Peacock Blue

 関東の夏は夜になってもあまり冷え込まないと、勝手な思い付きで信じていた。
 けれど実際には、合宿を行う学校は関東でも山の方にあり、後方には豊かな自然が控えていた。蝉の声は昼間でも喧しく、湿度の高さと相まって、日中の地獄ぶりは予想を遥かに上回っていた。
 日が落ちた後も最初のうちは暖かいが、夕食を終えて風呂が済む頃にはかなり気温が下がっていた。更に宿泊場所が教室というのもあって、隙間風は防ぎようがなかった。
 硬い床、薄い布団。
 耳を澄ませば風の声が聞こえ、敷地に隣接する森のざわめきが絶え間なく響いた。
 不慣れな環境と、全国大会に出場するような強豪チームとの合同練習。期待と興奮が睡魔に齎す影響は大きく、ギンギンに冴えた眼は暗い天井を捕えて放さなかった。
「ちょっと、……うん。トイレ」
 両サイドからは健やかな寝息と、歯軋りを含んだイビキが聞こえた。日向は緩く首を振ると、ゆっくり身を起こした。
 皆の眠りを邪魔せぬよう小声で呟き、薄手の上掛け布団を足元へと集める。脚を伸ばした状態で座せば、伸びた筋肉に引っ張られた腰の骨がボキッ、と良い音を立てた。
 思わずびくりと首を竦め、三秒してから彼は安堵の息を吐いた。
 この程度の音で目覚めるほど、チームメイトの眠りは浅くない。昨日は深夜に宮城県を出発し、到着早々ハードな練習に汗を流したので、彼らの疲れは他校のそれよりずっと上だった。
 梟谷高校を中心として、関東一円の男子排球部を集めたグループの中に入り込めたのは、僥倖だったと言わざるを得ない。それも顧問である武田の熱意と、音駒高校の監督である猫又監督の善意のお陰だった。
 子供たちの為に、大人が陰で頑張っている。
 遠征費だって安くはないのに、快く送り出してくれた親への感謝も、絶対に忘れてはいけなかった。
 だから恩返しの為にも、この一週間の遠征合宿で何かを掴まなければいけない。
 チームメイトの一部とは、相変わらずギスギスしたままだった。だから嫌な空気を打ち砕けるくらいの何かを手に入れて、部内に漂う鬱屈した雰囲気を押し流したかった。
 とはいっても、そう簡単にことは運ばない。
 今日の練習試合は全敗で、結局一セットも取れなかった。
 みんな動きがちぐはぐで、意思疎通が巧く行っていない。けれど失敗を恐れていては何も始まらないと、コーチである烏養は背中を押してくれていた。
「明日は、もっと。がんばろ」
 密かに決意して、日向は布団から足を引き抜いた。右から順に膝を折って、ずり下がり気味だったショートパンツを臍の辺りまで引っ張り上げた。
 捲れあがっていた半袖シャツの裾も整え、薄明かりが照らす教室内を見回す。机や椅子は後方にまとめて片付けられており、掲示板に張られたプリントや時間割が、此処が烏野高校とは違う場所だと教えてくれた。
 森然高校は高台の上にあり、校舎へ行くには長い階段を登らなければならなかった。
 朝早起きして、あの階段を往復しようと決めていた。平地を走るよりも肉体的な負荷は凄まじいが、その分身体は鍛えられるし、なにより学校の敷地内なので、迷子になる危険性が低かった。
 見知らぬ土地でロードワークに出るなど、命取りでしかない。
 特に春の合宿で大失敗をしている日向は、くれぐれも無断で出かけないよう、主将たちから厳しく言い聞かされていた。
 それを他校の選手に目撃されて、笑われたのはかなり恥ずかしかった。もっとも笑っていた張本人が、その学校の主将から「お前だって人のことは言えない」と呟かれていたので、喧嘩両成敗といったところだろうか。
 真っ赤になって狼狽えていた犬岡、そしてリエーフを順に思い浮かべて、日向はそろり、伸ばした足で床を踏んだ。
「つめてっ」
 爪先が数センチ触れただけなのに、一瞬にして体温を奪われた。素足は危険だと震えあがり、彼は脇を締めて左右を見回した。
 上履きは一ヶ所に集められ、パッと見ただけでは自分の物がどれだか分からない。寝入っている皆を踏まないよう慎重に進んで、日向は頼りない月明かりに目を凝らした。
