やさしきかずに人や思ふと

 青々とした緑に囲われた庭先は、戦う刃を持たない小鳥たちにとって、安心して羽根を休められる場所らしい。
 すぐそこに血濡れたこの身があるというのに、まるで構おうとしない。穏やかに囀り、時に家族か友らしき鳥を追いかけ、楽しそうに遊び耽っていた。
「……僕は、なにをしているんだ」
 濡れ縁に腰かけ、ぼそりと呟く。屋敷の中はひっそり静まり返り、動くものの気配は感じられなかった。
 全ては戦場で、先陣を切って駆けた結果だった。
 厚く、その癖鋭い大太刀に、軽い身体は呆気なく吹き飛ばされた。地に叩きつけられ、転がされ、全身が砕け散るほどの痛みを覚えた。
 派手に傷つき、やっとの思いで帰り着いた。手入れは長引き、つい先ほど終わったところだった。
 その間、他の刀剣たちは個別に役目を与えられ、各地に派遣されて、未だ帰っていなかった。
 お蔭で屋敷は蛻の空だ。ただ広いだけのがらんどうとした空間は、ただでさえ空っぽな心に一層の虚しさを呼び起こした。
 復讐はとうに遂げられているのに、まだ戦場を求めている。
 太刀に勝る強さを手に入れたなら、この空虚さは、少しは埋まるだろうか。簡単に折れることのない強靭な刃を得れば、満たされるのだろうか。
 想像して、小夜左文字は首を振った。縁側から垂らした足を交互に揺らして、地面に着かない爪先で空を撫でた。
 鳥たちは呑気に戯れ、こちらの気持ちになど見向きもしなかった。
「退屈だ」
 審神者から下された指令は、待機だった。
 傷ついた刀身は癒されたが、体力は回復せず、疲労も完全には抜けきっていない。万全の状態に戻るまでは戦場に送らないと、はっきり言われていた。
 けれど戦う事しか出来ないこの身に、ただ時が過ぎるのを待てというのは酷な話だった。
 ぼんやりしていたら、どうしても昔のことを思い出してしまう。復讐に駆られていた記憶をなぞってしまう。
 高く蹴り上げた右足を静かに下ろして、彼は頬に残る傷跡に触れた。
 麻布に軟膏を塗り、張り付けてあるので、直接指でなぞる事は出来ない。剥がさないよう言われているので大人しく従って、小夜左文字は肩を竦めた。
 これから、どうしようか。
 憂鬱な気持ちのまま嘆息して、当て所なく庭を巡ろうかと考え始めた矢先だった。
 何かを気取ったのか。それまで無邪気に遊び回っていた鳥たちが、一斉に翼を広げて飛び立った。
 そして。
「あっそびーましょー!」
「うわっ」
 突如頭上から、大きくて軽いものが落ちて来た。
 屋根から降ってきたものに飛びかかられ、小夜左文字は悲鳴を上げた。勢いのままに濡れ縁から庭先に滑り落ちて、膝を打ってしゃがみ込む。
 背中を丸めて蹲り、彼は激痛に顔を歪めて小鼻を膨らませた。
「なにをしている、離れろ」
「えー? いやですよー。ぼくとあそびましょうよー」
 腹に力を込めて凄むが、圧し掛かる重みは動かない。力任せに追い払おうとすれば、却ってぎゅうぎゅうに締め付けられた。
 舌足らずの口調で強請られて、小夜左文字は頬に頬を押し付ける相手に臍を噛んだ。
「今剣!」
「はーい」
 低い声で叫べば、名前を呼ばれただけと勘違いした今剣が嬉しそうに目を細めた。
 右手を高く挙げて胸を張り、けらけらと楽しそうに笑う。なにがそんなに面白いのかと眉を顰め、小夜左文字は拘束が弛んだ隙に彼を突き飛ばした。
「いつまで、僕に乗っている」
 背中に圧し掛かっていた身体を排除して、沓脱ぎ石の傍まで後退する。たったそれだけの事なのに息が切れて、跳ねた鼓動はしばらく落ち着かなかった。
