藤黄

 着信に気付いたのは、朝の練習を終えて着替えようと部室に戻ってからだった。
 チカチカと明滅するオレンジのランプに、孤爪は静かに眉を顰めた。動揺が表に出ないよう気を付けつつスリープモードを解除すれば、大きな液晶画面にはあまり見る機会がないアイコンが表示されていた。
「翔陽」
 そこに示されていた文字を読み取って、彼は大きく目を見開いた。
 着信があった事だけを伝える文章に、心がざわつき、大きく波立った。ついさっきまで体育館に居たから仕方が無い事とはいえ、どうして気付けなかったのかと激しい後悔に苛まれた。
 口の中でその名前を呟き、下に出ていた時間にも素早く目を通す。続けて壁の時計を仰ぎ見て、孤爪は下唇を噛んだ。
 なんというタイミングの悪さだろうか。あと一分早ければ、声が聞けたのに。
 神様は意地悪だ。信じてもいない存在を罵って、彼は掛け直すべきか否かで逡巡した。
「なにしてんだ、研磨。早く着替えろよ」
「うん……」
 そうしている間に、スマートフォンを手に動かない彼に焦れて、幼馴染が話しかけてきた。
 音駒高校男子排球部の主将でもある黒尾の呼びかけに、孤爪は力なく頷いた。
 言われなくても、それくらい分かっている。一時間目の授業開始時間は刻々と迫っており、のんびりしている余裕はなかった。
 部室から教室までの移動も考えると、今すぐにでもシャツを脱ぎ捨てなければいけない。けれど頭で理解していても、身体はなかなか反応しなかった。
 急かされても止まったままの彼に肩を竦めて、黒尾は手を動かしながら口角を歪めた。
「なんだ。チビちゃんからか?」
「っ!」
 瞬間、孤爪は弾かれたかのように顔を上げた。
 スマートフォンは待機時間が過ぎて、再びスリープモードに入っていた。
 画面は真っ暗だった。しかし直前まで、そこには白抜きで文字が浮き上がっていた。
 まさか見たのかと、細い瞳孔を広げて幼馴染を仰ぐ。そんな愕然とした表情を愉快だと笑い飛ばし、黒尾は孤爪の背中をぽん、と叩いた。
「だって、今日だろ?」
「……別に、そういうんじゃないし」
 含みのある物言いをされて、彼は急ぎ顔を背けた。
 小声で反論するが、聞こえたかどうかは怪しい。ただどうであれ、これ以上この男と会話をする気はなかった。
 黒尾の方も、深く追求してこなかった。もう一度、今度は肩を叩いて呵々と笑って、騒いでいるほかの部員を注意すべく背筋を伸ばす。
 執着心の薄い幼馴染を盗み見て、孤爪はまだ消えずに光っているオレンジのランプに複雑な表情を作った。
 それは『彼』だけの為に設定した色だった。
 我ながら女々しいと思う。そんな気持ちを盗み見られたみたいで、黒尾に上手く受け答え出来なかった。
 悔しいやり取りは忘れる事にして、もう一度画面を明るくする。片手で機械を操作して、残る手は棚に押し込めてあった鞄へ伸ばす。
 慣れない事でもたもたしつつもシャツを引っ張り出して、孤爪は『彼』がメールではなく、わざわざ電話をかけて来た理由に思いを馳せた。
「覚えててくれたのかな」
 ほんの少し期待して、呟く。すると胸がほっこり暖かくなって、自然と笑顔になった。
 頬を緩め、目尻を下げる。誰も見ていないところで微笑んで、孤爪は画面に表示されていた文字を消した。
 本当は今すぐかけ直してやりたいところだけれど、周りの状況がそれを許さなかった。
 黒尾はネクタイを結びつつ、ちらちらと孤爪を観察していた。
 放っておくと動かなくなる、とでも思われているのだろう。心配してくれているのは分かるが、少々鬱陶しかった。
 赤ん坊ではあるまいし、時間がないのだって承知している。過干渉な兄を持った宿命だと嘆息して、孤爪は皺だらけになっていたシャツを広げた。
 スマートフォンは一旦手放し、もそもそと着替えを開始する。その頃には犬岡や山本といったメンバーが教室目指して出て行って、部室はすっかり静かになっていた。
 騒がしい人間ほど、動くのも早い。開いては閉まる繰り返しの戸口を一瞥して、孤爪は脱いだトレーナーを棚へ放り投げた。
 上半身裸になって、軽くタオルで汗を拭い、シャツに袖を通す。とても運動部所属とは言えない肉体を布で覆い隠して、ボタンを下から順に嵌めていく。