 まさか照明を点すわけにはいかず、目立つように大きく書いた名前を探し出す。十人中十人が汚い、と評する癖字を発見して、いそいそと爪先を捻じ込む。
 踵は潰したままにして、日向はふと後ろを振り返った。
 誰一人として、彼の動きを気取って目覚める様子はなかった。
 日本語になっていない寝言や、布団を侵食されて魘される声が聞こえた。凹凸は辛うじて分かるものの輪郭はおぼろげで、どこで誰が眠っているかさえ、簡単には判別出来なかった。
「おれの布団は、あれ、と」
 消灯時間の前の配置と、一ヶ所だけぼっこり穴が開いている空間を照らし合わせ、指まで差して寝床を確認する。
 しっかり寝る場所を記憶して、日向は倒していた踵を起こすと、足音を立てないように教室を出た。
 ゆっくり扉を横に滑らせて、閉めようとして手が止まった。帰りのことを考えると、開けたままにした方が良い気がしてならなかった。
「うん。ちょっとだけだし」
 戸が開いていたら隙間風も酷くなるが、トイレに行って来るだけだから、それほど時間はかからない。
 短時間ならきっと許してもらえるだろう。誰にも聞かずに勝手に判断して、日向は自分に頷いた。
「よし。トイレ、トイレっと」
 廊下に出てしまえば、忍び足の必要もない。少しは気が楽だと肩の力を抜いて、彼は目的を達成すべく歩き出した。
 しかし教室から五歩もいかないうちに、その歩みは止まってしまった。
「トイレって、どこ」
 愕然と目を見開き、唖然としながら後ろを振り返る。続けて前に向き直っても、彼の視界にはそれらしき設備が入ってこなかった。
 森然高校には体育館が三つもあるのに、専用の合宿所がなかった。女子マネージャーたちでさえ別棟の教室をひとつ使って寝起きしており、それは引率の教員らも同様だった。
 男子部員の宿泊場所として割り振られたのは、この学校に通う生徒らが、普段から使用している教室だ。
 床は板張りで、校舎は年季が入っている。部屋数はかなり多く、一般教室棟の廊下は無駄に細長かった。
 同じ階の、ふたつほど教室を隔てたところでは、別の学校の部員が寝泊まりしていた。今は話し声のひとつもせず、全員が夢の中に旅立った後だと知れた。
 まさか彼らを起こして聞くわけにもいかず、日向は廊下の真ん中で呆然と立ち尽くした。
「なんで確認しとかなかったんだ、おれ」
 トイレは学生生活を送る上で必要不可欠な設備だから、絶対どこかにあるはずだった。
 けれど思い返してみれば、バスで到着後、荷物を置きにここまで移動する道中、トイレらしき扉を一切見かけなかった。
 それは勿論、ただ見落としていただけの可能性は高い。日向はあの時かなり浮かれていて、周りをじっくり眺めたりしていなかった。
 教室にだって、先導してくれる人がいたから辿り着けたようなものだ。夕食や風呂の後だって、山口や菅原の後ろについて行っただけに等しい。
 つまるところ、彼はこの学校の構造を、全くといって良いほど覚えていなかった。
「あ、やばい」
 再び後ろを振り返って、日向はこめかみに汗を流した。
 布団の場所は把握出来ていても、その布団のある部屋がどこかが判然としない。そこまで深く考えていなかったと初めて後悔して、彼は温い唾をひと息に飲み干した。
 心臓がバクバク言って、耳元で騒いでいるようだった。緊張で全身の筋肉が竦み上がり、四方か圧迫された膀胱が心細げに悲鳴を上げた。
「うげ」
 もれなく尿意が強まって、彼は咄嗟に内股になった。
 眠る前、調子に乗って水をがぶがぶ飲まなければ良かった。トイレに行こうと思い立ったのはただの気晴らしで、眠れないのを誤魔化す側面が強かったというのに。
 これでは本当に漏らしてしまう。
 両手で股間を押さえこんで、日向は地団太を踏んで奥歯を噛み締めた。
「えーっと、えっと。こっち!」
 こうなれば、自分の勘を信じるしかない。
 危機回避能力を最大限に発揮して、この難局を乗り切るより他になかった。
 右を見て、左を見て、もう一度右を見てから日向は叫んだ。もぞもぞと身を捩りながら廊下を走って、教室などとは明らかに違うドアを探して瞳を泳がせた。
