Hallo Spaceboy

 意外なことに、クラスが違うと、思いの外学校内で顔を合わせる機会が少ない。だからか、妙に新鮮な気分だった。
 毎日嫌というほど一緒にいて、なにかと張り合っているけれど、学校の中で会った彼は吃驚するほど大人しかった。マウンド上で激しく自己主張を繰り返し、絶対に譲らないと言い張る凄まじい迫力は、微塵も残っていない。
 拍子抜けするほどに静かで、まるで借りてきた猫だ。話しかけるのではなかったと軽い後悔に見舞われて、沢村栄純は誤魔化しに頬を掻いた。
「……」
 沢村の前に佇むのは、同じ野球部に所属するピッチャー、降谷暁だった。
 身長百八十三センチから投げ下ろされるストレートは球速百四十キロを越え、目下次期エースは彼と目されている。但しコントロールが甘く、立ち上がりが悪いという欠点が克服されない限り、どうなるかは不明だ。
 同じ投手である沢村とは、立場上、ライバルという事になる。同学年に優秀な人材が複数いるということは、チームにとっては有難い事だけれど、選手に言わせると不幸でしかない。
 そんな目の上のタンコブ同然の男を前に置いて、沢村は腕を下ろすと力なく首を振った。
 降谷は先ほどからひと言も喋らない。呼び止められた理由を問うわけでもなく、ただ不思議そうに小首を傾げていた。
「……いや、えー。あー……」
 たまたまだった。
 廊下を歩いていたら、見覚えのある背中を見つけた。こちらはひとり、あちらもひとり。珍しい事もあるものだと深く考えもせず、何の気なしに挨拶をしてぽん、と肩を叩いた。
 そして会話が止まってしまった。
 もともと始まってもなかったのだが、振り向いた時に何か言ってくれれば良いものを。おはようでも、なんだっていいのだ。合いの手を挟んでくれればそれでよかった。
 だというのに、降谷は無言だった。
 肩を叩いてきた相手が誰なのかを認めて、小さく頷きはした。それから眉を顰めて物言いたげな表情をして、高い位置から沢村をじっと見つめてきた。
 目は口ほどにものを言う、と言うけれど、言葉にしてくれなければ心の内は読み取れない。そもそも降谷という男は、野球以外に関しては、何を考えているのかさっぱり分からない人物だった。
 負けず嫌いで、強気で、自信家で、我儘。けれど一度マウンドから離れると、その剛毅な性格は一気に萎んで小さくなった。
 必要でないことを言わないどころか、必要なことまで言わない。たまに口を開いたかと思えば、突拍子もないことを呟いて周囲を戸惑わせもする。
 今が、まさにそういう状況だった。
「なに?」
「おせーよ!」
 困り果てた沢村が目を泳がせたところで、首を真っ直ぐにした降谷がやっと声を発した。そのタイミングの悪さに堪らずツッコミを入れて、野球部一のお調子者は集まった周囲の視線に首を竦めた。
 ここは学校の、廊下のど真ん中だった。
 すぐ左手に教室が連なり、前方には階段が見えた。その向こうにはトイレもある。
 授業と授業の合間とあって、人通りはさほど多くなかった。とはいえ、完全にゼロではない。教室の出入り口近くにいた生徒も、何事かと興味深そうな顔をしていた。
 それに小さく舌打ちして、沢村はきょとんとしている降谷の背中を押した。
「痛いんだけど」
 ただ、降谷は動かなかった。沢村の手と壁との間に挟まれた青年は不満げに口を尖らせ、唐突ともいえる暴力に訴えたチームメイトを睨んだ。
 そうはいっても、眼差しには気迫がまるで籠っていない。本気で嫌がっている様子は見受けられなかった。
 抗議を受け、沢村は腕を引っ込めた。そして今更左右を見回して、見知った存在が近くにいないのを確認する。
「なんなの?」
 きょろきょろした末にため息を吐かれるのは、あまり気持ちが良いものではない。一方的に攻撃された降谷の不満はもっともで、短時間で反省した沢村は利き腕で頭を掻き上げた。
