Rock with You

 じりじりと肌を焼く太陽は、容赦というものを知らない。
 回が過ぎる毎に気温は上昇を続け、熱せられた大地は陽炎を生み出す勢いだった。地表は乾き、風が吹く度に砂埃が薄く舞い上がる。グラウンドはスパイクで踏み荒らされ、石灰の白線は見る影もなかった。
 その、最も無残な姿を晒している一帯を前にして、倉持はバットのグリップを強く握りしめた。
 グローブ越しの感触は硬い。金属製のそれを手首の運動と称してくるりと回転させて、彼は主審が待つホームベースに小さく頭を下げた。
「しゃっす!」
 威勢よく雄叫びを上げて、一歩、前に出る。と同時にスパイクの底で軽く地面を蹴って、倉持は自分の為のステージを整えた。
 相手チームは右打者が多い為か、左打席は思いの外荒れていなかった。それでもやや縦に長い、四角く区切られたスペースは、白球との勝負に挑み続ける球児たちによって表面を削られ、浅く穴が掘られていた。
 それをガシガシと削って均して、自分が踏み込みやすいよう空間を作り直す。審判の号令はまだかからない。ちらりと後方を窺って、彼はゆっくりバッドを持ち上げた。
 腕を真っ直ぐ伸ばし、遠くを見据える。ベンチから響く声は相変わらず五月蠅いが、集中を乱す材料にはならなかった。
「聞こえてるっての」
 喉の奥で笑みを押し潰し、堪え切れなかった分は声にして吐き出す。頬が緩んだのは、サバンナを自在に駆け回る、俊足の野生動物の名が聞こえたからだ。
 いつ、どんな時でも喧しい同室の後輩を頭から追い出し、意識を前方に戻す。マウンド上にいる右腕はこの暑さの中でも涼しい顔をして、ロージンバッグを手の上で踊らせていた。
 その背後を守る野手も、まだまだ元気だ。対する自チームはどうかと言えば、例の一年生を除き、声が出ているとは言い難かった。
 だがそれも、ある意味仕方がない状況だった。
「前に出てやがんなあ……」
 外野手の位置を確認して水平に掲げていたバッドを起こし、右肩へと移動させる。トン、と軽く叩いてそのまま軽く膝を折って、倉持は不機嫌に口を尖らせた。
「プレイ!」
 主審が勇ましく吠えた。身を低くして構えた彼が見据える先には、荒涼としたグラウンドが広がっていた。
 合図を受け、ピッチャーが投球モーションに入った。その向こう側から、見慣れたユニフォームがちらちら顔を出した。
 じりじりとリードを広げ、二塁ベースから距離を取る。一瞬目が合った気がしたが、のんびり確かめていられる状況ではなかった。
「……シッ!」
 直後。
 投手の指を離れたボールがうねりを上げ、倉持の喉元に切っ先を突き付けた。
 反射的に右足を強く踏み込み、バットを振り抜く。掌から手首にかけて重い衝撃が走り、鉛玉を叩いた錯覚に指が震えた。
 辛うじて当たりはしたが、かなり根本だった。打ち損じたボールは転々と一塁線の右側を転がり、捕球した一塁手が投手へ隙なく投げ返した。
「うーわ、ダッセ」
 たまらずバッターボックスを一度外して、倉持はヘルメットの上から頭を叩いた。
 見逃していたら余裕でボールだったのに、勢いとコースに釣られてつい手が出てしまった。幸いにも右に切れてファールになったが、ラインを割らずに転がっていたら、その時点でスリーアウトだ。
 俊足を買われての一番打者が、内野ゴロでアウトカウントを献上してどうする。そんな格好悪い真似は出来なくて、倉持は奥歯を噛み締めた。
 今のボールは、恐らくはスライダーだ。
 左打者の胸元に食い込んでくる、ストライクからボールになる球。他にもこの投手は、シンカーと、自信がないのかあまり多用しないものの、フォークボールを要所で投げ分けていた。
 次は何を投げてくるか。ちらりとキャッチャーを、そして相手側のベンチを盗み見て、倉持は深く息を吸い込んだ。
 ゲームは終盤に入ろうとしていた。
 六回裏、青道高校の攻撃。リードしているのはこちらだが、点差は一点しかなかった。
 初回、三点先取して試合の主導権を握った。だが記録に残らないような小さなエラーが積み重なって、次第に追い詰められていった。
