Persimmon

 問いかけは唐突だった。
「ごめん。もう一回言ってくれる?」
 思わず、聞き間違いを疑ってしまった。それくらいに突然の質問で、脳が状況に追い付いていなかった。
 声を潜め、及川は頼んだ。極力表情が出ないよう心掛けて、四人掛けのテーブルを挟んで向き合った相手を見つめる。
 僅かに低い位置にある眼を覗き込んだ彼に、明るい茶髪の少年はコクリと頷いた。
「えっと。だから。大王様って、おれの、どこが好きなんですか?」
 小さな口を開き、やや遠慮がちに呟く。その、先ほど聞いたのとほぼ同じ内容に、及川は軽い眩暈を覚えた。
 実際額に手を置いて頭を抱え込んで、彼はカプチーノのカップに視線を落とした。
 黄土色の泡が縁ぎりぎりのところにこびりつき、乾き始めていた。底の方には液体が僅かに残るものの、量はあまり多くなかった。
 既に冷めているドリンクにため息を落として、及川は真剣な表情の少年を前髪の隙間から盗み見た。
「ええと。チビちゃん」
「はい」
「それって、……どういう意味?」
「言葉通りの意味ですけど?」
 背もたれ付きの白い椅子に座るのは、黒の学生服をまとった可愛らしい男の子だった。
 身長は平均より低い百六十二センチちょっと。線は細く、華奢な部類に入るが、脚力は人並み外れていて、その跳躍力は目を引く物があった。
 体格が優劣を決めると言っても良いバレーボールで、彼はこの身体で果敢に挑み、攻めの姿勢を崩さなかった。他チームでは百八十センチ台が跋扈するミドルブロッカーというポジションで、小柄であることを逆手に取る戦法で、敵陣を翻弄していた。
 囮役という重要なポジションを与えられ、彼はコートの中で輝いていた。最初はその小ささ故に注目されていたが、その奇想天外な動きっぷりに、人々は拍手喝さいを惜しまなかった。
 及川もその一人だった。
 コートの外から眺める分には、彼の動きは面白かった。心底楽しそうにプレイする姿も、賞賛に値した。
 但しそれはあくまでも、観戦者として上から眺めている時だけだ。
 同じコートで、ネットを挟んで対峙する時は、ただの厄介な存在でしかない。徹底的に打ちのめしても、折れるまで叩いても、地中深くに潜り込んだ根はあっという間に成長し、芽吹き、大輪の花を咲かせようとする。
 しつこく食い下がる敵は、面倒だ。正直、嫌いな部類に入る。
 けれど同時に心を擽られ、ぞわぞわして、胸が高鳴って仕方がなかった。
 コートで会う度に成長している姿を見せられて、気が急かないわけがない。その眩しすぎる輝きに目を奪われ、追いかけずにはいられなかった。
 まさに、名は体を表す。暖かくも時に鋭い太陽の如き翼で、彼は空を翔ぶのだ。
 日向翔陽。烏野高校男子排球部の一年生は、現在進行形で市内の某喫茶店で優雅にお茶を嗜んでいた。
 とは言っても、彼の前にあるのは細長いガラスのコップだ。中身は髪よりもずっと明るいオレンジ色で、赤と青のラインが入ったストローが真ん中に突き刺さっていた。
 溶けた氷がカラリと音を立て、凭れかかっていたストローが揺れた。ガラスの表面には大量の水滴が張り付き、テーブルに敷かれた紙製のコースターに吸い込まれていった。
 こちらも、ドリンクの残りはあと少しだった。
 テーブルの隅では注文した料理や飲み物を記した伝票が、銀色の筒の中で退屈そうに丸くなっていた。傍にはナイフ、フォーク等を入れたケースが置かれ、赤色のナプキンがだらしなく裾を広げていた。
 使用済みの食器や、シロップでベタベタに汚れた皿は、とっくに片付けられた後だ。店内に窓は少なく、外を確認出来るのは遠く離れた出入り口くらいだった。
 陽が沈み始めているらしく、辛うじて見える道路は薄暗い。店内に客は少なく、話し声はあまり聞こえてこなかった。
