裏柳

 酸っぱい汗の臭い、耳障りな衣擦れの音、騒ぐ声、喧しい足音。
 朝練後の部室には、人を不愉快にさせる要素が過剰なまでに詰め込まれていた。
 ただでさえ時間が押し迫っている中、精神的にピリピリしていた。身体を動かした後は大抵スッキリした気分になるのに、今日に限ってだけは、その前例が当てはまらなかった。
 それも全て、朝の仕上げとばかりに行われたサーブ練習で、得意のジャンプサーブが悉く失敗したのが原因だ。調子が悪かったわけではないのにどうにもタイミングが合わず、ネットに引っかかったり、遠くまで飛び過ぎて反対側の壁にぶつけたり。
 三年生はこういう日もあるから気にするな、と言ってくれたが、同級生の月島には好き放題言われてしまった。王様が情けない、など等、ここぞとばかりに嫌味を連発していた。
 なるべく耳を貸さないようにしていたが、我慢にも限界がある。堪忍袋の緒が切れたところで上級生に制止されてしまい、怒りの矛先を失って消化不良なのも、苛立ちを増幅させていた。
 神経が尖っているから、いつもなら気にならない臭いにも過敏になってしまう。チームメイトが呑気に喋っている声も、不愉快で堪らなかった。
「チッ」
 気が付けば、ごく自然と舌打ちしていた。汗を拭いたタオルを鞄に叩きつけて、影山は二度、三度と肩を上下させた。
 乱れた呼吸を素早く整え、深呼吸で憤りを吐き出そうとするが上手くいかない。胸に渦巻くもやもやした感情は消えず、逆に凝縮され、色を濃くしていた。
 早く吐き出してしまいたいのに、喉につっかえて、いつまでも居座り続けている。不快感ばかりが募り、彼は無意識に胸元を掻き毟った。
 他の部員らはそんな影山に見向きもせず、各々着替えを済ませて部屋を出て行った。
 人が減って、少しだけ風通しが良くなった。首筋を撫でた涼風に、彼はシャツを掴む指を解いた。
 力を失った利き腕を脇に垂らし、もう一度深呼吸する。肺の中で凝り固まっていたものを一緒に追い出して、影山はようやくトレーナーを脱いだ。
 いつの間にか、着替えを終えていないのは彼だけになっていた。
「おっさき~」
 元気のよい声を残し、西谷が靴を引っ掻けて部室を出ていった。少し遅れて東峰が後に続いて、パタン、と扉が閉まる音が響いた。
 あれだけ混みあっていた室内が急にがらんとして、物寂しさが膨らんだ。あれだけ苛立ちでいっぱいだった心も急に空っぽになって、振ればカランコロンと音がしそうだった。
「あ……」
 返事をし損なって、影山は惚けた顔で目を丸くした。
 上半身裸のまま立ち尽くして、数秒かけて手元へ視線を戻す。着ようと思って持ったままだった制服を見下ろして、奥歯を噛んだ彼は急ぎシャツを羽織った。
 袖を潜らせ、襟を合わせてボタンを上から嵌めていく。虚しさを打ち消すかのように手を動かし、気になって壁に掛けられた時計を一瞥する。
 直前、視界に何かが紛れ込んだ。
 オレンジ色の異物を低い位置に見出して、影山はギョッとなって凍り付いた。
「ん?」
 慌てて瞳を右に戻し、顎を引いて下を向く。乳白色のボタンを引っ掻いた末に握りしめて、彼は顔を上げた日向に目を瞬かせた。
 烏野高校男子排球部の小さなミドルブロッカーは、影山のすぐ隣で膝を折り、しゃがみ込んでいた。
 いったい何をしているのかと思えば、制服のズボンを捲り上げていたらしい。五センチ幅で折り返して、踝どころか、脹ら脛まで表に出していた。
 膝小僧は隠して、これではまるで七分丈だ。
「なに?」
「……いや」
 暑さ対策と、動きやすさを追求した結果だろう。コートの中でもちょこまかと動き回る彼を思い出して、影山は言葉を濁した。
