身に何が起きたのか。
 把握はできているのに、全く理解出来なかった。
 力技で耳朶から引き離された少年は不満げだった。ぶすっと頬を膨らませて、折角のまじないが台無しだと嘯いた。
「まじ、ない……?」
「主が。軽い傷であれば、唾でもつけていれば治る、と」
 それもまた、初耳だった。
 歌仙兼定は目を白黒させて、聞いたこともない話に絶句した。
 審神者は未来からやって来たという。ならばこれは、刀剣たちが戦場を駆けていた、そのずっと後に囁かれ出した説だろう。
 考えてもみなかった事に唖然としていたら、小夜左文字が効果を知りたがって顔を寄せて来た。
 その眼は真剣で、澄み渡っていた。
 一切の穢れの無い、純真な輝きだった。
「どうだ。もう、痛くはないか」
「いや、あ……いや。ええと」
「歌仙」
「だから、いや……これは、その。なんと、いうか」
 追及されて、逃げられない。目を逸らし続けるのにも限界があって、歌仙兼定は心の中で、今の主である審神者に向かって呪詛を吐いた。
 逆心を抱くなど、あってはならない事なのに。
 あの人は、なんということを子供に教え込んだのか。
「痛くない、というか。あまり繰り返されると、違うところ、が……元気に、なりそう、というか」
 最早耳の痛みなど、完全に消し飛んでしまっていた。
 目を泳がせ、しどろもどろに呟く。自分でも何を言っているのかよく分からなくて、歌仙兼定は言葉を口にしてからはっとなった。
 気付いた時にはもう手遅れ。
 大人の男の裏事情など、子供である彼が読み解ける訳が無い。
 言葉の一部分だけを、額面通りに解された。ぺろりと再び舐められて、彼はぞわっと来た悪寒に四肢を戦慄かせた。
「さ、小夜!」
 竦み上がり、声を裏返して叫ぶ。猫のように擦り寄っていた体躯を力技で引き剥がし、惚けている子供を地面へと下ろす。
 荒くなった息を整え、肩を何度も上下させる。顔面どころか身体中が火照って熱く、槌で打たれる前の鉄に戻った気分だった。
 一方、自力で立つよう強要された少年は憤然とした面持ちで、言動不一致の男に地団太を踏んだ。
「元気になるのでは、ないのか」
「……主、恨みます……」
 案の定、彼は分かってなどいなかった。
 舐られる直前の、吹きかけられた吐息の微熱がもたらすものがなにか、彼はまだ知らないのだ。
 艶っぽさなど皆無に等しい姿ながら、濡れた唇の彩は危うい。丸みを帯びた頬、澄み渡る眼に、櫛を通せば美しい髪と、絹の如き白い肌。
 手折ってでも傍に置きたくなる程に愛くるしい、純真無垢なその姿は、艶やかに咲き誇る前の花の蕾に等しくて。
 見詰めていたら、吸い寄せられるようだった。
 穢れを知らぬ無邪気さが崩れ落ち、淫らに乱れ咲く様を不意に思い浮かべそうになって、歌仙兼定は大慌てで首を振った。
「歌仙?」
「いや、……なんでもないよ。なんでも。そう、なんでも。なんでも……」
 挙動不審を怪訝がり、小夜左文字が首を傾げた。それではたと我に返って、男はしつこいくらいに繰り返した。
 心臓は破裂しそうな勢いで鳴動し、餓えた身体は欲望に忠実であるよう囁いた。
 導火線に火が点いて、じわり、じわりと短くなっていくのが分かる。
 付喪神にそんな機能を付与した審神者を罵りながら、彼は近付こうとする少年を制した。
「い、いいかい、小夜。これは、駄目だ。絶対に。しては、いけない。いけないんだ。他の者には、うん。頼まれても、してはいけない」
 無知は罪だと、よく言ったものだ。
 理由が説明出来ないまま言い聞かせ、くどいくらいに念を押す。当然子供は訝しみ、不審がって眉を顰めた。
「……何故だ?」
 疑念を向けられて、歌仙兼定は人生、ならぬ刀生最大かもしれない窮地に冷や汗を流した。
「それは、ね。あれだ、あれ」
「あれ?」
「ええと、だから……昔、一緒にいたことがある相手にしか、効果がないんだ。ほら、言うだろう。傷を舐めあう、だとか、なんとか」
「そうなのか?」
 咄嗟に浮かんだ言葉を諳んじて、歌仙兼定は指でぐるぐる空を掻いた。
 我ながら苦しい言い訳だが、他に言いようがなかった。
 小夜左文字が純真で、知識がないのを良い事に、その場凌ぎの理由を語り聞かせる。その間も歌仙兼定は明後日の方向を向き続け、一切目を合わせなかった。
 後ろ暗いものがあるので、顔を見られない。
 今の彼には、小夜左文字は眩し過ぎた。
「……分かった」
 数秒の沈黙を挟み、少年はこくりと頷いた。
 完全に納得した表情ではなかったが、否定するだけの材料を持ち合わせていなかったようだ。彼なりに考えて出したであろう結論に、歌仙兼定は大袈裟なほどに安堵した。
 深く息を吐き、胸を撫で下ろす。
 額の汗を拭い、当面の危機を脱したと、緊張を解く。
