想思鼠

「ひゃー! 遅れる、遅れるー」
 甲高い悲鳴を上げ、駆け足で床を蹴り、廊下を駆ける。角をほぼ九十度に、減速もなしに突っ込んできた少年に、衝突しかけた通行人は慌てて仰け反って避けた。
 寸前の回避運動でギリギリ防がれた激突に、少年自身も目を見張った。しかし立ち止まったりはせず、すれ違いざまに「ごめんなさい!」と大声で謝っただけだった。
 頭を下げる事も、振り返りもしない。後ろから文句は聞こえてこなかったが、周囲は少しざわついた。
 非難めいた視線を感じて首を竦め、日向翔陽は心の中で謝罪を繰り返した。
「ひぃぃぃぃ、置いてかれるぅぅぅぅぅ」
 けれど反省を上回る恐怖に見舞われて、口を開けば切羽詰まった声が漏れた。
 大粒の瞳を左右に動かして、彼は天井付近に見えた案内板に奥歯を噛み締めた。
 県で一番大きな体育館は、当然ながら内部も広い。構造は単純ながら、慣れない高校生にはさながら巨大迷路だった。
 熱戦が終わった。
 興奮のるつぼにあった館内も、熱気は徐々に冷めつつあった。
 観客席に陣取っていた大量の応援団も、悲喜交々の表情で帰路に就いていた。勝者は胸を張り、敗者も堂々と、アリーナを去る選手の顔はいずれも凛々しかった。
 誰もが頂点を目指し、切磋琢磨を繰り返していた。
 悔いることはない。
 恥じることもない。
 全ては精一杯やった結果で、それでも勝敗が決する瞬間は非情だった。
 負けてコートを去る人々の想いが積み重なり、ユニフォームは日増しに重くなっていく。春先は誰も気に留めなかっただろう黒いジャージに注がれる眼差しも、試合が終わる度に険しく、鋭い物になっていった。
 後で叱られるかもしれない。
 それでも足を緩めず、烏野高校男子排球部の小さなミドルブロッカーは狭い通路を全力で走った。
「こっち、だった。ような!」
 頭の隅に残る記憶を頼りに進路を選び、時々躓いて転びそうになりながら、道を急ぐ。しかし辿り着いた先は全く見覚えのない空間で、少年は急いでブレーキをかけ、肩で息を整えた。
 いったい、正面玄関は何処にあるのだろう。
 一番行き易そうな場所になかなか到達できなくて、日向は地団太を踏んで煙を噴いた。
「あー、もう。どこだよ、ここ!」
 あと少し行けばその出入り口があるというのにも気付かず、大声で喚いて両手を振り回す。
 挙動不審な男子高校生は近寄り難い雰囲気があって、周囲にいた人々も遠巻きに眺めるだけだった。
 試合が終わって、ユニフォームを脱いで。
 軽くミーティングをして、荷物を片付けて。
 烏野高校男子排球部の面々は、これから顧問である武田が運転する小型バスで学校に帰る段取りだった。
 今日の試合は全て終了した。一時期の賑わいは既に遠く、勝利の興奮に滾っていた身体も熱を失いつつあった。
 そんな日向の身体に、入れ替わりに訪れたのが。
 長く忘れ去られていた尿意だった。
 試合中はそれどころではないし、終わった後も暫くはアドレナリンが出たままなので、気にならなかった。
 激しい運動で大量の汗を掻いていたのに、丁寧に拭き取らなかったのも良くなかったのだろう。水分を必要以上に摂取していれば、冷えた身体がトイレへ行きたがるのは、当然の結果だった。
 そういう訳で、日向は集団を離れ、ひとり便所に向かった。
 残りメンバーは荷物を運び、バスへ移動。日向は遅れて合流し、全員が揃ったところで出発、となる筈だった。
 しかし、段取りが狂った。
 最初に出向いたトイレは異様に混み合っていて、我慢出来なかった彼はひとつ先の区画に向かった。それが大きな間違いで、無事に事を済ませはしたものの、ドアを出た瞬間、彼は真っ青になった。