 不意打ちもいいところだ。驚かされて、肝が冷えた。
 大太刀の一振りに跳ね飛ばされた記憶が蘇り、脂汗が滲んだ。吐き気を催し、気分は最悪で、腹の奥では黒い蛇が蠢いていた。
 泥より濁った感触を内臓に感じ、喉を逆流した酸っぱさを堪える。目尻には勝手に涙が浮いて、鼻が詰まって息苦しかった。
 これが恐怖によるものだと認めたくなくて、叫びたい衝動を懸命に抑える。嵐が過ぎ去るのを待って息を整えていたら、地面に降り立った烏天狗が小首を傾げた。
「どうしたんですかー?」
 不思議そうに見つめられて、小夜左文字は肩を落とした。
 性格も、声も、表情も明るい彼は、物事を深く考えるのが苦手なようだった。いつもその辺を飛び回って、高い場所に登っては、遠くに見える山を眺めるのが日課だった。
 彼もまた、小夜左文字同様に戦場に出て、傷を負って帰って来た。もっとも手入れはずっと前に終わっていたようで、部屋を出た時、そういえば顔を見なかった。
 他の刀剣たちが出払っているので、暇を持て余していたのだろう。それは小夜左文字と同じだ。違うのは、自ら構って貰おうと飛びかかって来た事か。
 遊んで欲しそうにしている守り刀を見上げて、小夜左文字は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「他を当たれ」
「あれれー? どうしてですかー?」
 他の短刀たちのようには出来ない。子供の輪に混じって遊行に興じるなど、彼には死ぬより難しかった。
 鍛錬ならばいくらでも応じてやれるが、今剣が求めているのはそんな事ではない。あまり構われるのも迷惑で、てっとり早く追い払いたかった。
 しかし彼は眉を顰めると、頻りに首を捻って飛び跳ねた。
「小夜くんも、たいくつなんでしょう?」
「…………」
 先ほどの独白を、どこかで聞かれていた。
 痛いところを指摘されて、巧く切り返せなかった。
 確かに暇だった。やりたい事はひとつもなく、やるべきことは何もない。この身は復讐から切り離されると、途端に存在意義を失った。
 宙ぶらりんの状態で放置されて、どこに行けばいいのか、どこに居ればいいのかも分からなかった。
「だったら、ぼくとあそびましょうよー」
 残る短剣たちは、遣いに出て不在だった。戦場よりは危険が少ないが、傷を負わずに済む分疲れるし、往復の時間は馬鹿にならなかった。
 同年代の遊び相手がおらず、彼に構ってやる大人も留守。
 他にいないのだと言い張られて、小夜左文字は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そういう気分じゃない」
 審神者が判断した通り、疲労はまだ抜けきっていなかったようだ。
 甲高い声が頭に響いて、彼は右手でこめかみを押さえ、顎に力を込めた。
 鈍痛に耐えていたら、正面に回り込んだ今剣が膝を折ってしゃがみ込んだ。斜め下から人を覗き込んで、何を考えているのか、思案顔で口を尖らせた。
「小夜くん、げんきないんですか?」
「……あるように見えるのか」
 刀身が砕け散る夢を見た。
 望みを果たせず、目的を遂げることなく朽ち果てる夢を見た。
 主の手に還る事なく、山賊の手に振るわれ続ける夢を見た。
 思い返せば、汗が噴き出た。息が荒くなり、胸が張り裂けそうだった。
 締め付けられるような苦しさに喘ぎ、顔全体を両手で覆い隠す。歯を食い縛り、どれだけ拭っても取れない血の生臭さに四肢を戦慄かせる。
 今剣は相変わらず不思議そうな顔をして、顎に人差し指を衝き立てた。
