藍白

 寒い日だった。
「ぶうぇっくしゅ!」
 冷気が肌を刺し、鼻から入り込んだ寒風が容赦なく粘膜を攻撃した。内臓にまで響く悪寒に身震いして、飛び出たくしゃみは強烈なものだった。
 辺り一帯にこだまする大声に、恥を感じる余裕もなかった。
「ぶぇぇ……」
 呻き、ぶるりと肩を震わせる。無意識に自分自身を抱きしめて、日向は極寒の地に生まれたことを後悔した。
 もっとも、世界を探せばもっと寒い地域はある。これしきで音を上げていたら、北海道や、遠いロシアなどで暮らす人々に申し訳ない。
 テレビで見る北国の、最高気温ですらマイナスが記録される光景を脳裏に描き、彼は奥歯を噛み鳴らした。
 歯の根が合わず、カチカチ五月蠅い。悪寒はまだ立ち去らず、たっぷり着込んで丸くなった身体を揺らし続けた。
 摩擦で温まろうとして、腕をさすったり、貧乏揺すり宜しくもぞもぞ身じろいだり。
 それでもちっとも暖かくならないのに焦れて、日向は渋い顔をした。
「ふふっ」
 それを隣で見ていた男が、堪え切れなくなったのか、小さく噴き出した。
「ム」
 声は日向の耳にも届き、彼は瞬時にムッとした。
 もっとも膨らんだ頬は真っ赤で、まるで餅のようで可愛らしい。鼻の頭も朱に染まり、照れているのか、寒いだけなのか、境界線は曖昧だった。
 そんな愛くるしい後輩を眺め、菅原は口元にやっていた手を横に振った。
「ごめん、ごめん」
 笑ってしまったのを素直に詫びて、機嫌を直してくれるよう取り繕う。
 顔の前で右手を縦に構えた彼の謝罪に、日向は窄めた口から息を吐いた。
「もう」
 フグと化していた顔を凹ませ、逆立てていた棘も引っ込める。ただ不満が全て解消されたわけではなく、表情は依然、拗ねたままだった。
 不貞腐れている後輩を横から眺め、菅原は肩を竦めて苦笑した。
「鼻、垂れてんぞ」
「えっ」
 首に巻いた赤色のマフラーに顎を埋め、呆れ口調で囁かれた。思ってもいなかった日向は驚き、言われてみれば、と微妙に濡れている感じがする鼻の下を撫でた。
 普段なら思い切り息を吸って、啜り上げるところなのだけれど、氷点下に迫る気温でそれは難しい。
 タオルで拭おうかどうかで躊躇していたら、見かねた菅原が先に鞄を漁り出した。
「日向、こっち向いて」
「ふぁい」
 促され、逆らう道理はないので従う。
 彼が手にしていたのは、携帯サイズのティッシュペーパーだった。
 駅前で配っていたものだろうか、チラシらしきものが挟まっていた。その透明なビニールの封を破って、菅原は一枚取り出し、利き手に構えた。
 無料で、しかも大量に配られるものだから、紙の材質はそれほど良くない。ざらざらしているし、固いので、あまり使い心地が良くないのは日向も承知していた。
 けれど、贅沢は言っていられない。折角の好意だからと我慢して、彼は鼻の頭を軽く抓まれ、目を閉じた。
「はい、チーン」
「ぶしゅっ」
 菅原の台詞が、なんだかおかしい。
 聞こえた瞬間噴き出しそうになったのと、くしゃみが重なって、鼻から吐くべき息は口からも大量に漏れてしまった。
 タイミングが良くなかった。菅原の手に唾を飛ばしてしまったと後から気付き、日向はひりひりする鼻をそのままに、先輩に頭を下げた。
「すっ、すみません」
 親切にしてくれた相手に、なんという罰当たりなことをしたのか。
 驚き、慌て、青くなって謝り倒す日向に、菅原はしかし、呵々と笑うだけだった。
「いーべ、いーべ。気にすんな」
「でも」
「こんなの、拭けば終わりだしな」
 怒りもせずに受け流し、もう一枚出したティッシュペーパーで掌や甲を拭っていく。尚も言いつのろうとする日向を制して、人好きのする笑みを浮かべて終わりにする。
 爽やか過ぎる対応を見せられて、感動した日向はぶわっ、と身体を震わせた。
「菅原さん」
「俺も、変な事言ったしな」
 さっきまであんなに寒かったのに、急に温かくなった。
 精神面でこんなにも違うのかと感嘆する彼を余所に、菅原は三枚目の紙で濡れている二枚を包み込んだ。
