バレーボールという競技は、プレイヤーの背の高さがそのまま勝敗に直結しかねないスポーツだ。
けれど背が低いから挑戦してはいけない、という決まりはない。リベロという守備専門のポジションもあって、一応の救済策は取られている。
ただスパイクを打ちたい、トスを上げたい、ブロックを決めたい、と願う選手にとって、体格の優劣は決定的だった。
それでも諦め悪く食い下がり、努力と根性で荒波を乗り越えようとしている奴がいた。地べたを這い蹲りながら、惨めに三年間を終えていくのだろうと思っていたら、超人的な跳躍力を持ち合わせていた。
才能、という言葉が頭を過ぎった。
人より頭一つ以上飛び抜けている背丈も、言いようによっては才能のひとつだ。
運動神経も、頭の回転の速さも、人それぞれに違う。特定の誰かだけが飛び抜けてすごい、とは一概には言えない。けれど世の中は不公平に出来ていて、隣の芝はどうしようもなく青く見えるのだ。
自分にも自分だけの才能があると頭では理解していても、上手く使いこなせなくて、持て余している。我武者羅に努力する事の虚しさを先に知ってしまった所為で、人に羨まれる上背も、あまり嬉しくなかった。
せめて同じ高さであったなら、彼が見ている景色が自分にも見えるのだろうか。今更縮める事も叶わない身長を若干恨めしく思いながら、月島蛍は弄っていたスマートフォンから顔を上げた。
視界に広がったのは、薄曇りの空だった。
「雲の位置が低いな」
薄く濁った灰色が、結構な速度で流れていた。地上はさほどではないものの、上空はかなり風が強いらしい。
西の空に目を転じれば、稜線は雲に隠れて見えなかった。
あちらは既に雨が降り始めているらしい。クン、と鼻を鳴らして、月島は湿度が増した空気を吸い込んだ。
あと数時間しないうちに、この辺りでも降り始めるだろう。それは丁度、部活動を終えて帰る頃に重なった。
「やだな」
率直な感想を、ぼそりと口にする。しかし季節は初夏。梅雨の時期に突入していた。
恨み言を言ったところで、雨雲が消えてくれるわけではない。大人しく受け入れることにして、彼はスマートフォンをポケットに押し込んだ。
周囲を見回せば、学生が数人見受けられた。いずれも夏服で、軽やかな白が眩しかった。
皆どこか楽しげで、人生を謳歌しているのが窺えた。
賑やかな喋り声に首を振り、意識して外界の雑音をシャットアウトする。ヘッドホンがあれば良かったのだが、生憎鞄は教室だ。
バレーボール選手としては細く、頼りない腕を隠す長袖を揺らめかせ、月島は自分を追い抜いて行った背中を目で追いかけた。
その先には、食堂がある。もっとも一番混む時間帯は既に過ぎており、今は居並ぶ自動販売機でジュースやアイスクリームを買う生徒で溢れていた。
無論、テーブルに陣取って食事している生徒もいる。けれど大半は食べ終えた後で、空になった食器を前に雑談に花を咲かせていた。
それらを高い位置から一瞥して、月島は入口に近い自動販売機に近づいた。
「……売り切れてる」
そして赤く点灯するボタンを前に、至極残念そうに呟いた。
愛飲しているコーヒーが、今日に限って品切れを起こしていた。
それ以外にも何品か、同様の事態に陥っていた。こんな事は珍しいが、恐らくは納品が間に合わなかったのだろう。
仕方なく隣の販売機を覗いて、彼は財布から小銭を取り出した。
「ついてないな」
愚痴を零し、青く光ったボタンのひとつを押す。途端にガコン、と下から大きな音がして、一瞬のうちに静かになった。
膝を折って身を屈め、取り出したコーヒーは冷たかった。
「チッ。微糖だ」
ブラックが欲しかったのに、間違えた。左手に持った缶を眺めて肩を落とし、彼は疲れた顔でため息を零した。
雨が降る前の低気圧の所為か、心持ち頭が痛いのも悩みだった。
だから単純ミスをしたのだと、傷ついた心を慰めて、手の中の缶を上下に振る。財布はポケットに戻して片手でプルタブを開けて、よく冷えたコーヒーをひと口飲む。
「甘い」
苦みの中に紛れ込んだ糖分を的確に探り当てて、月島は眉間の皺を深くした。
たかが百円そこらの飲料で、ぐだぐだ言いたくはなかった。
好みでないものを我慢して飲むのもバカらしい。後でトイレにでも流そうと決めて、彼は来た道を戻り始めた。