 取り立てて話したいことはない。変なところにいたから驚いただけで、用があったわけではなかった。
 気まずげに呟いた彼に日向は首を捻り、立ち上がった。明るい茶髪を左右に揺らして、着替えを再開させるでもなく、棒立ちになっているチームメイトを怪訝に仰ぐ。
 横からじっと見つめられて、影山は居心地の悪さに臍を噛んだ。
 奥歯に力を込め、緊張した頬を引き攣らせる。そんな歪な表情を斜め上に見て、なにを感じたのだろう、日向は不意に半眼した。
「影山君は、ご機嫌斜めですか?」
「あ?」
 突然の質問に、対応がなおざりになった。
 口を開けば、低い声しか出なかった。表情も強張ったままで、傍目には不機嫌と映るのも仕方が無い事だった。
 そうではないのに、否定できない。咄嗟に言葉が出なくて喘いでいたら、勝手に納得した日向がふっ、と鼻から息を吐いた。
「お前さあ、菅原さんも言ってたけど、そういう日もあるんだから、切り替えろって」
 何をやっても上手くいかない日は、確かに存在する。それで気持ちがささくれ立って、行動が雑になり、余計に失敗して苛々が膨らんでいく。
 日向にも覚えがあるのか、宥める言葉には説得力があった。両手を腰に当てて胸を張ったチームメイトに、影山はバツが悪そうに奥歯を噛み締めた。
 その話はもう過ぎたことで、言われなくても切り替えたつもりでいた。だというのに穿り返されて、折角忘れかけていた感情にまた火が点いた。
 灰の下で燻っていた残り火が、風に煽られて威勢を取り戻した。
 放っておけばいずれ鎮火したのに、余計な真似をされて鬱陶しい。爆弾の導火線はいつになく短くて、ちょっとした衝撃で簡単に破裂してしまいそうだった。
 押し殺していた怒りを滲ませて、影山は上唇に牙を立てた。
 対する日向は相変わらずで、偉そうに人を説き伏せようとしていた。
「てかさー、良かったじゃん。調子悪いのが、試合当日じゃなくてさ。そう思っとけよ」
 明るくハキハキした声で言い、目を細めて朗らかに微笑む。最後にぽんぽん、と左肩を叩かれて、影山は耳障りな高音に神経を高ぶらせた。
 頭の血管が切れそうだった。
 自分でも何故こんなにイラついているのか分からない。気付かないうちに蓄積されてきたものが不用意に浮上して、奥底に閉じ込めていた爆弾を水面間際まで押し上げていた。
「……っせえよ」
「うぬ?」
 多分、いや、まず間違いなく、日向に非はない。
 ただ単に、タイミングが悪かっただけだ。心が病んでいたところに余計な燃料を注がれて、制御が利かなくなってしまっただけだ。
 日向はなにも悪くない。
 けれどそれを、影山は受け入れることが出来なかった。
「うっせえよ、ボケェ!」
 気が付けば、大声で怒鳴っていた。
 呆気に取られた日向が息を呑み、ただでさえ大きな目を丸くした。圧倒されたのかその状態で凍り付いて、瞬きすらしなかった。
 そんな惚けた彼を睨みつけて、影山は全身を荒々しく震わせた。
 足元から脳天目掛けて、猛り狂う感情が駆け抜けた。怒りに全身が支配されて、止める事が出来なかった。
「俺のことなんかほっとけよ。テメーにだけは言われたくねえ」
 失敗してもへらへら笑っている奴が嫌いだった。
 ミスをしたのに悪びれず、反省しない奴が許せなかった。
 いつまで経っても上達せず、必死にやっているアピールだけが上手い馬鹿にムカついた。
 足を引っ張られたくなかった。
 その下手糞さが伝染りそうで、視界に入れるのさえ嫌だった。
 だから。
「俺が居なきゃなンも出来ねー奴に、エラそーに言われる筋合いなんかねーよ!」
 止まらなかった。
 止められなかった。
 吠えた瞬間、日向の瞳孔が広がったのが分かった。