 一瞬だけ額を晒し、右足で床を叩く。さっきから一秒もじっとしていない彼を見下ろし、降谷は再度、首を傾げた。
「いや、別に……お前いたから、それだけだけど」
 トイレに行こうと教室を出た先に、知り合いがいた。だから挨拶くらいしておこうと、軽い気持ちで声を掛けた。
 それ以外に理由はない。もし相手が金丸や東条だったなら、沢村はとっくにトイレへ出向いて目的を果たしていた。
 話しかける相手を見誤った。そういえばこいつはコミュニケーション能力が低いのだったと、今頃思い出した沢村は頭を抱え込んだ。
 同じ野球部の、小湊春一が降谷と一緒にいてくれたなら、多少は会話が弾んだだろうに。口下手の域を遥かに通り越している相手を見上げ、沢村はもう一度、短い前髪を掻き回した。
 中途半端も良いところだが、一方的に会話を終わらせて立ち去ってやろうかとも思う。休憩時間は有限で、チャイムが鳴る前に席に座っていなければいけない。降谷相手に浪費している場合ではなかった。
 けれど、何故だか妙に離れ難い。きっちりひと段落つけてからでないと気が済まない性分が、こんなところで災いした。
 がっくりと肩を落として、沢村は右の爪先で左足の踵を擦った。
「春っちは?」
 こういう時こそ、頼れるセカンドの登場だ。
 共通の友人である小湊は、降谷とクラスが同じだ。沢村と違ってクラスメイトから一歩引いた感じのある彼は、大抵の場合、小柄なチームメイトと行動を共にしていた。
 しかし今、その姿は見えなかった。
「教室だと思う」
「ふーん」
 淡々と告げた降谷に、他に言葉が浮かばない。緩慢な相槌ひとつを打って、沢村は遣り難さに唇を噛んだ。
 もっと話題を膨らませる努力をしてくれないと、先に話しかけた自分が馬鹿みたいではないか。いや、確かに褒められた学力はしていないが、テストの成績だけで言えば、降谷よりは幾分マシだ。
 苛立ちを脇に流して無理矢理溜飲を下げて、沢村は立ち止まったままもなんだから、と一歩を踏み出した。
 すると意外にも、降谷は動きを揃えてついてきた。
 どうやら行き先は同じらしい。ワンテンポ遅れて行動を開始したチームメイトを顧みて、沢村はやっと相好を崩した。
「トイレか?」
「うん」
「俺も」
「そう」
「つーかさ、この学校って教室からトイレまでちょっと遠くね? 数も少ないしさ。不便だよな」
「…………」
「なんか言えよ!」
「え?」
 機嫌を取り戻した沢村が先行する形で歩き、あれこれと勝手に喋り出す。だが階段手前に差し掛かったところで唐突に怒鳴られ、降谷は目を丸くした。
 呆気に取られ、肩で息をしている沢村にひっそり息を飲む。
 彼は怒りに拳を震わせていた。やり場のない憤りを懸命に押し留めて、碌に得られない反応に向かってゆるゆる首を振った。
 沢村一人がひたすら喋って、気を使って。これではまるで、道化ではないか。
 つまらないし、面白くもない。少しも楽しくなくて、無性に悔しかった。
「……ごめん」
「いーよ、謝んな」
 戸惑い、降谷が小声で呟いた。それを力任せに押し返して、沢村はモヤモヤが晴れない胸を引っ掻いた。
 降谷は悪くない。彼がこういう男だと知っていたのに、他の連中と同じ反応を期待した自分が愚かだっただけだ。
 勝手に期待して、裏切られたと感じた。イラついているのは、自分自身に対してだ。
 浅く唇を噛み、気持ちを切り替えようと深呼吸を二度繰り返す。その間も降谷は足を止め、沢村の次の一手を待ち続けた。
 その瞳は揺れており、心細げだった。
 是が非でもマウンドを譲らないと言い張る、強情な眼はどこへ行ってしまったのか。迷子の子犬を見つけた気分になって、沢村は力なく笑って肩を竦めた。
「そうだ。食べるか?」
「え?」
