I’ll Be There for You

 けたたましい足音と、勢い良くドアを開ける音。扉が壊れてしまうのでは、と危惧したくなる轟音の末に現れた、鼻息荒い一年生。
 予感はしていたが、案の定だ。どこにいても、何をさせても五月蠅い後輩を遠くに眺め、御幸一也は頬を緩めた。
 苦笑していたら、肘で小突かれた。振り向けば偶々近くにいたクラスメイトに顎をしゃくられて、彼は肩を竦めて首を振った。
 食堂の入り口で慌ただしく左右を見回しているのは、総勢百人近くが所属している青道高校硬式野球部で、たったひとりのエースになる、と息巻くサウスポーピッチャーだった。
 もっとも、その道のりは険しく、容易ではない。
 実際問題、現在のエースは三年生の丹波だし、その後ろには剛腕投手の降谷が控えている。二年生の川上だって、忘れてはいけない。
 強打者と真っ向勝負できるだけの直球、もしくは変化球を有しているならともかく、最速でも百三十キロを少し超えるかどうか、という投手が活躍出来る場は限られている。軌道が読み辛いムービングの使い手なのが少ない利点だが、コントロールが定まらないようでは話にならない。
 問題は山積みで、冷静に考えれば背番号一番を背負うなど、土台無理だと分かりそうなものを。
 だというのに、そこで息巻く一年生は諦め悪く足掻き、他人を巻き込んで成長を続けていた。
 知識の吸収力は、乾いたスポンジ並だ。水を注げば、いくらでも吸い込んでいく。もっとも野球に関係のない情報はボタボタ零れ落ちているようで、定期試験は惨憺たる結果だったそうだが。
 情熱を一点に注ぎ過ぎだ。もっとも、そういう部分は人のことが言えないのだが。
 自分もまた、彼に負けず劣らずの野球馬鹿だと自覚している。手元に広げたノートに視線を落とし、御幸は一緒にずり下がった眼鏡を押し上げた。
 そこへ。
「見つけたぞ、御幸一也!」
 ようやく存在に気付いた沢村が、人を指さしながら大声で叫んだ。
 予想通り、彼が探していたのは御幸だった。
 やっぱり、という思いが胸を占め、自然とため息が零れた。あまりに対照的な両名が面白かったのか、傍らに立っていた倉持が楽しそうに口角を歪めた。
「ヒャッハ。ご指名だぜ」
 甲高い声で笑い、もう一発肘打ちを後頭部に叩き込んでくる。それを避けて押し返し、御幸はスリッパも履かずに歩いてくる後輩に肩を落とした。
 胸元に英字のロゴがプリントされたシャツを着て、下はジャージに厚手のソックス。つい今し方までグラウンドで走っていました、と言わんばかりの息の乱れ具合で、額には乾ききらない汗が浮かんでいた。
 首に巻いたタオルを勇ましく左右に揺らし、大股でドスドス言わせながら近づいてくる。目つきは剣呑で、機嫌の悪さがはっきり表れていた。
 気迫に圧され、食堂にいた数人が彼に道を譲った。御幸は腰かけた椅子から微動だにせず、黙って彼の到着を待った。
 倉持も、興味があるのか立ち去ろうとしなかった。それどころか御幸よりも先に口を開き、憤慨している後輩に身を乗り出した。
「よお、沢村。随分とご機嫌じゃねーか」
 皮肉を告げて、肩を小刻みに震わせる。自分の台詞がツボに入ったらしい上級生を一瞥して、沢村はぶすっと口を尖らせた。
 頬もパンパンに膨らませて、まるで食いしん坊のリスだ。しかし彼がそんなに愛らしい生き物でないのは、御幸も重々承知していた。
「何言ってるんですか、倉持先輩。ご機嫌なもんですか」
 荒々しく捲し立て、沢村は倉持に食って掛かった。握り拳を震わせて、真面目に受け取った嫌味を律儀に否定する。
 そういう部分だけは、妙に礼儀正しい。ただ先程上級生を堂々と呼び捨てにした件は、すっかり忘れ去られているようだった。
 今に始まったことではないのだが、部内での上級生、下級生の区別は厳格だ。
 放っておいて図に乗られては困る。他の一年生が真似し始めるのも、厄介だ。
「沢村。俺、先輩な」
 だから自ら切り出し、御幸は顔を上げた。それで何をしに来たのか思い出したのか、ハッとした沢村が倉持から意識を外した。
 長く握りしめていた拳を解き、彼はドンッ、と思い切りテーブルを叩いた。