 真ん丸い目を零れ落ちそうなくらいに見開いて、色をなくした唇をわなわなと震わせて。
 肩で息をする影山がはっとした頃には、彼の表情からは一切の感情が消え失せていた。
 能面だった。
 ぞっとするほどの静けさに、心臓は一瞬で竦み上がった。
「ひな……っ」
 失言が過ぎたと我に返り、慌てて弁解を口走ろうとするが出来なかった。あらゆる干渉を拒絶する眼を向けられて、影山は真っ青になった。
 身の毛がよだつとは、こういう時に使うのだろう。命の危機に限りなく近い恐怖を覚え、彼は唇を戦慄かせた。
 なにも言えないまま、口をパクパクさせる。餌を食べようとする金魚か鯉になった気分でいたら、日向がふいっ、と顔を背けた。
 もれなく視線が外れた。思わずホッとしてしまって、影山は直後に総毛立った。
「ぉ、あっ」
「分かった」
 咄嗟に声を発しようとするが、今回も失敗に終わった。喉に引っかかった息は意味を伴った音にならず、そんなところに手間取っている間に、日向はぽつりと呟いた。
 下を向いて、腕を伸ばして。鞄を肩に担いだ彼は、一度として影山を見ようとしなかった。
「ごめん」
 淡々と紡がれた謝罪の言葉が何に対してのものなのか、最後まで分からなかった。
 惚けているうちに日向は足を進め、靴を履いてドアに手をかけた。後ろ姿は平然としているようで、そうでないようにも見えた。
 実際、彼は途中で一度躓いた。何もない場所――強いて言うなら古い畳の縁に爪先を引っ掻けて、軽くバランスを崩してふらついた。
 ただ倒れることはなかったし、すぐに体勢を立て直してしまったので、影山の出る幕はなかった。
 呆気に取られたまま見送るしかなかった。扉を開けて出て行く際も、日向は何も言わなかった。
 追いかけるべきだったのかもしれない。
 呼び止めるべきだったかもしれない。
 けれど、いったい何を言えば良かったのか。
 思考は停止して、答えは出なかった。
「……っと、待てよ」
 乾ききった眼球を瞼で隠し、影山は額を利き手で覆った。ふらついて肩から棚にぶつかって行き、身体全体を揺らして愕然と立ち尽くす。
 勢い任せに叫んだ台詞が、今頃現実味を伴って襲い掛かって来た。
 日向が下手なのは、本人も認めていた。けれどそれは、彼の努力が足りない所為ではない。
 むしろ頑張っている方だ。頑張り過ぎて無茶をして、逆に心配になるくらいだった。
 彼に足りていないのは経験、そして時間だ。
 身長も勿論足りていないのだが、それを補って余りある脚力を有しているから、これは差し引きゼロでいい。いや、身体が大きくなればその分動きが愚鈍になるので、今の瞬発力を維持したければ、背丈は伸びない方が良かった。
 彼の必死さは痛いくらいに伝わっていた。身体的な不利を承知でバレーボールを諦めず、懸命に食らいついている姿勢には感動すら覚えた。
 だというのに、酷いことを言った。
 言ってはいけないことを、口にしてしまった。
「なんで、俺、日向に、ンなこと」
 思い返すだけで身体の芯がわなわなと震えた。真ん中でぽっきり折れて、木っ端微塵に砕けてしまいそうだった。
 自分で自分が分からない。あんなことを言うつもりなどなかった。まるで誰かに身体を乗っ取られたかのようだった。
 けれど罵倒を口走ったのは、紛れもなく影山本人だ。それはつまり、あの時は、あれが影山にとっての本音だったということだ。
 理性や知性を掻い潜って飛び出した、純粋な意見。しかし今の影山は、その本心を否定している。
 怒りに身を任せて吐き出した言葉が、日向を深く傷つけた。自らの愚かさを顧みて、彼は嗚咽を噛み潰した。
「くそっ」
