「ひー、ちっかれたー」
「年寄り臭いぞ、龍」
「なんと!」
今日も賑やかに、部室のドアが開かれた。どやどやと雑談を交わしながら靴を脱ぎ、他の部屋よりは若干広い空間に、排球部員が雪崩れ込んだ。
スニーカーがひっくり返っていようとも、誰も気に留めたりしない。踏まれるのが嫌な部員は安全な端に自ら寄せて、額に噴き出た汗をタオルで拭った。
室内は冷えていたが、人が溢れたお蔭で温まろうとしていた。外では秋風が吹き荒れており、鍵のかかった窓がカタカタ揺れていた。
暖房という便利なものは、ひとつとして存在しない。誰もが練習で温まった身体を維持しようと必死で、着替えは素早かった。
足を踏み鳴らして小刻みに身を揺らし、余分な会話は一気に減った。
「あー……もうじき雪が降るよなー……」
「嫌な季節がやってくんぜ、まったく」
しかし思春期の青少年が、そう長く黙ったままではいられない。ずる、と鼻水を啜って寒さを堪えた田中の弁に、西谷が即座に合いの手を挟んだ。
いの一番に部室のドアを潜った彼らは、既に着替えの大半を終えていた。後は学生服の上に上着を羽織り、晩秋の風を遮る手段を講じるだけだった。
「どーよ。今年の新作!」
「おぉ、かっちょいい!」
そんな中で、西谷が真冬でも通用しそうなダウンジャケットで胸を張った。隣にいた田中がすかさず歓声を上げて、手元に集中していた部員らは一斉に彼を振り返った。
騒ぎを遠巻きに眺め、学生服のボタンを嵌めていた縁下は苦笑した。
「お前、今からそんなんで大丈夫か?」
「へーきじゃね?」
まだ十一月も半ばを過ぎたところだというのに、気が早いと言わざるを得ない。着膨れしてモコモコになっている西谷に小首を傾げた彼は、あっけらかんと言い返されて小さく肩を竦めた。
田中も缶バッチ付きの毛糸の帽子を頭に乗せ、耳が隠れるくらいまで引っ張っていた。
「今日は風がつえぇしな」
「ああ、それもそうか」
飛ばされないようしっかり被った帽子を撫で、視線を受けた彼が呟く。それで縁下も納得して、ガタガタ五月蠅い窓を眺めた。
太陽はとっくに地平線に沈み、外はすっかり暗くなっていた。
「今から帰ったら、八時過ぎか」
続けて壁際の古い時計に目をやってぼそりと零す。コチコチと時を刻む針の音に耳を澄ませた彼に、珍しいと田中が目を丸くした。
十九時半までの放課後練習が終わり、自主練習で居残る生徒も今日は居ない。大柄な男子がひしめき合っている空間で、彼の声は意外に大きく響いた。
「なんか急ぎの用でもあんのか?」
「バーカ」
「ほぉぉぉ?」
「違いますよ。今日は世界大会のテレビ中継、あるじゃないですか」
「ああ!」
首を傾げながら問うた田中に、縁下の合いの手は手厳しい。当然のように反発して目を吊り上げた彼を宥めたのは、意外にも厄介事を嫌う一年生だった。
黒い学生服にダブルのダッフルコートを羽織った月島が、襟を整えながら口を挟んだ。それで田中は思い出して、成る程と手を叩いた。
恐らく彼以外のメンバーは、全員分かっていたに違いない。彼らが毎月購入している専門雑誌にも、日程や対戦カードが早々と掲載されていた。
世界レベルで活躍するプレイヤーは、彼らにとって憧れの存在だった。
と同時に、いつかは叩きのめしてみたい存在でもある。それは日本代表としてコートに立っている選手たちも同様だった。
いずれ、自分も、あの舞台に。
夢にまで見た眩しい光景に思いを馳せて、彼らはコクリと頷いた。
試合自体は昼間から行われているが、日本戦だけは夜にテレビで中継される。不必要なコメントやコマーシャルが鬱陶しいが、直接見に行けない分、画面越しでもプレイが見られるのは有難かった。
だから早く帰って、テレビの前に陣取りたい。そういう意図があった縁下に触発されたか、成田が焦って足を踏み鳴らした。
「やばい。俺、録画してない」
「試合って何時からだっけ」
「七時だろ。もう始まってる」
「急げば、第二セットから間に合うか」
皆、帰り支度が整い始めたからだろう。先ほどまでの静寂が嘘のように、あちこちから声が響いた。