 自軍のベンチを振り返れば、監督が腕組みをして仁王立ちしていた。目元はサングラスに隠されて、表情は分からない。だがキッと結ばれた口元や、部長が近付こうとしない状況からして、機嫌が良いとはとても言えなかった。
「やべぇな」
 そのベンチの奥に引っ込んでいるのは、先程代打を出されてしまった先発ピッチャーだ。
 今日の降谷は珍しく立ち上がりが良かったものの、敵チームの地道な攻撃で体力を削られて、六回表、ついに捕まった。
 ピッチャー強襲の内野安打に始まり、送りバント、ライト線を抜けるツーベースヒットでまずは一点。その後単打で三塁に進んだランナーが、センターフライ後のタッチアップで本塁へ走り、二点目を奪われた。
 しかも、これで終わりではなかった。
 ファーボールで不必要にランナーを出し、ツーアウト満塁に。これはなんとか凌ぎ切ったものの、降谷が限界なのは誰の目にも明らかだった。
 本人は大丈夫だと言い張ったが、監督は許さなかった。次の回からは、恐らくチームのムードメイカーであり、トラブルメイカーでもあるもうひとりの一年生がマウンドに上がる事だろう。
 出来るなら、ここで一点でも稼いでおきたいところだ。そうすれば投手も、チーム全体も、かなり楽になれる。
 とはいえ、状況はなかなかに厳しかった。
 二塁ランナーは、センターを守っている東条だ。足は速い方で、倉持がもし外野に転がせば、三塁コーチャーは迷わず腕を回すだろう。
 ただ肝心の倉持が、外野の頭を越せるほどの打撃力を持ち合わせていなかった。
 となれば、野手の間を抜けるゴロを打つしかない。もう一度敵チームの守備位置を頭に入れて、彼はバッドを握りしめた。
 外野は、先ほどまでと同様、どれも前に出ていた。
 あちらも、引き寄せた流れを持っていかれたくないのだろう。露骨なバックホーム体制で、一点も渡さない、という強い意志が感じられた。
 だからといって、みすみすアウトをくれてやるつもりはない。正面にさえ転がさなければ、一塁ベース上を駆け抜けるのは容易かった。
 バッターボックスに戻り、構えを作り直す。吸い込んだ息を一気に吐き出して、倉持は脇を絞めて気合いを入れた。
 誰もが息を潜めていた。緊張の面持ちで、投手がゆっくり身構えた。
 二塁ベース上の東条が、進塁打を期待して大きくリードを取る。
「っ!」
 直後、ピッチャーがくるりと身体の向きを変えた。
 砂埃が舞い上がった。東条が慌てて手から戻り、カバーに入っていたショートのグラブ下をすり抜けた。
「セーフ!」
 同じくベースに駆け寄った二塁審判が、大袈裟に両腕を横に広げた。
 雄叫びに近い声を張り上げ、片方のチームに安堵を、もう片方には悔しさを分け与える。倉持も一瞬ひやりとして、土埃を払いながら立ち上がった後輩に胸を撫で下ろした。
 もっとも、一番ほっとしているのは、リードを大きく取り過ぎた東条本人だろう。
「ったく」
 ベンチを盗み見るが、監督の仁王立ちに変化はなかった。あの人の心臓はどうなっているのかと苦笑を漏らして、倉持はバッドを握る手首をぐるぐる回転させた。
 ツーアウト、二塁。打席は一番に戻り、ネクストバッターズサークルには本日二安打の小湊が控えていた。
 ベンチとしては、倉持に是が非でも塁に出て貰い、小湊に期待する、といったところだろうか。実際、本日の倉持のバットはかなり湿っていた。
 一回の裏の攻撃こそ、エラーすれすれの内野安打で出塁した。先頭打者としての役目をきっちり果たして、脚も絡めて先取点獲得に貢献した。
 だがその後は、鳴かず飛ばずの有様だ。
 この辺りできっちり挽回しておきたいのが本音だ。後輩である一年生が頑張っているのだから、上級生であり、副部長である自分が手本を見せてやらなくてどうする。
「あーあぁ、あっちぃなあ」
 もう暦の上では秋なのに、少しも涼しくならない。埃っぽい空気を吸い込んで、倉持は投手に向き直った。