 帰り道が分からない。
 脇目も振らずトイレだけを探し求めていたものだから、スタート地点がどこであるか、すっかり見失ってしまっていた。
「うぇぇぇ。どうしよう、ぜってー怒られる」
 荷物は、皆に預けてあった。ことあるごとにトイレに駆け込む癖がある彼だから、運んでおいてやるから早く行くようにと、チームメイトは快く送り出してくれたというのに。
 今頃バスで待っている仲間は、痺れを切らしているに違いない。苛々している面々を思い浮かべ、日向は下唇を噛み締めた。
 なんとか合流地点に向かおうと頑張っているものの、報われているとは言い難い。走れば走るほどゴール地点は遠ざかり、袋小路から抜け出せなかった。
 いっそ、誰か迎えに来てくれないか。
 淡い希望を抱くけれど、それが幻想でしかないのは日向自身、よく分かっていた。
 連絡を取り合おうにも、携帯電話は鞄の中だ。流石に館内放送を頼るのは恥ずかしいし、そもそも駐車場まで聞こえるかどうかが不明だった。
「どこなんだよ、ほんと」
 通行人に訊けば良いのに、焦る頭はそういう基本的なところを見落としていた。案内表示が途絶えた廊下のただ中で足踏みして、彼は緊張から来る腹痛に背筋を震わせた。
 自分自身を抱きしめて、奥歯をカチカチ噛み鳴らす。
 財布だって鞄に入れたままなので、今の彼は本当に、身一つしかなかった。
 万が一皆に見切りをつけられ、置いていかれたらどうしよう。それは考えるだけでも恐ろしく、最も忌避すべき事案だった。
 大会会場であるこの体育館から烏野町へは、車でも一時間近くかかる距離があった。ましてや日向の家がある雪ヶ丘町は、それよりもっと遠かった。
 歩いて帰れる距離ではない。地図もなく、コンパスもなく、非常食や水さえ持たない状態で峠を越せるほど、自然界は甘くなかった。
 手持ちの資金はゼロだから、公共の交通機関は使えない。タクシーなど論外だ。となればヒッチハイクしかないけれど、その方面に向かう車が捕まえられる確率は、限りなく低そうだった。
 外国人が観光地を旅行するのとは、訳が違う。そもそも停まってくれるかどうかも分からなくて、お手上げだと日向は天を仰いだ。
「どうしよう」
 呆然と立ち尽くし、降り注がれる照明に目を閉じる。
 アリーナで仰ぎ見たのとは明度も、眩しさもまるで違う光を視界から追い出して、彼は深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした。
 焦っていたら、とても簡単な事でさえ失敗する。
 ピンチこそ冷静に。バタバタしない。慌てず、騒がず、周りを見る。
 試合中の心構えをひとつずつ振り返って、日向は窄めた口から息を吐いた。
 続けて胸を反らし、鼻から空気を吸い込んで。
「……ン?」
 どこかで嗅いだ覚えがある匂いを鼻腔に感じた、その直後だった。
「なにやってんだ、このボケぇ!」
「――イッ!」
 身体が真っ二つになりそうなくらいの凄まじい衝撃が、頭の天辺に突き刺さった。
 耳を劈く怒号は館内を揺るがすレベルで轟き、耐えきれなかった少年は敢え無く膝を折って蹲った。
 確実に瘤が出来ている頭を抱きかかえ、凄まじい痛みと熱に悶絶する。目尻を濡らす涙は自然と溢れたもので、息を吸えばただの空気が喉を焼いた。
 喋ろうと思っても、ひゅうひゅう息が漏れるだけで音にならない。
 人は本当に痛い時、悲鳴すら上げられないのだと、こんなところで教えられた。けれどそんな知識を持ち合わせたところで、将来役に立つ日が来るとは思えなかった。
