椎鈍色

 言い出すのは、いつだって日向の方だった。
「なあ、影山。明日、お前ん家、行っていい?」
「はあ?」
 放課後、練習が終わって。
 部室で着替えを済ませた直後に問いかけた途端、影山は怪訝そうに眉を吊り上げた。
 比較的高めの声を上げ、何を言いだすのかと言わんばかりに眉間に皺を寄せる。露骨に不機嫌な顔をして、彼は顎を突き出し気味に日向へと迫った。
「またかよ。先週もだったろ」
 凄味のある低音を響かせ、チームメイトは舌打ちしながら吐き捨てた。視線は瞬時に右に逸れて、天井の方へと流れていった。
 姿勢も改めて、影山は背筋を伸ばした。途端に日向との距離が開いて、圧迫感は急激に薄れた。
 部室の入り口では上級生が靴を履き、外へ出て行こうとしていた。ドアが頻繁に開かれ、閉じられて、空気の流れは活発だった。
 肌寒さを覚えて腕をさすり、日向はつっけんどんな態度の影山に口を尖らせた。
「別に、いーじゃん。先週のヨーロッパ選手権の奴、録画してんだろ。見たい」
「お前なあ。見たけりゃ自分とこで契約しろよ」
「頼んだけど却下されたの。知ってんだろ」
 ぷんすかと煙を吐き、悔し紛れに床を蹴り飛ばす。
 衝撃で古い畳から埃が舞い上がって、部室棟全体が揺れた気がした。
 影山も益々顰め面を強め、声変わりが終わったとは思えないボーイソプラノに溜息を吐いた。
 肩を竦め、黒髪をガシガシ掻き回す。爪先が黒ずんだ靴下で床を数回叩いて、彼はやがて諦めたかのように肩を落とした。
「わーった」
「やっりー。影山、愛してるー」
「おお、お熱いねえ。ひゅーひゅー」
「田中さん、冗談は止めてください。日向も、バカな事言ってねーで。さっさと帰んぞ」
「はーい」
 渋々出された承諾に、日向は諸手を挙げて喜びを表現した。そのまま飛び上がって抱きつこうとすれば、やり取りを眺めていた田中が調子に乗って囃し立てた。
 口笛まで吹いてからかわれて、影山は心底嫌そうに顔を歪めた。にじり寄って来た日向は右手を突き出して全力で拒んで、荒い語気で言い放って鞄を担ぎ上げた。
 ふたりが烏野高校に入学してから、既に五ヶ月近くが経過していた。
 なんだかんだで充実した夏休みを過ごして、一旦は壊れかけた関係も、綺麗過ぎるくらいに修復されていた。
 ひび割れた溝は埋められ、補修されて以前より強固になったかもしれない。元々近かった距離感も更に狭まって、クラスは別々なのに、休み時間もふたりは大抵一緒だった。
 互いの家に行き来して、泊まっていく機会も増えた。もっともこちらは物理的な距離の問題があって、日向が影山邸に押しかけるパターンが、全体の八割近くを占めていた。
 表面上迷惑ぶっていながらも、影山は最終的に日向を許した。認めて、受け入れて、懐へ招き入れてくれた。
 文句は言われるけれど、嫌がられていない。
 それが嬉しくて、日向は何度も彼の元へ通い、居心地の良さを楽しんでいた。
 中学時代の友人でも、ここまで一緒に居て楽しい相手はいなかった。交友は今でも盛んだけれど、メールだけのやり取りよりは、矢張り顔を合わせて喋る方が、何倍も面白かった。
 もっと影山について知りたいし、仲良くなりたかった。
 彼と居ると構えなくて済んだし、とても気が楽で、落ち着けた。
 自宅にいると妹の相手をしなければいけないから、一人っ子である影山の家が静かで過ごし易い、というのも、彼の家に入り浸る要因のひとつだった。妹の夏は嫌いではないし、可愛いけれど、人の都合などお構いなしに襲ってくるので、時々鬱陶しくて不満だった。
 影山の両親は働いていて、ふたりとも遅くまで帰って来ない日は多い。そういう夜を狙って遊びに行きたいと言えば、影山は大抵一度断って、二度目の頼みで首を縦に振った。
