鴇鼠

 用事を済ませて教室に戻ると、席がなくなっていた。
「なに、これ」
 唖然とし、がっくり肩を落とす。掛けた眼鏡までずり落ちそうになって、月島蛍は小さく唸った。
 尤も席がなくなった、というのには若干語弊があった。間違っても机や椅子そのものが窓から放り投げられ、グラウンドに捨てられていた訳ではない。
 そんなイジメ行為を受ける謂われはないし、実行する馬鹿もクラスメイトにはいない。曲がりなりにも高校の進学組に所属しているのだから、万が一教員に露見して、評価を下げるような自滅行為はしないはずだ。
 一年四組の教室は雑多に賑わい、昼休みを満喫する生徒で溢れていた。
 見知った顔ばかりが並び、各々楽しそうにしていた。弁当を食べ終わった後も机を隣り合わせたまま雑談に興じ、複数の女子が姦しく騒いでいた。
 耳障りにも思える笑い声を一瞥して、月島は教室後方にある自席に眉を顰めた。
 クラスで最も背が高い月島は、席替えをしても毎回後ろ側に配置される運命にあった。
 万が一背の低い女子が彼の後ろに座ろうものなら、黒板が見えなくなってしまう。それはあまりに可哀想だからという処置だが、それでは毎度最後尾に回される方の人権はどうなるのか。
 目が悪いのだから黒板が見え易い場所に座りたいのに、言い出せる雰囲気でないのが鬱陶しい。望んで百八十八センチになったわけではないのにと、人に羨まれるこの背丈が若干恨めしかった。
 その羨んでくる筆頭を自分の机に見出して、月島は心底げんなりしながら顔を顰めた。
 ただでさえ騒々しい教室を、より一層賑わせている主犯格。
 何故彼がそこに居るのか。あまつさえ人の席に座っているのか。
「なんなの」
 口を開けば愚痴しか出ない。もうひとつ呻くように呟いて、彼は一歩、教室に足を踏み入れた。
 直後だった。
「あっ」
 他よりも縦に大きい机に陣取った少年が、接近する影に気付いて顔を上げた。
 月島が座ると少し窮屈な椅子も、華奢な子が座ると随分大きく感じられた。サイズが合っていないとひと目で分かる状況に苦笑して、彼は両足をじたばたさせたチームメイトに肩を竦めた。
 日向翔陽。一年一組に在籍する小さなミドルブロッカーは、月島の顔を見て嬉しそうに頬を緩めた。
「遅かったなー」
「お帰り、ツッキー」
 そんな彼の真向いには、他人の椅子を拝借したクラスメイトが座っていた。
 小学生の頃からの顔見知りで、金魚の糞宜しく、高校まで一緒になってしまった山口だ。
 その両頬にそばかすが目立つ幼馴染を一瞥して、月島は得意満面に座っている日向に視線を戻した。
「なにしてんの」
「んー?」
 昼食を終え、席を外していたのはほんの五分足らずに過ぎない。その間に訪ねてきたのは容易に想像がついたが、用件に関しては不明なままだった。
 もっとも、ある程度は想像がつく。考えるだけで嫌な気分になって、月島は低い位置にある日向を睨みつけた。
 だが、効果は薄い。むしろ全く無いと言ってもよかった。
 男子バレーボール部に所属する手前、見下ろされるのに慣れているのだろう。部内で身長百六十二センチの彼より背が低いのは、リベロである二年の西谷と、マネージャーの谷地のふたりしかいなかった。
 自分的に迫力を込めたつもりだったのに、暖簾に腕押しも良いところ。落胆は否めず、月島は呑気に微笑んでいるチームメイトにがっくり肩を落とした。
「月島?」
 彼が空気の読めない馬鹿なのは知っていたが、通じなさすぎるのもどうかと思う。呆れてため息を吐いていたら、椅子に座った日向が小首を傾げた。
