承和色

 影山が訪ねて来たのは、一時間目の授業が始まる少し前だった。
「日向、お客ー」
 入口近くの席にいたクラスメイトに呼ばれ、顔を上げる。何事かと首を傾げて視線を彷徨わせれば、目に飛び込んできたのは意外な人物だった。
 朝練を終えて、部室で汗を拭って制服に着替えた。その後も一緒に本校舎へ移動して、階段を登って、三組の前で別れて。
 次に会うのは、昼休みになる予定だった。
 まさかこんなに早く彼と再会しようとは、想像だにしていなかった。
「影山?」
「よお」
 あちらも、よもや一組まで来なければならなくなると、思っていなかった顔をしていた。不思議そうに首を傾げれば、影山は辺りを気にするように肩を揺らし、ポケットに入れていた手を引き抜いた。
 身長百八十センチの彼は、人の波に揉まれていても目立った。月島も存在感があるけれど、がっしりした体格の彼の方が、遠目からでも見つけ易かった。
 黒い学生服を羽織り、襟のホックまでしっかり閉めている。髪も瞳も黒一色なので、夜中に遭遇したら悲鳴を上げてしまいそうだった。
 そんな彼の来訪を奇異に思うが、呼ばれたからには行かねばならない。
 疑問は本人にぶつけることにして、日向は急ぎ、出入り口へ向かった。
 パンパンに膨らんだ鞄は机に残し、手ぶらで、小走りで。道中すれ違ったクラスメイトを器用に避けて、影山の六十センチ手前で足を止める。
「なに?」
 上背のある彼を見上げて問えば、影山はまたもや廊下を窺い、視線を逸らした。
 誰か居るのだろうか。眉を顰め、日向は隙間から外を覗こうとした。
 その前方を腕で塞いで、影山は緩く首を振った。
「お前さ、袋かなんか、持ってるか?」
 声は低く、音量は小さかった。
 体育館中に響き渡る怒号は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。まるで覇気を感じなくて、日向は目を眇めた。
「ふくろ?」
 朝練中はあんなに元気だったのに、どうしたのだろう。
 台詞の中身も要領を得なくて、彼は鸚鵡返しに呟いた。
 影山は瞬時に首肯して、それから半歩、後退した。廊下と教室を区切る境界線を離れ、くい、と顎をしゃくった。
 ついてこいと、そういう意味だ。
 言葉で説明するより、実際に見せた方が早いと判断したのか。返事も待たずに踵を返されて、日向は慌てて廊下に飛び出した。
 始業のチャイムが鳴るまで、あと少ししかない。折角早めに着替え終えて、遅刻を気にしなくて済むタイミングで教室に入れたというのに。
「待てって。どこ行くんだよ」
「いーから」
 それほど時間は取らせないと、苛立った影山が乱暴に吐き捨てた。偉そうに胸を張って廊下を進んで、立ち入ったのはふたつ隣の教室だった。
 三組だ。大柄な背中はあっという間に見えなくなって、日向は急いで敷居を跨いだ。
「なあ、影山。いったいなに――」
 詳しい説明もないまま、連れてこられた。
 今度こそちゃんと教えるよう声を高くした彼だったが、喋っている途中で目に入った光景に、大雑把ながら事情が把握出来てしまった。
 影山が一組の教室で言った台詞を思い出して、嗚呼、と頷く。
 クラスに戻って来た影山を、数人の生徒が奇異な目で見つめていた。雑談を中断させて、遠巻きに動向を見守っていた。
 男女の比で言えば、男子の方が僅かに多い。不躾な眼差しは日向にも注がれて、あまりいい気はしなかった。
 昨日までは、こんな風ではなかった。
 原因ははっきりしていて、彼は乾いた笑みを浮かべて頬を引き攣らせた。
 影山の机に、小さな塔が出来ていた。
 今にも崩れ落ちそうなそれは、複数のブロック――もとい小箱で構成されていた。
 チョコレートだ。
「豊作じゃねーか」
「いって」
 自慢か、と腹が立って、思わず足が出た。後ろから蹴られた影山は悲鳴を上げて、頭から塔に突っ込んでいきそうになった。
 寸前で机の縁を掴み、どうにか事なきを得る。振り返った彼の眉間には皺が寄り、不機嫌さが全開だった。
 ただ、その顔をしていいのは彼ではない。