 ユニフォーム時とはまるで別人だが、嫌いではない。不器用に結ばれたネクタイの曲がり具合にも顔を綻ばせ、沢村はズボンのポケットに手を伸ばした。
 手首まで突っ込んで、中指が触れたものを手繰り寄せる。出てきたのはひとつ前の休憩時間に、クラスの女子が恵んでくれた菓子だった。
 携帯に便利なサイズのチョコレートだ。新味が発売されたとかで、物珍しさで買ってみたがイマイチだったのであげる、と押し付けられたものでもある。
 自分は残飯処理係ではないと腹が立ったが、貰えるものは拒まない主義だから、有難く受け取った。胃袋に入ってしまえば味など関係ないし、市販化にまでこぎつけた商品なのだから、そこまで不味くないはずだ。
 ずっとポケットに入れていた所為か、渡された時よりも少し柔らかくなっている。袋に入ったまま触れて確かめて、沢村は降谷に見えやすい位置にチョコレートを掲げた。
 赤と金の派手なパッケージには、大きなロゴで商品名が描かれていた。その名前は有名で、時勢に疎い降谷も当然知っている菓子だった。
 それを得意げに見せびらかして、沢村は返事も待たずに封を開けようとした。
「要らない」
「あ?」
 三角形のギザギザに指を添え、引き千切ろうとする彼を制して降谷が言う。音量は小さいながらも声は澄んでおり、周囲の雑音をものともしなかった。
 聞き間違いを疑った沢村は目を見開き、手を止めて茫然とチームメイトを仰いだ。
「なんで?」
 ぽかんと開いた口から、素っ頓狂な声が零れ落ちる。裏返り気味の高いトーンに降谷は二度瞬きし、顔の前で揺れた赤色に向かって半眼した。
「だって、君のでしょ」
「別にいーって。これ、真ん中で分けられっし」
 遠慮しているのだと言外に告げれば、沢村はあっけらかんと言い返した。
 そもそも、これは貰いものだ。自分の小遣いから買ったものならばまだしも、棚から牡丹餅的に転がり込んできたものだから、他者に分け与えるのも別段、惜しくなかった。
 チョコレートは中央に窪みがあるから、それに沿って力を入れれば均等に配分出来るのも、沢村の気を大きくさせていた。
 だというのに降谷は尚も渋り、首を振った。
「あんまり、……好きじゃないし」
「え、ウソ。マジで?」
 ぼそぼそと、今度は聞き取り辛い声で告げた彼に、沢村はまた一段と高い声を響かせた。吃驚し過ぎて目は真ん丸で、今にも零れ落ちんばかりだった。
 なにかと騒々しく、大袈裟な行動が多い沢村だが、こういう表情は珍しい。文字通り絶句している彼に嘆息して、降谷は赤いパッケージから目を逸らした。
 善意は嬉しい。けれど、どう対応していいか分からない。素直に受け取って、後から謝礼を要求されても困る。勿論目の前の男がそんな狡い真似をするとは、本気で思ってはいないけれど。
 これで彼も呆れて、場を去っていくだろう。背を向けられ、置き去りにされるのは哀しいが、それだってもう慣れた。
 心に蓋をして、見ないようにすればいいだけの話。ひっそり拳を作って下唇を噛み、降谷は一足先に歩き出そうとした。
 それを獣並みの本能で察して、沢村が進路を塞いだ。
「待てって。そりゃ、ちょーっと勇気要るかもしんねーけど。意外と美味いかもしれないだろ?」
「…………」
 大きな声で喚き、チョコレートの袋を指さして訴える。断られても食い下がる彼の眼は真剣で、その台詞は、降谷が想定したものと若干異なっていた。
 彼はどうやら、勘違いしているらしかった。
 チョコレートを含め、菓子全般にあまり興味がないと言ったつもりが、通じていない。沢村はあくまで、降谷が苦手なのはチョコレートに含まれる別要素の方だと信じて疑わなかった。
 いったい誰が考え付いたのだろう。甘いはずのチョコレートに辛み成分を含ませよう、などと。
