石黄

「おつかれさまー」
「おっつかれー」
 練習が終わり、体育館内の掃除も終わった。
 コートの中央に張られたネットは緩められ、明日の朝に向けてポールは立てたまま。ボールは専用の籠に入れられて、掃除用具と共に倉庫へと押し込まれた。
 格子が嵌められた窓の外は既に暗く、昼の明るさは微塵も残っていない。照明が反射したガラスは眩しくて、まるで鏡のようだった。
 この後は梯子を伝って壁を登り、二階部分の窓を閉める。そのついでにカーテンも、しっかり閉めるのがお約束だ。
 早朝練習は相変わらず朝七時の開始だけれど、春先とは違い、日の出はずっと早くなっていた。太陽光を浴びた館内は空気が温められて、真夏ともなれば茹だるような暑さが約束されていた。
 今はまだそこまで酷くないけれど、室温が上がる原因は極力排除したい。烏野高校第二体育館には空調が備わっておらず、冬は寒く、夏は非常に暑かった。
 もっともどれだけ雪が降り積もろうとも、練習が始まりさえすれば、寒さを感じる暇はない。飛んでくるボールに必死になって食らいついて、追いかけていれば、身体は温まり、どの季節でも汗だくになった。
「早く夏がこないかなあ」
「結構きついぞ?」
「楽しみです!」
「おいおい……」
 まだ先は長いバレーボール生活に思いを馳せ、何気なく呟く。
 独り言を偶々隣にいた菅原に拾われて、元気よく握り拳を作れば、先輩に苦笑されてしまった。
 とはいえ、実際に楽しみなのだから仕方がない。
 インターハイ予選では青葉城西高校に惜敗したけれど、そう何度も同じ相手に負けられない。もっと上手くなって、強くなる為なら、なんだってするし、出来る自信があった。
 それにもうじき、東京での遠征合宿が予定されている。
 関東の強豪校を相手に出来るのだから、それも楽しみで仕方がなかった。
 早くその日が来ると良い。興奮に鼻息を荒くした日向に、菅原は目を細めて肩を竦めた。
「でもその前に、期末試験、な」
「うぐ」
 腕を伸ばし、ぽん、と頭を叩かれた。
 忘れないよう釘を刺された日向は途端に口を閉ざし、面白くなさそうに小鼻を膨らませた。
 真ん丸い目が平らになって、瞳は足元を彷徨った。是が非でも視線を合わそうとしない一年生に嘆息して、三年生は手を引っ込めて腰に据えた。
「日向は、やれば出来るんだから。頑張れば大丈夫だろ」
 あと少しで始まる夏休み。
 小学生の頃は、指折り数えて始まるのを待った。しかし高校生になって、一ヶ月を越える長期休暇へのわくわく感は、その手前に設けられた期末テストで悉く掻き消されてしまった。
 中学時代もテストはあったけれど、比ではない。
 なにせ赤点を取れば、補習が決定付けられてしまう。しかもその日取りが、例の東京遠征と重なっていた。
 折角寄付が集まって、顧問の武田が自腹を切らなくても済むようになったというのに。
 肝心の選手が補習授業に駆り出されてしまっては、浄財を寄付してくれた相手にも申し訳が立たない。
「が、がんばって、ます……」
「こら。声が小さいぞ」
「がんばりまひゅ!」
「ははは。なに緊張してんだ、日向」
 目下、その赤点候補の筆頭株が、此処に居る日向翔陽と、同じく一年生セッターの影山だった。
 二年生の田中や西谷も、かなりギリギリだ。際どいライン上に立っている部員は、いずれもが烏野高校男子排球部の主力選手だった。
 三年生は、東峰に若干心許なさが残るものの、菅原も澤村も合格点は余裕で越えられる。二年生の縁下や成田達も、特に問題はない筈だ。
 残る一年生月島と山口も、そう心配は要らない。
 矢張り問題なのは、日向以下四名。
 期末試験の話題になった途端、顔色を悪くした後輩を呵々と笑い飛ばし、菅原が高い声を響かせる。
