Buff

 ボールの跳ねる音、人いきれ、シューズが床を擦るスキール音。
 勇ましい雄叫び、掛け声、コーチの怒号に、コートの内外から響き渡る無数の声援。
 荒々しい足音、激しくぶつかるボールの悲鳴。衝撃で転がる身体、対してふわりと浮き上がる白い球体。
 息を吐き、駆け出す。
 追いかける。
 目で、身体で、心――すべてで。
 ボールを落としてはいけない。絶対に、あれを床で弾ませてはいけない。
 その一心で。ただそれだけを望んで、求めて。
 必死になって走って、食らいついて。
「――ぎゃあ!」
 その先にボール以外のものがあることに、直前まで気付けなかった。
「日向!」
「大丈夫か!?」
 腕を伸ばし、跳ぶ。直後に眼前に広がった壁に驚いて、小さな体躯は雄叫びに近い絶叫をあげた。
 第二体育館全体を揺るがしかねない振動を引き起こし、一瞬のうちに床へと沈む。尚悪い事にその落下地点には、部の備品が、黄色いプラスチックケースに収められて置かれていた。
 それに派手に突っ込んで、中身をばら撒きながら横倒しになる。耳を塞ぎたくなるほどの轟音を響かせて、彼は一瞬にして静かになった。
 館内にいた誰もが絶句して、目を丸くして凍り付いた。怖がりで小心者の東峰などは、大柄な身体を抱きしめて真っ青になっていた。
「ひ、ひなた……?」
 かなりスピードが出ていたから、衝突の衝撃は半端なかったはずだ。彼が拾い損ねたボールは明後日の方角に跳ね返り、息を潜める部員らの足元で停止した。
 誰かが唾を飲む音がした。
 額に浮いた汗がこめかみを伝って、顎まで滑り落ちていく感覚がいやにリアルだった。
「お、おい。大丈夫かよ、日向」
「生きてるか? 死んだか?」
「さっ、殺人事件だ!」
「どう考えたって自損事故デショ」
「そこ、不謹慎な事言わない!」
 一秒が過ぎ、三秒が過ぎ、五秒を超えたところで我に返る者が出始めた。ネット際で台に立っていたコーチの烏養がまず声を上げて、それに触発された男子高校生が矢継ぎ早に、物騒極まりない台詞を捲し立てた。
 流石に聞き捨てならないと澤村が怒鳴って、その間に副部長の菅原が日向に駆け寄った。息を弾ませ肩を上下させて、ピクリとも動かない一年生の横で膝を折った。
 周囲にはボールに空気を入れるポンプや、空気圧を計る器具が散乱していた。裏返ったケースには雑巾が引っ掛かり、浮いた角が突っ伏している少年の足に圧し掛かっていた。
「日向、おい。ひなた?」
 揺らしていいかどうかで迷い、菅原は肩に伸ばした手を引っ込めた。行き場を失った指で空を掻き回して、先に意識の有無を確認すべく、顔を覗き込んだ。
 瞼は閉ざされ、唇は弛緩して薄く開いていた。小振りの鼻がヒクヒク震えて、肌は血の気が引いて青褪めていた。
 気を失っているのか、反応が鈍い。
 嫌な予感を覚え、菅原は力なく横たわる体躯を思い切って揺さぶった。
「おい、日向。しっかりしろ。大丈夫か」
 その頃には烏養も近くに来て、様子を窺って息を呑んだ。眉間に皺を寄せて渋い顔をして、日向の脚に被さっているケースを押し退けた。
「う……っ」
 その振動が、きっかけになったのだろうか。
 それまでまるで無反応だった少年が、喉の奥で呻き声をあげた。
「日向!」
 菅原が甲高い声で叫び、残る部員も心配そうに背後から様子を窺い見た。この場で最も年長で、責任者でもある烏養が代表して彼の隣に屈んで、恐る恐る、柔らかくて温かな頬を数回、叩いた。
 覚醒を促し、低い声で呼びかける。それで閉ざされていた瞼も痙攣を開始して、細長い睫毛が風もないのに揺れ動いた。
「うぅ、っ……」
 細い肩が波打ち、伸びきっていた背中が猫のように丸くなった。意識が呼び戻されると同時に痛みが膨らんだのか、穏やかだった表情は一瞬にして苦悶に歪められた。
「ひなた、しっかりしろ」
