Russet

 空は薄く雲が広がり、太陽の光を遮っていた。
 陽射しが届かないのと、時折強く吹く北風が冷たいのとで、気温は昼間になっても一向に上がらなかった。むしろ逆に下がっているようで、下手をすれば明け方の方が暖かかったかもしれない。
 肌寒さを耐えて腕を擦り、影山は白色に霞んだ上空を仰いだ。
「さっむ」
 呟き、視線を逸らす。吐いた息は仄かに色を持ち、瞬く間に消えてなくなった。
 吐息が曇るようになった。もうそんな季節なのかと感嘆して、彼は腕を下ろしてポケットへ押し込んだ。
 夏場は日焼けで真っ黒だった肌も、今は寒さに悴んで、指は雪のように白かった。
 毛細血管が萎縮して、血流が悪くなっているのだ。
 先端から冷えていくのを防ごうと、ポケットの中で拳を強めたり、弱めたり繰り返す。しかしこの程度でどうにかなるものでもなくて、彼は諦め、右手だけを引き抜いた。
「はー……」
 試しに息を吹きかけてみるが、焼け石に水も良いところだった。
 使い捨てのカイロでも持ってくれば良かった。今朝、家を出る直前のドタバタを振り返り、彼は盛大に肩を竦めた。
 布団を出るのが、日に日に遅くなっていた。
 早朝からの練習に参加するだけでなく、起床後、自宅周辺を軽くランニングするのが日課だった。しかし日の出が遅くて外が暗いのと、凍り付くほどの冷え込みが手伝って、最近少々サボり気味だった。
 これではいけないと気合いを入れて寝床に入るのだが、本能が拒絶しているらしい。ここ数日は目覚まし時計のスイッチを、ベルが鳴る前に叩く有様だった。
 しかも眠ったまま、無意識にやっているから始末が悪い。
 今日などは特に酷く、母に叩き起こされてやっと目を覚ます、という稀に見る醜態を晒してしまった。
 見かねた母が、使っていなかった目覚まし時計をひとつ貸してくれた。今晩からはそれに加え、携帯電話のタイマーもセットしておこうと思う。
 お蔭で朝練に遅刻寸前だった。
 思い出してため息を零し、影山は猫背になって渡り廊下を潜った。
 上履きのままコンクリートの通路を渡り、数段しかない階段を登って、隣の棟へと移動を果たす。敷居を跨ぐと同時に背筋を伸ばし、左手もポケットから引き抜いた。
 高い天井から注がれる光は眩しく、内部は人いきれで少しムッとしていた。
 外に比べると、こちらの方がまだ温かい。来て良かったと内心安堵して、彼は辺りを見回した。
 右側にはカウンター台があり、白い割烹着と三角巾姿の女性らが忙しく働いていた。
 食堂は一番混む時間帯を過ぎて、のんびりした空気が漂っていた。
 チャイムが鳴った直後は戦争状態の食券販売機前も、混雑は解消され、順番待ちの列は消えていた。
 人気メニューは売り切れた後なのか、硬貨を入れてもないのにランプが灯っていた。カウンターの方も、購入より、食べ終えた食器を下げる場所が賑わっていた。
 そんな光景を順に眺め、彼は食券販売機の前を素通りした。
「どうすっかなー」
 呟き、影山は後頭部を右手で掻き回した。
 昼飯は食べた後だった。母が持たせてくれた弁当は大きく、ボリュームがあり、食べ盛りな男子高校生でも満腹になれる量だった。
 米粒ひとつ残っていない弁当箱を思い浮かべ、ズボンの後ろポケットを叩く。チャリ、と金属が擦れ合う音が響くのを確かめて、彼は目を泳がせた。
 食堂に足を運んだ理由は、特にない。
 強いて言うなら、暖を求めて、だろうか。
 季節は秋の半ばを過ぎ、冬を目前にしていた。ハロウィン一色だった街並みは早々に衣替えを済ませ、今度はクリスマスカラーで溢れていた。
