Mystery Train II

 早朝、登校前の騒動は、瞬く間に部内全体に知れ渡る事となった。写真付きのメールは驚異的な速度で方々に転送され、後輩、先輩、レギュラー、マネージャーの垣根なく広まっていった。
 果ては他校の友人にまで、どういう経緯か、伝わる事となった。御幸の携帯電話は授業中も鳴りっ放しで、新着メールの件数は二桁を余裕で達成した。
 誤解だという旨を伝えるのにも限界があり、途中で疲れてしまった。匙を投げ、昼休みになる前に電源をオフにして、これでようやく静かになると思いきや、今度は教室に押しかけられた。
 徒党を組んでやってくるチームメイトや、全く会話をしたことがない女生徒まで、その範囲は幅広かった。いったいどこまで広まっているのか、考えるのも面倒で、億劫だった。
「ヒャヒャヒャ。大人気だな」
 昼飯を食べたばかりだというのに疲労はマックスで、油断すると口から魂が抜けそうだ。邪魔な眼鏡を外して机に突っ伏していたら声がして、顔を上げずにいたら、後頭部を叩かれた。
 衝撃は軽く、一瞬で終わった。痛くもない一撃は、緩く握った拳でもたらされたものだった。
「うっせえよ」
 本気の二発目は避けたくて、御幸は渋々身を起こした。椅子を引いて座り直し、左手にぶら下げていた黒縁の眼鏡を顔に掛ける。
 濁って霞んでいた視界に光が戻った。何度か瞬きして瞳を慣らし、彼は眉間に指を押し当てた。
「なんっかい、同じ説明をしたと思ってんだ」
「さーな?」
 癖になっている皺を揉み解しつつ、愚痴を零す。だが倉持は真面目に取り合わず、笑みを噛み殺しながら人の机に腰かけた。
 尻を半分ほど卓上に置いて、高い位置から見下ろす顔は楽しげだ。面白くて仕方がない、というのが窺えて、御幸はムッとなった。
 顰め面で睨まれても、倉持は笑うだけだった。
「誤解招くよーな事してんのが悪いんじゃね?」
「誤解を招くような角度で写真を撮る方が、どうかしてると思うがな」
 ズボンのポケットに手を入れて、背中を丸めた彼の弁には賛同出来ない。揶揄されて即座に言い返して、御幸は力を抜いて椅子に凭れかかった。
 決して座り心地が良いとは言えない固い背もたれに身を預けて、彼は見事な快晴が広がる窓に視線を投げた。
 広大なグラウンドの向こうには、住宅地が広がっていた。色とりどりの屋根が並び、人々の営みがこの距離からでも窺えた。
 そんな家々の間に、ぽっかり穴が開いていた。背の高いネットで囲まれた空間には、夜間照明の柱が聳え立っていた。
 あの傍に、彼らが日々生活を送る寮があった。朝から晩まで白球を追いかけ、汗と涙を流す練習場があった。
 その入口で、今朝、御幸は手のかかる後輩の面倒を見てやっていた。
 目にゴミが入ったという一年生投手の為に、手持ちの目薬を貸してやった。ひとりでは注せそうになかったので代わりにやってやり、頻りに目を擦ろうとする手を束縛した。
 それを、ひとりの上級生が写真に収めた。向かい合って立ち、異様に顔を近づけている後輩たちを写した一枚は、まるでくちづけを交わしている風に見えるものだった。
「亮さんを悪く言うんじゃねえ」
「俺は事実を言ったまでだ」
 御幸曰く、諸悪の根源は、青道高校硬式野球部三年生の、小湊亮一だった。
 彼が撮影した写真は、一時間とかからず主力メンバーの目に触れる事となった。更にそこから転送が重ねられ、ネズミ算式にあちこちへ広まった。
 野球部と何ら関係ない人間にまで、話は知られていた。小湊が一切の説明を省き、ただ写真だけを送信したのも、あらぬ妄想を掻き立てる要因となっていた。
 セカンドを守る技巧派選手を知る人間であれば、彼が仕組んだ悪戯として、冗談として流してもらえたかもしれない。だがそうでない相手は厄介で、事情をどれだけ正確に説明しても、一度では信じてくれなかった。
