利休白茶

 黒い影が床に長く伸びていた。
 斜めに走ったそれは置かれた机や椅子に引っかかり、複雑な形を成していた。時折鳥の影がそこに紛れ込んで、一瞬で彼方へと消え去っていく。敷地を囲む形で植えられた木々は、最上階に位置するこの部屋には届かなかった。
 昼間はさぞや直射日光が眩しかろうが、夕暮れに差し掛かったこの時間帯はとても静かだ。季節も晩秋に差し掛かろうとしているから、余計なのかもしれない。
 秋の夜長とは言うけれど、昨今の若者はあまり読書に惹かれないらしい。司書ひとりしか居ない空間を振り返って、沢田綱吉は小さく肩を竦めた。
 その眼鏡の司書も彼の入室を確かめると、席を外したのか、振り返ればカウンターは無人だった。
 四人が座れる広めの机は寂しげで、早くここに来い、と急かしている風に見えた。
 読書コーナー傍にある背の低い書棚には、最近流行りの作家や、名の知れた文豪の本が並んでいた。当然漫画の部類は置かれていないが、歴史の解説本といったものは例外らしく、厳めしい武将の表紙が何冊か飾られていた。
 それらを順に眺め、彼は腰高の書棚の区画を抜けた。足取りに迷いはない。向かう先は、奥にある背高の書架だった。
 天井に迫る勢いで聳え立つそれらは、規則正しく整列し、静かに佇んでいた。
「はあ……」
 まるで深い森へ迷い込んだようだ。いや、紙は木から作られているので、この表現はあながち間違いでもない。
 活字の密林を前に落胆の息を吐いて、綱吉は重い足取りで狭い通路に踏み出した。
 クラスのその他大勢と同様に、綱吉だってあまり本を読まない。望んで学校の図書室へ近付こうなど、普段の生活を顧みれば到底考えられない事だった。
 しかし、止むに止まれぬ事情があった。
 地域の図書館まで出向く余裕はない。今日中に提出できなければ、更なる地獄が待っている。
 ずっと放置していた課題の提出を再三無視、もとい忘れ続けた結果、ついに国語担当がキレた。これ以上遅れるなら特別にもっと大変な課題を与える、と脅されては、従うより他になかった。
 あの顔は怖かった。普段温厚な人ほど怒らせるとどうなるか、痛いくらい思い知らされた。
 職員室での説教からなんとか逃げ出して、その足で図書室へ来たが、こうも人気がないとやる気が削がれてしまう。両側を埋め尽くす大量の本も、彼の精神を圧迫していた。
 隙間が出来ないくらいにみっちり詰め込まれた本は、年代を感じさせるものから比較的新しいものまで、実に様々だった。
 どういう基準で選ばれたのか、パッと見ただけでは分からない。だが並べ方には一定の法則があって、感覚を頼りに、綱吉は書棚の間を移動した。
「あった。これ、……とか。あとこれも、そうかな」
 遮蔽物がある為、通路は暗い。天井から注ぐ蛍光灯の明かりを寄る辺に、綱吉は紺色の背表紙を引っ張り出した。
 ハードカバーのそれは、とある俳人の作品集だった。
 職員室で聞いたばかりの名前を確かめ、小さく頷く。その隣にあった分もついでだからと取り出して、小脇に抱えて足早に森を抜け出す。
 埃とカビの臭いから解放されて、綱吉は一気に明るくなった視界に安堵の息を吐いた。
 出入り口近くのカウンターには、女性司書が戻っていた。
 足音を響かせた綱吉を一瞥こそすれ、興味はないのかすぐに注意を外す。髪型や目つきの所為で冷たい印象だったが、外見通りの人物像に感じられた。
 図書室では静かに。基本中の基本を思い出して、彼は手近なところにあった机に出して来た本を置いた。続けてずっと背負っていた鞄をおろし、ファスナーを開けて筆記用具、国語のノートを卓上に並べていく。