各々腕時計や携帯電話を確かめ、中には試合がどうなっているか調べる部員もいた。気が急いた一部のメンバーは、こうしてはいられないと鞄を担いで棚の前を離れた。
混みあう部室を横断し、靴を履こうと身を屈める。一気にごった返した入口を遠巻きに眺め、月島は呆れた顔で溜息を吐いた。
彼自身には、急いで帰ろうという気はなかった。
録画は一週間前から予約してあるので、慌てる必要はない。自宅のレコーダーには追いかけ再生機能がついているので、第二セット終盤というような中途半端なタイミングからでなく、試合開始直後から観戦出来るのも強みだった。
夕飯を食べながら、ゆっくり、じっくり、ミドルブロッカーたちの動きを観察する。今晩の楽しみを脳裏に思い描き、彼は特にズレてもいなかった眼鏡を押し上げた。
出入り口の混雑は多少解消されて、開け閉めが繰り返されたドアからは冷たい風が流れ込んでいた。
室温も急激に下がり、肌寒さを覚えた。ぶるりと震えあがり、彼は襟のホックを慌てて掛けた。
喉が詰まって若干息苦しいが、寒いよりは良い。これで後は帰るだけ、と鞄に手を伸ばして、肩に担ごうとした時だ。
「……なに」
くいっと後ろから袖を引かれ、月島は剣呑な表情で振り返った。
持ち上げていた荷物を棚に戻し、人が減った空間で眉を顰める。メガネの奥で目を眇めた彼の傍らには、しどけなく微笑む少年が立っていた。
見た目は中学生くらいだが、これでも月島と同学年だ。フード付きのウィンドブレーカーはオレンジ色で、夜間でも目立つ色合いだった。
ひと山越えた向こう町から自転車通学をしているので、この格好だ。薄着に見えるが意外に暖かく、軽いので動き易いという話だった。
そんなチームメイトに見上げられて、首を捻る気も起きなかった。
「日向」
「うへへ」
呼び止めた癖に、用件を言おうとしない。名前を告げれば意味不明な笑みを浮かべられ、月島は口をヘの字に曲げて肩を落とした。
日向は排球部でも一、二を争うほどのバレーボール好きとして知られていた。
しかしその好きの度合いは、見る方よりも、自分がプレイする方に大きく傾いていた。だから入部当初は他人のプレイなど意に介さず、プロ選手についても詳しくなかった。
トスを欲しがり、スパイクを打ちたがった。コンビプレイなどしたことがなく、囮を任された時も、その重要性を理解していなかった。
憧れの存在は数年前に烏野高校を春高へ導いた、背番号十番の背中だけ。参考にする選手がいないので具体的にどうなりたい、という形を持たず、夏前まではセッターの影山に従うプレイスタイルだった。。
雛鳥は空を目指し、飛び方を探し始めた。夏合宿に於ける第三体育館での時間は、不本意ながらも有意義な出来事だった。
あれ以来、日向は色々な選手に興味を持ち始めた。日本国内の選手に限らず、世界レベルで参考になるプレイヤーを追いかけ始めた。
嫌な予感しかしない。
歯を見せてにんまり笑う日向から目を逸らし、月島はゆるゆる首を振った。
「……嫌だよ」
「えー!」
そんな彼が、世界大会に関心を持たないわけがない。
眼差しだけで目的を悟り、周囲に聞こえないよう小声で囁く。しかし気遣い虚しく、日向は大仰に反応した。
突如響いた大声に、居残っていた部員が驚かないわけがなかった。
「え、なに?」
着替えにもたついていた山口が、防寒具を羽織りながら振り返った。靴を履こうとしていた影山も様子を窺い、聞き耳を立てているのが感じられた。
日向は空気を読む、ということをまるで知らない。鬱陶しい事この上ないチームメイトに嘆息して、月島は右のこめかみを小突いた。
「日向、うるさい」
「ゴメン、ツッキー」
「んん?」
「あれ?」
定型句とも言える文句を口にすれば、何故か咎められていない山口が反応した。言った月島もまさかそちらから返答が得られるとは思っておらず、変なところから声が出た。
当の山口は不思議そうに首を傾げ、数秒の間を置いてから赤くなった。勘違いに気付いて恥ずかしそうに身を捩り、そばかすが残る頬を両手で隠した。
