洒落柿

 放課後の部室は、カオスだ。
 汗の臭いや食べ物の残り香が混ざり合い、そこに男子高校生の他愛無い会話が交錯する。話にはオチがない物も多く、途中で不自然に途切れて別の話題に飛ぶ事もしばしばだった。
 日直や掃除当番でない生徒から姿を見せて、練習着に着替えたその後は基本自由行動だ。授業が終わるのは午後三時半で、練習が開始されるのは四時から。この三十分間が、短い休息タイムでもあった。
 とはいえ、四時ギリギリに体育館に顔を出していたら顰蹙ものだ。授業中は外されていたネットを張る作業も、ボールを倉庫から出してくる等の準備も、一年生だけにやらせていては先輩の面目が立たない。
 第一、烏野高校男子排球部は総人数が少ないのだ。一部だけに押し付けていたら、コーチが来るまでに全ての用意が整わない。
 そんなだから、来た部員から次々外に出て行く。全員がこの、他よりは多少広いものの、それでも狭い部室に陣取る事は滅多になかった。
 今日もいつも通り、先陣を切って現れた二年生の西谷が、颯爽と第二体育館目指して出て行った。麗しき女子マネージャーの名前を口にして、満面の笑みを浮かべていた件については、最早誰も突っ込まない。
 ちょっと静かになった空間に苦笑して、日向は担いだままの鞄を下ろした。
「今日はひとりなんだ?」
「いっつも山口と一緒のお前に言われたくない」
 慌ただしく壁際の棚に向かった彼を捕まえて、先に着替えに入っていた月島が皮肉る。その嫌味な男に嫌味で言い返して、日向は膨らませた頬を凹ませた。
 口を窄ませて息を吐き、走って来た所為でちょっと乱れた髪の毛を手櫛で簡単に整える。もっとも鏡がないので完全ではなく、後ろ髪の一部が変な方向に跳ねたままだったが、月島は敢えて指摘しなかった。
 夏場の雑草の如く、自由気ままに伸びているオレンジ色の髪から視線を外して、月島は脱いだシャツを綺麗に畳み、自分の鞄の上へ重ねて置いた。
 その向こうでは話に出た山口が、日向の台詞が聞こえなかったのか、不思議そうな顔をしていた。
「俺がどうかした?」
「なんでもないから、黙れよ」
「ごめん、ツッキー」
 自分の名前だけは、辛うじて耳が拾ったらしい。ただ話の内容までは分からなかったらしく、きょとんとしながら問うた彼に、月島は相変わらずの仏頂面で素っ気なかった。
 もっとも山口は、慣れているのか、気にする様子はなかった。
 軽い調子で謝って、途中だった着替えを再開させる。淡々と仕度を済ませる彼らから視線を逸らし、日向も学生服に手を掛けた。
 黒の学ランは、今後の成長を期待して、少し大き目だった。
 腕を垂らすと指先がちょっとしか出てくれない。全体的にぶかぶかで、前後の隙間が半端なく広かった。
 それでもいつの日か、これが窮屈に感じられるようになると信じて疑わない。鼻息を荒くして上から順にボタンを外すうちに、一足先に荷物を片付けた月島が、静かに棚の前を離れた。
「先行くよ」
「え、ちょ。待ってよツッキー」
「い、や、だ」
 身体を反転させる間際に言い放ち、焦った山口が引き留めるが聞きやしない。ご丁寧に一文字ずつ言葉を区切るのが、なんとも彼らしかった。
 最後にふん、と鼻を鳴らした月島の表情は、機嫌の悪さが露骨に表れていた。
 そうなった原因を探せば、日向が反論したことしか出て来ない。二個一扱いされたのがそんなに不満だったのかと首を捻って、彼は瞬時に相好を崩した。
 違う。逆だ。
 照れているのだ。些細な会話の中で仲の良さを指摘されて、認める事も出来ず、かといって否定も出来なかったのが悔しいだけだ。
 この男も、大概、自己表現が下手だ。いきなり笑われて口を尖らせる彼をもっと笑って、日向は腹を抱え込んだ。
「日向、どうしたのさ。いきなり」
「ほっときなよ。それより山口、早くしてよ。置いてくよ」
 声を響かせて背中を丸めるチームメイトに、状況がさっぱり読めない山口は戸惑いを隠せない。しかし追及しようとした矢先、隣から別の声が飛んできた。