「きゅっ、救急車。救急車を!」
「落ち着け、旭。マネージャー、タオル濡らして持ってきて」
「分かった」
 後方では東峰がパニックを起こして騒ぎ、澤村が手厳しく叱って清水に指示を出した。男子排球部唯一の女子は深く頷くと、急ぎ踵を返して駆け出した。
 練習は中断されて、あれだけ喧しかった第二体育館はにわかに緊張に包まれた。
 その中心に横たわる少年は、足元から駆け上がってきた激痛に喉を引き攣らせ、思うように動かない身体に奥歯を噛み締めた。
 目の前が真っ暗になったかと思えば、全身引き裂かれそうな痛みが襲いかかってきた。
 それは熱い、としか表現しようのない痛みだった。
「いっ、つぁ」
「大丈夫か、日向」
 声が言葉にならず、喘ぐように息を吐く。燃え盛る炎の中に放り込まれた気分で天を仰げば、館内を照らす蛍光灯が容赦なく網膜を焼いた。
 目を開ける事さえままならず、状況が分からないままただ歯を食い縛る。周囲から必死の呼びかけが聞こえて来たが、返事をするだけの気力など、どこにもありはしなかった。
「澤村、タオル」
「すまん。日向、分かるか」
 喉を通る空気さえ熱を持っており、呼吸する度に体内が焼け爛れていくようだった。唾が呑みこめなくて咳き込んで、噎せていたら耳慣れた声が聞こえて来た。
 直後にひんやりした感触が額に広がって、汗が引いていくのが実感できた。痛みは消えないが幾ばくか楽になって、日向は優しい仕草に頬を緩めた。
 眩しすぎる光にも、目が慣れつつあった。
 瞼を薄く開いて辺りを見回せば、チームメイトが全員集まっているのが見て取れた。
 誰も彼も心配そうな顔をして、血の気のない表情をしていた。嫌味ばかりの月島までもが口元を歪めており、目が合った途端にぱっと逸らされた。
 気にしていると知られるのが、こんな状況でも嫌らしい。
 相変わらずだと苦笑したくて、けれど出来なくて、日向はタオルで額を覆ったまま首を振った。
「いっつ、ぅ」
「こら。無理するな」
 起き上がろうとしたら、澤村に叱られた。しかし無理をして抗い、落ちた布を右手で握りしめた。
 頭を浮かせた瞬間はくらっと来たものの、五秒じっとしていれば落ち着いた。まだ息苦しくはあるけれど、最初に比べればかなりマシになっていた。
 レシーブで弾き飛ばされたボールを追いかけて、走って。
 壁に激突して気を失うなど、なんて格好悪いのだろう。
「だい、じょぶ……です」
「大丈夫な訳があるか」
 途切れていた記憶も蘇って、前後が一直線に繋がった。
 練習を中断させてしまった負い目もあって、もう平気だと言い張ったが、通じなかった。
 床に座り込みはしたものの、まだ立ち上がれずにいる。その部分を鋭く指摘して、主将はぴしゃりと言って首を振った。
「しばらく休んでろ」
「いえ。ほんと、ヘーキなん……ぃでっ」
 意識はある、記憶の障害もない。
 激突の寸前、咄嗟に身体を庇ったので、壁にぶつけたのは頭ではなく左肩だ。落ちたのは右肩からだが、受け身を取ったのでそちらのダメージはあまり酷くない。
 問題は、床にあったケースに当たった脚だ。
 こればかりは、避けきれなかった。硬い角に膝をぶつけて、吹っ飛ばして、吹っ飛ばされた。
 痛みも、そこが一番酷い。ズキン、ズキンと一定の間隔で疼き、周辺の筋肉が痺れ、感覚は麻痺していた。
 大事な右足にダメージを負って、もし骨に何かあったらと考えると寒くなった。折れるか、そこまでいかずともヒビが入っていたら、間近に迫る大会に間違いなく出られない。
 それだけは嫌だった。自分の不注意さに泣きそうになって、日向は花を愚図らせて唇を噛み締めた。
「腫れてんな」
「だっ、だいじょ……です。これくらい、すぐに――あだっ」
 案の定烏養が気付き、赤黒く変色している肌に眉目を顰めた。
