おなじかげにてすめる月かな

 使いを頼まれた帰りだった。
 馬上から見下ろした光景に、ふと心を奪われた。何気なく眺めていた景色に一瞬で心を奪われて、前を通り過ぎた後も目で追いかけていた。
 そうしたら共に頼まれ事を終えた男が、唐突に馬の手綱を引き締めた。
 何も言っていないというのに悟られて、少し気まずかった。ばつが悪い顔をしていたら、あちらも同じものに目を向けて、嗚呼、と緩慢に頷いた。
 気になるのなら、摘んでくればいい。
 あれは桔梗の花だ。
 そう背後から囁かれ、構わないのかと目で問うた。返事は聞くまでもなく、にっこり微笑まれただけだった。
 これくらいの道草は、許されて然るべきだ。
 屋敷で待つ主も、そこまで心は狭くはないだろうし。
 勝手な想像で言葉を連ね、背中を押された。小夜左文字は首肯すると、迷いを断ち切るように馬の背から飛び降りた。
 身の丈ほどの高さから平然と着地を果たし、馬の嘶きを背中で聞いて、道端に咲く花へと手を伸ばす。
 蓬や繁縷の合間を縫うように、薄紫の花が咲いていた。
 花は五芒星の形に似て、中心には白っぽい雌蕊があった。それを取り囲むようにして雄蕊が、矢張り星の形を真似て配されていた。
 傍には蕾であろうか、口を塞いだ袋の如く丸く膨らんだ、滑稽な形状のものもあった。
「おもしろい」
 押して潰してみたくなって、小夜左文字は折った左右の膝をぶつけ合わせた。
 もぞもぞと身動ぎ、馬を操って戻って来た男を見上げる。彼は目を眇めて小首を傾げ、困った風に口元を綻ばせた。
「あまり摘み過ぎないようにね」
「分かってる」
「根は乾燥させると、薬になる。場所を覚えておこう。何かの折に、必要になるかもしれない」
「へえ……」
 蕾を潰しても良いものか、返答は得られなかった。代わりに別の知識を与えられて、小夜左文字は桔梗に向き直った。
 それは知らなかった。感心して目を瞬かせて、彼は恐る恐る、緑の茎に手を伸ばした。
 ちらりと馬上を窺えば、男が胸元から地図を取り出し、印を入れようとしていた。
 足で器用に馬を制御して、矢立てから出した筆で紙にくるりと円を描く。仕草には慣れが感じられて、手つきは驚くほど滑らかだった。
 自分では、絶対に無理だ。
 小さな身体、小さな手をじっと見つめて、小夜左文字はぶすっと頬を膨らませた。
「あ」
 不貞腐れながら摘んだ所為だろう。
 優しく手折ろうとしたつもりが、桔梗の茎はぶちっと嫌な音を響かせた。
 乱暴に引き千切ってしまった。細い繊維を垂らし、水気を滲ませたぎざぎざの断面を見下ろして、彼はがっくり肩を落とした。
 こういう手合いは、どうにも苦手だ。
 花を生けるなど、雅を好むそこの男に任せておけばよかったのだ。
 後悔が胸を過ぎるが、仕方がない。再度馬上に目を向ければ、男は作業を終えて両手を手綱に戻し、小夜左文字が戻ってくるのを待っていた。
 先を急ぎたがる馬を宥め、太陽の位置を確認して視線を浮かせる。横顔は秀麗で、偉丈夫という言葉がぴたりと当て嵌まった。
「桔梗、か」
 花の名など、知らなくても困らない。けれどいつの間にか、戦に必要ない知識ばかりが集まっていた。
 きっともう、忘れることはないだろう。
 今にも弾けそうな蕾も含めて五、六輪を摘んで、小夜左文字は立ち上がった。
 膝小僧の土を払い、栗毛の馬へと駆け戻る。そのまま手綱を頼りによじ登ろうとして、小夜左文字は片手が不自由なのを思い出した。
 懐に突っ込めば、花が潰れてしまいかねない。
 それは可哀想だと悩んでいたら、音もなく手が差し伸べられた。
「預かろう」
「頼む」
