観取

 気まずい沈黙が続いていた。
 時折秋風に紛れて鳥のさえずりが聞こえたり、季節柄ヤキイモ販売の声が響いてきた。他に耳に入るのは、グラウンドで駆け回る運動部員の声など。そこに笛の音や、ブラスバンド部の演奏音が紛れ込んだ。
 様々な音が雑多に混じりあい、騒々しいかと思えば意外にそうではない。それほど悪くない雑音を意識の片隅で追いかけながら、雲雀恭弥は身じろいだ。
 応接セットのソファに斜めに腰掛け、肘を片方、背凭れへと衝き立てる。緩く握られた拳は傾いている頭部を支えて、脚は右を上にして優雅に組まれていた。
 モデルがポーズを決めているようで、一般人がやれば不格好で笑える光景だった。しかし彼がやると妙に様になっており、許されるならカメラを構えてみたかった。
 しかしとてもではないが、それが出来る雰囲気ではない。ひっそり悔しさを募らせて、沢田綱吉は膝を抱く手に力を込めた。
 余分な荷重がかかったからだろう。もれなく彼が座る椅子がキィ、と軋み音を立てた。
 その耳障りなノイズに、遠くを見据えていた雲雀も視線を泳がせた。
 数回の瞬きを経て、黒く濡れた眼が綱吉を射た。ソファの上でゆっくり背筋を起こして、彼は疲労を訴える左肩をぐるりと回した。
 長く同じ体勢でいたので、あちこちが凝っているのだろう。盗み見た時計は五時手前を指し示しており、太陽は西の空へ大きく傾いていた。
 ふたりが部屋に揃ってから、既に三十分近くが経過していた。
 その間に交わされた会話は、ほんの僅か。大半の時間は、両者ともに無言だった。
 最初のうちは我を張っているのもあり、沈黙は苦にならなかった。しかし時計の針が進むにつれて辛さが募り、居心地の悪さが勝り始めた。
 真綿で首を絞められているようなものだ。じわり、じわりと追い詰められているのを感じて、綱吉は汗ばんだ手をズボンに擦りつけた。
 肘掛けを持つ椅子に膝を抱いて座るのは、本来の使用方法から逸脱している。上履きはキャスターの傍に転がって、片足分が横を向いていた。
 季節の変わり目で、朝晩はかなり涼しくなった。昼間は日が照っていれば暖かいけれど、日陰に入ると肌寒かった。
 半袖では心許なくて、長袖の生徒が増えつつあった。綱吉もそのひとりで、白いシャツの表面には無数の皺が走っていた。
 姿勢の所為でベージュ色のスラックスは脹脛までしか覆っておらず、丈の短い靴下と、足首は丸見えだった。その無駄毛のない脛を爪で削って、彼はソファで寛ぐ男に口を尖らせた。
 綱吉が籠城を決め込んだので、あちらも長期戦を覚悟したようだ。今度は両腕を背もたれの後ろへ放り出して、投げ出された足はテーブル下に隠れていた。
 そのガラステーブルを挟んだ向かい側には、雲雀が座るのと対になったソファがあった。黒い革張りで、クッション性は抜群に良い。お蔭で横になるとすぐ眠気に襲われて、人をダメにしてくれた。
 どうしてあちらに座らなかったのか、後悔が胸を過ぎった。
 そもそも、どうしてこんな事になったのか。
 悔しさに唇を噛み、綱吉は折れそうになる心を奮い立たせた。
 現在進行形で彼が座っているのは、並盛中学校の応接室にある執務机の椅子だった。
 ソファには負けるけれども抜群の座り心地を誇り、長時間身を委ねていても疲れ難い構造だった。背凭れもふかふかで、油断すると舟を漕ぎそうな勢いだ。
 そんな高級家具に踵を預け、体育座りで陣取っている。かれこれ三十分近く同じ姿勢で、腕はいい加減痺れていた。
 指の力が緩みそうになって、綱吉は慌ててスラックスを握りしめた。裾を掻き集めて爪先に絡め、簡単に外れないよう意識を傾ける。
 そうやって意地を張る彼を横目で観察して、雲雀は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「いい加減にしてよね」
 このまま待ち続けても、状況の変化は期待できない。諦めて折れてやることにして、彼は組んでいた脚を解いた。
 靴底で床を蹴り、両手も胸元に集めて重ねあわせる。口調は落ち着いていていたが、穏やかな語りの陰には不穏な気配が見え隠れしていた。
