伯林青

 何事にも熱心なのは良い事だけれど、度が過ぎるのはあまり宜しくない。
 ドタバタ騒ぐチームメイトをちらりと盗み見て、月島は深々とため息をついた。
「急がないと遅刻するよ」
「わーってるよ!」
 一番上まできちんとシャツのボタンを嵌め、身なりを整え終えたところでぼそりと呟く。嫌味な台詞はしっかり聞こえていたようで、大慌てでズボンを脱いでいた日向は声を張り上げた。
 その瞬間、彼はつるっと滑って盛大に尻餅をついた。
「うわあ、痛そう」
 部屋全体が揺れたかのような轟音に、山口が首を竦めて目を瞑った。部室の反対側に居た上級生も何事かと振り返り、服が足に絡まっている後輩を見つけ、一斉に噴き出した。
 どうやら膝までずらしたズボンを脱ごうとして、足を持ち上げるタイミングを誤ったらしい。思い切り布を引っ張たところ、足首に引っかかっていて転んだ、そういう事だ。
 なんという間抜けさだろう。呆れるに呆れられなくて、月島は憐みの目で彼を見下ろした。
 それが気に障ったか、床に蹲る少年が頬を膨らませた。
「なんだよ!」
「別に」
 拗ね顔で睨まれても、生憎と怖くない。二十センチ以上背が低い相手を鼻で笑い飛ばして、月島は鞄を手に踵を返した。
 既に準備を終えていた山口も彼に従い、出入り口を目指して歩き始めた。
「じゃあ、お先に失礼します」
「お先でーす」
 靴を履き、ドアに手を掛ける直前に頭を下げる。一礼した彼らに微笑み、三年生が頷いた。
「また放課後な」
「はい」
 手短に挨拶を済ませ、月島がドアを開けた。隙間からは風が吹き込み、汗を含んで酸っぱい空気を押し流した。
 男臭さも緩んで、呼吸が楽になった気がする。ホッとしながら深呼吸して、菅原はもたついている一年生に肩を竦めた。
「お前らも急げよー」
 黒いスラックスにベルトを通しながら言えば、床の上にいた日向が不貞腐れた顔で口を尖らせた。
「はぁい」
 ようやくズボンを脱ぎ終えて、トランクスと半袖シャツ姿で座り込んでいる。どうしたのかと思えば、一緒に脱げた靴下を履き直しているところだった。
 その手際は、お世辞にも良いとは言えなかった。
 毎日繰り返している事なのにもたもたして、なかなか先に進まない。本人なりに急いでいるつもりらしいが、焦る所為で失敗も多く、結果的に時間がかかっていた。
 そうこうしている間に、田中達も着替えを終えた。大きな荷物を手に部室を出て行く彼らを見送り、菅原は深い溜息をついた。
 ちらりと盗み見た時計は、始業時間五分前に迫ろうとしていた。
 もうじき予鈴が鳴る。部室棟から教室まではそれなりに距離があるので、今からだと走らなければ間に合わなかった。
「日向、影山も。遅れんなよ」
「うス」
「分かってまーす」
 部長である澤村は日直の為、誰よりも早く着替えを済ませて部室を飛び出していた。東峰や西谷もとっくに教室へ向かっており、今や部屋の中に居るのは、菅原を除くと日向、影山のふたりだけだった。
 何度も開閉されたドアを一瞥して、もう一度時計を盗み見る。針は前にだけ進み、巻き戻すのは不可能だった。
 彼らの脚力なら、この残り時間でも間に合うかもしれない。だが菅原には無理だ。
 遠く、予鈴が鳴る音が聞こえてきた。スピーカーから流れるメロディは長閑だが、学生を否応なしに急きたてた。
 これ以上は待てないと腹を括って、彼は鞄に手を伸ばした。
「んじゃ、俺ももう行くから。鍵閉め、忘れないようにな」
 照明のスイッチ横に取り付けられたフック、そこに引っ掛けられた鍵を示しながら言う。促された両名もそちらに目を向けて、当然だとばかりに首肯した。