 クラスにはチョコレートをひとつももらえない男子がわんさか居て、無条件にモテモテの男に対し、嫉妬が渦を巻いていた。
 日向ももれなくそのひとりで、見せつけられた少年は悔しさに地団太を踏んだ。
「良かったじゃねーか」
「うるせえよ」
 すっかり忘れていたが、今日は二月十四日だ。
 一年に一度の告白デー、バレンタインだった。
 下駄箱に入れるのは、流石に女子も敬遠したらしい。影山の上履きは滅多に洗われないので汚くて、ちょっと嫌な臭いもした。
 だから代わりに、教室の机に置いて行った。
 その結果、大小様々な箱が縦に積み上げられた。
 義理らしきものは少なく、どう見ても本命、という豪華なパッケージが圧倒的多数だった。綺麗にリボンが結ばれて、愛情がたっぷり詰め込まれていた。
 今日の為にあれこれ悩んで、今日の為に一生懸命用意したのだろう。
 影山のことを想って頑張る女子の姿が思い浮かんで、日向は口を尖らせた。
「袋って、それ入れる奴かよ」
「このままにしとけねーだろ」
「いいんじゃねえの?」
「ボケ」
 彼がわざわざ一組を訪ねて来た理由は、良く分かった。確かにこれから授業があるのに、机の上にチョコレートを並べたままにはしておけなかった。
 床に捨てるわけにもいかないから、袋を探したのだろう。合点が行って、日向は肩を竦めた。
 叱られて小さく舌を出し、持っていただろうかと頭を捻る。
「うーん」
「ないなら、良いけど」
「クラスの奴に聞いてこよっか?」
「頼む」
 けれど、思いつかない。流石にシューズ入れは失礼だし、コンビニエンスストアで貰えるような袋も、生憎と持ち合わせていなかった。
 ただ、クラスの友人なら、ひとりくらいは持っている気がした。
「分かった。ちょっと待ってて」
「悪い」
 思案の末に頷いて、日向はひらりと手を振った。影山は淡々と感謝の意を述べて、肩を落として嘆息した。
 下駄箱で何事もなかったから、安心していたのだろう。まさかこちらがこうなっているとは、思っていなかったという横顔だった。
 男子排球部もうひとりのモテ男である月島は、体育館を出たところで早速洗礼を受けていた。西谷や田中からは僻みの声が聞こえ、本人は断るのが面倒臭そうだった。
 ああいうのは貰わない主義だと言い切った月島は、少し格好良かった。と同時に、毎年のように手渡されている現実が羨ましくて仕方がなかった。
「ほら。借りて来てやったぞ」
 日向はといえば、貰えるのはせいぜい十円単位の義理チョコだけだ。女子の友人は多いけれど、お情けと三月のお返しを期待してのプレゼントしか、貰ったことがない。
「サンキュ。マジで助かった」
 一組に戻ってクラスメイトに尋ね、三人目でゲット出来たビニール袋を差し出す。
 今日の昼食が入っていたという白い袋はそれほど大きくなかったが、文句は言われなかった。
 箱の角が当たって破れはしないかと心配したが、影山はそういったことは、一切考えていないようだった。受け取った途端に早速塔を崩しに掛かり、無造作にぽいぽいと、投げ捨てるように放り込み始めた。
 流石にそれはちょっと、と思ったが、日向の物ではないので言えなかった。
「入る?」
 代わりに袋の大きさを気にすれば、影山は黙って首を縦に振った。入ればいいと思っているらしく、並び順も、上下の指定も滅茶苦茶だった。
 天地がひっくり返っている箱を盗み見て、これを贈った女子に少しだけ憐みを覚えた。
「ずるいなあ」
 しかし口を突いて出た言葉はまるで別の意味を持っており、無意識下での呟きに、日向は遅れて気付いて赤くなった。
 カシャカシャと、袋が擦れる音がうるさかった。
 特にすることもなくて、一組に戻れば良いのに、何故か動けなかった。
 ズボンの皺に指を這わせ、襞を潰したり、握ったりしながら太腿を掻き回す。視線は自然と下に向かい、鼻の奥がむずむずした。
 くしゃみが出そうで出ない不快感に臍を噛んでいるうちに、影山は机の上を片付け終えた。最後の一個はほぼ乗っているだけだったが、構う素振りは見られなかった。
「もうちょっと、丁寧に扱ってやれよ」
「いいんだよ、これで」
「失礼だろ」
「……いいんだよ」