 夕飯は帰り道にあるスーパーで惣菜を買うか、弁当屋で。
 財布的には厳しいけれど、好きなものだけを選んで食べられる時間は、ちょっとした贅沢であり、幸せだった。
「茶、要るか」
「飲む」
「持ってくる」
 そう言って、影山が空になった弁当の容器を手に立ち上がった。
 日向の分も回収して、白いビニール袋にまとめて押し込んで、口を縛る。日向はそれを眺めながら、スーパーで買った特売品のプリンの蓋を剥いだ。
 それは夕飯を買った店で、賞味期限が目前に迫っているからと、見切り価格で並べられていたものだ。影山も日向が手に取るのを見て興味を持ったようだったが、暫く悩んだ末に棚に戻していた。
 デザートには、お気に召さなかったらしい。ゴミの分別もせず片付けを簡単に済ませて、影山は踵を返して部屋を出ていった。
 ドアは開けっ放しだったが、足音はじきに聞こえなくなった。二階建ての一軒家はひっそり静まり返り、日向は柔らかなプリンを噛みもせずに飲み込んだ。
 時計を見れば、午後八時を少し回っていた。窓の外は闇に包まれ、時折風が吹いて窓枠がカタカタ音を立てた。
 月は出ていない。星の明かりもかなり遠く、室内を照らすのは天井に設置された蛍光灯だけだった。
 手元に出来た薄い影を指で捏ねて、日向はスプーンを咥えたまま質素極まりない室内を眺めた。
 これまでに何十回と足を踏み入れている場所だけれど、いつ来ても物が少ない部屋だった。
 あるのは間取りの半分近くを埋めるベッド、そして勉強机くらい。テレビは薄型の液晶タイプで、なんと日向家のリビングにあるものより画面が大きかった。
 録画デッキ等を入れたテレビ台は背が低く、ダンベルが無造作に床に転がっていた。衣服などはクローゼットの中に収納されて、ぱっと見た感じ、整理整頓が行き届いていた。
 ベッドの足元には雑誌が積み上げられて、影山の身長をフォローしていた。
 背が高いのは羨ましい限りだけれど、密かに色々苦労があると教えられた。最初に見た時は何の為のものか分からなくて、本人に聞いて深く納得したのを覚えている。
 サイズが合うバレーボールシューズならあるけれど、私服に合わせる靴がない、とも偶に耳にする。月島も地元で扱ってくれていないサイズだとかで、通販に頼る場合が多いと言っていた。
 その点、身長百六十センチ少々の日向は、安売りされているファストファッションでも全く問題がない。着る物にも、履く物にも、苦労した経験がなかった。
「やっぱ、なーんか。寂しいよなあ」
 壁紙は白一色で、家具も落ち着いた色合いのものばかり。カーテンだって無地で面白みがなく、良く言えば調和がとれているけれど、悪く言えばつまらない部屋だ。
 机の上は真っ平らで、鉛筆の一本も転がっていない。片隅に集められたふたり分の鞄がなければ、生活感は無いに等しかった。
 影山が掃除をマメにやっているとは思えないので、彼の母親が、気を利かせて片付けているのだろう。ゴミ箱の中身は少なく、フローリングの床には髪の毛一本落ちていなかった。
 日向の部屋はもっとごちゃごちゃしていて、騒々しかった。子供の頃に買ったおもちゃや人形が棚の上で幅を利かせて、テレビの横にはゲーム機が、埃をかぶった状態で放置されていた。
 母親は息子の部屋に一切手を入れず、自分でやれ、の一点張りだ。
 その辺の取り決めは家族ごとに違うのだと、影山の家を訪ねるようになって、より強く意識させられるようになった。
 別段羨ましいとは思わない。
 むしろ逆だ。彼に対しては、一種の憐みさえ抱いていた。
「ごっそーさまでした」
 いったい何に手間取っているのか、影山が戻ってくる気配はなかった。耳を澄ませて足音を探して、日向は食べ終えたプリンの容器をゴミ箱へと放り投げた。