 耳朶を打つのは自身の息遣いと、店側が流している異国の曲だけだった。
 ピアノの優しい音色に心を落ち着かせて、及川は銀色のスプーンで冷めたカプチーノを掻き回した。
 これがテーブルに届けられた時、白い泡の上には鳥の絵が描かれていた。
 翼を広げた、鷲の絵だったはずだ。
 しかし目の前の少年は、あろうことか烏と勘違いした。これには及川も、給仕してくれた店員も、苦笑いを隠せなかった。
 もっとも喜んでくれたのには違いないからと、訂正するような無粋な真似はしなかったのだけれど。
 スプーンで混ぜて絵を消す時、嫌な顔をされたのも思い出した。勿体ない、と言われたけれど、飲み物なのだから飲まない方が失礼だと言えば、納得してもらえた。
 賑やかだったやり取りを振り返り、日向を見つめる。彼は相変わらず真っ直ぐな眼差しで、及川の返事を待っていた。
 そのぷっくりして柔らかそうな唇に視線を遣って、及川はスプーンをカップに残し、徐に手を伸ばした。
「? ……あ、ありがとうございます」
 なにも言わず触れて、親指の腹を使い、日向の頬を数回擦る。付着していたパンケーキの滓を削ぎ落とした及川に、彼は三秒してから礼を言った。
 紙ナプキンを一枚取って指を拭って、及川は椅子の上で大きく身じろいだ。
 腰の位置を奥へ移して深く座り直し、くしゃくしゃに丸めた紙ナプキンはその場に放置する。胸を反らして背筋を伸ばせば、大柄な体躯が一層大きくなった。
 長いと自慢の脚を組んで、彼は両手を椅子の背凭れの後ろに回した。
「なんだってまた、急に聞きたくなったの?」
 宙に浮いた左の爪先をぶらぶら揺らし、一度だけ日向の脚を叩く。それでビクッとした彼は一瞬下を向いて、すぐに視線を戻して首を竦めた。
 猫背になって、元々小さな体が益々小さくなった。萎縮した状態で向けられる上目遣いは、同性とは思えない愛らしさだった。
 かわいい。
 コートの中の勇ましさからは想像がつかない姿に、及川は無意識に緩んだ頬を引き締めた。
 だらしない表情を凛々しく作り替え、日向から投げかけられた質問を脳裏に呼び戻す。同時に発言の真意を訊ねれば、日向は頬を膨らませ、ストローを唇で挟んだ。
 ずずず、と音がした。残り少ないジュースを一気に飲み干して、彼は空になったグラスを両手で包み込んだ。
「……影山が」
「トビオが?」
 そうしてぼそりと呟かれて、及川は堪らず身を乗り出した。
 反射的に前のめりになり、肘がテーブルの角にぶつかった。上に並んだ食器類が一斉にざわめいて、及川の腕にも電流が走った。
「いって」
 良く知る名前が出て来て、大袈裟に反応してしまった。慌てて痺れた場所を抱きかかえて、及川は吃驚している日向に苦笑いで応えた。
 心配いらないと目を細め、白い歯も見せて安心させる。それでホッとしたのか、彼は胸をひと撫でして背筋を伸ばした。
 但しそれも、三秒と持たなかった。
「影山が、大王様の。その……どこが良いんだって、訊いてきたから」
「へ、へええー?」
 猫背になった彼に言われ、及川は上擦った声で相槌を打った。視線は宙を彷徨い、脂汗が首筋を伝った。
 表面上は落ち着いているように見せかけて、その実、心臓はバクバクだった。
 今にも破裂しそうな爆弾を抱え、首筋には温い汗を流す。幸い、日向は及川の動揺に気付いていなかった。頭の中はチームメイトとのやり取りでいっぱいらしく、表情は不満げだった。
 口を尖らせて拗ねる顔も、高校生の男子としては可愛い部類に入った。素直で、元気が良くて、無邪気な彼は、天真爛漫という言葉がぴったりくる存在だった。
 見ているだけで和むし、楽しい。ずっと愛でていたくて、ずっと傍に置いておきたかった。
