Poinsettia

「へっ、ぶしゅ」
 冷たい風が吹く。真冬の夜の只中に佇み、影山は押し寄せて来た寒さに身震いした。
 くしゃみで飛んだ唾を拭おうとして、手首まですっぽり手袋に覆われているのに気づく。顎の下まで持って行った利き腕を諦めて下ろして、彼はもう一度、わざと身体を揺り動かした。
 素肌と着衣の間で摩擦熱を呼び起こし、暖を取ろうと試みるが上手く行かない。凛と突き刺さる冷気は空間に満ち満ちており、彼ひとりではどうする術もなかった。
 頭上は曇っており、月は見えない。空は低く、今にも雪が降り始めそうな雰囲気だった。
「さみー……」
 小さく呟き、首を竦める。マフラーと喉や顎が擦れあい、静電気なのか、皮膚がチクチク痛んだ。
 息を吐けば白く濁った。鼻も耳も赤く染まり、頬もきっと普段より色を強めている。
 コートや手袋で武装しても、顔全体を覆うのは難しい。風邪を引いているわけでもないのにマスクをするのは不自然で、この時期、鼻の頭は毎日がトナカイ模様だった。
 サンタクロースは今年も忙しかろう。明後日に迫る大イベントを思い、影山は深く肩を落とした。
「俺には関係ねーか」
 ぽつりと零し、自嘲気味に笑う。声に反応する人はおらず、代わりに少し間を置いて、後方からどっと笑い声が響いた。
 もう夜も遅い時間だというのに、一般道の真ん中で騒いでいる連中がいる。顔ぶれには想像がついて、影山は足を止めて振り返った。
 街灯に照らされた路上に陣取っていたのは、案の定、見覚えのある面々だった。
 端から端まで、知った顔が並んでいた。正直、見飽きたと言っても過言ではない。けれど口にしたら雷が落ちるのは確実で、影山は黙って嘆息した。
 肩の力を抜き、手を振られたので会釈で返す。その他人行儀的な仕草が気になったのか、集団の中心に居たひとりが首を捻ったのが見えた。
 影山が姿勢を戻すより早く、彼はハンドルを握る手に力を込め、強く地面を蹴り飛ばした。
 自転車には跨らず、押しながら緩い坂を下ってくる。ぶつからないよう少し左に避けた影山の前に、小柄な体は一瞬で滑り込んできた。
「おわっ」
 そしてブレーキのタイミングを誤り、行き過ぎて転びそうになった。
 片足立ちで飛び跳ねたチームメイトが、倒れる寸前でどうにかバランスを立て直した。見ている方がひやひやする危なっかしさは相変わらずで、本人も失敗したと思っているのか、恥ずかしそうに目を細めた。
 顔をくしゃくしゃにして照れ笑いを浮かべた彼に、影山は緊張するのも馬鹿らしいと肩を竦めた。
「ボケ」
「うっさいな」
 いかにも日向らしい。そんな気持ちを込めて言えば、彼は口を尖らせて左手を振り上げた。
 だが、飛びかかっては来ない。自転車を放り出すわけにはいかないので、身動きが取れないのだ。
 勝ち誇った顔で胸を張れば、日向は悔しそうに地団太を踏んだ。
「むっきー」
 だがそれも、三秒と続かなかった。
 自転車のペダルが、彼の足に当たったからだ。
「いって!」
 今度は悲鳴を上げ、痛がって自転車に寄り掛かる。その頃には遅れていたメンバーも一部が追い付き、影山の後ろに貼りついた。
 集団に飲み込まれて、腰を叩かれた彼はつんのめった。
「よう。ひとりだけ先に帰ろうたって、そうはいかねーぞ」
 よろけた体勢を立て直していたら、身を屈めた西谷が右側から顔を覗かせて言った。脇を掻い潜るように出て来られて、影山は反射的に反対を向いた。
 目を逸らして返事をせずにいたら、今度は左側から田中が出て来た。人の肩に肘を乗せて悠々とポーズを作り、なにやら勝手な妄想を働かせて、「分かるぜ……」などと嘯き始める。
「男には、ひとりになりたい時があるってもんよ」
「ああ、成る程な。ハードボルトってやつだ」
 得意げに語り始めた二年生は、坊主頭にニット帽を被っていた。そんな締まりのない姿で偉そうに言われても説得力はないが、西谷は感銘を受けたのか、目を輝かせて早口になった。