「あれ」
 そして次にズボンを履き替えようとしたところで、彼は首を傾げて眉を顰めた。
 先程消したばかりのランプが、また光っていた。
「しょう、よう」
 しかも、色はオレンジだ。七色ほどあるバリエーションの中で、電話でも、メールでも、その色になるのはひとりだけだった。
 いつ光ったのか、全く気が付かなかった。
 着信音は鳴らないように設定してあったが、バイブレーション機能は生きている。振動はスマートフォンを置いていた鞄に吸収され、微小なノイズは部員達の話し声に掻き消されてしまったようだ。
 油断し過ぎだ。もっと注意深く見ておくべきだったと悔やんで、孤爪は薄型の携帯端末に手を伸ばした。
「研磨」
 それを黒尾が見逃さなかった。
「…………」
「せめて着替えてからにしろ」
 後ろから叱責されて、恨めし気に睨みつけるが効果はない。上は制服、下はジャージというアンバランスさの解消を優先させるよう言われ、彼は渋々頷いた。
 確かに膝よりも短いショートパンツで居続けるのは、寒さ的に辛いものがあった。
 カレンダーはかなり薄くなり、今年も残り僅かとなった。街中はオレンジ色で溢れ、月末に控えているイベントに向けて必死のアピールが繰り広げられていた。
 ハロウィンなど、数年前まで話題にすらならなかったのに。
 最近急に持て囃され始めた異国の風習を思い浮かべ、孤爪は急ぎズボンを履き替えた。
 いつもならもっと時間がかかるのに、予定が詰まっているので妙に行動が速い。珍しくテキパキ動く彼を眺め、黒尾は失笑を禁じ得なかった。
「なに」
「いーや。チビちゃんは偉大だな、と」
「なにそれ」
 そんな幼馴染の意味ありげな視線が不快で、孤爪は口を尖らせた。
 ネクタイも雑ながら結んで、ジャケットを羽織る。必要ない荷物は棚に残したまま鞄を担ぎ、その流れでスマートフォンを右手に持つ。
 早速着信内容のチェックに入った彼に苦笑して、辛抱強く待っていた黒尾はアルミサッシの引き戸を引いた。
 幼馴染の為に道を作ってやり、彼が通り過ぎるのを待って閉める。ついでに鍵もかけた黒尾を振り返りもせず、孤爪は俯きながらスマートフォンをなぞった。
「……ったく。チビちゃん、なんだってー?」
「クロには関係ない」
「つれないねえ」
 こんなにも尽くしてやっているのに、なんと素っ気ない事か。予想通りの冷たい反応に肩を竦め、彼は孤爪の背後に取り付いた。
 上から覗き込まれそうになって、孤爪は急ぎ画面を胸に押し付けた。
「クロ」
「いーじゃねーか。減るモンじゃなし」
「ダメ。減る」
「へいへい」
 しつこく食い下がられたが、突っぱね続けていたら最後は諦めたようだ。両手を広げて嫌味たらしいポーズを取られたが、孤爪は妥協しなかった。
 膨らませていた頬を凹ませ、黒尾が離れるのを待ってから画面を顔に向ける。直後に黒尾がスッと背伸びをしたが、あらかじめ読んでいた孤爪は足早に歩き始めた。
 二度目の着信は、メールだった。
 電話が繋がらなかったので、切り替えたのだろう。急いでいたらしく、文面は短かった。
「……覚えててくれたんだ」
 けれどたった一文でも、伝わるものはあった。
 幸せな気持ちになって、表情が緩んだ。すぐに読み終えてしまえる文章を五度も、六度も読み返して、孤爪は照れ臭そうにはにかんだ。
 直後。
「よかったなー」
「……クロはさっさと教室行けば」
「誰かさんが転ばないように見ててやってんだよ」
「うるさい」
 画面が見えないはずの男から茶々を入れられて、孤爪は不機嫌に地団太を踏んだ。
 部室から教室がある棟は、それほど離れていない。正門から昇降口へ向かう人の列は大きく膨らんでおり、俯いていたら誰かにぶつかりかねなかった。
 歩きスマホは危険、となにかと槍玉に挙げられてもいる。気を付けるよう暗に言われて、孤爪は口をヘの字に曲げた。
 この調子だと、二年生の教室に着くまで、本気で追いかけてきそうだ。
 しかもその本当の理由が、幼馴染を気遣ってではなく、からかう材料を探しての事だから、始末が悪い。