 自分自身に悪態をつき、遠くから聞こえてきたチャイムに顔を上げる。二度舌打ちして混乱する頭を叩き、影山はシャツの裾を出したまま鞄を担ぎ上げた。
 そして踵を返し、誰も居ない部室を出ようとしたところで。
「いって」
 落ちていた何かを踏んで、彼は思い切り顰め面を作った。
 子供が見たら泣き出しそうな表情で顎を軋ませ、爪先だけ汚れた靴下を睨みつける。足を後方にずらして畳に下ろして、出てきた物に眉を顰める。
 落ちていたのは鍵だった。それも家や部室などの鍵ではない。
「チャリの、鍵……か?」
 形状から判断し、彼は腰を曲げて腕を伸ばした。取り付けられたキーホルダーを摘めば、一緒にぶら下がっていた小さな鈴がチリン、と鳴った。
 気付かずに全体重を乗せてしまったが、拉げてはいなかった。金属製のそれは本来の形状を保っており、キーホルダーにも異常は見当たらなかった。
 ホッとして、影山は顔の高さまで掲げた鈴に肩を落とした。
「アイツのだよな」
 部室に落ちていたのだから、これはバレーボール部員の誰かの所有物だ。そして十数人のチームメイトで、自転車通学をしているのはひとりしかいない。
 地元駅に着いてからは自転車、という人がもしかしたら居るかもしれないが、着替えをしていた場所からも、他に該当する人物は思いつかなかった。
 姿を脳裏に描き出せば、読み取ったかのように鈴が鳴った。まるで返事をするみたいにちりりん、と軽やかな音を響かせて、惚けていた影山はハッとなった。
 予鈴のチャイムは既に鳴り終えていた。授業が始まるまで、あと五分と残っていない。
「やべえ」
 考えている暇などなかった。影山は日向の落し物である鍵を握りしめると、鞄を抱え直して急ぎ部室を出た。
 乱暴にドアを閉め、外階段を駆け下りて昇降口へ向かう。校門を潜り抜ける生徒は少なく、そのほぼ全員が駆け足だった。
 影山もその列に混じって道を急ぎ、校舎へと飛び込んだ。教室のある四階に到着する間際に始業開始のベルが鳴って、ギリギリセーフで滑り込んだ後も、暫くの間、心臓が五月蠅かった。
 荒い息を吐いて唾を呑み、机についてからずっと握ったままだったものを思い出す。卓上に転がしたそれは、汗を吸って湿っていた。
「どうすっかな……」
 放課後にも、部活動はある。あのまま部屋に捨て置いたとしても、別段問題はなかったはずだ。
 しかし時間が差し迫っていたのもあって、そこまで頭が回らなかった。
 うっかりしていたと自分を責めて、椅子に深く凭れ掛かる。一時間目が始まってからも思考は日向との事にばかり傾いて、教師の声などまるで耳に入ってこなかった。
 酷いことを言ってしまった。いったいどんな顔をして、彼に会いに行けばいいのか分からない。
 当然、謝るべきだろう。あれは本意ではなかった。お前の頑張りは認めていると、きちんと頭を下げて許しを請うべきなのは承知していた。
 ただ、上手く言える自信がなかった。顔を合わせた途端に嫌味を言われようものなら、頭に血が昇ってすべてを台無しにしてしまいかねない。
 短気な性格をしている自覚はある。売り言葉に買い言葉で踊らされて、周囲に迷惑をかけているのも理解していた。
 常に冷静であるよう自分を戒めてはいるけれど、思い通りになった例はない。思い悩んで、思い詰めて、どうにもならなくなって最後に爆発する癖は、そろそろ終わりにしたいのに。
 黒髪をガシガシ掻き回し、己の不甲斐なさに歯軋りする。そうしているうちにチャイムが鳴って、静かだった教室がにわかに騒がしくなった。
 結局ノートに点のひとつも打たないまま、一時間目が終わってしまった。
