明日もやあらば 聞かむとすらむ

 未来から来た、という審神者なる者の言葉は、にわかには信じ難いものだった。
 人の呻き声と呪詛が交錯し、血煙が立ち込める戦場は、とうに昔のものになったという。
 骨を断ち、肉を斬り落とす。ただそれのみを求められた刀剣の役目は潰え、最早床の間に飾られるだけの身に落ちた事実は、到底受け入れられるものではなかった。
 しかし、信じざるを得なかった。時が操作され、己が主と共に歩んできた歴史が書き換えられようとしているのは、理解に苦しみながらも、認めるより他になかった。
 事実、刀でしかなかった存在が、こうして肉を持ち、意志を持って自在に動き回れている。
 世は不可思議な事だらけ。
 けれどそれが、面白い。
 頭は追い付かずとも、再び輝ける場を与えられたことは、素直に喜ばしいと言うしかない。大事に守られ、飾られるのも良いが、矢張り刀剣として生まれた以上は、戦場に出られる方が嬉しかった――喩え斬る対象が、人から異形の類に変わろうとも。
 とはいえ、今はまだ、ことは始まったばかり。
 頼みになる仲間はおらず、こちらも得たばかりの身体の扱いに慣れていない。戦に出れば傷を負い、手当てに手間取らされてばかりだった。
 それ故に、だろうか。
 審神者に誘われたのは、刀鍛冶師の庵だった。
 ここで新たな刀剣を召喚すると教えられた。お前もそうだったのだと囁かれて、辺りを見回してみたが、記憶は曖昧だった。
 だが言われてみれば、そうだったように感じた。妙に懐かしいとでも言おうか、覚えがある気がした。
 それでいて、いやに不安を呼び起こさせる場所だった。
 之定によって磨き上げられた場所とは違うからか。片隅に設置されている火炉を一瞥して、歌仙兼定は肩を竦めた。
 依頼札を手に刀工と交渉している審神者は、彼らに委ねる資源をあまり揃えられなかった、と言っていた。だから強い者はあまり期待出来ないが許してくれと、庵を訪ねる前から言われていた。
 許すもなにも、主の命には逆らえない。
 結果がどうであれ、従うだけ。それが武器の務めだった。
 交渉がまとまり、刀工たちの作業が始める前、審神者からひとつだけ手を貸してくれるよう頼まれた。戦列に加わってくれる刀剣を喚び出すのに、既に現れているお前が手引きして欲しい、という話だった。
 無論、断る理由はない。
 快諾した後、審神者はひと言付け足した。
 共に戦うのはお前だから、お前が共に戦いたいと思う相手を、願っておくれ、と。
 随分と融通を利かせてくれる主だとは思ったが、言わずにおいた。その通りになるとは限らないけれどね、と直後に釘を刺されたのにも、一因がある。
 なかなかの食わせ者だ。霞でも食べて生きて来たのか、これまでの主と違い、相当に扱い辛い相手だった。
 苦笑して、考えてみる。仲間に求める条件として真っ先に浮かんだのは、雅を解する者が良い、という願いだった。
 多少弱くても構わない、それは鍛えれば良いだけの話だ。けれど考え方や行動理念は、そう簡単には覆せない。
 共に戦場に出て、背中を預ける事にもなるだろう。どうせなら反目するのではなく、笑いあえる相手であって欲しかった。
「そうだね。……努力しよう」
 具体的な顔は浮かばないが、方向性は見いだせた。
 首肯すると、すぐさま儀式が始まった。槌の音がこだまして、庵は異様な熱気に包まれた。
「僕も、こんな風に生まれたのかな」
 それを遠くから眺め、ぽつりと呟く。
 彼らが具体的に何をやっているかは分からないけれど、あんな風に職人に熱を込められ、真剣に誕生を望まれるのは、案外悪い気はしなかった。
 新しくやってくる子も、己が喚ばれた事に最初は戸惑い、驚き、混乱するだろう。
 それを導くのが、既に喚ばれ、状況を把握出来ている己の仕事だ。
 先輩風を吹かせてやれるのは、存外に心地良い。鉄が打たれる音も慣れれば心地よく、面白かった。
 時間が掛かるので、外を出歩いても構わないとは言われていた。しかし退屈とは思わなかったし、刀剣に意志が降りる瞬間を、この目で見届けてみたかった。
 審神者の傍を離れるのも気が引けた。あちらは真剣な顔をして、刀工達の手元をじっと見詰めていた。
そのうちに、どこからともなくざわめきが生まれた。
 不可思議な光も見えた。外の小鳥に気を取られていた歌仙兼定は慌てて振り返り、足をもつれさせながら審神者の傍へと駆け寄った。
「な、に……――っ」
 桜が散った気がした。
 幽玄の幻を見た。
 光が爆ぜ、目を開けていられなかった。
 堪らず仰け反り、顔を覆う。袂で熱を遮り、恐る恐る瞼を開く。
 沈黙が広がっていた。誰もが息を顰め、事の流れを見守っていた。
 腰を抜かした若い刀工がいた。玄人は流石に肝が据わっていて、重い槌を手に、瞬きひとつしなかった。
 そのうちに、審神者だけが音もなく前に出た。右手を宙に差し出して、何かを掴み取る仕草を取った。
「これは、これは……」
 すると、その手を握り返す手が現れた。
 歌仙兼定自身、驚きを隠せなかった。