 傷口に触ろうとはせず、目つきを険しくして顎を撫でるに留める。そんな彼に日向は声を高くしたが、元気ぶるのは難しかった。
 立ち上がろうとして、膝に力を込めた段階で激痛が走った。骨の中心部に雷撃を喰らったかのような衝撃が突き抜けて、貫かれた少年はみっともなく尻餅をついた。
 その昔、放置した虫歯が酷くなった時の記憶が蘇った。
 あれと似て非なる痛みを利き足に抱いて、日向は生理的に浮いた涙で目尻を濡らした。
 しゃがみ込み、丸く、小さくなる。
 痛ましい姿に烏養は困った顔をして、脱色し過ぎて金色の髪を掻き回した。
「冷やした方がいいな、こりゃ」
「骨とかに、異常はありますかね」
「それは俺の専門じゃねーからなあ。とりあえず一回、保健室で診てもらった方が良いだろうな」
 医者に行くかどうかは、保険医の裁量に任せる。
 素人判断で動くのはよろしくないとの彼の言葉に、一番の懸念を口にした澤村は苦い顔で頷いた。
 日向も涙目で上級生やコーチを仰ぎ、周りを取り囲む友人らにも助けを求める眼差しを投げた。
 しかし彼らに出来る事はなにもない。痛みを肩代わりしてやるなど到底無理な相談で、せいぜい大丈夫だろう、と慰めの言葉を口にする程度だった。
「心配ないって。一晩経ったら腫れも引くって」
「内出血してるだけじゃないの。君、頑丈さだけが自慢でしょ」
「はいはい、お前らは練習に戻る。日向、どうだ。歩けそうか」
 根拠のない台詞を吐いた山口に、月島が普段の調子を取り戻して嘯く。それを澤村が制して手を叩き、保健室行きが決まった日向に問いかけた。
 彼は奥歯を噛み締めて唸ると、数回挑戦した後、哀しそうに首を横に振った。
 巧く力が入らないらしい。膝関節は体重を支える重要な器官であるが、今の彼の足は、見事なまでに青紫に変色していた。
 半月板の右側が膨らんで、月島の言う通り、内出血を起こしていた。表面はぶよぶよしており、見ているだけで背筋が寒くなる有様だった。
 無理をさせると、悪化しかねない。
 愚図る一年生に肩を落とし、主将はコーチと顔を見合わせた。
「影山」
 そして後方にいた一年生を呼び、手招いた。
「あっ、はい」
 練習再開の号令を受け、菅原が皆を率いて動き出していた。しかし副主将の命令を無視し、ひとりだけ惚けて立ち尽くす部員がいた。
 心ここにあらずといった顔をして、呼ばれてハッと我に返る。猫騙しでも食らったかのように瞬きを繰り返して、彼は急ぎ澤村に近付いた。
 長袖を肘の上までたくし上げて、黒のショートパンツから覗く足はしなやかだ。肩幅が広くがっしりした体格で、実際の身長よりも大きく感じさせた。
 恵まれた運動神経とセンスを持ち合わせた天才セッターは、呼ばれた理由を気にしつつ、ちらちらと澤村の背後に視線を投げていた。
 いつにも増して瞬きの回数が多い彼に苦笑して、主将は両手を腰に当てると、顎をしゃくって日向を示した。
「ン?」
 なにかを企む顔で振り向かれて、日向もきょとんと目を丸くした。影山も訳が分からないと目を眇め、答えを探して澤村に向き直った。
 そんな超がつく鈍感馬鹿に肩を竦め、彼は王様と呼ばれている一年生の肩を叩いた。
「それじゃ、日向のこと、宜しく頼むな」
「は……え?」
「保健室、連れていってやってくれ。ひとりじゃ歩けないみたいだし。清水じゃあ、日向を抱えられないだろう?」
 突然言われた影山はぽかんとして、間抜け顔で首を捻った。それを呵々と笑い飛ばして、澤村は傍に居残っていたマネージャーを指差した。
 清水は日向より僅かながら背は高いが、あくまでも女子だ。肩を貸す程度なら可能だろうが、それでは怪我人に負担を強いる事になる。
 その点、影山は腕力も充分で、日向ひとりなら楽々担ぎ上げられた。
「よろしく」
「ちょ、待ってください。なんで俺が」