 あまり大したものは置いていない部室だが、値段が安かろうとも大切な備品だ。なくなったら困るものも多く、盗まれるわけにはいかなかった。
 だから窓も施錠して、部外者が立ち入れないように警戒を怠らない。
 鍵の管理は基本持ち回り制だが、早朝の練習が終わった後に限り、部室を最後に出た人間の仕事だった。
 この場合は、日向か、影山のどちらかだ。
 しっかりしているようで、うっかりしている彼らだ。忘れないよう釘を刺して、菅原は重い鞄を担ぎ上げた。
 英語と漢文の辞書が入っているので、いつも以上にずっしり来た。
「なんで同じ曜日なのかなあ」
 思わず愚痴が出た。ひとりごちて肩を竦め、菅原は鈍い足取りで通路へと出た。
 パタンと音立ててドアが閉められ、急に部屋の中が静かになった。耳を澄ませば登校中の学生の声が聞こえて来て、屋内と外のギャップは凄まじかった。
「急げよ」
 そんなことを気にしていたら、影山にまで急かされた。
「わーってるってば」
「分かってねーだろ」
「うるしゃい」
 生意気に命令されたのが癪で、牙を剥いて吼えるが効果はない。逆に淡々と言い重ねられて、日向はぷいっ、とそっぽを向いた。
 捨て台詞を残して姿勢を正し、脱いだ服をスチール製のラックに放り込む。入れ替わりに引き抜いたズボンを広げて、彼は右足を高く掲げた。
 ついさっき脱ぐのに失敗した記憶が残っているのか、行動は慎重だった。いつにも増して注意深く筒に爪先を入れて、両足をきちんと着地させてから一気に上へと引っ張り上げる。
 ズボッ、という音が聞こえ、影山は呆れて嘆息した。
「ンな事してっから、おせーだんろ」
「別に良いだろ。おれの勝手だ」
 逐一茶々を入れ、突っかかってくる彼が鬱陶しくてならない。真横で述べられる感想に腹を立て、日向は小鼻を膨らませた。
 こうやって影山に構っているから、貴重な時間はどんどん目減りしていった。無視して自分自身を貫けばいいと分かっているのに、反応せずにはいられなかった。
 損な性格に生まれたものだ。お調子者な自分の一面を激しく悔やみ、日向は奥歯を噛み締めた。
 唇は真一文字に引き結び、空気を咥内に溜め込んで頬を膨らませる。その状態のまま汗臭いシャツを頭から引き抜いて、彼は裏返った練習着をくしゃくしゃに丸めた。
 皺になろうが、構いやしない。続けて小さくなったとは言い難いそれも棚に押し込もうとして、放り投げようとした瞬間。
「うあっ」
 身構えた日向の手から、形を失ったTシャツが零れ落ちた。
「ボケ」
「うっせ」
 きちんと握らず、手のひらに載せていただけなのが敗因だ。瞬時に影山がツッコミを入れて来て、日向は歯軋りしながら腰を折った。
 屈んで床に伸びていたシャツを攫い、そのまま棚へと放り込む。埃が舞って、彼は苛立たしげに手を横に振った。
 落ち着いてやれば何も問題は起きないのに、なにかしらトラブルに見舞われて、心が落ち着かない。ささくれ立つ感情を必死に押し留める横顔に、影山は馬鹿らしいと肩を竦めた。
 彼の着替えは順調に進んでおり、後は開襟シャツの裾をズボンにねじ込むだけだった。
 菅原が気にしていた時計を仰ぎ見て、残り時間の少なさに眉間の皺を深くする。だが全力で走り、且つ障害物にぶつからなければ、恐らくは間に合うはずだ。
 前にも似たような事があって、その時はセーフだった。だから今日も大丈夫だと高を括って、彼は目立つ皺を叩いて伸ばした。
 こんなにも遅くなってしまったのには、理由がある。
 単純な話、朝練が長引いた所為だ。
 大会は目前に迫り、練習は日々熱を帯びていた。少しでも上達したくて寝る間も惜しみ、時間が許す限り、体育館に引き籠った。