 厳かに告げられた台詞に、綱吉の肩が跳ね上がった。
 びくりとし、右の踵が滑り落ちそうになった。ただでさえ狭い空間に身を寄せているわけで、足の裏全体を椅子に置くスペースはなかった。
 崩れそうになった姿勢を慌てて作り直し、取り繕うが、動揺は明らかだった。ひとりオタオタしている彼に再度ため息を零し、雲雀は背中を丸めて頬杖をついた。
 太腿に肘を突き立てて身を屈め、壁の時計を一瞥する。前進し続ける長針にかぶりを振って、彼は放置されたスクールバッグに視線を投げた。
 向かい側のソファに陣取るそれは、他ならぬ綱吉の持ち物だった。
 勉強道具に弁当箱、体操服。それらが詰められた鞄は丸々と太り、ファスナーがはち切れそうだった。
 学校指定の鞄は全体的に草臥れて、かなりボロボロだった。荒っぽい使い方をしているらしく、印刷された校章は一部が剥がれていた。
 卒業まで持つか分からない鞄に眉目を顰め、持ち主へと視線を戻す。綱吉は幾分落ち着きを取り戻し、椅子の上で畏まっていた。
 その手前に置かれた机には、大量の書類が山積みになっていた。
 風で飛んで行かないように重石代わりのペンや、文鎮がそれぞれに乗せられていた。それでも端がパタパタ言うのは防げず、そのうち吹き飛ばされそうなものもいくつかあった。
 窓から風が吹き込む度に、綱吉はヒヤッとさせられた。そこに雲雀からの威圧が加わって、冷や汗が止まらなかった。
 琥珀色の目を泳がせて、彼は両手をぎゅっと握りしめた。首を竦めて丸くなって、絶対にここから退かないという意志を態度で表現する。
 分かり易い反抗を前に、雲雀は力なく肩を落とした。
 綱吉が陣取っているその椅子、並びに机は、風紀委員長雲雀恭弥の仕事場だ。
 卓上には未決済の書類が山を成し、首を長くして判を待っていた。だが肝心の処理する人間は机に向かわず、ソファで無為な時間を過ごしていた。
 否、そうではない。
 仕事を片付けたくても、出来る状況にないのだ。
 理由は簡単だ。そこに綱吉が居て、梃子でも席を譲らないと言い張っている為だ。
 力尽くで退かせるのは可能だが、暴力に訴えても事態は解決しない。むしろ却ってこじれるだけと分かるので、点火の雲雀も未だ強制排除に乗り出せずにいた。
 必死の形相で睨まれて、二の句が続かない。眼力で脅すのにも限界があって、お手上げだった。
 始末に困って天を仰ぎ、額をぺちりと叩く。軽い音に綱吉は顔を上げ、顔を覆う男に口を尖らせた。
「いつまでそうしてる気?」
「ヒバリさんが、ごめんなさいってするまでです」
「はいはい。ごめん」
「心が籠ってないからダメです」
 質問されて、彼は強気で捲し立てた。軽い調子の謝罪は即座に突き返し、簡単には許さないと決意を表明する。
 いつになく頑固な綱吉に嘆息を追加して、雲雀は首の後ろを引っ掻いた。
 一時は立ち上がろうとするが、寸前で思い直して腰を下ろす。身構えた綱吉は彼が動かないと知り、ホッと胸を撫で下ろした。
 虚勢を張ってはいるものの、内心はびくびくだ。もし彼が強行突破に出た場合、防ぎきれるとはとても思えない。
 死ぬ気になれば対抗は可能ながら、その覚悟が足りていなかった。現状では、瞬発的に力を発動するのは難しかった。
 最強の雲の守護者を前にしたら、大空の守護者も形無しだ。
 それが惚れた弱みからなのか、単純な力比べによるものなのかは、判断を保留せざるを得ない。両者を分割して考えること自体がナンセンスであり、不可能だった。
 恨めし気に雲雀を見つめ、綱吉は膝の間に顎を沈めた。
 頬を膨らませた拗ね顔は可愛いが、同時に憎たらしい。困ったものだと苦笑して、雲雀は湿った指先を袖に擦りつけた。
 左腕には臙脂色の腕章が、安全ピンで固定されていた。
 彼の格好は綱吉たちとは異なり、黒を基調とした学生服だった。
 風紀委員の特徴であり、最大の目印でもあるそれは、並盛中学校の生徒にとって、恐怖の対象でもあった。彼らの横暴な振る舞いは枚挙に暇なく、特に風紀委員長の身勝手さは群を抜いていた。