 急かされて、山口は顔を上げた。仏頂面の幼馴染をそこに見出して、内容が一変した台詞に目を輝かせる。
「任せろ、ツッキー」
 勇ましく吠えて、彼は急ぎズボンを脱いだ。制服を畳みもせずに棚に放り投げて、取り出した黒のショートパンツに履き替えて、シューズも利き手に掴み取る。
 一分としないうちに準備は完了して、月島は何故か疲れた顔でため息を吐いた。
 やれば出来るではないか、とでも言いたげな眼差しを山口に投げて、素早く右に流す。ちらりと横目で窺われて、日向は警戒して身を固くした。
「君も、急ぎなよ」
「わーってるっての」
 どうしていちいち、ひと言多いのだろう。言われなくても分かっていると声を荒らげた彼を無視して、月島は山口を伴い、足取り軽く部室を出て行った。
 これで室内に残されたのは、日向以外だと、三年生の東峰と菅原だけだった。
 二年生の田中や縁下たちも、既に練習場である第二体育館へ向かった後だ。日向が遅れたのは掃除当番だったからで、菅原達も同様だ。
「影山、今日は日直だっけ?」
「そう聞いてます。キャプテンは、部長会議でしたっけ?」
「んだんだ」
 朝七時からの練習終了間際、主将から教えられた情報をなぞった日向に、副部長である菅原が鷹揚に頷く。表情はどこか誇らしげであり、嬉しそうでもあった。
 運動部、文化部の部長が一堂に会する場は、議題がなんであるかにもよるが、重苦しい空気に満ちている事だろう。自分が主将でなくてよかったと安堵している東峰を笑って、菅原は学生服を半分に折りたたんだ。
「三十分くらいで終わると思うし、先に始めとくべ。影山も、もうじき来るだろ」
 遅れている二名も、流石に練習終了間際まで来ない、ということはない。明るく言った副キャプテンに頷いて、日向はちらりと閉まっているドアを窺った。
 直後。
「ヒイッ!」
「す、すみませっ。おく、れ、っした」
 ドバン、と物凄い勢いで扉が開かれて、息せき切らした若者が今にも死に絶えそうな声で叫んだ。
 肩幅以上に広げた足は膝で折れ曲がり、腰は低く落とされていた。俯いているので表情は見えず、垂れ下がった前髪から覗く口元は、荒い呼吸を繰り返していた。
 ぜいぜいと苦しげな音が部屋の奥まで聞こえて来て、思わず怯んだ日向は汗だくのチームメイトに目を点にした。
 驚きすぎて悲鳴を上げてしまったのをひっそり恥ずかしがり、胸の前で無意識に結んだ手を背中に隠す。反対側にいた菅原達も呆然として、息も絶え絶えな影山に頬を引き攣らせた。
 居合わせたチームメイトが総じて絶句しているのも知らず、天才一年生セッターは溢れ出そうになった唾を呑み、大きな鞄を床へ落とした。
 ファスナーは全開だった。余程急いで来たのか、靴も踵が踏み潰されて、薄べったいサンダル状になっていた。
 服装に頓着しないながらも、いつも小奇麗にしている彼が、珍しい。
 その感想は、菅原達にも共通していた。まだ呼吸が整わないらしく、扉に縋りつく格好で何とか立っている影山の後方を、女子テニス部の部員が訝しみながら歩いていった。
「大丈夫か、影山」
 真っ先に我に返ったのは、他ならぬ菅原だった。着替えを中断させて声を高くして、一歩半、後輩の方へと歩み寄る。
 近づく気配にようやく視線を上げて、黒髪の青年は顎を伝った汗を拭った。
「すいません。大丈夫です」
 平気だと口では言うけれど、顔色はあまり宜しくない。一時期よりは落ち着いたとはいえ、息も荒いままだった。
 痩せ我慢していると分かる態度に肩を竦め、世話好きな三年生が東峰と顔を見合わせて苦笑した。影山はふたりを一瞥してまた汗を拭き、荒っぽくドアを閉めて靴から爪先を引き抜いた。
 落とした鞄も拾い上げ、肩に担いで移動を開始する。その時、バランスが悪かったのだろう、中に押し込められていたものが傾いて外へ飛び出した。
 ずるりと滑り落ちたのは、大判のノートだった。
「影山。なんか落ちたぞ」
 オレンジと黒の配色が目立つ表紙は厚紙で、金属製のリングで綴じられていた。