 じんじん響く痛みを黙ってひたすら耐えて、ようやく少し楽になったところで視線を浮かせる。
 涙で歪んだ視界には、堂々とした佇まいの、黒ずくめの男が立っていた。
 長い手足、細いが決して脆弱ではない胴体、整った顔立ちと険しい目つき。
 甲冑を着せればさぞや似合いそうな黒髪の男は、百八十センチオーバーの身長をこれでもか、というくらいに堂々と晒して、仁王立ちで日向を見下ろしていた。
 ヘの字に引き結ばれた唇が、彼の不機嫌さがいかほどかを物語っていた。
 鋭い眼光は獲物を狙う獣のそれであり、幼い子が見れば一発で泣き出す迫力だった。
 日向自身、一瞬びくりとしてしまった。
 凄まじい怒気を目の当たりにして、心臓がきゅぅう、と窄まった。
 全身の血管が萎縮して、末端から冷えていく。手足が凍り付いて動かなくて、頭の痛みもいつの間にか消えていた。
 並々ならない恐怖を突き付けられて、膝が震えてカタカタ五月蠅かった。
「ひっ、あ」
「テメエ、ンなトコで何道草食ってんだ。ああ?」
 竦み上がり、頬を引き攣らせる。そこへずい、と身を乗り出した影山に怒鳴られて、日向は大急ぎで目を逸らした。
 まるでカツアゲされた気分だった。
 勿論そんなことはないのだけれど、不良に絡まれる苛められっ子の気分が、ほんの少し理解出来てしまった。
 辺りを見回せば、誰も日向を見ようとしない。絡まれている子がいるから助けよう、という心意気ある勇者は現れず、誰もが見て見ぬフリだった。
 もっとも、助ける必要などない、と思っている人の方が圧倒的多数だろうけれど。
 なにせふたりとも、上から下まで同じ服装なのだから。
 同じ黒い上着、黒いズボン。靴こそ違えど、奇しくも中に着ている学校のロゴ入りシャツまで同じだった。
 どちらも烏野高校の名を記したジャージを着ているのだから、大会運営者も喧嘩とは疑わないだろう。仲裁の声は最後まで聞かれず、近くにいた人の姿はどんどん減って行った。
 後は清掃員や、警備員に、腕章をつけた関係者ばかり。
 大会に出場していた学生も大半が移動した後か、彼らの傍にはひとりも居なかった。
 すっかり人気が失せたロビー近くの廊下に立って、天才セッターは返事をしない日向に苛々と床を蹴った。
 爪先でリズムを取り、胸の前で組んだ腕を人差し指で同時に叩く。
 コートの中で威風堂々とボールを操る大男は、こういう時でも居丈高で、偉そうだった。
「いってぇ。すんげー痛かったぞ。なにしやがる、影山」
「それはこっちの台詞だ。どんなけでっけー糞してやがったんだ。あれから何分経ったと思ってんだ、テメーは」
「まっ、下品。お下劣。影山君の口は臭いです」
「ふざけんじゃねえ!」
 渋々立ち上がり、痛みが戻ってきた頭を指差しながら文句を言う。だが影山は取り合わず、荒っぽい語気で生意気な日向を黙らせた。
 論点をすり替えようとしていたチームメイトを一喝して、彼は圧倒されて表情がなくなった日向に肩を落とした。
「もう出発時間過ぎてんだ。バス、行くぞ」
「お、おう」
 くい、と顎をしゃくって正面玄関を示し、返事を待たずに踵を返す。
 慌てた日向は姿勢を正し、意外に近かった玄関ホールに気付いて唖然となった。
 あと少し立ち止まるのを後にしていたら、影山に殴られずに済んだのに。
「なんだって、おれは、もー」
 焦るあまり、視野が狭くなっていた。
 主将である澤村にも周りをよく見るよう注意されていたというのに、肝心なところで失敗ばかり。
 後悔して落ち込んでいたら、歩調が鈍ったと知った影山が、三メートル先で溜息を吐いた。
「置いてかれてーの」
「今いくし!」