 目深に帽子を被ったピッチャーが、ふるふると横に首を横に振った。キャッチャーのサインに不満を見せて、続けて出された分には静かに頷く。
 打ち取る気満々だ。挑発されているようで、胸の奥がカーッと熱くなった。
 ちろりと舌を出して唇を舐め、セットポジションに入った投手を隙なく凝視する。腕を引いて構え、倉持は一瞬出かかった右足をすんでのところで押し留めた。
「ボーッ!」
 主審が低い声で吼え、キャッチャーが悔しそうに舌打ちした。
 外角低め、ギリギリだったが外れてくれた。
 二球続けて打ち損じるのは、流石に避けたい。後で囃し立てられるのは回避出来たと息を吐き、倉持は雲の白さが眩しい空を仰いだ。
 これでカウントは、ワンボール、ワンストライク。二球目も変化球だったから、そろそろストレートが飛んできてもおかしくなかった。
 だが二打席目、三打席目はその変化球に打ち取られている。初回の内野安打は、真ん中低めに甘く入ったストレートを掬い上げてのものだった。
 バッテリーも、当然そのことが頭にあるはずだ。となれば、簡単には投げてこない。この打席、全て変化球で攻めてくる可能性はゼロではなかった。
「けど、結構数投げてるよな、こいつ。そろそろ疲れが出てくれても良い頃なんだけどなあ」
 青道高校の一年生投手、降谷は、百球を越えたところでスタミナ切れを起こし、ベンチに引っ込められていた。だが目の前のピッチャーはそれ以上の球数を投げているだろうに、まだボールに威力があった。
 但し、失投は着実に増えていた。東条が打ったスライダーも、バッテリーが期待したほど曲がらなかった一球だ。
 その後、送りバントで二塁へ送り、ワンアウト二塁という絶好のチャンスで、ベンチは今日は九番に座っていた降谷に代打を送った。
 しかし、期待されてバッターボックスに立った金丸は、あっさり初球に手を出した。
 高々と打ち上げられたボールは、ライトのグラブにすっぽり収まった。それもかなり内野寄りで捕球された為、東条はタッチアップで三塁に進む事すら出来なかった。
 そんなこんなでツーアウトだから、倉持が打てば二塁ランナーは自動的にスタートを切る。打点を稼ぎたいと思うのは、欲だ。
 ピッチャーが構えた。ベンチからの声援が五月蠅い。集中させろと悪態をついて、倉持はギリリと奥歯を噛んだ。
 絶対打ってやるから、ちょっと待ってろ。ひと際騒がしい後輩を心の中で怒鳴りつけ、意識の全てを白球へと注ぎ込む。
 直後。
 キャッチャーがいきなり左へスライドした。
「ボール!」
 呆気に取られ、目を剥く。ストライクゾーンから大きく外れたボールを掴み、捕手が口角を歪めて笑ったのが見えた。
 打ち気を逸らされた。呆然としたままバットを下ろし、倉持は忌々しげに舌打ちした。
「くそ。落ち着け」
 バッテリーの術中に嵌ってやる必要はない。しかし気持ちを落ち着かせようとすればするほど、焦りはどんどん膨らんでいった。
 苛立ちを紛らせようと空を蹴り、バッターボックスを掘って足場を均す。土を被ったホームベースをバットの先で数回叩き、気持ちを切り替えようと深呼吸を繰り返す。
 膨らませた頬を一気に凹ませて、倉持は何気なく右後ろに目を向けた。
 生真面目な顔をして、小湊が白線の円の中に座っていた。愛用の木製バッドを肩に預け、自分に打席が回ってくると信じて静かに待っている。
 前髪に隠れて目元は見えないが、野手の守備位置を確認し、頭の中でイメージを積み重ねていることだろう。頼もしい二番打者だと笑みを押し殺し、倉持は改めて、自分に課せられた使命を胸に叩き付けた。
 ファールを重ねて投手の自滅を誘うような、そんな器用な真似は出来ない。
 どう足掻いたって、足で稼ぐ泥臭い野球が限界だ。外野の頭上を軽々と越えるホームランバッターには、逆立ちしたってなれない。
「しゃーねえ」
 肩の力を抜いて呟き、倉持は腰を低く構えた。
 基本に立ち返る。多くは望まない。
 すべきことは、ただひとつ。塁に出て、次に繋げる事。