 それはさほど珍しい物ではなかった。日向も同じものを所持しているし、そこにいる三年生コンビも、恐らくは同様だ。
 身を乗り出してスケッチブックを覗き込んだ日向に、影山はきょとんとなった。
 落し物をしたという自覚がない顔に、堪らず噴き出しそうになった。仕方なく前に出て、影山の脇をすり抜けて床へと手を伸ばす。
 日向の着替えは、ほぼ終了していた。半袖シャツにショートパンツ姿で歩み寄って来た彼を追い、天才セッターもそちらに視線を流した。
「!」
 そして瞬時に赤くなり、日向が拾ったばかりのスケッチブックをひったくった。
「返せ!」
「なんだよ、もー。人が折角」
 乱暴に横から掻っ攫い、胸に抱いた影山に日向は目を剥いた。親切心を働かせてやったというのに無碍にされて、予想外の反応に気分は最悪だった。
 人の好意を無駄にするどころか、蔑ろにして踏みつけられた。これで腹が立たない方が可笑しくて、彼はぶすっと頬を膨らませると、真ん丸い目を眇めて背高の青年を睨んだ。
 一方の影山も、咄嗟の事とはいえ遣り過ぎたと感じているのか、やや臆し気味に目を逸らした。
「あ、いや……」
 言い訳を図るが、言葉がなにも浮かんで来ない。口籠ってもぞもぞしていたら、日頃からなにかと日向贔屓の菅原も両手を腰に当てた。
「そうだぞ、影山。日向がせっかく、拾ってくれたのに」
「うんうん」
 東峰も同調して頷いて、さながら針のむしろだ。居心地の悪さに息苦しさを覚え、影山は渋々、言おうとして出て来なかった言葉を吐き出した。
「……悪かった」
 ごめんなさい、とは言えなかった。上から目線が垣間見える台詞を選んでしまったが、一応は謝罪と受け止めてもらえたらしい。日向は目尻を下げて穏やかに微笑んだ。
 そうして。
「隙あり!」
 影山がホッとして肩の力を抜くタイミングを狙い、スリ師の素早さで影山からスケッチブックを取り返した。
 手の中の物が一瞬で消えて、何が起きたのか理解できない。空になった両手を数回握っては広げて、それでやっと我に返った影山は一気に青くなった。
「テメエ、日向ボケェ!」
 渾身の力を込めて怒鳴るが、何の役にも立たなかった。
「へー、なになに?」
 彼はわくわくしながら影山のスケッチブックを顔の前に持っていった。
 それは美術の時間に使う、ごく一般的なものだった。
 数学や英語などで使っているノートより大きく、紙も分厚くて頑丈だ。表表紙と裏表紙の端には紐が取り付けられており、これを結んでおけばページは簡単には開かない。
 だがそれは、日向を堰き止めるのに何の効力も発揮しなかった。
 好奇心を擽られた少年は、持ち主が止めろと叫ぶのも聞かず、興味本位に表紙を捲った。
「えー……と?」
 そして現れた絵を前に、困惑気味に首を傾げた。
 遠巻きに様子を窺っていた上級生も、日向の様子に眉を顰めた。
「か、返せ。ボケ」
「あのさ、影山クン」
 そんな中で影山が声を荒らげるが、突き出した手は無視された。耳の裏まで赤くなっているチームメイトを怪訝に見つめて、日向は両手で持ったスケッチブックを斜めに傾けた。
 最終的に、紙面は一回転した。元の角度に戻る頃には、顔を引き攣らせた人間は三人に増えていた。
 哀れみを過分に含んだ眼差しに、我慢ならなかった影山が拳を作った。
「下手で悪かったな!」
 腹の底から吠えて、再度日向の手からスケッチブックを奪い返す。顔面は火が点いたかのように真っ赤で、鼻の孔は大きく膨らんでいた。
 先輩方がいるというのも忘れて声を荒らげた彼の手で、何が描かれているかさっぱり見当がつかない、不思議な絵画が掲げられた。色の濃い鉛筆で引かれた線はまるでミミズで、四角形や円が大量に配置されていた。
 好意的に判断するなら、抽象画の一種だ。しかし高校の、しかも一年生の美術の授業で、いきなりこのジャンルが選ばれるだろうか。
 二年前に通った道を思い返しつつ、菅原は頬をヒクつかせた。日向も少し前の授業を振り返り、瞳を真ん中に寄せて半眼した。