 ひと通り準備が終わったところで椅子を引き、綱吉は覚悟の面持ちで腰を下ろした。
 国語教師が綱吉に課した命題は、ひとつ。
 本日中に最低でも三本、短歌を作ること。
 それは元々、同じ教室で学ぶクラスメイト全員に出された課題だった。しかし綱吉はこれを忘れ、急かされてもまた忘れ、作ろうとして挫折し、いっそ担当教師が見逃してくれないかと期待した。
 残念ながら、目論見は外れた。これ以上の猶予は与えてやれないと、厳しめに叱られた。
「やるかなあ」
 国語教師の説教が、未だ耳に貼り付いている。頭ごなしに怒られたのに肩を落とし、綱吉は力なく呟いた。
 これが片付かぬ限り、今日は帰れない。タイムリミットは五時半――あと一時間半だ。
 職員室には、国語教師の本気度を表すかのように、綱吉用に見繕われた分厚い書籍が積み上げられていた。
 俳句を三本作るのと、これらを全部読み、読書感想文を一冊当たり十枚以上書くのと、どちらが良いか問われた。そんなもの、答えは決まっている。だがひとりになった途端、気力が抜けて思考は鈍った。
「なんでこんなことに」
 愚痴を零すが、自業自得だ。いい加減諦めるよう自分を慰め、綱吉はハードカバーの本を広げた。
 それは江戸時代に活躍した、有名な俳人の句集だった。
 綱吉ですらその名を聞いた事があるくらいだから、相当な知名度と言っていい。家に帰って聞けば、もしかしたらリボーンも知っているかもしれなかった。
 時代を経ても歴史に名を刻む、偉大な人。平々凡々とした人生を送る綱吉とは、天と地ほどの差があった。
「よいしょ、と」
 真似をするのは良くないが、参考程度に眺めてみるように。彼にそう言ったのも、例の国語教師だ。
 元の文を書き写すのは勿論、一部分を変えて提出するのもダメ。けれど雰囲気は掴めるだろうから、とにかく何作か読むよう言われた。
 綱吉が課題の俳句作成を放置した理由を、あの教師は良く理解していた。いきなり作れと言われても、言葉が頭に浮かんで来ない。思ったままを並べていったら、季語が抜けていてただの川柳になってしまう。
 下手なものを作ってクラスの皆に笑われるのも嫌で、先延ばしにしてこの有様だ。
「えーっと、なになに?」
 参考資料として引っ張り出して来たものは、二百頁近くある本だった。とても最初から目を通している暇はない。だからと適当に捲って、指が停まったページを試しに広げてみる。
 出てきたのは、おおよそ俳句とは関係なさそうな地図だった。
 所々に点が記され、傍には数字が配されていた。地図の下には地名が掛かれ、矢張り数字が割り当てられていた。
「なんか、もうこの時点で挫けそうなんだけど」
 どうやらこれは、どこでどの句が詠まれたか、その説明をしているものらしかった。
 綱吉の目的から大きく外れたページに行き当たり、それだけでやる気が削がれていく。伸ばしていた背筋はみるみる丸くなり、額の位置は下がって、あと少しで机に貼り付きそうだった。
 酷い猫背で紙面を覗けば、己が作り出した陰でなにも見えなかった。
「絶対、無理だっての」
「なにが?」
「俳句、詠むなんて……――」
 愚痴を零せば、思いがけず合いの手が返された。深く考えないままそれに答えて、更なる文句を口ずさもうとした矢先。
 ふと我に返り、綱吉は半分閉じていた瞼を限界まで押し上げた。
 直後、目に見えた光景に。
「うひぃぇぇえぇ!」
「図書室では静かに」
「なっ、んな、ななな、なんっ」
「静かに」
 吃驚仰天して椅子から転げ落ちそうになり、綱吉はホールドアップさながらに万歳のポーズを作って絶叫した。
 にわかには信じがたい状況に目を剥き、場所も忘れて捲し立てる。都度忠告されたが、応じるのは難しかった。