 全く使わなかった教科書を引き出しに押し込め、その流れで椅子に座ったまま後ろに仰け反る。背凭れが背中に食い込み、視界にはあまり綺麗でない天井が広がった。
 こうしている間も、頭の中には落ち込む日向の後ろ姿が浮かんでは消え、消えては浮かんで、部室でのやり取りが延々と繰り返された。
 目を閉じても消えてくれない。煩悶とするばかりで、朝方とは違う苛立ちが彼を責め立てた。
「あー、クソっ」
 結局どうしたいのかは分からないままだが、こうしていても気が収まらないのは事実だ。ぐだぐだ考えていても始まらなくて、彼は辛抱堪らず椅子を蹴り倒した。
 突然立ち上がった彼に驚き、隣の席の女子がビクッとなった。しかし影山は構うことなく鍵を掴むと、ポケットに押し込んで歩き出した。
 大体、一ヶ所に留まってうじうじするのが性に合わないのだ。
 最早出たとこ勝負で構わない。結果がどうであれ、今のまま悶々とし続けるよりは、何かしら行動を起こした方が百倍マシに思えた。
 行き当たりばったりの思考回路で教室を出て、影山は荒々しい足取りで一組へと向かった。
 この鍵を彼に渡して、落ちていたと軽く茶々を入れ、そのついでに朝の発言を謝罪する。この流れで問題はないはずだと頭の中で繰り返し、彼は開けっ放しの後方扉から広い教室を覗き込んだ。
 一組は三組同様賑やかで、多くの生徒でごった返していた。
 移動教室でなかったのは幸いだ。行き違いになっていたら、折角の決意が無駄になるところだった。
 その点にまずホッとして、彼は次に目立つ頭を探して視線を泳がせた。
 バレーボール部の中では群を抜いて小さい日向だけれど、他の生徒に紛れると、さほど背の低さは感じない。実際、彼を見つけるのに数秒の時間が必要だった。
 第二体育館でなら瞬時に見付けられるのに、何故だか少し悔しい。彼に対する申し訳なさで目が曇っているのかと考えて、影山は額を押さえて首を横に振った。
 チームメイトを罵倒して気まずくなるなど、中学時代には良くあったことだ。
 あの時は自分が絶対に正しいと疑わず、相手が悪いのだと信じきっていた。当然のように贖罪の気持ちなど湧かず、無視をされても平気で居られた。
 けれど、日向はどうだろう。
 既に一時間、彼のことで頭がいっぱいだった。謝って、万が一許されなかったらと考えると悪寒がして、全身から血の気が引いていくのが分かった。
 ようやく得た、本当のチームメイトだからか。
 自分のトスに全力で応えようとしてくれる、唯一無二の存在だからか。
「……なわけ、ないだろ」
 彼を特別扱いしている。他の誰とも置き換えられない、この世でただひとりの人だと認識している。
 これまで考えてもみなかった展開に足を一歩踏み出しかけて、影山はくらっと来た頭を抱え込んだ。
 咄嗟に否定の文言を口走るものの、語気は弱く、説得力は皆無だった。
 青褪めたまま視線を前方に投げれば、日向は彼に気付くことなく、クラスメイトと雑談に興じていた。
 眼鏡の男子と、身振りを交えて、楽しそうに笑っていた。相手も日向に心を許しているのが窺えて、表情は朗らかだった。
 通りすがりの生徒が突然会話に紛れ込んで、横槍を入れられた日向が高い声で不満を訴えた。しかし声のトーンは穏やかで、本気で怒っているのではないと楽に想像出来た。
 影山と喋っている時とは、まるで別人のようだった。
「…………」
 片側に寄せられた引き戸に身を隠し、影山は呆然と光景に見入った。
 呼び出そうとしていた声を喉の奥に押し込め、浅く唇を噛んで顎を引き攣らせる。襲い掛かってきた絶望感に打ちのめされて、足は竦んで動かなかった。
 邪魔出来るわけがなかった。
 圧倒的な壁を感じた。とても近いと思っていたのに、いざ行こうとしたら彼との間には断崖絶壁が広がっていた。