 早くしろと急かされて、感情のやり場がない日向は無駄に大声で吼えた。足を踏み鳴らしてじたばた暴れて、仰々しい足取りでチームメイトを追いかけた。
 見苦しいながらも動き出した彼を鼻で笑い、影山も床から靴底を引き剥がした。慣れた足取りで県内最大の体育館を突き進み、ガラス張りの大きな扉を潜り抜けた。
 外は快晴で、建物を出た直後に強い風がぶわっ、と吹き抜けた。
「うっ」
 砂埃が舞い、咄嗟に腕で顔を庇う。怯んで筋肉が委縮して、塵が入りそうになった目が再び涙を滲ませた。
 聞こえた耳鳴りは、錯覚か。
 一瞬で消えた唸り声に肩で息を整えて、日向は黙々と歩く背中を追いかけた。
 いきなり一発殴って来たけれど、影山は間違いなく、日向を探しに来てくれたのだ。
 他の部員と連絡を取り合う様子はない。ということは、一旦バスに移動してから、体育館に戻って来たのは彼ひとり、ということだ。
「影山だけ、か」
 もしあのまま、彼が探しに来てくれなかったら。
 日向は目的地が目の前だとも知らず、反対方向に駆け出していたかもしれない。
 そんな馬鹿な真似はしないと言いたいところだけれど、自分の事だから否定出来ない。
 遠い目をして、彼は専用駐車場を示す案内板の前を通り抜けた。
 アスファルトに白い線が引かれただけの広い空間は、少し前まではたくさんの車でひしめき合っていたはずだ。しかし今は所々に残っているだけで、賑わいは過去のものと化していた。
 そんな中に一台残った小型のバスに、影山は躊躇なく近付いていった。
 高い位置にある運転席には人影があり、開けっ放しの昇降口近くにも人の姿があった。遠くからでも目立つ二人組が現れたと知って、退屈そうに待っていた小柄な少女は車内に大慌てで駆けて行った。
 焦り過ぎたのだろうか、ステップで躓いて、半ば転ぶような感じだった。離れた場所まで聞こえるくらいに凄い音がして、それまで静かだったバスは急激に騒がしくなった。
「なにやってんだ?」
 倒れた谷地を心配する声が響き、ハンドルに寄り掛かっていた武田も顔を上げた。目が合った日向は反射的に会釈して、影山は怪訝そうに眉を寄せた。
 荷物は積みこまれた後なのか、車体の下方にある収納スペースは既に閉ざされていた。
「日向、おっせーぞ。どこ行ってたんだ」
「すみません。ちょっと、迷いました」
「なんだ。やっぱりか」
 バスの窓からは二年生の田中と西谷が顔を出し、合流が遅れた後輩を高らかに笑い飛ばした。正直に告白した一年生は馬鹿にされて顔を赤くし、一足先にステップに爪先を置いた影山の背中を押した。
 谷地は真っ赤になった額を抱えつつ、清水の隣の席で背中を丸めていた。運転席の武田はふたりが乗車するのを待ち、いつでもドアを閉められるよう、スタンバイしていた。
「影山君、ご苦労様です」
「ッス」
「すまんな、影山。手間を取らせた」
「いえ。割と直ぐ見つかったんで。問題ないです」
「どこにいたんだ、日向」
「入ってすぐの、通路んトコです」
「なんでンなところで迷子になれんだよ。器用だな、おい」
「はいはい。すぐ出発するんだから、お前らも席座れ。シートベルト、全員忘れるなよ」
「はーい」
 武田と烏養に話しかけられ、ステップを上がり切ったところで影山が立ち止まった。更に後方の座席にいた田中にも訊かれて、通路を塞がれた日向を苛立たせた。
 見かねた澤村が仲裁に出て、話は後にするよう手を叩いた。場を取り仕切るのが誰よりも巧い主将の声に、返事だけは全員、行儀が良かった。
 十五人も乗ればいっぱいの小型バスは、その座席の大半がとっくに埋まっていた。