 音は部屋全体に響き、居合わせた数人が何事かと振り返った。そしていきり立つ沢村と、これに向き合う形で座る御幸の図を確かめ、興味が失せたのか、あっさり注意を逸らした。
 硬式野球部の面々にすれば、御幸と沢村が対立する光景は日常茶飯事だ。取り立てて騒ぐほど、面白いものではない。
 もっとも当人は至って真剣だ。それに毎度付き合わされる御幸にすれば、迷惑な習慣だった。
 今日はいったい、何の用件か。
 おおよそ見当はついているけれど、思い込みだけで勝手に判断するのは危険だ。とはいえ、沢村が御幸に固執する理由はひとつしかない。
「俺の球、受けてくれ!」
 雄々しく吠える声が食堂に響き、どこかでやっぱり、と苦笑する声が聞こえた。
 御幸も同じ感想だ。それに加えて、またか、とも思う。二度目のため息で手元を湿らせて、彼は奥歯を噛んで力んでいる沢村に向き直った。
 隣では倉持が必死に笑いを堪えていた。居ても邪魔なだけだと彼の脛を蹴り、御幸はしれっと目を逸らした。
 睨まれても気にせず、どこ吹く風と受け流す。正面に視線を戻せば、沢村が必死の形相で返事を待っていた。
 いつの間にか、目線の高さが近くなっていた。
 力み過ぎて前のめりになり、膝が折れて体勢が低くなったのだ。距離も僅かに狭まって、食事をする長テーブルさえ乗り越えてきそうな雰囲気だった。
 そこまでムキになることだろうか。頬を緩め、御幸は沢村に微笑んだ。
「ダーメ」
 語尾を若干上げ気味に、ハートマークをおまけする口調でピシャリと言い切る。取りつく島を与えない返答に、一瞬綻びかけた沢村の顔が見る間に暗く歪んだ。
 高めの声色に騙されたに違いない。勿論わざとで、御幸は満足げに頷いた。
 倉持が呆れた顔で肩を竦めるのが見えた。それに気が付かなかったフリをして、御幸は右肘を立てて頬杖をついた。
 真っ直ぐ座っていた姿勢を崩し、上半身を僅かに傾けた彼を沢村がねめつける。だがどれだけ眼力を強めたところで、御幸が屈する訳がなかった。
「なんでだよ。降谷には投げさせてたって」
「あー、聞いちゃった?」
「アイツばっか、ずりぃ。俺には全然なのに」
 だからか、彼はやり方を変えた。前に出る一方だった身体を退いて、拗ねた顔でそっぽを向く。声のトーンは一気に小さくなり、後半はほぼ独り言だった。
 愚痴を零した沢村からは、いつもの威勢の良さが消えていた。
 どんな時でも元気溌剌としているのが彼の持ち味なだけに、こうも大人しくなられると違和感が募る。憐憫の情が生じ、慰めてやらねばという無駄な義務感が心の片隅で首を擡げた。
 それを踵で踏み潰して、御幸は聞き分けのない子供を叱った。
「あのな、降谷はうちのエースなの。前にも言ったろ?」
 丹波が怪我で戦線を離脱している間、チームの核を担うのは沢村と同じ一年生の降谷だ。
 立ち上がりにやや不安が残るものの、現段階でマックス百五十キロに迫る速球は魅力的だ。下手なチームなら、まずバットに当てる事さえ出来ない。たとえ当てたとしても力負けして、ボテボテの内野ゴロが精一杯だ。
 但し大会が進むにつれて、速球に目が慣れているチームと対戦する機会は増す。制球にムラがあるのをどうにかしないと、高めに浮いた球をあっさり外野に運ばれてしまいかねない。
 青道高校野球部は、勝てるチームでなければいけない。その為には、勝てる投手を掲げる必要がある。
 今のところ、降谷が圧倒的に沢村の上を行っている。だから監督も、彼を選ぶ。御幸だって、控え投手に構っている暇などない。
「けど、俺だって、そのうち登板するかもしれないのに」
「そのうち、な」
「だったら」
「けど、それは今じゃない。キャッチボールなら、他当たれ」
 冷たく言い放ち、犬猫を追い払う仕草で手首を振る。畜生扱いを受けた沢村は歯軋りし、テーブルに大事な指を衝き立てた。
 平らな面を握りしめようと力んでいる姿に、流石の御幸も眉を顰めた。
「こーら。商売道具を乱暴に扱うな」
「あでっ」
 止めさせるべく手を伸ばし、指関節の根本を叩き落す。手刀を食らった一年生はあっさり机に這い蹲り、痛みを堪えて鼻を愚図らせた。
 気が付けば、倉持がいなくなっていた。食堂で寛いでいたメンバーも、半数近くが姿を消していた。