 袋に記されたイラストに肩を落とした降谷を知らず、沢村は言うが早いか、今度こそ封を縦に断ち切った。
 端に大きな穴を開け、中身を少しだけ覗かせる。見た目は通常のそれと変わらなくて、開封済みのものを出されたら気付かず食べてしまいそうだった。
「……一味、どこだ?」
「食べてみれば?」
 沢村も同じ疑問を感じ、首を捻った。色々な角度から観察して眉目を顰める彼に、降谷は呆れ混じりに呟いた。
 途端、顔を上げた沢村が目を輝かせた。
「よし、降谷。行け!」
 叫び、チョコレートを真ん中で半分に折った。片方をずい、と口元に突き出されて、降谷は反射的に仰け反って逃げた。
 肩が壁に当たった。階段を登ってきた男子生徒が何事かと目を向けてきたが、助け船を出す事なくそのまま去っていった。
 一瞬目を泳がせた降谷が沢村に視線を戻した後も、彼は興味津々な顔で瞳を輝かせていた。
 感想が聞きたくてたまらない様子だった。自分が先に食べれば良いものを、人を実験台にする気満々だ。
 逃がしてくれなかったのは、そういう理由からだろう。重ねて断っても、きっと聞き入れてもらえまい。スッポンのように食らいついて離さない彼を思い出して、降谷は渋々、口を開いた。
「お?」
「あム」
 首を前に倒し、直接、沢村の手からチョコレートを引き受ける。細長い棒状の菓子を前歯で挟めば、中央付近を抓んでいた彼の爪先に唇が触れた。
 咥内に招き入れた直後から、チョコレートは溶け出した。甘い香りが真っ先に広がって、僅かに遅れて、違和感を抱かせるなにかが鼻腔を掠めた。
「どうだ?」
 沢村が手を引っこめ、どきどきしながら問うてきた。興奮気味の赤い頬を間近から見下ろして、残りも全部口に入れた降谷は顰め面でコクリと頷いた。
「……好きじゃない」
「やっぱそっか~」
 きっぱり言い切った彼に、沢村はがっくり肩を落として苦笑した。
 手元に残ったチョコレートをどうしようか迷い、上目遣いに降谷を窺うが無視された。仕方なく彼は半分になった菓子を口に放り込み、内側のウエハースごと奥歯で噛み砕いた。
「ああ、確かに」
 降谷が乗り気でなかったのも分かる。納得して、沢村はチョコレートがこびりついた指を舐めた。
 甘いのに辛い、という二律背反が、どうにも気に入らない。どちらかにしてくれ、と製菓会社に愚痴を零して、彼は空になった袋を握り潰した。
 ゴミは放置せず、ポケットへ押し込んで、深呼吸をひとつ。口の中に残る甘ったるさは唾で漱ぎ、傍らへ視線を戻す。
「そういやお前って、何が好きなの」
「え?」
「辛いのダメってのは分かったけど、お前、寮の飯もあんまり食ってねーだろ」
 唐突に投げられた質問に、降谷は意表を突かれて凍りついた。
 辛い物が苦手と言った覚えはないが、実際、あまり好みではないので間違いとは言い切れない。
 問題はその後だ。
 沢村は大抵、誰かと一緒に食事していた。相手は小湊の場合もあれば、金丸達の時もあった。寮で同室の倉持や増子といった上級生との相席も、苦に感じている様子はなかった。
 翻って降谷はといえば、ほぼひとりで済ませている、と言っても過言ではなかった。
 もともとあまり喋る方ではないし、食事中に話しかけられても困る。だからこれくらいが丁度いいと環境を受け入れていたのだが、まさか見られているとは思わなかった。
「この前だって、御幸に言われてただろ。ちゃんと食えよー。お前、そうでなくてもスタミナ無いんだから」
 上級生の正捕手を呼び捨てにして、沢村が腕を伸ばした。軽く腰を、スラックスの上から叩かれて、降谷はぽかんとしたまま小さく頷いた。
「ちゃんと、食べてるし」
「嘘つくなって。今朝だって、ちょっと残してただろ」
「なんで知ってるの」
「そりゃー…………ライバル、だからな!」
 小声で反論するが、聞き入れられない。それで理由を問えば、彼はよそよそしく目を逸らした。