 そして気が付けば、練習終了予定時刻を大幅にオーバーしていた。
 暴走しがちな部員のストッパー役を兼ねている澤村が、皆より早めに切り上げてしまったのが原因だ。副部長の菅原が気付いてくれて事なきを得たが、あのまま続けていたら、大変なことになっていた。
 バレーボール部が全員遅刻、というのは流石に笑えない。ただでさえ男子排球部は問題児揃いで、教頭からネチネチ言われている。
 これ以上評価を下げる真似は許されなかった。
 そんなわけで急ぎ第二体育館を引き上げ、部室へ駆け込み、制服に着替えた。日頃から物が散乱している室内はいつにも増してぐちゃぐちゃで、棚の中は何がなんだか分からない状態だった。
 後で困ると思いつつも、片付けている時間が惜しい。それは昼休みか放課後にやるとして、日向は折り畳まれたシャツを広げた。
 半袖開襟シャツは綺麗に洗濯され、折り目正しくアイロンが当てられていた。
 母の愛情をしっかり受け止めて、彼は汗も拭かずに袖を通した。肩の位置を整えて羽織り、鏡も見ずにボタンを留めていく。
 だが。
「……んぬ?」
 途中で何かが可笑しい気がして、彼は不思議そうに首を傾げた。
 次に嵌めようと思っていたボタンが空振りしたのだ。
 前身頃を掴もうにも布がなくて、指がスカッ、スカッ、と空を掻いた。本来あるべきものがそこに見当たらないのに怪訝にしていたら、窓を閉めた影山が、心底呆れた顔でため息を吐いた。
「お前さあ」
 情けない、と呟きながら額を覆った彼に、日向の目つきが鋭く尖った。
 だが睨んだところで意味はない。それより先にこの異常事態を解消すべく、彼はすぐさま作業に戻った。
 改めて学校指定の夏服を見れば、前身頃の片方だけが異様に長くなっていた。
 いや、違う。
「うぎゃっ」
 直後に気付き、日向は悲鳴を上げて赤くなった。
 一瞬、制服が変な風に歪んだのかと思った。母がアイロンを当てる際に間違って一部を焦がしてしまい、その分短くなったのかと考えたが、そんなわけがなかった。
 大好きな母親に、無実の罪を着せるところだった。心の中で懺悔して、彼は見事にボタンの位置がずれたシャツを引っ張った。
「ウソだろ~~」
 ただでさえ時間が足りないというのに、こんなところで手間取るなど、有り得ない。信じられないと天を仰いで、日向は悔しそうに鼻を愚図らせた。
 影山が呆れるのも無理はない。もし田中や西谷に知られたら大爆笑されるだろうし、月島だったら一生馬鹿にして来そうだ。
 まだ影山で良かったのかもしれない。そう自分を慰めて、日向は一段ずつズレていたボタンを外していった。
「くそぉぉぉ」
 途中から嵌める穴を間違えていたなら、まだいくらか救いがあった。しかし残念なことに、スタート時点から既に間違っていた。
 焦るあまり、手元を良く見ずに着てしまったのが敗因だ。一度でも確認しておけば、こんな失敗、しなかったのに。
 誰に怒る事も出来ず、迂闊な自分に腹を立てる。文句を言っても始まらなくて、彼は大人しく制服を着直した。
 見た目だけ整っていれば、もう後はどうでもいい。シャツの裾は出しっ放しにして、日向は練習着に埋もれていた鞄を引き抜いた。
 中身が少ないのか、布製のバッグは薄かった。
「まま、待って。待って」
 しかし構っている時間はない。今は始業前に教室に居るのが先決と、彼は転びそうになりながら畳の上を駆けた。
 入口では影山が、今まさに外に出ようとしていた。
 開け放たれたドアの向こう側は、明るい光に溢れていた。
 朝早くから練習に勤しんでいたので、身体は程よく疲れている。腹も幾分減っていた。油断するとぐぅ、と鳴りそうな雰囲気に奥歯を噛んで、日向は履き潰したスニーカーに爪先を押し込んだ。