 今まさに打ち上がった刀が淡い光を帯びたかと思えば、見る間に形を得て、人の姿となって現れた。白く、細い体躯が現世に招かれて、その足で、広大無辺の大地を踏みしめた。
 それはとても小さく、とても儚げな姿だった。
 そして、なにより。
「随分と、みすぼらしいな」
 思わず自分の格好と、相手の格好とを見比べてしまった。率直な感想は隠す間もなく声に出て、一瞬だけ、大粒の眼が眇められた。
 睨まれた。生意気にも鋭い眼光に反発して、歌仙兼定は口元を歪めた。
 しかしあちらは、応戦して来なかった。興味が失せたのか正面に向き直り、待ち構えていた審神者を胡乱げな眼差しで見上げた。
 背は、低い。栄養が足りていないと分かる脆弱な手足に、解れや破れが目立つ藍の袈裟。背には大きな笠を負い、高く結い上げられた髪は伸び放題だった。
 年の頃は、元服の前。幼い見た目で、手にしているのは反りのない短刀だった。
「いやはや」
 どうやら新たな仲間にと込めた願いは、悉く無視されてしまったようだ。
 こればかりは運が左右するので、審神者や刀工たちを責める気は起きない。済んでしまったことは仕方がないと己を諫め、歌仙兼定は緩く癖付いている前髪を梳き上げた。
 前方では審神者が、藍の髪の少年に事情を説明していた。
 小さい子が相手では、きちんと理解してもらえないと踏んだらしい。重要な部分だけを掻い摘んで、平易な言葉で語られて、やがて短刀の少年は小さく頷いた。
 そして、名を問われ。
「僕は、小夜左文字」
 一瞬だけだが、再度視線を向けられた。こちらを気にする素振りを見せた後、彼は身体の割には低めの声で、感情を抑えこむかのように短く告げた。
 審神者が浅く頷いた。
 だが満足そうに微笑んでいたその顔は、瞬く間に苦悶に歪められた。
「あなたは……誰かに復讐を望むのか……?」
 優しげだった表情が消え、胸の裡を読ませない複雑なものに切り替わった。歌仙兼定も聞こえた言葉に眉目を顰め、粗末な身なりの少年を上から下へと眺めた。
 磨けば愛らしくもなろうが、強張った頬や、剣呑に尖った眼差しが、彼の置かれていた環境を物語っていた。
 良い主に恵まれなかったらしい。全身から滲み出る負の気配は痛烈で、傍に居ると息苦しさを覚えるほどだった。
「まったく。雅さの欠片もない」
 望んでいたものとは、正反対も良いところだ。ここまで当てが外れてしまうとなると、今後審神者には、別の者を連れていってもらうしかあるまい。
 肩を落とし、顎を撫でる。
「いや、だが。……左文字?」
 思案に眉が寄ったのは、危うく聞き逃すところだった彼の名を、心の中で諳んじたが為だった。
 左文字の名なら、耳に覚えがあった。
 今川に由来し、魔王と称した織田の手に渡った打刀に、その銘を持つものがあった筈だ。他にも、北条に所縁を持つ太刀があると聞き及んでいた。
 そして、小夜という名を与えられた短刀。
 ひとつの名をきっかけに、次々に古い記憶が蘇ってくる。流れる景色は悲喜こもごもであり、庭師を手打ちにする男の高笑いでぷつりと切れた。
「なるほど。復讐、か」
 忌々しい血の臭いを嫌い、歌仙兼定は目を眇めた。
 審神者と小夜左文字の会話はまだ続いていたが、審神者が一方的に喋るばかりで、話が通じているのかどうかは謎だった。
 幼子の表情は物憂げであり、陰鬱で、能面のようだった。
 親を奪われた子が成長を遂げ、ついに仇を打ち、形見を取り戻す。
 見方を変えれば、成る程、復讐劇に相違ない。ならばあの子は、長く本来の主の手を離れていたが故に荒み、あのようになったのだろう。望まれて、主を変えて、その後民の為に金に換えられてしまった事も、少なからず影響を与えていると思われた。
 知る限りの来歴を思い浮かべ、歌仙兼定は耳の付け根を掻いた。顎を指でなぞって嘆息し、立ち上がった審神者に合わせて背筋を正した。
 屋敷へ戻る旨を告げられ、同時に世話を任せると小僧を押し付けられた。背を押された小夜左文字は軽くふらつき、小さな足で地面を擦った。
「あ、……」
 これまでは誰かの手に握られ、振るわれるのみの存在だった。
 己の足で立ち、己の足で歩く日が来るなど、考えもしなかったという顔だった。
 ここからどう動けば良いのか。
 何をすれば良いか分からない。そう言いたげに見上げられて、危うく噴き出すところだった。咄嗟に口を塞いで顔を伏し、歌仙兼定は仕方なく左腕を伸ばした。
「おいで」
「……触るな」
「おや、つれないことを言う」
 不慣れだから手を貸してやろうとしたのに、あっさり拒まれた。もっともその返答は、最初から想定していたものだった。
 跳ね返された指先を撫で、彼は踵を返した。ようやく慣れて来た身体で審神者の後を追い、途中でちらりと振り返れば、片付けを開始した刀工たちに取り囲まれた少年が、困惑顔で立ち尽くしていた。
 いざ意識して歩こうとすると、どういう順序でやればいいのか分からないのだろう。人間たちなら特別問題なく果たせる事も、元が刀剣の身では、巧くいかないことだらけだった。
