丁子色

 窓の外は鮮やかな朱色に染まっていた。
 遠くに広がる稜線は美しく、紅色を帯びた雲のコントラストは眩しかった。太陽は薄雲の中にあっても存在感を示し、教室に長い影を刻んでいた。
 照明の灯らない室内は、廊下に近付くにつれて薄暗くなっていた。明るいのはカーテンで隠れていない窓辺だけで、ガラスで暖められた熱は下がりゆく気温とは裏腹に、そこに居座る者たちに穏やかな眠りを齎した。
 もっとも、舟を漕いでいる余裕はない。机に置かれた一枚の紙切れを睨み、影山は右手に持つシャープペンシルを握りしめた。
「さっさと決めちゃえばいいのに」
 複数の記入欄がある用紙は、どこを見ても真っ白だった。何度か書いては消し、消しては書いた跡が見受けられるものの、今現在そこにこびりついているのは、消しゴムの滓だけだった。
 黒鉛の名残は取り払われて、書かれていた内容を窺うのも難しい。最初に何を書いたか、本人ですら思い出せなくなっている状態だった。
 そんな空白を仇のように見つめていた彼は、不意に降って来た声に顔を歪め、露骨に嫌そうに視線を上げた。
 真っ先に見えたのは、上履きの裏だった。
 ひとつ前の席に座る生徒は、明日の朝、椅子の背凭れに靴跡を見付けて困惑する事だろう。それとも気付かないまま座って、制服で痕跡を消してしまうか。
 可愛そうな女子を頭の中から追い払って、影山はクラスメイトとは似ても似つかない男子生徒に渋面を作った。
「うるせえ」
 悪態をつけば、呵々と笑い飛ばされた。なにが面白いのか分からなくて、彼は不貞腐れて頬を膨らませた。
 使い慣れたペンを手放し、机へと転がす。それは半周もしないうちに停止して、白い紙に黒い影を描き出した。
 投げやりになっている彼を見詰めて、他組の机に腰を据えた少年は困った顔で肩を竦めた。
「つーか、降りろ」
「いいじゃん。たまには見下ろさせろって」
 その態度にも腹を立てて、影山は低い声で怒鳴った。しかし日向は真面目に受け取らず、飄々と受け流して目を細めた。
 白い歯を見せて笑って、頬杖をつく。彼が座っているのは椅子ではなく机で、足の置き場は椅子の背凭れだった。
 緩く曲げた膝に肘を預け、前傾姿勢で影山の手元を覗き込んでいた。明るいオレンジ色の髪は夕日を浴びて、綿帽子のようにキラキラ輝いていた。
 学生服のボタンが西日を反射し、影山の瞳を焼いた。慌てて目を瞑ってダメージを回避して、彼は手放したばかりのシャープペンシルを指で小突いた。
 見たくない文字をそれで隠して、凹凸が残る紙面をそっと撫でる。消しゴムを当て過ぎたのか、四角い欄の内側は、ほんの少しではあるけれど、紙が薄くなっていた。
 指の腹で僅かな差を探り当て、肩を落とす。自然とため息が零れて、眉間には皺が寄った。
 と同時に日向も顰め面を作って、頬杖を解いて身を乗り出してきた。
「ため息」
「……ああ」
 短く、ひと言だけ注意を口にした彼に、影山も即座に応じて首肯した。
 ため息を吐くと幸せが逃げる。そんなことを言っていた先輩は既に卒業し、新天地へと旅立っていた。
 懐かしい人を脳裏に思い浮かべ、気持ちが浮上したのは一瞬だけだった。視線を落とせば稀に見る難題が、早く結論を出すよう急かしてきた。
 進路希望調査票。
 第一希望から、第三希望まである欄を全て埋める人もいれば、ひとつだけの人もいるだろう。影山のように決めかねて、いつまで経っても提出できない生徒も、ひとりやふたりではない。
 だが与えられた猶予は残り少なかった。提出期限は目前に迫り、担任からも、催促の声が頻繁に聞かれるようになっていた。