 背中を無遠慮に叩かれた一年生は不満も露わに口を尖らせ、ひりひりする場所を撫でて頬を膨らませた。
「いいですよね、菅原さんは。頭良いから」
「お?」
 小声で呟き、空を蹴る。
 槍玉に挙げられた菅原は目を丸く見開いて、すぐに表情を崩して微笑んだ。
「言っただろ、日向だってやれば出来るって。真面目に授業受けて、ちゃんとノート取って。分かんないところは放っておかずに、ちゃんと調べれば」
「それ、結構難しいんですけど」
「こらこら」
 四月の頭、日向はレシーブすらまともに出来ない状態だった。
 しかし練習を重ねるうちに少しずつ上達して、今なら余程強烈なものでない限り、なんとか返せるようになっていた。
 サーブだってそうだ。練習試合で影山の後頭部にボールを直撃させたのは、もうかなり昔の話だった。
 今の日向なら、そんな失敗はしない。もしやらかすとしても、百本に一本の確率だろう。
 コースを狙い過ぎて、ネットにぶつけるミスはまだなくならないものの、ちゃんと前には飛んでいる。コートを使える機会が少なくて、距離感が分からなかった故の失態は、着実に減っていた。
 誰よりも練習熱心で、向上心の強い日向は、教えられたことをどんどん吸収していく。
 ならば勉強だって、やる気になれば、いくらでも点数が上がっていく筈だった。
「落第して、留年すんのは嫌だろ」
「えっ」
「何年か前に、ひとり居たって話。恥ずかしいぞー」
「ううぅ」
 あまりにテストの成績が悪すぎると、進級させてくれない場合がある。
 噂でしか聞いたことがないけれど、と前置きして脅した菅原に、日向は首を竦めて震えあがった。
 真に受けて、信じ込んでいる後輩は可愛い。排球部副主将は朗らかに笑み、この時間でもまだ寝癖が残る頭を撫でた。
 くしゃくしゃに掻き回して、最後にぽん、と軽く叩く。
「まあ、うちには五回留年してる、とまで言われてるエースがいるけどな」
「スガ!」
 白い歯を見せた彼の視線の先には東峰がいて、聞こえていたのか、髭面の三年生は瞬時に抗議の声を上げた。
 真っ赤になっている彼に、菅原は腹を抱え込んだ。謂われなき野次を受けた方は涙目で、悔しさに大きな体を震わせていた。
 もっとも怒鳴るだけで、暴力に訴えたりはしない。東峰は見た目こそ厳めしいが、性格はとても臆病で、心優しい青年だった。
 外見で損をしているエースに緩慢に頷いて、日向は一瞬、髭を伸ばそうかと考えた。
 しかし撫でた顎はつるりとしており、髭剃りは未だ活躍したことがない。脛毛や胸毛も殆ど生えておらず、腕のつるつる具合は女子に羨ましがられるくらいだった。
「むぬぬ」
 もう少し男らしくなりたい。
 どうやっても太くならない腕を抓って、彼は目尻を擦っている三年生に意識を戻した。
 勉強が出来て、人当たりが良くて、気遣いが行き届き、見た目だって悪くない。
 入部した時から菅原は排球部に在籍して、当たり前のように日向の前に立っていた。
「うん?」
「菅原さんは、どうして烏野だったんですか?」
 じっと見つめていたら、不思議がられた。
 怪訝に首を傾げられて、日向はふと、思いつくまま彼に問うた。
 まだ入部して間もない頃、田中が影山に投げた質問だ。西谷の烏野高校入学の動機は知っているが、そういえば菅原には、聞いたことがなかった。
 入学してから相応の時が経つのに、一度も話題に出ていない気がする。
 突発的に浮かんだ好奇心に背中を押され、日向は首を右に傾けた。
 問いかけられた方はきょとんとして、それからすぐに我に返り、目尻を下げた。
「また急だな」
 声は、少々戸惑い気味だった。
 顎を引いて仰け反り気味の姿勢を作り、目線は斜め上へと走らせる。視界にカーテンを引いて回っている部長の姿が紛れ込んで、謝罪は心の中で済ませた。