「うーん」
 喉の奥で唸り、瞳を一周させて、やがて叩かれた手は軽やかな音を発した。
「そうだ」
 すくっと立ち上がり、彼は笑った。妙案を思いついたと顔を綻ばせ、青白い肌を擦っていた小夜左文字に向けて身を乗り出した。
 影が落ち、視界が翳った。何をする気かと警戒して、眉を顰める。
 いやに近い距離に戸惑い、にっこり微笑む今剣に困っていたら。
「げんきのでる、おまじないですよ」
 そう言って、彼は笑顔のまま小夜左文字に触れた。
 唇で。
 右の、頬に。
 柔い感触が、乾いた皮膚に広がった。押し付けられて、ふにゅ、と肉が凹んだ。
 今剣の呼気を感じた。ふふ、と笑う声が耳元で弾けた。
「――っ!」
 直後、小夜左文字は後ろに飛びずさった。前を向いたまま逃げようとして、沓脱ぎ石に躓いて転びそうになった。
 体勢を崩したところで背中が濡れ縁に激突して、尻餅をついて蹲る。二連続の痛みに声も出ず、年寄りみたいに腰を曲げて耐えるしかなかった。
 歯を食い縛っていたら、全ての元凶である今剣が飛び跳ねながら近付いて来た。
「どうですか? げんきでましたか?」
 興味津々に訊ねられても、答えられるわけがない。
 元気になる以前の問題だと腹を立てていたら、返事がないのを訝しみ、彼は可笑しいな、と呟いた。
「へんですねー。よしつねこうは、ごぜんさまにこうしてもらうと、げんきになったのに」
 目を泳がせ、記憶を手繰り寄せながら首を捻る。
 彼がどういう環境下にあったかまでは知らなくて、小夜左文字は深く息を吐いた。濡れている気がする頬をぐい、と擦り、もやもやしっ放しの胸を撫でた。
 もっとも、不快感は一時期よりは薄まっていた。
 今剣の能天気さが、口吸いであちらに移ったのかもしれない。だとしたら彼が言うまじないも、多少は効果があったということだ。
「おっかしいなー」
「どこへ行く」
「ほかのひとでためしてきまーす」
 けれどそれを言わずにいたら、今剣が一本足の下駄を脱いで縁側に上り込んだ。
 屋敷の中に移動した彼に問えば、けらけらと笑われた。試される方はいい迷惑だとは、言ったところで通じそうになかった。
 ぱたぱたと足音を響かせて、今剣は部屋の奥へ消えて行った。
 今、誰が中に残っているのだろう。
「どうでもいいか」
 同じ銘を持つ宗三左文字の顔が脳裏を過ぎったが、あの人はいつも部屋に籠り、滅多に外に出て来なかった。
 審神者が気を利かせ、屋外の、たとえば馬の世話などを任せたりしているが、慣れていないので巧くいかないらしい。稀に一緒にやるよう命じられるが、手伝っている間も会話はなかった。
 兄弟刀とはいえ、共に過ごした時間は皆無。どう接すれば良いか分からないのは、あちらも同じだろう。
「一緒に、出陣したのは」
 彼以外だと、誰が屋敷に居残っていそうなのは、数名。
 傷つき、自力で動けなくなった自分を背負って戦場から連れ出してくれたのは、誰だったか。
 吹き飛ばされた体躯を守るべく、真っ先に駆けつけてくれたのは。
 薄れゆく意識の最中、名を呼んでくれたのは。
「……でも、いないかもしれない」
 藤色の髪が瞳の端を掠めた。緩く首を振り、小夜左文字は誰に言い聞かせているのか、呟いた。
 軽傷であれば、手入れは短時間で済む。戦場に出向いている面々がいつ出立したかは分からないが、その中に混じっていても不思議ではなかった。
 だから、不在にしている方に賭けた。
 薄暗い記憶に起因するものとは異なる不快感を覚え、彼はちりちりする腹を撫でて唇を引き結んだ。