 今にも落ちそうな箱を気にしつつ、教室後方のロッカーに運んで行こうとする。それを見咎めて忠告してみたが、予想した通り、返答は素っ気なかった。
 一瞬間があったけれど、日向は気に留めなかった。睨まれたような気もしたけれど、彼は元から目つきが悪いので、おかしいとは思わなかった。
 いつも通り愛想のない影山に肩を竦め、爪先で床を叩く。両手も背中側に回して指を絡めていたら、ようやく始業開始を告げるチャイムが鳴り始めた。
 瞳を浮かせてスピーカーを振り返り、日向は個人用のロッカー前でもたもたしているチームメイトに相好を崩した。
「んじゃ、放課後な」
「袋、あとで返しに行く」
 此処に居ては、遅刻扱いだ。自分は最早用済みと悟り、立ち去ろうと踵を返す。
 直前に一応声を掛ければ、影山は作業を中断させてわざわざ振り向いた。
「いーって。またなー」
 その返答が可笑しくて、日向はカラカラ笑った。
 コンビニエンスストアの袋など、最後はゴミ箱に捨てるものだ。返却の必要はないと、譲ってくれたクラスメイトも言っていた。
 だというのに、律儀過ぎる。勉強は全然出来ないくせに、妙に生真面目な影山に目を細め、日向は急ぎ足で教室を出た。
 二組の前を素通りして、一組に滑り込む。一時間目の担当教諭はまだ来ておらず、室内は相応に賑わっていた。
 日向の机には鞄がぽつんと放置されて、席を離れた時から何も変わっていなかった。
 チョコレートなど、影も形もない。期待していた訳ではないけれど、現実を直視させられて、それなりにがっかりした。
 女子は矢張り、背が高い男の方が良いのだろう。その上月島は成績優秀で、外面だけは非常に良かった。
「影山の、どこがいいんだか」
 それに対して影山の成績は、日向と同レベル。更に付け加えるとしたら、補習中に白目を剥いて眠るような奴だ。
 それでも女子は、春の時点から正セッターの座に就く彼を格好いいと囃し立てた。
 横暴で、乱暴で、口煩く、すぐ怒鳴る。我儘で、いい加減で、人の気持ちなどこれっぽっちも考えない。
 コートの中での横柄さは薄れつつあるけれど、一歩でも外に出れば、王様気質が如実に表れた。一緒にいても苦労するだけで、彼の世話を焼けるのは、相当心が広い人だけだ。
 たとえば、自分のような。
 自画自賛して傷ついた心を慰め、日向は鞄を膝に下ろした。目を閉じれば影山と、チョコレートの山が浮かんで、妙に切なかった。
「いいよなあ」
 あんな風に堂々と、気持ちを表現出来るのは羨ましい。
 自分には絶対無理だと肩を落として、彼はやって来た教師に慌てて授業の仕度を整えた。
 今日は出来るだけ、教室から出たくなかった。
 三組に行けば、影山が女子からチョコレートを渡されるところに遭遇するかもしれない。そういうのは、極力避けたかった。
 胸の奥がもやもやして、どうにも落ち着かなかった。
 肺が締め付けられるようで、息苦しくて仕方がない。授業が始まっても碌に集中出来ず、教師の話は右から左に流れていった。
 ぼうっとしていたら、名指しで怒られた。廊下に立たされる、ということはなかったものの、バレンタインだからと気を緩めないよう叱られた。
 クラスメイトには笑われて、踏んだり蹴ったりだった。
 放課後になって、部室に行ったら、溢れるほどのチョコレートを見せられるのだろう。
 あんな小さな袋ひとつで、到底足りるわけがない。両手で抱えている姿を想像して、日向は嫌な気持ちになった。
 横暴な王様だった男が、モテ王になったのだ。
 それはきっと、喜ばしい事なのだと思う。
 けれど祝えない。良かったな、と嫌味なら言えるのに、おめでとうと賞賛する気にはなれなかった。
「おれって、こんなヤな奴だったのかな」
 足を交互に繰り出し、空を蹴ってぼそりと零す。頬杖をついて視線を脇に流して、時間が過ぎるのを辛抱強く待つ。
 毎日部活が楽しみで学校に来ていたのに、今日ばかりは行くのが憂鬱だった。
 口を開けばため息が漏れた。身体が鉛のように重くて、机から一歩も動く気になれなかった。
 昼休みになっても、気持ちは少しも浮上しなかった。