 最後は力尽くで黙らされた。あまり痛くはないけれど、全然痛くないとは言い切れない一撃を頭に食らって、彼は広げていた両手を閉じて頭に被せた。
 椅子の上で再び丸くなった少年を睥睨し、風紀の腕章を身に着けた青年が深く、長い溜息をついた。
 白の長袖シャツに黒い学生服を羽織っているその姿は、綱吉たちの服装とは一線を画している。ここ並盛中学校の制服はブレザーなのだが、とある委員会に属する人だけは、彼と同じ学ランだった。
 それも頂点に立つただひとりを除き、総じて床に付きそうなくらいに裾の長いものを着用していた。
 挙句に髪型はリーゼントで統一されているので、彼らが一堂に会している場面に遭遇すると、それだけで腰を抜かしそうになる。異様な光景は学外にも広く知られており、並盛町では学生服を着ているだけで不良に喧嘩を売られる有様だった。
 そうなってしまった元凶である人物を前にして、驚かないわけがない。顎が外れんばかりの顔になっている綱吉に肩を竦め、その男――雲雀恭弥は無防備な額を指で弾いた。
「アダッ」
「あと、図書室は寝る場所じゃないからね」
 避けようがなかった。まともに食らって呻いていたら、チクリと刺さるひと言が追加された。
 彼の目には、綱吉が机に突っ伏そうとしている風に見えたらしい。違うのだが、傍目からはそう思われても仕方がなかった。
 なにせ綱吉は、試験を受ければ零点ばかりの補習常習犯だ。既に貼られたレッテルを剥がすのは難しく、誤解を受けて当然だった。
 かといって、勘違いされたままでいるのは癪だ。頬を膨らませ、彼は少し赤くなった額から手を下ろした。
「違いますよ」
「へえ?」
 生意気にも反論して来た彼に、雲雀は興味を惹かれたようだった。
 彼が率いる風紀委員会は、文字通り風紀の乱れを取り締まる立場にあった。但し並みの取り締まり方ではなく、逆らう者には暴力も辞さない強硬派だった。
 彼らに喧嘩を売って、無事で済んだ人間は居ない。特に委員長の雲雀は隠し武器のトンファーを愛用し、歯向かう者たちを悉く薙ぎ倒して来た。
 綱吉も過去に数回、酷い目に遭っている。しかし彼に助けられた回数は、それを軽く上回っていた。
 怖いけれど強くて、底抜けに恐ろしいけれど、ある意味義理堅い。
 彼は良く分からない男だ。幾度か拳を交え、時には背中を預けて共闘し、ある時には綱吉を守るかのように前に出たりもする。
 気まぐれで、融通が利かず、傲慢で、不意に優しい。
 知れば知るほど彼のことが分からなくなる。戸惑い、迷い、彼をもっと知りたいと思ってしまう。
 トクリと跳ねた心臓を気取られないよう隠し、綱吉は窄めた口から息を吐いた。
「真面目にやろうと思ってたところです」
 さも話しかけられた所為で集中を乱された風に告げ、机上に広げた本を軽く叩く。雲雀もそちらに目を向けて、何を考えているのか、眉間に浅く皺を寄せた。
 素早い動きで瞳を走らせ、紙面に記されている内容をざっと読み解く。ほんの三秒の間に大まかな状況を把握して、彼は勉強する姿勢ではない少年に肩を竦めた。
「そう。それは失礼したね」
「どうも」
 悪びれた様子はないが謝罪を引き出すのに成功し、綱吉は溜飲を下げて右足を蹴り上げた。
 膝で天板の裏を軽く叩き、ついでとばかりに狭い空間で脚を組む。座ったまま身じろぐ彼を一通り眺めて、雲雀は何を思ったか、斜め前にあった椅子を引っ張り出した。
 背凭れを掴んで斜めに引きずった彼に驚き、綱吉は伏そうとしていた顔を瞬時に跳ね上げた。
「ヒバリさん?」
「勉強するんだろう?」
「いや、そうですけど」
「僕のことは気にしなくていいから」
「ええー?」