 今のところ、誰の悲鳴も聞こえてこない。
 広い屋敷の見取り図を思い返し、小夜左文字は起き上がった。
 節々の痛みは、時間を経るうちに消え失せた。
「ひどい目に遭った」
 汚れてしまった身体を撫で、土埃を払い落として地面を踏む。草履を取りに行く気も起きず、彼は素足のまま歩き出した。
 騒がしい今剣が居なくなったからか、遠くに避難していた鳥たちは次々に戻ってきていた。
 愛くるしい囀りに耳を澄ませ、当て所なく彷徨い歩く。時間を潰すのが目的なので特に行きたい場所はなく、気の向くまま、適当に道を選んで進んでいく。
 馬小屋が近いのか、嘶きが聞こえた。飼葉をやるのも悪くないと、気まぐれを起こした小夜左文字はそちらに爪先を向けた。
 あまり馬には好かれていないけれど、背に跨ると景色が違って見えるので、乗る事自体は嫌いではない。ただ手綱の操作に慣れていない為、ひとりで乗らないようには言われていた。
 背に担がせる鞍だって、大人の体格に合わせたものしか用意されていない。
 太刀や大太刀ばかりが優先されて、その辺は狡いと思わずにはいられなかった。
「どれが、残ってるんだろう」
 屋敷で飼われている馬は、それほど多くない。気性が激しいものもいれば、優しくおっとりしている馬もいるのは、人間と同じだ。
 無条件で撫でさせてくれる子が居たら、一番嬉しい。
 少なからず期待を胸に、小夜左文字は木組みのあばら家に近づいた。
 獣の臭いが強まり、乾燥した糞が点々と散らばり始めた。まだ新しい物もある。踏まないように注意しつつ、丸太で仕切られた柵から中を覗き込もうとして。
 馬ではない背中を先に見付けてしまい、彼は眉目を顰めた。
「歌仙?」
 馬小屋の少し手前に、見知った後ろ姿があった。屋敷の領地を仕切る土壁の傍でしゃがみ込んで、深く項垂れて動かない。
 いつもの華美な打掛は脱ぎ、白い胴衣で襷を結んでいた。邪魔な前髪も後ろに流して結び、動き易い袴に草履だった。
 農作業や、馬の世話をする時と同じ格好だ。力仕事が嫌いだと公言して憚らず、命じられると仕方なく、嫌々ながらやっているというのは、小夜左文字も知っていた。
 ならば今も、馬の世話の最中だろうか。
 しかしそれにしては、様子がおかしい。
「なにをしているんだ?」
 気になって、僅かしか持ち合わせていない好奇心を擽られた。素通りしても良かったのだが、暇を持て余していたのが決め手になった。
 小石を踏み越え、近付く。距離を詰めてから分かったのだが、彼の足元には緑が眩しい植物が、広範囲に渡って植えられていた。
 どこかで自生していたものを、誰かが移して来たのか。小夜左文字が屋敷に来た当初は、ここにあんな草地はなかった。
 最近はこの辺を歩いていなかったので知らなかったが、犯人はどこぞの雅を愛する者だろう。
 野良作業は嫌いな癖に、なにをやっているのか。
 呆れていたら、踏み折られた小枝の音を聞き、男が振り返った。
 双眸には薄ら涙が浮かんでいた。予想もしていなかった表情に、小夜左文字は唖然と目を見開いた。
「……おや」
 皮肉の一つも口にせず、歌仙兼定はやけに静かだった。
 恥ずかしいところを見られたと、頬が自嘲気味に歪められた。土汚れを払うつもりか、白い肌を擦って逆に汚し、地に着けていた膝を起こして立ち上がる。
 惚けていた小夜左文字は、はっと息を吐いてから、告げる言葉がないと知って奥歯を噛んだ。
 口を閉ざし、ヘの字に曲げる。気の利いた台詞ひとつ浮かばない己に焦れていたら、沈黙を嫌った男から切り出して来た。
「手入れは、終わったようだね」