 久方ぶりの幸せな時間を満喫していた。だというのに、あまり聞きたくない名前を聞いてしまった。
 頬をヒクリと引き攣らせ、及川は脳裏に浮かんだ愛想のない後輩にかぶりを振った。
 目を瞑らなくても、その顔は簡単に蘇った。
 影山飛雄。宮城県でも随一のセッターと言われている及川の、叩き潰したい相手その二。中学時代の二年後輩で、今は日向と同じ烏野高校に通う、正真正銘の天才プレイヤー。
 王様などという大層なあだ名は、チームメイトの嫌味から生まれたものだ。しかし北川第一中学時代の暴君は、新しい環境と仲間を得て、名実ともにコートを支配する王様に生まれ変わった。
 彼もまた、及川が潰したくても潰せなかった相手のひとりだ。そして目の前にいる少年を、目も眩むほどに輝かせた張本人だった。
「それで? チビちゃんは、トビオになんて答えたの」
「えー?」
 及川と日向は、通う学校が違う。家も遠い。会えるのは多くても週に一度で、下手をすれば一ヶ月間音沙汰なし、も充分有り得た。
 対して影山はといえば、それこそ毎日、朝から晩まで日向と一緒だ。学校も、所属する部も同じで、唯一違うとすればクラスくらい。しかしそんな違い、及川に言わせれば、有って無いようなものだった。
 正直、悔しい。
 超絶、羨ましい。
 日向がどうして青葉城西高校ではなく、烏野高校に進学したのか。その問いかけは、何百回となく、及川の中で繰り返されていた。
 表面に浮き上がる焦りを懸命に隠し、彼は平静を装って質問を重ねた。気持ちを落ち着かせようとカプチーノに手を伸ばすが、持ち手に指を潜らせようとして、三度も失敗してしまった。
 カタカタ鳴りっ放しのカップを一瞥して、日向は窄めた口から息を吐いた。
 言いたくなさそうにしているが、ここで聞いておかないと、明日以降、落ち着いて生活を送れる自信がない。地に足が着かず、集中も出来ず、教師の声は右から左に抜けていくだろう。
 練習にも身が入らない。食事だって美味しく食べられない。全てが無味乾燥として、世界から色が抜け落ちていくようだった。
 そもそも及川は、日向が、自分のどこを気に入ってくれているかを知らないままだ。
 告白は、及川からだった。
 日向は面食らって、本気として受け取ってくれなかった。そこをしつこく食い下がって、何度も好きだと伝えて、六度目にしてようやく信じて貰えた。
 デートは多くて、週に一度。青葉城西高校男子排球部の練習が休みの、月曜日が主だった。
 我ながら、よくぞ諦めなかったものだ。当時の自分のしつこさを軽く思い返し、及川は神判を待つ気分で唇を噛み締めた。
 緊張で力み過ぎて、目尻も口元も、あちこち皺だらけだった。そんな強張った表情を正面から見据え、日向はむぅ、と唸った。
「言わなきゃだめですか」
「うん。聞きたい」
 出来るなら隠しておきたいと、沈み気味な口調が告げていた。けれど及川はにっこり笑顔で逃げ道を塞ぎ、正直に告白するよう促した。
 制服の下ではだらだら汗が流れ、腋などは酷い事になっていた。水分を吸ったシャツが肌に貼りついて気持ちが悪いが、白いブレザーを脱ぐわけにはいかなかった。
 作った笑顔で催促して、テーブルの下では足をカタカタ震わせる。貧乏揺すりにならない程度に身体を揺らして、日向の一言一句を聞き逃さないよう、聴覚に全ての神経を注ぎ込む。
 そうやって及川が息を殺しているとも知らず、日向は葛藤に瞳を曇らせ、観念して溜息を吐いた。
「ええっと」
 彼の脳裏には、もしかしたら何度も、何度も繰り返し『好きだ』と告げる及川の姿が浮かんでいたのかもしれなかった。
 今は誤魔化せても、次会った時にきっと追及される。それをまた躱しても、答えを聞くまで絶対諦めない。