「それを言うなら、ハードボイルドなんだけどな」
 後方からは縁下の溜息が聞こえた。頭の悪い同級生に心底困り果てているのが、振り返らずとも感じられた。
 人を挟んで持ち上がられて、若干げんなりしていた時だ。
「王様はいつもぼっちじゃないですか」
「月島ァ!」
 しれっと毒を吐き、背高の男子が西谷を追い越して行った。
 流石にこれは聞き捨てならず、反射的に影山は吠えた。拳を作って震わせるが、手袋の厚みがあって、丸みを帯びた形はあまり迫力がなかった。
 もっともそれがなくとも、月島は鼻で笑って終わらせただろう。すぐに暴力に訴え出る男を嘲って、インテリ眼鏡は口角を持ち上げた。
 彼の耳には大きめのヘッドホンが当てられて、それが防寒具も兼ねていた。音楽は流していないのか、会話に困る様子は無かった。
 ちゃんとこちらの声を拾っている男を睨みつけ、影山はふんっ、と荒っぽく鼻から息を吐いた。
 月島相手に口論で挑むのは、己の無知ぶりを曝け出すだけだ。難しい言葉を連発されると、途端に何も言えなくなってしまう。
 こんな場所で恥を晒すのは避けたくて、早々と勝負を打ち切る事でやり過ごす。あちらもそんな影山に慣れており、憐みを含む眼差しを投げて来た。
 それも無視して放置して、反対側を向いていたら、日向の顔が目に飛び込んできた。
「……ンだよ」
 まじまじ見つめられて、気分が悪い。
 最近でこそ耐性がついて来ているものの、影山は人と面と向かって対峙するのが苦手だった。
 中学時代のチームメイトとの確執が、未だ尾を引いている感じだ。バレーボールをやっている最中なら平気になったが、一度コートを離れると、矢張りどうしても身構えてしまう。
 愛想の悪さはなかなか直らない。だが日向も、影山の性格は承知していた。
 気を悪くした様子もなく、彼は歯を見せて笑った。
 白く煙った息を吐き、笑窪を作った。嬉しそうにされて、意味が分からなかった。
「へへっ」
「だから、なんだよ」
「んー。いつもの影山に戻ったな、って」
 楽しそうに声を漏らした彼に、表情の意味を問い質す。すると彼はあっけらかんと言い放ち、田中に向かって同意を求めた。
「は?」
 けれど影山には、訳が分からない。いつもの自分と何が違っていたのか考えるが、答えは出なかった。
 呆気に取られて惚けていたら、見かねた縁下が助け船を出した。
「部室出た辺りから、なんかピリピリしてただろ?」
「え?」
 月島や西谷はいつの間にか後退して、入れ替わりに縁下が右側に立っていた。
 微妙に眠そうな表情で告げられて、自覚がなかった影山はきょとんとなった。そうだっただろうかと首を捻り、着替えを終えて部室を出た後の自分を振り返るが、思い当たる節は出てこなかった。
 不思議そうにする後輩に、見守っていた西谷と田中が揃って噴き出した。プライベートでも仲が良いふたりは何がツボに入ったのか、げらげら声を響かせて腹を抱え込んでいた。
 あと少しで坂ノ下商店に着く。とっくに帰宅済みのコーチがエプロン姿で飛び出して来る光景が、今から見えるようだった。
 指さしながら笑われる不快感に歯軋りして、影山は助けを求めて新キャプテンを見詰めた。
 もっとも縁下だって、影山の事情に明るくない。頼られても困るだけだ。
 当惑気味に見返されて、彼は前に出した足で砂利を踏み潰した。
 微細な凹凸を靴の裏で受け止めて、やがて彼は嗚呼、と首肯した。
「いえ。その……なんていうか。家帰ったら、ケーキとか、待ってるのかと思うと、ちょっと」
「ケーキぃ!?」
 ピリピリしていたかは分からないが、憂鬱ではあった。その理由を思い出してつらつら述べれば、とある単語にチームメイトが一斉に食いついた。
 あの月島でさえ、興味深そうに目を丸くしていた。
 驚きの顔で見下ろされて、良い気がしない。食いしん坊の西谷や田中に加え、日向までもが自転車ごと身を乗り出して来た。