 勝手な想像を繰り広げ、隠したところで無駄だと息巻く女子もいた。いったい何をそんなに興奮しているのか、興味はあるが、聞きたくはなかった。
 後ろに傾いた体勢を維持し、御幸も両手をポケットに押し込んだ。上履きの裏で床を抉り、遠巻きに人を観察している声に耳を澄ます。
「てか、いいのか? 俺と一緒に居たら、お前も誤解されちゃうんじゃね?」
「ケッ。気色悪りぃ事言ってんじゃねーぞ」
 彼女らからすると、一緒に居るのが写真に写っていた一年生でなく、クラスメイトの倉持だというのが意外らしい。あれは誰だ、という囁きが聞こえて来て、御幸は肩を竦めた。
 槍玉に挙げられた方は心底嫌そうに吐き捨て、初めて人目を気にして視線を泳がせた。
 素早く机から降りて、別の机に寄り掛かる。人だかりが出来ている通路に背中を向けて立ち、周囲から見えにくい足が御幸の机を蹴り飛ばした。
 ガタガタ言うのを上から押さえつけて、彼は八つ当たりされた机を慰めた。
「つーか、いいのかよ。あいつらに本当の事、教えてやんなくて」
「面白がってるだけだろ。放っておけば、そのうちみんな忘れるさ」
 夏の大会が開幕して、野球部に関する話題は学校内でも盛んだった。去年はドラフト候補のスラッガーを擁していながら惜しくも敗れ去ったものだから、今年こそはという声は、昨年以上に大きかった。
 無論、野球部員は全員、甲子園へ行くつもりで練習を重ねていた。
 目の前で勝利が零れ落ちていった瞬間は、一年が過ぎても忘れ難いものがあった。その悔しさを糧にして、彼らは日々努力を重ねていた。
 だからつまらない噂話や、人の勝手な想像に振り回されてやる余裕は、御幸にはひと欠片も存在していなかった。
 同じブロックの強豪校も、着々と準備を進めている。余所事に気を取られて、足元を掬われるつもりはなかった。
 それが喩え己の身に関する話だとしても、だ。
 人がどう思おうが、関係ない。野球に青春を賭けると決めた時点で、周囲の雑音は御幸の耳に入らなかった。
 余裕綽々とした態度を崩さず、根拠もないのに自信満々に言い放つ。
 そんな彼の返答を受けて、倉持の顔が急に翳った。
 怒っているのか、目つきが険しい。突然どうしたのかと御幸が背筋を伸ばせば、彼はふいっと顔を背け、投げ出していた足を引っ込めた。
 そして。
「テメーは良いかもしれねえけどな」
 半ば独り言のように呟かれて、御幸は目を丸くした。
 パチパチと数回瞬きを繰り返し、そっぽを向いているチームメイトであり、クラスメイトを見やる。呆然としていたら一瞬だけ倉持が視線を投げて、奥歯を噛んで、また逸らした。
 苛立っている様子に、御幸の心も不意にざわついた。
「あ、ああ」
 彼が何を言いたいのか、恐らくだけれど、理解出来た。
 もわん、と浮き上がった不快な靄を服の上から握り潰して、御幸は緩慢に頷いた。
 例の写真に写っていたのは、御幸だけではない。
 もうひとり、この場に居ない人物が一緒だった。
「沢村、な」
「おう」
 ひとりごちれば、倉持が鷹揚に頷いた。
 憶測は正しかったようで、憤然とした面持ちで睨まれた。彼の両手は拳を作っており、指関節がポケットの内側から布を押し上げて、ズボンは横に膨らんでいた。
 中学時代の彼がヤンキーだったという話を思い出して、御幸は口元を手で覆い隠した。
「過保護」
「ンだと!」
 そのままぼそっと言えば、聞こえた倉持が眉を吊り上げた。
 瞬時にポケットから右手を出し、語気も荒く吠えた。遠くから歓声か、悲鳴だか分からない叫び声が聞こえたが、ふたりは揃ってこれを無視した。
 ただギャラリーが居る前で、変なことは出来ない。この大事な時期に暴力沙汰はご法度で、倉持は数秒経たずに腕を引っ込めた。