 そんな横柄な男を相手に、綱吉は譲ものかと必死だった。
 ここで折れたら、雲雀がつけあがるだけだ。たまには思い通りにならない事もあると、彼に教えなければいけない。
 妙な正義感と義務感に気持ちを奮い立たせ、人知れず握り拳を固くする。決意を新たにした綱吉を遠巻きにして、雲雀は呆れ調子に肩を竦めた。
 仕事はまだ沢山残っている。それこそ、今晩一睡もせずに取り組んでも終わらないくらいに。
 だからここでのんびり茶を嗜み、のほほんと過ごしている余裕はない。
 既にかなりの時間を無駄にした。予定が狂った苛立ちをため息と共に吐き出して、彼は腰に当てた手を背中に回した。
 羽織った学生服の内側に潜り込ませ、冷たく硬い感触を指先に与える。身じろいだ彼に綱吉も眼力を強め、反抗的な視線を投げかけた。
 隠し武器であるトンファーを取り出そうとした雲雀を警戒して、彼の全身から不穏な気配が溢れ出した。
 いざとなれば本気で、死ぬ気になって対抗するのも辞さないと、大粒の瞳が告げていた。
 それはそれで楽しそうであるが、生憎と時間が惜しい。急激に揺れ動いた天秤に終止符を打ち、雲雀は忍ばせていた腕を引き抜いた。
 だらりと垂れ下がった右腕に、綱吉は意外だったのか、眉を顰めた。
「ヒバリさん?」
「だったら、いいよ。好きなだけそこに居れば」
「ええ? ちょっと」
 怪訝にしていたら、くるりと踵を返された。武器を取らずにカツカツ歩き出した彼に驚いて、綱吉は場所も忘れて身を乗り出した。
 キャスター付きの椅子が床を滑り、バランスを失った体躯が空中で前後に振れた。慌てて両手を広げて体勢を維持して、転落を回避した彼はホッと胸を撫で下ろした。
 その頃には雲雀も移動を終えて、廊下に通じる扉に手を伸ばした。
 部屋を出て行こうとしていると知り、綱吉は零れんばかりに目を見開いた。
「ヒバリさん」
 急ぎ名前を呼ぶけれど、返事は得られなかった。
 それどころか、振り向きすらしない。あと少しで床に転げ落ちるところだったのに、心配する声も聞かれなかった。
 徹底的に存在を無視し、男は銀色のノブを掴んだ。
「ヒバリさん!」
 今から駆け寄っても、追い付けない。椅子から降りて机を回り込んでいるうちに、ドアは外から閉められてしまうだろう。
 かといって黙って見送ることも出来なくて、綱吉は声を荒らげた。
 切羽詰まった悲鳴を聞いて、男は仕方なく、さも面倒臭そうに振り返った。
「なに」
 そうして不機嫌を隠しもせず、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
 低い声は凄味があり、胸に突き刺さるようだった。
 人を見下していると分かる、接触を拒む声色だった。嫌悪感がそこかしこから滲み出ており、聞いた相手の心を挫かせる効果があった。
 もれなく綱吉も萎縮して、瞬きも忘れて凍り付いた。
 右膝を半端に起こしたポーズで停止して、呼吸も止めて瞠目する。それを冷めた目で見つめて、雲雀はゆるゆる首を振った。
「君が勝手にするなら、僕もそうするよ。好きなだけ居ればいい。居られるのなら、だけど」
「……!」
 綱吉が自発的にそこから動かないのであれば、雲雀にも相応の用意がある。
 即ち、椅子に座って机に向かう以外の仕事を先に片づける、と。
 素っ気ない台詞と仕草から導き出される結論は、綱吉が望んでいたものとはまるで違った。正反対と言っても過言ではない結末に騒然となり、彼は四肢を戦慄かせた。
「そ、……っ」
 咄嗟に口を開くが、喉が引き攣って声が出ない。そもそも自分が何を言おうとしていたのかも分からなくて、綱吉は頬をヒクつかせた。
 全身からさっと血の気が引いて、顔も恐らくは真っ青だろう。土気色になった唇が小刻みに震えて、琥珀色の瞳は光を失い、暗く翳った。
 雲雀がこのまま応接室を出て行ったとして、戻ってくるのはいつか。まず間違いなく、三十分や一時間そこらではないはずだ。