 ボテボテのゴロだって、相手のエラーを誘ってセーフになれば、ちっとも格好悪くない。内野安打の数こそが、倉持の勲章だった。
 難しく考えず、思考はシンプルに。
 狙うのは高めのボール。上から叩きつけて、間違ってもフライにはしない。
 東条がじりじりとリードを大きくする。カウントは、ツーワン。あと一球だけなら、じっくり見ても問題なかった。
 けれど、一方的に追い詰められるのは嫌いだった。
 首を擡げた負けず嫌いを薙ぎ倒し、倉持は唇を舐めた。緩みそうになる口元を引き締めて、昂ぶる鼓動に汗を流す。
「欲しいだろ、ストライク。投げろよ。自信あんだろ」
 打ち取られた打席は、スライダー中心の配球だった。軌道は頭にこびりついている。一球目は、最初に比べると曲がり方が幾分弱かった。
 目を瞑り、確認と修正を怠らない。体内に蔓延る熱を呼気に混ぜて吐き出して、彼は野手の動きを目で追った。
 東条の顔がいやにくっきり見えた。ランナーと牽制球を警戒して、ショートの首が左右に振れている。一度に多くの事を把握しようとしている所為で、逆に注意力が散漫になっていた。
「はは」
 それでは駄目だ、全然なっていない。
 背番号六番は、そんなに軽いものではない。
 滑稽で笑いが込み上げ、直後に憤りが湧き起こった。
 ピッチャーが身構えた。グラブの中で硬球を握りしめて、絶対の自信を込めて振りかぶり、渾身の一球を投げ放つ。
「――――しゃあ!」
 来た。目の前が妙にはっきり白く、明るくなって、倉持は腹の奥底から湧き起こった興奮に身を委ねた。
 吼える。タイミングを合わせる。踏み込む。全神経をバットへ注ぎ込む。腰を捻る。下半身を固定する。
 腕を、強く振り抜く。
 ボールに叩き付ける。
 快音が響いた。
「走れ!」
 誰かが叫んだ。言われるまでもなく、倉持は右手に残ったバットを宙へ放り投げた。
 打ち返されたボールが地面すれすれを奔った。驚愕に目を見開く投手が咄嗟に右手を伸ばすが、届くわけがなかった。
「ぶつかる!」
「東条、行けっ」
「ショート!」
 声が交錯する。グラウンドがにわかに騒がしさを増した。聞いている暇などなく、倉持は一塁目掛けて地面を蹴り飛ばした。
 打球は、二塁と三塁の間を走っていった。ほぼショートの正面で、打った瞬間、失敗したと思った。
 だというのに、一塁コーチの木島が腕を回していた。止まれ、ではない。逆だ。二塁を狙うよう声を張り上げ、ダイヤモンドを指さしていた。
 ファーストは塁を離れていた。一瞬見えた横顔は焦りに染まっていた。ショートの守備範囲にボールが飛んだというのに、送球されてくる気配がなかった。
 何が起きているのかさっぱり分からない。だが声に出して問うている場合ではない。木島の指示を信じて、倉持はベースを蹴って左に進路を変更した。
「ッハ」
 速度を緩めず、息を吐く。心臓が締め付けられて、全身の血液が沸騰している錯覚に陥った。
 頭の中で銅鑼が鳴っていた。吸い込んだ空気が熱い。鼻腔が焦がされ、埃を巻き込んだ喉が乾燥して張り付いているようだった。
 グラウンドを後ろへ蹴り飛ばし、ぐん、と伸びあがる。腕を振る。顔を上げる。
 目の前が一気に広がった。
 遠く、慌てふためく背中が見えた。レフト側のフェンス手前で、野手がなにやらもたついている。センターも駆けつけて、三塁側から大きな声が飛んでいた。
 東条はとっくに塁を離れており、視界に姿はなかった。
 ショート強襲の一打が放たれた直後、彼がほんの一瞬、スタートを遅らせたのを倉持は知らない。
 東条は腰を落として捕球体勢に入ったショートの視界を覆う格好で、飛んでくるボールを隠して三塁へ駆け抜けた。タイミングが少しでもずれていたら守備妨害を取られかねない危険を冒して、遊撃手に打球を見失わせた。
 結果的に、ボールはショートの右手前でバウンドして、センターとレフトのほぼ中間を転がって行った。浅めに守っていた外野手は、当然のようにショートが捕球に成功していると信じて疑わなかった。
