Mystery Train

 青心寮の朝は、早い。
 勿論始業前に練習があるから、という理由なのだけれど、それより早く起き出して、ランニングに勤しむ日もあった。特に夏場は明るくなるのが早いので、四時半頃からひと汗流す部員もちらほらと見受けられた。
 もっとも、血気盛んに意気込んでいる馬鹿ほど、オーバーワークに陥りやすい。
 沢山練習すれば上手くなるわけでないというのに、自分を追い込み、徹底的に痛めつけるのが上達への近道だと勘違いしている。そういう無鉄砲な一年生を窘め、手綱を引いて制御してやるのは、共同生活を送る上級生の仕事だった。
 今日もまた、そんな口だけ達者な後輩を叱って、御幸一也は自室へ急いだ。
 背番号をもらった以上、必死になる気持ちは分かる。一日でも早く一人前になりたいという気概は、痛いくらいに伝わってきた。
 しかしそれで無茶をされて、肩や肘を壊されては元も子もない。
「おのれぇ。御幸一也ぁ~!」
 まだ諦めきれないのか、階下から沢村の喧しい声が響いてきた。それに堪らず苦笑して、御幸は制服に着替えるべくドアに手をかけた。
 朝の練習を終えて軽く汗を拭き、食堂で腹を満たした後は、学校だ。今日は平日なので当然授業がある。大会期間中ではあるが、まだ始まったばかりなので試合の日程には余裕があった。
 初戦の対戦相手はまだ決まっておらず、今は情報収集と分析に忙しい。春の大会でシード権を獲得しておいたのが功を奏して、いきなり強豪チームと当たる率が下がったのは有難かった。
 とはいえ、油断は出来ない。
 グラウンドには魔物が棲んでいる。時として大番狂わせが起こり得るのがトーナメントであり、地方予選の醍醐味でもあった。
 既に他の都道府県で、ジャイアントキリングが起きている。昨夏の代表校が初戦敗退というのも、割とよくある話だ。
 青道高校がそうならない為にも、選手の体調管理は必須。特に今年の一年生投手は、ふたり揃って無茶をしかねない性格だった。
 片方は無口で、片方はお喋り。見た目も中身もまるで違うというのに、野球に対する情熱、マウンドへの執着心は、現エースの丹波にも引けを取らなかった。
 その丹波は怪我で戦線を離脱しており、まだしばらくは安静が必要と言われている。復帰出来るのは早くて数週間後で、彼の夏をこんなところで終わらせるわけにはいかなかった。
 だからこそ余計に、一年生コンビは力んでいるのかもしれない。
 かといって、沢村の主張を簡単に受け入れるわけにはいかなかった。
 ただでさえ投手事情が苦しい中で、彼らまで負傷されたら堪らない。今は降谷と沢村、そして二年生の川上の三人で勝ち上がっていくしかないのだから。
 だというのに、その大事な主戦力がいつまで経っても無茶を止めなかった。
 降谷は関東の夏に身体が上手く対応出来ておらず、最近は少し大人しかった。同時に食欲も減っているのが気がかりで、体重が落ちていないか、別の意味で注意が必要だった。
「朝から元気だねえ」
 まだ騒いでいる馬鹿を笑い、部屋に入って眼鏡を外す。眼球の奥がゴロゴロしている気がして眉間を押さえ、御幸はゆるゆる首を振った。
「目薬、どこやったっけ」
 靴を脱いで部屋に上がり、真っ先に向かったのは自分の机だ。それくらいなら感覚で辿り着けて、心当たりを探して床に向かって手を伸ばす。
 目的の物はすぐ見つかって、彼は開けた鞄を素早く閉じた。
 始業時間まではまだ余裕があり、それほど急がなくても間に合うはずだ。だが油断は禁物と己を戒めて、小瓶の蓋を捩じって開いた。
「んー」
 上を向き、逆さにした瓶から一滴、目玉へと落とす。続けて反対側にも一滴落として姿勢を正せば、必要以上に身体を反らしていたらしい。腰がコキッ、と小さくなった。