 蓋とスプーンにも後を追わせ、膝を起こして立ち上がる。背筋を反らして骨を鳴らして、彼は頭上高くに掲げた腕を下ろした。
 軽く肩を回して身体を解して、日向は人間味が薄く思える室内を、改めて眺めた。
 長さが足りないベッドに継ぎ足されているのは、全てバレーボール関係の古雑誌だった。真ん中辺りにあるものを試しに引っ張り出してみれば、発行年は五年ほど前のものだった。
 表紙を飾るプレイヤーを、日向は知らない。
 探せば烏野高校が春高に出た年のものも見つけられそうだが、かなりの時間が必要だ。影山の寝床を勝手に壊せば当然怒られるだろうし、彼が戻ってくる前に発見出来る保証はなかった。
 今度、正式に許可を得てからやろう。
 何か月か前にも思った内容を再度心に刻んで、日向は大量に積み上げられている雑誌の側面を撫でた。
 一冊くらいいやらしい物が紛れていないかとも考えるが、なにせあの影山だ。
 浜辺の砂に興奮して鼻息が荒くなる男が、女性の裸体で内股になるとは、あまり思えなかった。
 そもそも、似合わない。
 同学年の男子を捕まえてこの評価は酷いが、本当にそう思えるのだから、仕方がなかった。
「ないなー」
 みっちり詰め込まれている雑誌の角をぱらぱらやって、小声で嘯く。
「なにがないって?」
「うおっと。びびった」
 そこに合いの手が返されて、油断していた日向は目玉が飛び出しそうになった。
 派手に驚き、戦いて後ずさる。全身の毛を逆立てて仰天していたら、四角い盆を手にした影山が、心持ち頬を膨らませて嫌そうな顔をした。
 反応の大きさに不満を抱き、不機嫌を隠そうともしない。
 あまりにも正直で素直すぎる表情に胸を撫で下ろして、日向は照れ臭そうに微笑んだ。
「わり。サンキュ」
 手を伸ばせば、片手で盆を持ち直した影山から氷入りのグラスが差し出された。注がれていたのは麦茶で、溢れそうなくらいの縁ぎりぎりに水面があった。
 零さないよう受け取って、日向は指に吸い付く水滴に頬を緩めた。
「つべてえ」
「沸騰させた方が良かったか」
「なんでそう、極端なんだよ」
 カレンダーは既に九月。十月の足音は日増しに大きくなっており、日中でも日陰に入ると涼しく感じられる季節だった。
 夜ともなれば、気温はぐっと下がった。長袖のジャージは欠かせず、山越えの道は自転車を漕いでいても少し寒かった。
 とはいっても、湯気を放つ熱い茶が欲しくなるのは、まだ当分先の話だ。
 冷たいか、熱いか。
 振り幅が大きすぎると文句を言って、日向は良く冷えた麦茶で喉を潤した。
 プリンを食べた直後なので、味が混ざって変な感じだった。なんとも言えない違和感をどうにか捻じ伏せて、飲み込んで、彼は人心地ついたと息を吐いた。
 両手でコップを持ち、断りなく影山のベッドに腰掛ける。影山は机に置いていたテレビのリモコンを取り、電源を入れて部屋をもう一段階明るくした。
 ぱっと表示されたのは、大食いタレントを中心とした芸人の集団だった。
「うわ、うまそー」
 どうやら各地にある、美味しい物を食べ歩くツアーの最中らしい。カメラはその店で一番人気のメニューを映し出して、スピーカーからは女性タレントの嬉しそうな悲鳴が聞こえて来た。
 スーパーの弁当を平らげたばかりだというのに、日向の目は画面に釘付けだった。影山もつられてそちらに顔を向けて、納得顔で頷いた。
 確かに美味そうだと呟いた彼に全力で同意して、日向はアップで映し出された海鮮丼に涎を垂らした。舌なめずりを三度も繰り返して唾を飲み、物欲しげな顔をしてベッドの上で身じろいだ。
 そんな様子を横目で眺め、影山はもうひとつあるリモコンのボタンを押した。
「あっ」
 さらにもう一度、テレビ側のリモコンのボタンを押す。