 怪訝に名を呼べば、ひらひらと手を振られた。この場から去る気はないらしく、固い木製の椅子に腰かけた青年に、綱吉は堪らず素っ頓狂な声を上げた。
 そして慌てて両手を使い、制御の利かない口を塞いだ。
 図書室では静かに。壁にも貼られている標語を思い出して首を竦めた彼を笑い、雲雀は綱吉が運んできた、もう一冊の本を引き寄せた。
「句集なんて興味あったの」
「いえ、それは……参考になれば、って」
 今度は叱られなかった。
 痛い想いをせずに済んだのは幸運だが、却って薄気味悪い。背中に冷や汗を一筋流して、綱吉はページを捲る雲雀に口籠った。
 右を上にして脚を組むポーズや、少し高くなった膝に背表紙を預けて本を読む姿は、恐ろしく様になっていた。
 まるで著名な画家の手による絵画のようだ。しかし彼は現実に存在し、意志を持ち、自由に動き回れる生きた存在だ。
 変なことを考えた。馬鹿らしいと首を振り、綱吉はペンの一本も出していない筆箱を撫でた。
「あの」
「ん?」
 どうやら彼は、本気でここに居座るつもりらしかった。
 時間的に、放課後遅くまで居残っている生徒が居ないか、学内を見回っている最中だったのだろう。下校時刻はまだ先だが、用もなく居座っている生徒は早めに追い出す、が風紀委員の方針だ。
 雲雀が誤解したままだったら、綱吉も荷物諸共放り出されていた。口答えしたのは正解だったと安堵するが、続けて別の難問が彼の前に立ちふさがった。
 要するに、雲雀にここにいられると、落ち着かない。
「ヒバリさんは、お仕事は……」
「心配はいらないよ。僕は君と違って、優秀だから」
「はあ」
 風紀委員長が何をしているのか、詳しくは知らないが、応接室を訪ねたら彼はいつも机に向かっていた。大量の書類を前に忙しくペンを動かし、草壁を秘書代わりに職務に励んでいた。
 それは良いのかと尋ねれば、自画自賛された。不遜な笑みを見せられた少年は呆気に取られ、やがて脱力して頭を抱え込んだ。
「俳句を参考にするなんて、……ああ、自作しろってことか」
「っく」
「それで? こんな時間に図書室に居るってことは、出来上がるまで帰るなって?」
「うわあぁん!」
 そこへ追い打ちをかけるように、雲雀が意地悪く目を眇めた。
 見方によっては楽しそうな表情で滔々と憶測を告げて、綱吉の腕が飛んできたところで言葉を区切る。攻撃をあっさり躱し、半泣きの形相で睨んでくる少年を愉悦混じりの眼差しで見下ろす。
 これでマフィアの後継者だというのだから、世の中は面白い。口角を歪めて笑う男を前に歯軋りして、ボンゴレ十代目は力尽きたように頭を垂れた。
 雲雀を相手にして、勝てる訳がないと最初から諦めている。不条理な敵には徹底抗戦も辞さない癖に、身近な相手にはあっさり降伏するところが、いかにも彼らしかった。
 苦笑して、雲雀は読み飽きた本を閉じた。
「簡単じゃない。たった十七文字でしょ」
「それが難しいから、こうやって悩んでるんじゃないですか」
 思うままに、リズムに乗せて。
 その気になれば五分で終わりそうだと雲雀が言えば、綱吉は机にぐったり寄り掛かって頬を膨らませた。
「ちゃんと季語も入れろって言われてますし」
「ああ、成る程ね」
 課題を出した教師は、手厳しい。季節に沿った言葉をひとつでも入れておかないと、絶対に認めて貰えない。
 お蔭でハードルが上がった。参考資料にと棚から出して来た本も、役に立ちそうにない。
 お邪魔虫も来てしまった。人の集中を乱す存在をちらりと窺えば、雲雀は顎に手をやって暫く沈黙した後、おもむろに椅子を引いて立ち上がった。
 綱吉の相手に飽きて出て行くのかと思いきや、彼が向かったのは出口とは正反対の方角だった。