 彼が何かを語る度に、白い煙が辺りに散った。
 風が吹けば呆気なく霧散する呼気を追いかけ、日向は暗く濁った空を仰いだ。
「降りそう」
「そうだな」
 分厚い雲が隙間なく敷き詰められて、今にも落ちて来そうな雰囲気だった。
 上空は更に風が強いのか、流れは速い。天気予報では降雪の情報も出ており、降り出しはもう間もなく、と思われた。
 菅原も否定しなかった。ふたりで同じものを眺めて、彼が先に視線を外した。
 きょろきょろ辺りを見回す上級生に、日向は小首を傾げ、突然駆け出されて驚いた。
「菅原さん?」
「んー?」
 急にどうしたのかと声を荒らげれば、ゴミ箱に駆け寄った彼が呑気に振り返った。
 用済みとなったちり紙を処分していたのだと、今になって気付かされた。
 あんなものを、ずっと握らせておくつもりだったのか。自分の恥知らずぶりに、日向は赤くなった。
 耳の先どころか裏側まで朱色に染めて、少年は走って戻って来た菅原の背中に隠れた。
「おいおい。どうした?」
「なんでもありません。ありがとう、ございます」
「うん?」
 ひとり恥じ入り、照れて俯く。
 菅原は怪訝にしつつも追及せず、日向の気が済むまで放っておいてくれた。
 彼の背中ではリュックサックが幅を利かせて、頑丈な壁を形成していた。
 中身は硬い。底辺は歪な形を成して膨らんでおり、収められているものの重さや、形を、日向に教えてくれた。
 使い込まれた辞書、付箋だらけの参考書、あれこれ書きこまれたノート。
 正月、部のみんなで一緒に詣でた神社で買った鉛筆は、かなり短くなっていた。
 四角い机の上に広げられた一式を思い浮かべ、日向は口を噤んだ。恐る恐るリュックサックの表面を撫でて、角の出っ張っている部分を緩く掴んだ。
 軽く引っ張られ、菅原は首を捻って振り返った。
「日向?」
「いえ……」
 名前を呼ばれても、何も答えられない。胸に渦巻く感情は複雑な形状を成しており、正しく表現するのは、語彙が少ない日向には難しかった。
 鈍い反応に眉を顰めて、菅原は前に向き直った。
 コートの袖を捲って時計を確認し、右に聳え立つ灰色の建物を一瞥する。どの窓にも光が灯って、外壁を照らす照明も明るかった。
 街灯はオレンジ色の光を放ち、陽が暮れた後の路上を照らしていた。
「バス、もうじきだから」
「はい」
 会話に苦慮し、当たり障りのない台詞で茶を濁す。しかし日向は相変わらずで、返事は簡素で、感情が籠っていなかった。
 淡々と返されて、菅原は目を瞑り、鼻から息を吐いた。
 緩みかけていたマフラーを直し、手袋をしていない両手はコートのポケットへ。
 先ほど使ったポケットティッシュは、もう出番はないだろうからと、濡れてしまった分と一緒に捨ててしまった。
 勿体ないとは思わなかった。
 あれは冬休みの短期講習で、予備校に通っている間に大量に増えたもののひとつだ。
 つい手を伸ばしてしまうのは、貧乏性の証か。無視して素通りしていたクラスメイトの淡泊さを思い返し、菅原は自嘲気味に笑った。
 こうして役に立ったのだから、貧乏性も悪くない。目尻を下げて気持ちを切り替えて、彼は黙っている後輩の爪先を、踵で叩いた。
 彼らの周囲には、ふたりと同じようにバスを待つ人が、ちらほらと集まり始めていた。
「期末、頑張れよ」
「はい」
「影山も来られれば良かったのにな」
「…………ですね」
「日向?」
「いえ、あの」
 停留所の先頭に立つのは菅原で、日向が後ろに並んでいる形になっていた。その後ろに若い女性が立って、高齢の男性がそれに続いた。
 他にもベンチに座っている人や、少し離れた場所で携帯電話を弄っている人もいた。年齢層はバラバラで、男女の比率はほぼ同等だった。
 少し前まで、此処に居るほぼ全員が時を過ごしていたであろう建物を眺め、日向は怪訝にする菅原に首を振った。
 左手も使って彼の鞄を掴んで、少年は出来た空間に頭を埋めた。
 遠くから微かに聞こえて来た放送は、図書館が閉館間際だと告げていた。あと三十分もすれば、窓の明かりも一斉に落とされる事だろう。