「ご、ごめん」
月島に五月蠅いと言われるのは、大抵の場合、彼の方だ。だから今回も、てっきり自分宛てだとばかり思い込んでしまった。
そう言いたげな態度を見せられて、惚けていた三人は各々異なる反応を返した。
影山は興味を失ったのか、靴紐を引き締めて立ち上がった。月島は力なく肩を落として項垂れて、日向はケラケラ笑って床を踏み鳴らした。
「山口、何言ってんの」
「だって、しょうがないだろー」
脊髄反射で謝ってしまった。癖のようなものだと言い張る彼に再度嘆息して、月島は眼鏡を直して鞄を引っ張った。
半月型のスクールバッグを左肩に担ぎ上げ、影山が出て行った扉を一瞥する。そのまま古びた畳を蹴って外へ向かおうとして、またも横から手が伸びて来た。
今度は両手で握られて、咄嗟に払えなかった月島は渋い顔をした。
「日向」
「いーじゃん、別に」
「だから、嫌だって。大体、君の分の夕飯なんてないんだけど?」
「んんん?」
再開されたふたりの会話に、山口ひとりがついて行けない。蚊帳の外に置かれた彼は眉目を顰め、聞き捨てならないやり取りに目を白黒させた。
月島の口からから飛び出した「夕飯」という単語にピクリと反応し、慌てて日向を振り返る。小柄なチームメイトは拳を振り回し、心配無用だと胸を張った。
「いいって。おれのは、コンビニでおでんでも買ってくから。な?」
「そういう訳にはいかないでしょ。ちょっとはこっちの身にもなってよ」
得意げに主張して、即座に却下されて頬を膨らませる。やり取りからは慣れた雰囲気が感じられ、山口は頬を引き攣らせた。
会話の端々から察するに、日向は月島の家に行きたがり、月島はそれを拒んでいる、という状況らしかった。
いったいいつの間に、そんなに仲良くなったのだろう。
初対面時から馬が合わなかった彼らの意外な一面に、驚愕が隠せなかった。
「えーっと、……うん。俺、帰るね」
「あ、なあ。山口からも何か言ってやってよ」
「えええ?」
このまま此処に居ても、疎外感が強まるだけだ。
人付き合いが下手な幼馴染みの成長に感動しつつ、退席しようとした彼だが、うっかり別れの挨拶を口にした為に、突如日向に絡まれた。
唐突に水を向けられ、助けを求められた。しかし援護射撃を求められても、詳しい事情がさっぱり分からないので、何を言えばいいかも分からなかった。
混乱して左右を見回す山口に、月島は息巻く日向の首根っこを捕まえた。
「僕の家のテレビの方が大きいから、そっちで見たいんだって」
「へ、え。へええええ~~~……」
困り果てている幼馴染みを救出し、一度も会話に出て来なかった裏事情を手短に説明する。その淡々とした口調と解説に、山口は緩慢に頷くしかなかった。
たったあれだけのやり取りで、日向の目的や要望をそこまで理解出来るとは。それ以前に、月島家の液晶テレビが超特大サイズだと知っているくらいに、日向が彼の家に通っているのも驚きだった。
押しが強い日向が、興味本位で行きたがるのは分かる。
だが他人と深くかかわろうとしない月島が、ただでさえ五月蠅い日向の来訪を許したのは信じ難かった。
全然知らなかった。
驚き過ぎて口をぽかんと開いて、山口は吊り上げられて暴れる日向に見入った。
「ンだよ。いいじゃんか。お前ん家の奴、試合の最初っから見られるんだろ。だったらおれも見たい」
「君だって自分で録画してあるんじゃないの。家に帰って大人しくそっちを見なよ」
「やだ。だって気になるじゃん。それに月島のおばさんだって、いつでも来て良いって言ってたし」
「社交辞令ってものを理解しようね、日向?」
「いででででででで」
しつこく食い下がる日向にキレたのか、月島がにっこり微笑んだ。凍り付くような笑顔で柔らかな紅色の頬を抓み、爪を立てて思い切り捩じった。
痛がる日向をぱっと解放して、疲れた顔で肩を竦める。立っていられず尻餅をついた少年は、抓られた場所を撫でて涙目で鼻を啜った。