 居並ぶ書架の間に潜り込み、ものの三分としないうちに出てくる。手にしているのは、古めかしい一冊の本だった。
「ヒバリさん」
「君には、蕪村や芭蕉より、こっちの方が分かり易いんじゃない?」
「はい?」
 差し出され、思わず受け取ってしまう。表紙に描かれていたのは、着物を着た老齢の男性の絵だった。
 サイズも小さめで、持ち運びやすい大きさだった。紙はやや黄ばんでいる。広げると、細かい文字が目に飛び込んできた。
「小林、いちちゃ……?」
「いっさ」
「小林一茶。誰ですか?」
「説明すると長いけど、聞きたい?」
「……遠慮します」
 知らない名前だ。しかも読み間違えた。雲雀の冷静な訂正に反射的に首を竦めて、綱吉は背を丸めたまま首を振った。
 時間は惜しい。無駄話をしている暇はなかった。
 そして無鉄砲に暗闇を突っ走るよりも、助言してくれる人に従う方が進みが早いのは、自明だった。
 今は雲雀の言葉に耳を傾ける方が得策と判断した。俳人の紹介は省略して貰い、綱吉は偶々目に留まった句に眉を顰めた。
「雀の子、そこのけ、そこのけ、お馬が……なにこれ。これも俳句なんですか?」
「そうだよ」
「でもこれ、季語が」
 文章は簡潔で、熟考されたものには見えなかった。しかも、それらしき季語が見当たらない。こんな安直なもので良いのかと驚き、彼は傍らの青年に問うた。
 雲雀は、この手の質問が来ると承知していたようだ。鷹揚に頷き、彼は綱吉の手元を斜め後ろから覗き込んだ。
 敢えて密着するよう身体を寄せて来られて、不用意に心臓が跳ねた。勝手に赤くなろうとする頬を懸命に隠して、綱吉は平静を装い、奥歯を噛み締めた。
 そんな反抗的な態度に目を細め、雲雀は意図的に耳朶に掛かるよう、息を吐いた。
「あるよ。最初の、雀の子がね」
 雀の雛が卵から孵るのは、春。
 その雛に向かって、馬が来るので避けろと言っているのだから、暦もまた、春。
「へえ、そうなんだ」
 知らなかった。感心して何度も頷き、綱吉は目に見えるような光景に頬を緩めた。
 次に出てきた句も、言葉は平易だった。お蔭で想像しやすい。分かり辛い季語については、雲雀が逐一解説してくれた。
 新しい事を知るのは、楽しい。知識が増えていくのを如実に感じて、綱吉は心を弾ませた。
「すごい。ヒバリさん」
 場所も忘れて興奮し、声を高くして振り返る。
 直後に息をのみ、綱吉はパッと顔を背けた。
「小動物?」
「なんでもないです、すみません」
 一瞬の出来事に、雲雀は眉を顰めた。怪訝に呼ばれて、綱吉は火照って熱い頬を両手で覆い隠した。
 あんな風に穏やかに微笑んでいるところを見せられて、平常心でいられるわけがない。感情に正直な心臓はバクバク五月蠅く跳ねて、頭が破裂しそうだった。
 距離の近さを忘れていた。あと少しで掠めるところだったのも、綱吉に緊張を思い出させた。
 早口に謝罪されて、雲雀は背筋を伸ばした。
 改めて下を向けば、真っ赤に染まったうなじが見える。椅子の上で小さくなり、カタカタ震えている様は可愛らしかった。
 男相手に、という気持ちもあるけれど、実際美味しそうなのだから仕方がない。噛り付きたい本能を抑え、雲雀は羞恥に喘いでいる少年の背中をつい、となぞった。
 瞬間。
「ヒィィィ!」
 裏返った甲高い悲鳴が、図書室内を突き抜けた。
 完全な不意打ちに、綱吉の全身にぞぞぞ、と悪寒が駆け抜けた。四肢は引き攣り、心臓はぎゅっ、と縮まって、全身の血液が凍り付いた。
 もっとも溶けるのは早く、綱吉は直後には我に返り、荒い息を吐いて胸元を撫でた。
「ひ、ひば、り、さん」
 悪戯の犯人を睨むが、琥珀色の瞳は涙で潤み、迫力は皆無だった。
