麹塵

 どうしてこんなにも違うのだろうと、朝、彼を見る度に日向は思った。
「翔陽、寝癖ひでーぞ」
「さては、また目覚ましで飛び起きたな」
「あっ、おはようございます。そんなこと、ありませんから」
 惚けて立っていたら、西谷と田中に笑われた。頭を下げて挨拶をした日向はぶすっと頬を膨らませ、慌てて学校指定の駐輪場に二輪車を停めに行った。
 所定の場所に愛車を収め、急ぎ足で正門に駆け込む。薄情な上級生の背中はすっかり遠くなり、かなり小さくなっていた。
 その遥か前方にはもうひとつ、黒い背中が見受けられた。
 烏野高校男子排球部のジャージを着て、白いエナメルバッグを肩から斜めに提げている。足取りは軽やかでリズムよく、朝から調子が良いのが窺えた。
 今から走っても、追い付く前に相手が先にゴールしてしまう。
 正門前から部室棟までの距離を考えて、日向は悔しげに唇を噛んだ。
「おはよー、日向。早いねえ」
「早くないです!」
「えっ」
 そうしているうちに、朝練に参加する他のメンバーも脇を通り抜けていく。
 欠伸をかみ殺しつつ話しかけて来た東峰に咄嗟に怒鳴り返してしまって、相手が三年生だと思い出した彼は一瞬にして青くなった。
「す、すみません。旭さん、おはようございます」
「あ……ああ。おはよう。大丈夫?」
 大急ぎで腰を九十度に曲げ、謝罪と朝の挨拶を並べ立てる。東峰も一瞬呆気にとられたものの、すぐに我に返って心配そうに覗き込んできた。
 大柄で、長髪で、髭面。
 制服を着ていても高校生には見えない上級生に見詰められて、中学生にも間違えられる一年生は深く頷いた。
「はい、大丈夫です。おれ、元気です」
 微妙に会話が噛み合っていないが、本人らはあまり気にしていなかった。東峰は「そうか」と緩慢に頷いて、腕に巻いた時計を一瞥した。
 朝練開始まで、あと十分ほど。
 遅刻ではないけれど、決して早い到着とは言えないタイミングだった。
「行こうか。遅れると、また大地が恐いし」
「誰が恐いって~?」
「ヒィィィィイ!」
 見た目は厳めしく、勇猛そうな彼だが、その実かなり小心者。
 そんなすぐに臆病風に吹かれるネガティブ思考の肩をポンと叩いた男の登場に、野太い悲鳴は天高く昇って行った。
「キャプテン、おはようございます」
「うん、おはよう。日向」
 顔面蒼白になって硬直しているエースを余所に、いつの間にか背後に現れた澤村はにっこり目を細めた。隣で東峰が脂汗をだらだら流しているのも無視して、毒気のない爽やかさを演出してみせた。
 それが余計に恐ろしくて、日向も内心肝を冷やした。
 彼だけは、怒らせてはいけない。
 排球部を取り仕切る主将は温厚で優しい人物だが、キレると誰よりも迫力がある、とても怖い人だった。
 勝手をして彼の逆鱗に触れて、日向はバレーボール部への入部を却下されたことがあった。あの時見下ろされた恐怖は他に喩えようがなく、今でも軽いトラウマだった。
 もっとも彼が怒るのには、ちゃんと理由があった。
 どこかの誰かのように、理不尽に怒鳴りつけたりはしない。その辺は流石上級生だと苦笑して、日向は肩に担いだ鞄を揺らした。
 先に部室に向かうべきか、一緒にゆっくり歩いて行くか。
 一瞬悩んで目を泳がせた彼を察して、澤村はまだ凍り付いているエースの脇腹を肘で小突いた。
 そして、ひと言。
「日向、先行って、その頭、どうにかして来た方が良いぞ」
「……う」
 さらりと忠告されて、最強の囮は喉に息を詰まらせた。
 二年生にもからかわれたのを思い出して、咄嗟に両手で頭を庇う。掌に押された髪の毛は途端に凹み、頭の形に寄り添った。
 跳ねていた毛先は根元から沈み、指の隙間から先端だけが顔を出した。淡いオレンジ色の茶髪は陽の光を浴びて、黄金色にキラキラ輝いていた。
 昨晩、よく乾かさないまま布団にもぐりこんだのがいけなかった。
 朝になってみたら、爆発に巻き込まれたかと言わんばかりの状態だった。
 しかし櫛を通し、整えている余裕はなかった。日向だって、自分の頭が常識を超えて酷い有様なのは自覚していた。