 クラスメイトと弁当を食べた後、影山の真似をして自席に突っ伏す。珍しいな、と指を差されても無視して、昨日までとそう変わり映えのしない、賑わう教室を何気なく見回す。
「ぎゃっ!」
 刹那、日向はガバッと起き上がって、勢い余って椅子から落ちそうになった。
 目に入った光景に騒然として、ひとりで勝手に暴れ回る。ドンガラガッシャン、と盛大に音を響かせた彼に、教室にいた生徒のほぼ全員が一斉に振り返った。
 注目を浴びて赤くなって、彼は強かに打ち付けた肘を胸に庇った。
「なにやってんだ、お前」
「うるっせ。そっちこそ」
 身悶えていたら、話しかけられた。こうなった元凶である人物の来訪につっけんどんに言い返して、日向は頬を膨らませ、口を尖らせた。
 低い位置から睨まれて、影山は歪な形状の袋を揺らした。
 彼が一日に二度も、一組に来るなんて。滅多にない事に驚いていたら、ガサガサ言うのを聞かされて、日向は眉を顰めた。
「あれ?」
 不思議なことに、中身はかなり減っていた。
 この短期間の間に、開封し、食べたのか。一時間目が始まる前には山盛りだったチョコレートの箱は、知らないうちに半数以下になっていた。
 角が突き刺さったのか、ビニールは一部破れていた。そのうちボロボロになって、使い物にならなくなりそうな袋をぶら下げて、影山はきょとんとしている日向に顎をしゃくった。
 但し今回は、外に出ろだとか、そういう意図は感じられなかった。
「なあ。山崎って奴、このクラスに居るか」
「山崎さん?」
「女子」
「いるけど。なんで?」
「どいつだ?」
 代わりに質問を受け、日向は緩慢に頷いた。更に訊かれて一瞬考え、教室後方の窓際に目を向ける。
 机をふたつ並べた一画に女子が三人集まっていて、そのうちのひとりが異様なくらいに背を丸め、小さくなっていた。
 言わずもがな、彼女がそうだ。残りの二人は影山に戸惑い、どうしていいか分からないといった素振りだった。
 言葉で説明を受けなくても、珍しく状況を見て把握出来たらしい。影山は無言で日向の傍を離れ、粗末な袋に手を差し込んだ。
 赤色の箱を取り出して、静かに彼女に歩み寄る。
 そして。
「あの。悪いんだけど、これ、受け取れないんで。返します」
「ちょっと。アンタ、ひどくない!?」
「なんでよ。フザケんじゃないわよ。この子の気持ち、考えたことあるの?」
「……じゃあ、こういうの貰って迷惑してる俺の気持ちも、少しは考えてくれ」
 ずっと俯いている少女に箱を差し出し、取りつく島を与えなかった。
 両隣にいた女子が一斉に立ち上がって彼を非難したが、そういった攻撃は受け慣れているのか、にべもなかった。
 反論を封じてぴしゃりと言い切って、少女が動かないと知るや、チョコレートの箱は机に置いて踵を返した。余計な言葉は一切語らず、縋る隙すら見せなかった。
 日向でさえ、呆然とするしかなかった。
 教室は騒然となり、ひそひそと耳打ちし合う声が聞こえた。針の筵に座らされているも同然なのに、影山は意に介する気配すらなかった。
 能面の如き無表情で、日向の元へと戻ってくる。けれど彼は黙ったままで、一瞥をくれただけでそのまま通り過ぎようとした。
「え、ちょ」
 影山が真っ直ぐ出口に向かうのを見て、座っていた女子がショックだったのか、ついに泣き出した。両手で顔を覆い、声を殺して肩を震わせた。
 仲の良い友人が必死に宥め、慰めるが、功を奏しているとは言い難かった。
 気まずい空気が流れ、何故か日向まで敵のように睨まれた。男子からは囃す声が聞かれたが、別の女子に怒鳴られていた。
 居辛くなって、彼は左右を見回した。
「待てって。影山」
 あの箱には、薄らながら見覚えがあった。今朝、影山の机の上に詰まれていたもののひとつだ。
 量を減らした袋の中身と、影山のあの態度。
 両者が嫌な感じで繋がって、じっとしていられなかった。
 早足で去って行ったチームメイトを追いかけ、廊下へ出る。彼は雑踏を抜けて真っ直ぐ進み、階段を降りようとしていた。
「影山。おい、待てってば。影山」
 声を高くして引き留め、日向は走った。息を乱して隣に並び、剣呑な目つきの男子生徒に苦虫を噛み潰したような顔をする。