 一度決めたら徹底的にやり遂げて、納得するまで譲らない。妥協という言葉を知らない及川に肩を竦め、彼は胸元にやった手を広げた。
 そうして親指を折り曲げて、文章でも読み上げるかのように淡々と呟いた。
「及川さんは、影山みたいに大声で怒鳴ったりしない」
「んんん?」
 その台詞が一寸頭に引っかかって、及川は目を真ん丸に見開いた。
 素早く瞬きして、思い出そうと半眼している日向を見つめる。だが彼は視線に気づかない。残り四本になった右手に意識を集中させて、立てた左人差し指をぶらぶら揺らしていた。
「サーブがスゲー、上手い。影山より、断然。でも、たぶん旭さんのが威力は上……かなあ?」
「は、はぁ……」
「そんで、トスも、上手い。あ、そだ。影山は、いつか絶対追い越す、って言ってました」
「へ、へぇー?」
「あとはー、んと。今日みたいに、美味しいお店いっぱい知ってる事とか。奢ってくれることとか」
「あ~……うん」
「影山より頭良くて、勉強教えてくれるとことか」
「俺、一応チビちゃんより年上だからね?」
「あ、でもすぐおれのこと、そうやってチビって言うとこ、嫌いです」
「………………!」
 そこまで来て、唐突に今思いついたらしきことを声に出された。指折り数えるのを放棄して、前傾姿勢でキッパリ言い切られて、及川は合いの手を挟む事が出来なかった。
 面と向かって断言されて、言葉が心に突き刺さった。ぐっさり深く食い込んだ棘に呆然となり、一瞬だけだが三途の川が見えた気がした。
 白昼夢に急いで首を振り、顔を引き攣らせる。流石にこればかりは隠し通せず、日向も言ってから気付いて口を覆った。
 両手を重ねてバツの字を作った彼に、及川は力なく肩を落とした。
「それって、要するにさ。俺じゃなくても、お金持ちでバレーが上手い奴なら、誰でも良いってコトじゃない?」
 カップに刺さったままのスプーンを引き抜き、雫を落として皿に寝かせる。渇ききった喉を潤すには冷たいカプチーノだけでは足りず、及川は殆ど手を付けていなかった冷や水にも手を伸ばした。
 氷が溶けて、こちらもすっかり温くなっていた。それを半分ほど飲み干して、彼は消え入りそうな声で呟いた。
 自嘲を含んだ囁きに、日向は手を下ろし、ばつが悪い顔をした。
 思ったことをすぐポンポン言ってしまうのは、彼の長所であり、短所だ。物事を狭い視野でしか捉えず、実行する前に一旦停まって熟考するのも苦手で、猪突猛進に突っ走るのは、明らかに欠点だった。
 確かに及川も、体格的なコンプレックスを愛称にする浅慮さは、責められて当然だった。しかしあそこまでキッパリ嫌いだと、目と目を合わせて言われたら、ダメージが大きすぎる。
 反省する以前に、ショックすぎて身動きが取れない。言った相手が相手なだけに、衝撃の強さは並ではなかった。
 露骨に落ち込んでいる彼を見詰め、日向は口をもごもごさせた。
 及川に対して抱いていた小さな不満を、最悪なタイミングで言ってしまった。もっと別の機会に、冗談めかせて言えればよかったのに、うっかり口が滑ってしまった。
 拗ねると長い男にどうしたものかと迷い、何気なく壁を見る。最近出来たばかりという店構えはお洒落で、内装は近未来的なデザインで統一されていた。
 座面から背凭れまで一枚の板を使い、曲面を際立たせた椅子は座り易かった。テーブルも味気ない四角形ではなく、全体的に丸みを帯びていた。
 女性向なカフェだが、派手さはなく、落ち着いた雰囲気が漂っていた。パンケーキが人気だという話で、勧められるままに注文したら、本当に美味しかった。
 最初は遠慮していたのだけれど、及川が自分も食べたいから、と言い出したので、頼み易かった。いつも奢って貰ってばかりで悪いと思ったけれど、美味しそうに食べているところを見るのが好きだと言われて、絆された。