 視線を戻せば、日向は先ほどの状態から動いていなかった。目線が交錯して初めて首を真っ直ぐにして、行き場のない手を背中に回した。
 シューズの踵で床を叩いた後輩を前に、菅原は色の薄い髪を掻き上げた。
 日向が烏野高校を選んだのは、小学生の時にテレビで見た試合の影響だ。背番号十を着けた小柄な選手が活躍する姿に憧れて、小さな巨人になりたくて、この学校の門戸を叩いた。
 その話は部員全員が知るところであり、菅原も勿論承知していた。
 彼自身、あの試合はテレビで見た。地元の高校が全国大会に出場すると聞いて、関係ないのに興奮したのを覚えている。
 だがそれがあったから、烏野高校を選んだわけではなかった。
「んー……」
「何か理由、あったんですよね?」
 言い渋り、顎を掻く。一方で日向は興味を募らせ、拳を作って興奮気味だった。
 期待の眼差しが、キラキラと輝いていた。
 あまりにも眩しい光に顔を背けたくなって、菅原は夢見がちな一年生に苦笑した。
「お前みたいな、、格好いい話じゃないぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺は、ただ単に、――都合が良かったんだ」
 三年前、自分は何を考えていたか。
 三者面談でのやり取りを振り返って、彼は虚を衝かれた顔の日向に肩を竦めた。
「つごう……?」
「そっ。家からそんなに遠くないし、男子バレー部はあるし」
 バレーボールは中学校三年間、やり通した。結果は全く残せなかったけれど、嫌いではなかったし、出来るなら高校でも続けたいと思っていた。
 しかし県内最強の白鳥沢高校では、偏差値が足りない。推薦などもらえるわけがなく、一般入試でも奇跡に縋るしかなくて、可能性を考える前に諦めていた。
 青葉城西高校という選択肢もあったけれど、私立高校に行きたいとは、親にはなかなか言い難かった。
 父親の稼ぎを考慮して、大学まで行く、という人生設計を考えると、公立高校一本に絞る案しかなかった。そうなると選択肢は一気に狭まって、その中で浮かび上がって来たのが烏野高校だった。
 偏差値は、問題ない。進学クラスを選ぶと少し厳しくなるが、それでも許容範囲だった。
 通学は楽。校風も悪くない。
 男子バレーボール部もあって、しかも全国大会出場の実績がある。
 迷う理由はなかった。
 下手な強豪校に行くよりは、烏野高校で地道に頑張る方が、レギュラーになれる確率はずっと高い、との打算もあった。
 夢見なかったわけではない。
 いずれ再び、自分たちの代でオレンジコートへ。
 そんな目標を、一度も掲げなかったと言えば、嘘になる。
 しかし菅原は、日向ほどまっしぐらではなかった。色々と迷い、悩んだ挙句、教師と親の意向が最大限に生かせる道を、妥協の末に選び取ったに過ぎなかった。
 親は公立で、大学進学率がそれなりに高い学校なら、どこでも良い雰囲気だった。
 中学三年当時の担任も、無謀な挑戦をするよりは堅実に行くよう勧めて来た。
 菅原は冒険をしなかった。
 他人が用意した安全圏で胡坐を掻いて、のうのうと生きてきた。
 挑戦せず、楽な道を選んで来た。そして入学した烏野高校の男子排球部は、既に強豪だった頃の影が薄れ、指導者は不在、主将は明らかに力量不足だった。
 これでいいのかと思いつつ、意見はしなかった。生意気な後輩だと思われたくなかったし、怒鳴りつける大人がいない部活動は、物足りなかったけれど、気持ち的に楽だった。
 けれど、悔しかった。
 大会であっさり負けて、過去の栄光を知る部外者からは冷たい言葉を受けた。どこでボタンを掛け違えたのかと、当時の部長の涙を見ながら思った。
『楽』なのと、『楽しい』は違う。
 本当の『楽しさ』は、『苦しさ』を知った上で得られるものだった。
 惨めだった。