 空の掌を向けられて、小夜左文字は摘んだばかりの花を彼に手渡した。
 男はにこりと微笑むと、受け取った花を瞬時に反対の手に持ち替えた。そうして再度小夜左文字に向き直り、自由の利く腕を真っ直ぐ伸ばした。
 馬上に上がる手助けをしようと、流れるような動作で示された。これには小夜左文字も渋い顔をして、一瞬の躊躇を挟み、掌ではなく、手首を捕まえた。
「はは」
 鐙に乗せられた男の足も踏んでやり、そこを足場に身体を浮かせる。
 荒っぽい動作だったが無事馬上の人となって、小夜左文字は呵々と笑う男に舌打ちした。
 顔が赤くなったのは、意地悪をしたのにあっさり流されて悔しいからだ。
 自分にそう言い訳をして、彼は肩越しに差し出された紫の花に意識を傾けた。
「頼んだよ」
 後ろから渡されて、彼は首を縦に振った。
 受け取って、両手で大事に抱きしめる。蕾を潰さないよう細心の注意を払い、ゆっくり進み始めた馬の足元から前方へと視線を流す。
 西の空に漂う雲は、木綿の綿のようだった。
「日暮れ前には帰り着けそうだ」
「そうか」
 太陽は天頂を過ぎ、西に傾き始めていた。緑の稜線は光を抱き、空との境界線を曖昧にしていた。
 農作業を終えて家に帰る農夫たちとすれ違って、会釈をされた小夜左文字は桔梗の茎を強く握りしめた。
「それにしても、小夜が花を愛でるとはね」
「悪いか」
「いいや。喜ばしく思うよ」
 以前なら野辺に咲く花になど興味を抱かず、桜や梅にも関心を示さなかっただろう。
 少なからず影響を受けていると自覚して、小夜左文字は摘み立ての花に顔を近づけた。
 残念ながら、甘い香りはしなかった。引き千切ったところから漂う青臭さだけが、ちりちりと鼻についた。
 苦い顔をしていたら、気取った男に笑われた。
「屋敷に戻ったら、生ける器を探さないと」
「このままでは、駄目なのか」
「水を与えてやらないと、萎れてしまうからね」
「……そうか」
 湯飲み茶わんを使ったら、他の刀剣たちから非難を食らいかねない。
 節目に合わせて竹を割れば良いか、とあれこれ考えながら囁かれて、小夜左文字は様相を思い浮かべて息を呑んだ。
 竹の緑と、桔梗の紫。
 悪くない組み合わせだと感嘆して、彼は五つに広がる花弁を撫でた。
「部屋に飾るのかい?」
 少し楽しくなって来た。そこへ問いかけられて、小夜左文字は後ろを振り返った。
 桔梗よりも淡い色の髪を揺らし、男が「ん?」と小首を傾げた。
 目と目を合わせ、数秒の沈黙を挟み、彼は遠慮がちに首を竦めた。
「あに、さま……に」
 声は小さく、今にも消え入りそうな雰囲気だった。
 上空を行く雁の群れが陽の光を遮って、影が一瞬地を駆けた。聞きそびれそうになった男は目を瞬かせ、拾い上げた音を咀嚼し、飲み込んだ。
 誰のことかと考えて、答えが出るのにそう時間はかからなかった。
 小夜左文字は下を向いて、高く結った藍の髪を左右に躍らせていた。
「宗三殿に、かい?」
 静かに問えば、こくりと頷かれた。
 控えめの首肯に半眼し、男は眉間に皺を寄せた。
 彼が険しい表情をしているのは、小夜左文字にも伝わった。振り返らずとも気配で悟って、愛らしい花を握りしめた。
「理由を、聞いてもいいかな。小夜」
 男の声は低く、冴えていた。静かに憤っているのが感じられて、背筋が寒くなった。
 突然、どうして。理由を知りたいのはこちらだ、という思いは呑み込んで、冷たい汗を背中に流し、小夜左文字は浅く唇を噛み締めた。
 彼らが仮初の宿とする屋敷には、複数の刀剣が、付喪神として招かれていた。
 その中には同じ刀工によって生み出された、同じ銘を持つ刀剣も少なからず存在した。
 左文字も、そのひとつ。
