Pale Orange

 自覚はなかった。
 いつの間にか、そうなっていた。
 気が付けば目で追っていた。教室の前を通り過ぎる時、何気なく中を覗き込んでしまうくらいには、姿を探すようになっていた。
 一組の教室は廊下の一番奥にあり、階段の隣にある三組の前は頻繁に行き来する場所だった。前後の扉は大体いつも開けっ放しで、大柄な体格を見付けるのは簡単だった。
「また寝てる」
 移動教室の時、トイレに行く時。
 昼休み、体育館裏で先輩に自主練習を付き合ってもらう時。
 いつ、どんな時でも、彼は大抵机に突っ伏していた。起きているのか、眠っているのかは、傍目には分からなかった。
 ただ三組の知り合いに聞く限りでは、本当に眠っているようだった。しかも授業中も同様で、先生も呆れ気味という話だった。
 烏野高校には、日向のように雪ヶ丘中学からの進学した生徒は少ない。山越えが面倒だし、バスの路線や本数も限られているからだ。
 だが友人が出来るかという不安は、入学式には解決していた。
 出席番号順で並んだ時に、早速前後の男子に声を掛けた。近隣の中学出身という生徒と親しくなって、芋づる式に交友関係は広がった。
 お蔭で昼飯を一緒に食べる相手も、休憩時間に喋る相手にも事欠かない。遊びに誘って貰う機会も多くて、断るのが申し訳ないくらいだった。
 バレーボール部に入っていなければ、毎日カラオケや、ゲームセンターや、友人の家に入り浸って遊び耽っていたに違いない。日替わりで違う相手とつるんでも、一週間は異なる顔ぶれが揃いそうだった。
 朝から晩まで、賑やかで、楽しい。
 けれど影山は、どうなのだろう。
 バレーボール部で一緒に活動している彼は、北川第一中学の出身だ。
 あまり詳しくは聞いていないけれど、中学時代は部活で横柄に振る舞い、暴君と知られて、嫌われていたらしい。
 王様と蔑まれ、チームメイトからトスを拒まれた。試合中にセッターの任から降ろされて、ベンチで敗北の笛を聞いた。
 けれどそれも、日向に言わせると、贅沢な屈辱だった。
 仲間内でギクシャクしていたとはいえ、きちんとしたチームで戦えていた。決勝戦で敗北はしたものの、言い換えると決勝戦まで戦えた。
 人数が揃わず、指導者もおらず、急ごしらえのチームで辛うじて大会への挑戦権を得た日向には、影山は矢張り贅沢者だった。
 だから最初は、嫌いだった。
 大会初戦で相対して、呆気なく敗北した。
 念願だった試合に出場出来たと、浮足立っていた心に枷を嵌めるくらいには、衝撃的な出来事だった。
 完敗だった。
 悔しいと同時に羨ましくなるくらい、彼のバレーボールは綺麗だった。
 抱いていた反発は、彼を知るにつれて削り取られていった。角ばっていたものが丸くなって、摩擦もなくコロコロ転がるようになっていった。
「おれが、いるのに」
 烏野高校男子排球部主将の計らいによって、どうにか部活への参加権を手に入れた。チームメイトとして正式に認められて、影山との接点は日毎に増えていった。
 彼の、バレーボールへの情熱は、日向でさえ時に圧倒された。
 執念と言っても過言ではない。
 自分にはこれしかないのだと、そういう想いが痛いくらいに伝わって来た。
 かといって、授業中に爆睡して良いわけがない。休憩時間も自席から動かず、突っ伏し、クラスメイトの誰とも交流を持たないのは問題だった。
 友人など不要だと、主張しているようだ。
 他人に理解してもらえなくとも構わないと、そう言っているように感じられた。
 影山との間には、壁がある。
 日向はその壁を乗り越えたいと思っているけれど、影山が拒んでいるのか、登れば上るほど天辺は遠くなった。
 ボールを見ない超速攻を完成させたとはいえ、日向は彼にとって、未だ勝負の駒でしかない。頼り、頼られる仲間になりたいと願うのは、傲慢なのだろうか。
「あーあぁ」