 だから、這い上がろうと思った。
 情けなかったから、もう俯かないと決めた。
 烏野高校に来たのは、偶々だ。特に何かをやりたかったわけではない。入学式を終えた直後は、なんとなくここで三年間を過ごして、なにも遺さずに卒業していくものだと、頭のどこかで考えていた。
 それでは嫌だと、今は思う。
 やるからには、何かを遺していきたい。無駄な足掻きだと鼻で笑われようとも、我武者羅に努力した結果は、必ずどこかで実を結ぶと信じたかった。
「ま、今は烏野にして良かったって、思ってるけどな」
 菅原の言葉がイマイチ理解出来ないのか、日向はぽかんとしていた。
 そこに追加してやれば、少年は目をぱちくりさせてから大きく頷いた。
 鼻の穴を膨らませて、力みながら首を振る。その分かり易さに破顔一笑して、菅原は靴底を床板から引き剥がした。
 進学する先は、いくつか候補があった。
 担任から数校分提示された時、聞いたことのない名前の中に、ひとつだけ、覚えがある学校があった。
 それで、訊ねた覚えがある。学校の場所と、偏差値と、雰囲気といった諸々を。
 勿論、頭の中に名前が残っていた原因は、例の小さな巨人だ。
 全国高等学校バレーボール選抜優勝大会――通称春高に烏野高校が出場する原動力となった、小さなエーススパイカー。
 彼の活躍がなかったら、菅原は烏野高校を知らないままだった。
 菅原だけではない。日向だって、もしかしたら影山も、違う道を進んでいたかもしれない。
「小さな巨人に感謝、だな」
「はい!」
 澤村だって、オレンジと黒のユニフォームに憧れていた。他の誰よりも、彼が一番、地に落ちた名声を悔しがっていた。
 彼が居たからこそ、今のチームがある。熱血漢に引っ張られて、感化されて、部員は減ったが心強い仲間が増えた。
 自己完結で目を細めた菅原に、日向が同意して元気よく返事する。
 言葉足らずの説明は確かに面白みに欠けており、思い描いていたような熱いドラマは存在しなかった。
 それでも、菅原の知らなかった一面を知れた。それが嬉しいのだと顔を綻ばせて、一年生はニコニコと屈託なく笑った。
「あんまり面白くなかったろ」
「いえ、そんなことないです」
 ここまで喜ばれると、却って申し訳なくなる。自嘲気味に呟いた彼に日向は首を振り、遠くから響いた声に視線を泳がせた。
 きょろきょろと見当違いの場所を探している彼に苦笑して、菅原は体育館の入口付近に陣取っているメンバーを示した。
 片付けが終わった体育館はがらんとしており、中央付近にいるのは彼らだけになっていた。
 窓の施錠も終わって、澤村が鍵を手に立っていた。目つきは鋭く、機嫌は少々悪そうだった。
「部室で、月島たちに勉強見てもらうんだろ?」
「ああ、そうだった!」
 あまりのんびりしていたら、怒られる。急ぐよう言えば、思い出した日向がピン、と背筋を伸ばした。
 すっかり忘れていたと手を叩きあわせ、出入り口方面に身体を反転させる。
 と思っていたら更に半回転して菅原へと向き直り、腰を曲げて深々と頭を下げた。
「お疲れ様でした、菅原さん」
「ああ。頑張れよ」
 動きが滑稽で、噴きそうになった。目の前でくるくる回る後輩は可愛らしく、落ち着きのなさが面白かった。
 どうせ行く先は部室で、同じなのに、律儀に挨拶をしてから去ろうとする。中学時代は先輩と呼べる存在が居なかったらしいが、彼の身体には、根っからの体育会系の血が流れていた。
 影山に感化され過ぎだ。なにかと一緒にいる一年生セッターに一瞥をくれて、菅原も体育館を出ようと歩き出した。
 そこへ。
「あれ?」
 タタタ、と足音を響かせて、日向が素足で駆けて来た。
 一旦は扉の向こうに消えたのに、何故か戻って来た。忘れ物でもしたかと眉目を顰めていたら、数歩進んだ菅原の手前で急ブレーキを踏んだ。