 息も絶え絶えの少年を睥睨して、並盛中学校風紀委員長は意地悪く笑った。
「それで? 君はどんな句を詠むの?」
「まだ、出来てません」
「簡単じゃない、こんなの」
 他人の詠んだ歌に感動しているだけでは、課題は終わらない。お手本は沢山ある。飾らない率直な言葉で紡げば良いと教えられて、綱吉は口籠った。
 小難しく考えて、頭を捏ね繰り回していたから、却ってなにも出て来なかったのだ。
 思考はシンプルに、言葉は簡潔に。
 だが言われていきなり出来るほど、綱吉は器用ではなかった。
 口を尖らせ、彼はならば、と眼力を強めて雲雀に向き直った。
「じゃあ、ヒバリさんなら。どんなの、詠みますか」
 散々苛めてくれた意趣返しだと、語気も荒く問いかける。意外な方向から飛んできた反撃に、男は虚を衝かれたか、目を丸くした。
 そうしてすぐに相好を崩し、意味ありげに目尻を下げた。
「そうだね。僕だったら」
 人を散々煽っておいて、自分が出来ないのは格好悪い。即興で作ってみせるよう求められて、彼は黒い瞳を窓辺に投げた。
 西の空が赤く染まっていた。明日もきっと晴れる。夕焼けは眩しく、美しかった。
「そう、だな。……うん」
 少しの逡巡と、確かな決意と。
 宙を彷徨っていた双眸は、やがて綱吉へと戻された。真っ直ぐに見つめられて、頬がまたかあっと熱くなるのを止められなかった。
 雲雀が肩を竦めた。人差し指を伸ばし、彼は緊張でガチガチになった綱吉の顎を掬った。
 顔を寄せ、琥珀の瞳を覗き込み。
「頬染めて 秋の夕べの 逢瀬かな。……なんてね」
 しっとり濡れた低音で、甘く、囁く。
 何を告げられたのかすぐに分からなくて、綱吉は頭の天辺から湯気を噴き、目を白黒させた。
「あの、あの、ぅあ、ひぇっ」
「次は君の番だよ」
 あと数センチ。ちょっとしたきっかけで触れてしまえる近さに混乱していたら、素早く身を引いた雲雀が、ぽん、と肩を叩いた。
 促され、綱吉はきょとんとなった。左右を見回しても、当然ながら誰も居ない。カウンターにいる筈の司書も、いつの間にか行方を晦ましていた。
 正面に向き直れば、雲雀が不敵な表情で佇んでいた。
 たった十七文字に詰め込まれた、秋の景色。綺麗に切り抜かれた一風景に更に赤くなり、綱吉は底意地の悪い男目掛けて右足を蹴り上げた。
 雲雀は躱さなかった。黙って受け止めて、呵々と喉を鳴らした。
「まだ?」
 返歌を求められても、いきなりは無理だ。ただでさえ鈍い頭が熱暴走を起こしているのだから、思考力は最低レベルを記録していた。
 けれど何も言わずにいるのも癪だ。一方的に負かされるのは悔しくて、綱吉は下唇を噛んだ。
 上目遣いに勝ち誇った顔の男を、精一杯睨みつけて。
 綱吉は深く息を吸い、一気に吐き出した。
「ヒバリさん、意地悪すぎます……俺にだけ」
 どこか甘えた感のある調子でリズムを刻めば、黒髪の男はぽかんとして、直後、腹を抱えて笑い出した。
 図書館では静かに、と言っていたのはどこの誰か。自ら風紀を乱している男を前に、口を窄めて拗ねていたら、腹筋の痛みを堪えた雲雀が深く息を吐いた。
「季語がない。都々逸じゃないんだから」
「じゃあ、ちゃんとしたの作るの、手伝ってください」
 タイムリミットまで、あと一時間ちょっと。
 ひとりでは無理でもふたりなら、と安直に提案した綱吉に、学校を裏で取り仕切る男はやれやれと肩を竦めた。
「今回だけだよ」
 いつの間に、こんなに甘え上手になったのか。
 気が付けば、こちらが手玉に取られている。まったくもって油断ならないと目を眇め、雲雀は可愛くて仕方がない恋人の額を小突いた。

2014/8/7脱稿