 まるで年寄りだ。苦笑して、御幸は目頭から垂れそうになった目薬を慌てて閉じ込めた。
 瞼を下ろして暫くじっとして、全体に浸透していくのを待つ。鼻筋に零れてしまった分はティッシュで拭い取って、瓶には蓋をして、最後に濡れた紙を丸めてゴミ箱へ放り込む。
 だが先客が多すぎて、新入りは敢え無く弾きり飛ばされてしまった。
「あちゃ」
 同室の先輩や後輩と共用のゴミ箱に首を竦め、御幸は眼鏡をかけ直した。
 ゴミを転がしたままでは怒られるし、不衛生で見た目も悪い。仕方なく一歩半の距離を往復して、彼は気になって耳を欹てた。
 先程まで大騒ぎしていた一年生は、いい加減観念したのか、威勢の良い声は聞こえてこなかった。
 恐らくは五号室の倉持が、五月蠅い、とでも叱ったのだろう。口は悪いが面倒見は良い同級生に含み笑いを零し、御幸は部屋が混む前に、と着替えに取り掛かった。
 手早く制服に袖を通し、ネクタイもしっかり結んでから汚れ物は自前の籠へと放り込む。洗濯は夜にしようと決めたところで、食堂で話し込んでいたらしい先輩、後輩が大慌てで帰ってきた。
「お先でーす」
 時間を忘れて熱弁をふるうのは構わないが、遅刻は不味い。急いで身支度を整える彼らに軽く挨拶をして、御幸は鞄を手に部屋を出た。
 通路に出てからきちんと靴を履き直し、手すりから身を乗り出して下を見る。既に何人かの部員が学生服に身を包み、学校に向かうべく門を潜っていた。
「……ん?」
 だがその列が、少しだけ乱れている。手前で小さな集団が出来ており、団子状態になって通行を邪魔していた。
 その中には、遠目からでも目立つピンク色の頭も含まれていた。
「あれは」
 現在、この寮にはあの髪色の生徒がふたりいる。三年生と一年生にひとりずつで、集団に紛れているのは弟の方だった。
 小柄な体で懸命に背伸びをして、前に立つ男子生徒に何かを話しかけていた。傍には次期エース候補である降谷も居て、小湊弟と一緒に輪の中心に佇む人物に意識を傾けていた。
 話し声は聞こえなかった。いつもの騒がしさが嘘のように、ふたりに囲まれた沢村は静かだった。
「なんだ?」
 その沢村は俯いて、ひっきりなしに目元を擦っていた。
 まるで泣いているかのような仕草に、御幸は必要以上に身体を前に出した。
 危うく手摺りから落ちるところで、現在地を思い出して軽く焦る。ひっそり冷や汗を流して自嘲気味に笑い、彼は地上に通じる階段へ急いだ。
 鞄を小脇に抱えて駆け、乾いた地面を靴底で蹴り飛ばす。左右に揺れて邪魔なネクタイを右肩から背中に跳ね除けて息を整え、門から少し離れたところに立つ一年生トリオに眉を顰める。
「どーした、お前ら」
 なるべく平静を装って声を掛ければ、真っ先に気付いたのは小湊だった。
 鼻筋まである長い前髪で、どうやって視界を確保しているのか。毎度ながら不思議ではあるが、プレイに問題がない以上、切るように強制するのは難しかった。
 それに彼の後ろには、敵に回すと厄介な人がいる。
 小湊弟に要らぬちょっかいを出す時は、闇討ちされる覚悟が必要だった。
 背番号四を背負う小柄な三年生を頭から追い出して、御幸は振り返った一年生に首を傾げた。
「御幸先輩」
「なにやってんだ? 遅れんぞ」
 さも、たった今彼らに気付いた体で話しかけ、距離を詰める。脇に挟み持っていた鞄を肩に担ぎ直して近付けば、一瞬躊躇した小湊が左足を退いて道を譲った。
 もっとも、真正面は行き止まりだ。幾分見え易くなった沢村に眉目を顰め、御幸は何をするでもなく、ただ立っているだけの降谷にも視線を投げた。