 地元の商店街も、最近は何かとイベントに精を出している。人出を期待してか電飾であちこちを飾りつけ、夜に通ればぴかぴか眩しかった。
 大きな町の中心部ともなれば、その賑わいはここいらの比ではない。もっとも日夜ボールを追いかけて汗を流す影山には、縁遠い話だった。
 年末最大のイベントが待ち構えているのもあって、クラスメイトもどこか浮足立っていた。
 その前に期末試験があるというのに、そちらには頭が回らないらしい。いや、考えると気が滅入るので、敢えて触れないようにしているだけか。
 影山自身もそのひとりだ。
 脳裏を過ぎった数式を即座に追い払って、彼は温かな飲み物を求めて自動販売機に足を向けた。
 但し彼の視線は、並べられた商品ではなく、何故か上を彷徨った。
「あと二センチ……いや。一センチか?」
 赤色の筐体を睨みつけ、右手を頭上へと掲げる。その高さを比較して唸った彼に、たまたま近くにいた女子生徒は怪訝な顔をした。
 自動販売機の高さは、概ね百八十三センチ。
 それは影山の背丈を、若干ながら上回っていた。
 成長期は終わっていない。まだ伸びると信じて疑わないけれど、その速度は中学時代に比べると、鈍化していると言わざるを得なかった。毎日欠かさず牛乳を飲み、カルシウムを補充しているのに、目標にはなかなか届いてくれなかった。
 悔しい。
 今日も勝てなかったと口を尖らせ、彼は忌々しげに販売機の足元を蹴った。
「いって」
 勿論、その報いは即座に訪れた。爪先に痺れが走り、影山はその場でぴょん、と飛び跳ねた。
 上履きは薄手で、衝撃から足を保護する機能はない。せいぜい滑らないようゴム底になっている程度で、ダメージはダイレクトに骨に達した。
 自業自得で誰も責められず、奥歯を噛んで耐えるしかない。それが余計に腹立たしくて、彼はまだ痛い足で、今度は空を蹴り飛ばした。
 ぶつかる直前に引っ込めて空振りさせて、何をやっているのかと肩を落とす。クスクス笑う声が聞こえて振り返るが、直前にパタリと止んだので、犯人は分からなかった。
 冷静になると、恥ずかしさが膨らんだ。カーッと赤くなって、彼は急ぎ踵を返した。
 結局何をしに此処へ来たのか。
 足だけでなく、行動全体が空回りしている自分に腹を立て、ホットドリンクに手を出す事もなく出口へ向かおうとして、直前で凍り付く。
 足が止まったのは外気の冷たさに怯んだからでなく、券売機前に見知った姿を見つけたからだ。
 あちらは影山に気付くことなく、発券されたチケットを手に、勇み足でカウンターへ向かっていた。
「おばちゃん、カレーうどんひとつ!」
 元気が有り余った大声が、雑多に賑わう空間に響き渡った。
 寝癖が残る頭は目を見張るオレンジ色で、学生服から飛び出たフードが背中でひょこひょこ踊っていた。注文をした後も待ちきれないのかそわそわして、背伸びをしたり、屈んだりと落ち着きがなかった。
 早く出て来い、と調理場へ念を送っている彼に、割烹着の中年女性も苦笑いが隠せなかった。
「なにやってんだ、あいつ」
 一秒とじっとしていないチームメイトの後ろ姿に、影山も呟かずにはいられなかった。
 日向が食事をしに食堂に来たというのは、分かる。問題はタイミングだ。昼休みは既に半分終了しており、後半戦に突入していた。
 壁に掲げられた大きな時計を確認して、彼は眉目を顰めた。
 前方では日向が、盆に載って出されたどんぶりに歓声を上げていた。
「ありがと、おばちゃん!」