 地の底よりも深い亀裂が延々と横に伸びて、落ちれば一瞬であの世行きだった。
 飛び越えられない距離ではないけれど、失敗した時を思うと動けない。挑戦権は一度きりで、まさに命がけだった。
 脂汗が滲んだ。掌がびっしょり濡れて、白いシャツに汗染みが広がっていくのが感じられた。
 入口で棒立ちになっている影山に、不審の目が向けられた。通行を邪魔された女子が眉を顰めて通り過ぎて行って、彼は力なく肩を落とした。
「別に、今じゃなくてもいいだろ」
 機会はまた巡ってくる。放課後の練習が終わる前に渡せれば、なにも問題ないはずだ。
 意気地なしの、根性なしだと罵り、安全牌を拾おうとする自分に吐き気を覚えた。けれど今、ここから踏み出す勇気がどうしても出なくて、影山は泣きそうになりながら右足を退いた。
 情けない言い訳ですり減ったプライドを慰め、身体を反転させる。休み時間も残り僅かとなり、二時間目の開始が迫っていた。
「なにやってんだ、俺は」
 日向に謝りたくて意気込んできたのに、なにもせずにすごすご引き下がって。
 一方的に彼を傷つけておきながら、笑っている姿を見て勝手に傷ついている。
「馬鹿じゃねーの」
 もやもやした気持ちは消えるどころか膨らんで、今にも溢れ出て来そうだった。
 自分で自分を罵倒して、彼は濡れてもない口元を拭った。ひりひり来る痛みで感情を誤魔化して、急ぎ足で廊下を突き進もうとして。
「影山!」
「っ!」
 不意に放たれた鋭い声に、大袈裟なまでに反応してしまった。
 心臓が止まりかけた。呼吸は本当に止まった。ついでに全身も凍り付いて、指の一本も動かせなかった。
 出しかけた足を戻し、行儀よく背筋を伸ばす。タタタ、と軽い足音が聞こえて、すぐに止まって、乱れ気味の荒い息が耳朶を掠めた。
 内臓が一ヶ所に集まり、萎縮して震えていた。目の奥がぐるぐる回って、歪んだ視界に脳が痛みを訴えた。
 緊張のし過ぎで本当に吐きそうだった。喉を逆流する胃酸の不快さを慌てて閉じ込めて、彼はギギギ、と不器用に首を振り向かせた。
 日向が居た。
 息を切らして頬を上気させて、日向翔陽が影山を見上げていた。
「な……、で」
「んだよ。おれになんか、用があったんじゃねーの?」
 驚きで声が出なかった。何故だと絶句していたら、日向が口火を切って喋り始めた。
 誰かが教えたのか。それとも日向自ら気付いたのかは不明だが、彼は影山が去ろうとしていると知り、追いかけて来た。
 クラスメイトとの会話を放り出してまで、影山を優先させた。
 その事実に背筋が戦慄いた。ぞぞぞ、と悪寒とも言い難いものが足元から駆け上がって、凍えて震えていた心臓に熱を点した。
 ドンッ、と背中から叩かれる錯覚に足をふらつかせ、忘れかけていた呼吸を再開させる。身体中の汗腺が一斉に開いて、温い汗がどっと溢れた。
 腋に汗染みが広がって、肌にべったり張り付いた。掌の湿り気はスラックスに吸わせるが、とても追いつかなかった。
「ひな、た」
「ん? あ、あー……」
 辛うじて掠れた声で名前を呼べば、即座に反応した日向が半眼した。
 丸い瞳が泳ぎ、宙を舞った。彷徨う視線が壁を這って、彼が今朝のことを思い出したのが、影山にも理解出来た。
 今の今まで、忘れていたのだろう。彼の心には、影山が危惧したほど大きなダメージは残らなかったようだ。
 とはいえ、罵倒した事実は消えていない。許されたわけではないと戒めて、影山は臆した心を奮い立たせた。
 早く言わなければ。
 ごめん、とただひと言を口にするだけで、この問題は解決するのだから。
 だというのに。
「あ、……ぇと、その」