 母にまで笑われたのだから、相当だ。髪は重力を無視してあらゆる方向を向き、跳ね、うねり、その形状はさながらウニか何かだった。
 海産物に喩えられてしまうほどの状態を、彼自身だって、良いとは思っていない。
 だが時間がなかったのだ。切羽詰まった状況で、日向は身なりを整えるよりも部活に参加する道を選んだ。
 その姿勢は、評価に値する。
 けれど矢張り、外見もそれなりに大事だ。
「水で濡らすだけでも、違うと思うし。な」
「分かりました……」
 そんな髪型で練習に参加されたら、目に入る度に笑ってしまいそうだ。
 そういう理由は胸の中に収めた澤村の助言に、一年生は唇を尖らせ、渋々頷いた。
 ともあれ、先に行って良いという了解は得られた。
 日向はもう一度上級生に会釈をすると、くるりと踵を返して駆けだした。
 白い布鞄を腰で弾ませ、通い慣れた道を全力で走っていく。言われた通り髪を濡らそうと、部室に行く前に寄ったのは、第二体育館の外に設置された水道だった。
 練習中、暑さに負けて良く水浴びをする場所だ。
 蛇口を全開にして、その真下に頭を潜らせるのだ。良く冷えた水が火照った身体を冷やしてくれて、それが気持ち良くて堪らなかった。
 けれど今日は、あまり楽しくない。徐々に速度を緩めて足を止めて、彼はまだ静かな体育館を仰いだ。
 部室はその向かいにあって、ドアを開けて中に入る田中の後ろ姿が見えた。
「ちぇ」
 日向だって好き好んでこんな癖が付き易い、ぼさぼさ頭に生まれたのではない。手間がかかって仕方がないと、彼は目に入りそうな前髪を抓んで引っ張った。
 手入れが行き届いていないから、髪が荒れて余計に爆発するのだとは考えない。生まれつきのサラサラストレートヘアの持ち主がただひたすら羨ましく、妬ましくて仕方がなかった。
 たとえば今朝、正門前で見かけた男のような。
「なにやってんだ、お前」
「うひゃあ!」
 コンクリート製の水場に手を置き、銀色の蛇口を睨みつける。そんな最中に不意に話しかけられて、完全に油断していた日向は心臓が飛び出しそうになった。
 口から出かかった声以外のものを慌てて飲み込んで、一気に跳ね上がった心拍数に脂汗をだらだら流す。
 少し前の東峰を真似たわけではないが、頬を引き攣らせて、青くなった少年は恐る恐る振り返った。
「なんだ?」
 怯えながら見つめられて、影山は怪訝な顔で首を傾げた。
 まさか彼のことを考えていたとは、口が裂けても言えそうにない。日向は乱れに乱れる鼓動を懸命に押し留め、必死に平静を装って口角を持ち上げた。
「よ、……よぉ」
「おう」
 しかしどう頑張ったところで、笑顔は不自然にしかならない。
 ただ影山は深く気にする様子なく、いつも通りの愛想の無さだった。
 ぶっきらぼうに返されて、日向は内心、ホッとした。肩の力を抜いて強張っていた表情を緩め、不思議そうに佇んでいるチームメイトにゆるゆる首を振る。
「今日は、おれの負けでいい」
「当然だろ」
「うわあ、なんかムカツク」
 ふたりは毎朝、正門から部室棟までの到着時間を競い合う関係だった。
 いつから、どうしてそうなったかも判然としない。ただ気が付いたら、それが習慣になっていた。
 スタートの合図はなく、お互いの姿が見えたら開始、がルールだ。戦績はほぼ五分で、影山が僅かにリードしている状態だった。
 今日でまたひとつ、差が広がった。
 明日は絶対寝坊しないと心に誓って、日向は偉そうに胸を張る男に地団太を踏んだ。
「言ってろ」
 遅れて来たのは日向なのだから、これは勝負云々以前の問題だ。
 負けて当然だと寝癖が酷いチームメイトを嘲り笑い、影山はおもむろに手を伸ばした。
「うっ」
「しっかし、ひでーな、これ」
「う、うるひゃい。触んな」
 アイアンクローを喰らっている記憶が脳裏を過ぎり、反射的に首を竦めて身構えてしまう。
 だが影山は鷲掴みにはせず、広げた手をぽすん、と頭に置いただけだった。
 そのままわしゃわしゃと掻き回されて、述べられた感想は澤村のものと大差なかった。
 これから水で濡らして、手櫛で整えようと思っていたのだ。それなのに触れられて、ただでさえ酷かったものが益々酷くなってしまった。