 こんな店、日向ひとりでは絶対入れない。
 及川が一緒だったから、新しいドアを開けられた。
 彼が居なければ、知らなかった世界に足を踏み出す事はなかった。
「別に、そういうわけじゃ」
 だからそんな自虐的なことを言わないで欲しい。だのに喉に力が入らず、否定はするものの、言葉に鋭さが伴わなかった。
 語気の弱い、控えめな発言に、及川はムッスーと頬を膨らませた。
 また選択を誤った。もっとはっきり、明確に否定しておかないと、彼はいつまでも臍を曲げたままだ。
 美味しいものを食べて幸せな気持ちだったのに、一気に萎んでしまった。折角久しぶりに会えたのに、楽しくなくなってしまった。
 重い空気がどん、と圧し掛かってきた。息苦しくて、日向は呼吸をしようと顔を上げた。
「いいよー、いいんだよ~。別にさー、俺だってさー。ホントは分かってんだよね~。チビちゃんが俺なんかの為に会ってくれるのも、お菓子が目当てだって事くらいさ~」
「え」
「分かってるって。チビちゃんは、俺のこと、別になんとも思ってないんだってことくらいさ。でもチビちゃんは優しいから、俺みたいな奴から誘われても、断らずにいてくれるんだ~、って」
「ちょっと」
「そりゃそうだよねー。俺みたいな男から『好き』って言われても、気持ち悪いだけだし。ほーんと、ごめんねー」
「及川さん!」
 リズミカルに、ポンポンと、矢継ぎ早に。
 卑屈なことばかりを次々口にして、及川は日向を見ない。自分で自分を傷つける言葉を並べ立てて、余計に落ち込んで、閉ざされた世界に埋没して勝手に潰れようとしている。
 そうやって耳を塞ぎ、言い訳を聞いてもくれない彼に焦れて、日向は吼えると同時に椅子を蹴り飛ばした。
 大きな音を響かせて立ち上がり、仕上げにテーブルを思い切り叩く。連続した騒音と大声に、店内にいた人たちは騒然となった。
 制服が違う男子高校生ふたり組を窺って、カウンターにいた店員が身を乗り出していた。ひそひそ話す若い女性もいて、居心地は相当悪かった。
 けれどそれ以上に、腹の中がもやもやして、嫌な感覚が渦巻いていた。
 これは絶対、吐き出してもスッキリしない類のものだ。だからといって飲みこむ事も出来なくて、日向は歯痒さに顎を軋ませ、椅子に座るべく腰を落とした。
 真っ直ぐ身を沈めて、その肝心の椅子を、自分で後ろに弾き飛ばしていたのを思い出す。案の定尻が少ししか引っかからなくて、もう少しで床に尻餅をつくところだった。
 ギリギリで格好悪い真似は回避して、日向は恥ずかしさを堪えて椅子を引いた。もぞもぞ身じろいで深く座り直し、長い息を吐いて浮ついている心を落ち着かせる。
 深呼吸をする彼を正面に見て、及川は不貞腐れたまま首を竦めた。
「いーよ。正直に言ってくれても」
 吐き捨てられた台詞からは、さっきまでの明るく、茶化した雰囲気は消えていた。
 本気で拗ねているのが感じられて、日向は困った顔で目を細めた。
 及川の方が二年先に生まれているのに、この態度はまるで小学生のようだった。
 普段は日向の方がなにかと幼く、面倒が掛かると言われていた。影山が加わると尚のこと、先輩方に迷惑を掛けっ放しだった。
 それが、及川を相手に逆転していた。なんだか年長者になった気分で、失礼ながら少しわくわくした。
「じゃ、言わせてもらいますけど」
 改まった口調で言い、咳払いをひとつ。居住まいを正して仰々しく畏まり、とくりと鳴った心臓を撫でる。
 随分と他人行儀になった日向に眉目を顰め、及川も愚痴るのを止めて顔を上げた。
 どこか惚けたような間抜け面で、噴き出しそうになった。なんとか堪えるのに成功して、日向は深く吸った息をゆっくり吐きだした。