 いざ口を開いた途端、決意は尻窄みに小さくなり、弾け飛んでしまった。
 たった三文字を声に出せば終わりなのに、どうしても言い出せない。余計な言葉ばかりが音を成し、肝心の部分が出て来なかった。
 歯切れの悪い影山を見上げて、日向は何を思ったのか。
 ぐるりと一周した瞳を正面に戻し、彼は首を竦めてしどけなく笑った。
「ごめんな」
「――え」
「おれ、もっと頑張るから」
 胸の前で左右の指を合わせ、弄りながら囁かれた。視線は交差せず、伏しがちの表情からは感情が読み出せなかった。
 絶句する影山を見ようとせず、早口に捲し立てる。指の動きは激しく、互いを小突いたり、引っ掻いたりと忙しかった。
 一秒として同じ形状を維持しない指先と、虚空を漂う眼差しと。
 それが彼なりの気遣いであり、傷の深さだった。
 正面切って向き合えない。一歩退いたところからでしか語り合えない。
 これ以上傷つくのを恐れて足踏みして、安全な場所から動こうとしない。
 けれどそれは影山も同じだ。そして猪突猛進な日向をこんな風にしたのは、他ならぬ影山だった。
 昨日まであった無遠慮さや、図々しさが薄れ、よそよそしさが前面に押し出されていた。およそらしくない態度にぞわっと来て、影山は呆然と立ち尽くした。
 こんな日向は見たくない。
 彼は彼らしく、ウザいくらいに元気で、うるさくあって欲しかった。
 電流が駆け抜けた。ビクッと指を痙攣させて、影山は底抜けに愚かだった過去の自分を殴り付けた。
「んじゃ、おれ、教室戻るし」
 尖った気配を感じたか、日向が挙動不審に身をよじった。タイミング良く二時間目のチャイムが鳴って、視線を浮かせた彼は慌てた様子で言い訳を口にした。
 影山が訪ねてきた用件を聞きもせず、一方的に話を切り上げて利き手を振る。そうして身体を反転させて立ち去ろうとした直後。
 背中を向けられて、影山は騒然となった。
「待て!」
 発作的に、手を伸ばしていた。
 叫び、細い手首を捕まえる。折れそうなくらいに思い切り握りしめて、影山は驚いて振り返った彼に顔を歪めた。
 砕ける寸前まで顎を噛み締めて、鼻から吸った息を肺に溜め込む。目を丸くした日向が腕を振り払おうとして、それさえ封じ込めて彼は吠えた。
「悪かった!」
 あんなにも躊躇していたのが嘘のように、言葉はさらりと零れ落ちた。
 教室に戻ろうと急ぐ生徒が数人、彼の声に反応して振り向いた。日向自身も唖然として口をぽかんと開き、まっすぐ射抜いてくる影山の眼を久しぶりに見返した。
 黒い瞳に自分の姿が映っていた。瞬きに合わせて消えたり、現れたりするそれに魅入られて呆然として、三秒後、我に返った影山は激しく動転して顔を赤くした。
 ぶわっと、頭のてっぺんから湯気が出た。耳の先まで急激に赤くなって、まるで角のない赤鬼だった。
 目まぐるしい変化に惚けた顔をして、日向は一度外されかけて、また強く握られた手首に視線を落とした。
 影山の掌は汗ばんで湿り、その上異様に熱かった。
「かげやま?」
 大声の謝罪が何に掛かるのか、予想はつくものの、確証が持てない。不思議そうに見つめられて、影山は目を泳がせて奥歯を噛み締めた。
 臼歯を擦り合わせて表面を削り、やがて諦めがついたのか、深くため息をつく。
 そして日向に向き直り、
「今朝は、言い過ぎた」
 ずっと言いたくて言えなかった台詞を舌に転がした。
 思っていた以上に音はすんなり零れ落ち、サラサラと流れていった。
 思い悩んでぐずぐずしていたのが馬鹿らしくなるくらい、あっさりだった。こんなにも簡単だったのかと妙な感動を覚えて、影山は緩めた指先で日向の手首をなぞった。