 菅原は大学受験対策、日向はかなり気の早い期末試験対策。
 排球部を引退した三年生は、四月からの進路を確定させるべく、日々勉学に励んでいた。
 残された一年生、二年生も、毎日を懸命に過ごしていた。
 けれど矢張り、物足りない。三年生の人数そのものはそれほど多くなかったのに、存在感が大きかった所為か、ぽっかり空いた穴は簡単には埋まらなかった。
 新キャプテンの縁下は頑張っているけれど、澤村ほど上手くチームをまとめられてはいなかった。攻撃力の面でも、東峰が抜けた余波は大きく、ここぞというタイミングでの決定力に欠けていた。
 新チームが結成されてかなり経つのに、未だにどこかギクシャクして、歯車が噛みあわない。
 バレーボールは楽しいものなのに、練習をしていて、時々つまらなかった。
 許されるなら、三年生に戻ってきて欲しい。
 試合が出来なくてもいい、練習だけでも良い。
 また一緒にチームを組んで、共に汗を流したかった。
「どうしたんだ?」
 贅沢な悩みだ。
 そして我儘で、身勝手な願いだった。
 居なくならないで欲しい。
 もっと傍に居たい。居て欲しい。
 ひとりでは処理し切れない薄暗い感情を胸に抱いて、日向は唇を噛み締めた。
 図書館で一緒に勉強を、と言い出したのは菅原だった。
 上手く行っていない部内の空気を感じたのか、気晴らしも兼ねて誘ってくれた。
 手のかかる一年生の面倒を、彼は良く見てくれていた。日向も、勿論影山も彼に懐いていて、断るわけがなかった。
 だが約束の場所に現れたのは、日向ひとりだけ。影山は用事があるとかで、結局来なかった。
 それを残念がっている三年生に、顔を上げられなかった。
 後悔が嵐となって押し寄せていた。
 呑みこまれ、潰されそうで、苦しくて仕方がなかった。
「すみません、菅原さん」
「え?」
 このまま胸に留めていたら、頭がおかしくなりそうだった。
 非難されると分かっていても、告解せずにはいられなかった。
 葛藤の末に、口を開く。早口に謝罪されて、菅原は唐突な展開に目を瞬かせた。
 謝られることなど、どこにあっただろう。
 不思議そうにしている上級生を盗み見て、日向は下唇に牙を立てた。
 菅原の提案を聞いたのは、日向だけだった。
 影山はその時、席を外していた。だから後で伝えておいてくれるよう、菅原に頼まれた。
 つまり影山は、日向が教えてやらなければ、今日の勉強会のことを知らないまま。
 練習も休みで、今頃はやることがない、とふて寝をしているに違いなかった。
「おれ、影山に、……言ってない、です」
「ええ?」
 消え入りそうな声での告白に、菅原は予想外だと目を丸くした。素っ頓狂な声を上げ、日向の手を振り切り、身体ごと振り返った。
 掴んでいたリュックサックがなくなって、少年は腕を下ろした。気まずそうに俯いて、爪先で路面を何度も叩いた。
 彼の後ろに居た女性が、眉を顰めて首を傾げた。マスクで鼻から下は見えないけれど、喧嘩なら余所でやれ、とでも思っているのは間違いなかった。
 他人の視線が気になって、大きな声が出せない。
 詳しく追及する事も出来なくて、菅原は困った顔で瞳を泳がせた。
 ポケットから引き抜いた手で額を覆い、麦の穂色の前髪を手櫛で掻き上げる。白い額を一瞬だけ晒して、もじもじしている後輩に溜息を零す。
「なんだって、そんな真似」
 日向は直情型で、直球タイプで、嘘が苦手で、下手だった。
 自分の感情に素直で、あれこれ悩むのが不得意だった。
 放っておいてもいずれバレると判断した、というよりは、抱え込んだままでいたくなかったのだろう。
 その馬鹿正直さに苦笑して、菅原は落ち込んでいる後輩の頭をぽん、と叩いた。
 そして。
「ていっ」
「いって!」
 驚いた日向が顔を上げるタイミングを狙い、デコピンを一発、お見舞いした。
 不意打ちだった日向は星を散らし、大袈裟に痛がった。両手で打たれた場所を庇い、鼻をずび、と啜り上げた。
