青磁

 日向翔陽はよく喋る子だった。
 いつでも、どこでも。大きな声で、子犬のように吠えたてて、取り留めないことを次々と捲し立てる。
 口から先に生まれて来たのではないかと思うくらい、彼は多弁だった。しかも身振り手振りも激しくて、感情を込めて話すものだから、聞いていてとにかく面白かった。
 話題は身近なことから、世界規模のものまで。もっとも大半はとても下らない、どうでも良いものが中心だった。
 たとえば、友達と今日、どんな話をしたか。
 明け方に見た夢がどんなだったか。朝食の味噌汁で熱くて、舌を火傷しただとか。学校に出発しようとして自転車に跨ったら、急に腹が痛くなっただとか。
 授業中に眠気に襲われたけれど、頑張って最後まで耐えたとか。
 先生の話が面白くて笑い転げていたら、笑い過ぎだと注意されたとか。
 腹が空いたので早弁をしたら、昼休みに食べるものがなくなった事だったり。
 飲み物を買いに行ったら、自動販売機の前で影山とばったり遭遇して、どちらが先に買うかでちょっとした騒動になっただとか。
 部室で着替えていたら、月島に荷物を棚の一番上に置く、という意地悪をされたり。
 練習後の肉まんは最高に美味しいけれど、ピザまんも捨て難くていつも迷う、とか。
 そういった、知ったところで何の得にもならない話が殆どだった。聞き流したところで格別問題にならなず、適当に相槌を打っていても平気な内容が、話題の大部分を占めていた。
 けれどそんな無駄でしかない彼との会話が、菅原はお気に入りだった。
 いつも聞いていないのに勝手に語り出して、途中で脱線したら行き着くところまで突き進む。元のルートに戻るのは稀で、聞き役に徹していた菅原ですら、最初の話題がなんだったのか思い出せないくらいだった。
 しかも日向の口からは頻繁に擬音が飛び出して、それひとつで説明を終えてしまう事もしばしばだった。
 本人もあまり語彙が多くないので、時々支離滅裂になって、ふたりして首を捻る場合も少なくなかった。
 ともあれ、日向と喋るのは楽しい。明るく元気な彼の日常を垣間見て、日向家での生活を疑似体験するのが菅原のお気に入りだった。
 だというのに、だ。
「うーん……」
 洗面台で手を洗いながら、彼は低い声で唸った。
 個室トイレには鏡があり、店員が拭いたであろう跡が斜めに走っていた。決して汚くはないが、綺麗でもないそれを前に渋面を作って、彼は濡れた手で蛇口を捻った。
 水の流れを止め、そのまま傍らにあったティッシュケースに手を伸ばす。一枚ずつ引き抜ける紙ナプキンを二枚使って水気を吸わせて、用済みのゴミは足元のくず入れへと落とす。
 掃除したばかりなのか、底が見えている筒を一瞥して、菅原は再度、鏡面に向き直った。
 麦の穂色の髪は丁寧に櫛が通され、寝癖のひとつも残っていなかった。泣きホクロが目元に陣取り、小さい割に存在感を放っている。顔色は悪くなく、健康そのものだった。
 但し引き結ばれた唇はヘの字を作り、思案気味の眼は昏く翳っていた。
 左右対称の自分自身を睨みつけて、彼は小さくため息を吐いた。
「どうしたもんかなあ」
 堪らず愚痴を零し、後頭部を掻く。家を出る前に時間をかけて整えた後ろ髪を乱し、菅原は力なく首を振った。
 もれなく鏡の中の菅原も利き腕を高く掲げ、動きを揃えて身を揺らした。
 ベージュ色のセーターは彼の体格よりも少し大きめで、襟刳りは広く、下に着込んだ濃紺のシャツが襟を覗かせていた。袖やウェストもだぼっとしており、身体のラインを隠しながら、同時に彼の穏やかな性格を表していた。
 対してズボンは細身で、ほっそりとした脚に布がぴったり張り付いていた。足元を飾るのはダークブラウンのモカシンで、靴下は踝にも届かない短さだった。
 鞄はテーブルに置いてきたので、今の彼は手ぶらだった。