 この際、女子トイレでも構わない。それくらい切羽詰まった状態に、彼は大きく鼻を愚図らせた。
 夏休み中の、しかもこんな夜更けに出歩く生徒など居ない筈。だったら誰かと鉢合わせする確率はほぼゼロであり、痴漢だ、変態だと咎められる事もなかった。
 そこまで追い詰められて、ようやく辿り着いた空間は、無事男子専用と銘打たれたトイレだった。
 隣に女子トイレはなかったので、通路の反対側がそうなのだろう。
 逆を行っていたらアウトだった。最初に行こうとした方角にそのまま進んでいたら、男の沽券に係わるところだった。
「ふぃ~~」
 勘は鈍っていなかった。電気を点けたトイレで所用を済ませ、日向は安堵に深く肩を落とした。
 手を洗い、湿り気はシャツに押し付けて、忘れないよう照明を消して廊下へ出る。換気扇は回したままにしてドアを閉めれば、全方向から暗闇が押し寄せて来た。
 出すものは出したというのにまたぶるりと来て、彼は己を抱きしめて緩く首を振った。
「さっさと、もどろ」
 時計は見ていないけれど、時刻は日付を越えた辺りだろうか。丑三つ時にはまだ早いが、遠くに聞こえる梟の声が雰囲気たっぷりだった。
 鳥肌立った腕を撫でて慰めて、嫌な予感は首を振って追い払う。
 今なら布団に潜り込んで、三秒で眠りに就けそうだった。
 そんなことを考えて己を鼓舞し、日向は来た道を戻ろうとした。そうして高く掲げた右足を下ろしたところで、彼は微かに聞こえた物音に背筋をぞぞぞ、と粟立てた。
 間違っても、風で窓枠が鳴った、という類のものではない。
 何かが落ちて床で跳ねた、というのとも違う。
 それはこんな夜更けの学校には不釣り合いな、きちんとしたリズム感のあるメロディだった。
 誰かが音楽を聴きながら眠ってしまい、ヘッドホンが外れた、という可能性はあった。しかしそれならもっと早くから聞こえて然るべきだし、扉越しでこうもはっきり響くのだって、奇妙な話だった。
 しかも音楽自体、人々が好んで聴きたがるジャンルから逸脱していた。
 それは昔、友人の家で遊ばせてもらったホラーゲームに使われるような、妙におどろおどろしく、プレイする側に緊張を強いるタイプのものだった。
 もれなく日向も心臓を鷲掴みにされて、不穏な気配にだらだらと汗を流した。
 もしや自分は、いつの間にかゲームの世界に紛れ込んでしまったのか。
 そこの角からゾンビが現れ、後ろからも出現して、逃げ場を失って窓から脱出させられるのか。武器を探しつつ学内を探索して、無事に脱出出来たら目出度くクリアとなるのか。
 一瞬のうちに色々なことを考えて、日向は二秒後、ハッと我に返って頬を叩いた。
「んなわけないっての」
 ぱしん、と乾いた音がして、打たれた場所はちゃんと痛かった。追加で軽く抓ってもみて、彼は想像力豊かな自分に苦笑した。
 しかし出所不明の音楽は相変わらずで、どこからともなく響いていた。
 携帯電話の着信音を疑ってもみたが、それもしっくり来なかった。
「……なんだろ」
 こんな不気味なメロディーで応対するなど、趣味が悪すぎる。鳥肌が落ち着き出している腕を繰り返し撫でて、彼は深呼吸を三度繰り返した。
 恐怖が通り過ぎると、入れ替わりに好奇心が顔を出した。冒険心が擽られて、音の発生源を突きとめたい衝動に駆られた。
 危険は承知であるが、知りたい気持ちが抑えきれなかった。
 もしこのまま部屋に戻ったとしても、気になって眠れないのは目に見えていた。ならば音の出どころを調べて、すっきりしてから就寝したかった。
 乾いた唇を舐め、日向はやんちゃな小学生に戻った気分で胸を高鳴らせた。
 いつもより早い脈動を数え、もう一度頬を叩いて気合いを注入する。その上で握り拳を作って、彼は覚悟を決めてそろりと足を伸ばした。
 音は壁に反響して、具体的にどこから聞こえてくるのかは分からなかった。しかし廊下にそれらしき物は見えず、念のためトイレのドアを押してみたが、音量に変化はなかった。
「こっち、かな?」