 ニヤニヤしている黒尾を見上げて渋面を作り、孤爪は素早く左右を見回した。
 下駄箱がある昇降口は目前に迫っていた。あそこを潜ってしまうと、トイレくらいしかひとりになれる場所がない。
 人目を気にせず、しかも静かな空間を探し求め、彼は覚悟を決めるとぐっと腹に力を込めた。
「あ、おい」
 唐突に走り出されて、置いて行かれた黒尾は呆気に取られてぽかんとなった。
 咄嗟に出した手で空を握りしめて、脱兎の如く駆けていった背中を見送る。その姿は人ごみに紛れ、あっという間に見えなくなった。
 いつもの面倒臭がり屋はどこへ行ったのか、猫にも劣らぬ俊敏さだった。
 練習中も、あれくらい素早く動いてくれればいいのに。あっさり逃げられた黒尾は苦笑して、寝癖が激しい頭を掻いた。
 こうして無事幼馴染を引き剥がすのに成功した孤爪はといえば、二十秒としないうちに息が切れ、破れそうな心臓を抱えて地面にへたり込んでいた。
「っは、は……はあ、っは」
 飲んでも、飲んでも止まらない唾を嚥下して、酷い耳鳴りを耐えてかぶりを振る。足元に伸びる影を踏みしめて呼吸を整え、彼は背後を振り返った。
 臙脂色の煉瓦造りの校舎が視界いっぱいに広がり、雑踏は僅かに遠くなった。
 昇降口に通じる道を横断し、体育館とは反対側へ駆け込んだのだ。目の前には敷地を囲む樹木が枝を伸ばし、防犯目的でやたらと高い壁がその向こうに聳えていた。
 空は狭い。しかも宮城で見上げたものよりずっとくすんだ色をして、お世辞にも綺麗とは言い難かった。
「はあ、は……っ、んく」
 これで最後と五度目の唾を飲み下し、孤爪は汗で張り付いた前髪を脇へ払い除けた。
 時計を盗み見れば、始業時間まであと五分と少しだった。
「ちょっとくらい、なら」
 声が聞きたかった。
 平坦な文章では、満足出来なかった。
 嬉しかったのに、物足りなく感じていた。知らないうちに我儘になった。気付かないうちに、傲慢になっていた。
 けれど、一年に一度しかない今日だけは、贅沢を許して欲しい。
 祈るような気持ちで呼吸を鎮め、彼はすぐ暗くなるスマートフォンを握りしめた。
 緊張で悴む指に息を吹きかけ、六度目、生温い唾を飲みこんで発信画面を睨みつける。折角落ち着きかけていた心臓がまた騒ぎ出して、口から飛び出して来そうだった。
 普段はインターネット回線を介しての通信が主体なので、電話回線で言葉を交わす機会は稀だった。
「出る、……かな」
 連絡があってから、まだ十分と経っていない。あちらの学校が何分から授業開始かは知らないが、チャイムが鳴っていないよう、心から祈る。
 すぐ気付いてくれるようひたすら願って、孤爪は勇気を振り絞って画面のボタンをスライドさせた。
 つるりとした液晶に指を走らせ、即座に耳に押し当てる。反対側の耳は手で塞いで、息を殺し、判定の時を待つ。
 囚人になった気分だった。
 明日はちゃんと自力で起きて、朝ごはんもしっかり食べる。だから願いを叶えてくれますように。そんな事をひたすら頭の中で繰り返して、孤爪は繰り返される呼び出し音に奥歯を噛み締めた。
 一コール、ニコール、三コールと過ぎた。
 五コール目を数えたあたりで、焦りが生まれた。
「しょうよう」
 もしや既に授業が始まっているのか。それとも友人との雑談に夢中で、電話が鳴っていると気付いていないのか。
 この行為が非常識な部類に入る自覚はあった。
 たとえ繋がったとしても、長く喋れないのは承知している。電話料金だって、この時間は安くない。
「……出て」
 留守番電話機能は使われていないのか、切り替わる様子はなかった。
 そろそろ十コール目になる。カチコチに固まっていた四肢も力が抜けて、緊張が緩み出す頃合いだった。
 祈りは届かないのか。黒尾の高笑いが聞こえた気がして、孤爪は額を覆って溜息をついた。
 諦めが胸を過ぎった。時間を変えて改めようと思い始めた矢先だった。
 不意に音が途切れた。
 ぷるるるる、という淡泊なベルが消えて。
 直後。
『もしもし! 研磨!』
 脳天を突き破るけたたましい声が響き渡った。
「っ!」
 完全に油断していた。もうダメだと思い込んでいた。