 学生服、もしくは黒のジャージばかり着ているので、私服で出歩くのはどうも落ち着かない。どこも可笑しなところはないかと腰を捻って確かめて、菅原は最後に前髪を手櫛で整えた。
 清潔感溢れる青年像を見事に作り上げ、腕組みをして自信ありげに頷いてみるが、かなり虚しい。自分なりに頑張ってみたつもりだが、そんなに似合っていないかと、彼は着慣れないセーターの袖を摘んだ。
「なにがダメなんだろ」
 自問自答してみるが、答えは出なかった。
 正解がさっぱり思いつかなくて、落胆に深く肩を落とす。だがいつまでもトイレでこうしてしているわけにいかなくて、彼は気合いを入れ直し、サムターン式の鍵を回した。
 ロックを外し、一段低くなっている通路へと出る。店の一番奥にある扉は壁が邪魔で見通しが悪く、首を伸ばしたところで遠くは窺えなかった。
 後ろ手にドアを閉めて、菅原は心持ち早足で狭い通路を進んだ。
 五歩と数えないうちに広い場所に出て、照明も増えて辺りは明るくなった。軽快なカントリーミュージックがスピーカーから流れ、雑多な賑わいが耳朶を擽った。
 二人掛けのテーブル席が入り口に近い場所に幾つか用意され、トイレに近い奥側にはソファ席も設けられていた。そちらは個室的な使い方が出来るよう仕切り板が置かれ、無愛想にならないように飾り付けが施されていた。
 菅原が向かったのは、ゆったり寛げるテーブル席ではなく、入ってすぐのところにある席だった。
 長方形のテーブルは木製で、艶やかな飴色がクラシック風の店内に見事に溶け込んでいた。椅子も時代を感じさせる構造で、使い込まれている為か、動かすとギシギシ音を立てた。
 そういう軋み音さえ楽しんで、彼はゆっくり腰を下ろした。
 数分前まで座っていた場所に舞い戻って、居住まいを正す。深く腰を据えて身体を安定させて、やや前のめりの姿勢でテーブルに肘を置く。
「ごめんな」
 それから軽い調子で謝罪すれば、真向いに座っていた少年が大慌てで首を振った。
「いえ。ぜんぜっ、だじょぶ、っす」
 明るい茶色の髪を振り回して、日向は早口でまくし立てた。
 呂律が回っておらず、音がいくつか足りていない。明らかに緊張しており、菅原はついつい噴き出してしまった。
「全然大丈夫そうに見えねーけど?」
 カラカラと喉を鳴らして笑い、椅子をテーブルに近づけて楽な体勢を取る。頬杖をついて見詰める相手もまた私服で、菅原以上にラフな格好だった。
 いつも学生服の下に着ている白色のパーカーに、ポケットが沢山ついたカーゴパンツ。足元はスニーカーで、靴下ははっきり見えないけれど、恐らくはバレーボール用のソックスだ。
 華奢な体格をカバーしようとしてか、上下共にサイズは大きめだ。菅原のようにバランスを考えて組み合わせたわけではなく、単純に、そこにあったから着た、という雰囲気が全体から滲み出ていた。
 もっとも、そういう気取らないところがいかにも彼らしくて、菅原は気に入っていた。
 穏やかに微笑み、彼はそう広くない卓上に手を伸ばした。ソーサーの上に置かれたカップに指を掛け、立ち上るコーヒーの香りを存分に楽しむ。
 目を細めて匂いを嗅ぐ彼に、日向は恐縮しきりに頭を垂れた。
「えっと、あの」
「ん?」
「お、おれ……も、ちょっと。トイレ、に」
「ああ。いいよ、いっといで」
 両手は腿の間にでも挟んでいるのか、少々猫背気味になっていた。視線は低い場所を彷徨って、一瞬菅原を窺っただけで、それ以外はずっと伏されていた。
 そうやってもじもじしながら断りを入れられて、菅原は飲もうとしていたコーヒーを皿へ戻した。
 陶器が擦れ合う音がした。カチリと固い音を聞いて首を竦めて、日向は菅原に示された方角を見た。
 扉自体は見えないけれど、案内の矢印が、さりげなく壁に貼りつけられていた。
 タイルに描かれたイラストを見て、少年は身を乗り出した。背を丸めたまま椅子を引き、恐る恐る立ち上がって菅原に頭を下げる。