 恐る恐る、擦り足のまま前に出ようとする不格好さだけなら、年相応の子供と変わらない。苦笑を禁じ得ず、歌仙兼定は来たばかりの道を戻った。
「おいで、小夜」
「……くっ」
「怖がらなくて良い。僕は歌仙兼定。君と同じ、審神者に喚ばれた者だよ」
 改めて右手を差し伸べ、掴み取るよう促す。屈辱に歪められた口元を嘲笑い、警戒する必要はないと諭して、左手は胸に添えた。
 簡単な説明を受け、小夜左文字の瞳が揺らいだのが感じられた。
 信じるべきか、否か。
 信じられるか、どうか。
 探られているのを敏感に読み取って、歌仙兼定は頬を緩めた。
 出来得る限りの優しい笑みを浮かべ、子供をあやす。血濡れた刃が器用な真似を、と自虐を心に浮かべながら、長い逡巡を経て、解かれた拳を掬い上げる。
 細い手首は容易く折れそうで、荒れ放題の爪は小さかった。
「復讐が、果たせるのなら……」
「そうだね。その為にも、まずはその身体に慣れなさい」
 誰に対してか言い訳を口にし、頼る理由を模索していた。ならば利用する手はなくて、歌仙兼定は理屈を捏ねて脆弱な身を引き寄せた。
 すっぽり覆い尽くせてしまえそうな手を握り、繋いで、庵を出る。審神者は少し離れたところに立って、こちらの動向を窺っていた。
 そして小夜左文字が歌仙兼定と一緒に出て来たと知ると、即座に歩き始めてしまった。
「つれないお人だ」
 どうやらこの子の世話は、本格的にこちらに任せる気でいるらしい。
 あちらはあちらで大変なようだが、子供の世話を押し付けられる身にもなって貰いたかった。
 肩を竦め、屋敷のある方角を見る。
「では、帰ろうか」
 囁けば、即座に問いが返された。
「どこへ」
「僕たちの、当面の住処だよ」
 空は明るかった。木々の緑が眩しく、鳶らしき鳴き声がした。
 犬の遠吠えが五月蠅い。庵から続く道は細く、曲がりくねっているので、審神者の背中はすぐ見えなくなった。
 どこへ向かおうとしているのか。
 どこへ行けばいいのか。
 不安げな藍の眼差しが、陽の光の下で輝いていた。歌仙兼定は苦笑して、木立の陰に見え隠れする邸宅を指差した。
 もっとも彼では背丈が足りず、見えないかもしれない。教えてやってから思い至って、案の定怪訝にしている小夜左文字に相好を崩した。
 そして。
「……なっ、なにを!」
「不慣れな身体では、動き辛かろう。転んで刃毀れされても困るんでね」
「おろせ。おい。僕に触るな!」
 おもむろに膝を折り、小さな体躯を掬い上げた。
 思った通り、驚くほどの軽さだった。背負われた笠が多少邪魔ではあるが、抱え持つ分には問題なかった。
 暴れられるのも、想定の範囲内だ。こうして行く方が、疲れはするけれど、足元を気にせずに済む分、楽だった。
「君に合わせていたら、夜になってしまう」
「うる、さい」
 屋敷と庵はそれほど離れているわけではないが、彼の歩幅を考えると、結構な時間が必要そうだった。
 ましてや慣れない人の身だ。先ほどの台詞は、嘘偽りない本心だった。
 これから戦場に出て貰わなければいけないのに、何もないところで転んで、刀身に傷が入るのは困る。その強さにさほど期待はしていないけれど、誰も居ないよりはましだった。
 彼の世話は、審神者から正式に任せられている。どう扱おうと、こちらの自由だ。
「暴れると落ちるよ」
「殺してやる」
「出来るものならね」
 赤子を躾けるつもりで接すれば、じゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろう。実際、小夜左文字はしばらく手足をばたつかせたが、少し待つうちに息が切れて、すっかり動かなくなった。
 体力の少なさには、問題がありそうだった。
「仕方がない。今晩は腕によりをかけて、食事の用意をしようか」
 刀剣を鍛える素材が少なかろうと、食材には関係ない。野良作業は嫌いだが、野菜や穀物を美味しく仕立てあげるのは得意だった。
 腹が減っては戦が出来ぬ。
 物事を考えるのも、身体を動かすのも、胃袋が満たされていなければ、上手く行くわけがなかった。
 呵々と笑い、歌仙兼定は膨れ面の小夜左文字を抱え直した。
 米俵を担ぐ真似をして肩まで持ち上げ、ずり落ちた笠が背中側で藍色の髪を隠すのに破顔一笑する。
「……殺してやる」
「僕以外の奴らに、よろしく頼むよ」
 物騒な台詞を吐かれたが、意に介さない。軽く受け流して、彼は軽すぎて逆に不安になる体躯を運ぶべく、歩き出した。
 親殺しの仇を討ち果たしたのに、それを復讐と言って憚らない。
 子供らしい部分は姿形だけで、眼差しも、口ぶりも、操る言葉でさえ、見た目から乖離している。
「もっと無邪気であればいいものを」
 どうしてここまで捩れ、曲がってしまったのか。
 垣間見た刀身は短くとも真っ直ぐで、穢れなき輝きを放っていたというのに。
 なんと嘆かわしく、そしてなんとも美しい。
 瞼を下ろせば、蓮の花が思い浮かんだ。
 泥の池の深く根を張って、かの花は水面より出る場所でのみ、可憐に着飾っていた。
 成る程。艶やかで、雅である筈だ。
 思いを巡らせ、悦に入って頬を緩める。直後に力を取り戻したか、無粋な拳が脇腹を打った。