 途端に画面が真っ暗になって、電源を落とされたと思った日向は身を乗り出した。
 手元でコップが揺れた。中身が溢れそうになったのに慌て、彼はスプリングの上でひょこひょこ飛び跳ねた。
 なにかをする度に五月蠅く動き回る姿に苦笑して、影山はレコーダーのリモコンを順番に押していった。
 録画番組一覧を呼び出し、最新のデータを選択して決定ボタンを押す。すると画面は色鮮やかさを取り戻し、心沸き踊るメロディが奏でられた。
 背景には大きな体育館が映し出されていた。ズームアップして、館内に画が切り替わる。ネットを挟んだコート内では選手がアップを開始しており、体格も立派な外国人が順番に紹介されていった。
 それは専用のスポーツチャンネルに契約していないと見られない、海外の大会の光景だった。
 この手の番組は、月割りで結構な金額が必要だ。日向は影山に話を聞いた翌日、母親に直談判してみたが、返答はつれなかった。
 どうせ家に帰って来た後は、飯を食べ、風呂に入り、布団に潜り込んで眠るだけ。そこに勉強を加えたら、テレビ番組など見ている暇はないだろう、と言われて、反論出来なかった。
 だから見たい試合が放送された後、日向は必ずと言っていいほど、影山の家に押しかけていた。
「うおー、すげえ。打点高けぇ」
「お前もあれくらい、余裕で跳ぶだろ」
「……ンふふ」
「パワーは十分の一くらいだろうけどな」
「チッ」
 早速始まった試合に、日向の頬は見る間に紅潮していった。興奮に鼻息を荒くして、影山の相槌に逐一表情を切り替えた。
 喜んだり、拗ねたり。
 百面相を鼻で笑い飛ばして、影山は床に腰かけ、ベッドサイドに背中を預けた。
 日向の脚はすぐ右側にあり、首を後ろに倒せば太腿が見えた。
「結構あるぞ、この試合」
「フルセット?」
「ああ。風呂、どーする。先入るか」
「あー、どうしよっかな。最後まで見てたら、十時、過ぎるか」
 一区切りつくところで終わらせたいけれど、流石に一時間以上テレビの前から動かないのは疲れる。
 壁時計を見ながら呟いた日向に首肯して、影山は引き締まって細い脚に視線を流した。
 無駄な筋肉を持たない脚部は、小鹿のようなしなやかさだった。超人的なバネで高く跳ぶ様は美しく、さながら背中に羽根が生えているようだった。
 プロのプレイを見詰める眼差しは真剣で、美味そうな海鮮丼などもう頭に残っていない顔だ。己の技術を高めるヒントを探し求めて、トッププレイヤーに対しても底抜けに貪欲だった。
 反面、無防備で、隙だらけ。
 触れてみたい欲望を拳で握り潰し、影山は返事を待たずに立ち上がった。
「風呂の準備、してくる」
「ごめん。あんがと」
 いったいどういうつもりで、頻繁に家に押しかけてくるのか。
 単純に見たい番組があるから、という動機のような気はするが、それにしても月に一度や二度ではない。頻度は、正直言って異様に高かった。
 甘えているのか。
 甘く見られているのか。
 家に親が居ない時間が多いから、寂しがっているとでも思っているのか。
 どちらにせよ、深い意図はないに決まっている。期待するだけ無駄だと己を戒めて、影山は裡に秘めた感情に蓋をした。
 これだけ度々家に来たがるのだから、嫌われていないのは確実だった。
 むしろ好かれていると思って良い。
 慕われ、信頼されているのがひしひしと感じられた。
 但し、あくまでも友人として。
 それ以上ではなく、それ以下でもない。境界線を踏み越えた感情は、日向の中には存在していなかった。
「持てよ、俺の理性」
 まるで蛇の生殺しだ。
 剥き出しの脛や太腿があんなに近くにあるのは、目の毒以外の何物でもなかった。
 そして夜は、来客用の布団などありはしないので、ひとつのベッドで折り重なり合うようにして眠るのだ。