 けれど、決まらない。
 決められない。
 うだうだ悩んで足踏みしている影山に苦笑して、日向は窓から見える景色に視線を移した。
「もうじき、卒業式だなー」
「まだ一月だぞ」
「あと二か月じゃん」
 冬の日暮れは早い。駆け足で空を渡った太陽は、安らかな眠りを求めて西の地平線に迫っていた。
 夏場だったらまだ明るいのに、あと三十分もすれば暗くなってしまう。月日の流れを実感して、日向は左右の膝を抱き寄せた。
 背凭れの上辺に爪先を預け、板に張り付けていた踵は浮かせてバランスを取る。交差する両手は白く、学生服の袖からは下に着込んだトレーナーがはみ出していた。
 詰襟から出したフードは背中側に垂らして、胸元では二本の紐が揺れていた。学生服のボタンをきちんと留めているので絵柄は見えないが、形状からして、一年の頃から愛用しているもので間違いなかった。
 入学直後からあまり体格が変わらなかったとの愚痴を、今でも時折耳にする。影山や月島は多少伸びたのに、日向や、マネージャーの谷地は、一年前と殆ど同じだった。
 身体測定の結果を見せろと迫られたのが、つい昨日の事のように思い出された。
「俺らも、来年で終わりか」
「まだ終わってねえよ」
 色褪せているようで、色鮮やかな光景を振り返っていたら、日向がしみじみ呟いた。それに思わず噛みついて、影山は言ってから苦々しい表情を作った。
 振り向いた日向は目を細め、満足そうに笑っていた。
「つーか、まだ始まってもねーしな?」
「……おうよ」
 季節は一巡し、間もなく二周目が終わる。影山が烏野高校に入学して、二度目の冬が始まっていた。
 あと少しすれば、春になる。彼らを引っ張ってくれていた心強い先輩たちは卒業し、いなくなってしまう。
 成績面で心配された西谷や田中は、先生方の熱い指導と努力の甲斐あって、ギリギリセーフで留年は回避された。残る三名の方は最初から問題になどならなくて、縁下などは年明け前に、あっさり大学の合格通知を手に入れていた。
 就職する人、進学する人、当面は家業を手伝いながら道を模索する人。
 五人の笑顔を順番に並べて、影山は歯を見せて笑う日向に肩を竦めた。
 彼の言う通り、ふたりの道はまだまだこれからだった。
 高校三年生といえば、最上級生だ。主将でなくとも後輩を指導する立場になるのは変わらないし、頼られる存在でなければいけない。自分たちが後輩だった時の上級生のように、背中で語れて、支えてやれる人間でありたかった。
 とはいえ、言うは易く行うは難し。未だ周囲から問題児扱いのふたりが後輩たちの規範になれているかどうかは、首を捻らなければならなかった。
「もうちょっと、しっかりしないとな。おれら」
「テメーと一緒にすんじゃねえ」
「寝言は寝てる時だけにしような、影山クン?」
 その自覚があるのか、日向がぽつりと言った。ひと括りにされるのを嫌がった影山は反発したが、軽く流されてしまった。
 この一年ちょっとの間に、日向は随分と口が達者になった。
 特に嫌味の切り返し方が、少しだけだが月島に似て来ていた。
 変なところで影響を受けている。気に入らなくて臍を曲げて、影山は会話を終わらせようと手を振った。
 犬猫を追い払う仕草で日向を牽制し、細身のシャープペンシルを拾い上げる。直後に指で弾いてくるりと回せば、苦笑していた日向が背筋をスッと伸ばした。
「おれ、ソレ、出来ねーんだけど」
 長らく背凭れに預けていた足を下ろし、机上から椅子へ移動した彼が面白くなさそうに呟いた。靴跡が残る背板に胸を寄り掛からせて、影山との距離を狭めて口を尖らせる。