「絶対、殺してやる」
 胴台の上から殴られたので、防具が衝撃を吸収したし、元々小夜左文字の体勢が良く無かったのもあって、あまり痛くなかった。残念ながら姿勢を崩すところまではいかなくて、やり過ごした歌仙兼定は目を眇めた。
 可愛くない事ばかり口にする背をぽんぽんと撫で、獣の如く唸っている子供を宥める。屋敷は間近に迫り、地に馴染んだ足取りは軽やかだった。
 調子よく歩みを刻み、歌仙兼定は通用門を潜って中に入った。軽く前屈みになったついでに小夜左文字を下ろしてやれば、上手く立てなかった子供は尻餅をついて倒れ込んだ。
「おやおや」
「自分で、立てる」
「そうであって貰わないと、困るからね」
 呆れていたら、手を差し出す前に牽制された。強がって威嚇されて、歌仙兼定は笑みを噛み殺した。
 ここまで運んでやったのだから、後は本人次第。
 使えるか否かの判断はこれからだと手を振って、彼は帰還の報告をすべく、審神者が待つ部屋へ向かった。
 面倒を見るよう言われているが、四六時中一緒にいろ、とは頼まれていない。屋敷に連れてくる、という最低限の責務は果たしたのだから、ここに捨て置いても、文句を言われる筋合いはなかった。
 後ろからは、立ち上がろうとして失敗し、転んで膝を打つ音がした。呻き声や鼻を啜る音も聞こえて、悔しさに奥歯を噛む表情が楽に想像出来た。
 ああいう手合いは、構い過ぎると逆に腐る。
 適度に放置して、反骨精神を刺激してやる方が良策だった。
「さて、蓮は咲くかな」
 泥水に突き落として、水面に這いあがってくるかどうかは知らない。けれど蕾をつければ、さぞや美しい、大輪の花が拝めるだろう。
 そうなれば面白い。
 先が楽しみだと嘯き、屋敷へ上がる。後ろは振り返らず、本日の予定の残りを片付ける。
 丹精込めて調理して、三人分用意した食事の場に、けれど彼はついに現れなかった。
 どこかへ逃げ出したか、絶望して自らの命運を終わらせたか。
 審神者は困った顔をしていたが、格別五月蠅くは言ってこなかった。ただもっと大事にするよう諭されて、可愛げが生まれたなら応じる、とだけ返しておいた。
 冷えた飯を膳ひとつに残し、空になった食器は全て片付ける。日が沈んで月が明るく照る時間になっても、小さな獣が現れる気配はなかった。
「まったく。どこで野垂れ死んでいるのやら」
 朝が来たら、探しに行くしかなさそうだ。
 審神者の機嫌を損ねるのは、あまり良い判断ではない。昼間に見た庵の炉が脳裏を掠めて、歌仙兼定は床の支度をしながら嘯いた。
 戦仕度を解き、後は太陽が東から顔を出すまで休むだけだった。
 刀剣風情が就寝とは笑い草だが、人の身体というものは何かと不便だ。定期的に睡眠時間を確保して、一定量の食事を摂らなければ、途端に力が発揮出来なくなる。
 血濡れたまま放置し、手入れを怠った刀剣が錆びるのと同じようなものだ。
 万全の状態を維持するには、手間暇を惜しまない。植物も、動物にも、勿論刀剣にも同じことが言えた。
「面倒臭いのが増えたものだ」
 この先、もっと数が増えたらどうなるのか。
 少しばかり憂鬱になり、歌仙兼定は長燭台の火を吹き消した。
 刹那だった。
「――っ」
 獣の唸り声が聞こえたかと思えば、凄まじい殺気を全身に感じた。咄嗟に左手は枕元に伸びて、寝かせていた打刀を掴み取った。
 鞘から抜くのは間に合わない。
「くっ!」
 黒い影が奔り、縁側と室内を仕切る障子戸が突き破られた。脆い木組みが吹き飛んで、月明かりが歌仙兼定の瞳を貫いた。
 否、それは月光などという優しいものではない。
 冴えた刃の煌めきに総毛立ち、彼は片膝を立てて鞘ごと刀剣を構えた。
「つぅ!」
 衝撃が走った。僅かに鞘から顔を覗かせた刀身に、切っ先鋭い短刀の先端が跳ね返された。
 ギィンッ、と嫌な音が鼓膜を引き裂いた。歌仙兼定は後ろに傾く向く身体を強引に引き戻し、崩れかけた体勢を整えた。
 吹き飛ばされそうになった上半身を留め、肺に蓄積された息を一気に吐く。攻撃に耐えた手首から肘の手前までが痺れ、全身に電流が駆け抜けた。
 歯を食い縛って肩を上下させて、彼は距離を取り、縁側の手前に着地した襲撃者に眉目を顰めた。
 抜身の短刀が異様に眩しく、禍々しく輝いていた。
「これは、……参ったね」
「殺す」
 たったそれだけで、相手が誰なのかが理解出来た。無残に破られた障子戸を素足で踏んで、小夜左文字は短くも分かり易い宣告を発した。
 防御があと少し遅ければ、彼の短刀は歌仙兼定の胸を躊躇なく貫いていた。
 心の臓の位置を、恐ろしいほど正確に把握している。少ない力で確実に相手を仕留める術を、彼はあの齢で熟知していた。
 育てれば恐ろしい獣になる。
 どこが弱いものか。何が願ったものとは正反対だと、歌仙兼定は己の運の無さに唾を吐いた。
「殺す。殺してやる」
「おっと」
 しかし、くよくよしていたところで始まらない。
 殺気立った少年は、とうの昔に臨戦態勢に入っていた。腹の底から絞り出された声で我に返り、歌仙兼定は闇雲に突っ込んできた体躯を右に躱した。