 処理し切れない苛立ちは溜息に混ぜて吐き出して、彼は後頭部をガリガリ掻き回した。
 乱暴なように見えて、倉持は人を見る目だけは確かだった。
 周りから腫れもの扱いを受けて来た為か、人のことを良く観察している。信じるに足るかを的確に判断して、気を許した相手にはとことん関わり、大切にする。
 彼と沢村は寮で同室で、その関係性は実の兄弟のようだった。
 だからこそ、気にかけているのだろう。話しかけて来た理由も、御幸をからかうのでなく、大事な後輩を気にかけての結果だ。
 その沢村は、馬鹿で喧しいだけなのに、意外に人の心を掴むのが上手かった。空気に自然と溶け込めるとでも言うのか、彼の周りには常に人の輪が出来ていた。
 きっと今も、話を聞き付けた面々に取り囲まれ、御幸と同じ言い訳を繰り広げているに違いない。
「あー……」
 お喋り好きな癖に語彙が少ない彼だから、話しているうちに誤解を生む発言が飛び出ているかもしれなかった。同時に複数から質問されて、混乱して、事実と異なる説明をしている可能性も否定出来なかった。
 写真を撮られた時、彼は状況をしっかり認識出来ていなかった。御幸とは違い、何が起きているのかを理解していたとは思えない。
 小湊に言われるままに学校へ向かって歩き出してしまって、カメラを向けられていたのにも気付いていない様子だった。きっと登校後に知らされて、寝耳に水で驚いたに違いない。
 光景を想像するのは容易だった。大袈裟に反応して、必死に否定に走る姿は楽に思い描けた。
「変な事、言ってなきゃいいけど」
 額の真ん中に指を遣り、俯いて呟く。こめかみの辺りに鈍痛を覚え、御幸は冷や汗の不快感をやり過ごした。
 背中を伝う生温さに耐えて、緩く首を振り、腕を机に置く。改めて倉持を見上げて、彼は椅子を引いて腰を浮かせた。
「お?」
「そーいや、倉持。お前、部屋の掃除ちゃんとしとけよ。今朝沢村が騒いだんだって、なんか目に入ったって、それでなんだから」
「汚くて悪かったな」
 立ち上がろうとする彼に驚き、倉持が半歩退いた。上から目線の忠告に反発して、悪態をついて床を蹴った。
 地団太を踏んでいるようにも見える彼から顔を上げて、御幸は一瞬ざわついた教室に溜息を吐いた。
 倉持が変なことを言うから、気になって仕方がなかった。
 一年生と二年生とでは、授業を受ける階が違う。他学年の領域には入り辛く、喩え下級生の階であっても少なからず緊張させられた。
「どこ行く気だ?」
「どこでも」
「沢村ンとこか?」
 自分があの独特の空間に足を踏み入れる光景を想像し、起こり得る可能性を頭の中のテーブルに広げる。だがどれを取っても良い結果は得られず、却って問題をややこしくするだけだった。
 もうひとつ嘆息を追加して、御幸は倉持に首を振った。ついてくるつもりでいるチームメイトを一瞥して、クラスメイト以外で賑わう教室の扉に目を向ける。
「行ってどーすんだよ。騒ぎがでっかくなるだけだろ」
「それもそうだな」
 最終的に御幸の出した結論は、なにもせずに放っておくこと。訊かれれば誤解だと説明するが、そうでなければ徹底的に無視し、やり過ごす作戦だった。
 だというのに、藪を突いて蛇を出してどうするのか。
 馬鹿なことを言うなと窘められて、倉持も納得だと頷いた。
 そして次なる疑問を抱いたか、首を左に傾けた。
「んじゃ、どこ行くのさ」
「購買」
 行き先をはぐらかされたのを、もう忘れている。言わないと延々質問されそうなのでここら辺りで正解を口にして、御幸は鞄から財布を取り出した。
 机の横に引っ掛けてあったスクールバッグを開け、教科書を掻き分けて目的の品を探す。今からだと行って、帰って来るのがやっとの時間しか残されていないが、教室で見世物になっているよりはずっとマシだった。