 現在確認されているだけで、彼には兄がふたり、いた。
 そのうちのひと振りが、宗三左文字。名だたる名将の手を渡り歩いて来た、知る人ぞ知る打刀だった。
 魔王と呼ばれる男が戦利品としてこれを手にし、記念として名を刻んだ事でも有名だった。その後も戦乱の世を統べんとする男たちに好まれて、所有者は度々入れ替わった。
 ただ本人は、それを決して望んではいなかった。
 次々に入れ替わる主と、途絶えることなく繰り広げられる騒乱。渡り歩いた主の名と数ばかりが持て囃されて、刀剣本来の存在価値は、次第に失われていった。
 審神者に対しても、他の刀剣たち以上に不信感が強い。皮肉や嫌味ばかりを口にして、求められようとも戦場に出たがらなかった。
 日の当たらない屋敷の奥に一日中引き籠り、食事の時間になっても現れない。
 他の刀剣とは区別され、長年別格扱いを受けて来た影響だろう。宗三左文字は他者との接触を拒み、望んで孤独であろうとする傾向が強かった。
 だからいつだってひとりで、冷えた飯をひっそりと食べている。
 実の弟である小夜左文字を相手にする時も、虚ろな瞳に光は宿らない。
「最近は、ずっと、部屋にお籠りになられているし。お誘い、しても。あまり外にお出にならないから。だったら、あにさまに。せめて、外の風景を、と……」
 つたない言葉で、けれど精一杯伝えようとしている少年に、男は静かに目を閉じた。
 多くから求められて来たが故に、望まれる事を厭う刀剣、宗三左文字。
 怨嗟の炎に身を焦がし、戦場を寝床とする小夜左文字。
 兄弟とはいえ、共に在った時間は零とはいかないまでも、とても短い。
 離れ離れになっている間に、それぞれ違う経験を重ね、望まぬ形で主を変えて来た。とうに遂げられた復讐に固執する子供は、騒乱を厭う兄を前にして、何を語れば良いかで苦悩していた。
「あにさまは、血の臭いが染み付いている僕が、お嫌いだろうけれど」
「小夜、花が折れてしまう」
「……あ」
 ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉に、男が大きな手を重ねた。
 力が籠り過ぎていた指を紐解いてやって、彼は心細さに震えている子の肩を叩いた。
「屋敷に戻ったら、一輪挿しを拵えよう」
 時間をかけて囁かれた声は優しく、温かだった。
 少し前に感じた冷たい気配は霧散して、いつもの穏やかさが戻って来た。それが何故だか嬉しくて、気遣いに感謝し、小夜左文字は相好を崩した。
「いいのか」
 遠慮がちに訊ねれば、男は鷹揚に頷いた。
「得意だからね」
 武具を拵えるよりは、よっぽど簡単だ。胸を張って断言して、男は嬉しそうな少年に肩を竦めた。
 そうして小夜左文字が前に向き直ったところで、ふと険しい表情を作り、遠くを見据えて嘆息した。
「考えすぎかな」
 少年の手に握られるのは、桔梗の花。
 綺麗に五つに別たれたその花弁は、魔王に弓引いた男の旗印。
「杞憂であればいいんだけどね」
 幼い子の純粋な想いが、正しい形で伝われば良い。
 切に願い、歌仙兼定は頭を垂れた。

 日が暮れる、僅かに前だった。
 太陽は西へ大きく傾き、その半分近くを地平線に隠していた。天頂には気の早い月が既に登り、白くぼんやりとした輪郭を露わにしていた。
 開け放たれた障子戸から差し込む光は弱く、奥に潜ってしまうとほぼ届かない。日中であっても灯明は欠かせず、脂に浸した芯が焦げる臭いが周囲に漂っていた。
 肌を撫でる程度の風にさえ、小さな炎は大袈裟に震えた。
 今にも消えそうな、けれど辛抱強い灯火に瞑目して、宗三左文字はゆるりと首を振った。