 それはご褒美であり、拷問でもあった。
 日向に出会って、再会して、世界は一変した。
 忍耐力がかなり向上した。精神力が鍛えられて、我慢強さが倍増した。
 今宵も、先に風呂に入るのは自分の方だ。扉を開けて湯船に栓をして、影山は深々とため息を吐いた。
「日向の入った後でなんか、入れるかよ」
 そんなことをしたら、箍が吹き飛んでしまう。
 残り湯にさえ興奮するような男には、絶対になりたくなかった。
 準備を済ませ、彼は壁のスイッチを押した。自動で一定量湯を貯める機能を使って、彼は湯船に蓋をした。
 段取りを済ませて二階の部屋に戻った時、テレビは点けっぱなしだった。
 部屋の照明も煌々と照っていたが、肝心の小柄なチームメイトが居ない。トイレにでも行っているのかと首を傾げていたら、部屋の片隅で黒い塊が蠢いた。
 もぞもぞと身動ぎ、首を竦めて丸くなる。
 ベッドの足元に座り込んでいる華奢な少年を見つけ出して、影山は怪訝に眉を顰めた。
「なにやってんだ、お前」
 テレビでは試合が継続中で、点差はじわじわ開きつつあった。最初は一方的な展開になるかと思いきや、終盤に凄まじい粘りを発揮したチームが逆転勝利を収める光景は、手に汗握って面白かったというのに。
 見ないのなら、電源を切っておいて欲しかった。
 チャンネルを戻してグルメ番組の続きを鑑賞することだって、日向には出来た筈だ。
 リモコンの操作方法は、随分前に教えてあった。まさか忘れているのかと首を捻っていたら、萎縮していた少年が恐る恐る首を伸ばした。
「いやあ、ちょっと。探し物を」
「忘れモンでもしてたか?」
 目を泳がせながら言われて、影山は益々顔を顰めた。反射的に聞き返して、指先に残る湿り気をズボンに擦り付けた。
 日向はこれまで何度も遊びに来ており、たまに荷物を置いて、そのままにする事があった。
 歯ブラシのような日常品は、いつの間にか洗面所に彼専用の物が用意されていた。着替えも何着か、母親が気を利かせて準備してくれていた。
 けれど雰囲気的に、そういうものを探している感じではなかった。びくびくと怯えた態度に首を傾げていたら、沈黙が耐えられなくなったのか、日向は降参だと白旗を振った。
「お前って、エロ本とか。持ってねーの?」
「……は?」
 単刀直入に聞かれて、影山は目を丸くした。
 良く見れば日向の足元には、ベッドの長さを足す為の雑誌が何冊か、引き抜かれて散らばっていた。
 どれもこれも、バレーボールに関する本だ。情報が古すぎて役に立たない物も多いけれど、捨てるに捨てられず、丁度良いからとそこに積み上げて再利用していたものだ。
 その塔が若干低くなっていた。探し物とはそういう事か、と納得して、彼は歯を見せて笑っているチームメイトに肩を落とした。
「悪いか?」
 木を隠すなら森の中、という言葉がある。
 親に見られたくない雑誌は、健康的な雑誌の間に挟んでおけば良いと、そんな風に考えたのだろう。
 だが生憎と、影山はその手のモノに関心がなかった。全くないわけではないけれど、今は他に優先すべきことがあるので、二の次だった。
 堂々と胸を張って問い返せば、日向は背筋をピンと伸ばし、直後猫背になって頬杖をついた。
「いやー、別に悪くはない、けど。……ほんと、バレーばっかだな」
「お前だってそうだろ」
「そりゃーね、そうですけどね。でもおれとしては、たまーに、心配になったりするわけですよ」
「なにを」
「だってさー、お前って急にぐわっ、てなって、ぎゅわっ、てなるだろ?」
 熱戦を伝えるアナウンサーの声を押し返し、日向が座ったまま腕を広げた。良く分からない擬音で勢いを表現して、重ねた手を右から左へと走らせた。
 要するに、思い込んだら一直線。