 動物園の動物たちも、こんな気分なのだろうか。
 狭い世界が全てと思い込んでいる獣に同情して、御幸は見付けた財布を掴んだ。
 取り出そうとして、一緒に詰め込んでいたものが巻き込まれて顔を出した。慌てて押し戻そうとして、指に触れた小さな容器に動きが止まった。
「御幸?」
「いや。なんでもない」
 不自然な体勢で硬直した彼に、倉持が眉を寄せた。
 目敏い彼に慌てて首を振って、御幸は飛び出そうだった目薬を鞄に戻した。
 これがあったから、こんな事になった。
 苦い感情を飲みこんで、薄い財布はズボンの後ろポケットへ。パンパンに膨れ上がるのも構わず奥まで捻じ込んで、彼は時計を一瞥してから歩き出した。
 混雑していた出入り口が、一瞬で無人になった。戸口から顔を覗かせていた面々は一斉に脇へ後退して、なんだか偉くなった気分だった。
「王様みたいだな」
「んじゃ、倉持は大臣か」
「やめとけよ。寝首かかれても知らねーぞ」
「ははは。そりゃ怖い」
 何もしていないのに人が避けてくれるのは、案外悪い気はしなかった。
 面白がって軽口を叩き合い、階段を見つけてそれを下った。一階まで出て昇降口前を通過し、磨かれた廊下を大股に進む。
 流石に一年以上通っているだけあって、道に迷う事はなかった。
 四月頃は、教室の場所が分からなくてうろうろする一年生を良く見かけた。青道高校は野球以外のスポーツにも力を入れているので、敷地はかなり広かった。
「しっかし、まあ。なんだろうな、アレは」
「ん?」
「なにが面白いんだか」
「ああ」
 購買はこの時間でも人が多く、それなりに繁盛していた。もっともパンや握り飯といった類はほぼ売り切れており、争奪戦はとっくに終わっていた。
 筆記用具などの文房具を買い足しに来た生徒が殆どで、御幸もその列に加わった。特に用がなかった倉持は入口手前で足を止め、手持無沙汰に辺りを見回した。
 レジの前には数人の生徒が陣取り、会計を待っていた。御幸はカラフルな蛍光ペンに狙いを定め、どれにしようかと目を眇めた。
「んー……」
 それほど勉強熱心でもないくせに、数だけ揃えて何に使うのか。
 スコアブックを色分けするつもりかと苦笑して、倉持はあまり縁のない場所に背を向け、まっすぐ伸びる通路に向き直った。
「ン?」
 そして騒ぎながら近付いてくる集団を見つけ、瞳を真ん中に寄せた。
 ただでさえ悪い目つきをもっと悪くして、首も前に突き出して前傾姿勢を取る。
 両手はポケットの中なので、傍目には凄んでいる風に見えただろう。そんな外見だけ物騒な不良の前方で、男子生徒三人が喧しく騒ぎ立てていた。
 身長が高いのと、中ぐらいのと、低いのと。
 その中でも特に人目を引く桜色の髪には覚えがあって、倉持はハッと息を呑んだ。
「あれ?」
 条件反射で背筋を伸ばし、気を付けのポーズを取ってしまった。しかし現れたのは部で一番敵に回したくない三年生ではなく、その弟である一年生だった。
 長い前髪で瞳を隠した少年は、妙に畏まって佇む二年生を見つけて小首を傾げた。
 先頭にいた彼が立ち止まった所為で、連鎖反応で後ろのふたりも足を止めた。勢い余ってぶつかりそうになって、つんのめって飛び跳ねた少年も、よく知った顔だった。
 更には止まり切れずに前を行く背中に覆い被さったのも、毎日会う顔だった。
 つまるところ、全員が野球部だ。寮生活を共に送っている後輩たちを前にして、倉持はタイミングが良いのか、悪いのか分からなくて頭を抱え込んだ。
「なにやってんだ、お前ら」
「なにって、倉持先輩こそ」
「おお、そこに見えるは我らが倉持先輩ではないですか。ちょっともー、酷いんですよ。聞いてくだせえ」
「うるせーぞ、沢村。騒ぐんじゃねえ」