 トイレに行くのに必死だった時は、意識しなかっただけかもしれない。
 日向がここに来る前から音が響いていた可能性を考慮すれば、発生源は彼がまだ訪ねていない場所に違いなかった。
 無い頭で懸命に推理して、当てずっぽうで通路を進む。暗い廊下は場所によっては本当に真っ暗で、自分の手さえはっきり見えないレベルだった。
 もし大きな穴がぽっかり開いていても、気付かずにストンと落ちてしまえそうだ。流石に学校の中でそれはないだろうが、階段を踏み外すくらいなら、充分やりかねなかった。
 そして実際、音は辿り着いた階段の下から流れて来ていた。
「うわあ……」
 益々ホラーゲームじみて来た。
 嫌な予感を増幅させて、日向は顔を引き攣らせた。
 一度だけ来た方角を振り返り、戻るかどうかで逡巡する。三秒後に下された結論は、このまま進む、という選択肢だった。
 こんなところで怖気づくのは格好悪い。
 そう高くないプライドを奮い立たせて、彼は握り拳を作るとそろり、爪先をひとつ下の段に降ろした。
 照明は悉く消えており、踊り場は窓さえないので真っ暗だった。そんな中を進むのは大変で、握り締めた手摺りを頼りに、日向は手探りでゆっくり進んで行った。
 まだるっこしい動きにキレそうになるけれど、折角の遠征を怪我で台無しにしたくなかった。
 時間をかけて、慎重に。
 一歩ずつ足場を確かめながら、踊り場で方向転換して。
 直後だった。
「あれ?」
 不意に辺りが静かになって、日向は目を瞬いた。
 それまで聞こえていた音楽が、唐突に止まった。頼りにしていたものが途絶えて、彼は驚きに騒然となった。
「あれ。えええ?」
 秘境を旅する探検家気分だったのに、こんな幕切れは残念過ぎる。
 階段途中で立ち尽くして、日向はがっくり肩を落とした。
 あと少しで正体不明の不気味な音がどこから流れていたのか、突きとめられそうだったのに。
 あまりにも尻切れトンボ過ぎる終幕に落胆は否めず、日向はどうしたものかと足踏みした。
「ま、いっか」
 折角ここまで来たのだ。
 階段を下り切って、そこの角をちょっと覗いてから戻ろう。
 何の成果も得られないとしても、ちゃんと探索は済ませておきたかった。なにもないならないで、残念ではあるけれど、確かめずに戻るよりは気持ちも晴れる。
 一瞬のうちに頭を切り替え、日向は自分を納得させて残り少ない段を駆け下りた。
 正面には大きな窓があり、そこから月の光が紛れ込んでいた。踊り場と比べるとかなり明るく、足元にも薄くだが影が伸びていた。
 なんだか映画のワンシーンのようで、突然踊り出したい衝動に駆られた。日向は右足で着地を決めると、そのままバレエの動きを真似て両腕を水平に広げ、くるりと三百六十度ターンした。
 調子に乗って、誰も見ていないと決め込んで顔を綻ばせる。
 後で思い返して恥ずかしさに赤くなると分かっていても、心の赴くまま、身体は止まらなかった。
 そうして月明かりが明るい窓から、暗い階段に向き直ろうとして。
 寸前、視界の隅に不気味な光を見つけて凍り付いた。
 それはぼうっと青白く輝き、闇の一部を照らして不穏な影を浮き彫りにしていた。
 それはさながら、火の玉で。
 怪談話につきものの淡い光に映し出されるのは、血の気の失せた、不気味極まりない人の顔だった。
 瞬間。
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!」
 日向は恐怖に竦み上がり、四肢を硬直させて悲鳴を上げた。
 予想し得なかった展開に、口から心臓が飛び出しそうだった。足元から力が抜けて、小さな体はへなへなとその場に崩れ落ちた。
 顔を引き攣らせ、瞬きさえ忘れて瞠目する。不気味極まりない光が変わらずそこに彷徨い、突如前触れもなく消え失せた。
「ぎゃあっ」
 それが余計に恐怖を誘って、日向は真っ青になってガタガタ震える身体を抱きしめた。
 膝に力が入らず、立っていられなくなった身体はぺたんと床に張り付いた。廊下の冷たさなど最早気にならず、逃げなければ、と思うのに足は一切動かなかった。