 思い詰めたら突然爆発する。
 そういう趣旨のことを、彼は言いたかったようだ。
 薄ぼんやりと理解して、影山はそうだろうか、と過去を振り返りながら眉間に皺を寄せた。
 思い当たる節がありそうで、ない。
 顎に手をやって真剣に悩んでいる彼を見上げて、日向は肩を竦めて苦笑した。
「だからー、相棒としては、ですね。お前って、ムラッとした時どうしてんのかなー、って、興味があったんですけれど」
 寝ても覚めてもバレーボール一辺倒で、他の事にはまるで興味がない男。それが影山飛雄だった。
 女子からの人気は高いけれど、愛嬌が足りず、常に不機嫌そうに見える。人の気持ちに鈍感で、容赦なく傷口を抉ることを言ったり、塩を塗り込んだり。
 日向も過去に何度か、酷い目に遭っていた。
 けれど最近は慣れて来たし、彼がどういう意図で発言しているのかも、前よりは分かるようになっていた。
 但し私生活は相変わらず謎な部分が多く、性的な関心もそのひとつだ。
 彼の口から、女子の好みを聞いたことがない。
 名前が挙がるのは、プロのプレイヤーばかり。それは顔や体格がどうこうというのではなく、選手として尊敬している、という要素が強かった。
 そういうのではなくて、と説明しても、なかなか伝わらない。そのうちに面倒臭くなって、日向はこの話題を避けるようになった。
 だが今日になって急に、好奇心がむくりと首を擡げた。
「ま、お前の場合、ムラッとくる事とか、なさそうだけど。ボールに興奮するとか、体育館に鼻息荒くするとかは、気持ち悪いからやめとけよ」
 軽口を叩き、日向は広げた雑誌を元の場所に戻した。簡単に崩れないよう角を揃えて形を整え、そのままベッドへ這いあがった。
 膝をスプリングに沈め、敷かれている布団に両手を置く。
 言いたい放題の彼を見詰めて、影山は盛大に舌打ちした。
「俺だって、そういう時もあるし、ムラって来る相手だっているっての」
「え。マジ?」
「しまっ――」
 勢い任せに乱暴に吐き捨て、直後驚いた日向が四つん這いを解いた。膝立ちになってベッドから身を乗り出し、それで我に返った影山は真ん丸に目を見開いた。
 己の失言に今更気づき、青くなるが既に遅い。日向は興味津々に目を輝かせ、立ち尽くす王様然としたチームメイトに声を高くした。
「マジで。嘘じゃねーよな。ホントにいるのかよ。誰。誰? おれの知ってる子? かわいい? つーか、もしかしてもう付き合ってたりする?」
 立て続けに質問を投げかけ、興奮した頬は録画した試合を再生させた時よりも赤かった。左右の拳を胸の高さでぶんぶん振り回して、落ち着きなく動き回った。
 そのうちベッドから落ちそうだ。
 少しもじっとしていない彼に心の中で悪態をついて、影山はとんだ失態に奥歯を噛み締めた。
「うるせえぞ!」
「えー、いいじゃん。教えろよー」
 罵声を上げても、日向は挫けなかった。怒鳴られても平然と受け流して、小柄な少年はしつこく食い下がった。
 まるでスッポンだ。一度噛み付いたら離れないという生き物を思い浮かべ、影山は渋い顔をして口を尖らせた。
 底抜けに無邪気で、自由奔放で、地雷原を全力で駆け抜けて次々に起爆させていく。吹っ飛ばされてもまるでめげず、落ち込まず、悔やまない。
 そうやって彼が無自覚に開けていった穴が、影山の胸には大量に残されていた。
 隙間風が冷たい心を抱きかかえて、彼は小鼻を膨らませた。爛々と輝く双眸を睨みつけて、遠くから聞こえた電子音に歯軋りした。
 風呂が沸いたと知らせるメッセージは、日向の耳には入っていない。今ならまだ言い訳をして、逃げられると、善良な天使が肩の上から囁きかけていた。
 一方反対の肩には悪魔が居座り、我慢するなと唆して来た。
 顎が砕けるまで歯を食い縛って、影山は伸びて来た手を乱暴に突き返した。