 降りろ、との命令に今頃従った彼に嘆息して、影山は握り直したシャープペンシルを持ち上げた。
「知るか、ボケ」
 尖った先端を彼に向け、素っ気なく言い放つ。
 返答が気に入らなかった日向は不満を露わにしたが、影山は相手にせず、引っ込めていた芯を数ミリ押し出した。
 しかし紙面に点をひとつ打っただけで、筆は一向に進まなかった。
 彼らがこの学校に在籍していられるのは、あと一年と数か月。それはとても長いように思えて、恐ろしく短い時間だった。
 入学から今日まで、あっという間だった。毎日練習に汗水流し、試験前には大騒ぎをして、試合では歓喜の雄叫びを上げ、何度も悔し涙を飲んだ。
 充実した日々だった。しかし満たされない。まだ足りないと貪欲な心が吠えて、更に上を目指せと背中を押した。
 階段は雲を突き抜け、天高くまで続いていた。登った段数は半分にも届かず、ゴールは隠れて見えなかった。
 階段は、途中で幾つにも分岐していた。
 登り易そうな道、険しそうな道、色々だ。そしてどのコースを選ぶかは、影山の意志次第だった。
「…………」
 その自分の意志が分からなくなりそうで、影山は書きかけては止め、紙面に点ばかり打ちこんでいった。
 同じ場所で足踏みをして、一向に進もうとしない。普段以上に口数の少ない彼を眺め、日向は猫のように背中を丸めた。
 椅子ごと影山の机に寄り掛かって、首は右に倒して視界を広げる。斜めになった彼を一瞥して、王様と呼ばれた天才セッターは口をヘの字に曲げた。
 こうも注目されると、やり辛くて仕方がなかった。
 日向が此処に居ても、居なくても、きっと結論を出せずに悶々としていた。ただ彼の視線があるお陰で、ただでさえ悪かった進みが一層悪化したのは、ほぼ間違いなかった。
「練習、行けよ」
「山口には言ってある。影山が逃げないように見張ってろ、って武田先生にも言われた」
「そんな信用ねえのか、俺は」
「あと提出してないの、お前だけだかんな」
 なんとか追い払おうとするが、藪蛇だった。顧問の名前まで出されて、影山は拗ねた顔で首を竦めた。
 未提出のまま体育館に行ったら、確実に武田に説教される。出さずにいたら、練習に参加出来ない。
 日向まで巻き込む事になるのは不本意で、嬉しくなかった。
 八つ目の黒点を打ったところで、影山は諦めて右手を広げた。
 握っていたものを倒し、首を振る。盛大にため息をつけば、案の定、日向が絡んできた。
「ンなの、ちゃちゃっと書いて、出しちまえばいいだろ」
「そういうテメーこそ、どうすんだよ!」
 そこまで思い悩む必要などない、とでも言いたげに怒鳴られた。だから影山も声を張り上げ、ついでに拳で机を叩いた。
 ダンッ、と音を響かせた彼に、日向は驚いたのか仰け反って目を丸くした。
 凭れかかっていた椅子から身を剥がし、何度か瞬きをして影山を見詰める。よもや自分に話が振られるとは、夢にも思っていなかった表情だった。
 もっとも、それも無理からぬ事だった。
 日向は早い段階から、就職を希望すると言っていた。大学進学は学力的に難しく、推薦の話が来ない限りは選ばない事を、二年の春には決めていた。
 そして肝心の推薦も、今のところ、話が来る気配はなかった。
 チームの囮役として目覚ましい活躍を見せる彼だけれど、百六十センチ少々の身長は矢張りネックだった。攻撃力はずば抜けているが、守備力が低いという部分も、周囲の評価を悪くしていた。
 オリンピックだなんだのと大層なことを言っていた時期もあるが、自分の実力を知るにつれ、越せない壁を感じるようになったのかもしれない。
 一緒に世界の天辺を目指す約束は、どうやら叶えられそうになかった。