 左後ろの二人掛けの席が、唯一両方とも空いていた。つまりそこが、最後にバスに乗り込んだ一年生コンビの指定席、というわけだった。
 ひとり掛けの席は全て埋まり、入り込む余地はない。
 こんなところまで彼の隣は、出来るなら遠慮したかった。しかし迷子になって皆に迷惑をかけている手前、変わって欲しいと言うのは憚られた。
 小型バスはエンジンが稼働中で、彼らの着席が確認されたら、いつでも発車出来るよう準備されていた。武田は前に向き直っていたが、運転席横に座る烏養が見張り番を買って出ており、問題児二名の動向を注意深く見守っていた。
「つーか、日向。体育館なんか、通路ぐるーっと回ってりゃ、どっかで出入り口に着くだろ」
「なんか、最初のトイレが詰まってて。別のとこ探してるうちに、方向が分かんなくなっちゃったんです」
「けど、次もこんなんだと困るからな。誰か道分かる奴についてってもらう方がいいかもな」
「僕は辞退します」
「おれだって、月島なんかとツレションしたくねーしっ」
「ウォッホ、エッフン」
 そんな大人の視線を余所に、通路のただ中であちこちから話しかけられた。ぽんぽん飛び交う会話に軽く噛み付いていたら、どこからともなく非常にわざとらしい、少々調子崩れの咳払いが聞こえて来た。
 言わずもがな、発生源は澤村だ。
 怒らせると誰よりも怖い主将の無言の訴えに、賑わっていたバス内は途端に静かになった。
 嫌味たらしく笑っていた月島も、さっと顔を背けて窓の外に視線を投げた。隣に座る山口は苦笑して、早く着席するよう手で合図した。
 しかし。
「あのー……」
 いざ残っている席に座ろうとしたところで、日向は思わぬ障害物に立ち竦んだ。
「どうしたんだ、日向。さっさと座れって」
 あと少しというところで動きを止めた彼に、斜め前にいた菅原が不思議そうな顔をする。しかしそれでも一年生は動かず、代わりに両の拳をぎゅっと握りしめた。
 肩もやや吊り上り気味で、小刻みに体を震わせていた。
 菅原の前にいた澤村も怪訝な顔をして、どうしたのかとシートベルトを外して身を乗り出した。
「おい、影山」
 そして何が起きているのかを知って、頼りになる主将は疲れた様子で頭を垂れた。
 こめかみに指を置き、項垂れた澤村が緩く首を振った。菅原も日向の前方を見て、頬を引き攣らせて苦笑した。
 小型バスのほぼ中央に立つ少年の座席は、窓際に用意されていた。
 その真横に着席した影山は、偉そうにふんぞり返り、長い脚を自慢するかのように、高い位置で組んでいた。
「邪魔なんだけど」
 前の座席の背もたれに、膝頭が当たりそうだった。爪先は前方の座席下に潜り込んでおり、さながら簡易的な柵だった。
 奥の席に行く為の通路は完全に塞がれ、蹴破って通るくらいしか術がない。
 もっと深く腰を掛け、脚を組むのもやめてくれれば、楽にすり抜けられる。だというのに抗議の目を向けられても、影山は微動だにしなかった。
 聞こえていないフリを装って、無視を貫こうとしていた。何がそんなに気に入らないのか、一度だけ一瞥をくれただけで、後は全く見向きもしなかった。
「影山、足」
「足がどうしたって?」
 これでは通れない。跨ごうにも彼の膝は日向の太腿ほどの高さがあり、どう考えてもつっかえるのは間違いなかった。
 それでもいざ押し通そうとしたら、動きに合わせてスッと膝の高さを変えられた。一層山が高くなって、影山にここを通す気がないのは歴然だった。
 退いてくれるよう暗に頼むが断られ、逆に聞き返された。いけしゃあしゃあと言い放った彼に我慢が限界で、ふざけるな、と怒鳴ろうとした矢先、ぶっ、と盛大に噴き出す音が聞こえた。