食堂の入り口を抜けて、本校舎に続く渡り廊下へ爪先を置く。
その背中を。
「あれ、月島だ」
甲高いボーイソプラノが叩いた。
「げっ」
思わず唸ってしまった。手の中の物もひっくり返しそうになって、月島は頬を引き攣らせて顔を歪めた。
露骨に嫌そうな反応をしてしまった。振り返る前に話しかけて来たのが誰かを悟って頭痛を酷くして、彼は続けて飛んでくるだろう台詞を想像してこめかみを叩いた。
「げっ、てなんだよ。ゲッ、て!」
案の定ハイテンションな怒号が襲い掛かって来て、周囲の注目が一斉に集まったのが感じられた。突き刺さる複数の視線にもげっそりして、月島は足音五月蠅く駆け寄ってきたチームメイトに嘆息した。
右側を回り込んで前を塞いだのは、白い開襟シャツの下に派手な色柄のシャツを着た、小さな男子だった。
もっとも、彼の身長は、一般生徒と混じるとさほど低くはない。あくまでも月島と対比した上での話だ。
頭髪は、明るめの茶髪。色素の薄い月島とは違って濃いめで、光の当たり具合ではオレンジ色にも見えた。
名前は日向翔陽。烏野高校男子排球部所属の一年生ミドルブロッカーで、チームでは囮役として活躍していた。
人が羨むほどの天性の運動神経と、簡単には諦めない強い心の持ち主でもある。
月島は、彼が嫌いだった。
彼を見ていると、訳もなく苛々するのだ。
頑張ればなんとかなると、本気で信じているところ。空気を読まない発言をして、場の雰囲気を一瞬で変えてしまうところ。
見てくれに見合わない獣じみた気迫を放ち、内側に隠してある卑しい心を暴こうとする。
そんなところが、どうしようもなく鬱陶しく、それでいて妬ましかった。
「別に。そう思ったから、そう言っただけデショ」
まさかこんな場所で遭遇するとは思わなかった。同じ階の教室を使っているけれど、廊下ですれ違う事さえ滅多にないというのに。
部活動以外では極力見たくなかった顔だ。だからと目を逸らし、月島は早口に吐き捨てた。
長い脚を繰り、日向の隣を抜いて今度こそ渡り廊下へ出る。温い風が吹いて、湿った空気が手首にまとわりついた。
「おい、こら。待てって」
「なに」
その不快感に舌打ちして、追いかけて来た日向に悪態をつく。不遜な態度で見下ろすが、彼は臆しもしなかった。
それどころか反発し、睨み返された。
用事があるとは思えない。だというのに、妙に突っかかってくる。楽しく会話する間柄でないのは、彼だって承知しているだろうに。
相手をするのさえ面倒臭かった。山口を連れてくるべきだったと、教室に置いてきたもうひとりのチームメイトを思い浮かべ、月島は手持無沙汰に缶を揺らした。
中身はまだ沢山残っている。ちゃぷん、と内側で波を打ったそれを見て、日向が不意に目を丸くした。
「コーヒーだ」
「別に珍しくもないでしょ。ああ、君みたいなお子ちゃまには縁のない飲み物だったね」
「ムッキー!」
生まれて初めて目にするみたいな顔をされて、思わず茶化してしまった。からかい甲斐のある相手は予想通り憤慨し、頭から煙を噴いて地団太を踏んだ。
顔を真っ赤にして怒りを露わにするが、仕草が幼稚すぎるのでまるで怖くない。堪らず肩を震わせて、月島は仄かに甘いコーヒーに舌つづみを打った。
気のせいか、先程より美味しく感じられた。
「君には牛乳がお似合いだね」
「うっさい。見てろ、絶対テメーの身長、追い抜いてやるからな」
「はいはい。すごいねー」
「馬鹿にすんな!」
コクリと喉を鳴らして飲み、口角を歪める。舌は滑らかに動き、負けず嫌いなチームメイトを挑発した。
悔しそうに歯軋りして、日向は両手をぶんぶん振り回した。
その手に握られていたものも一緒に空を走って、カタカタと喧しい音を立てた。耳障りなリズムは不快感を助長して、月島は右の眉を顰めた。
「君、こっちで食べてたの?」
「ん? ああ、そそ。クラスの奴が、今日は食堂だっつーから」
彼が持っていたのは、弁当箱だった。
大判の布で包まれたその形状は、月島にも覚えがあった。身体の割に良く食べる少年は、弁当以外にも握り飯を数個、間食用として学校に持参していた。
何かのキャラクターだろうか、包みには可愛らしいイラストが施されていた。およそ男子高校生が持つものではない絵柄に愁眉を開いて、月島は緩慢に頷いた。