 左右を通り過ぎる生徒は一組での騒動を知らず、誰も彼も呑気で、幸せそうだった。
「お前、どういうつもりだよ」
「どうって?」
「だって、あれって、やっぱ、ちょっと酷いって、言うか」
「好きでもなんでもねえ奴らに、余計な荷物押し付けられんのは、酷くねえのか」
「それは、……」
 そんな中で問い詰めれば、淡々と切り返された。教室で聞いたのと似たような台詞を口にされて、日向は咄嗟に答えられなかった。
 目を泳がせ、遠くを見る。言葉に窮して口をもごもごさせていたら、影山が深く、長い溜息を吐いた。
「貰ったって、嬉しかねえんだよ」
「だからって」
「邪魔くさいだけだろ、こういうの」
 日向が尚も言い募ろうとするけれど、彼の態度は一貫して、変わらなかった。
 ああやって、彼はひとつずつチョコレートを返却して回っていたのだろうか。箱に添えられた手紙を開いて、文面は読まず、クラスや名前だけを探し出して。
 十個近くあったから、かなり手間がかかった筈だ。訪ねて行って、不在の可能性だってある。
 そう思うと、相当に大変な作業だ。昼休みの全てを使っても、きっと追い付かない。
 日向が知らなかっただけで、彼は一時間目が終わってからずっと、全部の休み時間をこの為に使っていたのか。
「どうせ応えてやれねーんだから、早い方がいいだろ」
「……ひとりくらい、いなかったのかよ」
「なにが」
 彼は本当にバレーボール馬鹿で、頭の中はバレーボール一色だ。寝ても覚めてもそればかりで、他のことはどうだっていいと開き直っている節がある。
 対人面でもそれは出ていて、過去に数回告白されているが、すべて断っているという話だった。
 日向も何度か、ラブレターの仲介を頼まれた経験があった。
 可愛い子が多かった。影山の隣に立っても見劣りしない、見目麗しい少女が大半だった。
 だというのに、彼はちっとも靡かない。動じない。譲らない。
 どこまで理想が高いのかと、唾を飛ばして詰ってやりたいくらいだった。
 黙り込んだ日向を見詰め、影山は肩を竦めた。半眼して視線を伏し、空いている方の手を伸ばした。
 くしゃりと髪を掻き回されて、日向はハッと顔を上げた。
「しょうがねえだろ。こういうのって、本命から貰えなきゃ、意味ねーんだから」
「え」
「ったく、後は二年と三年かよ。めんどくせえな」
「え、ちょっと。待てって。影山、今、なんて」
「ああ?」
 腕を引き際、囁かれた。自嘲とも取れる独白に心を掻き乱され、日向は階段を降り始めた彼に身を乗り出した。
 手摺りにしがみつき、落ちそうになる身体を支える。
 慌てふためき、青くなっている彼を振り返って、影山は不貞腐れた表情を作った。
 睨まれた。
 無言で不満を訴えられた。
 四肢が震えて、日向は泣きそうになった。
 影山には、好きな子がいた。
 心に決めた相手が、既に存在していた。
 大量のチョコレートも、愛を込めたラブレターも、熱烈な猛アタックも躱して、拒否して、受け付けなかった理由。
 実に簡単だった。
 好きな人がいるのなら、それ以外の相手から好意を寄せられたところで、嬉しくないのは当然だ。
 面倒だし、鬱陶しいし、邪魔なだけだ。
 知らなかった。
 全然気付かなかった。
「そ、……なんだ?」
「ああ」
 彼はちっともそんな素振りを見せなかったから、恋愛自体に興味がないと思っていた。バレーボール一辺倒で、他人に関心がないものと思い込んでいた。
 違った。
 影山も、あれでちゃんと、男子高校生だった。
「へえ……へー。へええええ……」
「日向」
「なんだよ。だったらもっと早く言えよ。そしたら、お前にラブレターとか、頼まれても持ってかなかったのに。あ、でも、もしかしたらその子が頼みに来るかもしれねーから、やっぱ引き受けた方が良い?」
「ひなた」
「つーか、だったら尚更、あんな返し方したら悪いだろ。好きな相手がいるから無理だって、そう言わなきゃ、あの子だって分かんないし。お前に嫌われたー、って勘違いしちまうだろ」
「おい」