 寮の部屋に戻ったのか、屋内練習場でバッドを振りに行ったのか。消灯までの時間は基本自由行動なので、御幸も五月蠅く言うつもりはなかった。
 外から閉められたドアに目を遣って、手元へ視線を戻す。沢村の登場で中断していた仕事を再開させるつもりでいたが、向こうは諦めていなかった。
「そんなに面白いッスか」
「お前、まだいたの」
「そんなに、俺よりスコアブックのが大事っすか」
「え? うん」
「即答すんな!」
 唐突な質問に、考えている暇はなかった。
 思わず真顔で首肯した途端、激昂されて、テーブルの足を蹴られた御幸は慌てて椅子ごと後ろへ下がった。
 押されて飛び出したテーブルが、胸元に迫っていた。あと少し逃げるのが遅かったら、背凭れとの間に挟まれていた。
 相変わらず、目上への態度がなっていない一年だ。上級生を敬う気持ちが足りていないと苦笑して、御幸はずれてしまったテーブルを押し返した。
 きちんと並べておかないと、明日の朝、食事の時に皆が困る。寮内部の施設を掃除し、整頓するのも、寮生である野球部員の務めだった。
「さわむら~?」
 仏の顔も三度まで、と言う。これで二度目だ。
 次はないと脅しをかけて、御幸はやり過ぎたと臆している後輩を笑った。
 衝撃で、テーブルに置いていたノートも端から飛び出しそうになっていた。
 角が一寸だけはみ出ていたのを小突いて戻し、真ん中の折れ目に人差し指を押し付ける。勝手に閉じないように形を整える為の仕草だが、そんな真似をしなくても、スコアブックには既に開き癖がついていた。
 左右の見開きには、黒のボールペンで様々な記号が書き込まれていた。時々他の色も混ざり、表面は非常に賑やかだった。
 上部には試合の日時や場所、対戦チームの名前等がやや癖のある字で記されていた。但し、沢村はこの書き癖に見覚えがない。恐らくはマネージャーか、ベンチ入りを果たせなかった部員の誰かのものだろう。
 丁寧で読みやすい字体を興味深げに眺め、沢村は苛立ちを思い出して上唇を突き出した。
「御幸先輩」
「はいはい。イケメンの御幸先輩ですよ」
「どこがだよ、性格悪いだけの眼鏡の癖に」
「沢村君、ちょっとそこに正座してみようか」
「すっごく格好良くて男前の御幸先輩、俺の球、受けてください!」
「ダメだって言ってんだろ。俺は今、忙しーの」
 小声の嫌味はしっかり聞こえていた。不遜に笑って床を指さした御幸に、沢村は背筋を伸ばして九十度に頭を下げた。
 それでも、快い返事は得られない。いい加減諦めて他を当たればいいのに、一度食いついたら簡単には離れない。
 しつこさはスッポン並だ。食べたら精がつくだろうか。
 一瞬、変な連想をしてしまった。慌てて首を振って追い払って、御幸は不貞腐れて蹲った後輩に目尻を下げた。
 時計の針は、もう午後九時を回っていた。
 あと少ししたら、御幸も部屋へ戻る。風呂は済ませた後だ。今更練習場に行って、汗をかきたくなかった。
「お前、風呂入ったか」
「まだです」
「俺は入った。だから、何度言ってもダーメ」
「もう一回入りましょうよ。お背中、お流ししやす」
「えー?」
 ふと気になり、尋ねる。案の定の返答に笑顔で切り返して、御幸は低い位置からテーブルにしがみついている後輩に目尻を下げた。
 膝を折って屈んだ沢村の、顎から下は机に隠れていた。テーブルの縁を掴む指先と不満げな顔だけがはみ出していて、ちっとも可愛くないけれど、愛嬌は充分だった。
 彼に注ぐ感情は、愛玩動物を前にした時のそれに近かった。
 誰にでも懐いて、尻尾を振って、嫌なことがあるとすぐきゃんきゃん吼える犬。或いは足元にまとわりついて離れず、けれど構おうとすると逃げ出す気まぐれな猫。
 今は、犬の方がイメージに近い。
 重ねあわせ、口角を歪める。笑われてムッとした沢村は、意地悪への仕返しのつもりか、利き腕を伸ばした。
「こら」
「大体、こんなの見て何が分かるってんですか」
 警戒もせずに見守っていたら、スコアブックを奪われた。
 慌てて追いかけるが、間に合わない。空を切った指を戻し、御幸はテーブルの向こうで蹲る後輩に肩を竦めた。
「分かるから、見てんだろ」
 試合の展開をいちいち文字に書き起こしていたら、とても時間が足りない。だから記号を用い、記述は簡略化された。