「それに、うちの部で一番練習量が足りてるのって、お前だしさ」
「うっ」
 その清水にも頼まれて、託された青年は一気に青くなった。
 日向を保健室に運ぶ間、影山は自分の練習が出来ない。それが嫌だと声を上げようとした彼だったが、先手を打った澤村が朗らかに言い放って、反論の導火線は敢え無く断ち切られた。
 影山は誰よりも早く学校にやってきて、誰よりも遅く体育館を出る、練習熱心な部員だった。
 しかも家に帰った後も、自己鍛錬を欠かさないという。これでは逆に潰れやしないかと、心配になるくらいだった。
 保健室への往復は、十分もかからない。
 その程度の休憩で駄目になる男ではないだろう、と言われたら、頷くより他になかった。
 それに日向だって、このまま放っておくわけにはいかない。
 コーチや主将は体育館を離れられないし、顧問の武田は会議で不在だ。清水では日向を支えきれないのも、理屈として通っていた。
「お前だって、日向の怪我の具合、気になるだろ」
「……ッス」
 そこへトドメのひと言を放たれて、影山は渋々ながら頷いた。
 実際、澤村の言う通りだった。
 日向は影山にとって救世主のようなもので、今となってはなくてはならない存在だ。部にとっても、彼は戦術の中心に置かれ、重要な役目を託すプレイヤーだった。
 練習中の怪我くらいで、駄目になってもらっては困るのだ。彼がいなければ、烏野高校男子排球部が大会を勝ち上がって行くのは、ほぼ不可能と言っても過言ではなかった。
 数日で治るのか、それとも月単位で休まなければならないのか。その辺が気になって、練習どころではない。
 そういう面も先回りして察知されて、影山は仄かに顔を赤くし、蹲っている日向へ歩み寄った。
「ごめん」
「謝んな。一番痛ぇの、右足だな」
「ん。あと、左肩も、ちょっと」
 影山が主将と会話している間に、痛み自体は徐々に引き始めていた。しかし右足には相変わらず力が入らず、たとえ立ち上がれても、巧く歩ける保証はなかった。
 下手なことをして転んで、他を怪我するくらいなら、じっとしておいた方が良いに決まっている。だからと大人しく待っていた少年は、つっけんどんな相棒に控えめに答え、舌を出した
 やってしまった、と後悔を滲ませた彼に、影山はむすっとしたまましゃがみ込んだ。
「乗れっか」
「いける」
 背中を向け、両手は腰の後ろに添える。淡々とした問いかけに日向は首肯して、傷を負った右足を庇いつつ、逞しい背中ににじり寄った。
 両手を伸ばし、幅広の肩に寄り掛かる。体重を預け、脱力するより早く、影山が見もせずに日向の体躯を引き寄せた。
 気が急くのか、手つきは荒い。だが怪我が酷い場所にだけは触れないよう、最低限の配慮は為されていた。
「さっすが。王様、手慣れてるね~」
「うるせえ。テメーはさっさと、そのヘタクソなレシーブ、なんとかしやがれ」
 そのまま起き上がり、バランスを調整して日向を背負い直す。それを月島が冷かして、影山は煙を噴いて怒鳴った。
 練習後の自主練習中、疲れ果てて眠ってしまった日向を背負って運ぶのも、大抵彼の仕事だった。自転車通学の日向が半分眠りながら帰るのは危険だからと、徒歩圏内に住む影山が引き取って帰ったのも、一度や二度ではない。
 揶揄されて、日向も赤くなって顔を伏した。あちこちから笑い声が広がって、怪我以外の理由で身体が熱くてならなかった。
「……ごめん」
「うるせえ。いいから、大人しくしてろ」
 小声で謝れば、前を向いたまま怒鳴られた。影山は慎重に足を進めると、一直線に出口を目指した。
「保健室、行ってきます」
「おう。気を付けてな」
 そうして開けっ放しの戸口で一度足を止め、後ろに向かって叫んだ。
 誰も引きとめたりしないし、行き先だって承知している。だというのに律儀に許可を求めて、彼は小さく頭を下げた。