 当たり前のように他人の席を奪い取って、返却しようとしない。留守にしていた間に入り込まれたのは止む無しとしても、開き直って居座られるのは困る。
 庇を貸して、母屋を取られた。まるで自分が来訪者の気分に陥って、月島は口をヘの字に曲げた。
「まあまあ、ツッキー」
 そこへ山口が、手を揺らしながら割り込んできた。
 僅かな変化だったが、拗ねたのを見抜いたらしい。笑顔で間に入って、彼は月島の机に頬杖をついた。
 少し前まで、彼はここで月島と昼飯を食べていた。
 教室を出る前、山口はまだ箸を動かしていた。だが直後に完食したらしく、弁当箱は片付けられていた。
 大判のハンカチを包み布代わりにし、片隅に寄せられていた。結び目は今にも解けそうな緩さで、急いでいたのが窺えた。
「……で?」
 視線を動かして状況を把握し、不在にしていた間の出来事を推測する。最後に焦点を定めて日向を射抜けば、彼は首を竦めて舌を出した。
 それで確信した。恐縮しながら微笑んだチームメイトに、月島は盛大に嘆息した。
 両手をポケットに押し込み、机の脚を蹴る。勢いはなかったが、上にいた山口を驚かせるには十分だった。
「お断りなんだけど」
「そんな冷たい事言うなって~」
 更に畳み掛けるように言えば、日向が声を高くして抗議した。首を伸ばしてほぼ真上を仰ぎ見て、縋る眼差しで手を伸ばしても来る。
 袖を掴まれそうになり、月島は咄嗟に跳ね返した。
「前にも言ったけど、あれは試験前で、頼まれたから仕方なくだったんだけど」
 鋭く言って、睨み返す。利き腕を宙に彷徨わせ、日向はぽかんとしながら口を開閉させた。
 月島の机の上には、見覚えのないノートが置かれていた。
 今までは日向の腕が上にあったので、あまりはっきり見えなかった。障害物が半分取り除かれた今、表面に書かれた汚い字は丸見えだった。
 まるでミミズがのたくったような文字だ。癖が強すぎて、かなり読み難い。
 それが日向の名前だと理解するのには、十秒近く必要だった。
 小学生でも、もうちょっとマシな字を書く。幼稚園児かと呆れ果て、月島は勝手が過ぎる同級生に鼻息を荒くした。
 その頃には日向も我に返り、一組から持ち込んだノートを引っ掻いた。
「ケチ」
「ケチで結構」
 頬を膨らませ、口を尖らせて悪態をつく。それを揚げ足取って躱して、月島は日向に占領された机をもう一度、蹴った。
 早く立ち去るよう促したつもりだったが、これもまた、彼には通じなかった。
「いーじゃん、減るモンじゃなし」
「そうだよ、ツッキー。俺も手伝うしさ」
 ぶーぶー抗議する馬鹿に加勢して、山口までもが声を上げた。頬杖を崩して背筋を伸ばして、幼馴染は日向に味方した。
 妙に彼に肩入れしているのが窺えて、面白くない。二対一という数的不利にも眉を寄せ、月島は聞こえるように舌打ちした。
「チッ」
 どうして机を不法占拠された挙句、一方的に責められなければならないのか。ルール違反をしたのは日向であり、咎められるべきは彼の方だというのに。
 第一、彼らはいつからこんなに仲良くなったのか。
 さっきも、ふたりは親しげに話していた。月島が戻ってきているのにもなかなか気づかないくらいに、楽しそうに喋っていた。
 傍目にも分かるくらい、随分と盛り上がっていた。内容は聞こえなかったものの、ふたりして腹を抱えて笑い転げ、人の机をバンバン叩いていた。
 月島と居る時、山口はあんなに口を大きく開けて笑わない。日向も同じだ。いつだって会話の内容に困った顔をして、遠慮がちに見上げて来た。
 面白くない。