 直線的な攻撃は、当たれば痛いが、反面軌道が読み易い。避けるのは簡単で、矢張り子供だと鼻で笑おうとした矢先だ。
「がぁああ!」
「うお、っと、た、っと」
 細く白い足が畳を削って強引に勢いを殺した上に、無理矢理腰を捻って攻撃に転じて来た。
 予測していなかった場所から刃が突きつけられ、歌仙兼定は慌てて間合いの外へと後退した。しかし追撃は緩まず、銀の閃光が暗闇を、幾重にも切り裂いた。
「殺す。殺す。殺してやる!」
 獣の咆吼が止まない。避ける一方では埒が明かず、抜くべきか否かと躊躇して、歌仙兼定は渾身の一撃を寸前で躱した。
 切っ先が鼻先をすり抜けた。一瞬の逡巡を経て、彼は打刀を手に、長い足を繰り出した。
「ちぃっ!」
 舌打ちが聞こえた。防戦一方だったものが突如攻勢に転じて来て、警戒する気配が感じられた。
 歌仙兼定とて、主導権を奪われたままではいられない。子供相手に本気になるのは大人気ないと思うが、悪さをする子供を叱るのも、大人の務めのひとつだった。
「さあて。どうやって、お仕置きしてあげようか」
「ぐるぁああああああ!」
 とはいえ、狭い屋内で短刀を相手にするのは骨が折れる。下手に反撃して、不用意に傷を付けたら、審神者からの評価もがた落ちだ。
 炉に溶かされるのだけは、遠慮願いたい。そんな事をあれこれ考えているうちに、雄叫びを上げた幼子が刃を手に、突進を開始した。
 馬鹿のひとつ覚えか。
 所詮は子供と、既に見切られている攻撃を繰り出して来た彼に呆れていた矢先だった。
 簡単に避けられると思っていた歌仙兼定の不意を衝き、小さな体躯が突如眼前から消え失せた。
「――うっ」
 直後、足下から月光が湧き起こった。
 猛進してきた事自体が、囮だった。こちらが後ろへ下がると見越して寸前で身体を捻り、前進の勢いを殺して上昇に転じたのだ。
 顎から鼻筋を一直線に切り裂く刃を直前で回避して、歌仙兼定は胴に別れを告げた前髪数本に奥歯を噛んだ。
 暢気に構えている場合ではない。柄に手を添え、彼は短刀を構える少年との距離を一気に詰めた。
「っ!」
 刀が抜かれるものと思い込み、防御に転じようとした小夜左文字が目を見開く。その一瞬の隙を狙い、歌仙兼定は柄を手放して細い手首を横薙ぎに払った。
 武具を取る指先を痺れさせ、攻撃力を削ごうと試みた。しかし小夜左文字は僅かに状態を揺らしただけで、愛刀を握る手は固く閉ざされたままだった。
「もう一度だ」
「ふざけ――っあ!」
 それでも歌仙兼定は懲りず、追撃を仕掛けようとして前に出た。わざわざ次の手を叫んで教えてくれたと感謝して、小夜左文字は刀を守る体勢を作り上げた。
 それを。
 横から繰り出された脚に、敢え無く崩された。
 脹脛を払われ、可愛らしい右足が宙に浮いた。不意打ちで支えを失った体躯は空を泳ぎ、左手が何かを掴もうと蠢いた。
 悪足掻きだと思った。
 腰を大きく捻ったままでは、受け身さえ取れない。床に落ちれば衝撃で息が詰まり、軽い身体は数回跳ねて動きを止める。
 勝負は決したと、気を緩めたのは確かだった。
「ぬあ――!?」
 次の瞬間、歌仙兼定こそが床に転がっていた。
 何が起きたのか、すぐに理解出来なかった。小夜左文字の身体を目で追っていたら、突如薄暗い天井が眼前に突き付けられた。
 ずるりと足元が滑ったのだけは覚えているが、そもそも床が容易く動くわけがない。
「しまった」
 けれど、彼は思い出した。
 部屋には自らが就寝すべく用意した、薄手の布団が敷かれていた事を。
 小夜左文字は落下のどさくさに紛れ、敷布団を掴んだのだ。そして己の身体を庇うと同時に、歌仙兼定の足場を崩すべく、思い切り引っ張った。
 隙を衝かれたのはこちらで、閉鎖空間での戦闘はあちらが一枚上手だった。
「まったく、雅じゃないね!」
 但し、落ち込んでいる暇はない。反省は夜が明けてからたっぷりする事に決めて、彼は悪態をつくと、上段の構えで飛びかかって来た子供の土手っ腹を蹴飛ばした。
「ごふっ」
「悪く、思わないでくれよ」
 大人げないとは思うが、彼を相手に刀を抜くわけにはいかなかった。ありったけの力を込めて弾き飛ばせば、華奢な体躯は毬の如く跳ねて、隣の部屋と繋がる襖に激突した。
 破れはせず、襖ごと後ろへと倒れ込んだ。埃が舞い上がる。月明かりさえ届かない場所に落下されて、歌仙兼定は口元を押さえながら舌打ちした。
 あれしきで諦めてくれる相手なら、人の寝入り端を襲ったりしない。邪魔でしかない布団一式を部屋の隅へと蹴り飛ばして、彼は足の裏に残る柔い感触に臍を噛んだ。
 あばら骨の一本や二本は、折れているかもしれない。あの状況下では、手加減してやる余裕はどこにもなかった。
 気を抜けば、本当にこちらが首を狩られていた。
 警戒を怠ることなく起き上がって、彼はじんじん痛む背中や臀部から意識を引き剥がした。
 吐く息は荒く、熱を帯びていた。鼓動は加速して、心臓が破れてしまいそうだった。
「どこから来る」
 倒れた襖は一枚ではない。光が届かず暗いので、闇を隠れ蓑にするにはにうってつけだった。