 そんな中で唐突に叫ばれて、構えていなかった孤爪は咄嗟にスマートフォンを引き剥がした。
 右腕を目一杯伸ばして距離を作り、二秒後に我に返って慌てて元の位置に戻す。聞こえてきたのは幾らかボリュームが下がった、焦がれて止まない少年の声だった。
『あれ? あれれ? おーい。もしもーし。けんまー? けんまさーん?』
 応対に出て、呼びかけて、直ぐに返事がなかったので不思議に思ったのだろう。小さな孔から立て続けに、騒がしい声が流れて来た。
 慌てふためく様子が目に浮かんだ。携帯電話を手に首を傾げている姿を想像して、孤爪は堪らず噴き出した。
「くっ」
 口を閉じ、息を吐く。しかし声が漏れるのを防ぐのは難しかった。
 しかもそれを、スマートフォンがしっかり拾っていた。
 最近の電話回線は、こんな雑音まで相手に届けてしまうらしい。一秒足らずの沈黙があって、電話口から不貞腐れた声が聞こえてきた。
『けーんーまさーん?』
「ごめん、翔陽」
 頬を膨らませて、拗ねている顔が見えるようだった。急いで謝って、孤爪は深く息を吐き出した。
 左胸に手を添えて深呼吸して、唇を舐めて視線は上に。緑の隙間から覗く青空は、先程見た時よりも輝きを増していた。
「その。……ありがと」
 可笑しなものだ。スモッグで霞んでいる筈なのに、光が強すぎて直視出来なかった。
 照れ臭さを押し殺し、まずは礼を述べる。面と向かってだと言えなかっただろう台詞に、電話口の相手も面食らったようだった。
 息を飲む音が聞こえた。孤爪は目を閉じ、遠く離れた場所にいる友人に思いを馳せた。
 朝練を終えた彼を待っていたのは、一件の着信履歴と、一通のメールだった。
 誕生日おめでとう、と。
 たったそれだけを記した文面は、嬉しさと切なさの両方を孤爪にもたらした。
 日向はきっと、直接言いたかったに違いない。だから電話を先に掛けた。けれどタイミングが合わなかったから、メールに切り替えたのだ。
「覚えててくれて、すごく、うれしい」
 憶測を巡らせ、たどたどしく言葉を繋いでいく。
 親にさえ言ったことがない感謝を告げて、孤爪は返事を待って息を潜めた。
 誕生日の話をしたのは、随分前のことだった。
 夏合宿の時に、そんな話題が出た。自分は六月だったから、しばらくは同い年だな、とか、そういう会話をした。
 他愛無いやり取りだった。まさかしっかり記憶され、当日に連絡が来るとは思わなかった。
 こんなに幸せな事が他にあるだろうか。トクトク鳴動する心臓を撫でて唇を舐めて、孤爪は静かに目を閉じた。
『おれ、さ』
 そこへ妙にしんみりとした、哀しそうな声が聞こえてきた。
 小声で呟かれて、孤爪はすぐに瞼を押し上げた。瞬きして近くに誰も居ないのを確認して、両者を隔てる距離を実感して悔しさに臍を噛む。
 何故そんな寂しそうな顔をするのか。
 目には見えないけれど雰囲気が感じられて、意識しないうちに拳を作っていた。
 けれどそれは、すぐに力を失って解かれた。
『おれ、ほんとは。日付が変わってすぐに、電話、しようと思ってたんだ』
「……うん?」
『でも、昨日もずっと、烏養監督のところで練習してて。そしたら帰るの、遅くなっちゃって。お風呂気入ったら、持ち良くて。そんで、えっと』
「寝ちゃった?」
「うん……」
 スマートフォンから聞こえてきた言葉に、孤爪は苦笑した。漂っていた不穏な空気は霧散して、すっきりとした晴れ空が広がった。
 ただ日向のしょんぼりした声は変わらなくて、彼はこみあげてくる笑いを押し留め、校舎の壁に寄り掛かった。
 鳥のさえずりが聞こえた。爽やかな風が吹いて、このまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。
 目を瞑り、すっかり聞き慣れた声に耳を傾ける。遠く宮城まで想いを飛ばして、彼は顔を綻ばせた。
「大丈夫だよ、翔陽」
『うぬ?』
「その時間だったら、おれも、寝てた」
 嘘ではない。正直に告白して、孤爪は何気なく鞄を叩いた。
 大会は目前に迫っていた。予選突破を目標に、練習は日々熱を帯びている。