 今になって気がついたが、速球派投手はその利き手で沢村の左手首を掴み、動かないよう固定していた。
「どした?」
 さっきから質問しているのに、未だ返答が得られない。二年生の手を煩わせる必要はない、とでも思っているのか、小湊は頻りに同級生を気にしていた。
 けれど今更後にも引けなくて、御幸は赤い顔を伏している沢村に半歩、歩み寄った。
「ん?」
「ああ、いえ。栄純君が、目に」
「痛いって、さっきから」
 それでやっと観念したか、小湊が話し始めた矢先、寡黙な降谷も口を開いた。
 ふたりの声が重なって、一瞬、何が何だか分からなかった。
「は?」
 同時に喋らず、順番に聞かせて欲しかった。相変わらずテンポが独特な降谷に肩を竦めて、御幸は詳しい説明を求めて小湊に視線を投げた。
「うぅ~~」
 その脇では沢村が、鼻を愚図らせて唸っていた。
 御幸が傍に居るのは声で分かっているだろうに、顔を上げようともしない。利き腕は降谷が捕まえているので動かせず、なんとか右手で顔を掻こうとするが、鞄を抱えている所為で上手く出来ずにいた。
 それでも悪足掻きを止めない彼に焦れて、小湊がその右腕を押さえこんだ。
 両側から腕を押さえつけられている沢村は、随分昔に世を賑わせた、捕縛された宇宙人の写真を連想させた。
 左右の腕を男たちに吊り上げられた図は、滑稽だった。それを若干ながら再現している沢村も、失笑に足る姿だった。
「なんか入ったのか?」
「たぶん、そうだと思います」
 思わず噴き出してしまい、睨まれる前に慌てて問いかける。ふたりの話を統合した御幸に、小湊は自信なさげに呟いた。
 彼の説明では、五号室を出てきた時から、沢村はこの調子だったらしい。
 もっと投球練習がしたい、付き合え、と御幸に主張していた時の面影は、どこにも残っていなかった。
 散々掻き毟って赤くなった右目とその周囲が痛々しくて、見るに堪えない。しかも、ここまでなってもまだ痛いらしく、掻きたいのに出来ない状況に不満を募らせて唸っていた。
「着替えン時に、ゴミでも入ったのかね」
「さあ……」
 グラウンドで砂埃を浴びたのならまだしも、部屋の中でそれは考えにくい。糸埃でも眼球に貼り付いたかと首を捻った御幸に、小湊は自信なさげに首を振った。
 一方で降谷は呑気なもので、
「ウサギみたい」
「うっせえ、んなわけあるか」
 充血して真っ赤になっている沢村の眼を覗き込み、ピントが外れた感想を述べて嫌がられていた。
 異物を押し流そうとしてか、生理現象で溢れた涙が沢村の目尻に溜まっていた。右目が痛い所為か左目も開け辛そうで、奥歯を噛み締めているのもあり、表情は歪んでいた。
 必死に我慢している様子が窺えて、御幸はどうしたものかと肩を竦めた。
「洗ってくるか?」
「そうですね。それが良いかも」
 いつまでもここで、こうしている訳にはいかない。立ち止まっている彼らの横をすり抜けて、寮にいた部員らが急ぎ足で通り過ぎて行った。
 あまりのんびりとはしていられなかった。様子を気にして視線を送ってくる先輩方もいて、御幸はなんでもないと手を振った。
 もし何か目に貼り付いているだけなら、水で洗えば取り除ける。そうでないなら、医者に行くしかない。
「……注射……」
「いやいや、流石にそれはねーし」
 その言葉に降谷が反応して、ぶるりと震えあがった。すかさず御幸がツッコミを入れて、どうするか沢村に問うた。
「うぅ~~。いてぇ……」
 しかし返答は得られず、代わりに呻き声が返された。
 話にならない。呆れて嘆息して、御幸は肩に引っ掛けたままだったネクタイを胸元に戻した。
 そして位置を調整する中で、ふと思い出した出来事に目を瞬いた。