「ああ」
 その背に負ぶわれ、屋敷へ戻った。
 世話になったというのに無愛想に返事をして、小夜左文字は彼に向き直った。
 普段と比べると地味な格好とはいえ、袂をまとめる襷は紅白と派手だ。袴の裾は土で汚れ、黒ずんでいた。
 良く見れば指先も、白い肌がくすんでいた。刀を握るその手が何に触れていたかは、一目瞭然だった。
「それって」
「そうだよ。撫子だ」
「……そんな名前だったの」
 土壁の際に陣取るのは、郊外に広がる平原で見る花だった。背丈は小夜左文字の膝より低く、葉は細長く、先端は鋭かった。
 薄紅色の花が咲く光景を、過去に何度も目にしていた。だが学がないので、名前までは知らなかった。
 教えられ、素直に頷く。感嘆の息を漏らした彼に、歌仙兼定は間を置いて微笑んだ。
 優しい顔をして、そうしてすぐに顔を伏す。哀しげに睫毛を揺らし、口を開けばため息が漏れた。
 らしからぬ態度に、違和感が募った。
 怪訝にして、首を捻る。疑問が顔に出ていたのか、歌仙兼定は力なく肩を竦めた。
「いや、ね」
 この場に撫子を植えたのは、矢張り彼の仕業だった。
 男所帯で味気ない屋敷に、少しでも彩りを足そうとしたのだろう。雅な景色を手近なところに手に入れて、悦に浸ろうとしたのは楽に想像がついた。
 けれど現在、彼の足元で茎を伸ばす植物には、まるで花がついていなかった。
 季節が外れているのではない。群生地に行けば、薄紅色の花が地表を覆う様が見られるはずだ。
 だというのに撫子の花は数輪を残すのみで、全滅寸前だった。
 よくよく注意してみれば、葉も数を減らしていた。中ほどで無残に引き千切られ、哀れな姿を晒していた。
 言葉を濁した歌仙兼貞を見上げ、小夜左文字は思うところがあって馬小屋に視線を投げた。
 馬当番は席を外しているのか、姿は見えなかった。柵の中では鹿毛の馬が、胸を張って悠々と歩いていた。
 心なしか、得意げな顔をしているように見えた。立ち尽くす歌仙兼定を馬鹿にして、上機嫌に黒い尾を揺らしていた。
 再び花のない撫子を眺めて、小夜左文字は嗚呼、と苦笑した。
「折角、僕が手塩にかけて育てたというのに……」
 事情を見抜かれ、糸が切れたらしい。歌仙兼定は堪え切れずに膝を折り、両手で顔を覆って丸くなった。
 どうやら彼が大事に育てた撫子は、悉くあの馬に食われてしまったらしかった。
 柵の高さは不揃いで、助走をつければ乗り越えられそうな場所があった。脱走した馬が良い餌場を見つけたと喜び、ひと通り貪り食った後、のうのうと戻ったとしても不思議ではなかった。
 慣れない野良仕事をしてまで、頑張ったというのに。
 心から嘆き悲しんでいる歌仙兼定には、同情を禁じ得なかった。
 花を愛でる気持ちは正直よく分からないが、努力が水泡に帰すのは誰だって辛い。いつもは鬱陶しい口上も、いざ聞けないとなると、つまらなかった。
「歌仙」
 黙られるのは、面白くなかった。己の無口ぶりを棚に上げて、小夜左文字は彼の傍らに歩を進めた。
 振り向きもしない男の左隣に腰を据え、膝を揃えてしゃがみ込む。身を低くした一瞬だけ、歌仙兼定は彼を見て、すぐに食いちぎられた痕が残る撫子に意識を戻した。
 何度目か知れないため息を聞かされて、その落胆の深さが推し量れた。
「歌仙は、元気がないのか」
「あるように見えるかい?」
 何気なく問えば、どこかで聞いた台詞が返された。
 切なげに細められた眼といい、力なく身体に添えられているだけの腕といい、文系を謳いつつも頭に血が上り易い男らしくなかった。