 そうして日向は駆け足気味に、目隠しの仕切り板が作る通路へと飛び込んだ。
 そそくさとした動きが、実に彼らしくなかった。
「……はあ」
 見送って、菅原は盛大に溜息を吐いた。
 日向がいる間は耐えていたが、表情も見る間に翳った。両肘をテーブルに衝き立てて項垂れて、彼は暗く沈みがちな自分に向けて、懸命に喝を入れた。
 それでも落ち込んだ心はなかなか浮き上がらず、事態を好転させる方法も見つからなかった。
 どうして上手く行かなのだろう。
 お互いよそよそしくなりすぎて、会話が少しも弾まなかった。
「学校じゃ、なんともないのになあ」
 日向は菅原の、可愛い後輩だった。
 烏野高校男子排球部の新星にして、救世主――とは大袈裟だが、一時期は本気でそう思った。天才と呼ばれながらも孤独だった影山を救い、責任感に押し潰されてコートに背を向けていた東峰を、やや強引だったが立ち直らせた。菅原自身も、彼を見ているうちにレギュラーへの欲が湧き、諦めたくないという想いを募らせた。
 手のかかる後輩は、考えるよりも先に行動する馬鹿だった。
 猪突猛進を地で行く日向は、影山と一緒になってなにかと騒動を巻き起こした。部内だけならまだしも、外部にまで迷惑をかける彼らを制御するのは三年生の仕事で、特に日向は、面倒見の良い菅原によく懐いた。
 菅原自身も慕われるのは純粋に嬉しくて、ついつい必要以上に彼を可愛がり、甘やかした。
 そうしているうちに、クラスメイトでもある主将の澤村から、世話を焼き過ぎだと叱られた。自覚がなかった菅原は反発したが、後日二年生の田中からも、日向だけ依怙贔屓しているとの指摘を受けた。
 ひとりだけならまだしも、ふたりから同じようなことを言われて、流石の菅原も考えた。そんなつもりはないし、後輩は皆平等に扱っているつもりでいたが、客観的に振り返ってみると、実際に随分と差がついていた。
 反省して改善を試みるが、日向に冷たく当たってしょんぼりされると心が痛んだ。心を鬼にして頑張ってみたが、良心の呵責に苛まれて長続きしなかった。
 無理だったと澤村に謝罪すれば、そんなに好きなら仕方がないと呆れられた。田中や西谷からも、ホントに日向が好きなんですね、と笑い飛ばされた。
 最初は意味が分からなかった。
 部活を終えてひとりになって、布団に入ってからふと思い出して、頭が爆発した。
 顔から火が出そうだった。恥ずかしさに悶絶して、その日は全く眠れなかった。
 どう考えても、他に答えが出て来ない。あんなにも構っていた理由を他者から教えられて、穴があったら入りたかった。
 しかし一度認めてしまえばすっきりした。あれこれ納得出来たし、原因が分かった分、気分は晴れやかだった。
 翌日には早速気持ちを伝えた。
 驚きながらも日向は頷いてくれた。よろしくお願いします、と頭を下げてくれた。
 それから、数日。
 たまにはどこかへ出かけようと誘った。春高二次予選前の最後の休日だから、買い物ついでにのんびり町を散策しようと声をかけた。
 日向は二つ返事で承諾してくれて、待ち合わせ時間を決めて、今日を迎えたわけだけれど。
 いつもは喧しく、黙るよう注意しなければならないような子が、朝からずっと大人しかった。
 話しかけても上の空で、返事は要領を得なかった。手を繋ごうとしたら大袈裟に驚かれ、逃げられた。
 休憩しようと喫茶店に入っても、ずっと落ち着きがなかった。
「俺、嫌われてんのかな」
 そんな訳がないと思いつつも、考えずにはいられない。
 本日何度目か知れないため息を零して、菅原は砂糖だけ入れたコーヒーを啜った。
 運ばれて来た時は溢れんばかりだった湯気も、すっかり消え失せてしまっていた。慣れない味は苦いだけで、甘味料の気配はどこにも残っていなかった。
「まっず」