 そういった思い込みが重なって、行動を起こすのが一歩遅れた。青道の一塁コーチは、この好機を見逃さなかった。
「走れ!」
 真後ろから飛んできた声が背中を押した。左後方からはワッと歓声が沸き起こった。恐らくは東条が、悠々とホームベースを踏んだのだろう。けれど倉持は、それを振り返って確かめるような真似はしなかった。
 大きく膨らみそうになるコース取りを修正して、最短経路で二塁を目指す。ようやくボールに追いついたセンターに、レフトが何かを叫んで三塁方向を指さすのが目に入った。
 狙える。行ける。あのタイミングなら、三塁セーフも余裕だ。
 心が沸き立った。長打など久しぶりだ。思わずガッツポーズを作りたくなる。それは塁上に立ってからと自制して、スピードを緩めることなく二塁ベースを蹴り飛ばす。
 強引な方向転換で、砂埃が舞い上がった。心臓が五月蠅い。沸騰した血液が体中を駆け巡り、滾った興奮が筋肉を動かした。
 コース上にショートはいなかった。
 外野から三塁へ中継すべく、内野と外野の境界線まで下がっているらしい。お蔭で邪魔されずに済むとほくそ笑んで、倉持は直後、目を見張った。
 正面に立つ三塁コーチが、右腕をぶんぶん振り回していた。左手を口元に添えて、声の限り叫んでいた。
「行け、倉持!」
 三村の怒号が脳天を貫く。にわかには信じがたい突飛過ぎる指示に、倉持は嘘だろう、と息を呑んだ。
 何が起きているか分からない。
 だが確実に、何かが起こっていた。
 無駄な動作はスピードを殺す。余所見をして集中を乱す事は出来ない。
 信じて突き進むか、疑って速度を緩めるか。
 安全牌を拾って三塁打で満足するか、蛇の穴倉に飛び込んで宝に挑むか。
 選択を迫られ、倉持はゴクリと喉を鳴らした。
 三塁をオーバーランしてベース間に挟まれるのを回避するには、そろそろブレーキを掛ける必要があった。反対に、本塁を狙って暴走するなら、このまま突っ走るのみ。
 三村の目は澱みなかった。前のめりになって、必死の形相で本塁を指し示していた。
「……ヒャハッ!」
 直後、倉持は堪え切れずに噴き出した。
 口角を歪め、息を吸う。酸素を肺に留め、腹に、太腿に、脛に、踝に、爪先に、全神経を注ぎ込む。
 疑うわけがないではないか。信じるに決まっている。
 行っていい。これはチャンスだ。このまま三塁を蹴って、一気に本塁を狙うべきだ。
 絶好の好機を逃す手はない。幸運の女神は微笑んだ。
 土埃を巻き上げ、最短ルートで三塁ベースを蹴る。三村の吼える声が一瞬で遠ざかった。慌てふためく三塁ベンチを無視して、倉持は本塁手前で身構えているキャッチャーを強く睨みつけた。
 焦点が合わないぶれた視界に、人のバットを片手に叫んでいる二塁手が紛れ込んだ。無事生還を果たした中堅手が、倉持を呼んで大きく手招きしていた。
 六回で降板したエースがベンチ前に飛び出していた。次の回から登板だというのに、キャッチボールすらしていない二番手投手の顔もあった。
 レガースだけ装着した正捕手は、驚いた風に目を丸くしていた。いつも澄まし顔で平然としている男なだけに、その表情はかなり小気味よかった。
 笑いが止まらない。叫び出したくてたまらない。
 魂が震えた。興奮に血液が沸き立つ。心臓が嘶く。
 すべてがスローモーションに見えた。
「バックホーム!」
 直後だ。
 誰が発したかも分からない声が後頭部に襲い掛かった。思い切り殴られて、高揚感に酔っていた倉持に冷や水を浴びせかけた。
 キャッチャーが捕球体勢に入った。ボールがいつ飛んでくるか、倉持には分からなかった。
 タイミングはぎりぎりだ。先に捕球されてしまったら、大外に逃げてタッチを避けなければならない。落球を狙って体当たりしたら、守備妨害を取られてアウトになる。
 体温が一気に下がった。迷いが生まれ、足取りが鈍りかけた。
 刹那。
「倉持、行け!」
「うおぉぉぉぉ、倉持せんぱーーーいっ!」
「突っ走れー!」
 それまでぼんやりだった声援が、急激にクリアになって響いた。