「わっ」
「いい加減にしろ、つってんだろ」
 跳ね除けられて、日向が仰け反った。そのままバランスを崩して尻餅をついた彼を追い、影山はベッドに膝から乗り上げた。
 前に出て日向に肉薄し、華奢で薄い胸を突き飛ばす。堪らず倒れ込んだ彼は零れ落ちんばかりに目を見開き、唐突な展開に瞬きを繰り返した。
 上に覆い被さられても、きょとんとした表情は変わらなかった。
 それに一番腹が立ち、またショックで、影山は全く意識されていなかった現実に泣きたくなった。
「かげやま?」
「そんなに知りてーなら、教えてやるよ」
 今まで色々我慢して来たけれど、もう限界だった。
 苦労して培ってきた信頼関係が崩れるだとか、どうでも良くなっていた。
 あらゆることに投げやりになって、彼は鼻を愚図らせた。惚けている日向がどうしても許せなくて、この薄らとんかちに一矢報いてやりたかった。
 荒い息を吐き、左手を下へと這わす。
 途端に太腿を撫でられた日向が戦いて、青くなって竦み上がった。
「ちょ、ちょっ。なに」
 太い指がショートパンツの裾を手繰り、内側に隠れていた肉を擽った。関節をなぞるように動かされて、奥へ進もうとするのを日向は慌てて堰き止めた。
 足を跳ね上げ、そのついでに膝で影山を牽制する。しかし男は怯まず、反対の手を日向の脇腹に押し付けた。
「――っ」
 乱れたシャツの裾ごと擽られ、脆弱な体躯がびくりと跳ねた。発作的に目を閉じた日向は首を右に倒し、強すぎる眼差しを避ける形で荒い息を吐いた。
「っや」
 何が起きているのか。
 何が起きようとしているのか。
 訳が分からないと鼻を啜り上げて涙ぐむ横顔を前にして、はたと我に返った影山の全身が大きく、ぶるりと戦慄いた。
 血の気が引いた。
 慌てて身を引けば、情けなくも尻からへたり込んでしまった。
「わ、わ……りぃ」
 おろおろし過ぎて頭も、舌も回らなかった。あたふたと両手を意味なく振り回して、影山は更に後退を図り、行き過ぎてベッドの端から床に転げ落ちた。
 ズドン、とすごい音がした。
 日向も絶句して飛び起きて、転げるように入口に向かうチームメイトに騒然となった。
「ふ、風呂。行って、くる」
「影山」
「テレビ、見てねーなら消しとけよ!」
 ドアを頼りに立ち上がって、呼び止められても振り返らなかった。あまりにも場違い極まりない捨て台詞を残して廊下へ飛び出して、追加で響いた騒音は、階段を滑り落ちでもしたのだろうか。
 呆気にとられ、日向は着衣を整えもせずに瞬きを繰り返した。
「影山、が……ぐわっ、て」
 圧し掛かられた時、怖かった。
 触れられた時、ぞわりと来た。
 今更ながら鳥肌が立って、日向はトレーナーの上から腕を撫でた。
 心臓がバクバク言っていた。熱が上がり、顔が火照って仕方がなかった。
「ぶわって、来た」
 呟いた瞬間、日向は右腕で顔を覆った。膝は勢いよく閉ざされて、逃げ遅れた左手が太腿に挟まれた。
 内臓がきゅぅ、と窄まった。耳鳴りがして、跳ね上がった肩がなかなか下がらなかった。
 竦み上がったまま凍り付き、彼は垣間見えた獣の顔に背筋を粟立てた。
 もしあのまま、影山が止まらなかったら。
 ちらっと想像しただけで、ベッドの上で膝が弾んだ。益々小さく、丸くなって、日向はカタカタ震える指を唇に押し当てた。
「影山、……好きな奴、いるんだ」
 今まで色々な影山を見て来たけれど、あんな彼は初めてだった。
 知らなかった。
 思いもしなかったし、思いもよらなかった。
 では彼の想い人だけは、ああいう彼を好きな時に、好きなだけ見られるのだろうか。
 それを思うと何故だか少し悔しくて、日向は親指の短い爪を浅く噛んだ。

2015/03/29 脱稿