「そういや俺、目薬持ってるわ」
「え?」
 部屋で自分に使って、その後鞄に入れておいたのだった。
 学校で使いたくなったら困るので、いつでも出せるように持ち歩く習慣が出来ていた。それをすっかり忘れていたと顎を掻いた彼に、小湊は素っ頓狂な声を上げ、それから考え込むかのように下を向いた。
 一方で必死に痛みと戦っている沢村は我慢も限界のようで、友人から腕を奪い返そうと暴れていた。
「なんでもいいから、早くなんとかしてくれよ」
 小湊の手は払い除けたが、降谷の方は難しい。それで余計に腹を立てて、彼は痺れを切らして吠えた。
 その台詞にイラッとしたのかどうかは、分からない。ただ小湊は小さく首肯すると、顎にやっていた手を下ろして沢村の背中を押した――御幸の方へ。
 驚いた降谷が沢村を解放し、不意打ちを食らった変則フォーム左腕はたたらを踏んで仰け反った。
 いきなり距離を詰めて来られ、御幸はぎょっとなって凍り付いた。その隙に小湊は降谷の手を取り、門を潜って舗装された道に出た。
「じゃあ、御幸先輩。栄純君の事、よろしくお願いしますね」
「――はあ?」
「って、おい。春っち!」
 境界線を跨いだ先で振り返り、行儀よく頭を下げて頼み込む。それにハッとして、御幸も、沢村も、揃って声をひっくり返した。
 丁寧な物言いではあったが、結局は全部御幸に押し付け、無責任に放り出したようなものだ。蛙の子は蛙と言うが、小湊弟はあれでしっかり、兄の血を引き継いでいる。
 目薬を持っているというだけで一方的に任せられて、御幸は呆気に取られて立ち尽くした。
「なんだってんだよ、春っちは。あー、くっそ」
「こら、掻くな。余計に酷くなんぞ」
 沢村も呆然として、悪態をついて顔に手を遣った。久しぶりの自由に痛む目を擦ろうとして、直前で御幸に止められ渋い顔をする。
 頬を膨らませて睨まれて、青道高校の正捕手は困った顔で溜息をついた。
「つーか、なんだってンな、痛ぇんだよ」
「俺が知るかよ。なんか、シャツ脱いでたら、急に」
「ちょっと見せてみろ」
 そもそもの原因は、一体なんだったのか。
 異物の混入もあるが、睫毛が逆方向を向いて眼球に接触している可能性も否定できない。それだと点眼で症状が改善しないかもしれなくて、判断は慎重になった。
 思い込みだけで事を運ぶのは危険だ。深く息を吐いて呟いた御幸に、沢村は何故か臆し気味に身を引いた。
「いーって。目薬貸してくれりゃ、もうそれで」
「よくねーから言ってんだろ。先輩の言う事はちゃんと聞け」
「それとこれ、関係なくね?」
「あんだろ。ほら、大人しく観念しろって」
 及び腰になって逃げようとする彼を捕まえて、反論を封じ込める。一気に捲し立てて命じれば、苦虫を噛み潰したような顔の沢村も、最終的には白旗を振った。
 抵抗を諦め、大人しく両腕を脇に垂らす。その上で目を瞑ってしまった彼に、御幸は堪らず苦笑した。
「見えねーんだけど」
「ふおっ、そうだった」
 直立不動で畏まるのは良いが、調べたいのは眼だ。瞼を下ろされたら意味がないとのツッコミに、気が付いていなかったのか、沢村は大袈裟に驚いてみせた。
 相変わらず、救いようのない馬鹿だ。
 腹を抱えたいのを堪え、御幸は沢村の額を指の背で小突いた。調べやすいように上を向くよう促して、充血して痛々しい右目を斜め上から覗き込む。
 沢村の呼気が鼻先を掠めた。緊張しているのか、力んだ唇がタコのように窄められている。閉じないように瞼をぴくぴくさせており、カチコチに固まっている姿は滑稽だった。
 必死に噴き出すのを我慢して、御幸は沢村の下瞼を押さえつけた。