 上目遣いに睨みつけても、菅原は少しも怖がらなかった。
 それどころか両手を腰に当てて、居丈高に胸を張った。
「反省した?」
 そうして優しく囁いて、日向を唖然とさせた。
 彼は両腕を下ろすと、項垂れるついでに首肯した。唇を引き結んで後悔を滲ませて、数秒遅れで「はい」と返事をした。
 蚊の鳴くような声だったが、菅原は満足したのか、鷹揚に頷いた。
「よし。じゃーあ、行くべか」
「はい――……はい?」
 この件はこれで終わり。そうキッパリ断言されて、日向は緩慢な返事の末に声をひっくり返した。
 今、おかしな台詞を聞いた。
 訳が分からなくて絶句していたら、白い歯を見せた菅原が惚ける日向の手を取った。
 手のひらを重ねて握って、ぐいっ、と乱暴に引っ張った。
「え、ええ? バスは?」
「いーから、いーから」
 折角座れるように早めに図書館を出て、寒いのを我慢して停留所で待っていたのに。
 自らその列を離れようとした彼に慌て、日向は目を白黒させた。
 後ろの人たちは、前方での騒ぎに怪訝な顔をしていた。日向の次に居た女性は迷惑そうな顔をして、舌打ちも聞こえた。
 左右を見回し、彼は意気揚々と歩き出そうとする上級生に、苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「菅原さん」
「ひと駅分、歩くべ」
 バスは定刻通りなら、あと五分ほどでやってくる。空はどんより曇り空で、近いうちに雪が降り始める筈だ。
 風は冷たく、凍えるほど。気温は下がる一方で、吐く息は真っ白だった。
 それなのに呑気に言われて、日向はぽかんとなった。
「歩く、って……」
 次の停留所がどの辺にあるのか、彼は知っているのだろうか。
 今から移動しても、これから来るバスに乗れる保証はない。むしろ間に合わない可能性の方が高い。
 そうなると帰りが遅くなり、家で勉強する時間も減ってしまう。
 それに今日は特に寒いから、長時間外にいたら身体が冷えてしまう。
 体調不良は、受験生には命取りだ。
 いったい何を考えているのか。
 頭のいい人の思考は理解不能だと、日向は鼻を愚図らせた。
「菅原さん」
「嫌か?」
「そういう問題じゃなくて」
 腹に力を込め、必死に抵抗する。菅原は訝しみ、真顔で問われた少年は口籠った。
 本音を言えば、嬉しかった。
 影山を誘わなかったのは、彼を独り占めしたかったから。
 顔を合わせる機会が減る一方だった菅原と、久しぶりにゆっくり過ごしたかったから。
 受験生が大変だというのは、よく分かっていた。日向だって一年前は受験生で、朝に、夜に、過去例集と格闘していた。
 大学受験は高校受験以上に試験範囲が広く、設問だって難しい。図書館で見せてもらった例題も、難解な記号だらけでちんぷんかんぷんだった。
 時間は、いくらあっても足りない。
 大きな大会前と同じくらいの、否、それ以上の焦燥感を抱いていても、不思議ではなかった。
 それなのに。
「嫌じゃないんだったら、問題ないだろ。行こう、日向」
 彼は朗らかに告げて、日向を促した。
 おいで、と手招かれた。
 繋がれた手は大きくて、温かかった。
 冷え切った指先が熱を持ち、赤みを強めていた。さっきまであれだけ悴んでいたのが嘘のように、熱さで痒くて仕方がなかった。
 口をもごもごさせ、日向は火照った顔を隠して下を向いた。
「知りませんよ!」
 次のバスに乗れなくても、座れなくても、日向の所為ではない。
 やけっぱちになって吼えて、少年は誘われるまま列を離れた。
 先頭を譲り、脇へ逸れる。ちらりと後方を窺えば、例の女性が早速隙間を埋めて前に出ていた。
 ちゃっかりしている。心の中で舌打ちして、日向は彼女の存在を頭から追い出した。
 菅原はどんどん先へ進み、赤信号の手前で速度を落とした。
「さあて。どっちだったかな」
「道、知らないんですか?」
「だいじょーぶ、大丈夫。いざとなれば、スマホがある」