 反面、記号ひとつひとつの意味を知らなければ、スコアブックもただの汚い紙だ。
「俺にはさっぱりです」
 沢村が正直に告白し、ノートを机上に戻す。受け取って、御幸は呵々と笑った。
「知っとけよな」
「だって、使ったことなかったし」
「ま、そーだろうけど」
 彼の野球に対する知識は、稀に見る酷さだった。
 リトルリーグ所属の小学生だって、もうちょっと詳しい筈だ。
 見るに見かねて滝川が指導に入り、色々教えてもらっていたようだが、スコアブックの読み方は後回しにされたらしい。確かに火急を要するものではないので、御幸でも同じ判断を下すだろう。
 だが、これから先はそうも言っていられない。
「簡単に教えてやっから、少しは覚えろ」
「う、うス」
 今はまだ三年生がいるが、夏が過ぎれば部を去っていく。四月になれば学年が上がり、新一年生がやってくる。
 夏大会のただ中にあって、先のことなど考えてはいられない。けれどいずれ、否応無しに頭を悩まさなければならない日はやってくる。
 上級生として、そして投手として、この先沢村には活躍して貰わなければならない。その為にも、知っておいて損をする情報ではないはずだ。
 手招きし、御幸は隣の椅子を引いた。こちらへ来るよう促され、沢村は渋々立ち上がってテーブルを回り込んだ。
「それ終わったら、一球くらい、受けてくれますか」
「馬鹿言ってんじゃねーの。お前、夕方に散々投げてただろ。オーバーワーク」
「ぶぅ」
 この先、日中の気温はもっと上がる。炎天下での試合が増える中、体力を削る真似はして欲しくない。
 疲れを翌日に持ちこされては困るのに、そういう意図はちっとも汲んでくれない。我儘で自己主張が激しくて、芯が強くて譲らないところは、まったくもって投手向きだ。
 下膨れた表情の沢村を宥め、御幸はスコアブックを数枚捲った。
「これでいいか。お前の出た試合」
 何ページか戻し、広げて癖をつけ直す。御幸が用意した椅子に座った沢村は、そのひと言で処刑を待つ囚人風情だった表情を一変させた。
「俺の?」
「ああ。途中からだけど」
 彼は未だ、先発でマウンドに立ったことがない。だからどの試合を見ても、川上への繋ぎ役としての中継ぎ登板ばかりだ。
 それでも自分が投げた試合に言及されるのは嬉しいらしい。一気に笑顔になった彼に苦笑して、御幸はページの左端を指さした。
 降谷はマウンドを降りたとはいえ、打撃を期待されてレフトに下がっていた。だから投手交代ではあるが、実際は左翼手と沢村が入れ替わった表記になっていた。
 縦に並んだスターティングラインナップの下には各々二列ずつ空白があって、沢村は坂井の下に名前があった。背番号の数字も見える。また、名前の隣には小さく三角形が描かれていた。
「これは?」
「ん? ああ、それは左打者って意味。俺にもあるだろ」
「ホントだ。あれ? 倉持センパイのはなんかちょっと違う」
「あー、アイツはスイッチヒッターだからな」
 言われて頷き、上から順に見て行こうとして、沢村は首を傾げた。三角形の中に模様が入っているのを見つけて眉を顰める彼に、察した御幸が先回りして回答を口にした。
 右打者は何もなく、左打者は三角が。両打ちの打者には、三角形の中にもうひとつ、小さめの三角が。
「ほほー。成る程、なるほど」
 確かに逐一左打者だの、右打ちだの、書いている手間は惜しい。それに紙面は限られているので、小さくても分かり易い記号は便利だった。
 ひとつ理解が得られたところで先に進むべく、御幸は倉持の名前に添えていた指を下へずらした。
 小湊(兄)、伊佐敷、結城、増子と続いて、最下部の沢村まで移動させてから今度は右へと滑らせる。短く切った爪が叩いたマスは、一部を除いて綺麗に真っ白だった。
「はは。すげーな、お前」
「ム?」
「見事に三振ばっかじゃねーか」
 各選手名の右側には点線で五等分されたマスがずらっと並んでいた。
 倉持や伊佐敷、結城といったメンバーの欄はどこもアルファベットや数字で埋まっているのに、沢村のところだけは右下に「K」が、中央にギリシャ数字の一か二、或いは三しか無かった。残る欄は空白のまま残されて、そこだけ穴が開いているようだった。