 最初からぎゃあぎゃあ五月蠅かった彼らだが、倉持と遭遇した途端、もっと喧しくなった。近所迷惑も良いところで、半泣きで飛びかかってきた後輩を制し、彼はどうしたものかと半眼した。
 野球部の陰の支配者とも言うべき小湊亮介の実弟である小湊春一と、倉持と同室の沢村と、未だひと言も喋っていない剛腕投手の降谷。
 寮でも学校でも、クラスが違うのに仲がいい三人組が揃っていた。しかも沢村の口ぶりからして、あの写真騒動にとっくに巻き込まれているのは明白だった。
 ここでもし、御幸が出て来て騒ぎに加わったら。
 嫌な予感を覚えて、彼は後方を窺った。
 だが会計が終わっていないのか、トラブルの種が購買から出てくる気配は、今のところなかった。
 密かにホッとして、それから何故自分がこんなに気を遣わねばならないのかと腹を立てる。頭の中であれこれ目まぐるしく考えているうちに、一喝された沢村が頬を膨らませた。
 ぶすっと口を尖らせて、不機嫌を隠そうともしない。後ろでは小湊弟が、困った顔で笑っていた。
 例の写真の件で、本人のみならず、彼らも朝から大変だったに違いなかった。
「栄純君、ずっとこんな調子で」
「酷いっす。こんなのあんまりです。なんで俺が、あんな陰険眼鏡と付き合ってる事になってんですか。おかしいでしょ。ありえないでしょ」
「あー、はいはい。ソイツは災難だったなー」
 御幸と同じクラスだから、倉持も教室に押しかけてきた聴衆については承知していた。始業前から色々な人間に詰め寄られて、正捕手殿は弁解に必死だった。
 時間が経つにつれて、直接問い質しに来る数は減った。反面、尾ひれがついた噂を耳にした他クラスの女子たちが、面白がって遠巻きに見に来るようになった。
 流石にそういう連中を捕まえて、逐一誤解だと説明して回るのは面倒だ。ムキになって否定すれば、逆に信憑性があると早合点する輩も少なからず存在した。
 御幸が放っておくと決めたのは、一理ある。ただ当事者と学校内で良く一緒にいる所為で、倉持の周囲もずっと騒がしかった。
 沢村が受けた被害は、その比ではない筈だ。
 夜になっても愚痴を聞かされるのは確実だった。それを思うと憂鬱で、必死になって捲し立てた後輩に、やる気が全くない態度で言い返す。同情しているようで、バカにしている風にも取れる口調に鼻を愚図らせ、沢村は握った拳を震わせた。
「人が真面目に困ってんのに、倉持センパイってば、酷い」
「おうおう、悪かったな。なんだったら俺が今から、その喧しい口、塞いでやろうか」
「ヤメテぇ!」
 怒りの矛先を変えて、可愛くない後輩が怒鳴った。面と向かって罵られるのはあまり気分が良いものではなくて、倉持は不遜に笑うと、右手を伸ばして沢村の顎を鷲掴みにした。
 膨らんでいた頬を押し潰し、力任せに引き寄せて囁く。悪い顔で言われた方は一瞬で青くなり、全力で抵抗して倉持を突き飛ばした。
 もっとも大した力は入っておらず、まるで痛くなかった。倉持もあっさり彼を解放して、冗談だと腹を抱えた。
 ちょっと顔を近づけただけなのに、過剰な反応ぶりに呵々と笑う。対する沢村は熱を持った顔を腕で覆い、青から赤に切り替わった表情を隠した。
 購買前でじゃれ合う彼らに、通行人は無関心を装っていた。騒がしいのを嫌って足早に去る生徒もいて、学校全体で考えれば、あの写真を知る学生はそう多くないのが窺えた。
 沢村と御幸に関するありもしない噂も、一週間としないうちに忘れ去られるだろう。けれど当人はそれが分からないのか、激しく狼狽し、後ろに倒れそうになって小湊に支えられていた。
「く、倉持先輩も、そーゆー人だったんスか!」
「はあ? なワケねーだろ」
「真に受ける方がどうかしてると思うよ、栄純君」
「春っちまで!」
 朝から彼は、いったいどんな目に遭って来たのか。
 人間不信に陥っている沢村に呆れて肩を竦めて、倉持は残り時間を気にして腕時計に目を遣った。