 なにがどう、具体的につまらないのかは巧く説明出来ないものの、腹立たしくて仕方がなかった。
「い、や、だ」
 断っているのにしつこく食い下がる日向に向かい、一言一句丁寧に区切って申し出を再却下する。
 両手を腰に当てて凄んでみるが、それで諦める彼ではなかった。
「なんでだよ。ちょーっとコツを、ぱぱーっと教えてくれるだけで良いんだって」
 しぶとく食らいつき、身振りを交えて訴えてきた。
 人差し指と親指で何かを摘む仕草をしたかと思えば、突然両手を広げて椅子の上で仰け反りもする。たとえ一秒でもじっとしていない彼に唖然として、月島は笑っている山口を睨んだ。
 右手で口を覆っていた彼は、突き刺さる視線を浴びて顔を上げ、照れ臭そうに首を竦めた。
「日向、ずっと待ってたんだしさ」
「うるさい、山口」
 誰よりも騒々しいチームメイトに味方して、同情的な幼馴染など要らない。人を悪者にする彼を低い声で叱りつけて、月島は右足を退いて腰を捻った。
 チャイムが鳴って昼休みが終われば、いくら彼でも一組に帰るはずだ。
 四組に戻るのは、それからでも遅くない。残り二十分近い昼休みをどこで過ごすかの難題は残るが、ここでふたりから責められ続けるよりはマシと思えた。
 日向は減るものではない、と言った。だが着実に減るものはある。時間と、月島の精神力だ。
 理解力に乏しい相手に説明するのがどれほど大変か、一学期の期末試験前に散々思い知らされた。何度血管が切れそうになり、何度匙を投げようとした事か。
 影山が居ない分、労力は半分になるかと言えばそれもない。ひとり教えるのも、ふたり教えるのも、疲労度は同じだ。
「どこ行くんだよ」
 踵を返そうとしたら、呼び止められた。くいっ、とシャツの背中を引っ張られて、月島は嫌そうに振り返った。
「どこだっていいでしょ。君の居ないところだよ」
 自分の教室なのに、立ちっ放しが癪だった。大きな椅子にちょこんと座る、小さな彼を可愛いとは思えなかった。
 いっそ存在を無視して上から座り、押し潰してやろうか。そんな邪悪な事を考えて、月島は素っ気なく吐き捨てた。
 一緒の空間にいたくない。最上級の拒絶を率直に声に出せば、流石の日向も理解したらしい。表情から笑みが消えた。
 さっと血の気が引いて、唇が戦慄いた。見開かれた眼が月島を映し出して、静かに伏せられた。
「ツッキーってば、なにもそこまで言わなくても」
「だったら君が教えてあげなよ」
 ショックを受けているチームメイトを庇い、山口が口を開いた。しかし月島は取り合わず、冷たく突き放した。
 彼も大学進学組の、四組に在籍している。月島ほどでないにせよ、勉強は出来る方だ。
 赤点常連の馬鹿の教師役くらい、なんでもないだろう。そう揶揄すれば、山口は何故か哀しそうな顔をした。
 それでいてどこか憐みを含む視線を向けられて、気に障った月島が眉を吊り上げた矢先だ。
「あー、ああ。なんだよ。せーっかく、月島に会いに来たのにさー」
 落ち込んでいたのが嘘のように、日向が明るく元気に、嫌味っぽい台詞を吐き出した。
 椅子の背凭れに身を預け、ギシギシ揺らしながら捲し立てる。それにピクリと反応して、月島は口惜しげに奥歯を噛んだ。
 横で山口が小さく噴き出した。音が聞こえて、彼は悔しさから長い脚を繰り出した。
「うわわ」
 山口の座っている椅子を蹴り、驚き慌てる姿で溜飲を下げる。何か言いたげな目で見つめられたが無視して、月島は白い歯を見せて笑う日向に肩を落とした。
 呆れているのは、自分自身に対してだ。