 止めろと言っても、影山が聞いてくれるわけがない。彼は嫌がっているのを承知しながら、面白がって更に力を込めて来た。
 挙句、左手に持っていたシューズまで水場の端に置いた。そうやって空になった手も使って、日向が逃げられないよう左右から挟み込んだ。
「やめろって、の」
「いいじゃねーか、減るモンじゃなし」
 最初は力加減も緩かったので耐えられたが、段々と痛みが増して来た。
 伸び放題の髪が先端で絡んでいたところを、強引に引き千切られた。色素の薄い毛が数本宙を舞って、チリチリ来る痛みが頭皮に襲い掛かった。
「減る。絶対減ってる。ハゲたらどうしてくれんだよ」
 このままだと、髪を毟り取られかねない。
 十円玉サイズのハゲが出来た自分を想像して、日向は声高に吠えて抗った。
 練習着の影山の胸を、力任せに押し返す。だが彼も簡単には許さず、孫悟空の金冠宜しく、日向の頭をぎゅうぎゅうに締め上げた。
「いたいっ!」
「おっと」
 アイアンクローは片手だが、これは両手だ。
 頭蓋骨を押し潰す痛みはいつもの比ではなくて、本気で頭が破裂しそうだった。
 自然と涙が浮かび、鼻が詰まってぐずぐず音を立てた。奥歯を噛み締めすぎた所為で顎が軋み、喉は火傷したように熱かった。
 影山は悲鳴にすぐに反応し、ぱっと手を離した。
 それでも、すぐに痛みは消えない。彼が掴んでいた通りに凹んだ頭を抱きかかえて、日向は涙目で鼻を愚図らせた。
 顔のパーツを真ん中に集めて睨みつけてくるチームメイトに、影山も自分の軽率さに気付いたらしい。
 表情に後悔を滲ませて、視線は左へと流れた。
「わ、悪い……」
「影山の、ボケェ!」
「あっれー。王様が家臣泣かせてるよー」
「うるっせえぞ、月島!」
 しどろもどろに謝罪したところに、日向の怒号が響き渡った。更に通りがかった月島が嘲笑を過分に含んだコメントを残して、青くなっていた天才セッターは瞬時にヤカンを沸騰させた。
 ぷんすかと煙を噴き、直後にまたおろおろし始める。日向はその間、キリキリ痛む頭を支えて歯を食い縛っていた。
 喉の奥で唸り声を響かせて、横暴が過ぎるチームメイトを眼差しだけで詰り、叱責する。強い眼光を浴びせられた青年は口籠って、困った様子で首の後ろを掻いた。
「だから、悪かったって……」
「影山の、ボケ」
「やりすぎた。俺が悪かった。機嫌直せ」
「ボケ」
 調子に乗って、加減を忘れていた。そこはしっかり反省して、彼は謝罪を受け入れようとしない日向に繰り返した。
 視線は絡まない。影山は上下左右を何度も眺めた後、最後に深く息を吐いて肩を落とした。
「許せ」
 そうして相変わらずの命令口調で、ぽすん、と大きな右手を日向の頭に落とした。
 触れられた瞬間は警戒した日向だが、太い指は待っても動き出さなかった。
 竦めていた首を伸ばし、怪訝に相手を見つめ返す。真ん丸い目を大きく見開いていたら、横目で窺って来た影山が言い難そうに口をもごもごさせた。
「なんていうか、だから、その……」
「影山?」
「別に、俺はお前が、どういう髪型してたって――……いや、お前は、結局お前なんだし」
「うん?」
 途中で言いかけた言葉を呑みこみ、軌道修正してから吐き出す。
 前後が微妙に繋がっていない台詞に眉を顰め、日向は彼の手を頭に乗せたまま、首を右に傾がせた。
 黒水晶の瞳が、高い位置からじっとこちらを窺っていた。
 未だ泳ぎがちの双眸が、なにかを期待して日向を映し出す。けれど彼が何を欲しているのかが分からなくて、小さなミドルブロッカーは眉間の皺を深くした。
 仄かに紅を帯びた頬をして、影山が息を飲む。緊張しているのが感じ取れて、日向は益々表情を険しくした。
 微風が吹き、ふたりの間を通り過ぎて行く。
 さらさらと流れるのは影山の、艶を帯びた黒髪だけだった。
 願わくば、あんな髪質で生まれて来たかった。
 妹の夏も、兄同様の剛毛だ。どうやら父親からの遺伝らしく、毎日櫛を入れて髪を解かす度に、彼女はぶちぶち愚痴を言っていた。
 可愛い髪型にしたくても、母の力量では難しい。最近子供に人気の三つ編みも、日向家の髪質では実現不可能だった。
 影山のような髪の毛だったなら、こんな苦労はしなくて済むだろうに。