「なんで分かるんスか」
「ん? だってこれ、三振って意味だし。んで、こっちはアウトカウントな」
「これが?」
 順に指で示し、御幸が告げる。沢村は分かったような、分からなかったような顔をして首を傾げ、口を窄めて顎を撫でた。
 真剣に悩んでいる横顔は、何故だか滑稽だった。
 ドジョウ掬いに出てくる、ひょっとこに似ているからかもしれない。零れそうになった笑みを堪えて目を細め、御幸は唸っている後輩の思考に思いを馳せた。
「三振王をドクターKって言うの、聞いた事ねえ?」
 かつて日本球界で、そしてアメリカのメジャーリーグで活躍した野茂投手や、最近ではダルビッシュ投手などが有名だ。
 けれど沢村はピンと来ないのか、不思議そうに見返して来た。
 そういえば彼は、あまりプロ野球に興味がないのだった。
 観戦するよりも自分がプレイする方が何倍も好き、と豪語するくらいだ。あれだけの有名選手を知らなくても、彼なら仕方ないと思えた。
 苦笑し、御幸はノートを撫でた。
「っていうか、なんで三振が『K』なんスか?」
「お。そこ行っちゃう?」
 三振は英語で、Strikeout。
 確かにKが入っているものの、省略形で使うには不自然な位置だ。
 興味を持ったらしい沢村の質問に、御幸は幾ばくか声を高くした。少し嬉しそうに口元を緩め、椅子ごと前後に身体を揺らして眼鏡の奥の瞳を細める。
 急に機嫌が良くなった彼に驚き、沢村は逆に警戒して身を引いた。
 なんとも失礼な態度だが、御幸は気にしなかった。浮かせていた椅子の前脚を下ろして机に肘を突き、意味深に微笑んで生意気な後輩に視線を戻す。
 見つめられ、沢村が緊張気味に喉仏を上下させた。
 沈黙が五秒ほど続いた。妙な空気が流れ、気まずい雰囲気が食堂を覆い尽くした。
「う……」
 勿体ぶる御幸に、沢村は唸った。早く言えと目で訴え、顎を引いて背中を丸める。
 両手は膝の上に置いて拳を作った彼に、青道高校の正捕手はやがて、ニッ、と白い歯を見せて笑った。
「実は俺も、知~らね」
「御幸一也ああああああっ!」
 あっけらかんと言い放たれ、ガクッと落ちかけた沢村は直後に雄叫びを上げた。
 敬称を忘れて吼え、勇ましく掴みかかってくる。それを甘んじて受け止めて、御幸は高らかと笑った。
「こらこら、苦しいだろ」
「テメー、からかうのもいい加減にしろよ」
「だーかーら、話は最後まで聞けって」
 胸倉を掴んで吊り上げようとした沢村だが、彼の膂力では御幸はビクともしない。引っ張られたシャツが伸びるのを懸念して払い除けられ、青道一の問題児はすごすご引き下がった。
 その上でお仕置きの一撃を頭の天辺に食らい、しょぼくれて小さくなった。
 不貞腐れた顔を俯いて隠すなど、往生際が悪い。意固地な奴だと肩を竦め、御幸は椅子を彼の方へ傾けた。
「あのな。三振が『K』って言われてるのには、定説がないの」
 いくつか説はあるけれど、どれも確定に至ってはいない。最有力なのは、英語のノックアウトの略ではないか、という話だ。
 とはいえ、これだってそう言われているだけで、異説を信じる人は居る。
 何が真実なのかは、誰にも分からない。だから御幸は知らない、と言ったのだが、早合点された所為で説明が後出しになってしまった。
「なら、先にそう言えよな」
「お前、俺が先輩だってこと忘れてんだろ」
「覚えてますよ。イケメン眼鏡の御幸先輩」
「おー、よしよし。ちゃんと分かってんじゃねーか」
 案の定文句を言われ、茶化された。分かり易いゴマすりに愛想よく返して、御幸は沢村の頭をくしゃくしゃに掻き回した。
 良く寝癖を作っているから剛毛かと思いきや、触ってみれば意外に柔らかい。汗が乾き切っていないのか、頭皮は僅かに湿っていた。
 早く風呂に入れて、床に就かせた方が良い。上級生として後輩の面倒を見るのは当然で、口煩くするのも時に必要だ。
 けれど何故か、言葉が喉に引っかかって出て来なかった。
「いつまでやってンすか」
「おっと」
 奇妙な感覚に戸惑っていたら、撫でられ続けるのを嫌がった沢村が首を振った。
 揺れで我に返り、慌てて引っ込める。他者の熱を残す指先をシャツに擦りつけて、御幸はわざとらしく咳払いをした。