 気が付けばため息が漏れていた。陰鬱な気持ちを抱えたまま昼休みを迎えて、日向は重い足取りで廊下へと出た。
 いつも一緒に昼を食べている友人は、今日に限って別に約束を取り付けていた。
 食堂で、他クラスの友人を交えて、ゴールデンウィークに皆で遊びに行く計画を立てるらしい。同席しても構わないと言われていたが、知らない顔も多いし、自分が参加できないイベントの話を聞かされるのは心苦しかった。
 高校生活の初の大型連休は、バレーボールに捧げると決まっていた。学内の施設に泊まり込んでの練習三昧で、東京の学校との遠征試合も予定されていた。
 それを言うと、クラスメイトは総じて信じられない、と渋い顔をした。一日中体育館でボールと睨めっこなど、絶対に嫌だと言い張られた。
 そういう意見があるのは、勿論承知していた。けれどいざ直接耳にすると、胸に突き刺さって哀しかった。
 物憂げな表情をしたのがバレたのか、言った相手には即謝罪され、話題は余所へ移った。東京の学校については皆食いついて来て、どういう連中だったか報告するよう頼まれた。
 会話の後半は、ちゃんと笑えたと思う。気遣わせて申し訳なかったという気持ちと、どうして彼らは理解しようとしないのか、といいう気持ちが混ざり合って、胸の内は複雑だった。
 そういう事情も相俟って、身体まで鉛のように重かった。
 日向なりにゴールデンウィークは楽しみなのに、それを誰かと共有できないのはつまらない。不満を抱えたまま居続けるのも苦痛で、愚痴を聞いてくれる相手が欲しかった。
 だからか、三組の教室の前で歩くペースが落ちた。のろのろと牛並みの速度になって、視線は自然と室内に向けられた。
「あれ」
 いつもの場所に目を遣って、数回瞬きを繰り返す。頭上には疑問符が浮かんで、僅かに遅れて首が傾いた。
 身を乗り出して改めて中を確認するけれど、あの大柄な男子の姿を見つけられなかった。
 左右を見回し、教室の隅々まで見渡しても、該当する背中はなかった。
 珍しいこともあるもので、驚きを隠せない。唖然としていたら、後ろからぽん、と肩を叩かれた。
「うわっ」
「なにやってんの、日向。なんか用?」
「あ、ああ。なんだ。びっくりした」
 不意打ちだったので、心臓に悪い。心拍数が一気に上昇して、変なところから嫌な汗が出た。
 振り返れば見知った顔がいて、にこやかに笑って手を振っていた。
 影山ではない。高校に入ってから知り合った友人の、友人で、三組に在籍する生徒だった。
 口から出そうになった諸々の物を飲み込んで、胸を撫で下ろして彼に向き合う。するとあちらは目を逸らして、教室内部を覗き込んだ。
「なに。影山?」
「えっ」
 そうして日向が探していた相手をズバリ言い当て、絶句する彼をカラカラ笑い飛ばした。
「べ、別に。そういうんじゃ」
「お前ら、ホント仲良いもんな。飯の約束でもしてたの?」
「だから、そういうんじゃないって」
「あっれ。珍しいな。どこ行ったんだろ」
「聞けって!」
 慌てて言い訳がましく捲し立てるが、まるで相手にしてもらえない。彼は一方的にべらべら喋ると、額に手をかざして眉を顰めた。
 教室に影山が居ないのは、日向もとっくに把握していた。ただ行き先が分からず、ちょっとすれば戻ってくるのかも不明だった。
 少し気がかりだけれど、そこまで固執していない。
 勝手に勘違いされるのは迷惑だと声高に叫んでみはしたが、相変わらず、向こうは聞く耳を持たなかった。
「おーい。影山の奴、どこいったか知ってる?」
 頼んでもいないのに行き先を調べ始めた彼に、日向は騒然となった。
「だから、違うって言ってるのに……」
 日向自身、他人の話を聞かずに勝手に行動を開始する癖があった。お節介だと知っていても、助けになれば、と善意を押し付けたがる節があった。
 影山の行き先は、正直、興味があった。但しこの場に彼が現れて、来訪の理由を聞かれるのは困りものだった。
 たまたま、教室を覗いてみたら姿が見えなかっただけ。