ということは、残る排球部一年生は一緒でなかったらしい。
男子バレーボール部にはあとひとり、日向以上に生意気で、傲岸不遜を絵に描いたような選手がいた。
ポジションはセッター。天才の称号をほしいままにする、まさにバレーボールをするために生まれて来たような男だ。
しかし性格に難があって、中学時代は周囲から孤立していた。月島も、最初は彼とバレーボールをするのが嫌だった。
あんな傲慢で、一方的なトスを打たされるなど、御免蒙るつもりでいた。しかし彼は入学してすぐ、王様という蔑称を脱ぎ捨てた。
影山が被っていた重いだけの王冠を吹っ飛ばしたのは、ここに居る日向だ。
「ふぅん、そうなんだ」
以来、影山はなにかと日向に熱心だ。本人は自覚していないかもしれないが、傍目から見ている限り、相当の執着心を抱き込んでいるのは確実だった。
昼休みも、最近はよく一緒に居ると聞かされていた。けれど今日は、違った。
たったそれだけで、妙に気持ちが晴れやかだ。雨前の頭痛も和らいで、不快感は根こそぎ取り払われた。
「月島?」
もしかしたら、笑っていたのかもしれない。現に日向は怪訝がり、小首を傾げていた。
けれどこちらが話し始める前に、食堂側から大きな声が飛んできた。
「おーい、ひなたー」
「あ、なにー?」
呼びかけに応じ、少年は即座に振り返った。
視線が外れ、彼の注意が余所に向かった。ゆっくり近づいてくる男子生徒に気持ちを傾け、笑顔を浮かべてそわそわし始める。
「俺ら、先に戻ってんな」
「分かった」
すれ違いざまに告げられて、日向は瞬時に頷いた。そのまま首を巡らせ、クラスメイトだろう男子生徒が渡り廊下を歩いていくのを見送る。
彼らが段差を越えて校舎に入る直前、三人いた男子のうち、ひとりが振り向いた。距離があったが目が合った気がして、月島は何故かどきりとさせられた。
「チャイム鳴る前に戻ってこいよー」
「何度も言わなくても分かってるよ!」
しかしそれはどうやら、思い過ごしだったようだ。
放たれた言葉は、日向に向けてのものだった。クラスメイトにまで茶化されて、彼は高笑いを残して去って行った友人に負けじと怒鳴り返した。
ドタバタと地面を踏み鳴らして憤りを発散させる様を虚ろな目で見つめて、月島はひと口、コーヒーを啜った。
「……まず」
先程までとは一変し、今度は無性に苦かった。舌を出して唸り、彼は遠くを見据えたままのチームメイトに口を尖らせた。
会話は途切れた。ここに居続ける理由はない。蘇った腹立たしさに奥歯を噛んで、月島も日向を残して歩き出そうとした。
昼休みは後半戦に突入し、残すところあと十五分ほどだった。
泥のような不味さのコーヒーを片手に、教室へ戻るルートを計算する。トイレに立ち寄るにしても、どこを使うかが問題だった。
出来るだけ混んでいないところがいい。洗面台にコーヒーを流すのを見咎める、無用な正義感に溢れた馬鹿に遭遇する確率は、どれくらいだろう。
眼鏡の奥の目を眇め、彼は真っ直ぐ正面を見た。
「そだ、月島」
世界から、人を苛立たせる存在を排除する。これでやっと心が平穏になると安堵しかけた矢先だった。
くい、と袖を引っ張られた。
力は弱かったのに、たったそれだけでもう動けなかった。凍り付いてしまったかのように身体は硬直して、背筋を伸ばして来た相手に何も言い返せなかった。
離すよう言いたかったのに、喉が麻痺して声にならなかった。頬を引き攣らせるのが精一杯で、それさえ微細過ぎて日向には伝わらなかった。
彼は屈託なく笑うと、ぱっと手を開いて抓んでいたシャツの袖を解放した。
「今何時か、分かる?」
そうして実にくだらないことを、嬉しそうに聞いて来た。
「は?」
正直拍子抜けで、月島は素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。
引き留めた理由は時間を聞きたい、それだけだったらしい。
だが言われてみれば、食堂には時計がない。高校生にもなれば各自所持しているだろう、と学校側が思っているのかどうかは知らないが、とにかく設置されていなかった。
但し、日向は携帯電話を所有している。それを見れば現在時刻など、人に聞くまでもないはずだ。
「そんなの、自分で調べなよ」