「おれ、及川さんのこと、スゲー人だって、思ってます」
「……チビちゃん?」
「だって、おれ、大王様のサーブ、まだ全然綺麗に打ち返せないし。そゆの、ホントはすんげー悔しいけど。事実、だし」
 彼の痛烈なサーブは凄まじい勢いで空を裂き、烏野陣営に襲い掛かった。
 日向は後衛に回った時、リベロの西谷と交代する。守備ではあまり活躍の場がない。レシーブは澤村といった上手い人たち任せっ放しで、そういう面で足を引っ張っている自覚はあった。
 そんな凄まじい及川のジャンプサーブも、一朝一夕で手に入ったスキルでないのは明白だった。
「すげー練習してたって、影山から聞いてます。ノヤさんも、あ、うちのリベロの人なんですけど。中学の時に及川さんのサーブ受けたけど、その時よりずっと上手くなってるって、言ってて。並の努力じゃないって褒めてたし。おれも、そう思うし」
 日向たちは大会で勝ち上がる為に、死に物狂いで練習していた。負けたくなくて、必死にボールに食らいついていた。
 だけれどそれは、他のチームだって同じだ。
 誰だって勝ちたい。上手くなりたい。強くありたいと願っている。
 そこに体格の差だとか、持って生まれた才能の優劣は関係ない。どんな天才だって、持ち合わせた能を正しく使えなければ、宝の持ち腐れだ。
 積み重ねた努力が自信になり、経験を重ねる事で視野は広がる。試合は毎回同じではない。なにが起こるか分からないから、その時どう動くのが最良か、瞬時に判断出来るかが勝敗を左右する。
 インターハイ予選、日向たちは技術も、経験も、どちらも足りていなかった。
 勢いだけではどうにもならないことがある。あと少しで掴みとれた勝利は、直前で指の間からすり抜けていってしまった。
 負けたのは、烏野が弱かったから。
 負けたのは、及川率いる青葉城西の方が強かったから。
「おれは、大王様のこと、最初は恐かったけど。でも、おれよりずっと長い間、努力して、頑張って、いっぱい練習して、強くなったって分かったし。そういうの、おれ、悔しいけど、やっぱ格好良いって、思うし。なんていうか、おれ、大王様と対戦した時、すっごくわくわくして、すっげーぐわああ、ってなって。なんかこ、ぶわって来たって言うか。ネット越しに大王様見て、ぞわってなって、どっかーんてなって。そしたらラッキョ頭にぎゅわんっ、てされて、ずおーんって、なって」
「あ、あの。ごめん、チビちゃん。その、出来ればもうちょっと分かり易く……」
 喋っているうちに興奮してきたのか、日向の口からは頻繁に擬音が飛び出した。それも正直意味が分からないものばかりで、理解が及ばなかった及川は苦笑するしかなかった。
 けれどお蔭で、冷静さが戻ってきた。内容は判然としないながらも、日向が及川について一生懸命考えて、伝えようとしているのは十二分に感じられた。
 それだけで嬉しかった。
 日向が足りない頭をフル稼働させて、つたない言葉で思いを形にしようとしているのが分かる。これまで明確な答えをもらっていなかっただけに、余計に胸に染みて、幸せな気持ちになった。
 だからか、頬が緩んだ。
 しかし。
「だから、大王様は。おれたちより、ずっと強いし、すごいし、かっこいいんだから! 『なんか』とか、『みたいな』だとか。そういう風に、言わないでください!」
 笑顔の意味をはき違えた日向に、唾を飛ばしながら怒鳴られてしまった。
 再度机を乱暴に叩き、店中に響き渡る大声で勇ましく宣言する。
 呼吸は乱れ、細い肩はひっきりなしに上下していた。
 濡れてしまった唇を雑に拭い、日向は最後、キッ、と及川を睨んだ
「分かりましたか?」
 教師が生徒に確認を求めるかのように、低い声で問う。但し語尾は下がり気味で、迫力満点だった。