 しかし状況が動いた今、信じてくれる者がいるかどうかは分からなかった。
「影山? あれ、ホントだ。どこいったんだろ」
「あいつならさっき、チャイム鳴った途端にどっか行ったぜ」
 質問を受け、戸口近くに居た男子が数人、口々に言葉を返した。
 彼が机に陣取らず、放課後でもないのに教室の外に出るのは、クラスメイトに言わせても、あまりない事らしい。しかもチャイムと同時に行動を開始するなど、滅多にない珍事だった。
 偶然目撃していた生徒の弁に、日向は咄嗟に時計を見た。
 昼休みが始まってから、そろそろ五分近くが経つ。部室で弁当を食べようと、日向の手には風呂敷包みが握られていた。
 そういう事情もあるから、昼飯を一緒に、と早合点されたのだ。
「だってさ」
 最初に話しかけて来た友人に肩を竦められて、彼は力なく微笑んだ。
「いいんだけどさ」
 元々、影山に用があったわけではない。居ないならそれで構わなくて、不都合は生まれなかった。
 肩を竦め返し、目尻を下げる。その表情が引っかかったのか、友人は眉目を顰めて室内を指差した。
「そのうち戻ってくるかもだし、待ってるか?」
「え? いいよ。てか、なんで」
「だって、そんながっかりした顔されたら、普通思うだろ」
「……え?」
 誘われて、日向は目を丸くした。
 友人としては思ったことを素直に口にしただけかもしれないが、日向には、その自覚がまるでなかった。
 落胆しているように見えたのだろうか。
 人にそう思われてしまうくらい、顔に出ていたのだろうか。
 反射的に頬に触れて、柔い肉を揉み解す。強張っている筋肉を解して無理矢理笑顔を作って、無人の机を一瞥する。
 影山があそこに座っていたら、廊下を素通りしていた。
 またやってる、と呆れるだけで片付いた。ホッとして、少し心配して、彼らしいと笑って終わらせられた。
 だから居ないのが意外で、珍しいと思った。
 ショックを受けて、寂しいと感じているなど、言われなければ気付かなかった。
 そんなはずがない。
 そんな訳がない。
「んな事ないって。変なコト言うなよ、もー」
「あれ。そうかあ?」
「そうだよ。んじゃおれ、もう行くし」
「またなー」
 チリチリと胸の奥が焦げていた。そのうちボッと火が点きそうで、恐れた日向は声を張り上げた。
 左手を振り上げ、友人の背中を乱暴に叩く。誤魔化し、流し、会話を断ち切って三組の前を離れる。
 おかしな素振りはなかったはずだ。妙な勘違いは解消されて、怪しく思われはしなかった筈だ。
 心臓がトクトクと早鐘を打っている事も、微熱を孕んだ頬がほんのり赤くそまっているのも。
 誰にも気づかれていない筈だ。
「だって、アイツ。なんか、変なところで変な事してそうだし。うん。それだけだって」
 誰に向けてか言い訳を口にして、彼を探してしまう理由をこじつける。無意味に力んで拳を作って、日向は今度こそ部室に向かうべく、廊下を歩き出した。
 階段を駆け下り、昇降口へ向かう。第二体育館前にある部室棟と本校舎は繋がっておらず、一度外に出なければならないのが面倒だった。
 上履きのままあちこち移動できたら、どんなに楽だろう。
 どうして校舎を建てる時、そういう気配りをしてくれなかったのか。
 建築家の怠慢だと口を尖らせ、日向は弁当を揺らしつつ、下駄箱に急いだ。
「あれ、日向。今から飯?」
「あ、菅原さん」
 そして靴を履き替えようと簀子に降りようとしたところで、丁度外から帰って来たばかりの上級生とすれ違った。
 反射的に足を止め、腰を曲げて行儀よくお辞儀をする。その仰々しい仕草に苦笑して、菅原はずり落ちそうだった割り箸をカップ麺の中央に戻した。
 どうやら彼は、坂ノ下商店まで行ってきたらしい。
 蓋の隙間からは白い湯気が立ち上り、ツーンと来る匂いがこの距離でも感じられた。
 激辛を謳う商品名に、後ずさりしそうになった。香りだけでこれだから、食べたらどうなるか、想像するだけでも恐ろしかった。