 腰が抜けた。
 あまりの恐ろしさに心臓は停止して、涙と鼻水が同時に出て止まらなかった。
「ひっ、ひぇ、ふぁ、ひゃ」
 口を開いても、出てくるのは言葉にならない声ばかりだった。嫌々と首を振って、彼はぐずぐず鼻を鳴らして赤ん坊のように喘いだ。
 森然高校はそれほど古い学校ではないけれど、決して真新しくもなかった。敷地は無駄に広いが、鬱蒼と茂る森が背後に迫り、夜間は獣の声が五月蠅かった。
 夏場に盛んに耳にする怪談が、こんな時に限って脳裏を過ぎった。
 無残に殺された女が怨霊となり、殺した男に復讐を果たす話。
 女に化けた鬼が旅人を騙し、頭からバリバリ食べてしまう話。
 罪を着せられて無念のうちに死んだ男が、恨みを晴らすべく都を襲う話。
 それ以外にも恐ろしく、無駄に人の恐怖を煽る話が次々に浮かんでは消えていった。小学生の頃、うっかり見てしまった所為で眠れなくなった心霊番組の映像が蘇って、内臓が一斉にきゅっ、と小さくなった。
 全身に鳥肌が立って、異様なくらいに寒かった。一目散に逃げ出したいのに身体は言うことを聞かなくて、此処で死ぬのかと、両親や妹の顔まで立て続けに浮かんで来た。
 これが俗にいう走馬灯かと、感心する余裕などどこにもありはしなかった。
「ふぎゃ、ひぇっ、あ……なっ、な、なむだみだぶつ、なみなみだぬつ!」
「……翔陽?」
 こういう時は、どうすればいいのか。
 せめてもの抵抗にと念仏を間違ったまま唱えて、目を瞑って襲い来る恐怖に必死に耐えていた矢先。
 怪訝な声で名前を呼ばれて、日向はハッとなって茫然と目を見開いた。
 今が現か、幻かも分からないまま、惚けた顔で前を見る。そこには月明かりを浴びた若者がひとり佇み、不思議そうに首を捻っていた。
 白い上履きに、赤色のジャージは長袖長ズボン。全開になったファスナーからは白色のトレーナーが覗いており、手には黒色の携帯ゲーム機が握られていた。
 開閉式のそれは蓋を閉じると自動的にスリープモードに入る仕組みで、日向も妹と共有という形で所持している物だった。
「け、けん……ま?」
「うん」
「研磨?」
「なにしてるの、こんなとこで」
「研磨? ホントに研磨? 幽霊じゃない? お化けじゃない?」
「何言ってるの、翔陽。寝ぼけてる?」
 絶句したまま、日向は何度も瞬きを繰り返した。恐る恐る目の前の少年を指差し、会話が成立しないのもお構いなしに捲し立てた。
 早口の詰問に孤爪研磨は眉間の皺を増やし、片膝を折って身を屈めた。
 しゃがみ込んでいる日向と目線を揃え、猫のような眼でまっすぐに見詰めて来た。
 それでもなかなか信じ難くて、日向はおずおず手を伸ばした。試しにその頬に触れて、軽く撫でて、孤爪が目を眇めたのを待ってようやく安堵の息を吐いた。
「研磨、だ」
 心底ほっとした声で呟き、肩の力を抜いて丸くなる。脱力した身体はふにゃふにゃで、人間でも溶ける事があるのだと、見ていた孤爪は奇妙な感想を抱いた。
 何をそんなに驚いて、慌てふためいていたのかは正直分からない。ただ放っておくわけにもいかなくて、彼はジャージのポケットを探ると、偶々入っていた、いつ使ったかも分からないフェイスタオルを引っ張り出した。
 皺だらけのそれを広げ、みすぼらしく鼻水まで垂らしている日向へと差し出す。そっと顔に被せてやれば、彼は数回口を開閉させ、最後にぎゅっと目を閉じた。
「ンブーッ!」
 そうしてタオルで思い切り鼻を噛んで、布越しの孤爪の手に熱風を浴びせかけた。
「落ち着いた?」
 中心部が過分に湿ったタオルを一度手元に戻し、濡れている面を内側に数回折り畳む。静かに問いかければ、口呼吸中だった日向はコクコク頷いた。
 目元に残っていた涙は手で擦って拭い取り、頬を叩いて気持ちを引き締める。そんな彼にタオルを差し出して、孤爪は立てた膝に肘を突き立てた。
 頬杖を着き、彼は借り受けた布で顔を拭く少年を見詰めた。
「こんな時間に、なにしてたの」
「おれは、その。トイレ。っていうか、研磨こそ。こんなところでなに、してたのさ」