 気を取り直し、説明に戻ろうとしたのだが。
「で、御幸先輩。なんでノックアウトで『K』なんスか?」
「お前……」
 無邪気に質問されて、御幸は頭を抱え込んだ。
 降谷といい、彼といい、どうして投手というものは勉強が苦手なのか。いや、川上も丹波もさほど成績は悪くないので、単純に彼らだけ特別なのだろう。
 まさかこの程度の英単語も把握出来ていないのかと呆れて、彼は首を傾げている後輩にため息を吐いた。
「あのな。ノックアウトは、えーっと……なんか、書くモン」
「あそこにホワイトボードが」
「いや、もういい」
 こんな時に限って、ボールペンもシャープペンシルも持ち合わせていない。ミーティング時に使うホワイトボードを示されたが遠く、面倒臭くなった御幸は人差し指で紙面をなぞった。
 沢村も意図を汲み、覗き込んできた。
「いいか。ノックアウトってのは、こう。最初の『K』は発音しない」
 白い紙に何度も同じ単語を描き出し、分かったか、と傍らに問う。沢村は真剣な表情で頷いて、自分の手にアルファベットを書き写した。
 後には残らないものの、五回、六回と繰り返されたら空中に文字が見えてくる。まるで今初めて知ったという顔をされて、御幸はがっくり肩を落とした。
 こうなってくると、次に来る質問も予想出来た。
「なんで発音しないんで?」
「そっちは礼ちゃんにでも聞け」
 野球部のスカウトをやっている高島は、青道高校の英語教師でもある。予め用意しておいた台詞を告げ、御幸は居住まいを正した。
 そういう疑問は、専門家に任せるのが一番手っ取り早い。この件は此処で終わりと区切りをつけて、彼は不満顔の後輩を小突いた。
 弾力のある頬を指の背で軽く捏ねて、戻した腕は椅子の背凭れに預ける。長時間同じ姿勢だと疲れるので、少し体勢を崩して脚を投げ出す。
 だらしなく体を斜めに倒した先輩を窺って、沢村は久方ぶりにスコアブックを覗き込んだ。
 見事なまでの三振の山に、ぐうの音も出ない。こんなはずではないのに、と悔しがる横顔を眺め、御幸は彼のバッティングを思い出した。
「バントだけは上手いのにな」
「人の傷口に塩塗るの、やめてつかぁさい!」
「ぶっちゃけ、俺としちゃ、投手は投げるのに専念して欲しいから、丁度良いんだけどな」
「……へ?」
 ほかの日のスコアを見ても、沢村のマスは三振か、犠打ばかり。
 一と三を線で結んだ上に四角で囲われている欄を見て呟けば、意外だったのか、沢村が間抜け顔を晒した。
 ぽかんとされて、前のめりになった御幸は頬杖をついた。
「ムフ」
 含みのある笑みを浮かべ、沢村をじっと見つめてやる。それで我に返った彼は不満そうに頬を膨らませ、斜線と数字が混在する降谷のマスを叩いた。
「でも、他の奴らはみんな」
「そりゃな。野球は一度に九人までしか出られないんだから、勝つ為には打率が良い選手を揃えたいさ」
 安打が続けば、得点の機会は増える。投手であっても打席に立たねばならぬ以上、塁上のランナーをホームに生還させる義務がある。
 ただ、それでも投手は投手だ。打席で活躍するのが本業ではない。
「塁に出れば、走らなきゃならない。走塁でミスれば、他のランナーや、バッターですら殺しちまう可能性だってある。ずっと緊張状態だ。そんなことで体力を無駄に削って、本来のピッチングに影響が出られちゃ困るんだよ」
 日頃思ってはいても口に出さずにいたものが、不意にぽろっと零れ落ちた。無意識に握っていた拳は天板に強く押し付けられ、小刻みに震えていた。
 表情も、恐らくは強張っていた。意図したわけではないけれども低音の、聞きようによっては凄味を利かせた声色になっていたと自覚して、御幸は自分に苦笑した。
 御幸の豹変に驚いたのは、沢村も同じだ。突然怒り出した彼に戦いて仰け反り、発言の意味を考えて、ぽん、と手を打つ。
「だったら俺って」
「でもお前は、もうちょっと打って欲しいかなー。降谷ほどとは言わないけど」
「どっちだよ!」
 打つなと言ったり、打てと言ったり。
 三振ばかりでもエースの資格がある、と前向きに捉えようとした矢先に落とされて、沢村は激昂して煙を噴いた。