 羨ましいし、妬ましい。
 毎朝鏡の前で、派手に爆発した自分の頭を見るのがどれだけ虚しいか。彼はきっと、知らないのだ。
「隙あり!」
「ぬあっ」
 そこまで考えたところで、身体が勝手に動いていた。
 影山の手を振り払い、垂直に飛び上がる。不意を突かれた影山が驚くのに気をよくして、まっすぐ伸ばした腕で彼の黒髪を掻き回す。
 そう長い時間は無理だった。
 一瞬触れただけに等しいが、ジャンプした分、勢いに乗っていた。加減するなど無理な相談で、力技でぐしゃぐしゃっ、と強引に撫で回すだけで精一杯だった。
 もっともそれが功を奏して、影山の頭はあっという間に爆発した。
 日向ほどではないけれど、下を向いていたものが上を向き、左にあったものが右に流れた。強風が彼にだけ吹き付けた後のような有様で、影山自身、何をされたのか分かっていない顔をしていた。
 ぽかんと惚けた眼で見つめられて、日向は我慢出来ずに噴き出した。
「ぶっひゃ!」
 面白い。
 今の彼は、その表情も相俟って、史上稀に見る滑稽さだった。
 こんな間抜けな影山は、見たことがない。
 腹を抱えて笑い転げたいのを我慢して、日向はケタケタ声を響かせた。
 一方で影山はしばらく呆然とした後、笑い過ぎて噎せていたチームメイトに肩を竦めた。
「なにがしてぇんだ、テメーは」
「いって」
 軽く脛を蹴られ、吐き捨てられた。長くてしなやかな左手は空を撫で、黒髪の上に着地した。
 たった数回、それも雑に手櫛で梳いただけで、影山の髪は綺麗な形を取り戻した。さらりと風に靡かせて、自慢するかのように美しい艶を見せつけた。
 彼だって日向と同じように、碌に乾かしもせずに眠っている筈なのに。
 体質の差だと言われればそれまでだが、ここまで差が出るのは納得がいかないし、理解し難かった。
「ンだよ、この野郎」
 腹を立て、蹴り返す。しかし影山は軽々と躱して、日向の爪先は微風を起こしただけだった。
 砂埃すら巻き上がらない一撃に下唇を噛んで、彼は不遜な態度の王様に小鼻を膨らませた。
「なんで、お前ばっかり」
「なに言ってんだ?」
「うっさい。お前なんか、寝癖まみれになっちまえ」
「なってんぞ、いつも」
「嘘だあ!」
 ひとり憤って吼えるが、影山は乗ってこなかった。淡々と切り替えされて、到底信じ難い言葉に、日向の声は益々高くなった。
 ただでさえ高校生離れした高音なのに、それがもっと高くなった。
 至近距離で聞くと耳にキーンと来るボーイソプラノに眉を顰め、影山は依然として頭が爆発状態のチームメイトに嘆息した。
 寝癖など、毎日作っている。頭を乾かしきる前に力尽きてしまって、毎朝鏡の前で絶句しているのは本当だ。
 ただ癖が長持ちしないのも本当で、ちょっと水で濡らせば簡単に元に戻った。
 日向のように、一日中朝の状態が維持されることはない。頑丈な寝癖も、昼を過ぎる頃には消え失せるのが常だった。
 それを不公平と言われても、影山にはどうすることも出来ない。生まれ持っての体質は、他人に分け与えてやれるものではないのだから。
 日向だって、それは重々承知の上だろう。
 それでも尚、悔しさが募るものだから、言わずにいられないだけで。
 ただの八つ当たりだ。責められるいわれはなく、影山は盛大に溜息を吐いた。
「それより、いいのか。練習、始まんぞ」
「げっ」
 第二体育館は目の前だが、影山と日向とでは決定的に違うところがあった。
 大量の荷物を持っているか、どうか。
 練習着に袖を通し、いつでもボールを追いかけられる準備が整っているか、否か。
 先に部室に到着していた影山は、勿論準備万端だった。対する日向はといえば、未だ肩に鞄を担ぎ、頭は寝て起きた時そのままのスタイルだった。
 顔さえ洗っていないのではないか、と危惧したくなる彼に呆れ、影山は親指で、肩越しに後方を指差した。
 澤村や東峰も、とっくに横を通り過ぎていた。先ほど部室に向かった月島も、あと数分としないうちにドアから出てくるだろう。
 どれだけ早く学校に到着していても、練習開始時間に間に合わなければ遅刻と同じ。
 現実を思い出すように囁かれて、日向はすっかり忘れていたと口をパクパクさせた。