 そんな話を笑いながらされて、影山が怒らないわけがなかった。
 以来、進路の話はタブーになっていた。取っ組み合いの喧嘩をしたのは久しぶりで、日向も反省したのか、進んで話題に乗せようとしなくなった。
 だからこんな風に、茶化しながらせっついてくると思わなかった。
 苛立ち、痺れた手を机に押し付ける。顎が軋むくらいに歯を食い縛る彼を見て、日向は三秒してから四肢の力を抜き、静かに微笑んだ。
「聞きてーの?」
 穏やかに訊ねられて、影山は答えられなかった。
 目を見張り、耐えられなくなって顔を背ける。夕焼けは色を強め、西の空は燃えているかのように真っ赤だった。
 自分たちも少し前までは、あんな風に情熱的に思いを通わせていたのに。
 影山が目指す未来は、昔からずっとひとつだった。
 バレーボールのプロ選手になる。代表チームに選出されて、日の丸を背負ってオリンピックや、世界大会に出場する。
 それしか考えない。
 それしか求めていなかった。
 だというのに、今になって屋台骨が揺らいでいた。幼い頃から描き続けていた青写真が、根底から覆されようとしていた。
 握り拳を解き、影山は腕を伸ばした。もがくように指を動かし、掴んだのは小さな手だった。
 暖かさに触れて、彼は不意に泣きたくなった。
「聞き……たく、ねえ」
 絞り出した声は掠れ、殆ど音になっていなかった。
 けれど日向はしっかり言葉を拾い、緩慢に頷いた。少し照れ臭そうに首を傾けて、「そっか」と短く相槌を打った。
 日向は進学しない。プロは目指せない。地元に残り、烏養がそうだったように、趣味でやっている人を集めて、地域でバレーボールチームを作って、それを生き甲斐にする。
 道は別たれる。二度と交差することはない。
 約束は違えられ、果たされる日は来ない。
 永遠に。
「お前は、行くんだろ。東京」
 静かに囁かれて、影山は顔を伏した。日向の手を掴んだまま俯いて、血が出る寸前まで唇を噛み締めた。
 手と手は重なり合っただけで、握り返されることはなかった。募らせた思いを拒絶されているようで、影山は顔を上げる事が出来なかった。
 高校を卒業して即プロチームに所属する男子選手は、女子に比べると圧倒的に少ない。男性プレイヤーの多くは大学に進学し、プロとしてやっていける肉体を完成させ、技術を磨き、経験を蓄積してから、決して広くない門戸を叩く。
 影山もそれに倣い、関東の強豪校への進学を希望していた。
 偏差値はかなり足りていないが、彼の腕ならば、推薦を勝ち取るのも夢ではない。来年度のインターハイの結果次第では、一校だけでなく、複数の大学から誘いが来る可能性もあった。
 地元の大学へ進学する道もあるけれど、どうせ挑戦するなら、より強いチームがいいに決まっている。影山個人の夢を叶えたければ、迷う必要はなかった。
「俺は、……行かねぇ」
 だのに、決心がつかない。足元がぐらついて、前にも、後ろにすら動けなかった。
「バカ言ってんじゃねーよ。お前は、もっと上に行けんだから」
 絞り出した声をあっさり叩き落し、日向は語気を強めた。今すぐ撤回しろとばかりに早口になって、影山の手の下で指を折って拳を固くした。
 彼の手が丸みを帯びた分、影山は上に押し上げられた。跳ね除けられはしなかったものの、触れ合う事さえ拒まれている気がして、胸が締め付けられるように痛んだ。
 息苦しかった。目に見えない圧力で押し潰されてしまいそうで、呼吸ひとつままならなかった。
 溺れてしまう。
 日向のいない世界に埋没して、二度と起き上がれない。
 景色が歪んで見えた。