 最高なのは、打てて、投げられるピッチャーだ。降谷はこれに分類されるが、いかんせん、スタミナに難がありすぎる。対する沢村は体力温存型の打席だが、温存しすぎてベンチでうるさい。
 バッティングも優秀で、最後までコントロールが乱れず、球威も落とさずに完投出来る投手など、そう多くない。エースで四番、の響きは魅力的だが、この称号に恥じない選手は果たしてどれくらいいるだろう。
「ぐぬぬ……見てろよ。いずれ、俺だって降谷を上回るホームランバッターに……」
「今のままじゃ無理だな。お前はバント以外だと、ボールを待たずに振っちまってんだよ」
 負け惜しみで呻く沢村を遮り、溜息と共に呟く。このアドバイスは数回目だが、役に立った例はなかった。
 あれだけバントが上手いのだから、普通にバットを振っても当たりそうなものを。どういうわけかフルスイングだと掠りもしないのが、不思議でならなかった。
 ミートポイントが前過ぎるのが良くないのだろう。バントならじっくり腰を据えてボールを吟味出来るくせに、バットを縦に構えた途端、待ちきれずに早振りしてしまう。
 もっと身体に近い位置まで引き込んでからでないと、当たっても遠くへ飛ばない。とはいえこの辺はセンスの問題だし、打撃練習に精を出されて本業を疎かにされるのは本末転倒だ。
 気分転換になるなら構わないが、度が過ぎると困る。ムードメーカーとトラブルメーカーは紙一重だと肩を竦め、御幸は手間のかかる後輩を小突いた。
 さっきから何度も頬を突かれて、沢村はムッと口を尖らせた。
「なんなんスか」
「いーや、別に。ってか、脱線しっ放しじゃねーか」
 スコアブックの読み方を説明していたはずが、いつの間にか大きく逸れていた。一度は本筋に合流したはずなのに、気が付けば跡形もない。
 三振の話から、随分と遠くへ来たものだ。感心しつつ、呆れて、御幸は紙面に目を落とした。
 気を取り直し、講義を再開させる。分かり易い試合展開を探して幾つかのページを跨ぎ、良さそうなものを見つけるまで暫く沢村を放置する。
「えーっと、……そうだな。これとか良いか。この回、一番から。倉持が内野安打で出て、亮介さんが送りバント、純さんがライト線へ単打、倉持がその間に三塁蹴って生還。で、哲さんがツーベースで二、三塁になったところで、増子さんがセンターへ犠牲フライ。純さんがタッチアップでホームを踏んで、哲さんも三塁へ。んで俺が、粘った末にファーボールで出塁して……あー、あったあった」
 たった数か月前の試合だが、既に懐かしかった。
 平面から浮かび上がって来た試合運びに歓声を上げ、隣のページの、敵チームのスコアにも目を移す。この日は丹波の調子が良くて、奪三振数もかなり多かった。
 試合は圧勝だった。春の地域ブロック戦を軽く振り返って、御幸はリードが上手く嵌った快感に胸を高鳴らせた。
 スコアには斜線が多く走り、各マスは隙間がないくらい数字や記号で埋まっていた。一度の攻撃で打者が一巡してしまい、ベンチ内がお祭り騒ぎだったのも思い出した。
 あの頃は、まさかこんな未来が待っているとは思わなかった。
 上級生は頼りになるし、下級生は問題児揃いだが育て甲斐がある。当分、退屈することはなさそうだ。
「えーっと、んじゃ、ヒットからだけど」
「んー……」
「この、真ん中の欄を囲む形で走ってる線が、安打のマーク。これがぐるっと回ると、ホームランってこと。あと、右下の欄にあるのが、飛んだコースな。倉持はショートゴロの内野安打だから、六。あと、内野安打は外野へ飛んだ分と区別して、斜線と繋がるように数字を半円で囲むことになってる。で、次の亮さんがバントで送ってるから、倉持は二番打者で二塁に行ったってことが分かるように、右上のマスに括弧して二。もしこれが盗塁だったら、記号は『S』だ」
「んぅ……」
「それから、亮さんの打席だけど。結果的には倉持と同じ内野ゴロだけど、犠打だって分かるように四角で囲んである。他に、菱形を書いて表現する方法もある。どっちでも良いけど、俺はこっちのがすぐ見て分かるからこっち派。内訳は、ピッチャーが取って一塁送球でアウトだから、一から三へボールが移動したってことで、こんな書き方になってる。アウトカウントひとつは、真ん中に『I』な」