 大人びた印象を与えたくて、格好つけたのは失敗だった。
 素直な感想を小声で呟き、舌を伸ばして苦みを追い払う。日向が戻ってくる前にとテーブルの小瓶から砂糖を追加して、彼はスプーンを持ち上げた。
 ぐるぐる回してカップ内に渦を作り、覚悟を決めてひと口含む。しかし却って苦みが増した気がして、とても飲める代物ではなかった。
 普段飲まないものなので、加減が分からない。辛いのは大好きだけれど、この手のものは免疫がなかった。
 大失敗だと項垂れて、菅原は後方を振り返った。
 日向はまだトイレに籠ったままらしく、姿は見えなかった。
「うーん」
 会話の糸口を掴もうとあれこれ話題を振ってみたが、なにひとつ実を結ばなかった。苦し紛れにこの店に誘ったまではいいが、状況はまるで改善されていない。
 沢山歩かせたのがいけなかったのか。買い物であれこれ口出しし過ぎて、鬱陶しがられてしまったか。
 足元に置いた紙袋を靴の側面で叩いて、菅原は普段と様子が違った後輩に肩を落とした。
 いや、もうただの後輩ではないのだった。
「俺と付き合うの、重荷だったかなあ」
 想いを押し付けたつもりはないけれど、上級生から好きと言われて断れなかった、というのは十分有り得そうだった。嫌われているとは思わないが、結局のところ、日向にとっての菅原は、ちょっと他より親しいだけの先輩でしかなかった、ということだ。
 だとしたら、哀しい。
 そしてとてつもなく恥ずかしかった。
 浮足立って、調子に乗っていた。日向が無理をして合わせようとしてくれていたのに、ちっとも気付かなかった。
「参ったなあ……」
 この後、トイレから戻った日向をどんな顔で迎えれば良いのか。
 絶対に笑顔がぎこちなくなる。そんな自信は要らないのに、と苦笑して、菅原は丁寧にセットした髪をくしゃくしゃに掻き毟った。
「あー、もうっ」
「菅原さん?」
 両手を使って、頭を引っ掻き回す。そこへ不思議そうに呼びかけられて、菅原はハッとして凍り付いた。
 癇癪を爆発させていた彼は、いつの間に戻ったのか、傍に立っていた日向に騒然となった。
「あ、あ、いや」
「どうかしたんですか?」
「あは、あはは。あはははは……」
 慌てて弁解に走るが、咄嗟に言葉が出て来ない。代わりに笑ってごまかして、菅原は最後に深くため息を吐いた。
 力なく椅子に寄り掛かり、毛先が跳ねたままなのも放置して俯く。その脇を日向が不思議そうにしながら通り抜け、ちょこん、と椅子に腰かけた。
 部室では足を伸ばしてだらしなく座っているのに、今日はいつになく畏まって、行儀が良かった。
 余所行きの態度は、精神的な距離を感じさせた。
 いつもの馴れ馴れしさはどこへ消えたのだろう。折角の休日なのに少しも楽しんでいる様子が見て取れなくて、それも菅原が凹む要因になっていた。
 買い物ではなく、どこかの市民体育館に行って、ボールを追いかけていた方が良かったのかもしれない。けれどそれではあまりに普段通り過ぎて、新鮮味がなかった。
「あ、えっと。あの、菅原さん」
「んー?」
 もう甘いのか、苦いのかも分からないコーヒーで口を漱ぎ、喉を潤す。真向いでは日向が百面相をして、遠慮がちに話しかけて来た。
 考え事に没頭していたので、生返事になってしまった。鼻から息を吐いた後ではっとして、菅原は急いでカップをテーブルに戻した。
 椅子で小さくなった日向が、今にも泣きそうな顔をしていた。
「え? ちょっ、日向?」
 いったい何が起きたのか、咄嗟に理解出来なかった。
 買い物を終えて、喫茶店に入って。サンドイッチとチキンライスを昼食にして、食べ終えた後にコーヒーで一服して。
 菅原が先にトイレに行き、入れ替わる形で日向が席を立った。戻って来た彼は何故か涙ぐんでおり、苦しげに唇を噛み締めていた。