 ライバル、と口にするまでに、随分な間があった。おそらく本人はそれを認めたくなくて、けれど他に適した言葉が見つからなかったのだろう。
 聞こえはいいけれど、結局のところ、つきつめれば敵だ。チーム内の敵。余所のチームよりも先に倒さなければならない、厄介な相手。
 嫌いになれたら良かったのだ。目も合わせず、露骨に敵愾心を剥き出しにされる方が、こんな風に戸惑わずに済むのに。
「へんなの」
「なんか言った?」
「ううん」
 どうして彼は、こんなにも構ってくるのだろう。面倒臭いとは思わないのだろうか。
 求められている言葉の、半分も返せていないというのに。
 緩く首を振り、降谷は不思議そうに見つめてくる沢村に手を伸ばした。
「ん?」
 けれど首を傾げた彼を前にはっとして、宙を行く指先を慌てて胸元へと戻した。
 意味もなくネクタイを掻き毟って、降谷は自分が何をしようとしていたのか考える。だが答えが出る前に、短気な沢村がせっついてきた。
「んで。お前って何が好きなわけ?」
 まだこの話題で引っ張る気でいるらしい。本当にしつこい男だと愁眉を開き、降谷は力み過ぎて筋張っていた指を解いた。
 真ん中で拉げたネクタイを手放して、数秒悩んで口を開く。
「かに玉……」
 脳裏を過ぎったのは、ふわふわの卵料理だった。
 そのとろみのついた餡のかかった料理が、沢村はすぐに思い浮かばなかったらしい。カニ風味の蒲鉾が先に出て来て、降谷に違う、と否定された。
「お前、中華好きなの?」
 訂正を受けてやっと思い出し、沢村が首を右に倒した。切り替えの早さについていけずに戸惑いつつも、降谷はゆっくり首を振った。
 そもそも、中華料理自体をあまり食べたことがない。ラーメン程度ならまだしも、本格的なものに箸をつけた記憶はなかった。
 訥々と告白すれば、沢村は鷹揚に頷いた。後頭部に両手をやって左右を結び合わせ、指の隙間からはみ出た黒髪を弄りながら後ろへ二歩、後退する。
 降谷も壁際から離れ、彼の方へ踏み出した。
「君、は……」
 勇気を振り絞れば、沢村は屈託なく笑って目を細めた。
「俺? 俺は、じーちゃんが作る野菜だったら、なんでも好き」
 瞼を下ろせば、実家を取り巻く景色が鮮やかに蘇った。
 春には緑が溢れ、秋には稲穂の黄金が眩しかった。夜になれば蛙の大合唱が始まり、冬は雪に埋もれて世界は真っ白だった。
 父も農業を手伝っているが、味が良いのは断然、祖父が手掛けた方だ。採れたてキュウリの青臭さと瑞々しさを思い返して涎を垂らし、沢村は横に並んだ降谷を仰いだ。
 言葉にはしないものの、目が訊ねている。お前は他にないのかと聞きたがり、知りたがっていた。
 その瞳の輝きは、晴れた夏の夜の、満天の星空のようだった。
「僕、は」
 言いかけて、口を噤む。
 一瞬の逡巡を挟み、降谷は深く息を吐いた。
 冷たい雪に閉じ込めた哀しい記憶は、春になり、暖かな日差しによって溶かされた。顔を出した大地には瑞々しい若葉が芽吹き、ぽかぽか陽気を浴びて気持ち良さげに背伸びをしていた。
「野球、……好き」
 遠くを見据え、呟く。隣でがくっ、と脱力する影があったが、気にならなかった。
 膝を軽く折って立ち止まった沢村は両手で顔を覆い、相変わらずのチームメイトにふるふる首を振った。
「そうじゃなくてだな」
「あと、監督も、好き。一軍に上げてくれたし。マウンドも、好き。投げるの、楽しかった」
「だからそうじゃなくてー……つーか、見てろよ。いずれこの俺様が、テメーを、その大好きなマウンドから引きずり降ろしてやるんだからな」
「御幸先輩も、……うん。好き」
「聞けよ人の話!」
「あと」
 話題は、好きな食べ物だったはずだ。
 だというのに、どこですり替わったのか。大幅に範囲を広げた降谷に癇癪を爆発させて、沢村は不意に向けられた眼差しに息を呑んだ。