 心底嬉しそうに叫び、汁を零さないよう慎重に盆を持ち上げる。礼を言われた女性も顔を綻ばせ、とても楽しそうだった。
 影山には、あんな風に人を和ませ、心を解きほぐす真似は出来ない。明るくて社交的なチームメイトは時に羨ましく、鬱陶しく、妬ましかった。
 彼は教室にいても、暇を持て余すことはない。友人が多く、ひとりで居る方が少ないくらいだ。
 翻って自分はどうかと考えて、軽く落ち込みかけた矢先だ。
「あっれー?」
 素っ頓狂な声が聞こえ、影山は弾かれたように顔を上げた。
 当然と言えば当然の話だが、日向は席へ移動すべく、カレーうどんを手に振り返った。入口手前に突っ立っていた影山の姿が視界に入るのは、自然な流れだった。
 見つかった。一部始終を観察していた後ろめたさが先に立ち、影山は焦って背筋を粟立てた。
「え、あ」
「なにやってんの。めっずらし」
 目が合った。火花は散らなかった。
 話しかけられ、逃げようがなかった。
 挙動不審に左右を見回すが、日向は構わず影山へ近付いた。アツアツの湯気を立てるうどんを抱え、足取りは軽やかだった。
 一メートル弱手前で立ち止まり、返事を待って首を傾げる。表情はにこやかで、機嫌が良いのが窺えた。
「い、や……別に」
 よもやこんな場所で彼に会おうとは、夢にも思わなかった。
 これが月島や山口だったなら、話しかけもせずにすれ違って終わりだっただろう。先輩たちだったら、会釈や挨拶程度はしたはずだ。
 まさか会話を求められるとは。練習中ならまだしも、こういう日常風景の中で語り合う内容など、影山は持ち合わせていなかった。
 そもそも、人と話をする際、どう切り出して良いかが分からない。昔からバレーボール一辺倒だった所為で、同年代に親しい存在があまりいなかったのが災いした。
 なんと返事をすれば良いか分からなくて、ぼそぼそ小声になってしまった。煮え切らない、奥歯に物が挟まったような返答には、自分でも舌打ちしたくなった。
 しかし日向はあまり気にした素振りもなく、「ふーん」と緩慢な相槌を打っただけだった。
「そっか。今日は学食だったんだ?」
「あ、……いや。そうじゃねー、けど」
「そなの?」
 その上で勝手な想像をして、会話を続けようとする。流石に答えないわけにはいかなくなって、影山は小さく首を振った。
 日向は予想と違った回答に目を丸くして、考え込んでいるのか、首を傾げた。
 頭の上にクエスチョンマークを生やして、不思議そうに影山を見上げている。手に持つ盆まで傾き初めており、中身が溢れそうになっていた。
「おい。落ちんぞ」
「おっと、やべえ」
 本人はそれに気付かず、渋面を作っていた。仕方なく影山が教えてやれば、日向はハッとして姿勢を正し、茶色いスープと、チームメイトを見比べた。
 早く食べないと、麺が水分を吸って伸びてしまう。その点も気になってカレーうどんを見詰めていたら、何を勘違いしたのか、日向がサッと腰を捻った。
 身体でどんぶりを隠し、彼は獣のように唸った。
「やんねーからな」
「は?」
 牽制されて、影山は目を点にした。惚けた顔で瞬きを繰り返して、人を疑っているチームメイトにがっくり肩を落とす。
「ンな事、ひとっことも言ってねーだろ」
 前髪を掻き上げながら悪態をつくが、信じられないのか、日向の目つきは緩まなかった。
 笑顔で近づいて来たのが嘘のようだ。どうしてそうなるのかと呆れていたら、空気を読まない腹の虫が、匂いに刺激されてぐぅ、と鳴った。
 カレーは影山の好物だ。特に豚肉を使い、温泉卵を乗せたものが一番のお気に入りだった。