「何用ですか」
 問いかけは、低く、静か。
 抑揚のない囁きに驚き、障子戸の影に隠れていた小さな体躯が大きく跳ねた。
 物陰に隠れ、息を潜めていた。気付かれていないと思い込んでいたらしく、恐る恐る顔を出した幼子の表情は酷く不安げだった。
 畏怖を内に隠し、縁側を滑るように進んでくる。そうして奥に座す宗三左文字の前でぴたりと足を止めた。
 左右五本ずつ、合計十本の足指を綺麗に揃えて、藍の袈裟を着崩した小夜左文字は遠慮がちに顔を上げた。
 両手は背中に隠している弟を眺め、宗三左文字は細い眉を中央に寄せた。
 彼は紫紺の座布団に腰を下ろし、肘掛けに腕どころか上半身全体を委ねていた。辺り一面に法衣が広げられて、まるで薄紅の花が咲いているかのようだった。
 長い髪を無造作に背に垂らし、男は鈍い動きで身を起こした。
 兄の気怠げな仕草に目を泳がせ、小夜左文字は訪ねる時期を誤ったかと、顔に後悔を滲ませた。
「お疲れで、あらせられるなら。……改めます」
 遠慮がちに告げて、ぺこりと頭を下げる。高く結われた髪が一部ひっくり返って、蝶々の形を成す緋色の紐も逆向きになった。
 年齢にそぐわぬ畏まった態度を見せられて、宗三左文字は姿勢を正し、畳に散っていた数珠を引き寄せた。
 二重に輪を作り、房を下向きに垂らす。法衣を撫でて形を整え、弟へと向き直る。
 空いた方の手を浮かせて軽く空を撫でてやれば、手招かれた少年は目を真ん丸に見開いた。
「あにさま」
「こちらへ。お入りなさい」
「失礼仕ります」
 驚きを素直に露わにし、言葉でも許しを得て、しずしずと敷居を跨ぐ。
 畳の縁を踏まないように歩みを進めて、彼は三尺ばかり手前で立ち止まった。
 そうしてそわそわと落ち着きなく身動ぎ、右に、左に、と瞳を彷徨わせた。
 松脂の焦げる臭いが鼻腔を刺した。じじじ、と芯が燻る音はまるで羽虫で、目を瞑ると不快感が倍増した。
 なかなか来訪の理由を語らない弟を見上げ、宗三左文字は目を眇めた。
「昼は、どこぞへ出向いておりましたか」
「……歌仙、と。主様に命じられて、少し」
「そう。あの男と」
「なりませぬか」
「いいえ。主様の望みとあらば、我らに拒む権利はありません」
 訥々と交わされる言葉の最後に、自虐を込めて笑みを作る。瞼を落として闇を誘えば、薄明かりに浮かぶのは血に濡れた記憶ばかりだった。
 そういった事を思い返していると、何故か身体が重くなった。心は鉛と化して泥に沈み、死肉は澱となって四肢に絡みついた。
 歴々の主が斬って捨てた者たちの呪詛が、耳を塞いでも聞こえて来た。鎮まるよう経文を唱えたところで自己満足に過ぎず、縋る神仏などありはしない。
 それが刀剣としてこの世に生まれ落ちた宿命だとしても、嘆かわしくてならなかった。
 哀れにも血濡れた手を隠した幼子を前に、宗三左文字は数珠の珠をひとつ、爪で弾いた。
 千切れ、吹き飛んではいかない。指の腹には次の珠が触れて、押し出されるのを待っていた。
 冷たい感触に笑みを零し、彼は両手を背に回したままの弟に小首を傾げた。
「それで、あなたは。何を隠し持っているのです?」
「あ、……の。それは」
「小夜」
「これ、を」
 わざわざ屋敷の奥深くまで訪ねて来た理由は、それだろう。勘を巡らせて囁けば、催促された少年は恐々と、隠していたものを差し出した。
 それはまだ若い竹を使った、緑が眩しい一輪挿しだった。
 節に合わせて首を斜めに切り落とし、縁は磨かれていた。壁に掛けるのにも、卓に置いて飾るにも適するよう形を整えられた、素朴な一品だった。
 そうしてそんな青竹に添えられていたものは。
 薄紫が艶やかな、五角形の野花だった。