「は、はい」
 反射的に頷いて、及川は椅子に座ったまま行儀よく背筋を伸ばした。
 お手本のような座り方をして、けれど瞳は左に流れた。思わず首を縦に振ってしまった彼だが、日向の発言内容については、未だ完全に理解出来ていなかった。
 なにが『みたいな』で、どれが『なんか』なのか。
 幼馴染である岩泉が相手なら、言葉数が少なくても、考えている中身はなんとなく通じ合えた。ただ残念な事に、日向に関しては付き合い始めてまだ数か月というのもあり、その域にまで達していなかった。
 通訳が欲しい。切に願い、及川は一秒後に首を振った。
「自力でなんとかしないとねえ」
「はい?」
「うぅん、こっちのこと」
 人に頼っていたら、いつまで経っても日向に近付けない。分かり合えない。
 だから自分で頑張るのだと決めて、及川はにこやかに微笑んだ。
 微妙に含みのある表情に、警戒した日向が眉を顰めた。
 口をヘの字に曲げて、小首を傾げて。気難しげな表情からは、こちらの真意を探っている雰囲気が伝わってきた。
 阿吽の呼吸になるには、相当時間がかかりそうだ。けれどその経過も楽しいと視点を百八十度入れ替えて、彼は訝しげな日向に向けて人差し指を揺らした。
「とりあえず、チビちゃんが俺の事、『カッコいい』って思ってくれてるのだけは、よ~~っく、分かった」
「――…………ぎゃああ!」
 そうして臆面もなくそう言えば、五秒近く固まった後、日向は真っ赤になって悲鳴を上げた。
 直後に両手を顔面に叩きつけて、テーブルに撃沈してしまった。ゴンッ、と威勢の良い音を響かせて突っ伏した後は暫く動かず、頭の天辺からは湯気が立ち上っていた。
 明るめの髪から覗く耳は赤く染まり、日焼けした首筋も朱に色付いていた。
 一足早く紅葉を目に出来たようで、得をした気分だった。
「そっかー。俺って、そんなにかっこいい?」
 少なくとも二回、その台詞を聞いた。
 血気盛んに吠えていた時なので、お世辞で言ったとは考え難い。心から思っているからこそ出た言葉だと解釈して、及川は満面の笑みで自身を指差した。
 くるりと宙に円を描いた男を睨み、日向は涙目で奥歯を噛み締めた。
「ぜんっぜん、かっこよくないです」
「またまた~。チビちゃんの気持ちはよーっく分かった。及川さん、もっと格好よくなれるように、これからも頑張るからね」
「ちっがーう!」
 必死になって否定するが、及川は何処吹く風と取り合わなかった。ケタケタ笑いながら悉く受け流して、ポジティブな方向に話を持って行った。
 そのうちツッコミを入れていた日向の方が息切れして、疲れ果てて力なく肩を落とした。
「そうじゃないのにぃ……」
「うん。分かってる」
「え?」
 もう一度顔を覆い、ぼそりと零す。それを耳聡く拾って、及川はカップに残る唇の痕を消した。
 汚れを拭って輝きを取り戻させて、その眩しさに目を眇める。
 穏やかな微笑みに見入られて、日向は惚けた顔で停止した。
「せいぜい頑張って、追いかけてきてよね」
 青葉城西高校と、及川は、烏野高校と日向にとって、一番近くて、明確な、倒したい存在だった。
 それは壁であり、目標であり、道しるべであり。
 憧れだった。
「……はっ、ぃぁ、あ、かっ、つ……負けませんから!」
 その近いようで遠い相手に宣戦布告されて、日向は大きく目を見開いた。
 何度か息を詰まらせて、最後に勇ましく宣言し返す。瞳はきらきら瞬いて、夜空の星よりも綺麗だった。
 元気とやる気に満ち溢れ、素直で、まっすぐで、何事にも一生懸命で。
 力強くガッツポーズを決めた日向を見詰め、及川は嬉しそうに目尻を下げた。
「うん。やっぱ俺、チビちゃんのそういうトコ、大好き」

2014/10/25 脱稿