膨れ面を作り、背高のチームメイトを睨むが効果はない。こう着状態に陥って、山口はどうしたものかと溜息を吐いた。
「じゃあ、俺、帰るね」
「えー!」
自分がここに居たところで、出来ることはなさそうだ。気疲れは溜まる一方だし、時間も無為に過ぎていく。
再度退席の言葉を述べて、日向に抗議されたが、今度は耳を貸さなかった。
「お疲れ様。日向、あんまり我儘言わないようにね」
「だってさ」
「む~」
ひらりと手を振り、駄々を捏ねる友人を優しく諭す。思わぬ味方の登場に、月島はにんまり笑って、救援が得られなかった日向は口を尖らせた。
未だ床に蹲ったままの彼は、山口が出て行くのを見送ってから再度月島を仰いだ。
「どうしてもダメ?」
「ダメ。そういうのは、もっと早く言ってよね」
渋々起き上がり、強請るが、取りつく島はなかった。返答の内容は変わらず、新たに注文が付けられた。
ならば前日のうちに頼んでおけば、承諾してもらえたのか。
明日も試合があっただろうかと考えて、日向はちらりと傍らを窺った。
「あるよ、明日も」
「え、マジ?」
何も言っていないのに、話が繋がった。
テレパシーが通じたと驚嘆して目を丸くして、彼は月島の顔をまじまじと見つめた。
コロコロと入れ替わる表情は、あらゆる感情が剥き出しだった。考えている事など楽に想像がつき、思考を先読みするのも容易だった。
こんなに分かり易くてどうするのか。
単純馬鹿、と心の中で呟いて、月島は頬を紅潮させる日向の額を小突いた。
「あだっ」
「でも、明日もダメ」
「えー、なーんでー」
「だって君、うるさいから」
「ぶーぶーぶー」
期待の眼差しを向けられても、彼はつれなかった。不貞腐れて文句を言われるが意に介さず、すっかり人気がなくなった部室を眺めて肩を落とす。
日向は強豪チームが繰り広げる熱戦に、逐一身体を動かして反応した。
これまでにも数回、月島は日向が興味を持った試合のビデオを見せてやった事があった。東京の黒尾や木兎が何故か月島宛てでディスクを送りつけてきて、孤爪経由で日向もそれを知るものだから、見せろと騒がれて、仕方なく家に招き入れた。
日向の自宅には、ブルーレイの再生機がないのだそうだ。このご時世、まだビデオテープが大活躍していると聞いた時は、顎が外れるかと思った。
そういう訳で、日向は数えること十数回、月島の家を訪ねていた。
観戦中もじっとしておらず、スーパーレシーブが登場すれば目を輝かせ、三枚ブロックをものともしないスパイクには跳び上がった。その動きはまるで子供で、月島は画面に集中出来なかった。
しかも彼は、世界レベルの選手の名前も、顔も、まるで覚えていなかった。
日本代表でさえも、名前と顔が一致していない。覚える気すらないらしく、スパイクを決めたのは誰か、と逐一聞いてくるのも、月島を苛立たせた。
せめてもう少し大人しくしてくれないと、困る。一緒に見なければいい話だが、彼を部屋にひとり残しておくのも癪だった。
月島の家なのだから、月島が主導権を持つべきだ。それなのに日向はまるで進歩がなく、成長が見られなかった。
「……ど、努力、する。から」
「前もそう言ってなかった?」
「あー、もう。だったら、前みたいに。お前がこう、おれをぎゅーってして、閉じ込めてればいいだろ」
「っ!」
手痛いところを指摘されて、日向も堪忍袋の緒が切れたらしい。突然伸びあがったと思えば大声で喚き立てて、両手をバッと広げると、自分自身を抱きしめた。
何かを暗喩する仕草に、月島は一気に青くなって左右を見回した。
幸い、部屋には他に誰も居ない。外も静かで、風がぴゅうぴゅう言っているだけだった。
挙動不審になった月島に鼻息を荒くして、日向は腕を交差させたまま頬を膨らませた。
興奮してか、紅は強まっていた。可愛らしい拗ね顔に口をもごもごさせて、月島は突飛な提案に顔を強張らせた。
否、それは日向側の突然の思いつきではなかった。
彼の言葉にあったように、月島が以前、動き回る日向に焦れた末に執った行動だった。