 辛そうに歪められた口元に息を呑み、菅原は立ち上がろうとして浮かせた腰を戻した。椅子に座り直して左右を見回し、出しっ放しだったシュガーポットをテーブル奥へと押し込める。
 卓上の空きスペースを広くした上で、彼は無理に笑おうとした後輩に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ひなた……」
 こういう時、どんな言葉を投げかけてやれば良いのだろう。目の前が真っ暗になって、菅原は自分まで泣きたくなった。
 雑誌やインターネットで色々と調べ、参考になりそうな情報は手当たり次第目を通した。けれどいざ実戦となると、想定外の事ばかりだった。
 何をやっても上手く行かない。良かれと思ったことが悉く裏目に出て、いっそ消えてしまいたかった。
 己の不器用さに落ち込み、鼻を愚図らせる。途方に暮れて、力なく椅子にしな垂れかかる。
 顔を伏して前髪を弄っていたら、長い時間を経て、日向が先に口を開いた。
「あの、だから……その。きょ、今日、は……ありがとう、ございました」
 短い指を胸の前で小突き合わせて、必死に言葉を選んでいるのが窺えた。
 尻窄みに小さくなっていく声に反比例し、菅原は顔を上げて目を見張った。しどろもどろの礼は心を激しく震わせると共に、片隅に住み着いた哀しみを膨張させた。
 こんなタイミングで礼を言うという事は、矢張り楽しくなかったのだ。これ以上はもう付き合えないと、店を出たらお開きにしようと、そう伝えたがっているのと同じだ。
 実際、この後の予定は全くの白紙だった。カラオケに繰り出すもよし、ゲームセンターで遊ぶのも良し。そんなことをぼんやり考えていたけれど、具体的な案はこれから決めつるもりでいた。
 時間には余裕があった。タイムリミットである、烏野町への最終バスは当分先だった。
 けれど日向は、もう耐えられないのだろう。好きでもない相手と長時間一緒に居るのは、菅原だって苦痛だ。
「うん」
 分かっている。そういう気持ちも込めて頷く。
 そんな愛想の欠片もない返事に、日向はどうしてか、ホッとしたように相好を崩した。
 予想と違う表情を見せられて、菅原は無意識に背筋を伸ばした。
 テーブルに身を乗り出し、嬉しそうに微笑んだ後輩を見詰める。小柄な一年生は少し照れた素振りで身を捩って、左右の指と指を重ねあわせた。
「あの、おれ、えっと……実は、こーゆーお店、入ったことなくて」
「え、あ、うん?」
「だから菅原さんがぽんぽん決めて、注文してくれるの、すっごいカッコよかったです」
 ふたりが長居している喫茶店は、かなり昔からこの場所で営業していそうな店構えだった。
 何かで有名だとかではなく、地元の人に愛されて長く続いている店だ。客層は様々で、ひとりでゆったり寛いでいる人もいれば、ノートを手に勉強に勤しんでいる人もいた。
 口喧しく喋り倒す人はいない。強いて言うなら、一番騒々しいのがこのテーブルだった。
 店内を見回しながら興奮気味に告げられて、菅原は一瞬、何を言われたか分からなかった。
 日向が暮らす雪ヶ丘町は、学校がある烏野町から山ひとつ越えた先にあった。
 菅原は行ったことがないが、話を聞く限り、結構な田舎だ。長閑な田園風景が広がり、日常の買い物も車がないと不便極まりない。欲しいものは商店街で大体揃うが、飲食店は少なく、ファストフード店は一軒もないらしい。
 そんな穏やかな空気の下で育った日向は、つまるところ、店での買い物や飲食自体、あまり慣れていなかった。
 言われてみれば、五月の合宿でスポーツ用品店に連れて行った時も、異様なまでに緊張し、興奮していた。
 先程の買い物の時だって、そうだ。商品数が多すぎて決められないと助けを求められて、結局菅原が全て選んだのだった。
 世話を焼き過ぎて鬱陶しがられたかと悔やんでいただけに、驚きが隠せない。予想外の言葉の連続に唖然として、彼は目を丸く見開いた。