「へー、そうか。そうだったんだ。なんか意外だな。お前って、そういうの関心ないってか、先輩たちにエロ本見せられても無反応だし。なんか安心した。あ、そだ。どんな子? かわいい? おれの知ってる子?」
「ひなた」
 目が合わせられなかった。
 動揺を悟られたくなくて、いつにも増して多弁になっていた。
 影山が何度も遮ろうとしたけれど、無視した。一方的に捲し立てて、気持ちを落ち着かせる猶予を確保しようとした。
 だのに心はざわめき、落ち着かなかった。波は荒くなる一方で、巨大な渦に呑みこまれた気分だった。
 足元がふわふわした。目頭が熱くなって、泣きたくなくて奥歯を噛み締めた。
 告げる前に失恋するなど、格好悪いし、情けない事この上なかった。
 意を決してチョコレートに思いを託した彼女たちよりも、余程愚かしく、惨めだった。
 堪え切れなかった嗚咽を漏らして、手摺りを強く握りしめる。
「……日向」
 影山が降りたばかりの階段に足を置いた。進路を変更して上を目指し、俯いて動かないチームメイトの一段下で足を止めた。
 ガサガサ音が響いた。何をやっているのかと目を向ければ、彼は破れて穴が開いている袋から、残っていたチョコレートを取り出そうとしていた。
 複数の箱を、腕と脇腹も使って抱え持って。
 空になったボロボロのビニール袋を、日向へと差し出した。
「え?」
「俺は、知ってるぞ」
「は?」
 遠い過去、まだ山辺には桜が残っていた時期。
 同じ言葉を第二体育館で、同じ人物から聞かされた。
 但し状況は当時と大きく違っていて、日向は呆気に取られ、目を点にした。
 惚けて立ち尽くしているチームメイトにムッとして、コート上の王様は口を尖らせ、頬を仄かに赤らめた。
「俺は、もう知ってるからな」
「だから、なにが」
「その袋、放課後までに返せ。中身、ちゃんと入れとけよ」
「はあ?」
「俺は、……言ったからな!」
 ぶっきらぼうに吐き捨てて、戸惑う日向に背を向けた。荒っぽい足取りで階段を下って、上級生の教室目指して突き進んでいった。
 後に残されたのは訳が分からないでいる日向と、使い古されてゴミ同然のビニール袋だけ。
 どう考えても使い物にならず、ゴミ箱に放棄するしかないような袋に。
 彼はいったい、何を入れろと言うのだろう。
「なんなの、アイツ」
 意味が分からない。言葉足らず過ぎて、穴だらけのパズルを埋めていく気分だった。
 考えるのはあまり得意ではない。不貞腐れて小鼻を膨らませ、日向はビニール袋に開いた穴に指を入れた。
「大体、アイツ。おれの、なに、知ってるってい――……え?」
 底の破れ目を広げ、ぶつぶつ愚痴を零していたところでハッと顔を上げる。目を瞬いて何もない空間を見詰めて、日向は咄嗟に後ろを振り返り、続けて階下を覗き込んだ。
 手摺りにしがみついて身を乗り出しても、影山の姿はどこにもなかった。
 彼は今、本命以外のチョコレートを返却して回っていた。本当に欲しい相手からのもの以外は、ひとつとして持って帰らない。
 その上で、この袋に何かを入れて寄越せ、と。
 そう、言っていた。
「知って、る、って」
 日向が抱える秘密など、それほど多くない。単純馬鹿は隠し事が苦手で、嘘も下手だった。
 影山が好きだった。
 彼に付きまとう女子を見る度に、そこは自分の居場所だと言いたくなる程度には、彼の隣に執着していた。
 影山は知っているのか。
 気付いていたのか。
 その上で、このボロボロの袋になにかを入れて返せば、受け取ってくれるのか。
「まさ、か」
 そんな訳がない。そんなはずがない。
 そう思う一方で、そうであって欲しいと願わずにはいられなくて。
 足が震えていた。声も、心も、魂さえ震えていた。
「購買、さ、財布。……坂ノ下!」
 穴だらけの袋を握り潰し、日向は転がるように駆け出した。脚がもつれて倒れそうになるのを堪え、一組の教室に飛び込んだ。
 鞄を漁り、財布を持って、クラスメイトが怪訝にする中、泣く少女に目もくれずに駆け出す。
 昼休みが終わるまで、あと少し。
 身勝手な王様にボールを投げ返してやるべく、日向は風を切って走った。
 

2015/02/03 脱稿