 直後だった。
「あれ。お前ら、なにやってんの」
 ようやく買い物を終えたのか、耳に不快な声が響いた。
 買い物を済ませ、黒縁眼鏡の男が購買から出てこようとしていた。入口近くの通路に集っていた集団を見つけて、表情はにこやかだった。
 倉持だけだったのが、いつの間にか人数が増えている。あれだけ騒いでいたのだから声が聞こえていない筈がないのに、白々しい台詞を吐いて、御幸は購入したばかりのペンを胸ポケットに突き刺した。
「げえ!」
 それに当然ながら沢村が反応し、ビクッと竦み上がった。大急ぎで隠れる場所を探し、小柄な小湊ではなく、背だけは高い降谷の後ろへ回り込んだ。
 もっとも、完全に隠れるなど無理だ。横からはみ出ているというのに、これで見つからないとでも思っているのか、まるで赤ん坊のかくれんぼだった。
 壁にされた方も、戸惑いが否めなかった。突然体当たりされた降谷は目を丸くして、困った顔で沢村のうなじと、小湊と、倉持、御幸の顔を順番に眺めた。
「あの……」
 どうすれば良いか訊ね、背後を指差す。けれど誰も動かず、何も言わないので、早々に諦めた彼は黙ってこの状況を受け入れた。
 ため息を吐いて肩を落とす天然一年生に苦笑して、御幸は目で倉持に問うた。
「たまたま会っただけだよ」
「へ~え」
 視線を受け、倉持が顎をしゃくった。輪になっている後輩を示して、あまり面倒を起こさないよう釘を刺す。
 だが鋭い眼差しを敢えて無視して、御幸は震えている後輩に呼びかけた。
「なにしてんのかな、沢村君?」
 人の噂は七十五日。放っておけばそのうち立ち消え、誰も気にしなくなる。
 御幸もそれが分かっているから、教室では傍観すると言っていたのに。
 偶然が引き起こした事態を、完全に面白がっていた。顔を合わせたら騒動が酷くなると知っていながら、自分から厄介事に首を突っ込もうとしていた。
 根性がひん曲がっているチームメイトに、倉持は顔を覆って首を振った。
「マジで性格悪りぃな、コイツ」
 周囲が何をどう評価しようと、自分の心さえ歪まなければそれでいい。面白いと思った事には手を抜かず、全力でやり遂げる。
 野球に支障を来たさなければ他はどうだって良いと、本気で考えている。口さがない人々の立てる噂も、彼にとっては遠くの交差点で鳴っているクラクションと同じだった。
 こちらから会いに行く気はなかったけれど、あちらから近付いて来たのだから、からかってやるのが筋というものだろう。逃げ回られるとばかり思っていたので、当日の昼間からこの展開は意外だった。
 どうやって遊んでやろうか。企んで悪い顔をして、御幸は降谷の方へ迷わず進路を取り、身を屈めて隠れている後輩を覗き込んだ。
 人のシャツを掴んでいた彼は、その状態のまま後ろに下がろうとした。だが引っ張られた降谷は反射的に抵抗し、沢村の願いは叶わなかった。
 縋る物を失った彼の顔は、倉持の位置からでも分かるくらいに真っ赤だった。
「く、来んなって」
「おいおい、冷たいな、沢村。いいじゃねえか。俺とお前の仲だろ?」
「んなっ」
 人が聞けば誤解を呼びそうな発言は、狙っての物だろう。一度広まった噂を回収するのは難しいので、開き直っている感は半端なかった。
 顔を見せるよう囁かれ、簡単に引っかかった沢村が降谷から離れた。ガバッと勢いよく背筋を伸ばして、意地悪く口角を歪めている上級生を睨みつける。
 けれど御幸は呵々と笑うばかりで、真剣に取り合おうとはしなかった。
「な、なに、言って。冗談じゃねーぞ。アンタの所為で、俺がどんな目に遭ったと思って」
「いいじゃねえか。言いたい奴には言わせとけって」
 それでムキになり、沢村は御幸に人差し指を突き付けた。大声で吼えて、登校直後から溜め込んでいた憤りを発散させようと息巻いた。