 短くても三時間、長ければ五時間後の可能性だってある。その間に太陽は沈み、月が昇り、星が瞬く夜が訪れる。
 沢田家の夕飯は、日によって若干の変動があるものの、大体午後七時前後に始まった。風呂は八時半頃から順番で、布団に入るのは十一時を過ぎた辺り。
 普段の生活スケジュールを確認して、綱吉は身震いが止まらなかった。
 もしこのまま居座ったとしても、時間には限りがある。空腹を抱えたまま一晩ここで過ごせるかと訊かれたら、首を横に振らざるを得ない。
 最初から勝負にすらなっていなかった。
 綱吉の負けで終わるのは、端っから分かり切っていた。
「――っ!」
 寒気を覚え、自分自身を抱きしめる。見えてしまった結末に奥歯を噛み締めて、泣きそうになるのを必死に耐える。
 それでも涙が滲むのだけは、どうしても止められなかった。
「ずるい!」
 叫んだのは、無意識だった。
 気が付いた時にはもう、吠えていた。大きく口を開いて、肺に残る酸素を全部使い切って。肩で息をして、顔を真っ赤にして。
 乗り出した身体を机に押し付けて、綱吉は歯を食いしばって雲雀を睨みつけた。
 もし眼力で人を攻撃出来たなら、ドアごと吹っ飛ばされていた。それくらいの強い意志を込めた綱吉に、雲雀は思案げに眉を顰めた。
 眉間に皺を寄せ、胡乱な眼差しを投げ返す。意思疎通が叶わない状況に鼻を愚図つかせ、綱吉は唾が散った口元を雑に拭った。
 どうして不利でしかないと分かる籠城戦に打って出たのか、この男はまだ分からないでいるらしい。
 強敵の気配は敏感に察するくせに、闘いとは無縁の事には底抜けに疎い。あまりにも落差が酷すぎると落胆してかぶりを振って、綱吉は下唇を噛み締めた。
「……二週間、経ったんですよ?」
 絞り出した声は掠れて、今にも消えてしまいそうだった。
 恨み言をぶつけられ、雲雀の目が二度、素早く瞬いた。
「ああ」
 緩慢な相槌の後に、切れ長の眼がスッと細められた。瞳は左へと流れ、何もない壁へと向けられた。
 思い返していると分かる表情に、綱吉の小鼻が一層膨らんだ。
 二週間。約半月。十五日弱。言葉は色々あるけれども、ともかくそれくらいの間、綱吉は我慢を強いられてきた。
 暫く忙しいと言われて、大人しく待った。だというのにその『暫く』がいつまで経っても終わらない。夏の暑さが退いて秋の過ごしやすさが巡って来たのに、休みの日にどこかへ出かける計画も、全部潰れてしまった。
 あれこれ情報を集めて楽しみにしていたのに、言い出す事すら出来ずに終わった。
 虚しい連休だった。
 我慢も限界だった。
「……そうだっけ」
「そうですよ!」
 だというのにこの男は、ちっとも反省していない。それどころか、夏休み中に口にした、『秋になったらどこかへ行こうか』という約束も、綺麗さっぱり忘れ去っている。
 あの日、綱吉は天にも昇る気持ちだった。それが今や、奈落よりも暗い場所まで沈んでしまっていた。
 堪忍袋の緒が切れた。一度徹底的に懲らしめないと、雲雀は絶対に分かってくれない。
 分かろうとすらしない。
 彼は綱吉が意地を張る理由を探ろうともせず、面倒だからと相手にしなかった。会話を拒み、出て行こうとした。
 放っておけば綱吉から折れて来ると、甘く思っているのだろう。
 実際、これまではそうだった。
 しかし今回だけは、絶対に譲歩しない。固い決意を表情に込め、綱吉は執務机の角を思い切り握りしめた。
 力み過ぎて血管が浮き、筋張った関節が皮膚を突き破りそうだった。
 必死な形相を遠巻きに眺めて、雲雀恭弥は深々とため息を零した。
「じゃあ、僕は見回りに行くから」
「っ!」
 抑揚に乏しい声で淡々と告げられて、綱吉は愕然となった。
 これだけ懸命に訴えても、なにも届かなかった。彼の心には響かなかった。
 信じられなくて、呆然とするしかない。大粒の目を真ん丸に見開いて、綱吉は口をパクパクさせた後、奥歯を強く噛み締めた。
 顎が軋むくらいに力を込めて、顔を伏す。俯いた綱吉に興味が失せたのか、雲雀は長く握ったままのドアノブを押した。
 既に回されていたらしく、扉は音もなく開かれた。