 合いの手も忘れて惚けていたら、ずっと黙っているのを不思議がられた。
 小首を傾げ、日向が口を噤んだ。何かに気付いたのか臆し気味に身を縮めて、遠慮がちに菅原を呼んだ。
「あの、……おれ、うるさい……ですか?」
「え?」
 慎重に確認されて、彼はハッと背筋を伸ばした。
 目の前で風船が割れたような感じだった。薄い膜が弾け飛び、視界が急に開けた。
「え? え、あ、ああ。そんなこと……うん」
 ただいきなり目の前が明るくなったので、そちらに気を取られて思考が追い付かなかった。
 長く留めていた息を吐き、コーヒー味の唾を飲む。大きく跳ねた心臓をセーターの上から撫でて、菅原は急に変貌した風にも見える後輩に微笑んだ。
「てか、うん。日向、今日、やたら静かだったから」
 てっきり、退屈なのかと思っていた。
 喉まで出かかった言葉を飲みこんで、肩で息を整える。内心ドキドキだったがなるべく表に出ないよう心掛け、半端なところで切った台詞の続きを日向に促す。
 感想という形で問いかけられて、少年は目を瞬き、恥ずかしそうに首を竦めた。
 両手は卓上を這って、既に冷たいココアのカップを抱きしめた。
「だって。おれ、……こういうの、も。初めてだから」
「うん?」
 気のせいか、顔が赤い。耳の先まで朱色一色で、左を向いた瞳は艶めいていた。
 拗ねている表情が底抜けに可愛くて、菅原はもしや、と想像を働かせて興奮に鼻息を荒くした。
 胸がトクトク言っていた。両手両足が痺れて、甘い疼きが背中を駆け上がって行った。
 どうしよう。
 あまりの嬉しさに、困惑が止まらなかった。
 日向が一瞬だけ菅原を見た。上目遣いに睨みつけて、すぐに逸らして、また様子を窺うべくちらちらと視線を投げかけて。
 椅子の上で身動ぎ、少年は真ん丸に頬を膨らませた。
「デート、とか……なに喋っていいか、全然、分かんない」
 小声でぼそぼそ言われたけれど、菅原の耳は一言一句、余すところなく拾い上げていた。
 恥ずかしげで、悔しそうだった。反面菅原は幸せいっぱいで、満ち足りていた。
 すべては杞憂だった。思い過ごしだった。
 それどころか日向は、菅原が思っていた以上に、菅原のことを好いてくれている。
 告白時は明朗な返答をもらえなかった。それから今日までの日数を差し引いても、充分過ぎる回答だった。
 少しでも気を緩めれば、頬がだらしなく綻んだ。我慢していたら筋肉がぴくぴく引き攣って、変な表情になってしまった。
「やっべ……」
 こんなのは反則だ。
 完璧に想定外だった。
 顔がにやけるのを止められない。口元が弛んで、菅原は急ぎ右手で覆い隠した。
 目が泳いだ。まともに日向を見られない。けれど見ておかないと後悔しそうで、何度も盗み見ては、視線が交錯する直前にぱっと逸らした。
 ふたりして真っ赤になって、湯気を立てて黙り込む。下半身はもぞもぞして、揺れ動く足がテーブルの下でぶつかった。
「あっ」
「ごめ!」
 それで揃って顔を上げて、吐いた息がぶつかった。
 暫く呆然と見詰め合って、先に噴き出したのは菅原だった。
「ンな緊張しなくても。いつも通りにしてていいべ?」
「わ、分かってるんですよ。でも、……うぅぅ」
「まあ、そーゆー日向も珍しくて、俺は好きだけどな」
「――っ!」
 ぼふん、と音がした。あっけらかんと言い放った菅原の前で、日向は爆発した頭をふらふら揺らし、耳からは黒い煙を噴いていた。
 そうしているうちに真っ赤になった顔を手で覆い、テーブルに突っ伏した。勢いよく額を打ち付けて、気を失ったわけではなかろうが、一切動かなくなった。
 煙は未だ消えず、焦げているのかぷすぷす言っていた。パーカーから覗く襟足も見事な紅色で、菅原は呵々と笑うと、苦くて甘いコーヒーを飲み干した。
 

2014/10/31 脱稿