 もう限界だった。
「バカ言ってんのはテメーだろうが!」
 叫び、影山は掴んだその手に爪を立てた。
「……イ、つぁっ」
 肉を抉られた日向は悲鳴を上げ、急ぎ逃げようと肘を引いた。しかし影山は許さず、皮膚を突き破る勢いで指先に力を込めた。
 深爪になる寸前まで削られていようとも、十分凶器だ。骨と骨の間に深く食い込んでいる爪甲に歯を食い縛って、日向は小鼻を膨らませた。
 無理に引っ込めれば、逆に表皮を削られてダメージが大きくなる。影山の指を痛めてしまうかもしれない。そんな可能性に思い至って身動きが取れなくて、日向はひたすら耐えるしかなかった。
 そうやって健気な素振りを見せる彼を鼻で笑い飛ばして、影山は身勝手が過ぎる少年を睨みつけた。
 夢を叶える第一歩として大学に進んでも、傍に日向が居なければ意味がない。
 自分が優秀なセッターであればチームは勝てる、という傲慢な思い込みは、とうの昔に打ち砕かれている。ひとりだけ強くても意味がない事は、高校に入って散々思い知らされた。
 もし中学時代の考えのまま高校でプレイを続けていたら、まず間違いなく、どの大学のスカウトの目にも留まらないだろう。自分がチームの為に尽くしていると、胸を張って言えるようになったのは、日向との出会いがあったお蔭だ。
 彼がいなかったらと思うと、心底ぞっとする。日向に巡り会えていなかったら、影山はどこかでバレーボールを辞めていた。
 だからこそ許せなかった。
 認めたくなかった。
「テメーが、先に言ったんだろうが。ずっと一緒だって。俺と、一緒に……世界目指すって、テメーが!」
 それは一年の時のインターハイ予選、初日の朝。
 いつものように部室まで全力で競争して、息を切らしながら交わした約束だった。
 あの日のことを忘れたことはない。記憶は色褪せる事なく、影山の中できらきら眩しく輝いていた。
 日向は違った。
 信じていたのに、そうではなかった。
 それがどうしようもなく悔しくて、哀しかった。
 抗いもせず、簡単に諦めてしまった彼が憎かった。
 こんなにも好きなのに、離れ離れになるのを受け入れている日向が情けなかった。
 荒い息を吐き、影山は肩を上下させた。
 零れそうになった涙を必死に堪え、思い切り鼻を啜る。溢れ出る嗚咽も全て飲み下して、ひとりではどうにもならない感情に奥歯を噛み締める。
 今にも泣きだしそうな影山を仰いで、日向は押し黙り、きゅっ、と口を引き結んだ。
 そして緩んでいく影山の手を追って、初めて彼を握り返した。
「……だな。言った。約束した」
 赤い爪痕が残る手で影山を包み、そっと語り掛ける。声は穏やかで慈愛に満ちていて、嵐に囚われていた彼の心を優しく抱きしめた。
 それで不覚にもひと粒、涙が零れて、彼は頬に落ちる前に慌てて残る手で拭い払った。
 緊張の糸が切れて、なし崩しに壊れてしまいそうだった。
 もう誤魔化しきれないのになだ隠そうとする影山に苦笑して、日向は紙の中央に配された空欄に意識を向けた。
 彼を悩ませ、立ち止まらせている原因がなんなのか、分からないほど馬鹿ではない。てっきり誰よりも早く結論を出すだろうと思っていたのに、今日になってもうじうじしているとは、夢にも思わなかった。
 武田に相談された時は驚いた。
 真剣な眼差しで、本当に良いのかと問われた時は、心臓が止まるかと思った。
 嘘はつかなくていい。
 自分に嘘を吐いたところで、なにひとつ救いにはならない。
 誰も救われない。
 そんな風に言われたら、本心を曝け出すしかないではないか。