「桔梗、と、いうそうです」
 竹の底には水が張られ、彼が動く度に波が砕ける音がした。
 花は既に開いているものが二輪と、蕾のまま膨らんでいるものが一輪。それらが形よく、見栄え良くなるよう、茎の長さや葉の数を計算して、生けられていた。
 粗野な身なりの少年が、独力で出来るものではない。
 後ろに見え隠れする男の影を感じとり、宗三左文字は眉目を顰めた。
「それを、僕に?」
 感情は極力表に出さないよう努め、囁く。僅かに身を乗り出せば、察した弟が一歩、前に出た。
 竹筒の底に左手、側面に右手を添えて持つ小夜左文字の胸元で、桔梗が鮮やかに色付いていた。
 摘んできてそう間がないのか、花も、葉も瑞々しかった。
「使いの、帰り道で。あにさまに、その。見ていただきたく、て」
「そう……ですか」
 受け取るのを躊躇していたら、説明が付け足された。
 言葉が途切れ途切れなのは、緊張しているからだろう。それは表情からも見て取れて、宗三左文字は控えめに肩を竦めた。
 弟は、無条件に愛おしい。
 と同時に、どう扱えばいいか分からない。
 復讐の為に刃を研ぎ、血に濡れることを厭わず、戦場を突き進む。その姿は鬼神の如くであり、止まり木を求めて彷徨う迷い鳥のようでもあった。
 血まみれの、その小さき手を救ってやりたいと思う。
 戦場に出ることなく、平穏な余生を過ごさせてやりたいとも思う。
 けれど彼が望むものは、宗三左文字が欲しいものではない。
 瞼を下ろせば、法螺貝の音が聞こえた。闇を切り裂き、鬨の声を上げる武士たちと、炎に包まれ焼け崩れていく寺の姿が見えた。
 桔梗紋が熱風にはためく。
 夜空を昼のように明るく照らし、義無き怨讐の焔が天を焦がした。
「魔王と共に焼け落ちていれば、このような想いをせずに済んだでしょうに」
「あにさま?」
 織田に奪われ、豊臣に拾われ、徳川に召し上げられて。
 魔王の懐刀であったが故に求められ、物珍しさが手伝って、見世物にさせられた。
 耐え難い日々の記憶を噛み締めて、不安げにしている弟の顔を見る。そうっと手を伸ばして触れた頬は、存外に柔らかく、温かだった。
「ありがとうございます、小夜」
「……っ! い、いいえっ」
 礼を言えば、物憂げだった表情が一気に晴れた。猫のように細かった瞳孔が丸くなり、年相応の、嬉しそうな笑顔が花開いた。
 声を弾ませ、小夜左文字は頬をほんのり赤らめた。もじもじと身動いで、大事に抱えていた一輪挿しを改めて差し出した。
 両手を使って受け取って、宗三左文字は揺れ動く桔梗に目を眇めた。
「明日の朝、水を足しに来てくれますか?」
「勿論に御座います」
 丸々と膨らんでいる蕾を潰さぬように撫で、囁く。
 小夜左文字は一も二もなく頷いて、興奮気味に両手を握りしめた。
 鼻息も、心持ち荒くなっていた。任せろ、と言わんばかりに意気揚々としている姿と、見た目と異なる堅苦しい口調に、宗三左文字は自虐の笑みを浮かべた。
 他の者たちと接し方に差があるのは、特別扱いされているようで誇らしくもあり、距離を置かれているようで切なかった。
 対応に苦慮しているのは、審神者も同様だ。他の刀剣たちも、腫れ物に触れるような態度を見せて、あまり傍に寄りたがらない。
 もう少し自分から歩み寄るよう諭されてはいるけれど、屈折してしまったこの心では、なかなかに難しかった。
 何を語り、何を聞けというのだろう。
 罪なき花を見詰めていた彼は、竹筒に這う黒いものに気が付いた。
「蟻が」
「構いません。彼らにも、命はあります」
「……はい」
 小夜左文字も気付き、紫の花に乗り移った虫を払おうとした。