 野太い雄叫びが混ざり合い、どれが誰だか分かったものではなかった。しかし力の限り応援されている。それだけは確かだった。
 期待されている。皆が望んでいる。だったら格好よく本塁生還を決めて、生意気な後輩の鼻を明かしてやれ。
「やってやろうじゃねーか」
 ランニングホームランなんて、最高にロックだ。
 萎えかけていた興奮を滾らせ、乾いた土を後ろへと蹴散らす。スピードを上げる。一瞬で距離を詰めた倉持に驚き、相手チームのキャッチャーが顔を引き攣らせた。
「いっけえぇぇぇっ!」
 手前でワンバウンドしたボールが見えた。キャッチャーミットに収めた捕手が、ラインを跨いで倉持の進路を塞ぎに入った。
 左腕が迫ってくる。それが触れたら、倉持の負けだ。
「させるかあ!」
「ヒャハハハハ!」
 力強い雄叫びがホームベースに轟く。それを掻き消し、倉持が甲高い声を響かせた。
 土煙が高く舞い上がった。
 あれだけ騒がしかったグラウンドが、不意に静かになった。
 皆が息を呑んだ。視線が主審に注がれる。ぐっと前のめりになった男はしばし迷うように押し黙り、やがてゆっくり、利き腕を握りしめた。
 そして。
「セーフ!」
 歓声が起こった。ギリギリにタイミングでホームベースに触れた倉持は、主審から発せられた仰々しい宣告に、堪え切れずにクッ、と喉を鳴らした。
「っしゃあ!」
 握り拳を作り、天に向かって突き出す。その身体はどこもかしこも泥まみれで、ヘルメットは頭の上から消えてなくなっていた。
 直前まで被っていたのに、何処へ行ったのか。左右を見回しながら顔を上げた倉持は、スッと差し出された手に吃驚して仰け反った。
「凄いです、倉持先輩」
 その反応に苦笑して、小湊が頬を緩めて言った。転がったヘルメットを拾った東条がその後ろに立って、ベンチ前には帰還を待つチームメイトが溢れた。
 どうやって捕手のミットを掻い潜ったのか、はっきりとは覚えていない。
 ただ必死で、無我夢中だった。
 直前に脳裏に浮かんだのが、四月の早い時期にあった一年生チームと二軍との試合での誰かだったとは、口が裂けても言いたくなかった。けれど器用にキャッチャーを躱して本塁に滑り込んだ技術は、悔しいが認めるしかない。
「くあ~、ペペッ。ぐっちゃぐちゃじゃねーか」
 一気に真っ黒になったユニフォームを引っ張り、口の中に入った砂を唾と一緒に吐き出す。ホームベース上を次打者に譲ってベンチへと向かって歩き出せば、再度ワッ、と空気が震えた。
 見事二打点を叩き出した倉持を出迎え、控えも含めて全員が駆け寄って来た。中でも一番騒がしかったのは、予想通り、同室のあの一年生だった。
「すげー。すげーっす、倉持センパイ。なんですか、なんなんスか今の。すんげーカッコ良かった!」
「おつかれさまです……」
 本人よりも興奮気味の背番号十八の後ろには、喜んでいるのか、悔しがっているのか微妙な感じの背番号一が立っていた。
 抑えきれていないオーラは、打者としての対抗心か。差し出されたコップの水を受け取って、倉持はいやらしい顔で笑っている同学年のチームメイトを睨みつけた。
「ンだよ」
「いや? 初めてじゃないかと思って、さ」
「うっせ。次はもっとゆっくり戻って来てやるよ」
「うわー、すげえ。期待しないで待ってよっと」
 楽々フェンス越えを狙える奴に言われると、嫌味にしか聞こえない。プクク、と肩を震わせた御幸にこめかみを引き攣らせて、倉持はひと口も飲んでいないコップを握り潰した。
 中身が飛び出し、砂埃が残る右手が濡れた。見ていた金丸が慌ててタオルを取りに走って、そこに別の歓声が重なった。
 二番打者が期待に応え、一塁に走っていく。ゲームは継続中だと思い出して、ガードを外した倉持は渡された二杯目のコップに口をつけた。
 その前を、バットを手にした四番打者が歩いていく。
「んで? 今の御気分は?」
 すれ違いざま、聞かれた。
 ムカツクほどに嫌味な笑みを浮かべられて、倉持は負けるものかと口角を歪めた。
「んなの、決まってんだろ」

2014/06/08 脱稿