 一気に詰め寄られ、窮屈さを覚えて背筋を伸ばす。路上で爪先立ちになった彼を囲む集団は、傍から見れば異様だった。
 それを一歩退いたところから眺めて、縁下は頬を引き攣らせた。
「へ、へえ……いいな。でもクリスマスには、まだ早いだろ?」
「あ、いえ。違います。クリスマスじゃないです」
 二学期の終業式と被る年末の一大イベントは、二日後だ。プレゼント交換をしたり、ケーキや鳥の腿肉を食べたりと、あちこちでお祭り騒ぎが繰り広げられる。
 影山たち烏野高校男子排球部も、早めに練習を切り上げる予定でいた。
 だというのに、影山家では今日、ケーキが出されるという。家族揃うのがその日しかないのか、と理由をあれこれ推測していた縁下は、あっさり否定されて面食らった。
 残りのメンバーも、驚いた顔をしていた。日向は眉を顰め、詳細を聞きたがった。
「んじゃ、なんで?」
 下から響いた声に瞬きして、影山は嫌そうに口を噤んだ。
 むすっと拗ねてしまった彼に、盛り上がりかけていた部員たちは顔を見合わせて首を傾げた。
 クリスマスではないのに、ケーキを食べる日。
 余程特別な理由があるのだろうと考えて、ずっと黙って聞いていた山口がぽん、と手を叩いた。
「ああ、ひょっとして誕生日?」
「おう」
「へー。誰の?」
「…………」
「影山?」
 分かった、と目を輝かせたそばかす顔のチームメイトに、影山はどこまでも素っ気なかった。
 肯定はしたものの、その後はだんまりを決め込む。追及を拒んでそっぽを向かれて、心配になった日向が彼の袖を引いた。
 白色の手袋は、親指以外の指がまとめられたミトン型だった。手首にはボアがついており、内部も起毛で温かそうだった。
 ダッフルコートを着て、首には三重巻きにしたマフラーが。イヤーマフは白クマの顔をしており、遠目から見たら女子のようだった。
 着ぶくれでモコモコしている彼を一瞥して、影山は四方から向けられる視線に深く肩を落とした。
「……俺の、だけど」
 観念して呟く。途端に周囲の空気が凍り付き、ぴしっ、とヒビが入る音が聞こえた。
 実際、後ろにいた上級生は固まっていた。
「え?」
「誕生日? 今日?」
「影山が誕生日? って、お前まだ十五歳だったの?」
「――今日で十六歳ですけど」
 露骨に驚かれ、確認を求められて鬱陶しい。こうなるのが分かっていたから言いたくなかったのにと、彼はぶすっとしたまま訂正した。
 身長は百八十センチを越えて、まだ少しずつ伸びている。日々鍛錬を欠かさない身体は引き締まっており、セッターとしての技量は超高校級だ。
 だから皆、てっきり、彼の誕生日はとっくに過ぎたものと、勝手に思い込んでいた。
 たった今知らされた真実を、誰もが巧く消化出来ずにいた。
 月島も、山口もとっくに誕生日を迎えている。一年生で一番偉そうにしている男が最後だったとは、予想外過ぎた。
 呆気に取られて絶句しているチームメイトを眺め、影山は最後に長い溜息を吐いた。
 はあ、と吐息が聞こえて真っ先に我に返ったのは、部のムードメーカーである田中だった。
「はっ。そ、そうだ。そうか。全然知らなかったぜ。こいつは俺としたことが、うっかりしてたぜ。今からでも、なんだ。なんつーか、なんか、お祝いしてやらねーとなあ?」
「そうだな。ってか、なんで言わねーんだよ、お前は」
 最初こそ声が上擦ったが、途中から調子を取り戻して饒舌になった。西谷も同調して頷き、怒りの矛先を影山に向けた。
 ビシッ、と指差されて問い詰められて、対人恐怖症の王様は背を戦慄かせた。
「って、別に、いいですよ。そういうの」
 家に帰ればいつもより少し豪勢な料理がテーブルで待っている。胃袋は空にしておきたいし、人に奢られるのは未だに苦手だった。