 隣室から表に回り込み、縁側から再度襲ってくる可能性も否定出来ない。
 左右を慌ただしく見回し、歌仙兼定は己の呼吸を数えた。
 心を鎮め、落ち着かせようと試みる。打刀は鞘のまま左手に握りしめ、いつでも抜けるよう、一応は身構える。
 けれどあの子は、あれで仲間だ。審神者に喚ばれ、現世に招かれた数少ない同朋だ。
 無用に傷つけるのだけは、是が非でも避けたかった。
 しかし彼の攻撃力の高さや、咄嗟に機転を働かせる知恵は、既に証明されていた。
「いやはや、雅な名に相応しからぬその実力。認めるしかないね」
 流石は左文字の銘を持ち、武芸百般を修めた男の元に在っただけのことはある。
 たとえ短刀であっても、侮ってはいけなかった。
 歓喜とも興奮ともつかぬ感情を漲らせ、歌仙兼定は口角を歪めた。
 傷つけることは出来ない。
 だが許されるなら、是非とも斬ってみたかった。
 血濡れた泥の池に咲く、あの青い蓮を。
 願わくはこの手で、摘み取りたい。
 そして飾り、愛でるのだ。
 これほどに優美で、風流な楽しみは、決して他では味わえない。
 背筋がぞくぞくした。前の主の望みのままに、三十六人もの臣下を手打ちにした記憶が蘇った。
「殺すっ」
「そこだね!」
 武器としての衝動が抑えきれない。呼応するかのように、強い殺意が歌仙兼定に躍りかかった。
 背後から、不意打ちを狙って刃が振り下ろされた。小柄な体躯を逆手に取り、屋内でありながら高く跳び上がって、落下の勢いさえも利用していた。
 全体重を掛けて、重い打撃で頭部を狙って来た。もっとも歌仙兼定とて、簡単に食らったりはしなかった。
「ぐっ」
「がああああああ!」
 即座に反応し、頭上に刀剣を翳す。最初の一撃同様鞘から僅かに抜いた刀身で受けて、力勝負で押し切った。
 ただあちらも反省したようで、簡単には吹き飛ばされてくれなかった。
 一打を受け止められた瞬間、後ろに跳ぶ用意が出来ていた。くるりと空中で一回転したかと思えば、着地と同時にまたも突っ込んできた。
「くそっ」
 たった数時間で、よくぞここまで、自在に動けるようになったものだ。
 最初は歩くのもやっとで、走るなどもっての外、という有様だったというのに。
 凄まじい執念を見た。復讐に囚われた鬼の形相を目の当たりにして、歌仙兼定は上唇を舐めた。
「参ったね。これは、全部を流すのは難しいか」
 気が付けば、頬に、腕に、無数の切り傷が出来ていた。
 皮を一枚削がれただけで、さほど痛くない。そこかしこから血が滲んでいるが、じき止まると思われた。
 こちらがどうやっても刀を抜かないと見越して、攻撃方法を変えて来た。大振りの一撃を減らして、手数で勝負を挑まれた。
「殺す。殺す。ころす!」
 彼の突きには迷いがない。躊躇がない。遠慮がない。
 想いがない。
 うわ言のように繰り返される言葉はこの身すり抜けて、虚空へと吸い込まれていった。
 小夜左文字が殺したいのは、歌仙兼定ではない。
 けれど此処には、歌仙兼定しかいない。
「哀れだね」
 傷口を撫で、拭い取った赤を舐める。噛んだ爪は硬く、味はしなかった。
「殺してやる!」
 腹の底から声を響かせ、雄叫びを上げた子供が短刀を振り翳した。逆手に握り、これが最後の一撃とばかりに突っ込んできた。
 闇雲な突進は、己の命を顧みない捨て身の攻撃だった。
 相討ち本望と目を血走らせ、獣と化して咆哮する。歌仙兼定は奥歯を噛み、腹の奥で息を留めた。
「そういうのは、ちっとも雅じゃないんだよ!」
「ぐがぁああぁ!」
 諦念とも、落胆ともつかない感情が胸に渦巻いた。喉が引き裂かれるような叫びにかぶりを振り、彼は後先考えない一撃に向かって。
 微塵も動かず、正面から睨みつけた。
「っ!」
 死ぬかもしれないというのに、臆する気配はなかった。それどころか生死の分かれ目を面白がり、愉しんでいる雰囲気さえ感じられた。
 狂っていた。
 口角を持ち上げて哂い、鬼気迫る獣を逆に飲み込もうと牙を剥いた。
 瞬き一度にも満たない時間だった。
 怒りに我を失いかけていた小夜左文字ははっとして、目前で見失った男を追いかけ視線を巡らせた。
 心が弛んだ。たたらを踏んで、瞬時に地に叩き落された。
 今度は避けようがなかった。刃が触れるぎりぎりのところで躱されて、首の後ろに打撃を喰らってしまった。
 手刀だった。僅かな時間だったが脳への血流が途絶え、目の前が真っ白に塗り潰された。
「しま……っ」
「子供は、おねんねの時間だよ」
「馬鹿に、するなあ!」
 悔しがっても、手遅れだった。うつ伏せに床に沈められて、抵抗したが無駄だった。
 刀を握る腕を拘束され、関節を逆方向に捩じられた。身動きを封じて背中側に押し付けられて、必死に抗うが、指先が緩むのを止められなかった。
 このままだと、短刀を手放してしまう。
 それは文字通り、負けを意味した。己が半身である武器を失うのは、耐え難い屈辱だった。
「はな、せ」
 歯を食い縛り、小夜左文字は吠えた。鼻の穴を膨らませ、荒い息を吐きながら歌仙兼定を睨みつけた。