 過剰反応したことで余計に憐憫の目で見られてしまい、影山は嫌そうに顔を歪めて奥歯をカチカチ鳴らした。
「ま、まあ……俺もあんまり、人のこと言えないしな」
 東峰が援護に回ろうとするけれど、はっきり言ってあまり役に立っていない。どちらにせよ下手であるのには違いなくて、影山は汚れて汚い紙面を睨みつけた。
 自分でも上手く描けたとは思っていない。
 だがここまで同情される謂われもなかった。
「あのさ、影山。これ、元はなんだったの?」
 傷ついてボロボロの心に塩を塗り、いつもは空気が読める菅原が恐る恐る問うて来た。
 どれだけ頭を捻っても分からない、と告げる双眸に、影山はギッと奥歯を噛み締めた。
「皿の上の、林檎……です」
「――――ブホッ」
 刹那、東峰が間に合わずに噴き出した。
 凄い音がした。頭の上から唾が飛んできた菅原は嫌そうに顔を顰め、首を竦めてエースの傍から離れた。
 この場で唯一味方だと信じた相手に裏切られ、影山は茫然としていた。なにもそこまで笑う必要はなかろうと愕然として、同じく笑いを堪えている日向を力任せに蹴り飛ばす。
「ぎゃっ」
 脛を払われて倒れそうになり、少年は咄嗟に手を伸ばして菅原にしがみついた。
 引っ張られた三年生が軽く腰を折って支えてやり、惨事は避けられた。しかし影山の怒りは到底収まらず、音立てて鼻を啜る顔は今にも泣き出しそうだった。
 大体、美術的センスがなかろうとも、バレーボールには関係ないではないか。それに、東峰が言っていたように、これよりもっと酷い絵心の持ち主だっているかもしれない。
 どこからどう見ても林檎ではない、黒く塗りつぶされた楕円の図に失笑して、日向は菅原に礼を言って手を離した。
「もう大丈夫です」
 感謝をこめて頭も下げて、彼は憤慨している同級生に肩を竦めた。
「おれは、そんなに下手じゃないぞ」
「じゃあ見せてみろよ」
 ちょっと得意げに言われて、影山は右の眉を持ち上げた。
 日向の字は、影山に負けず劣らず下手だった。漢字の書き取りも苦手で、前に影山の名前を書かせた時は『影』の字さえ間違える有様だった。
 そんな彼が、絵だけは上手いとはとても思えない。その高くなっている鼻をへし折ってやるつもりで、影山は意気揚々と日向がスケッチブックを出してくるのを待った。
 部室は備品を置いたり、着替えたりする為の場所だが、部員の個人的な所持品をこっそり隠しておく場でもあった。
 たとえば週に一回しかない授業の教科書や、道具は、逐一持参し、持ち帰るのが面倒臭い。たまにしか使わないと、持ってくるのを忘れるどころか、どこに片づけたのかさえ分からなくなる事もあった。
 そうならない為に、置き勉している。美術のスケッチブックもそのひとつだ。
 彼は鞄の前に戻ると視線を左右に泳がせ、ぽん、と手を叩いて爪先立ちになった。
「よいしょ、と」
 背伸びをして手を伸ばし、高い位置に収納されていた紙袋を引っ張り出す。結婚式の引き出物が入っていたような頑丈で、大きい袋を下ろして広げて、日向は中からまだ新しいスケッチブックを取り出した。
 表紙のデザインは、影山所有の物と全く同じだ。混ざると分からなくなりそうで、影山は手持ちの分を鞄に重ねた。
 差し出されたので受け取り、広げる。紐は最初から結ばれていなかった。
 現れたのは。
「………………」
「おー、ホントだ。意外に上手い」
「すごいなあ、日向」
「えへへへ~。いやあ、それほどでもありますけど」
 絶句する影山を余所に、菅原と東峰が手放しで日向を褒めた。当人もまんざらでもない様子で頭を掻き、照れ臭いのか頬を紅に染めた。
 紙面を埋めていたのは、綺麗に引かれた線だった。定規を使ったわけではないので多少歪んではいるものの、少なくとも影山の絵よりは原形を留めていた。
 皿の立体感はいまいちながら、林檎は陰影がつけられて、ぱっとみただけでもモデルがなんだったのかが分かった。
 ふたりはクラスが違うので授業を受けた時期は別だが、担当の美術教師が同じなのだから、扱う内容も当然同じだった。