 喜怒哀楽に乏しい剛速球投手が、奇妙なことに、笑っているように見えた。
「君も、好き」
 そして前触れもなく、透き通るような声で告げられた。
「――へ?」
「好き」
 涼しげな顔をして、さらりと。
 事もなげに。
 あまりに自然すぎて、一瞬何と言われたか分からなかった。聞き間違いを疑って呆然としていた沢村は、二度繰り返された三秒後、悪寒に襲われ背筋を粟立てた。
 全身の毛を逆立てて居竦み、目を白黒させて眼前の男を凝視する。丸い眼で見上げられた方は淡く微笑み、自分の言葉に数回頷いた。
 言葉にして初めてその感情を理解した。そんな雰囲気が読み取れて、沢村の顔はじわり、じわりと熱を帯びて行った。
「赤い」
「う……うっせえ。変な事言うんじゃねーよ、バカ」
「変じゃないと思うけど」
 それを降谷が指摘して、反射的に沢村が怒鳴った。けれど肌が赤みを強めたのは紛う事なき事実で、最早隠しようがなかった。
 好きなものを好きと言って、何が悪いのか。別の人間が言えば開き直りとも取れる台詞を口にしたチームメイトに歯軋りして、沢村は、ド、ド、ド、とさっきから五月蠅い心臓を叱りつけた。
 降谷は別段、難しいことを考えているわけではない。好きと言ったのだって、所謂友人として、チームメイトとしての好意でしかない。
 それを証拠に、彼は片岡監督や御幸の名前も挙げていた。
 だから、変な風に受け止めてはいけない。彼の言葉に、深い意図などない。
 だというのに、赤面が止まらなかった。早鐘を打つ心臓を留める事も出来なかった。
 格別な意味などないと分かっていても、面と向かって言われるのは矢張り衝撃的だ。そもそもそんな言葉、言われ慣れていない。なにより相手が相手だった。
 降谷は口数が少ない代わりに、嘘も言わない。思ったことを包み隠さず、飾り立てもせずに声に出す。
 声を荒らげる回数は少ない。感情を剥き出しにするのは、野球に関する事が九十九パーセントを占めていた。
 そんな男に、面と向かって好きと言われて、臆さないわけがなかった。
 唾もないのに喉を上下させ、沢村はシャツを握る指を解いた。
 左胸のポケット周辺に出来た皺が、ゆっくり解れていく。同時に俯いてしまった彼に小首を傾げ、降谷は瞬きの末に目を見開いた。
「君は?」
 そして会話の続きを促し、問うた。
 淡々とした口調の裏に、微かな緊張が見て取れた。普段、自分から話題を振ったりしない彼の小さな勇気に歯軋りして、五秒後。
 沢村は思い切り、鼻から息を吸い込んだ。
「嫌いに決まってんだろ、バーカ」
 それを即座に吐き出して、降谷の胸元を人差し指で突く。不意打ちを食らった方は目をぱちくりさせて、真っ赤な顔で睨みつけてくる男に見入った。
 呆然としていたら、手を引っ込めた彼がくるりと身体を反転させた。
「チャイム鳴ったじゃねーか、くそっ」
 荒々しく吼え、雄々しい足取りで大股に来た道を戻り始める。彼の言う通り、スピーカーからは授業開始を告げる鐘の音が鳴り響いていた。
 入学直後は違和感があったメロディも、すっかり耳に馴染んだ。トイレを目前にしておきながら、結局目的地に辿り着けなかった事を怒っているのだと解釈して、降谷は怒り心頭な背中に嗚呼、と頷いた。
「待って」
 呼びかけ、急ぎ沢村を追いかける。
 チャイムの余韻が残る中、横に並ぼうとしたら、嫌がられて肘で牽制された。避けられて、その後でばつが悪そうに振り返る顔は、相変わらず綺麗な朱色だった。
「嫌いだつってんだろ。近づくなって」
「でも、僕は好きだから」
「ふざけんなっ」
 会話がかみ合わない。声を荒らげ、沢村は上機嫌なチームメイトの背中を思い切り叩いた。
 降谷は逃げもせず、何故か嬉しそうに首を竦めた。

2014/5/22 脱稿