「いっ、いってきます」
 日向も二秒遅れて声を高くし、笑顔で見送る皆に目礼した。頭を下げる分は影山の方向転換に間に合わなくて、慌ててしがみつく有様だった。
 笑い声がまた響いたが、聞こえなかった事にする。影山は短い階段をゆっくり降りて、校舎へ繋がる渡り廊下に爪先を置いた。
 もっともこの先にある建物は、保健室などの主要な施設がある校舎ではない。化学実験室や家庭科室、音楽室といったものが揃う、特別教室棟だった。
 週に数回、足を踏み入れる程度なので、あまり馴染みがない。人通りが少ないので廊下の電気も消えている場合が多く、なんだか陰気な感じがして、近寄りがたい面があった。
 第二体育館へ出向く時は、部室を経由するパターンが殆どだ。だから靴を履き替えることなく、校舎側から体育館へ行くなど、滅多になかった。
 慣れないルートに、ほんの少し緊張した。
 身を固くした日向を気取ったのか、慎重な足取りだった影山が顎を浮かせて頭を振った。
「痛むか」
「ふえ?」
 彼にはその行動が、痛みを堪えている風に感じられたらしい。予期せぬところから話しかけられて、日向は間抜けな声を発し、素早く瞬きを繰り返した。
 小首を傾げるものの、それは影山には見えない。返事がないのに若干苛立って、彼は背負う日向ごと身体を上下に揺さぶった。
 突然荒っぽく扱われ、驚いた少年は咄嗟に掴んだものに爪を立てた。強く握りしめてから、それが影山の肩なのを思い出し、急いで指の力を抜く。
 だらりと垂れ下がった脚もぶらぶら泳いで、シューズの紐は振り子のようだった。
「まあ、……痛い」
 一時期の酷さは過ぎ去ったものの、動かされたら矢張り痛かった。
 内側が熱を持ち、関節の辺りが疼いている。青紫色の痣はじわじわ範囲を広げており、その中心部は鮮やかな赤色に花開き始めていた。
 見ているだけでも、痛い。
 患部を一瞥した影山は、顔を顰めて舌打ちした。
「ボールばっか見てっからだ。ボケ」
「反省してる」
 ボールに集中するあまり、周りが見えなくなっていた。何処に何があるかも忘れて、空間を把握出来ていなかった。
 これではイノシシだ。一点だけを目指して暴走して、その結果がこれでは救われない。
 馬鹿なことをした。
 自分のミスを素直に認めた彼に、影山は叱責を続けられなくて口を噤んだ。
「ボケ」
 辛うじてそれだけを呟いて、後は黙々と廊下を進む。どこからかトランペットらしき音が聞こえて来て、フルートの音がそこに重なった。
 音楽室はこの校舎の最上階にあるから、吹奏楽部が練習しているらしかった。
「体育館にいたら、全然聞こえねーもんなあ」
「そうか? いつも、結構うるせーけど」
「そなの?」
「ああ」
 第二体育館には冷暖房設備がないから、部活中は窓もドアも、全て全開状態だった。
 そこから外の音が紛れ込んでくるけれど、館内だって十分騒がしい。殆ど気にした事がなかった日向は、影山の台詞に意外そうな顔をした。
「集中力、足りてねーんじゃねえの?」
「ふざけんな。俺はテメーみてえに、ボールばっか追いかけてんじゃねーんだよ」
 バレーボールは六人でひとつのボールを繋ぐ球技だから、ボールを目で追うのは当然だ。球体は高速で移動しているから、余所見をしていたら、見失ってしまうではないか。
 そう言いたかった日向だけれど、影山の答えは違っていた。
「俺は、セッターだぞ。アタッカーがどこにいるか、敵チームのブロッカーがどう動くか、リベロがどこにいるか。そういうの、ちゃんと見とかねーとダメだろ」
 試合を左右するのはボールの位置だけれど、それを動かすのは他ならぬプレイヤーだ。
 自分ひとりが動いているのではない。
 ひとりで戦っているわけではない。
「ああ、そっか」
 セッターの上げるトスは、試合を大きく左右する。