 誕生日を家族以外から祝福された事がないので、どう反応して良いのかも分からない。発作的に悲鳴に近い声をあげれば、救いの神ならぬ意地悪な悪魔がぷぷ、と笑い声を響かせた。
「つーか、二十二日って」
 あと三日遅ければ、聖人と同じ誕生日になったのに。
 嫌味たらしく言った月島にキッと目を吊り上げて、影山は三秒してから唇を噛み締めた。
 珍しく怒号が聞こえて来ない。身構えていた月島は、意外な彼の反応に目を瞬かせた。
 肩透かしを食らって惚けていたら、舌打ちした影山が苛立たしげに空を蹴った。
「悪かったな。俺だって、好きで今日生まれたわけじゃねーよ」
「ああ。気にしてるんだ」
 吐き捨てられた台詞を聞き、察した縁下が小声で呟いた。
 これまでにも度々、同じことを言われて来たのだろう。もしかしたらクリスマスと誕生日をセットで祝われた経験も、あるのかもしれない。
 記念日が近いと、何度もやるのが面倒だからという理由で、一度にまとめられる事がある。しかしそれは大人の勝手な都合であって、自分だけの特別な日が失われる事に、子供は密かに傷ついていた。
 最終的には、どうしてこんな日に生まれのかと、自虐的に考えるようにもなる。影山もその典型だと解釈して、縁下は頬を緩めた。
 仏頂面で無神経なところがある彼だが、繊細な部分もちゃんと持ち合わせていた。そんな微妙なところに感心して、縁下は見守る親の感覚でうんうんうなずいた。
 何故か嬉しそうにしている先輩に警戒心を抱き、影山は居心地悪そうに身を捩った。
 斜めに掛けた鞄を弄り、鶏のマークを意味もなく引っ掻き回す。背中を丸めて猫背になって、高いと自慢の身長を低くする。
 そんな自信無さげな態度を叱って、西谷が思い切り彼の腰を叩いた。
「まー、なんにせよ、誕生日おめでとさん」
「これで影山も大人の仲間入りかー」
「いやいや、なってないし」
「王様がまさか一番年下だったとはね。どうりで頭の中がお子様なわけだ」
「ちょっと、ツッキー。あんまりホントの事言ったら可哀想だよ」
「こぉら、テメエら! 騒いでねーで、さっさと帰りやがれ!」
「うわ、やべえ。コーチだ」
「見付かったー!」
 手痛い祝福の言葉を皮切りに、部員たちが次々と勝手なことを言い始めた。月島は皮肉を忘れず、山口はそれに乗っかってシシシ、と笑う。そこへ店の前の集団を解散させるべく、エプロン姿の男が飛び出して来た。
 ジャージにエプロン姿で怒号を上げた烏養に、のんびり歩いていた排球部員が三々五々に駆けだした。蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出して、誰とも知らず別れの挨拶を叫ぶ声がこだました。
 影山もいつもと同じ調子で地を蹴って、店の明かりが遠ざかったところでペースを緩めた。
 この展開も、すっかり慣れたものだ。気が付けば半年以上繰り返しているやり取りに相好を崩し、一人に戻った途端に覚えた寒気に身震いする。
 集団の中に居ると暖かくて、冬の気配を感じる暇すらなかった。
 口から息を吐けば、一瞬だけ目の前が白くなった。呆気なく掻き消えていく靄を見送って、彼は鞄のマークをぽんぽん、叩いた。
「……ふは」
 笑みは自然と零れていた。
 不器用な笑い方をして、照れ臭さに身悶える。数年来聞いていなかった祝福の言葉を思い返すと、くすぐったくて仕方がなかった。
 嫌味もあったけれど、今日の分は聞き流せた。家に帰るのが憂鬱で足取りが鈍重だったのも、過去の話になっていた。
「おぉ、影山が笑ってる」
「っ!」
 直後だ。
 感嘆の息が聞こえて、彼は真っ赤になって振り返った。
 素晴らしい反応速度を見せて、右斜め後ろを向く。そこには自転車を押した少年がいて、目をぱちくりさせたまま、羞恥心を必死に堪えるチームメイトを見詰めていた。
 日中はオレンジ色に見える髪色も、夜の空気が暗めの色調に落ち着かせていた。イヤーマフに押し潰された毛先が外向きに跳ねて、動きに合わせてひょこひょこ揺れていた。