彼を膝の間に置き、後ろから抱きしめた。狭い場所に閉じ込めて、身動きが取れないよう拘束した。
三十センチほどある身長差がぴったり来て、日向も嫌がるどころか、悪くない座椅子にご満悦だった。距離感が狭まって、思いの外心地良かった。
だのに月島は、十五分としないうちに日向を解放した。試合中だというのに部屋を離れ、十分ほど帰ってこなかった。
トイレに行っていたと本人は言ったが、本当かどうかは分からない。
当時のやり取りを思い返しながら息巻く日向に、月島は苦々しい面持ちで頭を抱え込んだ。
「……絶対、嫌、だ」
「じゃー、どうすりゃいいんだよ」
声を絞り出して拒絶するが、日向は聞き入れない。是が非でも月島邸に行く、と言い張り、本来の目的はすっかり忘れ去られていた。
足を踏み鳴らす彼を盗み見て、月島は重い溜息で掌を湿らせた。
あの日、苦肉の策で日向を抱きしめた。すると大人しくなったので、良策だったと自分を褒めた矢先だった。
何気なく下を見れば、うなじが見えた。夏場の日焼けが残る細い首筋が、少し大きめのトレーナーから覗いていた。
いくら月島が平均より大幅に大きいとはいえ、同学年の男子が胸にすっぽり収まってしまうのは、いかがなものか。女子にだってした事がないのに、恋人にするような真似をチームメイトに行った事実にも、愕然とさせられた。
触れる体温は心地よかった。もぞもぞと身じろいで、都度状況を思い出して動きを止める日向が面白かった。
試合を見るどころではなかった。目の前の小さな生き物に視線が集中して、話しかけられてもすぐに気付けなかった。
苦しい体勢で振り返られて、その呼気が鼻先に触れた。至近距離で見る双眸は真ん丸で、無垢な表情は月島を信頼しきっていた。
その時、どんな話をしたのだったか。それすらも思い出せないくらいに、月島は浮足立っていた。
無邪気に微笑まれて、心臓が跳ねた。
今まで誰にも触れさせなかった領域に踏み込まれ、逆上せた時のように頭がくらくらした。近過ぎる距離感をあっさり受け入れている日向が信じられなくて、それを許す自分に驚嘆した。
小さくて、温かくて、思ったほど硬くない身体だった。
一度でも意識してしまったら、もう駄目だった。
屈辱だった。男としての本能が、よもや同性に――それもよりにもよって日向に働こうとは、一度として考えた事がなかった。
幸い、日向とは部活動以外では交流が少なかった。早朝練習と放課後と、その時間帯さえ我慢してしまえば、日中は彼のことを考えずに済んだ。
東京からの郵便物攻撃もここの所は静かだから、襲撃を喰らう危険性は少なかったのに。
墓穴を掘った。
田中達の会話に加わらず、さっさと帰れば良かった。
日向に対して抱く劣情を、向けられている当人は気付いていない。勿論言える訳がないし、言うつもりはさらさらなかった。
けれどあの日と同じことがまた起きたとして。
次、耐えられる保証は、どこにもなかった。
「月島の、ケチ」
「ケチで結構」
黙り込むチームメイトに痺れを切らし、日向がイー、と口を横に引き結んだ。
これで嫌われたかもしれない。折角縮まった距離が、また遠のくかもしれない。
それでも良かった。構わなかった。
金輪際、彼を家に招かない。
絶対に、部屋には通さない。
「ちぇー」
「いいから、帰るよ」
「なあ、明日さ」
「ダメだって言ってるでしょ。いい加減、しつこい」
感情に重い鎖を背負わせる。溢れないよう蓋をして、厳重に鍵をかけて海へと沈める。
軽口を叩きあって、一緒にバレーボールをして。
それ以上は望まない。
望んではいけない。
今の関係が心地いいから、そこから踏み外す愚行に出たくない。
勇気がなかった。
諦めたのか、日向は鞄を手に動き出した。靴を履き、手袋を嵌め、防寒対策を整えてドアノブへ手を伸ばす。
後ろからそれを眺め、月島は華奢な体躯を瞼に焼き付けた。
直後だった。
「んじゃ、いこっか」
無邪気に言われ、一緒に外へ出ようと誘われた。
月島は数秒の間を置いて静かに頷き、泣きたい気持ちを噛み殺した。
2015/1/7 脱稿