 けれど男は聞く耳を持たず、暴れ回る脚をも膝で踏みつけた。四肢の自由を奪われて、残る術は射殺す勢いでねめつける事だけだった。
「まったく……」
 少しでも隙が生まれないかと期待するが、効果は無いに等しかった。
 こうまでしても、反抗的な態度を崩さない。男は呆れ調子で嘆息すると、何を思ったか、不意に束縛を解いて後ろへ離れた。
 意味が分からなかった。けれど、この好機を逃す手はなかった。
 罠だと知っていても、飛び込むしかなかった。
 他に出来ることはなかった。
 目の前の存在を殺す。それが果せたら、この身がどうなろうと構わない。
 憐憫の眼差しが癇に障った。
 仇を追い求め、復讐に全てを捧げた主の生きざまを、単に『美しい』のひと言で片付けられるのが納得いかなかった。
「死ねぇ!」
 気に入らない。
 だから殺す。
 殺して、それで。
 それで――――
「はいはい」
 ぷつりと、音を立てて糸が切れた。
 声はどこまでも穏やかで、冷え切った身体を包む熱は優しかった。
 真っ直ぐ突き出した腕はその状態で凍り付き、短刀を掴む指先はかたかたと震えていた。切り裂いたはずの肉は幻で、皮一枚裂いた程度の切っ先は、虚空を貫き、闇を見据えていた。
 避けられた。
 だが、避け切られはしなかった。
 敢えて受けた。
 甘んじて、小夜左文字を受け止めた。
 打刀を手放した両腕で、背中を大事に抱きしめられた。先ほどのような荒っぽい束縛とは正反対の、母が子を抱く仕草だった。
 世界が揺らいだ。
 訳が分からなかった。
「な、に……を」
「言っただろう。子供は寝る時間だ。勿論、大人もだけどね」
「ふざ、っけ」
「冗談ではないさ。昨日の今日で、君は疲れている。今の君に一番必要なのは、刃を振りかざす事ではなく、ゆっくり休むことだよ」
 柄を握り直し、まっすぐ伸びた腕を返せば、即座にこの男を貫ける。容易い事だ。躊躇する理由はなかった。
 だのに身体が動かなかった。
 関節は膠で固められ、指の一本さえ自由にならなかった。
 歌仙兼定の首は左肩の上にあった。背を丸め、姿勢を低くして、幼い小夜左文字に寄り添うように屈んでいた。
 拘束する力は弱かった。
 抜け出せない強固さはなかった。
 いつでも離れられる。いつでも逃げられる。
 そんな力加減だった。
 すぐ傍に命を掠め取る刃があるというのに、まるで気にする素振りを見せなかった。
 肝が据わっているのか、単に愚かなだけなのか。
 判別がつかなくて、小夜左文字は頬を引き攣らせた。
 膝が震えた。顔を上げ続けるのが辛く、出来なかった。
「……っ」
 自然と指が解けた。獲物を見失った短刀は空を裂き、畳に真っ直ぐ突き刺さった。
 物騒なものを手放したと知って、歌仙兼定は控えめに笑った。
 その衿を握りしめて、小夜左文字は偉丈夫の肩に突っ伏した。
「明日、だ!」
 押し殺すように宣言されて、男は苦笑した。抑えきれなかった声を漏らし、しがみついてきた幼子の背中を数回、優しく叩いてやった。
 突然現世に喚び出され、事情を説明されたところで上手く飲み込めないのは分かる。混乱し、困惑し、何をどうすれば良いのかと、戸惑う気持ちは痛いくらいに理解出来た。
 今までは人の手に命運を握られ、一方的に振り回されて来た。
 突然自分の意志で、立って、歩き、刀を振るえと言われても、簡単に出来るものではなかった。
「困った子だ」
 次から来る刀剣たちも、彼のようだったらどうしようか。
 涙を堪え、嗚咽さえ漏らさぬ小夜左文字を宥めながら、歌仙兼定は四肢の力を抜いて腰を落とした。
 愚痴を零せば、肩を殴られた。拳に力は籠らず、衝撃は驚くほど軽かった。
 呵々と笑えば、今度は首を絞められた。両側から腕を回され、苦しくなるほどに抱きつかれた。
 その間、小夜左文字は一切顔を上げなかった。表情を見せまいとして、覗き込んでも拒まれた。
 可愛げが芽生えたかと思えば、矢張り可愛くない。
 肩を落として首を竦め、歌仙兼定は風通しが良くなった室内に目尻を下げた。
「片付けも、明日だね」
 布団は踏み荒らされ、蹴飛ばされ、元の位置から遠く離れた場所に移動していた。床には障子戸や襖が散乱し、賊にでも入られた後のようだった。
 これではゆっくり休めない。
 しかし膝に乗る小夜左文字は、一向に離れようとしなかった。
 布団を敷き直すのも、よその部屋に移るのも難しかった。どうしたものかと思案して、彼は月明かりに目を眇めた。
「まあ、いいか」
 雑魚寝したところで、少々身体が痛むだけだ。敵に襲われる危険もなくなって、安心して眠れそうだった。
 振り向けば、短刀はまだそこに突き刺さっていた。それだけは引き抜いてやって、彼は見つからない鞘の代わりに、己の打刀を傍に添えた。
 小夜左文字は何も言わなかった。小さな手をぎゅっと握って、顔を伏し、目を閉じていた。
 その拳をそっと解いてやって、歌仙兼定は床を軽く叩き、身を横たえた。
 眠る子は静かで、とても暖かかった。
「明日から、よろしく頼むよ」
 柔らかな頬を擽り、そっと囁く。