 肌を擽られ、握り直されて、彼は惚けたまま顔を上げた。
 目が合った。
 そうやって黙ったまま三秒が過ぎて。
「うひゃ」
 彼は照れ臭そうに、笑った。
 軟体動物でも、こんな間抜けな顔になりはしまい。それくらい力の籠っていない笑顔を見せられて、影山は呆然と息を呑んだ。
 吸い込んだ息が肺ではなく、別の場所に着地した。それまで水面下で燻っていた感情が途端にボッと燃え広がって、炎は瞬く間に全身へと行き渡った。
「!」
 四肢が痙攣し、全身が竦み上がった。心臓が戦慄き、元から赤かった顔が益々赤くなった。
 ビクッとなった彼に小首を傾げ、日向が表情を引き締めた。口角を持ち上げて笑みは維持して、目を細めて恥ずかしそうに腰をくねらせる。
 一旦俯いて、すぐに顔を上げて。
「おれ、も。ごめん。な?」
 面映ゆげに告げられた言葉に、影山は発作的に彼の腕を振り払った。
 押し退けたのではない。利き手を自由にして、その上で左腕も使って、日向を抱きしめようとしたのだ。
 一歩前に出て距離を詰め、迫り、きょとんとしている彼を胸に閉じ込めようと腕を広げる。後のことなど考えていなかった。どうしてそんな衝動に駆られたのか、原因についても頭になかった。
 本能がそう命じたから、としか言い表しようがなかった。理屈でどうこう説明出来る類ではなく、文字通りそうしたかったから、でしかなかった。
「――え?」
 よもや日向も、影山に学校の廊下で、正面から抱きしめられるとは夢にも思っていなかっただろう。彼が何をしようとしているのか分からず、困惑気味に目を泳がせた。
 そんな無防備な姿すら可愛くて、誰にも見せたくなかった。制御が利かない自分に混乱して、影山はあと少しで触れられるところまで彼に近付いた。
 ところが、だ。
「こぉらあ! お前ら、さっさと教室入らんか!」
「げえっ」
 寸前でだみ声で怒鳴られて、ふたりは揃って顔を引き攣らせた。日向などは露骨に嫌そうに悲鳴を上げて、ぴょん、と跳ねて影山から距離を取った。
 空振りした腕が空を掻き、行き場を失った指がヒクヒクと震えていた。温かな熱の代わりに虚しさを抱きしめて、影山は蟹股でやってくるジャージ姿の男に盛大に溜息をついた。
 あれは、格好だけなら体育の授業を率いていそうだが、ただの数学教師だ。
 女生徒ばかり贔屓して、男子生徒には不必要に厳しいとして知られる教師でもある。鏡を見たことがあるのか、と言いたくなる外見をしている癖に、自分は女子から人気があると信じて疑わない、性格に難がある人物でもあった。
 正直な話、日向も影山も、彼が苦手であり、嫌いだった。
「やっべ。んじゃまたな、影山」
 チャイムはとっくに鳴り終わっていた。既に二時間目の授業は始まっており、職員室から階段を登ってきた教師たちが廊下を跋扈していた。
 彼らに掴まったら、面倒臭い。一気に顔色を悪くして、日向は甲高い声で捲し立てた。
 今度こそ、と手を振って、彼は駆け出した。身軽な動きで床を蹴り、あっという間に扉に吸い込まれてしまった。
 取り残されて、一秒してから影山も我に返った。ハッと背筋を伸ばし、無精髭で睨んでくる数学教師から逃げて急ぎ三組を目指す。
「あ、やべ。忘れてた」
 そうしてレールを跨いで教室に入った直後、肝心のことを思い出し、彼はズボンのポケットを叩いた。
 馴染みの薄い凹凸をなぞり、深く息を吸い、吐き出す。
「ま、いいか。次、返しにいけば」
 今日という日はまだ長い。時間は、探せばいくらでも見つけ出せる。
 日向に会いに行く理由がひとつ出来ただけでも嬉しくて、同時にとてもホッとした。肩の力を抜いて呟いて、影山は自分の机へと急いだ。

2014/10/07 脱稿