 あんなワザとらしいひと言に喜んでしまった。会いに来たのは課題を手伝って欲しいからなのに、言い方を変えられただけで許してしまいたくなった。
 かなり癪だ。
 掌で踊らされている自覚はある。だからこそ、余計に悔しかった。
「月島?」
「一回しか言わないからね」
 今さっきまで立ち去る雰囲気を醸し出していた男が、一転して日向の後ろへ回り込んだ。急変した態度に戸惑っていたら、やや乱暴に、語気荒く告げられた。
 相変わらず口調は冷たいが、教えてくれる気になったらしい。どういった風の吹き回しかは分からないながらも、日向は嬉しそうに頷いた。
「おう。任せろ」
 自信満々に胸を叩き、男らしく宣言する。だが彼が一度の説明で理解出来た例がないのは、山口も承知していた。
 またもやクスクス笑っている彼に、膨れ面をしたのは日向だった。
「なんだよー。おれだって、やれば出来るんだって」
「ごめん、ごめん」
 馬鹿にするなと怒り、声を高くして喚く。山口は軽い調子で謝って、引き攣って痛い腹を撫でた。
 矢張り彼らは、仲がいい。
 蚊帳の外に置かれた気分だ。面白くなくてムッとして、月島は意味ありげな幼馴染の視線から逃げた。
「それで。なにがどう、分からないって?」
「えーっと、ああ、そうそう。これこれ」
 見ようによってはニヤニヤしている風に映る山口から目を逸らし、日向に話しかける。それで意識を戻した彼は机上のノートを広げ、白地が目立つページを指差した。
 月島は後ろから覗き込み、渋面を作って凍り付いた。
「これは……」
 間違っても、問題が難し過ぎて解けないのではない。
 書き写された問題文そのものが読めなくて、解きようがなかった所為だ。
「うわあ」
 向かいに座る山口も同じものを眺め、感嘆の息を漏らした。
 教科書とノートをセットで持ち込むのを面倒臭がり、書き写して来たのだろう。だがこれでは何の意味もないと頭を抱え、月島は力なく項垂れた。
 前後から聞こえてきた溜息に、日向は予定と違うと右往左往した。
「あれ?」
 てっきり、すらすら解いてくれるものと思っていた。どうして眉間に皺を寄せているのかと月島を振り返り、彼は怪訝そうに首を傾げた。
 これが演技ではなく、本気だというから驚きだ。だから馬鹿を相手にしたくないのだと奥歯を噛み、月島は邪魔なチームメイトの頭を叩いた。
「いって」
「退いて」
「なにすんだよ、月島のアホ」
「君に阿呆呼ばわりされるなんて、すごく笑えてくるんだけど」
 未だ人の椅子に陣取る男を押し退けようとするが、上手くいかなかった。後頭部を庇いながら文句を言われて、彼は張り付いた笑顔で口角を歪めた。
 表情は朗らかながら、目が笑っていない。どす黒いものを感じて総毛立ち、日向は顔色を悪くして仰け反った。
 真後ろに立つ月島から離れようとして、机へと倒れ込む。押し出された勉強机を山口が押さえこんで、この一帯だけ一瞬騒がしくなった。
 ガタゴトと音を立てた彼らに、クラスメイトが数人視線を向けた。集まった注目に月島はまた舌打ちして、邪魔で仕方がない日向の肩を掴んだ。
「いいから、退きなって」
 こんな下手な文字、書いた本人でしか読めない。
 暗号文を解読するところから始めるなど、時間の無駄だ。ならばどうするかと言えば、日向が解いて欲しいという問題を、手持ちのテキストから探し出せばいい。
 その方がよっぽど早いとの判断だったのだが、そこまで理解が至らない日向は不意に身を捩り、甲高く叫んだ。
「きゃー。たすけてー。月島におそわれるー」
「ブフゥッ」