 人の位置、ボールの流れ、敵チームの動向を把握した上で、相手の予想を大きく超えるプレイをしなければ、勝利は掴めない。
 言われてみればその通りだと、日向はすんなり納得した。それと同時に、自分には無理だと諦めて、溜息を吐いた。
「やっぱセッターって、むつかしそ~」
「テメーだって、ちゃんと周り見とかねーと、今日みたいな事、またやらかすぞ」
 コートは広いようで、狭い。そんな中を六人が、縦横無尽に駆け回るのだ。
 特に日向は、囮役というのもあって、運動量は他のプレイヤーよりも遥かに多い。しっかり自陣の仲間の位置を把握しておかなければ、正面衝突を引き起こしかねなかった。
 これまでにも何度か、ひやりとするシーンはあった。幸い、避ける側が上手かったので事なきを得て来たけれど、今回は相手が悪かった。
 いくらなんでも、壁は自由に動けない。
 改めて反省するよう諭されて、小柄なミドルブロッカーはぶすっと頬を膨らませた。
「でも、さー。しょうがねーじゃん」
「気持ちは分かっけどな。だからって、毎回青痣作るわけにいかねーだろ」
 集中しすぎて視野が狭くなるのは、日向だけの特性ではない。影山も過去に覚えがあって、痛い失敗は数え上げたらきりがなかった。
 その最たるものが、中学最後の大会での決勝戦だろう。
 当時はセッターとして見なければいけないあらゆるものを、悉く視界から追い出していた。
 気付けたのは、日向のお陰だ。
 それ故に、彼にまで同じ轍を踏ませたくなかった。
「ぐぬぬ……」
 正論を吐かれた日向は唸り、悔しそうに拳を作った。後ろから肩を一発殴られて、影山は痛みを堪えて眉を顰めた。
「暴れんな。落ちっぞ」
「影山は、絶対、落とさないだろ」
「…………」
 暴力が繰り返されるのは許し難いし、避けたかった。だから警告のつもりで言い放てば、日向は平然と言い返し、ふんっ、と鼻息を荒くした。
 何を根拠に、と思うものの、実際その通りだから言い返せなかった。
 たとえば今、この瞬間に校舎にトラックが突っ込んできたとしても、影山は絶対日向を置いて逃げたりしない。そういう密やかな覚悟を見抜かれて、彼は背中で踏ん反り返っているチームメイトに苦虫を噛み潰したような顔をした。
 問題なのは、日向が自身の放った台詞の意味を、深く考えていない事だった。
 殺し文句も良いところなのに、当人にその自覚がない。厄介極まりないと嘆息して、影山は力なく首を振った。
「影山?」
「たまに、だけど。すっげー集中してる時、俺、なんでか、空の上からコート見下ろしてる気分になる」
「はえ?」
 それは数えるほどしか経験していない出来事。
 まるで鳥にでもなったかのように上空に浮かんで、そこから試合を眺めている錯覚を抱かされた。
 チームメイトの位置、敵チームメンバーの位置。ボールの動きさえもが、手に取るように分かってしまった。
 振り向かなくてもレシーブがどこで上がって、どんな軌道でボールが落ちてくるかが想像出来た。
 声援は聞こえたけれど、まるで気にならなかった。心臓の音だけが異様に五月蠅くて、あらゆる動きがスローモーションに感じられた。
 あの感覚を、言葉で説明するのは難しい。
 日向も頭の上に疑問符を並べ立て、何故か影山の額に手を押し当てた。
「熱なんてねーぞ」
「熱がなかったら、死んでんだろ」
「そういう意味じゃねーし」
 頭が可笑しくなったと疑われて、あまり良い気がしなかった。茶化されたのを真面目に言い返して、彼は本校舎に続く渡り廊下に降りた。
 低い段差を跨ぎ、着地と同時に肩を落とす。ため息を吐かれた日向はむすっと口を尖らせ、影山の額に添えていた手を下ろした。
「……っ」
 耳の後ろの髪を掻き上げ、首のラインをなぞりながら肩まで滑らせる。気まぐれな仕草は不意打ちに等しく、ぞわっと来た影山は瞬間、大きく身震いして日向を驚かせた。