 あまりの落差に愕然として、影山は顎が外れんばかりの勢いだった。呆気に取られて目を点にしている彼に勝ち誇った笑みを浮かべて、日向は影山の手の中のスケッチブックを捲った。
 器用に彼の指を避け、ページを移動させる。次に出て来たのも、決して上手ではないけれど、下手とも言い切れない絵だった。
「じっとしてるの、苦手そうなのに」
「そうなんですけどね。絵は、直感でざざーって描けるから、楽なんで。あと、妹とよくお絵かきしてるから」
「お絵かき……」
 意外な特技を発見してしまった。可愛らしい台詞も聞いてしまった。
 思わず繰り返した東峰の似合わなさに苦笑して、菅原は感心したのか、何度も頷いた。
「へー、そうだったんだ。成る程なあ」
 立ち尽くしている影山の手からスケッチブックを譲り受け、ぺらぺらと捲っていく。泣き黒子が特徴的な三年生は、二枚で終わってしまったスケッチの後、続いていた白紙が突然途切れたのに目を丸くした。
 最終頁。三年間でも使いきれない厚紙のラストに、突然愛らしいキャラクターが出現した。
「――これ」
「あ、あっ。それはダメです!」
 唐突に凍り付いた副部長に、にこにこしていた日向も突然慌てふためいた。両手を上下に振り回して声を裏返し、甲高く叫んで見ないでくれるよう頼み込む。
 少し前の影山と同じ反応をした彼に、残された影山と東峰はきょとんとなった。
「見ちゃダメです―!」
 高校一年生男子とは思えないトーンに顔を見合わせ、東峰が菅原の後方へ回り込んだ。影山はその反対側から近づき、首を伸ばして身を乗り出した。
「おぉ、これは……かわいいな」
 一番に口を開いたのは、東峰だった。
 小さな目を真ん丸に見開き、強面顔には似合わない優しい口調で呟く。菅原も同意してうんうん頷き、紙面に散らばるイラストのひとつを指さした。
「あっ。なあなあ。これ、ひょっとして、俺?」
「こっちのは大地だな。あとこれは、たぶん田中だろうな」
「ノヤもちゃんといる。月島は……もしかして、この眼鏡っぽいの?」
 にこやかに微笑み、同級生と仲良く言葉を交わす。指の位置を次々に入れ替えて部員の名前を口にする彼らに、日向はおたおたしながら目を白黒させた。
 影山もぽかんとして、白いキャンパスに散りばめられた多数のキャラクターに見入った。
 それらは明らかに、誰かを模したものだった。かなりデフォルメされているものの、個々人の特徴はしっかり残してあるので分かり易い。月島が眼鏡しか描かれていないのには、笑うしかなかった。
 ただ、どこを探しても、ひとりだけ見つからなかった。
「ほんと、ほんとに、先輩、お願いですから、あの、やめて。やめてくらしゃい!」
「……あれ?」
 影山の表情がひっそり翳る中、日向が舌足らずに叫ぶ。その必死さに東峰だけが苦笑して、菅原は影山同様に眉を顰めた。
 彼もまた、気が付いたようだ。鋭さを増した影山の眼差しに首を竦め、日向は胸の前で人差し指を小突き合わせた。
「影山だけ、いないよう、な」
「え?」
 仰け反って皆から離れようとしている少年を目で追い、影山が握り拳を作った。少々自信無さげに呟いた菅原に、東峰が吃驚して声を上擦らせる。髭面で振り返ったチームメイトを仰ぎ見て、副主将はほら、とスケッチブックを掲げた。
 見えやすいように角度を調整する先輩に、日向の顔色が一気に青くなった。
「すがわらさん!」
「どーゆーことだ、テメえ。ボケェ!」
「ふぎゃあぁっ」
 たどたどしく叫ぼうとした矢先、反対側から怒号が飛んできた。萎縮して頭を抱え込んだ日向に、菅原は戸惑いと同情が半々に混ざった表情を浮かべた。
 憤るセッターと、半泣きになっている小さなミドルブロッカーを交互に見やって肩を竦め、彼は念のためと別のページも捲ってみた。
 しかしスケッチブックの落書きは、他に見当たらなかった。
「まあまあ、影山」
「俺だけ外すとか、良い度胸してんじゃねえか。どういうつもりだ、テメー」
 顔に見合わず荒事が苦手な東峰が仲裁に入るが、影山は耳を貸さない。相手が最上級生だというのも忘れて肘で追い払って、目を吊り上げて同級生に凄みかかる。