 しかし馬の耳に念仏、ならぬ御幸の耳に念仏だった。
 逆に諭され、落ち着くよう促された。周囲の雑音に耳を貸す暇があるなら、グラウンド一周分でも多く走り込むよう説き伏せられた。
 御幸の態度は堂々として、自信に溢れていた。他人の下す評価などどうでも良いと、そう言わんばかりだった。
 元々彼は、悪口を言われるのに慣れていた。
 一年生の頃から正捕手として一軍に加わり、先輩たちと肩を並べてプレイしていた。それをやっかむ声は、部内でもちらほら聞かれていた。
 エースである丹波との折り合いの悪さを揶揄し、チームの輪を乱す奴、と言われた事だってある。けれど御幸は取り合わず、相手にしてこなかった。
 だから今回の件も、気にならない。
 暫くは珍獣扱いかもしれないが、それも数日間の我慢だった。
 それなのに、沢村は落ち着かない素振りで距離を取ろうとした。後ろ向きにじりじり後退して、壁に追い詰められて、辺りを気にして視線を左右に流した。
 振り子の如く動き回る彼に、小湊弟が小さくため息を吐く。降谷も通路の昇降口側に顔を向け、何かに気付いたか、目を丸くした。
 一年生ふたりの様子に、倉持も怪訝に眉を顰めた。けれど質問を繰り出す前に、沢村に追い付いた御幸がにっこり目を細めた。
「ってか、あんな写真一枚で、俺らの何が分かるってんだよな?」
 あんなものに騙され、踊らされる方が馬鹿だ。
 良く知りもしない連中にあれこれ囃し立てられても、腹が立って、イラつくだけだ。
 飄々とした体を捨てて苛立ちを露わにし、同意を得ようと沢村に迫る。顔を近づけ、吐息が掠めるほどの距離から相手を覗き込む。
 瞳が揺れていた。
 真っ赤に色付いた頬が、わなわなと震えていた。
 御幸の身体が影を作り、沢村を覆っていた。そんな若干薄暗い空間で、彼は大きな目を潤ませ、唇を噛み締め、何かを必死に耐えていた。
 寮の出口で見たような、ゴミの所為で痛がっている姿とは違っていた。
 初めて見る表情だった。てっきり怒鳴り返してくるかと思いきや、反論はなかなか聞こえてこなかった。
 怪訝に思い、御幸の動きが止まった。
 不思議そうに見つめられ、耳の先まで赤く染めて。
 沢村は。
「お……」
「お?」
「栄純君、まずいよ」
「あ、こっち来る」
 小声で何かを呟いて、興味惹かれた御幸は首を傾げた。小湊弟が何かを気取って声を上擦らせ、降谷が淡々と誰かの動きを報告した。
 何に対して一年生が慌てているのか、訳が分からない倉持が昇降口方面に顔を向けた。制服姿で行き交う生徒が何人か見えたが、特に変わったところは見当たらなかった。
「ん?」
 だというのに、小湊の顔は引き攣っていた。降谷も眉を顰めて身じろいで、珍しく嫌悪感を露わにした。
 倉持が不思議そうにする中で、御幸は押し黙った沢村に続きを強請り、悪戯っ子の顔で耳元に唇を寄せた。
「沢村?」
 低く甘い、少し癖のある掠れた声で囁き。
 一秒後。
「お、……おいしょーっ!」
「へぷしっ」
 キッと意気込んだ沢村の強烈な平手打ちが、眼鏡姿の正捕手の頬を直撃した。
 避けるどころの話ではなかった。場に居合わせた全員が、突然の雄叫びと打撃音に驚き、吹っ飛んだ黒縁眼鏡の行方も追わずに呆然となった。
 完全に油断していた御幸の、珍妙な悲鳴に突っ込む声もなかった。近くにいた通りすがりの一般生徒たちも、白昼の惨劇に絶句して硬直した。
 周囲の音が綺麗に消えた。その中で御幸がふらつき、足をもつれさせて尻餅をつく音だけが、異様に大きく響き渡った。
 全てがスローモーションだった。
 なにが起きたのか、打たれた本人ですら理解出来なかった。
「……へ?」
 ビンタは痛烈だった。御幸の頬は一瞬で赤く染まり、もみじのような痕を浮かび上がらせた。