 返事はない。朝になればとても言えそうにない台詞に苦笑して、歌仙兼定も目を閉じた。

 審神者が居と定める屋敷は広いが、部屋の数には限りがあった。
 刀剣たちが増えれば、それだけ部屋が必要になる。しかし個々に与える余裕はなく、もし兄弟刀があるようならば、ひとつの部屋を共有するよう定められていた。
 お蔭で藤四郎たちの部屋は大変だ。他より広めの部屋を宛がわれているものの、朝に、昼に、常に大騒ぎだった。
 悠々一人部屋を満喫していた刀剣たちも、次第に肩身が狭くなっていく。危惧していたことが現実となり、歌仙兼定は頭を抱えた。
「兼さん、やったね!」
 堀川国広の上機嫌な声がこだまし、彼の頭痛をより酷くさせた。その前方には大柄の、髪の長い男が居丈高に立っていた。
「待たせちまったようだな、堀川」
「うぅん。きっと来てくれるって、信じてたよ」
 かつては同じ主に仕え、共に戦った身の上だからだろう。戦列に加わって既に長い堀川国広は、底抜けに嬉しそうだった。
 和泉守兼定。
 彼は之定と流れを同じくする刀工の手によって、後の時代に生み出された一振りだった。
 同一人物の作ではないが、義理の兄弟と言えなくもない。そんな男を苦々しい思いで見つめて、歌仙兼定は審神者をちらりと窺った。
 けれど、目が合わない。意図的に逸らされて、なんとも言えない気持ちになった。
「幅を取りそうだなあ」
「うるせえぞ、そこ。文句があるなら、俺に直接言いやがれ」
「声も形も大きくて、ちっとも雅じゃないって言っただけだよ」
「あんだと、てめぇ。良い度胸だ。表に出ろ」
「へえ。この僕に勝負を挑もうっていうの?」
「ちょっと兼さん。短気は損気だよ」
「うるせえ。あんだけ言われといて、黙ってられっかよ」
 愚痴を零せば、地獄耳がここにもいた。挑発されて咄嗟に言い返してしまい、更に言い返されたところで負けず嫌いが発動した。
 堀川国広が止めに入るものの、和泉守兼定は聞く耳を持たない。小柄な体躯を押し退けて、牡丹唐草の鞘をひけらかした。
 睨みあいに発展し、両者の間で火花が散った。居合わせた面々はいがみ合うふたりに困り顔で、審神者を横目で窺う者も少なくなかった。
「仲悪いなあ」
「堀川と違って、一緒に居たわけじゃねーもんなー」
 兄弟刀だからといって、必ずしも親密な関係であるとは言えない。良い例だと周囲は肩を竦め、広い部屋を独占し続ける男に同情と嘲笑を送った。
 審神者に最初に召喚された刀剣だからと、なにかと優遇されているのが気に入らない者もいる。主の愛情に餓えた加州清光など、ここぞとばかりに和泉守兼定に声援を送っていた。
 敵ばかりで、味方がいない。
 いつの間にか針の筵に座らされて、歌仙兼定は顔を引き攣らせた。
「とにかく、僕は絶対、嫌だからね」
「いーじゃねえか。なんか困る事でもあんのか?」
 和泉守兼定はいかにもがさつで、整理整頓が苦手そうな男だった。
 そんな輩を自由にさせていたら、瞬く間に足の踏み場がなくなってしまう。
 汚部屋など、許せるわけがない。
 共同生活を初めてすらいないのに決めつけて、歌仙兼定は問いかけに目を吊り上げた。
 困るに決まっている。
 その叫びは、別のところから放たれた。
「そうですねー。歌仙さんのへやに兼定さんがふたりもいたら、小夜くんがもぐりこむおふとん、まちがえちゃったらこまりますもんねー」
 ぱしん、と両手を叩き合わせて。
 舌足らずな声で言ったのは、今剣だった。
 にこにこと屈託なく笑う彼からは、悪意といったものは一切感じ取れなかった。いつもと変わらぬ無邪気さで、ならば当然と言い放った。
 瞬間、場の空気が凍り付いたのは、歌仙兼定の錯覚ではない。
「……え?」
「え、なに。どゆこと?」
「あれ。あー、あー……そういえば確かに、小夜左文字って、短刀たちの部屋にはいなかったような」
「審神者が歌仙の次に降ろしたのって、あの小童だったよね」
「あ、あの。え、ちょ。待て。待った。ちが、違うぞ。君たち、何を考えている?」
「なるほどねえ。それじゃあ、折角オレが来てやったってーのに、嫌がるのも無理はねーか」
「兼さんは、じゃあ、僕と同じ部屋にいきましょう。ね。いいですよね、主」
「文系、文系ってうるさい奴だと思ってたけど、ふーん。意外にやることはやってんだ」
「ち、がっ、う!」
「はいはい。否定するのが逆に怪しいってね」
「だから、本当に違うんだ。ちゃんと聞いてくれ。あの子とは、だから、そういうんじゃなくてだね」
「でも小夜くん、歌仙さんのおふとんだとよくねむれるって、まえにいってましたよー?」
「今剣、君は、頼むからもう黙ってくれ……」
「えー、なんでですかー?」
 気が付けば寝所に勝手に潜り込み、人の懐に入って眠って、朝になると勝手に出て行くと、言ったところで誰が信じてくれるだろう。
 最初は驚いたものの、懐炉代わりに丁度いいと受け入れて、今まで放置していたのが仇になった。
 歌仙兼定は両手で顔を覆い、膝を折って蹲った。
 その背を叩いて慰める手は、ついぞ最後まで現れなかった。

2015/01/31 脱稿