 ただでさえ女子並のボーイソプラノを更に高くして、しなを作って捲し立てる。それがあまりにも真に迫っていたものだから、向かいで見ていた山口は堪らず噴き出した。
 両手で口を覆った彼だけでなく、教室にいた数人も突然の悲鳴に驚き、状況を把握して顔を綻ばせた。
「なっ」
 多数の、それも嘲笑含みの視線を浴びせられ、月島の頬が引き攣った。眼鏡の奥の瞳を大きく見開いて、瞬時に赤くなって真下を覗き込む。
 日向は悪戯っぽく舌を出し、調子に乗って身体をくねらせた。
 胸の前で腕を交差させ、両手は肩に置いてなよなよしたポーズを取り、
「いや~ん、月島のエッチ~~ぃ」
 裏声でそんなことを言うものだから、聞いていたクラスメイトはドッと笑い声を上げ、苦しそうに腹を抱え込んだ。
 嫌味で無愛想という月島のイメージが、見事に崩れ去った瞬間だった。
 おちゃらけて皆の笑いを誘う日向に、月島の中で何かが切れた。ぷちん、と音を立てて、彼は椅子の背凭れを両手で掴んだ。
「馬鹿な事言ってないで、いいから、早く退きなって」
 そうして大きな荷物ごとガタガタ揺らすが、日向は笑うばかりで動かない。ちょっとした冗談に過剰に反応されたのが面白いらしく、息をするのも苦しそうだった。
 折角勉強を教えてやろうとしているのに、親切を無碍にされた。ならばこちらにも考えがあると、月島は歯軋りの末に口角を歪めた。
 不遜な笑みを盗み見て、日向が一瞬身構えた。だが彼が逃げるより早く、月島は椅子を手放し、腕を伸ばした。
「ぎゃーっ」
「言う事を聞かない子には、こうだよ」
「ぶひゃ、うはっ、ぴゃああはははは!」
 前のめりに倒れ込み、日向を押し潰す形で背後から圧し掛かる。脇腹を掴んだ手をバラバラに動かせば、弱い場所を擽られた少年はけたたましく笑い出した。
 両足をバタバタさせるが、月島には届かない。必死に逃げようとするものの両側から挟まれており、身体をくの字に曲げるのが精一杯だった。
 身悶え、喘ぐが、月島は許してくれない。息継ぎひとつもままならなくて、目尻からは自然と涙が溢れた。
「うひぃ、ひゃっ、うひゃひゃ、っあ、は……ダメ。も、もー……くるっ、し……」
 息も絶え絶えに呻いて、乱れた吐息で唇を湿らせる。体温も一気に上昇して、全身が火照って熱かった。
 首筋には薄ら汗が滲み、速まった鼓動が心臓を圧迫した。酸素が足りなくて頭がボーっとする中、日向は懸命に、もう止めてくれるよう頼み込んだ。
「ごめ、って……も、ゆるし……」
 月島の意外にしっかりした腕を掴み、色白の肌に手を重ねる。力の入らない指でなぞって懇願すれば、男は何故かびくりとし、慌てた様子で後ろへ下がった。
 あっさり解放されて安堵して、日向は深く息を吐いて椅子に寄り掛かった。
「はー……」
 脱力し、目を閉じる。後ろで月島が顔を赤くし、なんとも言えない表情で口をもごもごさせている事実も知らず、深呼吸を繰り返して大きな机へとしな垂れかかる。
 卓上に突っ伏した彼に奥歯を噛み、月島は耳に残る喘ぎ声を振り払った。
 指先に残る感触も頭から追い出し、結局退かせられなかった相手の後頭部を軽く叩く。するとネジが一本吹き飛んだのか、日向はケタケタ笑い出した。
「あははは」
 もう脇腹を擽られていないのに、どうして。
 訳が分からず混乱していたら、涙と涎を拭った日向がゆっくり起き上がった。
「お前さー、やれば出来るんじゃん」
「は?」
 そして意味不明なことを突然口にして、月島を余計に戸惑わせた。
 いつもつまらなそうな顔をして、自分は違うんだという風に騒動を遠巻きにして。