 三年生の中でも一番接し易く、面倒見が良くて優しい菅原であるが、彼の味覚だけはどうしても理解できない。前に酷い目に遭わされた記憶が蘇って、警戒心が顔に出た。
 頬を引き攣らせている後輩に、上級生は呵々と笑って目を細めた。
「影山だったら、部室の方、歩いてったぞ」
「……へ?」
「ん?」
 前置きもなく言われて、ぽかんとするしかなかった。
 間抜け顔できょとんとなって、そんな日向の反応に、菅原も「おや?」と首を傾げた。
 左右を人が通り抜け、昇降口前は賑やかだった。坂ノ下商店で買い物してきた生徒は多く、通路は若干の混雑に見舞われていた。
 そんな雑踏のただ中に立ち尽くして、日向は告げられた台詞をよく噛み砕き、飲み込んだ。
 喉が鳴った。三組前でのやり取りが蘇って、胃の辺りがざらざらした。
「おれ、影山となんにも、約束とか、してませんけど」
 唾が異様に苦かった。飲み下すのに苦慮しつつ、彼は本当のことを口にした。
 だのに菅原は意外そうな顔をして、大仰に頷いた。
「あれ、そうなんだ。俺、てっきり」
 彼が影山を見たのは、カップラーメンを買いに行く時だった。ダッシュで靴を履き替えていたら、傍を無言で通り過ぎて行く男子を見かけた。
 覚えのある背中で、間違えるわけがない。あれは影山だったと、菅原は自信満々に言い切った。
 正面玄関を抜けて、正門には向かわずに角を曲がっていった。その方角にあるのは体育館、並びに部室だけだった。
 食堂は反対側だ。手ぶらで、奇異に思ったから良く覚えていると教えられた。
 求めていたわけでもないのに、何故か影山の情報が手元に集まってくる。
 変な感じだとざわざわする胸を撫で、日向は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんで、菅原さんは。おれが、影山と約束してるって思ったんですか」
 三組の友人といい、彼といい、どうして。
 一度きりなら偶々と思えたが、二度も立て続けに起きると、流石に偶然とは言えなかった。
 俯きながら尋ね、最後に思い切って顔を上げる。
 妙に切羽詰まった感のある後輩に、菅原は言われて初めて気が付いたのか、目を丸く見開いた。
 それからひと呼吸間を置いて、不思議そうに首を捻った。
「なんでって、言われてもなあ。なんか日向って、いつも影山のこと、探してる感じだし」
 明確な答えが見つからないようで、自問自答しながら呟かれた。
 それは勝手な思い込みだと、声を大にして叫びたかった。
「そんなこと、ない……です」
 けれど実際には、ぼそぼそと小声になってしまった。
 自信無さげな返答になったのは、思い当たる節がゼロではないからだ。
 放課後の部室で、日向が真っ先に探すのは影山だった。朝練の体育館で、彼が来ていないと不安で、落ち着かなかった。
 田中には、飼い主を待つ犬のようだと笑われた。トスというご褒美をもらおうとして、必死に尻尾を振っていると指摘された。
 その時は、そんな訳がないと怒った。全力で否定した。
 もし今同じ質問をされたとして、間髪入れずに否定出来る自信がなかった。
 顔を背けた日向に、菅原は肩を竦めた。
「んまあ、いいんじゃね? 良いコンビだと思うぞ、お前ら」
 影山はあんな性格だから、自分からぐいぐい行くことはない。日向のような奴が傍にいて、いざという時に背中を押してやれれば、先輩としても安心していられる。
 そんなことを口にして、副主将は歯を見せて笑った。
「おっと。ラーメン伸びちまうから、行くな」
「はい。お疲れ様です」
「また放課後なー」
 そうして手に持ったままのものを思い出し、時間を気にして足をばたつかせた。
 にこやかに挨拶されて、日向は再度頭を下げた。駆け足で階段を登っていく三年生を見送って、疲れ始めている利き腕と、そこに連なる弁当箱に口を尖らせる。