「お前、それちゃんと入ってんのか」
「ええ?」
 行こうとした瞬間に引き留められた影山が、部屋の電気を切りながら言った。手には流れで掬い取ったのか、黄色いタグ付きの鍵が握られていた。
 照明を消すついでに、取ってくれたらしい。うっかり忘れていた日向は息を弾ませ、影山の質問には首を傾げた。
 何を指して、入っているのか訊いているのだろう。分からなくて怪訝にしていたら、ドアを全開にした彼が力なく肩を落とした。
「なにが?」
 ここから全速力したければ、靴はちゃんと履かないと無理だ。内側に折り畳まれた踵を起こして飛び跳ねて、日向は影山が作った道をすり抜けた。
 ドアを潜れば、即座に扉が閉められた。あらかじめ構えていた影山が鍵を掛けて、きちんと閉まっているか確認してノブを揺らした。
 ガタゴトと音が響く。聞きながら爪先を床に叩き付け、日向は異様に軽い鞄を襷掛けに提げた。
 ぽん、と叩いても、凹凸はあまり感じられなかった。
「……あっ」
「今からじゃ、教科書なくても貸してやれねーぞ」
「ぎゃあ!」
 それでハッとした矢先、影山が渋い顔で呟いた。
 やっと彼の質問が理解出来た。嫌な予感を覚え、日向の顔は一気に青くなった。
 両手を頬に当てて悲鳴を上げるが、既に遅い。咄嗟に後ろを振り返るが、ドアは施錠された後だった。
 それに加え、無情にも鐘の音が鳴り響いた。
「チッ」
 キーンコーン、とのんびり流れていく高音に舌打ちし、影山はドアから引き抜いた鍵をポケットへ押し込んだ。
 こうしてはいられない。今までで一番余裕がない朝になったと歯軋りして、彼は駆け出すべく通路を蹴った。
 しかし。
「ままま、待って、影山。教科書!」
「ぐえっ」
 甲高い悲鳴と共に鞄の紐を引っ張られ、後ろにすっ転びそうになった。
 それだけでなく、あと少しで関節が外れるところだった。痛みを発する肩を慰め、影山は半泣きで右往左往するチームメイトにがっくり肩を落とした。
 排球部の朝は早い。中でも日向、並びに影山は、部で決まっている集合時間より一時間近く前倒しして登校していた。
 少しでも長く練習がしたいから、着替える暇さえ惜しみ、家を出る時点で既に練習着だ。制服は小さく折り畳み、鞄に詰めてくるのが常だった。
 その制服を取り出す際、日向は邪魔だからという理由で一緒に持って来た弁当箱や、教科書を、ごっそり棚の上に移動させた。
 つまり彼が今提げているその鞄には、殆ど荷物が入っていない。授業に必要なテキスト、ノートのみならず、下手をすれば筆箱すら残っていないかもしれなかった。
 そんな状態で教室に行って、彼はいったい何をするのか。
 ただボーっとしながら一時間を無為に過ごすのは、遅刻するよりも始末が悪い。
 潔く遅れて叱られるのを覚悟して、今すぐ影山から鍵を奪って教科書類を取り出すか。
 鞄が空っぽでないことを祈り、このまま走って教室へ向かうか。
 どちらを選択するかで迷い、天秤を左右に揺らし続ける日向に対し。
「知るか、ボケ」
 影山は冷徹に一蹴した。
 取りつく島もなくて愕然とし、日向はぽかんと口を開いた。目も真ん丸に見開いて惚けていたら、痺れを切らした影山が盛大に舌打ちして床を踏み鳴らした。
「テメーが悪いんだろ。諦めろ」
 部室の鍵は、影山のポケットの中。部屋に入りたければ彼の協力が必要不可欠だが、それはたった今、すっぱり断られた。
 トドメの一撃も食らって、反論が出来ない。けれど納得も出来なくて、日向は拳を震わせた。
「いーじゃん。どーせお前だって、今から行っても間に合わねーし」
「ふざけんな。テメーと一緒にすんじゃねえ」