 あわよくば潰してみせようとした彼を制して、宗三左文字は静かに戒めた。
 子供は素直に聞き入れて、俯いて小さく頷いた。その丸くて愛らしい頭を撫でてやって、彼は何処からか響く声に耳を澄ませた。
 夕餉の時を告げる声だ。
 右目に眼帯を着けた男が、自慢の料理を披露しようとしているのだろう。野太くも良く響く呼びかけに、小夜左文字もそわそわと落ち着かなかった。
「もうお行きなさい」
「あにさま、は」
「僕は、こちらでいただきましょう」
「……承知仕りました。後でお持ち致します」
「小夜」
「はい」
 今日一日、馬上の人であった彼は、相応に疲弊していた。幼子に必要なのは復讐ではなく、豊かな食事であり、穏やかな眠りだった。
 共に行かんと誘おうとして、言い出す前に断られた。目に見えてがっかりしている弟に肩を竦め、宗三左文字は桔梗の花を這い回る蟻の行く先を指で塞いだ。
 意地悪をされた虫は方向を変え、蜜を求めて花弁を彷徨った。
 兄がそんな風に戯れているとも知らず、部屋を辞そうとしていた小夜左文字は、呼ばれて即座に振り返った。
 縁側手前で身体ごと向き直った彼に、宗三左文字は淡く微笑んだ。
「我らは兄弟なのですから、もっと遠慮なく。他の者たちと同様で――慎まなくてもよいのですよ」
 控えめに、けれど優しく。
 静かな口調で告げられて、小夜左文字は一瞬の間を置き、全身で震え始めた。
 空を掻いた指はきゅっと握りしめられ、小さな拳を作った。肩は異様なまでに持ちあがり、力が入っているのが見え見えだった。
 鼻の穴が膨らんで、顔全体が紅潮して真っ赤だった。暗く澱んでいた瞳は光で満たされ、明星のように輝いていた。
「は……――はい!」
 手本にしたくなる返事だった。
 腹の底から声を張り上げ、大仰なまでに腰を曲げて頭を下げた。肩は突っ張ったままだったので見た目の折り合いが悪く、滑稽な動きは笑いを誘った。
 宗三左文字もご多分に漏れず、苦笑を禁じ得なかった。
 足音を響かせながら去って行った弟を見送り、部屋が静まり返ったところで短く息を吐く。体内に残る疲労感を追い出して、彼は室内を見回した。
 影は一層長くなり、世界を闇に塗り替えようとしていた。
「どこに、置きましょうか」
 手元に残る一輪挿しはずっしり重く、抱え続けるのは苦痛だった。
 明日の約束をしてしまったので、その辺に捨て置くわけにもいかなくなった。飾る場所を求めて瞳を漂わせ、彼は軸のひとつも掛けられていない、粗末な床の間に近付いた。
「このようなもので、僕の心が癒せると」
 小夜左文字は、何も知らないようだった。
 無邪気な善意は、時に人を傷つける。けれど口には出さず、宗三左文字は雅さに欠ける一輪挿しを撫でた。
 季節が変わる前に、これを摘んだ場所に弟を誘ってみようか。
 違う景色で上書きすれば、あの忌々しい夜の記憶も、少しは薄れるような気がした。
「……おや」
 過去の惨劇に目を瞑り、おぞましい声に耳を塞ぐ。
 そうして暫く黙り込んでいた彼は、いつの間にか蟻がいなくなっているのに気が付いた。
 花弁を摘む指を解けば、黒い残骸が白い肌にこびりついていた。
 意識しないうちに、握り潰していたらしい。哀れな虫は五分の魂を散らし、体液は花弁に染み込んでいた。
 薄紫の桔梗の花の、五つに別たれた花弁の一部だけが。
 まるで燃え盛る炎の如く、赤く、色を変えていた。
「なんと、罪深い」
 嘯き、彼は顔を覆った。こみあげる笑いを押し殺し、震える肩を骨張った手で抱きしめる。
 全ては浅はかな願いだった。
 決して解けぬ呪縛に身を浸し、宗三左文字は嗚咽を飲んだ。

2015/02/07 脱稿