 スパイスの良い香りが嗅覚を刺激して、胃が蠢いたのだろう。満腹なのに音立てた腹を撫でたら、日向がじりじり後退していった。
「これは、おれんだからな」
 視線は影山に固定したまま、忍び足で居並ぶテーブルに向かおうとする。人通りがある中でその歩き方は危険だが、彼にとっては影山の方が、よっぽど警戒すべき存在だった。
 誰も奪うとは言っていないし、そんなつもりもない。だのに信用してもらえないのは、少し寂しかった。
「弁当食ってんだ。入んねーよ」
「ウソだ」
「うそじゃねーって。俺は、その……あったかい飲みモンが欲しかったから来ただけで」
 だから言い訳がましく説明するが、一蹴されて、聞いてもらえなかった。
 頑固に否定に走る日向をどう説得すべきかで迷い、目を泳がせ、影山は見えた自動販売機を指差した。
 先ほど背比べをした機械を示し、残る手でズボンのポケットを叩く。彼を笑った女子はもう食事を終えたのか、近くには誰もいなかった。
「えー?」
 ここまで言っても、日向はまだ疑っていた。悔しさに地団太を踏んだ影山は、仕方なく自動販売機へ大股で接近し、小銭を数枚取り出した。
 細い溝に硬貨を投入し、一瞬悩んでからボタンをひとつ押す。出て来たものを手にどうだ、と振り返るが、元いた場所に日向の姿はなかった。
「はあ?」
 驚き、慌て、辺りを見回す。飲み頃の温度よりずっと熱い缶をお手玉していたら、どこからともなく名前を呼ばれた。
 聞き覚えのある声を頼りに振り向けば、幅広のテーブルに陣取った日向が手を振っていた。
 椅子に座って寛いでいる彼に呆れ、影山は指先からじんわり広がる熱に安堵の表情を浮かべた。
 久方ぶりの暖かさに触れて、心が和らいだ。このまま立ち去るのも気が引けて、彼は日向の向かいに腰かけた。
 一メートル弱の空間を挟んで向き合って、買ったばかりの缶飲料をテーブルに置く。その表面を覆う印刷に目を遣って、日向は一寸驚いた顔をした。
 意外だったらしい。実際、影山もこれを買う日が来るとは思っていなかった。
「お前、甘いの好きだっけ?」
「他になかったんだよ」
 ここ数日は特に冷え込みが厳しくて、温かいドリンクは学内でも人気がうなぎ上りだった。その余波を受けて、自動販売機もいくつかの商品が売り切れていた。
 ブラックコーヒーは残っていたが、影山はその手のものは飲まない。消去法で選んでいったら、これしか残らなかったのだ。
 小豆の写真が眩しいお汁粉を前に、影山は憤然とした面持ちで口を尖らせた。
 この両者の組み合わせが、そんなに面白かったのだろうか。ツボに入った日向は暫く腹を抱えて笑い転げ、テーブルに突っ伏して悶絶した。
「ぶはっ、ふはは、うひゃはっ。影山が、汁粉……似合わねぇ……」
「ほっとけ」
 卓上をバンバン叩くのは迷惑で、周囲も何事かと遠巻きにしていた。集まる視線を気にして影山は耳を赤くし、吐き捨てると同時に缶のプルタブを摘み、起こした。
 カシュ、と軽い音がした。金属片が内側に潜り込んで、甘ったるい匂いが鼻先を漂った。
「あ、やべ。振るの忘れてた」
「ぷひゃーっ!」
 ふと気になって中を覗き込むが、底が見えるわけがない。
 手痛い失敗に顔を顰めた直後、我慢出来なかった日向が有り得ないほど甲高い声を響かせた。
 背凭れのない椅子の上で仰け反り、落ちそうになったところで慌てて体勢を立て直す。一瞬見えなくなった彼が戻って来た時、その表情は真剣そのものだった。