 遅刻するなら道連れだと声を荒らげれば、階段手前まで移動していた彼が高らかと吠えた。
 チャイムの音色が風に流され、空高く吸い込まれていく。そこにカンカンと姦しい金属音を撒き散らして、影山は食い下がる日向を振り切って階段を駆け下りた。
 それを追いかけ、日向も急ぎ地上へ向かった。
「待てよ。せめてシャーペン!」
 筆箱が中に鞄に残っていない確率は、五分五分といったところ。ノートは別教科で代用し、テキストは隣の席の子に見せてもらうとしても、筆記用具まで借りるのは流石に図々しかろう。
 スッポン並のしつこさで叫ぶチームメイトを振り返り、影山は走りながら鞄を叩いた。
 もう時間がないのだ。呑気に立ち止まって荷物を漁る暇など、どこにあると言うのだろう。
 だというのに、日向は諦めない。どれだけ体力が有り余っているのか、ぎゃーぎゃー騒いで癇癪を爆発させた。
 あまりの喧しさに、耳を塞ぎたくなった。
 ただでさえ日向の声は甲高いので、連続して喚かれると耳障りでならない。頭にダイレクトに響く罵声に歯軋りして、影山は打開策を練って深く息を吸い込んだ。
「うっせえ。昼にアイス奢ってやっから、それで我慢しろ!」
 腹から声を絞り出し、怒鳴る。ほぼ真横に並んでいた日向は飛んできた台詞にきょとんとして、元から大きな目を真ん丸に見開いた。
 教科書、文房具、部室の鍵。
 そのどれも、彼に与えてやれそうにない。だから別の物で、と代替え案を示したわけだが、整合性が取れているかと言われたら、首を捻らずにはいられなかった。
 授業が始まる前に教室に滑り込みたい。その一心で、邪魔な日向を排除するのに躍起だった。言ってから自分でも可笑しいと思った影山だが、今更撤回することも出来ず、息を切らせながら脇を一瞥した直後。
「マジでえ?」
 目を爛々に輝かせた日向が、嬉しそうに声を弾ませた。
 今の今まで機嫌を損ねていたのが嘘のようだ。あまりの変わり身の早さに愕然として、影山は足を捻って転びそうになった。
「おわっ、とっと」
「やりぃ。アイス、アイスっ」
 その隙に日向が、スキップしながら追い抜いていった。すれ違いざまに見えた表情は喜びにあふれており、授業のことなど完璧に忘れている様子だった。
 自分は何も悪くないのに、奢らなければならなくなった。迂闊だったと頬を引き攣らせ、影山は昇降口を目前にした日向の真後ろについた。
 そうとは知らず、彼は低い段差を難なく登り、開け放たれたままのドアから中に入ろうとした。
「うん?」
 直後に違和感を覚えて振り返れば、影山が随分近い位置に立っていた。
 中途半端な高さで泳いいでいた指先が、遠慮がちに引込められた。一瞬触れられた気がしたが、錯覚かもしれなくて首を傾げていたら、苦虫を噛み潰したような顔をした影山がゆるゆる首を振った。
「昼にな」
 疲れ果てた様子で言われた。全力疾走した余波か、顔は赤かった。
「ああ、うん」
 後ろに引っ張られた感覚があったのだけれど、気の所為かもしれない。分からなくて眉を顰め、日向は何気なくシャツの襟を撫でた。
 手を後ろに回し、襟足からゆっくり下へと滑らせる。
「あれ?」
 そうして後ろ襟が一寸ばかり歪んでいると気付き、彼は下駄箱に向かった青年に目を見張った。
 影山は靴を脱ぎ、上履きを取り出そうとしていた。日向も慌てて彼に倣って、敷き詰められた簀子に爪先を置いた。
 そして。
「あんがとな」
 背後から不意に礼を言われ、ぎょっとなった影山が背筋を伸ばした。
 手にした下足を誤って落とした彼に白い歯を見せて、日向はうなじを覆っていたであろうシャツの襟をなぞり、顔を綻ばせた。

2014/9/12 脱稿