 横を見れば月島が、口元を押さえて背中を丸めていた。
「おい、お前ら。なにやってんだ」
 必死に笑いを堪えている眼鏡が契機になったのか、烏養まで声を荒らげた。
 早くしないと、学校に着くのがどんどん遅くなる。
 今日の試合の反省と、次の試合の対策を練る時間が減るわけだから、コーチとしてもこの状況は見過ごせなかった。
 だというのに影山はつーんとそっぽを向いたまま、日向を席に行かせようとしなかった。
「どこの小学生だよ」
「ツッキー、あんまり笑うと失礼だよ」
「そういう山口だって、笑ってるでしょ」
 背後から同級生のひそひそ話が聞こえて来ても、いつものように噛み付いたりしない。聞こえているだろうに聞こえないフリを突き通して、果てには足の裏を前方座席に擦り付けた。
 本格的に通せんぼ中の彼に、澤村もそろそろ待てなくなったようだ。
「影山、いい加減にしなさい」
 片手で頭を抱え、低い声で凄む。
 だが影山も頑固で、譲ろうとしなかった。
 烏養と澤村両名の苛々が蓄積され、バス内部の空気が一気に暗く濁った。前方では谷地がおろおろしており、後方の東峰も似たような顔で右往左往していた。
 折角試合に勝ったのに、これでは少しも喜べない。
 嫌な雰囲気の中心に立たされて、本当に踏んでやろうかと思い始めた矢先だった。
「日向、こっち座れよ」
「菅原さん?」
 突然副主将である菅原が背筋を伸ばし、ひとり席であるにも関わらず、日向を手招いた。
 そうは言っても、彼の隣にあるのは窓であり、座席ではない。座る場所などないのに、いったいどういうつもりなのか。
 訳が分からなくて首を傾げていたら、泣きホクロの青年は茶目っ気たっぷりに微笑んで、左右揃えた膝を叩いた。
「俺のここ、空いてるぞ」
 そうして高らかと宣言して、どうぞ、とばかりに両手を広げた。
「――はい?」
「ブッ!」
 その提案に、日向はぽかんとなった。
 一方で田中や西谷といった騒々しい二年生は盛大に吹き出して、腹を抱えて笑い転げた。三年生のナイスジョークにげらげらと声を響かせ、足踏みまでして小型バスに地震を起こした。
 足元が軽く揺れて眩暈を起こし、日向は白い歯を見せている上級生を呆然と見つめた。
「菅原さん?」
「シートベルトなら気にすんな。俺が責任持って、抱きしめといてやるからさ」
「あの、いや。そういう問題じゃ」
 屈託なく言い切られ、戸惑いが否めなかった。
 交通ルールには、そんな真似をして大丈夫とは書かれていない。そもそも他人の膝を、それも先輩を椅子代わりにしていいものなのだろうか。
「てめーら、もうなんだっていいからさっさと座れ。出発すんぞ!」
 そこへ痺れを切らした烏養の怒号が飛んで、困って日向は背筋をピンと伸ばした。
 叱られて行儀よく畏まって、それからすぐに首を竦めて小さくなる。
 菅原は相変わらず両手を広げて微笑んでおり、早く飛び込んで来るよう、日向を急かした。
「う~~~……」
 段々と、考えるのが面倒になってきた。
 影山はあの調子だしで、もうなるようになれ、とやけっぱちになりかけていた。
 目を糸のように細め、ふらふら、と上級生の方へ一歩、進み出ようとする。
 直後だ。
「うひゃっ」
 真後ろでダンッ、と凄まじい音がした。振り返れば影山の前の座席で成田が頭を抱えて丸くなっており、そのシートには特大サイズの靴が食い込んでいた。
 言わずもがな、影山の足だ。
 スクールバスを壊す勢いで座席を蹴り飛ばした超高校級セッターは、周囲の注目が集まる中、シンと静まり返った空間でおもむろに足を下ろした。腕を胸の前で組み、まるで何事もなかったかのように居住まいを正して、深くシートに座り直した。