 力なく膝を折って蹲った男に首を捻り、少年はちりりと痺れている舌先で歯の裏を舐めた。
 まるで彼の痛みを自分が引き受けたようで、少し、誇らしかった。
 彼の役に立てた。それが嬉しくて、胸が静かに高鳴った。
「歌仙」
「……なんだい?」
「ならば僕は、歌仙になら、効果があるのだな?」
「――っ!」
 まじないは、通じた。
 効力が確認出来た。
 彼の言葉はそういう意味だと解釈して、小夜左文字は自分に向かって頷いた。小さな拳を胸に当てて、良く分かったと鼻息を荒くした。
 上手く躱せたつもりで、全く出来ていなかった。
 今になって失敗に気付くが、時すでに遅し。最早取り返しがつかない事態になって、歌仙兼定は絶句した。
「いや、小夜。そうじゃなくて」
「小夜君、みーっけ!」
「いたっ」
 慌てて弁解に移ろうとするが、甲高い声がそれを遮った。投げ放たれた小石を頭にぶつけられて、小夜左文字の注意も脇へ逸れた。
 見れば藤四郎たちが木陰に隠れ、声も高らかに笑っていた。
「次は小夜が鬼だからねー」
「悔しかったら、捕まえてみせるのです」
 乱藤四郎が勇ましく宣言し、前田藤四郎が即座に踵を返した。
「捕まえられるもんなら、捕まえてみな!」
「どうしても無理だってんなら、代わってやってもいいんだぜ?」
 厚藤四郎も遠くから小夜左文字を煽り、薬研藤四郎は余裕綽々の表情で参戦を促した。
 そこまで言われて、黙ったままでいられるわけがなかった。
「全員、叩き潰してやる!」
「わー。逃っげろー!」
「鬼が来たぞー」
 子供たちの明るい、元気な、呑気極まりない声が梅園にこだまする。
 笑い声が何重にもなって広がっていって、話の途中で放置された男は呆然と目を瞬いた。
「いや、小夜……?」
 間違った知識が訂正されぬまま、去られてしまった。
 引き留めようとして果たせず、行き場のなくなった手が虚しく空を握り締める。頬をひくひくと引き攣らせ、歌仙兼定は目を点にした。
「ま、まあ、……いい。か?」
 ひとまず他の者たちにはやらぬよう、釘だけは刺した。
 残る誤解はおいおい、ゆっくり解いていけばいい。
 本当は良くはないのだが、今すぐ困る事ではないと自分に言い聞かせる。気を取り直し、汗で湿る前髪を掻き上げる。
 そろそろ宴会の方も、食事や酒が底を突く頃だろう。
 帰り支度が始まっているなら、手伝わなければいけない。
 後で文句を言われるのは困るから、と、歌仙兼定は現実逃避よろしく、ふらふらと起き上がった。
 そして。
「腹をお斬りなさい」
 背後から音もなく突きつけられた刃に、一瞬にして青くなった。
 さーっと血の気が引く音がして、口角が持ち上がった状態で表情が固まった。人間、恐怖が行き過ぎると笑ってしまう現象を体感して、彼は首筋に押し当てられた太刀にだらだらと汗を流した。
 冴えた彩は鋭く、少しの力で楽々肉を引き裂けよう。見事に鍛え上げられた刀身は雪の如き輝きを放ち、硬直する歌仙兼定の顔を映し出した。
 少しでも動けば、首が落ちる。
 明確な殺気を後ろに見出して、彼は降伏の意味を込めて両手を掲げた。
 しかし太刀は退かない。
 代わりに抑揚なく、淡々と、静かに告げ直された。
「今すぐ、腹をお斬りなさい」
 冷酷な台詞を、無感情に言い放つ。
 白銀の髪を靡かせて、袈裟を羽織る男は世を愁いで目を細めた。
 左文字三兄弟の長兄にして、武功高き太刀でありながら、血を流す真似事を厭う男。
 争いごとを毛嫌いして、話し合いでことを解決しようと説く、本丸唯一の存在。
 その男が、歌仙兼定に刃を向けていた。
 抜き差しならぬ状況に、脂汗が止まらなかった。
「こ、江雪殿、は。戦事が、お、お嫌いの、筈では」
 振り返ることも出来ぬまま、彼は必死に捲し立てた。このような真似は彼の本意に反すると、平和的解決を模索して声高に叫んだ。
 願いは、果たして通じたか。
 江雪左文字は低く笑い、薄皮一枚を裂いた刃を数寸、彼から引き離した。
「――っ!」
 安堵出来たのは、一瞬にも満たない時間だった。
 直後に右の耳を下から削がれそうになり、歌仙兼定は顔面蒼白になって奥歯をカタカタ言わせた。
 肝が冷えた。熱は過ぎ去り、極寒の地に裸で放り出された気分だった。
「江雪、どの……?」
「切腹は、武者としての最後の誇りを守ること。違いますか?」
「……お待ち、くだ、さい……」
「せめてもの情けです。介錯は、してさしあげましょう」
「あの、……どうか。お許しを……」
「なにか申されましたか?」
 言葉が一切通じない。
 弁解の余地など、どこにもありはしなかった。
 梅の園に、聞き苦しい悲鳴が響き渡る。
 それは子供たちの歓声に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
 

2015/02/14 脱稿