 道が出来て、窓から吹く風が少しだけ強まった。カーテンがふわりと舞い上がり、白色が応接室を埋め尽くした。
 直後、パタンと音がした。軽快に踊っていた布たちも途端に勢いを失って、申し訳なさそうに引っ込んでいった。
 静寂が訪れて、惚けていた綱吉は力任せに机を殴った。
 痛みで爆発しそうな感情を誤魔化し、たまたまそこにあったボールペンを横薙ぎに払い落とす。机から転がったそれを追いもせず、鼻息荒くした彼は椅子から飛び降りた。
 上履きを履き、大股で向かうのは誰も居ない応接セットだ。そこに長らく放置していた通学鞄を引っ手繰って、前後に大きく振り回しながら踵を返す。
 ドアを開ける音は、学校中に轟きそうなほどに大きかった。
 本当は蹴破ってやりたかったが、死ぬ気でなければ無理だ。学校の備品も壊せない。だから乱暴に突き飛ばすだけにして、勢い勇んで廊下に出て。
 昇降口に向かおうとしたところで、彼は居る筈のない存在に気が付いた。
「え」
 絶句して、固まってしまう。それまでの威勢の良さは何処へ行ったのか、心臓は戦慄き、思考は停止した。
 三度、四度と瞬きをしても、扉の傍らに佇んでいた男は消えなかった。
「……なん、で」
 どうしてそこにいるのか、意味が分からなかった。
 見回りに行くと言っていた。それなのに、雲雀はまるで綱吉を待っていたかのように、壁に寄り掛かって立っていた。
 瞬きすら忘れて凍り付く彼を見下ろし、男はゆっくり壁から離れた。胸元で組んでいた腕も解いて脇に垂らして、首を左右に揺らして骨を鳴らしもする。
 だが近づいてくるかと思いきや、彼はそこで脚を止めた。
 再び腕を組んで、口を開きもしない。無言で見下ろされた綱吉は戸惑い、鞄を抱きしめて眉を顰めた。
「あの?」
「…………」
 何か用かと目で問うが、返答は期待できなかった。感情が読めない鉄面皮は不気味で、空恐ろしかった。
 いったい彼は何を考えているのだろう。訳が分からず、綱吉は恐る恐る後退した。
 左の爪先で床を蹴り、思い切って身体を反転させる。背後を警戒しつつ昇降口へ続く廊下を歩き出せば、真後ろで小さく、足音が響いた。
「っ!」
 大仰にビクついて慌てて振り返れば、棒立ち状態だった雲雀が一歩、足を踏み出したところだった。
 両手はポケットの中に移動していた。親指だけを袋の内側に入れて、残りは外に出して身体のラインに添わせている。学生服の裏地がちらりと覗いて、目の覚めるような緋色が眩しかった。
「……?」
 綱吉が首を竦めて萎縮している間、彼は全く動かなかった。
 何かに似ている。つい最近、居候の子供たちと一緒に公園で遊んだ記憶が脳裏を過ぎった。
 怪訝にしつつ体の向きを戻し、数歩、急ぎ気味に進んでみる。もれなく足音もついて来て、綱吉が立ち止まればピタリと止んだ。
 振り返れば雲雀が、一定の距離を保って立っていた。
「だるまさんが転んだ、だ」
 一連のやり取りを昔からある遊びに結び付けて、綱吉はこみあげる笑いを噛み潰した。
 あんなに不機嫌だったのに、いつの間にやら、ちょっと楽しくなってきた。
「見回り、行かなくていいんですか?」
 どこまでついてくるつもりだろう。試してみたくて階段を駆け下りて、昇降口に至ったところで綱吉は問うた。
 雲雀は答えず、初めて自分から距離を広げて下駄箱に向かった。
 上履きを履き替えるようだから、外へ行く気はあるのだろう。綱吉も彼に遅れまいと下足に爪先を押し込み、日差しが残る外へと飛び出した。
「ダメだなあ、俺」
 先に仕度を済ませた雲雀が正門で待っているのを見るだけで、心が弾み、顔が緩んだ。
 あんなに妥協はしないと決めていたのに、うっかり絆されてしまった。
 自分から折れに行けない彼の不器用さがくすぐったくて、とても暖かかった。
 鞄を肩に担ぎ、大股で正門を潜り抜ける。もれなく雲雀も動き出し、数歩後ろを歩き始めた。
 横に並んで一緒に進めないのは悔しいけれど、振り返れば彼がいる。それだけでも嬉しくて、綱吉は上機嫌に空を仰いだ。

2014/9/17 脱稿