 田中や西谷たち先輩達にも冷めた視線を向けて、巻き込まれそうになったらサッと躱して、逃げて。
 それが月島蛍という男ではあるけれど、一緒に馬鹿騒ぎ出来ないのは、チームメイトとして矢張り少し寂しくて。
 ずっと物足りなさを覚えていた日向は、嬉しそうに破顔一笑して散々掻き回された脇腹を撫でた。
 呼吸は相変わらず苦しそうだったけれど、表情はスッキリ晴れやかで、眩しかった。
「……馬鹿じゃない」
「だっておれ、バカだもーん」
 呆気に取られ、月島は悪態をついた。嫌味は相変わらず通用せず、開き直られて溜息しか出なかった。
 自覚のある馬鹿に色々と分からせるには、どうすればいいのだろう。それだったら、犬を躾ける方がまだ簡単な気がした。
「ツッキー、日向、これ」
 肩を落として項垂れていたら、いつの間にか自席に戻った山口が手を振った。急ぎ足で机の間を移動して、帰ってきた彼が差し出したのは数学の教科書だった。
「たぶん、この辺の……あった。日向、これ?」
「あー、うん。そうそう。山口スゲー」
 それを広げ、該当するページを探し出して提示する。覗き込んだ日向は途端に目を輝かせ、賞賛の言葉を口にした。
 褒められて、山口もまんざらではない様子だった。照れ臭そうに頭を掻いて、勝手にテキストが閉じないよう、折り目を押さえながら机に置いた。
 日向に比べ、彼は空気が読め過ぎている。余分とも思える気遣いに肩を落とし、月島は頭を掻いた。
 そうして騒がしい昼休みはあっという間に終わった。チャイムが鳴っても日向はうんうん唸って、懇切丁寧な説明に渋面を作り続けた。
「うわ~ん、わかんな~~い」
「諦めなよ。君の脳みそじゃ、この辺が限界だから」
「やまぐちー。月島が冷たいー」
「はいはい。日向、放課後に俺がもう一回教えてやるから」
「わーん。山口優しー。大好きー」
「…………」
 喚く日向を月島が突き放し、泣きが入った日向が山口に縋りつく。山口は頼られて嬉しいのか甘やかして、日向の歓声に、今度は月島が渋面を作った。
 目の前で繰り広げられる茶番に辟易して、丸めたテキストで後頭部を叩く。パコン、と良い音を響かせて、日向は渋々腰を浮かせた。
 長らく占領していた椅子を退き、机の下に引っ込めもせずに距離を取る。動きを随時見守って、月島はやれやれと息を吐いた。
 あと数分で本鈴が鳴る筈だ。それまでに一組に帰らないと、彼は遅刻扱いだ。
「んじゃ、放課後な」
「うん。またね、日向」
「月島も、あんがとなー」
 立ち去る時も、騒々しい。手を振るだけで済まさなかった彼に嘆息して、月島はやっと静かになったと胸を撫で下ろした。
 けれどこの静かさが、何故かとてもつまらなく思えた。
 耳朶には賑やかな声がこびりつき、なかなか消えてくれなかった。
「ねえ、山口」
「なに、ツッキー」
「僕が戻ってくる前、日向となに話してたの」
「え?」
 パタパタ駆けていく背中を見送って、月島は椅子に座ろうとした。しかし寸前で躊躇して、席に戻ろうとしていた幼馴染を引き留める。
 山口は不思議そうな顔をして、やがて肩を小刻みに震わせた。
 含み笑いで見つめられて、あまり良い気がしない。ムッと眉間に皺を寄せていたら、呼吸を整えた山口がゆるゆる首を振った。
「たいした話じゃないよ?」
 朗らかに微笑んで、丸め癖が付いた教科書を両手で挟み持つ。
 そして。
「ただの、ツッキーの話だよ」
 日向と山口の共通点といえば、バレーボールと月島くらい。
 当たり前だろうと首を傾げながら言われて、呆気に取られた男は暫くその場に立ち尽くした。

2014/9/5 脱稿