 今思えば、あの青白い炎に見えたのはゲーム機の明かりだった。
 ぼんやり浮かび上がっていたのは、孤爪の顔以外の何物でもなかった。
 すっかり騙されて、気が動転してしまった。醜態をさらしてしまったと顔を赤くして、日向は彼が隠れていたであろう廊下の角を指差した。
 しかし孤爪は淡々とした態度を変えず、振り返って嗚呼、と頷くだけだった。
「眠れなかったし。ゲーム。部屋だとみんなに悪いし」
「…………」
「それにこれ、この前発売したばっかりで。クリアしときたかったから」
 一人っ子で鍵っ子、且つ人見知りで友人が少ない孤爪は、外で遊ぶよりもゲーム機で遊ぶ方が好きなタイプだった。
 それが長じて色々なジャンルのゲームに手を出して、家では攻略本が山積みになっている。期待の新作は発売当日か、或いは前日に手に入れて、誰より早くクリアするのが密かな楽しみだった。
 だというのに合宿に強制参加させられて、プレイする暇がなかった。
 だからこんな夜更けに、布団にも入らず、廊下を照らす月明かりだけを頼りに遊んでいた。
 あの音楽は間違いなく彼のゲーム機から流れていたものであり、音が突然途切れたのも、階段を下りてくる人の気配を察した孤爪が蓋を閉じたからだった。
 種明かしをすれば、何も驚くことはなかった。ただこんな夜も遅い時間に、廊下に蹲ってゲームに興じる人がいるなど、誰だって予想しないに違いない。
 孤爪側も、まさか人が来るとは思っていなかったようだ。一度閉めたゲーム機を開いたのは、やって来たのが誰かを探る為、灯りを必要とした結果だった。
 それがよもや、ここまで日向を驚かす羽目になろうとは。
「おれ、本気でビックリしたんだからな」
「ごめん」
 声高に咎められ、年上の筈の孤爪は殊勝に頭を下げた。
 但し声にはあまり感情が込められておらず、本当に反省しているか、という点には、疑問符を呈さねばならなかった。
 それでも形ばかりの謝罪を受けて、日向は溜飲を下げた。
「あんまり暗いところでやってると、目、悪くなんぞ?」
「分かってる。けど、やり出したら止まらなくて」
 ゲームは平日昼間、一日一時間だけ。
 小学生の頃、そういう約束を母親と交わしていた。今はその限りではないけれど、部活が忙しくなったので、孤爪が持つような携帯ゲーム機はすっかり妹の持ち物になっていた。
 母親から繰り返し注意されたことを告げれば、承知の上だと孤爪は頷いた。そうしてゲーム機の表面をそっと撫でて、何も言わずに蓋を開いた。
 音楽が再開されて、辺りがほんのり明るくなった。
 それは別段恐ろしげでもない、ごく平凡な光だった。
 どうしてこれを火の玉と勘違いしたのか、それ自体が不思議に思えた。不気味なモンスターを駆逐していくゲームは難しそうで、孤爪の軽快な指の動きは目で追うのもやっとだった。
「すげー……」
「ちょっと待ってて。キリの良いところまで進めるから……うん。ここでいいや」
 日向が挑めば、一戦目で呆気なく負けてしまいそうだ。とても真似できない芸当だと感心して、彼は借りっ放しのタオルを握りしめた。
 戦闘中だったのを終わらせて、孤爪は満足げに頷いた。しっかりセーブして記録を残し、膝に手を置いて立ち上がった。
「研磨?」
「部屋に戻る。翔陽も、早く寝ないと明日辛いよ」
「ああ、うん。そだね」
「翔陽?」
 日向の登場により、ゲームを続ける気が削げたのだろう。
 音駒高校が使っている教室に帰る旨を告げた孤爪に、日向は曖昧に返し、そっと目を逸らした。
 それがおおよそ彼らしくなくて、孤爪は眉を顰め、胡乱げな眼差しで年下の友人を見詰めた。
 午前零時をとっくに過ぎたこの時間、布団に入れば即座に眠りに就けるだろう。早く休んで疲労を抜いておかないと、夜明け後のハードな練習に耐えられなくなる。
 だというのに、日向は一向に動き出さない。返事は中途半端で、置いていってくれ、と言わんばかりだった。
「翔陽も、戻らなくていいの?」
「いやあ、うん。帰る、けど。それはまだいいかなあ、なんて。もうちょっとここでこうしてたいなあ、とか。その」