 その足で、担任のところに行った。提出済みだった書類を回収して、全部消して、書き直した。
 三つある欄の最上段に、ひとつだけ。
 夢は、あの日武田に語った時のまま。
「だからおれ、大学行く」
 目標は、オリンピック。それもただ出場するだけではない。予選も、本線も全て勝ち進んで、栄光の金メダルをこの手に。
 学力は正直、かなり危うい。けれど諦めない。時間はまだある。必死に食らいついていけば、不可能だって変えられる。
「――は?」
 白い歯を見せて笑い、胸を張る。一方で影山は惚けた顔で目を点にして、ぽかんと口を開いて間抜け面を晒していた。
 呆気に取られ、固まっていた。
 怒涛の展開に凍り付き、思考停止に陥っていた。
 面白い顔だった。携帯電話のカメラを向けて、シャッターを押したくなる表情だった。
「……は?」
 掠れた小声が聞こえて、笑いが止まらない。噴き出しそうになるのを懸命に我慢して、日向は呆然自失としている恋人の手の甲を抓った。
 薄い皮膚を引っ張り、時計回りに捩じる。当然痛くて、影山は慌てて手を引っ込めた。
 これは夢でも、幻でもない。
 それを教えてやって、日向は肩を竦めた。
「どこの大学かは、これから考えるけど。もう月島と山口に、勉強、教えてもらってんだ」
 今から挽回するのはなかなか難しいが、やれる事から始めるしかない。それにここ烏野高校に進学する時だって、日向は死に物狂いで勉強して、念願を叶えたのだ。
 やる前から諦める人生なんて、なにも面白くない。
 夢は大きく、目標は高く。
 目指す未来はぴかぴかの、キラキラだ。
 進学クラスに在籍するチームメイトの名前を出し、照れ臭そうに笑う。そのはにかんだ表情を十秒以上見つめて、影山はハッと我に返って背筋を粟立てた。
 傍から見ていても震えているのが分かる彼に、日向は怒鳴られるのを警戒して僅かに身を引いた。
「っき、き……き」
「ウキキ?」
「聞いてねーぞ!」
 その数秒後。
 案の定、影山は大声を張り上げた。椅子を蹴り飛ばして立ち上がって、両手で机を殴って荒い息を吐いた。
 猿真似で場を和ませようとして失敗した日向は首を竦め、赤いのか、青いのかよく顔色の恋人に口を尖らせた。
「だってお前、聞きたくないつったじゃん」
 頬を膨らませて拗ね、上目遣いに睨みながら呟く。
 少し前のやり取りを振り返って、影山は罠に掛かった気分で騒然となった。
 確かに、日向の言う通りだった。
 前に喧嘩になって以来、この話題は極力避けるようにしていた。触れてはいけないものとして封印して、興味はあったが、関心を持たないようにしていた。
 日向も無駄な口論をしたくなくて、自分から進んで話そうとはしなかった。
 訊かれたら答えるが、質問されない限りは言わない。
 そのスタンスを維持していたら、いつの間にかこんな季節になっていた。
 正論過ぎて、影山はぐうの音も出なかった。瞬きも忘れて茫然と立ち尽くして、彼は握り拳を解くと力なく膝を折り、椅子へ舞い戻った。
 両手で顔を覆い、肩を落として力なく机にしな垂れかかる。明らかに落ち込んでいる姿に苦笑を禁じ得ず、日向は手間のかかる男を愛おしげに見つめた。
「そんで?」
 自分は言った。将来の夢を。
 次は誰の番かと目で尋ねれば、指の隙間から顔を出した影山が、悔しそうに唇を噛み締めた。
 よろめく腕でシャープペンシルを拾い、握り、構える。出したままの芯を紙面に押し当てて、力強い字で己が進む道を書き記す。
 最後、どうだ、と言わんばかりに胸を張られた。あまりにも得意げな表情についに噴き出して、日向は堂々とした悪筆に相好を崩した。

2014/10/29 脱稿