 内心焦り、慌てたのだろう。以後はニコリともせず椅子に鎮座する彼に嘆息し、影山は甘ったるい汁をひと口啜った。
「……ン」
 鼻から息を吐き、歯に貼りついた甘味を舌でこそぎ落とす。間髪入れずにふた口目に行って、三口目の前に熱を冷まそうと息を吹きかける。
 覚悟していたほど甘く感じないのは、汁粉としての重要な部分が底に沈殿しているからだ。
 全部飲み干すのは厳しかろうと肩を竦め、彼は割り箸を割った日向に視線を投げた。
「いただきます」
「飯、食ってねーのか?」
 礼儀正しく一礼して、それから右手に持った箸でうどんを摘む。カレーの汁を飛ばさないようゆっくり麺を咥えた彼に、影山は何気なく問いかけた。
 話しかけられ、日向は視線だけを動かした。ぢゅる、と口にしたものを先に咀嚼して飲みこんで、それからうーん、と頭を揺らした。
「弁当は食ったけど。なんか、足りなかったから」
 一瞬考え、すぐに相好を崩す。あっけらかんと言い放たれて、影山はぽかんと間抜け面を晒した。
 日向はその体格に見合わず、かなりの大食漢だった。
 弁当箱も大きく、それに加えて間食用の握り飯が複数用意されていた。早朝練習後と放課後の練習前、空腹を紛らせる為にそれらを口にしている彼の姿は、烏野高校男子排球部の名物だった。
 菓子も好きだし、肉まんもふたつ、みっつは平気で食べる。その小さな体のどこに、あんなに大量の食べ物が入るのか。これも排球部の七不思議のひとつだった。
 調子よくうどんを啜り、息で冷ました汁を啜る。どんぶりを両手で抱えて傾ける彼に、影山は緩慢に頷き、汁粉の缶を揺らした。
 人が食べているところを見ていたら、自分まで腹が減ってくるから不思議だ。急に凹んだ気がする腹を叩き、彼は甘い飲み物で気分を誤魔化した。
 けれどどうしても目は泳ぎ、カレーうどんに意識が傾いた。
「……やんねーからな」
「言ってねえよ」
 それを日向は見逃さなかった。
 影山の手が届かないところへどんぶり鉢を移動させ、左手で縁を囲う形で庇う。食べづらくないのか、前のめりになった彼に嘆息し、影山は汁粉缶の底でテーブルを叩いた。
 まだ半分以上残っているが、既に濃すぎる味に飽き始めていた。
 矢張りこれを選択したのは失敗だった。自動販売機は他にもあったのだから、じっくり考えて決めればよかった。
 百円ちょっと、損をした。勿体ない真似をしたと後悔しつつ、温くなった缶をゆらゆら揺らす。そうして渋々口元に持って行ったところで、突き刺さるような視線を感じた。
 伏していた眼を持ち上げた影山は、日向が慌てて顔を伏すのを見てしまった。
「……ン?」
 首を傾げるが、理由が分からない。飲むのは止めて、見つめられる要因を考えて、彼は何気なく自分の手元を見た。
 いかにも甘そうな写真が、異様なまでの存在感を放っていた。
「ンー」
 鼻から息を吐き、影山は缶を下ろした。天板に垂直に突き立てて、縁に置いた指で右に、左に軽やかに躍らせる。
 その動きに釣られたのか。日向は瞳だけでなく、首までもリズミカルに揺らし始めた。
 そういえば彼は、甘いものが大好きだった。
 一番好きなのは炊きたての米で、そこに朝採りの新鮮な卵を落として食べるのが最高に美味い、と言って憚らない。しかしそれ以外の食べ物も好きで、先輩に奢って貰ったアイスや肉まんを、よく影山と奪い合っていた。
 放課後恒例のやり取りをふと思い浮かべ、彼は甘ったるくて吐きそうな汁粉を口に含んだ。
 もれなく日向の口が開き、音もなく閉ざされた。唾を飲みこんだらしく、喉仏が上下に動いたのが見て取れた。