 いつの間にやら、日向と影山はセットで扱われるようになっていた。
 確かに練習中はなにかと衝突して、いがみ合い、それでいながら喧嘩の原因はすぐ忘れる。影山も本気で腹を立てているわけではなくて、凸凹だらけのようで、ふたりは意外に良い組み合わせだった。
 もっとも当人としては、若干認め難いものがあった。
「ちがうのに」
 クラスが違う。住んでいる場所も違う。
 育った環境が違う。家族構成も、交友関係も、まるで違う。
 共通点はバレーボールくらい。そこに人生の全てを注ぎ込む覚悟で、たとえ身体がクタクタになろうとも、手を抜くだとか、そういう考えは一切持ち合わせていない。
 初めて同じ温度で接せられる相手だった。
 中学時代から、高校生になった後も、常に周囲との温度差を感じていた。そこまで熱中できるなんて羨ましい、と言いながら、どこか憐れんでいるような、高い場所から見下されているような視線は不快だった。
 影山だけだ。
 バレーボールが好きだと主張して、「俺の方が好きだ」と返してくれるのは。
「……どうしよっか」
 部室に行けば、きっと影山が居る。
 周囲の悪意なき思惑に乗せられているようで、少し癪だった。
 かと言って、教室に取って返すのはもっと癪だった。
 仕方なく、彼は下駄箱の扉を開けた。履き慣れたスニーカーを取り出して、上履きを脱いで履き替えた。
 途中の自動販売機で飲み物を買い、第二体育館の脇を抜けて部室棟へと足を踏み入れた。
「失礼しあーっす」
 ドアに鍵は掛かっていなかった。
 二階の、左端。他の部屋よりほんの少し広めの部屋は畳敷きで、靴を脱いで入る決まりだった。
 ノブを回し、思い切って扉を押す。若干鼻にかかった声で挨拶をして、薄暗い室内に一歩踏み出す。
 返事はなかった。いる、と聞いていた相手が居ない現実に、日向は困惑を隠しきれなかった。
「あ、れ?」
 電気は点いていなかった。窓から射しこむ光は明るいが、それだけでは内部を照らすには不十分だった。
 湿布の臭いが鼻についた。それ以外にもいろいろなものが混じり合って、饐えた臭いがそこかしこから漂ってきた。
 あまり気分が良いものではない。思わず鼻を塞いで、日向は数回、瞬きを繰り返した。
 明るい場所から暗いところに出たので、焦点が上手く定まらなかった。ほんのりぼやける視界をクリアにすべく、彼は呼吸を整え、唇を舐めた。
「……いるじゃん」
 一秒後、がっくり肩を落とす。
 返事がないのでてっきり無人かと思いきや、壁際に、よくよく見れば大きな体躯が転がっていた。
 右手を腹に乗せ、左手は床に添えて。
 畳の上で、影山が横になっていた。
 目は閉じていた。すぅすぅと寝息が聞こえて、日向は膝から崩れそうになった。
「結局寝てんのかよ」
 なにか用事があったから、わざわざ部室に来たのではなかったのか。
 眠るなら教室でも出来ただろうに、影山の真意がさっぱり読み解けなかった。
 苦笑して、肩を落とす。盛大にため息を吐いて、日向は靴を脱いで上がり込んだ。
 電気も点け、弁当は学校の備品である机に。先に窓を開けて、彼は教室にあるものと同じ椅子に腰かけた。
 顔も名前も知らない卒業生が、どこかから持ち込んで、放置して行ったに違いない。足元の畳には椅子の擦れた痕が目立ち、酷い荒れ具合だった。
「う……んム」
「爆睡してやがる」
 傍を往復したのに、影山は起きる気配がなかった。仰向けに寝転んで、蛍光灯が点いた瞬間だけ眩しそうに顔を歪めた。
 風通しが良くなった室内に、寒そうな身振りも見せた。しかし瞼は閉ざされたままで、黒濡れた瞳は拝めなかった。
 もっとも、その方が有難かった。
 人が食べている時に、あれこれ言われたくなかった。手を出され、貴重な食料を盗み取られるのも嫌だった。
「そういやこいつ、飯食ったのかな」
 菅原が見た彼は、手ぶらだったという話だ。部室にも、食べ物の匂いは残っていなかった。