「だっておれ、時計持ってねーもん」
「携帯電話があるでしょ」
「教室に置いてきた!」
煩わしくてならず、冷たくあしらおうとしたら失敗した。胸を張って堂々と言いきられて、月島は絶句し、数秒してから脱力して肩を落とした。
手が届く範囲に置いておかなくて、何が『携帯』電話なのか。しかし機械に振り回されないところがいかにも彼らしくて、根負けした月島は仕方なくスマートフォンを引き抜いた。
胸ポケットから出して、側面のボタンを押す。それなりに大きいサイズなのだが、指が長いので、掌に置くと相対的に小さく感じられた。
すっぽり収まったスマートフォンの、真っ黒だった画面がじんわり明るくなった。稼働状態に入り、表面に壁紙に設定した幾何学模様が浮かび上がった。
ロックを外さずとも時計くらいは確認できて、彼はそこに表示された数字を淡々と読み上げた。
「十二時、三十七分」
「……げ」
「げ?」
アナログ時計だったなら、三十五とキリの良い数字にしただろうが、生憎デジタル表示だ。きっちり現在の時間を音に転がした月島の前で、目を見張った少年が喉の奥で声を震わせた。
しまった、と言わんばかりの表情が、不穏な気配を匂わせた。
「日向」
聞きたくない。発作的に湧き起った衝動に、月島は口を開いた。
「やっべー。影山に怒られる」
だが、間に合わなかった。
一番耳にしたくなかった名前が、日向の唇から零れ落ちた。本人は頭をくしゃっと掻き回して、落ち着きなく足踏みを繰り返していた。
目が泳ぎ、中空を彷徨う。一周して眼前のチームメイトに戻せば、彼は今にも駆け出しそうな雰囲気だった。
胸の奥底がざわついて、波がうねり、強い風が吹き付けた。
「練習?」
舵を失った船が、大波に攫われて転覆しようとしていた。冷たく、暗い水底へ沈もうとしていた。
寒気を覚え、声が震えた。表面を取り繕って生きてきた人生で、感情を隠すのが上手い自分に嫌気がさした。
日向は相変わらず鈍感で、勘付きもしなかった。
「そっ」
質問に破顔一笑して、元気よく返事をする。今から既に楽しくて仕方がないと、表情が雄弁に語っていた。
彼は中学時代、指導者を持たなかった。入学当初の技量は素人同然で、レシーブもまともに上げられないレベルだった。
どれだけ素早く動き回れようとも、それだけでは選手として不適合だ。サーブも、レシーブでも、コートの中に居る限り、必ず出番は回ってくる。
そんな未熟な彼を一日でも早く一人前にすべく、部のセッターコンビは日々努力を欠かさなかった。
面倒見の良い三年生の菅原に、態度は相変わらず王様な影山が、部公認の日向のお目付け役だ。前者は技術面では劣るものの人当たりが良く、後者は教え方が雑だけれど腕は確かだ。
影山に叱られた日向が菅原に泣きつき、宥められている姿は、練習中に良く目にする光景のひとつだった。
向上心の塊のような日向だから、例え理不尽な扱いを受けたとしても、影山から離れる事はないだろう。菅原の教え方は丁寧で、日向に懐かれる要因になっていた。
心がざわついていた。自分だけがどんどん薄暗い、冷たい場所に追い遣られているようだった。
頭が痛かった。雨が近づいているらしい。吐き気を覚えて奥歯を噛んで、月島は無意識に両手を握りしめた。
指先に抵抗を感じた。硬いモノに道を塞がれ、先に進めなかった。
はっとして、己の手を見る。右手にはスマートフォンが、そして左手には缶コーヒーが握られていた。
首筋を温い汗が伝った。寒気を覚えて身震いして、彼は意識して深呼吸を繰り返した。
日向が嫌いだった。
その眼が眩しすぎて、正面から見返すのが苦手だった。
「雨、降るかもよ」
「そしたら屋根のあるところでやるし」
「どうせ無駄なのに」
「ンなことない。つーか、月島。お前だってレシーブ下手なんだから、もっとちゃんと練習しろよな」
「言われなくてもやってる。それに、僕は君よりマシな方だから」
「むっきぃ~~!」
けれど一度覗き込んでしまったら、囚われて、抜け出せなかった。
彼の瞳は鏡だ。磨かれて、澄んでいて、見たくないものまで映し出す。
日向を見ていると、コンプレックスを刺激された。持つ者と持たざる者の違いを意識させられて、無い物ねだりをしたくなった。
努力で穴は埋められると。