 うどんを食べる手は完全に止まっていた。
「伸びんぞ」
「ふぇ? うあああ」
 それを指摘してやれば、きょとんとなった日向が一秒後に叫んだ。
 半分まで減ったカレーうどんを思い出し、急いで箸をつけるがなかなか麺が抓めない。二度、三度と失敗して黄色い雫を大量に散らし、白色のテーブルを汚していった。
 影山の手元にまで飛んできて、彼は迷惑そうに腕を引っ込めた。
 ちらりと盗み見た壁時計は、午後の始業時間まで残り十分のところを指示していた。
 それなのに日向の動きは鈍く、うどんの減りは悪かった。
「……うぐ」
 もしや食べ過ぎて、腹がいっぱいなのだろうか。
 食い意地が張っている彼に、それはあるまじき事態だ。しかし他に考えられなくて、影山は注意深く前方を窺った。
 日向が愛用している弁当箱には、いつだって大量の白米が詰め込まれていた。
 しかも限界までぎゅうぎゅうに押し込まれているので、表面はコンクリートと見紛うばかりに固い。箸を突き刺すのも一苦労で、割り箸だと下手をすれば折れてしまいかねなかった。
 あれだけ食べておいて、カレーうどんも追加となれば、彼の胃袋は相当大きく膨らんでいる事だろう。
 内側から破裂する日向を想像し、影山はクッ、と笑みを殺して顔を伏した。
 肩を震わせて俯いた彼に、事情が分からなかった少年は眉を顰めた。
「ンだよ」
「いや。なんつーか、……飲むか?」
 不満げに訊かれて、影山は首を振った。続ける言葉に一瞬迷って、偶々目に入った缶飲料をおもむろに差し出した。
 いきなり話を振られ、日向は面食らった。驚いて目を見張り、それから渋い顔で唇を引き結んだ。
 背中を丸めて警戒中の猫と化して、少年は苦々しい面持ちで影山を睨んだ。
「なんのつもりだよ」
 日向もだが、影山も食べ物への執着心は相当なものだった。
 だというのに、自ら進んで分け与えようとした。言葉の裏に何らかの策略があると疑われるのは、自然の理だった。
 実際、影山にはひとつの企みがあった。勘を働かせ、あれこれ推測した末の決断には、一定の自信があった。
「別に?」
 要らないのであればそれでいい、と言葉尻に匂わせて、彼は量が残っている缶を顔の高さまで掲げた。
 落とさないよう右手で吊り上げ、嫌味たらしく見せびらかす。すると日向は悔しそうな顔をして、奥歯をぐぎぎ、と噛み締めた。
 小鼻を膨らませて赤くなって、少年は苦悶の末に四角い盆を押し出した。
「ちょっとだけだかんな!」
 胃袋の具合と残り時間を天秤に掛けて、負けず嫌いを爆発させて怒鳴る。この期に及んでまだそんな口を利く彼に苦笑して、影山は盆の横に缶を置いた。
 空いた手でどんぶりだけを引き寄せて、日向が使っていた箸をそのまま口へ運ぶ。垂れた汁をちろりと舐めて、影山は得意げに胸を張った。
「……帰り、肉まん奢れよ」
「一個な」
「二個にしろよ」
「ダメだ」
 勝ち誇った笑みを浮かべる彼を睨み、日向が妥協案を提示した。猫背を強めてテーブルに顎を置いて、要求を突っぱねる影山に頬を膨らませる。
 カレーうどんは四百円足らず。汁粉と肉まんは百円ちょっと。
 うどんの残量を考えれば、対価としては十分だろう。いや、むしろ儲けたか。
 肉まん二個は難しいが、一個半くらいなら許してやってもいい。だが今それを言うと調子に乗るので黙っておいて、影山は伸び気味のうどんに箸を伸ばした。
 人が散々甘噛みし、舐った箸を平気で使う彼を眺め、日向は言いかけた文句を呑み、甘い汁粉に口を着けた。

2014/11/6 脱稿