 白クマの顔が気になって、そこばかり見てしまう。左と右で表情が若干違うと気付かされて、彼は肩を落として額を覆った。
 高校生にもなって、と思うけれど、似合っているのだからどうしようもない。可愛いと思ってしまったのを一瞬で忘れる事にして、影山は姿勢を正し、偶然か、意図的か、追いかけて来たチームメイトに目で問いかけた。
 すると日向はパッと顔を逸らし、ハンドルを握る手に力を込めた。
「お前、こっちじゃないだろ」
 坂ノ下商店すぐ傍の、三叉路。そこから更に角をひとつ曲がった先にあるのは、影山が暮らす北川町だ。
 勿論、すぐには着かない。本来ならバス通学になる距離だが、影山はトレーニングの一環として、徒歩で往復していた。
 日向の自転車通学と似たようなものだ。もっとも坂道が少ない分、影山の方がコースは遙かに楽だった。
 山越えとは逆方向で、雪ヶ丘町から遠ざかるルートでもある。だというのに何故此処に居るのか尋ねかけるが、明確な返答は得られなかった。
 黙っていては、分かるものも分からない。縁下のように人の機微に敏感ではない影山は、日向の真意を取りあぐね、眉を顰めるしかなかった。
 ほかの部員は別の道を行ったらしく、近くに姿は見当たらなかった。
 辺りを見回し、日向へ視線を戻す。街灯の明かりは遠く、表情は見え辛かった。
 このまま歩き続けて良いのかどうかも判断がつかなくて、影山は困った顔で頭を掻いた。ついでに人差し指で頬も引っ掻いて、髭らしき突起を顎に見付けて爪で抓もうと足掻く。
 短すぎて掴めないものに苛々しているうちに、俯いていた日向がぱっと顔を上げた。
「だってお前、誕生日なのに、なんか、あんま嬉しそうじゃなかったから」
「は?」
 そして勢いよく捲し立てられて、集中していなかった影山は素っ頓狂な声を上げた。
 危うく聞きそびれるところだった。一部だけ赤くなっている肌から手を引き離して、彼は必死の形相のチームメイトに小首を傾げた。
 もしやそれを聞きたいが為に、遠回りを承知で追いかけて来たのだろうか。
 影山が誕生日であろうと、なかろうと、つまらなそうにしていても、日向には何も関係ない。部活動中にミスはなかったし、連携にだって支障を来さなかったはずだ。
 問い詰めたがる理由が分からなくてきょとんとしていたら、日向は深呼吸を三度繰り返し、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「だって、そーじゃん。明後日クリスマスだし、終業式だし。毎日ケーキ食べられんの、嬉しくねーの?」
「毎日は食わねーよ」
「そうじゃなくて」
「わーってるよ」
 訊かれて、影山は憤然と言い返した。揚げ足を取られた少年は瞬時に牙を剥き、標的となった青年は噛まれる前にスッと躱した。
 右腕を腰に当てて背筋を伸ばして、彼は察しの悪いチームメイトに肩を落とした。
 日向の親はきっと、手間を惜しまない人なのだろう。何度か顔を合わせた相手を思い浮かべ、影山は小さく舌打ちした。
「そうじゃなくて、……ちげーよ。うちは、クリスマスやんねーんだよ」
「え? なんで?」
「今日、まとめてすんだろ。分かれよ」
 仏教徒だから、だとかいう言い訳の方がまだ良かった。笑い話で済ませるには少々重い理由を、明確に言葉にするのは勇気が必要だった。
 読解力がまるで足りていない日向を睨んで、歯軋りする。ギリ、と嫌な音を間近で聞いて、少年は真ん丸い目をぱちくりさせた。
 そのままコテン、と首を右に倒されて、そろそろ我慢の限界だった。
「近すぎるから、一緒にしてんだよ。うちは!」
 思い切り地面を蹴り飛ばし、吼える。近所迷惑を考えずに怒鳴って、握り拳を突き付ける。
 真ん丸いグローブをちらつかされて、それでも理解が及ばなかったのか、日向は暫く何も言わなかった。