 人通りの少ない道を見渡し、心配になることを嘯く。日向は呆れて肩を落としたが、菅原は気にしていないようだった。
 文明の利器に頼れば、ルートなど簡単に分かる。ならば最初からそうすればいいと思ったが、敢えて口には出さなかった。
 立ち止まった後も、手は握られたままだった。
 暗いとはいえ、この辺りは街灯の数は十分だ。足元は明るく、動き回るのに不便なかった。
 このまま彼と、どこまでも歩いて行けたなら。
 叶わないと知りながらも願ってしまって、存外に乙女趣味な自分に日向は赤くなった。
「あ、の。菅原さん。手」
 それもこれも、繋いだままの手が悪い。
 夢見がちな己に必死に言い訳をして、彼は強く握られている右手を揺らした。
「んー?」
 だのに菅原は構おうとせず、左腕をぶらぶらさせるだけだった。
 不思議そうに見つめられて、咄嗟に言葉が出なかった。
 放して欲しいのか、離れたくないのか。
 自分でも判断がつかなくて困っていたら、様子がおかしいと気付いた菅原がふっ、と頬を緩めた。
「実を言うとさ」
 信号はまだ赤のままだ。けれどもうじき切り変わるのか、反対側の青信号は点滅を開始していた。
 横断歩道を小走りで駆ける人が居た。車のエンジン音が闇に蠢き、冷えた風がふたりにぶつかって、砕けた。
「俺も、影山が来なくて良かったって、ちょっと思ってた」
「――――っ」
 明滅していた青信号が赤になった。交差点のどちらもが、一瞬の間だけ時を止めた。
 日向は息を呑み、見開いた目で瞬きを繰り返した。ぱちぱち、と瞼を何度も上下させて、真横を駆け抜けていった車の振動に四肢を戦慄かせた。
 緩みかけた指先を、菅原が強く握りしめた。
 申し訳なさそうに笑いかけられて、なにも言い返せなかった。
 凍り付き、立ち尽くす。
 車のヘッドライトが眩しくて、菅原の姿が見えなかった。
「失望した?」
 騒然としていたら、自嘲気味に囁かれた。あれほど強かった束縛も緩んで、彼の指がすり抜けようとした。
 それでハッと我に返って、日向は自分から、彼の手を掴みに行った。
 完全に別たれる直前、必死の思いで掬い上げる。指を絡ませ、握り直し、その熱を懸命に掻き集める。
 悲壮感は顔にも出ていて、奥歯を軋ませた彼を笑い、菅原が目を眇めた。
「ごめんな」
「なんで、謝るんですか」
「俺、日向が俺のことどう思ってるか、もう知ってるから」
「――……それ、って」
「うん。だからお前が、さっきああ言ってくれたの。嬉しかった」
 小さな声で謝罪して、繋ぎ直された指の腹を軽く掻く。くすぐったくもない愛撫に日向は顔を赤らめ、歓喜と興奮に背を震わせた。
 優しく微笑まれて、心臓が張り裂けそうだった。
 恥ずかしくて、彼の顔が見れなかった。
 耳の先から湯気が出ている気がした。ズルい自分が嫌で、隠し通せなくて告げた真実は、その裏に込められた想いもまとめて、すべて彼に筒抜けだった。
「うそ、でしょう」
「ウソにして良いのか?」
 簡単には信じられず、つい口走ってしまう。すると菅原は瞬時に切り返し、日向に淡々と問い質した。
 狡い言い回しをされて、咄嗟に言い返せない。言葉に詰まった日向は唇を戦慄かせ、逃げるように顔を背けた。
 嬉しいのと、恥ずかしいのと、情けなさが鬩ぎ合い、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 いったい、いつから気付かれていたのだろう。
 口にしたことなど、一度だってないのに。
 そんなに態度に出ていたのか。上手く隠し通せていたつもりだけれど、本人にさえ見透かされてしまうくらいに、バレバレだったのだとしたら。
「うっそぉ……」
 菅原が知っているなら、他の部員だって当然気付いている筈だ。特に月島などは嫌味なくらいに頭が良く、勘だって鋭い。
 分かっていながら、黙って見過ごされていたのか。だとしたら、そちらの方がよっぽど格好悪く、精神的ダメージも大きかった。
 穴があったら入りたかった。ないなら自分で掘って、埋もれてしまいたかった。