「でも廊下だし、寒くない?」
 明言は避け、のらりくらりと躱そうとする。胸の前で指を小突き合わせ、なかなか孤爪を見ようとしない。
 最終的に黙り込んでしまった彼を前に置いて、孤爪はぺたんと座り込んでいる日向に目を眇めた。
「ねえ、翔陽」
「うっ」
「もしかして、だけど」
 先ほど、彼は激しく狼狽していた。泣きじゃくり、本気で怖がっていた。
 あれから日向は一度も立ち上がっていなかった。今現在もへたり込んだままで、動かすのは上半身ばかり。
 まさか、とは思いつつ声を潜めた孤爪に、日向は苦虫を噛み潰したような顔をして、落胆に溜息を吐いた。
「腰が抜けました」
 最早隠し通すのは無理。
 諦めの境地に陥って、彼は渋々ながら己の状況を認めた。
 降参だと白旗を振り、悔しそうに下唇を噛む。唸り声をあげて羞恥に耐えて、絶句している孤爪の目線から逃げて顔を覆う。
 彼だってまさかこんな結果に陥ろうとは、夢にも思っていなかった。
 しかし実際問題、下半身に力が入らなかった。当初に比べれば感覚は戻ってきているけれど、未だ立ち上がるところまでは至らず、ましてや自力で歩くなど。
 放っておけばいずれ治るとは思うが、情けなくて言いたくなかった。
 鼻を音立てて啜り上げた少年に、孤爪は呆れつつ、困った顔で手持ちのゲーム機を小突いた。
 彼がこうなった原因は、間違いなく孤爪にあった。
 一応責任は感じているらしく、音駒高校の頭脳はプリン色の頭を掻き回し、困った顔で半眼した。
「ちょっと待って、翔陽」
「もー、おれのことはいいから。ほっといて」
 何か妙案はないかと悩むけれど、腰が抜けた状態から回復させる方法など分からない。となれば他人の知恵を借りるしかなく、ポケットを再度探った孤爪に、日向は辛抱堪らなくなって喚いた。
 好奇心で突っ込んで行って、自滅したようなものだ。ゲーム機の明かりを幽霊と勘違いして腰を抜かしたなど、チームメイトに知られたら良い笑い者だった。
 噴飯もののネタを提供してしまった自覚はある。
 いっそこのまま溶けて消えてしまいたいとさえ思っていたら、目の前がまたパッと明るくなった。
 恨みがましく視線を投げた先では、孤爪が取り出したスマートフォンを操作していた。
「研磨?」
「腰、抜ける……回復、と」
「なにしてんの」
「ううん。早く治る方法ってないかな、って」
 左手で端末を持ち、右人差し指を画面に走らせる。日向の位置からでは何をしているかは見えなかったが、彼の口ぶりから、インターネットで情報を検索しているらしかった。
 モニターの光に照らされる友人を眺めながら、日向は両手を床に添え、立ち上がれないかと腹に力を込めた。
「ふんっ、ぬぬぬ」
「ぎっくり腰じゃないし、これは違うか。こっちは?」
「ぬんぐ、ふぐ、ぎぎぎ……ぬおー!」
「翔陽、ちょっと黙って」
「あああ、ダメだああ」
「……翔陽」
 立ち上がろうと躍起になって、他人の声に耳を傾ける余裕がない。
 何度挑戦しても無駄だった日向の落胆ぶりに、孤爪も一緒になって肩を落とした。
 呆れるよりも同情が芽生えて、彼は改めて膝を折った。腰を落としてしゃがみ込んで、悔しそうな年下の友人に苦笑した。
 先ほど見つけた情報を今一度眺めて、側面のボタンを押して電源を落とす。画面が真っ暗になったスマートフォンをポケットに戻して、不貞腐れて膨れ面の日向に微笑みかける。
「ちょっと、じっとしてて」
「研磨?」
「触るよ、翔陽」
 控えめな笑顔で囁かれて、日向は首を傾げて伸びて来た手を見送った。
 あまりスポーツをやる手ではなかった。指は細く、色は白い。爪は短く切られているけれど、傷跡の少ない、とても綺麗な手だった。
 それが人差し指以下四本、顔の両サイドに流れて行ったかと思えば。
「んムっ」
 残った親指二本が、突如日向の唇に押し当てられた。
 下から上へと圧迫されて、思わず仰け反ってしまった。反射的に逃げようと足掻いて、円を描くように動く指に背筋が粟立った。
「んな、なに」
「動かないで」