 スコアブックは、塁上に出ている全ての選手の行動を記録する。無論、守備側の動きもチェックする。
 喋っているうちに気持ちが高揚してきたのか、ちょっと得意になって、御幸は試合の展開を事細かに説明した。読み返しているうちに記憶は鮮やかに蘇って、それと同時に、あの試合で現一年生が居たらどうなっていたかと考える。
 ベンチはもっと騒がしかっただろう。丹波の代わりに降谷が出ていたら、あと三点は上乗せ出来たかもしれない。逆に先頭打者を歩かせてピンチを招き、苦しい展開になっていた可能性もある。
「ああ、そうか。あそこでもっと内角に攻めておけば、ライト線へ運ばれる数を減らせてたかもしれない」
 自分のリードに対する問題点も浮かび上がってきて、反省混じりにひとりごちる。口元に手をやって顎を撫でた御幸は、ふと、もう長い間沢村の声を聴いていない気がして眉を顰めた。
 相槌はあったが、合いの手は挟まれなかった。
 彼がこんなに無口なのは不気味で、嫌な予感しかしない。もしや、と思って冷や汗を流し、御幸は恐る恐る右側を振り返った。
 刹那。
「どわっ」
 大きな塊が突然倒れて来て、咄嗟に固まってしまった。
 逃げればいいものを、動けなかった。落ちてくる大岩を避けもせず、受け止めようとする人間心理そのままに、彼は倒れて来た影を肩と胸で受け止めた。
 斜めにずり下がっていきそうなそれを支えてやり、我に返って息を吐く。汗ばんだ首筋に乾いた糸くずが絡みついて、擽られる感覚が不快だった。
 沢村の癖毛を上から押し潰して、御幸は俯いている後輩を覗き込んだ。
「……マジか」
 愚痴を零したのは無意識だった。
 そんな気はしていた。けれどまさか本当に、講釈中に眠られるとは思っていなかった。
「そんなに退屈だったのかよ」
 得意満面に解説していた自分が恥ずかしい。見れば食堂には他に誰も残っておらず、この情けない有様を目撃されなかったのだけが救いだった。
 額を左手で覆い、前髪を掻き上げる。人に寄り掛かって高いびき中の後輩は、楽しい夢でも見ているのか、幸せそうに笑っていた。
 だらしなく開いた口から、そのうち涎が垂れそうだ。幾らなんでも汚されるのは嫌で、御幸は嘆息して丸い頬を小突いた。
 紅に染まった肌が指に吸い付くようだ。ふくよかな触り心地に破顔一笑して、彼は尚も二度、三度と沢村を弄った。
 けれど、反応がない。余程深い眠りに就いているらしく、将来有望な一年生左腕はなかなか起きなかった。
 試しに鼻を摘んで、抓ってみるが、結果は変わらなかった。ふご、と変な音を吐きだしただけで、瞼は開かなかった。
 たった数分、目を離した隙に、だ。素晴らしい寝つきの良さで、拍手したいくらいだった。
「おーい」
 練習中から誰よりも声を出し、先頭を走り、夕飯後も自主練習でグラウンドを駆け回っていた彼だ。そこにスコアブックの説明を受けて、頭がパンクしたのだろう。
 投手の疲労を見抜けなかったのは、捕手としてマイナスだ。反省して、御幸は器用な体勢で気持ちよさそうに眠る後輩に相好を崩した。
「まいったな」
 折角寝付いたのだから、このまま朝まで寝かせてやりたい。しかし彼は、まだ風呂に入っていないのだ。
 汗だくの格好のままで一晩放置も可哀想だ。かと言って五号室に連れて行ってやり、着替えさせてやるのも面倒くさい。
 さて、どうしよう。
 ちらりと隣を窺えば、人の肩を枕に、沢村は爆睡中。食堂に居残っているのは自分たちだけで、助けを呼ぶ術は無い。
 携帯電話を持ってくれば良かった。部屋に置いて来た失態に苦笑いを浮かべて、御幸は聞こえて来た呑気な寝言に肩を竦めた。
「みゆきぃ……あと、じゅっきゅ……」
 夢の中でも、彼は野球をしているらしい。光栄なことに、女房役は御幸だ。
「あと五分、だな」
 沢村には自力で風呂へ、そして五号室へ行ってもらおう。その代わり、もう少しだけこのまま寝かせてやることにする。
 たとえ数分の睡眠でも、少しは疲労が抜ける筈だ。
 自分に言い聞かせるように呟き、御幸は目尻を下げた。
 幸せそうに寝入る後輩に頬を緩め、スコアブックを捲る。沢村が来る前に眺めていた試合までページを戻して、心地よい重みを背負い、彼は小さく欠伸をした。
 

2014/07/23 脱稿