 彼が愛飲している、乳酸菌飲料のパックも見当たらない。
 今になって気になって、日向は眉を顰めた。
 けれど確かめようにも、本人は眠っている。これしきで叩き起こすのも可哀想で、彼は気にしないよう自分に言い聞かせた。
 影山のことよりも、まずは自分のこと。
 さっさと食べ終えてしまおうと決めて、彼は弁当の包みを開き、箸を取り出した。パック牛乳にストローを挿して、咥内を湿らせて喉を潤した。
「いただきます」
 手を合わせ、目礼する。すべての食材と、調理してくれた母に感謝して、毎日過不足なく食べられる幸福を噛み締めた。
「うま」
 冷凍食品は使わず、すべて手料理なのが母のすごいところだ。朝早くから起きて、準備する手間は、想像を超える大変さに違いなかった。
 母の日の贈り物が、カーネーション一輪では申し訳ないくらいだ。
 妹と相談して、今年はもうちょっと良いものを選ぼう。財布的には厳しいけれど、兄妹の力を合わせれば、少しくらいは贅沢が出来るはずだ。
 ぼんやりしていたら、あっという間に日が来てしまう。気持ちを引き締め、日向は次々に米や野菜を口に運んでいった。
 弁当には肉もたっぷり入っていて、栄養のバランスはばっちりだった。
 これでデザートがあれば、文句なし。
 もっとも流石の母も、そこまでフォローしてくれなかった。
「坂ノ下、いこっかなあ」
 副菜の残りが半分を切ったところで手を休め、窓の外を見る。春の風は心地よく、優しく通り過ぎていった。
 穏やかで、安らかな時間だった。寝こけている影山のことなど、完璧に頭から抜け落ちていた。
 だから。
「行って、どうすんだよ」
「そりゃー、アイスか、肉まんか、……って、お前いつの間に!」
 突然話しかけられて、日向は疑問の思うことなく合いの手を返しそうになった。
 喋っているうちにハッとして、箸を落としそうになった。慌てて右手で握り直して、のっそり起き上がった黒い影に総毛立った。
 知らぬ間に、男が目覚めていた。もぞもぞと身じろいで、重い頭を利き腕で抱え込んでいた。
 足を投げ出し、畳に腰を落とす。表情は見え辛いがかなり険しく、寝起きと相まって相当不機嫌そうだった。
 剣呑に尖った気配を感じとり、警戒した日向は椅子の上で後退した。
 座ったまま壁ににじり寄った彼を睨み、影山は数回瞬きをして、顔を覆っていた手を下ろした。
「ンだよ。人が折角……」
 ぶつぶつと文句を言い、かぶりを振る。動きは鈍く、全体的に怠そうだった。
 調子が悪いのだろうか。朝の練習時を思い返す限り、そんな様子はなかったのだけれど。
 授業を受けているうちに体調を崩し、ここで休んでいたのであれば、悪いことをした。保健室へ行けばいいのに部室に来たのは、保険医から練習禁止を言い渡されたくなかったからだろう。
 あれこれ勝手に考えて、様子を窺う。影山は欠伸をかみ殺し、眠そうな目尻を擦っていた。
 宙をさまよった眼差しは、やがて日向ではなく、机の上に向けられた。
「美味そうな匂いがする」
「そりゃ、……って、いって。なにすんだよ」
 そうしてぼそっと呟いたかと思えば、日向が相槌を打つ邪魔をして、いきなり足を繰り出して来た。
 蹴られ、日向は膝を揃えて持ち上げた。打たれた場所を庇い、座面の裏に踵を貼りつけて影山を睨む。けれど彼も小鼻を膨らませ、苛立ちを隠そうとしなかった。
 突然の暴力に、心優しい日向も堪忍袋の緒が切れそうだった。
 奥歯を噛み締めて眼力を強めれば、いつもなら挑発に乗ってくる影山が先に目を逸らした。後頭部に手をやって、八つ当たりを反省したのか、気まずげに顔を背けた。
「ん?」
 珍しい反応に、日向は目をパチパチさせた。影山はそれを横目で窺って、寝癖を弄っていた手を下ろした。
 肩の力を抜き、溜息を吐かれた。背中を丸めて小さくなって、彼は長い足を引き寄せた。
「影山?」
「…………っう」
 怪訝に名前を呼ぶが、反応は鈍かった。