 マッサージするかのように、そう幅広ではない親指が繰り返し日向の唇を捏ねた。ぐりぐりと力を込めて薄い肉を揉んで、あまり湿ってもいない場所をしつこく擽った。
 加減が出来ていない指は痛くて、下手をすれば噛んでしまいそうだった。慌てて孤爪の手首を掴み取るが、遮ろうとする動きを言葉で牽制された。
 語気の強い叱責に思わずびくりとして、日向は彼の手を掴んだまま、行き場のない瞳を泳がせた。
 どこを見て良いか、全然分からなかった。
「け、ン」
「ねえ、翔陽。どう?」
「なフ、ンに、……っ」
 いったいどういうつもりで孤爪がこんな真似をするのか、そこからして不明だった。説明もなしにいきなり唇に触れられて、繰り返し揉みしだかれた場所は徐々にじんわり熱を持ち、血流が良くなった証拠の痒みを発した。
 そこだけが異様に赤くなっている気がして、落ち着かなかった。かさついた肌はじんじん疼き、落ち着きを欠いた膝がもぞもぞ床の上を這い回った。
 座ったまま足をばたつかせ、日向は神妙な顔で目を覗き込んできた相手に鼻を愚図つかせた。
 距離が縮まって、吐息を鼻先に感じた。
 微風を浴びせられた少年はハッとして、存外に近いところにある猫の眼に騒然となった。
「け、けんま!」
 あと少しで額と額が張り付く。
 揉み解されて熱を帯びた唇がチリチリ痛んで、隙間から潜り込んだ指の形に四肢が戦いた。
 反射的に押し返そうと舌が伸びて、柔くて厚い肉に固い感触が張り付いた。ぞわっと来たのは本能で、吸い付こうとしたのは無意識だった。
 寸前に逃げられて、閉ざした唇に舌先が挟まった。
 その馴染みのある感覚に己の行いを重ねあわせ、日向はカーッと赤くなり、耳から湯気を噴いた。
 孤爪は恥じらっている少年を月明かりに見出し、微かに残る湿り気を己の唇に擦り付けた。
「もう立てるんじゃない?」
 そうしてしっとり囁けば、一瞬言われた内容を理解出来なかった少年が、三度瞬きして下を向いた。
 脚気を調べる要領で膝を叩き、日向は命令通り持ち上がった右足に目を丸くした。
「うそ」
「腰が抜けるのって、放っておいても治るけど。脳がパニック起こしてるだけだから、そこを刺激してやればいいんだって。でも直接は触れないから、唇みたいに脳機能が集中している場所を触って、感覚を取り戻せばいいんだって」
「う、ん……?」
 絶句している日向に肩を竦め、孤爪は姿勢を正すと、インターネットで見た情報を一気に捲し立てた。
 そうして自身の唇を、人差し指で小突いた。
「へ~。へええ~~」
「本当に分かってる?」
「ぜ、全然?」
 念のために訊けば、あっけらかんと言い放たれた。
 なんとも日向らしい返答だ。成る程、と孤爪は小さく頷くと、自力で立ち上がった友人に目尻を下げた。
「もう平気そう?」
「うん。すごいな、覚えとこ」
「……そう」
 足踏みをしたり、ジャンプしてみたり。
 調子が戻ったか確認する日向に苦笑して、孤爪は音もなく右手を差し出した。
 中指の背で頬をなぞられ、少年の動きが止まった。瞳は宙を彷徨い、孤爪を見ようとしなかった。
 恥じらう姿勢が復活して、音駒高校男子排球部の頭脳はしどけなく微笑んだ。
「さっき、翔陽。おれにキスされるとか、思ったりした?」
「っ――!」
 あの時と同様顔を寄せ、前髪が擦れ合う近さで低く囁く。
 妖しげな声色にぞくりと来て、日向はヒクリと指を痙攣させた。
 図星を指摘されて、顔が火を噴きそうだった。
「お、おやすみ!」
「わっ」
 恥ずかしさに耐えきれなくなって、反射的に孤爪を突き飛ばす。余所を見たまま大声で吼えて、少年は身体を反転させて駆け出した。
 下りてきた階段ではなく、通路を一目散に進んで行く。あれでは迷子になりかねないのに、そういう所まで頭が回らないのだろう。
 後ろに軽くふらついて、孤爪はやれやれと肩を竦めた。
「訊く前に、しとけばよかったかな」
 触れた唇は柔らかく、温かかった。
 次は指ではない場所で触れてみたい。そう密かに思いを馳せて、孤爪は感触が残る指先を舐めた。

2015/3/10 脱稿