「く、くっそ。もー、こうしてやる!」
「つっ、べて」
 そしてヤケクソで吼えると、そこにあった蛇口を思い切り捻った。
 勢いよく吐き出された水が、固いコンクリートに当たって砕けた。飛沫を浴びた影山は慌てて後ろに下がって、激流に頭から突っ込んで行った日向に唖然となった。
「おいおい……」
「ぶはー!」
 日増しに暖かくなってきているとはいえ、カレンダーはまだ五月だ。こんな朝早い時間から、屋外で水浴びをするような季節ではなかった。
 だというのに、何を考えているのか。
 思い込んだら一直線すぎる馬鹿に絶句して、影山は水浸しになったチームメイトに肩を竦めた。
「ちべてえ」
「当たり前だ、ボケ」
 薄茶色の髪からは大粒の雫が次々零れ落ち、乾いた地面さえ濡らしていた。重くなった毛先は一斉に下を向いて、垂れ下がった髪から覗く青白い顔は、ある意味ホラーだった。
 ぼそりと呟いて蛇口を締めた日向には、呆れるより他にない。
 最早笑い飛ばすのも難しいと嘆息して、影山は首にぶら下げていたタオルを引き抜いた。
「おら。風邪ひくぞ」
 少し湿らす程度でよかったのに、こんなにもびしょ濡れになるなど、どうかしている。
 放っておけば水滴は服にも染み込んで、彼から体温を奪うだろう。
 そんな事で熱を出され、体調を崩されたらたまらない。
 大会はもうじきだ。練習を休んでいる暇はない。特に日向は攻撃面はまだしも、守備面ではかなり不安があった。
 それは本人も痛いくらい理解している。頭に被せられたタオルを受け取って、少年は膨れ面で顔を上げた。
「……あんがと」
 それでも一応有難いと思っているのか、不満顔ながら礼を言われた。
 そのギャップが存外面白くて、影山はクッ、と喉を鳴らし、湿り始めたタオルの上から彼を撫でた。
 あのふわふわ具合が良かったのに、濡れた所為でぺしゃんこだ。
 早く乾けばいいと密かに念じて、影山は惚けて立つチームメイトの肩を押した。
「急げよ」
「うおっと。そうだった」
 またしても、その件を忘れていた。
 目の前の事に気を取られ、すぐ頭から抜け落ちてしまうのはどうにかしたい。言われて思い出して、日向はほっかむりのように被ったタオルを引っ張った。
 人の持ち物だと思って、伸びるのもお構いなしだ。影山は僅かにムッとして、頭の丸さが際立つ白いタオルにチョップをお見舞いした。
「だから、急げつってんだろ」
「わーってるって。そんなぼかすか殴んな」
 これ以上背が縮んだら、どうしてくれるのか。
 小鼻を膨らませて抗議の声を上げた日向に、影山は不遜に口角を持ち上げ、シューズが入った袋を引き寄せた。
 滅多に見られない自然な笑顔に目を奪われ、呆気にとられて言葉が出ない。立ち尽くす日向を置いて影山は身体を反転させて、とっくに鍵が外され、開いていた体育館入口を目指した。
 日向は濡れて重くなったタオルを揺らし、遠ざかる背中に目を瞬いた。
「寝癖」
 良くよく注意して見てみれば、彼の後頭部は一部、ぴょこん、と外向きに跳ねていた。
 後れ毛の少し上、正面から見たら分からない場所。艶やかな黒髪がひと房だけ反り返り、彼の歩みに合わせてぶらぶら揺れていた。
 まるで犬の尻尾だ。リズミカルな動きに魅入られて、日向はあれだけ言われていたのに、その場から離れられなかった。
「やべ。かわいい」
 影山だって、寝癖くらい出来る。
 そして彼が手直しするのは、鏡に映っている正面ばかり。
 その跳ね方といい、動き方といい、王様らしからぬ愛らしさだった。あまりの不一致ぶりが面白くて、妙に心擽られた。
 咄嗟に呟いてから口を塞いで、日向は目を泳がせた。誰にも聞かれなかったのを確認して、彼は急ぎ、部室を目指した。
 髪はまだ濡れていたが、二の次だった。一刻も早く荷物を置いて、体育館に駆け込みたかった。
 影山の寝癖の寿命は、昼頃まで。
「触ったら、怒るかな」
 あのぴょこぴょこ踊っている髪を撫でて、抓んで、弄ってみたかった。
 彼はいったい、どんな顔をするだろう。
 想像して笑みを零し、日向は三段飛ばしで階段を駆けた。

2015/2/19 脱稿