 落ちた眼鏡は床で跳ね、天地を逆にして停止した。視力を失った男は白い床に蹲り、惚けた顔で目を白黒させた。
「へ? え?」
 呆気に取られ、次の行動に移れない。叩かれた場所を手で覆ってぽかんとしていたら、沢村が肩で息をして、真っ赤になって空を殴った。
「あほ! ぼけ! 御幸一也の、たーくらたー!」
「は?」
 全身で怒りを表し、足を踏み鳴らして捨て台詞を吐く。そしてくるりと反転したかと思えば、一直線に駆け出した。
 用があっただろう購買に背を向け、昇降口へ走っていく。それに慌てた小湊が、驚く降谷を呼んで追いかけ始めた。
 バタバタと三人分の足音がこだまして、停まっていた時間が動き出した。遠巻きに見守っていた野次馬も解散して、後には未だ惚けている御幸と、携帯電話を取り出した倉持だけが残された。
 こんな状況なのに冷静に愛用の小型端末を起動させて、青道高校のリードオフマンはとある機能を呼び出した。一方で御幸はぼやける視界の中、ジンジンする頬を撫でて呆然と口を開いた。
「あいつ……利き手で殴りやがった」
「って、そっちかよ!」
「だってそうだろ。この大事な時期に、利き手に怪我なんかされたらどうすんだよ」
「はいはい。はい、チーズ」
「は?」
 信じられない、とぼやく内容が、倉持からすれば信じ難い。
 恐らくは殴られた理由も分かっていないのだろうと嘆息し、彼は構えた携帯電話のボタンを押した。
 カシャッという、朝も聞いたシャッター音が場に轟いた。
「……あの、倉持さん。何してるんですか」
 今朝と同じ嫌な予感を覚え、御幸の目が丸く見開かれた。しかし彼は答えず、顔の前に構えていた携帯電話を胸元まで下げ、慣れた動きで機械を操った。
 短い文章を入力し、メールに先ほどの写真を添付する。準備が終わったところで送信ボタンを押して、ニヤリと口角を持ち上げる。
 音を立てて携帯電話が閉じられるのを待って、ハッとなった御幸が急ぎ立ち上がった。
「お前、なに勝手なことしてんだよ」
「御幸、沢村にビンタされてフラれる。こいつは良いニュースになりそうだぜ」
「あのなあ!」
 小湊兄の毒が強すぎて霞みがちだが、倉持も大概良い性格をしていた。
 新たな燃料を追加され、沈静に向かっていた騒動が再度勢い良く燃え盛る様が想像出来た。当分このネタでからかわれるのは目に見えていて、焦って声を上擦らせるが、全て後の祭りだった。
 面白がって沢村をからかったのが悪い。
 放っておけばいずれ鎮火すると言っていた癖に、自ら足を突っ込むような真似をするから、手痛いしっぺ返しを食らうのだ。
 嘲り、倉持は早速来た返信に携帯電話を開いた。御幸は頭を垂れて項垂れて、ほんのり赤みを残す肌に手を重ねた。
 まだ熱が宿っていた。すぐ消えると思われた痛みも引かず、ズキズキと来る振動を発し続けていた。
「可愛い後輩を苛めた天罰だな」
「誰が可愛いもんか、あんな奴」
 ちょっとした冗談のつもりだった。
 だというのにあんな顔を見せられて、男の本性が疼かない方がおかしい。
 思いと真逆の感想を述べて悪態をつき、御幸は火照る顔を腕で隠した。
 掴み所のない感情が蠢いていた。苛めたいほど可愛くて、からかわずにはいられなかった自分に歯軋りし、冷静になるようこめかみを叩く。
「なにやってんだ、俺は」
 自問自答の愚痴を零し、御幸は倉持が拾った眼鏡を受け取った。
 掛ける直前目を閉じれば、真っ赤になって眼を潤ませる沢村の顔が瞼に浮かび上がった。
「……たーくらたーって、なんだろうな」
「さあな。あんま良い意味じゃなさそうだったけど」
 彼が残した捨て台詞も気になった。
 ぼそりと言えば、倉持が容赦なく叩き落した。御幸はがっくり項垂れて、チャイムの音にため息を重ねた。

 

2014/12/14 脱稿