 放っておけば、花はまた咲く。植物は存外に強い。人よりも――刀よりも。
 けれど思ったことが声に出だせない。音にする前に潰れてしまって、形を成さなかった。
 語彙の少なさ、言葉足らずさを悔やんで、彼は今剣に言われたことを思い返した。
 まじないなど、信じていない。
 けれどあの馬鹿らしいやり取りで、胸に沈殿していた澱が幾ばくか薄くなった。
 気が紛れる程度でしかないが、いつまでも引きずるよりは、良い。
「歌仙」
「なんだい?」
 他に術を知らないから、これしか分からない。今剣の経験を信じる事にして、彼は歌仙兼定の袖を引いた。
 男は気だるげに答え、顔を上げた。隣で子供が伸びあがっているとも知らず、陰鬱な面持ちのまま、振り返るべく首を巡らせた。
 その頬に。
 鼻梁の脇に。
 ふに、と柔らかなものが押し当てられた。
 掴んだ袖を支えにして、中腰になった小夜左文字は目を閉じた。ぶつかる恐怖に打ち勝って、惚ける男の頬に唇を突き付けた。
 今剣は笑っていたが、いざやってみると思いの外、恥ずかしい。生まれて初めての体験は不慣れさが目立って、いつ終えて良いかも分からなかった。
 息を止めて、苦しくなるのを待って、離れる。
 その間も歌仙兼定はぽかんとして、真ん丸い瞳は瞬きすら忘れていた。
「……え?」
 呆然としながら見つめられて、小夜左文字はふらつくように後ろに下がった。
 白い袖を解放し、藍の袈裟を握りしめる。何故か正面を向くのが憚られ、目と目を合わせられなかった。
「えーっと。さ、よ……?」
 もごもごしながら名前を呼ばれて、もしやこれは違うのか、と思った時には既に遅い。
 恥ずかしさが膨らんで、彼は火が点いたように真っ赤になった。
「げっ、元気が、出る。まじない、だ!」
 今剣はそう言っていた。
 それ以外に意味はなく、理由はなく、意図もない。
 叫び、踵を返した。素足で地面を蹴って、脱兎のごとく逃げ出した。
 取り残されて、歌仙兼定は反対側の頬を叩いた。ぺちりと音を響かせて、軽く抓ってから乾いた笑みを浮かべた。
「え?」
 今のはいったい、何だったのだろう。
 去り際に怒鳴られたけれど、聴覚は麻痺し、なにを言われたか覚えていなかった。
 ちゃんと痛い右頬を撫で、濡れている気がする左頬に触れようとする。しかし寸前ではっとして、彼は汚れた手を袴に擦りつけた。
 ごしごしと痛いくらいに皮膚を削り、綺麗にしたところで、今度こそ触ろうとして。
「ひぃ!」
 背後から突如刃を突き付けられ、首筋に冷たいものを覚えた彼は尻餅をついた。恐怖に顔を引き攣らせ、今にも肉を切り裂きそうな切っ先に騒然となった。
 桜色の髪が柳の如く揺れていた。抜身の刀身は鋭く輝き、獲物を欲して唸っていた。
 温和そうに見える微笑みの下、眇められた目は完全に据わっていた。
「なっ、なにをするんだい。あ、あぶない、だろう!」
「その首、頂戴してもよろしいですか?」
「はやく、それを。しまいたまえっ」
 言葉が通じていないのか。
 甲高い声で叫んで、彼はいつ戻って来たかも分からない男に背筋を粟立てた。
「じっとしていてください。生憎と僕は、戦場には不慣れでしてね。下手に動かれると、違うところを斬ってしまいますよ?」
「だから、その刀を、早く!」
 支配者たちの手を渡り歩いた刀剣を構え、男が淡く微笑む。歌仙兼定は真っ青になって、切れ味良さそうな打刀に首を振った。
 けれど、宗三左文字は聞く耳を持たない。
 妖しい笑みを浮かべ、彼は楽しそうに目尻を下げた。

2015/01/24 脱稿