 傷つけないよう注意深く引っ張って、眼球の表面を覗き込む。どこかで血管が切れてしまっているらしく、隠れていた部分にも赤い筋が走っていた。
「こりゃあ、ひでーや」
「ええっ」
「もしかしたら失明するかもな」
「なんですと!」
 思わず呟き、悪戯心を膨らませる。冗談を真顔で囁けば、本気にしたのか、沢村が素っ頓狂な声を上げた。
 呆然としているというのか、頭が真っ白になっているというのか。
 ともかくぽかんと目も口も丸くして、絶句した彼は暫く動かなかった。
 人間、本当に凍り付く事もあるのだ。妙なところで感心して、御幸は鞄のポケットから目薬を取り出した。
 専用のケースに入れてあるそれを引き抜いていたら、今頃恐怖に見舞われたらしい。ガタガタ震えた沢村が、泣きそうな顔で腕に縋りついてきた。
「ままま、まさか。ンなわけねーっすよね。大丈夫っすよね。全然、さっきまでなんともなかったし。だから、先輩。俺、ヘーキ、っすよ、ね……?」
 不安を顔に出し、必死になって問いかけて来るが、敢えて答えない。黙ったままでいると、怖くなったらしい、沢村の顔が一気に青くなった。
 もはや目の痛みなど、すっかり忘れ去っている。バカは騙しやすくて楽だと心の中で笑って、御幸は目薬の蓋を外した。
「はいはい。いーから、黙って上向こうな」
「なあ、ホントに大丈夫なんだろうな。俺、もっと投げられるよな」
「俺としては、お前はもうちょっと投げなくなってくれた方が助かるんだけどな」
「そんなぁぁぁ~~~」
 万が一失明しようものなら、野球は続けられない。悲鳴を上げた彼に切り返した内容は、沢村の恐怖とは別件の本音だった。
 毎日捕手として自主練習に付き合うのは疲れるし、彼にばかり構ってもいられない。必要以上に肘を酷使するのは避けたいし、試合前に疲労を溜め込まれても困る。
 そういう捕手目線での相槌を勘違いして受け止めて、沢村は頭を抱えて絶叫した。
 どこまでも大袈裟な彼に肩を竦めて、御幸は項垂れている後輩の肩を叩いた。
「ほーら。目薬注すぞ」
「……うぅ」
「痛ぇままはヤなんだろ?」
 時間は刻々と過ぎていく。遅刻という文字が頭をちらつき始めた彼の催促に、沢村は渋々頷いた。
 失明の危機に瀕するような状況が、点眼一滴で改善するわけがない。だというのに冗談を真に受けて、バカはきゅっと目を閉じた。
 唇を引き結び、気を付けのポーズで畏まる。その、先程の反省が少しも見えない彼に、笑いが止まらなかった。
「お前さあ」
「う、ぬ?」
「目ぇ瞑ってどーすんの」
 あれから五分と経っていないのに、もう忘れている。鳥頭も大概にするよう言えば、ハッとした沢村が顔を赤くした。
 同じ失敗を繰り返したのを恥ずかしがり、耳の先まで朱に染めるところは初々しくて、可愛かった。
「……ン?」
 思考が若干変な方向に曲がった。鋭い変化球でデッドボールを食らった気分で、御幸は自分に眉を顰めた。
「は、早くしろって」
「おおう」
 その間に沢村は背筋を伸ばし、顎を上げ気味に怒鳴った。今度はちゃんと目を閉じずに耐えているのを確かめて、御幸も小瓶を握り直した。
 ゆっくり近付け、逆さまにした容器の腹を押す。液体が雫型になって溢れ出し、本体から分離しようとぶらぶら揺れた。
 いつ落ちるか分からない薬剤を凝視して、怖くなったのか、沢村の手が宙を泳いだ。
「……おっと」
 空を掻いた指が行き着いたのは、御幸の腕だった。
 日焼けした肌を隠す袖を掴まれて、ぎゅっと握りしめられた。本人は無意識だったろうが身体を揺すぶられ、それが影響して目薬本体も大きく波打った。
 衝撃が伝わり、我慢の限界に至った雫が根本でぷつりと切れた。己の重みに従って、重力に導かれるままに落ちていく――