「わわっ」
 仰け反られ、もう少しで落ちるところだった。悲鳴を上げて、日向は影山の首に抱きついた。
 下半身は影山の腕が固定してくれているけれど、それより上に支えはない。自分で捕まっておかないと、またもや頭から床に落下だった。
 二度目の転落は避けたかった。体育館での恐怖を思い出して、彼はぎゅうぎゅうに目を閉じた。
 細かく震えて恐怖をやり過ごして、はっと我に返ったのは、影山が静かに歩き出した所為だった。
 保健室へは、あと少しだった。頭上を流れる音楽は時折大きく乱れ、激しく波打っては唐突に途切れた。
 怒号までは聞こえてこないけれど、吹奏楽部の面々も必死に練習をしているのだろう。そんな頑張り屋の皆の顔を見ようともせず、自分だけが努力しているような顔をするのは、今日で終わりにしたかった。
「影山、おれ、自分で歩ける」
「黙ってろ」
 視野は広く、多角的に。
 誰よりも一点だけを見ている男に教えられたのが、少し悔しい。
 もう大丈夫だと突っぱねてみるが、影山は耳を貸そうとしなかった。
 後ろに倒れない程度に背筋を伸ばし、彼に巻きつけていた腕を解く。肩を緩く握って遠くを見て、ゆっくり視線を手前に戻していけば、眼前の男の頸部が、ほんのり紅色付いているのが見て取れた。
「でっかい背中だよなあ」
「あ?」
 肩幅が広く、澤村には負けるものの、背中はどっしりとして大きい。
 見ているだけで安心感を抱かされ、その逞しさが羨ましく、時折妬ましかった。
 体格差だけは、どうしようもない。劣等感を隠してぼそりと言えば、聞こえた影山が反応した。
「別に。影山、重くね?」
「こんくらい、屁でもねーよ」
「でも、なんかお前、赤いし」
 もっとも、ちゃんと音が拾えたわけでないようだ。何かを呟かれた、とだけ把握した彼の態度に、日向は産毛が残る首の付け根を小突いた。
「っ!」
 瞬間、彼はまたもや大袈裟に反応し、日向を担いだまま縦に伸びあがった。
 天井に頭が激突する幻を見た。
 咄嗟に首を竦めて小さくなって、彼は過敏過ぎる男に眉を顰めた。
「影山、だいじょぶか?」
「るっせ。……いいから、大人しくしてろ」
「耳まで真っ赤なんですけど」
「誰の所為だと思ってんだ」
「――おれ?」
 心配そうに問いかければ、最終的に黙られた。否定も肯定もされなくて、日向は目をぱちくりさせると、五秒してから嗚呼、と頷いた。
 じわじわろ迫り上がってくる恥ずかしさは、無自覚で色々ちょっかいを仕掛けていた事に対する、己の不用意さが原因だった。
「……ごめん」
「だから、黙れって」
 深く気にすることなく、深い意図のないまま触っていた。
 それを影山がどう感じているかについて、まるで気に留めていなかった。
 穴があったら入りたかった。ただでさえ心配をさせて、余計な気遣いを強いていたというのに、これでは合わせる顔がないではないか。
 恥じ入っている日向を気配で探って、影山は何度目か知れないため息をついた。
「なんか、馬鹿らしくなってきた」
「ええ?」
「ボールばっか見てんじゃねーよって、言ってやりたかったのによ」
「っ!」
 愚痴も不満もあったのに、全部どうでも良くなって来た。嘯けば日向が甲高い声を発して、直後に人の肩に突っ伏した。
 今頃彼は、どんな顔をしているだろう。
 見られないのが残念だと天を仰ぎ、影山は頭上に掲示された札に目を眇めた。
「着いたけど、どうする」
「……あと一周、お願いします」
 保健室のドアまで、あと一メートル。
 扉を開けるか否かを問えば、ぼそぼそと返された。
 こんな赤い顔を、人に見せられるわけがない――とでも思っているのだろう。
 耳まで茹蛸になっている背後の日向を想像して、影山はざまあみろ、と舌を出した。

2015/2/24 脱稿