 前だけを見て、頑なに口を開かない。引き結ばれた唇は不機嫌さを表しており、剣呑な目つきがそれを裏付けていた。
 怒りのオーラが、前よりも格段に増していた。圧倒された日向は背筋を寒くして、戦いて身を仰け反らせた。
 一方で月島は笑い過ぎて苦しそうで、必死に息を吸いながら腹筋を引き攣らせていた。
「か、影山?」
 いったいぜんたい、彼はどうしてしまったのだろう。
 迎えに来てくれたかと思えばさっさと行ってしまうし、バスに着いたら着いたで意地悪をするし。
 かと思えば突然癇癪を爆発させて、通せんぼを解除してしまった。
 訳が分からなくて首を捻っていたら、笑いを堪えていた菅原が指先で日向を手招いた。耳を近づけるように囁いて、楽しそうに顔を綻ばせた。
「日向、影山にちゃんとお礼言った?」
「お、れい?」
「そうそう。内緒だけど、お前が戻って来ないの、一番心配してたの、影山だぞ」
 月島程ではないけれど、彼も大概苦しそうだった。目尻には涙まで浮かんでおり、可笑しくて仕方がないと言いたげだった。
 弾んだ口調で教えられて、日向は予想していなかった言葉に目を丸くした。
「え?」
 にわかには信じ難い情報に、驚きが隠せない。
 反射的に伸びあがって、日向はふたり席の片方を占領しているチームメイトを振り返った。
 影山は相変わらず機嫌が悪そうだったが、いつの間にか視線は窓に向かい、日向たちに背を向けていた。
 表情を見せないよう小細工をした青年に、彼は嗚呼、と頷いた。
 そう言えば探しに来てくれた礼を、きちんと告げていなかった。本当は嬉しかったし、ホッとしたのに、出会い頭で殴られたのに腹を立てて、感謝の気持ちをすっかり忘れていた。
 だとしても、それくらいで拗ねるなど。
「ほら、日向。早く座れ」
「うあ。は、い」
 茫然としていたら、菅原に腰を押された。促された少年はつんのめり、踵を浮かせてシート上部に寄り掛かった。
 もれなく影山の頭が下に来て、暗くなった視界を気にした彼と目が合った。
 一瞬だけ交錯した視線は鋭く、針のように尖っていた。
 怯みそうになったが、もたもたしていたらまた怒られる。これ以上烏養の機嫌を損ねるのは得策でなくて、日向は渋々首肯すると、影山と椅子の間に身を滑り込ませた。
 狭い隙間をカニ歩きで通り抜け、ようやくたどり着いた座席にどすん、と腰を落とす。埃が舞い上がり、嫌がった影山の眉が片方、持ち上がった。
「おい」
「あんがとな」
 もっと静かに座れと、そう言いたかったのだろう。
 目を吊り上げて口を開こうとした彼を遮り、日向は掠れるような小声で囁いた。
 影山にだけ聞こえた声に、彼の動きが一瞬で止まった。文字通り凍り付いた男を震わせて、バスのエンジンが回転を開始した。
 日向は歯を見せて笑い、シートベルトを装着した。カチリと音がするまではめ込んで、尻をもぞもぞさせて姿勢を安定させた。
 それを気まずげに見守って、影山は動き出したバスにため息を重ねた。
 深く背凭れに身を預け、右手を太腿の横で蠢かせる。
「……うろちょろ、してんじゃねーぞ」
「でも、影山だったら見つけてくれんだろ」
「俺の傍から離れてんじゃねえよ」
「わがまま」
「心配しなくても、テメーだけだ」
 直後、日向の肩がピクリと跳ねあがった。しかしそれだけで、つっけんどんな台詞も彼にしか聞こえなかった。
 きっぱり言い切られて、白かった肌が見る間に赤らんでいく。
「はずかしー奴」
「るっせ」
 ぼそりと言い返した日向の手を握り直して、影山は俯いてしまった恋人に肩を竦めた。

2015/3/17 脱稿