「っ!」
 瞬間、沢村の眼がぎゅっと閉じられた。
 必要のない左目まで思い切り瞑って、首を竦めて小さくなる。人の腕を掴む指先にも力が込められて、間で潰された袖が皺くちゃになった。
「う~~~~」
「ああ、もう。流れちまってんだろーが」
 慣れていないのか、沢村は俯いて唸った。折角の薬剤を涙と一緒に外へ押し流して、頬には一筋の川が出来上がっていた。
 薬瓶に蓋をして、御幸は小さく舌打ちした。これでは何の意味もないと肩を竦め、鼻を愚図らせる後輩の頬を気まぐれに撫でた。
 拭いてやりたいところだが、ハンカチの類は持ち合わせていない。タオルなら鞄の中にあるが、出すのをサボって指で掬い取ってやっていたら、何処からともなくカシャッ、と固い音がした。
「?」
 機械が放つ電子音に眉を顰め、後ろを向く。そこから左右を見回して、御幸はヒクリと頬を引き攣らせた。
「うぬ?」
 動きを止めた彼をまず怪訝がり、自分で頬を拭った沢村も首を左に傾がせた。
 ふたりが揃って見つめる先には、にこやかにほほ笑む三年生の姿があった。
 御幸に沢村を押し付けた一年生の実の兄の手には、絶賛稼働中の携帯電話が握られていた。
「うん。ナイスアングル」
「ちょ、えっ。亮さん?」
 縦に細長い電子機器には、カメラのレンズが埋め込まれていた。ならば先ほどのあれは、シャッターを押した音に他ならない。
 そして被写体は、間違いなく。
「何してんですか、亮さん!」
 含みのある台詞に総毛立ち、御幸は声を上擦らせた。慌てて詰め寄るが逃げられて、地団太を踏むが意味はなかった。
 小柄な体格をカバーして余りある守備力と打撃センスの持ち主は、小悪魔的な性格も相俟って、部内では非常に恐れられる存在だった。
 そんな彼に見つかった時点で、もう手遅れだ。それでも食い下がって消すよう求めれば、逆に得意げな顔で画面を見せられた。
「上手く撮れたと思わない?」
「誤解を招くような真似は止めてください」
「最初に誤解を招いたのはお前だろ?」
「あれは、沢村の奴が、目が痛いって……ですから、変な言いがかりは止してください」
「……春一にメール添付、送信、っと」
「何してるんですかあああああ」
 それはアングル的に、沢村と御幸が顔の一部を重ねている風に見えなくもない画像だった。
 勿論そんなこと、実際に起きるわけはないのだけれど、知らぬ人間が見たら信じてしまいかねない。特に主将の結城は、そういう面で人を疑うことを知らなかった。
 放課後の練習が始まる頃には、あの一枚は部内全体に広まっていることだろう。もれなく御幸にまつわる話も大袈裟に、尾ひれをつけて広がっているに違いなかった。
 考えるだけで気が滅入り、消えてしまいたくなった。
「沢村、急ぎなよ」
「あ、はいっ」
 御幸が落ち込む傍で、小湊兄が惚けている沢村に声を掛けた。用済みになった携帯電話は鞄に入れて、何も分かっていない可哀想な一年生ににっこり微笑む。
 彼の周囲も、一週間は騒々しかろう。夏の大会期間中という大事な時期だというのに、暫くは集中出来まい。
「あー、まぁ……いいか」
 だがこれで、沢村は当分近付いてこないはずだ。周囲の目が気になって、不用意な接触は控えるだろう。
 それはそれで有難かった。
 もしや小湊兄は、困っていた御幸を助けてやるべく、あんな真似をしたのだろうか。
 少しだけ好意的に解釈して、気持ちを切り替える。
 だが勿論、そんな訳はなかった。
 そして逃げるウサギを逆に追いかけ回しているうちに、気付けば底なし沼に落ちていたと御幸が気付くのは、まだ当分先の話だ。
 

2014/10/26 脱稿