 何度か瞬きを繰り返して、嗚呼、という風に一度だけ頷いた。ただ呆然とした表情は変わらなかったので、本当に分かったのかは不明だった。
 間がたった一日しかない、誕生日とクリスマス・イブ。
 両方で御馳走を用意するのは経済的ではないし、手間も時間もかかる。プレゼントだって、二個準備するのは大変だ。
 親の考えは良く分かる。だから文句を言ったことはない。けれど不公平感はずっと胸の中にあった。
 ほかの子は誕生日にも、クリスマスにも、プレゼントをもらっている。だのに自分はひとつしかもらえない。小学校時代に所属していた地域のバレーボールチームでも、十二月だけ誕生日会がなかった。
 そういうのが積もり積もって、嫌いになっていった。
 そもそも誕生日など、歳をひとつ重ねるだけの日だ。派手に騒いで祝う方が馬鹿らしい。
 負け惜しみと分かっていても、そうやって心のバランスを保った。
「へ~え? そんで拗ねてたんだ」
「うっせえ、ボケ」
 好物ばかりが並ぶテーブルは魅力的だが、どうせなら七面鳥だって食べてみたい。バレーボール型のデコレーションケーキが悪いわけではないけれど、サンタクロースの砂糖菓子だって、一度くらい齧ってみたかった。
 嬉しさと寂しさが半々の誕生日に、思春期特有の反抗的な態度が重なった。素直に親に感謝出来ない偏屈さを指摘されて、影山は声を荒らげた。
 しかし日向は取り合わず、呵々と笑って溜飲を下げた。ようやく理解出来たと相好を崩し、本来の明るさを取り戻して目尻を下げる。
「んじゃさ。明後日、おれん家来いよ」
「……あ?」
「やるから、クリスマス。そしたら文句ないだろ?」
 あっけらかんと言い放ち、惚ける影山を置いて自転車に跨る。サドルに腰かけて爪先で地面を踏みしめ、万事解決とばかりに白い歯を見せる。
 事はそう単純でないのに、彼には通じない。
 とても簡単に言い切られて、影山は目を点にした。
 その顔を滑稽だとまた笑い飛ばして、日向が地面を蹴った。素早くペダルを踏んで、車体が傾く前にバランスを取って漕ぎ出す。
「じゃーなー」
 影山の前に進んで、そこから左にカーブして、反対側をすり抜けて来た道を戻っていく。すれ違いざまに手を振られて、ハッと我に返った王様は慌てて後ろに向き直った。
 しかし自転車の速度は凄まじく、日向の姿はあっという間に消えてなくなった。
 と、思っていたら。
「……なんだ?」
 猛スピードで坂を下ってくるものがあって、彼は怪訝に眉を顰めた。
 形状に見覚えがある気がした。まさか立ち去ったばかりのものが戻ってくるとは思えず、胡乱げにしながら立ち尽くしていたら、ビュンッと風が突き抜けた。
 冷気が刃となって襲い掛かり、前髪が煽られて、マフラーの端もふわりと浮き上がった。
「――っ!」
 咄嗟に腕で顔を庇い、行方を追って腰を捻る。上半身だけで振り返った彼の前方で、凄まじいブレーキ音がこだました。
 耳を劈く高音を響かせて、挙句靴底でアスファルトを擦った少年が、息も絶え絶えに頬を上気させた。
「わずれでだっ!」
 鼻水を垂らしながら叫ばれて、絶句するしかない。呆気に取られて凍り付いていたら、音立てて鼻を啜った日向が、二カッと白い歯を見せた。
 満面の笑みを浮かべ、背筋を伸ばして。
「影山、誕生日おめでと」
 少しだけ照れ臭そうに、言って。
 返事をする暇を与えてくれなかった。火が点いたように真っ赤になって、彼はハンドルにぶつかるくらい前のめりになると、ペダルを力いっぱい踏み込んだ。
 前よりも速度を上げて、全力で車輪を回して坂を登って行った。再び突風が吹き荒れて、一瞬の出来事に、息さえ出来なかった。
 残されて、影山は開きっ放しだった口を閉じた。じっくり時間をかけて幸せを噛み締めて、緩んでしまったマフラーを捕まえて。
 赤く火照った顔を鼻筋まで隠し、彼はくしゃっと、不細工な笑顔を浮かべた。
 

2014/12/07 脱稿