 毎日のように体力を削られ、精神力も搾り取られて、家に帰り付く頃には屍も同然だった。風呂に入るのも億劫で、夕食を摂るのはもっと面倒だった。
 シャワーで汗を流して、髪も乾かさずにベッドに倒れ込んで、気が付けば、朝。最近はその繰り返しだった。
 だからもし午前零時に電話を鳴らされても、まず間違いなく出られなかった。
 メールを送られても、確実に返信出来なかった。
『えー。なーんだー』
 そう言えば、露骨にがっかりされてしまった。
 気に病んで損をしたと、そう言っているようなものだ。非常に分かり易い彼に肩を揺らし、孤爪は先ほどより静かになった昇降口を窺った。
 登校する生徒が減ったのだろう。チャイムが鳴るまで、あと幾ばくもなかった。
「そういえば、翔陽。さっき、出るの、遅かったけど」
『あー。だってさ、教室だったんだもん。いきなり鳴ったから、びっくりした』
「ああ……」
『だからおれ、今、トイレ!』
「自慢することじゃないと思うよ?」
『研磨は時間、大丈夫なの?』
「おれは――あと、ちょっとだけなら」
『そっか。おれも、あとちょびっとだけなら、へーき』
 カラカラ笑う声が頭の中で反響した。
 大慌てで男子トイレに逃げ込む彼をイメージして、申し訳なく思いながらも、可笑しくて仕方がない。口元を手で覆い隠して息を吐いて、孤爪はこの熱が宮城まで届くように祈った。
 幸せだった。
 この時間がずっと続けば良いと、願わずにいられなかった。
『でも、なー。研磨、もう誰かにお祝いしてもらった?』
「クロになら、ちょっと言われたけど。なんで?」
『あー、やっぱり負けたー!』
「翔陽?」
 電話口では日向が一瞬口籠り、突如叫んだ。
 質問の答えになっていない。会話が繋がらなくて、孤爪は怪訝に眉を顰めた。
 黒尾と、知らないところで勝負でもしていたのだろうか。そんな話は一切耳にしていなくて、仲間外れされたようで、気分が悪かった。
 ムッとしていたら、日向のため息が耳朶を掠めた。
『研磨の誕生日、一番にお祝いするの、おれだって決めてたのに』
「…………――っ!」
 それはきっと、独り言なのだろう。けれど電子機器はしっかり音を拾い、伝えてくれた。
 愚痴を呟かれて、孤爪は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 スマートフォンを握る手に力が入った。フレームが指に食い込んだが、緩める気になれなかった。
 背筋がざわめいた。全身に鳥肌が立ち、震えが止まらなかった。
 息をするのさえ忘れていた。瞠目したまま凍り付き、孤爪は唇を戦慄かせた。
 言葉が出なかった。
 凄まじい殺し文句に、何も言い返せなかった。
 東京と宮城の、物理的な距離が恨めしかった。未来から来た猫型ロボットの、不思議ポケットから出てくるあのドアが切実に欲しかった。
「翔陽」
 会いたい。触れたい。抱きしめたい。
 声だけでは足りない。
 我慢出来ない。
 恋しさを募らせ、歯を食い縛る。感情が溢れ出ないよう、必死に押し戻そうと足掻く。
 それでもはみ出てしまった想いが、ひゅう、と吹いた秋の風に乗って天を駆けた。
『……だからさ。来年、がんばるな』
「しょうよう?」
『研磨も。来年は、起きてろよな!』
「え、あ。うん。分かった」
『約束だかんなー。あ、チャイム鳴る。そんじゃ、研磨。誕生日おめでと!』
 それは嵐のようだった。
 一瞬吹き荒れて、あっという間に通り過ぎて行った。通話は呼び止める間もなく切れて、孤爪は惚けたまま暫く動けなかった。
 後ろでは予鈴のベルが、厳かに鳴り響いていた。
 はっとして我に返り、この音が自分の学校のものだと三秒掛かって気付く。未だ夢うつつの状況で昇降口を振り返って、通話に使った時間を伝える画面に見入る。
 それがゆっくり薄れて消えるのを待って、彼は役目を終えたスマートフォンで額を小突いた。
「来年。……後で、何曜日か調べよう」
 次のインターハイが終わったら自分だけ先に引退して良いか、と言ったら、皆は怒るだろうか。
 一度欲しいと思ったら、キリがない。
 こんなに貪欲だった自分の正体を初めて知って、孤爪は自嘲気味に笑った。

2014/10/19 脱稿