願い続ければ叶うと、期待しそうになった。
頭にキンキン響く高い声で唸り、日向が足を踏み鳴らした。全身で怒りを表現して牙を剥いて、背高のチームメイトを睨みつける。
宝石よりも目映い双眸に、月島の顔がくっきり浮かんでいた。
たったそれだけのことなのに、あれだけ荒れ狂っていた波が凪いだ。風は落ち着きを取り戻し、平穏が戻って来た。
深く息を吐き出して、月島はまだ三分の二以上残っているコーヒーを煽った。
微糖の筈だ。
それなのに、口の中が溶けるくらいに甘かった。
「あげる」
唇を舐め、まだ中身を残す缶を差し出す。いきなり眼前に突き出された方は驚き、大粒の目を丸くした。
戸惑いが窺えた。それを押し切り、早く受け取るよう急かしてコーヒーを揺らす。
たぷたぷ音を立てる円筒の容器を眺め、やがて日向は首を横に振った。
「おれ、コーヒー飲まないから要らない」
「飲まない、じゃなくて飲めない、の間違いでしょ。高校生にもなって、恥ずかしくない?」
「ぶー。お前って、なんでいっつもひと言多いの」
いちいち揚げ足を取る月島に拗ね、日向は頬を膨らませた。子供じみた表情で文句を言って、手は斜め上へと伸ばされた。
彼が缶の底を掴むのを待って、月島はそっと指を離した。
「僕はもう飲まないから」
「なんで?」
「いつものがなかったから、違うのにしたんだけどね」
熱は交錯しなかった。指先すら掠めないのが、今の自分たちの関係だった。
よく見ないで選んで、押すボタンを誤った。失敗したのだと言外に告げた彼をぽかんと見上げて、日向は数秒後、頬を緩めて首を竦めた。
「ふは。ダッセ」
「言ってなよ」
小さく噴き出した彼に言い返し、月島は梅雨空に視線を流した。
湿った土の匂いがした。雨雲は着実に、烏野町の上空に迫りつつあった。
「帰る頃には、降ってるな」
「雨?」
「そう」
独白が聞こえたのか、日向も身を乗り出した。渡り廊下の屋根越しに天を仰ぎ、譲られた缶コーヒーに恐る恐る口をつける。
直後、舌を出した彼が嫌そうに顔を歪めた。
「ははっ」
「うげぇ、まっずぅ~……」
予想通りだった。堪らず声を響かせて、月島は半泣きで鼻を啜った日向に顔を綻ばせた。
隣の芝は青い。その芝の青さを穢したいと、心のどこかで思っている。
コーヒーを見る度に思い出せばいい。
コーヒーを飲む度に、思い出すと良い。
バレーボールでは敵わない。勝ち目はない。真っ向勝負を挑んでも跳ね返されるだけだ。
狡い手だと言われても構わない。頭の良さが自慢のひとつだ。知恵を巡らせて、網を張り巡らせる蜘蛛にだってなってみせる。
「お前、こんなの良く飲めるな」
「君と違って、大人だから」
「どこがだよ」
今は不毛な口論にしかならなくても良い。しんしんと降り積もる雪のように、気付かぬうちに色を塗り替えてみせるから。
「……って、やっべ。影山忘れてた。怒ってるだろうなー」
「王様なら大丈夫じゃない。少しくらい待たせておきなよ」
「お前なあ。あんま可愛くない事ばっか言ってると、可愛くなくなるぞ」
「なにそれ。日向って、僕のこと可愛いって思ってたの?」
「ちげーし。なんでそうなるんだよ。ってか、ついてくんな」
「良いじゃない。練習、見学させてよ」
「だったらお前も混ざれよ。みんなでやった方が楽しいだろ」
「ヤだね。疲れる」
相変わらず、彼の口から他人の名前が出ると胸がざわついた。けれど一時期程は酷くなくて、愛想笑いで誤魔化すのは容易だった。
口数を増やし、足早に歩き出した背中を追いかける。リズミカルに揺れるオレンジ色は鮮やかで、美しかった。
会話のテンポが心地よかった。ぽんぽん投げ返されてくる言葉が、耳に快かった。
「ねえ、日向」
「んあ?」
彼が嫌いだ。
自分では育てられなかった、青々とした芝が伸びる庭を持っているから。
自分から育てるのを放棄して、荒れ果ててしまった庭の、本来あるべき姿を見せつけてくるから。
嫌いで、羨ましくて、妬ましかった。
イラついて、ムカついて、悔しくて。
憧れた。
「君の青、僕にちょうだい」
その目映さに、焦がれた。
「あ? なに?」
「――なんでもないよ」
今度は聞こえなかったようだ。訝しげに首をひねった彼に微笑み、月島は祈るように目を閉じた。
2014/07/06 脱稿