 ぼっ、ぼっ、と煙を噴き、日向は空いた手で顔を覆った。前方では青信号が明滅し、赤に切り替わろうとしていた。
 交差点の角に立ち、菅原は声もなく笑い続けた。
 後方からエンジン音が聞こえて、何かと思えばバスが迫っていた。停留所で見た数人が窓から見えて、彼は意外に早かったと肩を竦めた。
「日向」
「ご、ごめん、なさい!」
「うん?」
 信号を渡らず、道なりに進んだ方が良さそうだ。
 角を曲がったバスを追いかける形で進もうとした菅原は、後輩を促そうとしたところで怪訝に首を傾げた。
 突然頭を下げて謝った日向の真意が読めず、眉間には浅く皺が寄った。
「どうしたんだ?」
 問えば、手を解かれた。抵抗したが、押し通された。
 熱が奪われて一気に冷えていく指先に、菅原は奥歯を噛んだ。逃したくなくて拳を固くして、大粒の目を潤ませる後輩に半眼する。
 日向は鼻を何度も愚図らせて、泣きそうな顔で自身のコートを握りしめた。
「だって、おれ、……こんな、の。きもち、わるい……ですよね?」
 問いかけは掠れて、簡単に風に流されてしまいそうだった。
 霞となって消えてしまいそうなのは、日向も同様だった。心細げな顔をして、辛そうに歯を食い縛っている姿は、試合に負けた時よりももっと儚げで、苦しそうだった。
 どうしてそんな顔をするのだろう。
 困惑し、菅原は数秒の間を置いて苦笑した。
 嗚呼、と小声で呟いて、全身の力を抜いて頬を緩める。
 急に笑った彼に驚き、日向はきゅっ、と唇を引き結んだ。
「おれ、がんばって忘れるようにするんで――」
「好きだよ、日向」
「――だから、今だけ……え?」
 フラれる覚悟はとうに出来ている。そう言わんばかりの表情と台詞を遮り、菅原はさらりと、なんでもない事のように告げた。
 人の話を聞きもせず、一方的に喋っていた日向も呆気に取られ、危うく聞きそびれるところだった告白に目を瞬いた。
 ぽかんとして、開いた口が塞がらない。
 史上稀にみる間抜け顔を目の当たりにして、菅原は意地悪く口角を歪めた。
「日向、鼻真っ赤だぞ」
「うひゃあ」
 トナカイのようだと指摘して、鼻の頭を小突く。
 ハッと我に返った彼は後退して、両手で打たれた場所を庇った。
 可愛らしい仕草に首を竦め、菅原は無意識にポケットに入れた手を、後から気付いて片方引き抜いた。
「ホントはな、受験終わって、卒業したら言おうって思ってたんだけど。お前に諦められるのは、嫌だし、困るもんな」
「菅原、さん」
「もう一回、繋いでくれるか。日向」
 利き手を差し出し、頼み込む。
 日向は明るく、元気で、単純で、バカで、理解力に乏しい、けれど何事にも一生懸命で前向きな、尊敬できる、可愛くて仕方がない後輩だった。
 名前を呼んだ時、ぱっと嬉しそうな顔をするのが気に入っていた。
 犬みたいに寄ってきて、全力で尻尾を振って甘えてくる彼が愛おしくて堪らなかった。
 彼を自分だけのものにしたい。
 誰にも渡したくない。
 彼が自分を好きになってくれたらと、念じるように見つめ続けて来た。
 願いは叶った。
 想いは今度こそ、ちゃんと伝わった筈だ。
 明確な言葉で表されて、日向は目を白黒させた。脳細胞がパンクして、煙の量はさっきよりも格段に増えていた。
 なにがどうして、どうなったのか。
 思考回路はオーバーヒートして、顔から火が噴き出そうだった。
「日向、返事は?」
「こ、こひら、こそ。よろひくお願いしまひゅ!」
「うん。よろしくな」
 催促されて、現実が戻ってきた。緊張しすぎて上手く言えないままお辞儀をすれば、菅原は差し出した手を臆面もなく握りしめた。
 指を互い違いに絡めて。
 簡単に離れないように、しっかりと。
 共有される熱に、心が弾けそうだった。
「ゆっくり帰ろう」
 バスはもう行ってしまった。次のバス停までは、結構な距離がありそうだった。
 けれど苦とは思わない。
「はい」
 ふたりなら、どこまでも歩いて行ける。
 幸せそうに頷いて、日向は一歩を踏み出した。

2015/2/9 脱稿