 肩で息を整えて、頬を鮮やかに紅潮させて。
 興奮で呼吸は荒く、心臓と同じリズムで身体を揺らしていた。
「どうした?」
 手には脱ぎたてのシューズが握られていた。左右で片方ずつぶら下げるが、右手に持つのは左足分と、配分はちぐはぐだった。
 一度脱いで、履き直すのが面倒だったのだろう。
 白い靴下が黒く汚れるのも構わず、日向は唇を舐め、訝しむ上級生に相好を崩した。
「おれ、烏野にしたの、小さな巨人が居たチームだから、ですけど」
「ん? ああ。知ってる」
 突然語り出した彼に、菅原は怪訝にしつつも応じた。過去に何度か聞かされている思い出話に首肯して、得意げに胸を張る後輩に目を眇めた。
 日向は、眩しい。
 いつだって一生懸命で、熱心で、まっすぐで。
 適当な理由で高校を選び、中学時代にやっていたから、という理由だけでバレーボール部に入った菅原とはまるで違う。
 明確な目標を持ち、信念を掲げ、ひたむきに努力している。
 菅原がまだ彼くらいの頃は足元が覚束なくて、周囲に流され、他者の意見に逆らえなかった。
 これでいいのか。
 このままでいいのか。
 思い悩み悶々としながらも、解決策を真剣に探そうとしなかった。怖気づき、自分に言い訳をして、みんなもそうだから、と目を背けていた。
 少し羨ましかった。
 根拠もない自信に溢れ、辛さを楽しみに変えられる彼が妬ましかった。
 人には見せられないどす黒いものを隠し、卑屈な自分を押し殺して首を捻る。
 日向は深呼吸を三回、四回と繰り返して、最後に不遜な表情で口角を持ち上げた。
 両手を広げ、満面の笑みを浮かべて。
「たまたまでも、偶然でも。おれ、菅原さんが先輩にいてくれて、すっげー、良かったです」
 屈託なく言い放たれて、菅原は突然の告白に目を丸くした。
 全ては偶然だった。
 菅原が烏野高校の近くに住んでいた事も、バレーボールをやっていたことも。公立高校が強豪を破って県大会を勝ち抜いたと耳にしたのも、背番号十が活躍する様をテレビで見たのも。
 全ては必然だった。
 日向がその日、友人と遊びに行ったのも。春高の試合が放送されて、それが電気屋のテレビで映し出されていた事も。
 オレンジと黒のユニフォームが高らかと宙を舞い、その姿に心打たれた事も。
 偶然も、信じれば必然になる。
 気まぐれな運命の女神は、最後の最後で菅原に微笑んだ。
 惚けていた青年は、直後にきゅっ、と唇を引き結んだ。緩みそうになった表情を引き締めて、腹に力を込め、不意に熱を持った目尻を堪えてきつく目を閉じた。
「俺も、日向みたいな後輩が居てくれて、スゲー心強いぞ」
「いやあ、それほどでもー」
「だから赤点取ったら、激辛麻婆豆腐な」
「ヒェッ」
 なにが『だから』なのかは、言った本人でも良く分からなかった。呵々と笑って後輩を脅して、そろそろ我慢が限界の澤村に手を振って合図した。
 震えている日向の肩を叩き、促す。扉を出た先には影山もいて、世話のかかるチームメイトを待っていた。
 コートの中では巧みにボールを操れるセッターも、勉強机の前では形無しだ。赤点危険ラインにあるのは自覚しているようで、気もそぞろに、そわそわ落ち着かなかった。
 早くしないと、月島が帰ってしまう。
 鋭い眼差しがそう告げていて、菅原は苦笑を禁じ得なかった。
 仲良く駆けていく一年生を見送って、一番最後に体育館を出る。直前に照明が消されて真っ暗な館内を振り返れば、澤村のため息が間近から聞こえた。
「なにやってたんだ?」
「いやあ。日向みたいな後輩持つって、幸せだなあ、ってさ」
「は?」
 あんなにも慕ってくれる相手は、後にも先にも日向ひとりかもしれない。
 感慨深く呟いて、菅原は背筋を伸ばした。

2015/4/14 脱稿