 威圧された少年は益々縮こまって顔を背け、鼻を啜って奥歯を噛み鳴らした。
「影山、止めろ。みっともないぞ」
「ですけど!」
 影山は声も体格も大きいし、目つきも悪いので、怒った時の迫力は凄まじい。本人にその気がなくとも、傍からは小さい子を苛めているようにしか見えなかった。
 声を荒らげた後輩に、菅原はスケッチブックを閉じて肩を落とした。
「日向も。授業中に、あんまり落書きばっかりしてんなよ?」
 一時間とじっとしていられない彼が、美術の授業を退屈せずに過ごせた理由が、きっとこの落書きだ。
 チームメイトの特徴を的確に描き出すには、かなりの集中力と観察眼が必要になる。しかし目下彼が一番近くで、一番長く見つめる相手を描けない理由は、菅原でも分からなかった。
「すみません」
「でもこんなけ巧いんだからさ。影山の分も、ちゃちゃっと描いてやれよ」
 殊勝に謝る一年生にスケッチブックを返し、萎びれているオレンジの髪を軽く叩く。
 だがひとり仲間外れにされて拗ねているもう一人の一年生を指差した瞬間、日向はバッと顔を上げて勢いよく首を横に振った。
「むむむ、むっ、無理です!」
「ああ?」
 ほかのみんなと同じように、デフォルメを利かせて描けばいい。そう簡単に言い放った菅原に向かって必死に否定すれば、案の定影山が機嫌を損ねて眉を吊り上げた。
 剣呑な表情を作り上げた彼に背筋を粟立てて、日向はスケッチブックを両手に握り、盾代わりにして構え持った。
 詰め寄る影山との間に壁を作り、呆気に取られる三年生のことも忘れて声を高くする。
「だって、おれ、影山、絶対カッコよく描けないし!」
 瞬間、険悪な空気に満ちていた部室が一気に静かになった。
 握り拳を振り上げる直前だった影山は呆気に取られて目を点にし、菅原はなにかを気取って苦笑いを浮かべた。東峰だけがきょとんとして、凍り付いた室内に右往左往し始めた。
「ん? んんん?」
「あー……旭。大丈夫っぽいから先行くべ」
「え? あ、ああ。うん」
 鈍いわけではないけれど、格別勘が鋭いわけでもないチームメイトの肩を叩き、菅原がこめかみを押さえながら呟いた。誘われた方は分かったような、分からなかったような顔をして頷き、硬直している影山と、目をギュッと閉じている日向を順に見た。
 ともあれ、影山が日向に危害を加える事はなさそうだ。それだけははっきりしており、彼は朗らかに微笑んだ。
 仲良きことは美しきかな。ひっそり感動して涙を堪えているチームメイトに嘆息し、菅原は誰にも聞こえない音量でぼそりと呟いた。
「仲が良いってだけなら、苦労はしないんだけどな」
 あんなことを言われたら、影山はもう日向を怒れない。日向も、自分がどれだけ大きい爆弾を落としたか、自覚していない様子だった。
「そ、そんなこと、いちいち、気にしてんじゃねーよ。ボケ」
「ででで、でも。でもさ。やっぱ影山は、カッコいいんだし。だったらちゃんとカッコよく描けるようになりたいじゃん」
「別に下手でも怒んねーって言ってんだろ」
「だったら、影山もおれのこと、描いてよ」
「それは嫌だ」
「なーんでー! いーじゃん、ちょっとくらいー!」
「ぜってー、いやだ」
 一旦は落ち着いたかと思われた口論が再発して、後方を窺い見た東峰が菅原を小突く。本当に大丈夫なのかと心配そうなエースに目配せして、苦労人の副キャプテンは苦笑した。
「あれは、放っておいても大丈夫な方」
 あんなもの、ただの惚気合いだ。聞かされている方が砂糖を吐くと笑い飛ばして、菅原はドアノブに手を掛けた。
 そして扉を開けて、
「お前ら、さっさと準備しないと、大地に怒られるぞ」
 終わりが見えないやり取りに釘を刺し、素早く通路へと出る。
 ドアを閉める直前、異様に近い距離で喧嘩をしていたふたりがピタリと止まったのが分かった。矢張り主将は偉大だと肩を揺らして、菅原は東峰を連れて第二体育館に向かった。

2014/08/18 脱稿