 その代わりと言ってはアレだが、彼の腹の虫が、ぐぅぅぅぅ、と盛大に音を響かせた。
 日向も大概腹がうるさい方だが、ここまで大きいものはあまりない。両者の間には一メートル近い距離があったのに、はっきり分かるくらいに鳴った音に、影山の顔はみるみる赤くなっていった。
「今の、って」
「うっせえな。ほっとけよ」
 これは本当に、腹の虫なのか。
 少しばかり疑ってかかったら、影山は目を吊り上げて声を張り上げた。
 唾を飛ばしながら吠えられて、日向は緩慢に頷いた。呆気に取られてぽかんとして、自然と手元に集まっていた情報を合算する。
 手ぶらで、昼休み開始直後に教室を出て、部室に引き籠って。
 部屋の中には食べ終えたパンの袋や、弁当の残骸は見えなかった。
 それは、つまり。
「お前、もしかして昼、食ってねーの?」
「そうだよ。悪いかよ」
「なんで」
「忘れたからに決まってんだろ!」
 もしやと思い尋ねれば、逆ギレされた。牙を剥いて怒鳴られて、日向は意外過ぎる事実に唖然となった。
 教室にいなかったのは、皆が食事を楽しむ中、ひとりで空腹に耐える環境が辛かったから。
 部室で眠っていたのも、空っぽの胃袋を宥め、誤魔化す為に違いない。
 だというのに、日向がやって来た。人の気も知らずに弁当を広げ、美味しい料理に舌鼓を打っていた。
 蹴りたくなる気持ちも分かる。合点が行って、頬が自然と引き攣った。
「財布も?」
「今使ったら、練習前に食うモン買えなくなるだろ」
「ははっ」
 念のために訊けば、答えは簡潔だった。
 昼間の耐え難い空腹も、部活動に参加出来ないのに比べれば、大した問題ではない。そうキッパリ断言してみせた彼の潔さには、感嘆すると同時に、笑うしかなかった。
 そして皆が教えてくれた情報に、少しばかり感謝した。
「しょうがないなあ、影山は」
「るっせ」
「そんなしょうがない影山君に、おれの弁当を、ちょこーっとだけ譲ってあげよう」
「マジか!」
 腹の底から笑い、声を響かせる。箸の先を三センチほど広げて囁けば、影山は大仰に反応して身を起こした。
 片膝を立てて伸びあがった男の、過剰なまでの反応ぶりに、日向は益々笑いが止まらなかった。
 影山が気になるのは、目が離せないから。
 放っておくと馬鹿な事をして、取り返しのつかない事になりそうだから。
 でっかい弟が出来たようなものだ。手間のかかる家族が増えて、兄としてしっかり見張っておかなければ、という義務感を抱いているだけだ。
 きっとそうだ。
 そうに違いない。
「言っとくけど、全部はやらねーからな」
「分かってるって。日向、俺、そのから揚げ食いたい」
「これはおれのだから、ダーメ!」
「食って良いって言ったじゃねーか」
「おれが好きな奴は、……って、手づかみで食ってんじゃねーよ!」
 自分に言い聞かせ、伸びて来た手に悲鳴を上げる。サッと潜り込んでパッと掴み、スッと引っ込めた影山に絶叫して、日向は机に寄り掛かって立つ男の足を蹴った。
 しかし影山はびくともせず、この隙に、と次々に惣菜を口に放り込んで行った。
「ああ、あぁあああ!」
「ん、んまい」
「影山のアホー!」
 同情してやったのに、憐れむ気持ちは見事に消え去った。椅子の上で両手両足を振り回して、日向は叩かれてもへこたれない、図々しい王様に蹴りを繰り出した。
 あっさり躱されて、腹立たしいったら、ありはしない。
 憤慨し、煙を噴く。影山は口角を歪めて笑い、癖のある茶色い髪を上から押さえつけた。
 頭を撫でられたところで、ちっとも嬉しくない。
 だというのに途端に力が奪われて、不貞腐れつつも、許してしまいたくなった。影山だから仕方がない、という不条理な理由で、受け入れてしまいそうになった。
 兄として、不出来な弟の世話を見てやらなければいけないから。
 このもやもやした感情はその所為だと言い訳をして、日向は影山の脛を蹴った。

2015/1/29 脱稿